
湿気が増えて少しはよさそうですね。
いま、インフルエンザが教会のおともだちを中心に流行中です。
どうか拡大しないように、
かかっている方々が一日も早く快復しますように
お祈りください。

どうも皆さんこんばんわ!
日曜日これなかった人のために、今日はテープでとったメッセージの内容を書いときます。
文字ちっちゃ目でいくので、ちとみずらいかも?
ブログで乗せる事も無いですが・・・見たい人は見てください。
書ききれず、文章がまとまらなかったかもしれません。ちゃんとした内容を聞きたい方は、
テープを教会で借りて下さい。(100円です。)
日曜日のメッセージより:望みをもって生きる
(一部に関して、個人名がでる話に関してはカットしてあります。多分10分くらい)
ローマ人への手紙:5章 3-5節
そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。
多くの人が心を病んでいる時代です。原因にはさまざまなものがあって、いちいち考えたらきりが無いほどだと思います。
心を病む原因として失望がある。
クリスチャンは特に、内向的に向かっていって自分の内側に向かっていって心を病む。
失望の問題をうまく処理できなければ危ない。
自分も昨年不眠症に苦しんだという経験をして、眠れない事が本当に苦しい事だと知りました。
通常、不眠くらいなものは一晩寝れなければ次の日眠れると、こういうもので若い頃にメッセージをした事もありました。
ずいぶん薄情な牧師だなと言われた事もありました。
今までも眠る事で苦労した事はなかった。はじめて眠れないと言う事を経験しました。
大事な日は恐怖を覚えました。
その中で考えた事は、神様は絶対に無駄な事は経験させないという信仰。
理由があるに違いない。すくなくとも不満を持つとかそういうことはなかった。
コリント人への手紙2 -1章3-4節より
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
私は癒される事は信じていました。癒された後にきっと人を励ます事のできる力が与えられるに違いない。
そう思いながら苦しんでいました。
パウロの尊い経験から適用するのは恐れ多いかもしれませんが、数ヶ月、失望・落胆について真剣に考えさせられました。
もし私たちがいつでもどんな時でも望みに生きることができるならば、人生は勝利ですよね。
聖書より:いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさい。すばらしい言葉です。
クリスチャンの行くべき道です。
しかし、そう書いてあるが、一たび失望にとりつかれたら、喜びも祈りも感謝もいっきょに吹き飛んでしまうんですねぇ~。
そういう中にいる方に、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさいなんていっても入ってかないですねぇ~。
私たちは本当に失望が重なって、絶望にならないように。その連続によって心を病んでいかないように。
どうしていくかという事は真剣な問題でなければならないですね。
失望から立ち上がる、すなわち望みに生きるということは、信仰の事柄であるということを理解しなければならない。
私たちが、自分で望みを持とうとしてもできない。あがいてもどうやってみてももてない時はもてない。
聖書より:主にあって望みをいだけ!
主にあってとは、イエスキリストを信じるものとして、信じる事にことにおいて望みをいだけ。ということは、
信仰抜きには望みを持てと言う事は聖書は私たちには言っていないんですね。信仰の事柄なんです。
アブラハムより:
100歳近い年齢の時に、サラもそれに近い年齢の時、あなたには来年の春、子供が与えられると言われた時、サラは笑いました。
「いいえ、笑いません」といって、問答しましたが・・・
創世記18章10-15節より:
するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人の後ろの天幕の入り口で、聞いていた。
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』といって笑うのか。
主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
サラは「私は笑いませんでした。」といって打ち消した。恐ろしかったからである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」
人間的に考えていたら絶対にありえないという事が起こるという事をクリスチャンは信じている。神が私たちの造り主だからです。
人間は神に造られたんですから。被造物に過ぎないんです。
人間はそこまで謙遜にはなれない。そして自分が正しい。人間が宇宙で一番正しいと思ってしまう。
だから、神の子としておいでになったイエス・キリストを十字架にはりつけて殺したんです。
わたしたちのこの不遜・神への反逆・神を認めない不信仰が神の子としてきたイエス・キリストを殺した原因なんだとなかなか分からないんですねぇ~。
どんだけわたしたちが不遜なのか聖書を学んで欲しいと思います。
そうする時に、本当に苦しみの原因が分かってくるし、聖書を一所懸命読みたいと思うし、いろいろな困難から私たちは救い出されるのであります。アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じた。
ここに神を信じるって事が、真の望みをもつ事との根拠であることが分かる。
ローマ人への手紙 4章18節
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
愛の書簡である、コリント人への手紙の13章に愛の定義が書いてあり、最後に重要なものとして「信仰」「希望」「愛」が書かれている。
コリント人への手紙1 -13章13節
こういわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
信仰も希望も愛も神様からのギフトだと言う事がわかった。ねぇ~。初めから分かっている牧師も多いと思いますが、私は本当に実感として、望みと言うものが神様からのギフトなんだと分かりました。
ローマ人への手紙 5章5節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。
聖霊による悟らされる神の愛は上から来るんですね。望みと言うものは持とうとしても持てないと何度も繰り返す。何度も繰り返しますが・・・。私もあがいてみました。持てないですねぇ~。
身近な人に祈りをお願いしました。
(話たくさん)・・・
何がどう働いたかわかりません。全てが益となったと信じます。
そして皆さんの祈りを背後に感じながらですね、本当に眠れたんです。本当にうれしかったです。
何を言ってるんだか分からなくなっちゃった。・・・・
そう!信仰の事柄であるということ。信仰を私たちが持っていると言うことは、いかなる絶望からも救いだされる宿命である。
信じましょう。みなさん。
信仰の事柄について3つの事をお話しましょう。
1:望みに生きるためには神の愛を信じる事が必要である。
神の愛とは、個人的に愛されていると言う確信。皆さんにそれを持って欲しい。大切な君とはあなたの事です。
ある人は、そういわれると、世界には何十臆の人がいて、半端な自分までかまってられないでしょうと言う。
それは間違っているんですね。
先日、ある人からY先生はどんな人ですかと言われ、どんな風に言ったらいいかと思い思い出した事は、
「Y先生はね。200人近くいた先生に教えてもらった生徒は全員、自分が一番愛されていたと皆そう思っているんですね。」
面白いですよ。これは。偶像とは違うんですが。そういう人物になりたいですね。本当にすごいと思いますね。
私も特別愛されていると長い事思っていましたが、皆がそう思っている事を知った時にがっかりしましたけどね。
何を言いたいかと言うと、200人を超える人々が皆そういう風に共通に思っている事はすごい事ですよね。
鼻から息をする人間に過ぎない人ににでも、多くの人を愛する事ができる。一人ずつ具体的に自分が愛されているという事実がある。
やがて死ぬべき人間でもそうだとするならば、まして私たちに命を捨てて下さり、十字架で私たち全ての罪を負って永遠の命を下さった
永遠の命そのものであるイエス様が私たち一人一人に目をかけていらっしゃる事はうそではないじゃないでしょうか。
これを信じなかったら駄目ですよ。
私はこのことを最も信じていたモデルが聖書にあると思います。
旧約にでてくるダビデ王であります。サムエル記の1・2に詳しく書いてあります。
少年ダビデとして彼は、サウル王に召抱えられたのは、ゴリヤテとの戦いをしている戦場に彼が、お兄さんたちの弁当を届けにいき、
そこで彼はゴリヤテを石投げと石で倒したわけです。サウル王の目にとまり、サウルの息子のヨナタンにも愛された。
ところが、彼が戦場に行くとあらゆるとこで手柄を立てる。
そうしてペリシテの戦いから勝利してダビデが帰ってきた時、エルサレムの町では女たちが迎えた。その時歌った歌がでてますよね。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
サムエル記1 18章7節
女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」
サウル王は、この歌でねたみを持ちました。そして、サウル王は、ダビデを2度にわたって槍で殺そうとして、
うまい事外れてダビデは助かった。
しかしサウル王はあきらめず、2・3千の討伐隊を集めてダビデを追いかける。
ダビデは、岩や洞穴に隠れて命かながら逃亡する。
皆さん、自分が命を懸けて仕えている自分の主君に、命を狙われるこんな馬鹿な事があるか。
神よ。あなたは生きておられんでしょうか?そういいたくなるでしょう。
しかし彼は、それに近い泣き言を言ってますけど・・・なぜ、失望の連続でも心を病む事が無かったんでしょうか。
しかももっと酷い事が起こります。
サウルが戦いで死に、ついにダビデが王になります。
けれども、おわらない。
ダビデの息子が反乱を起こします。
皆さんねぇ。わが子に命を狙われる。こんな悲劇はないでしょう?
皆さんねぇ。これでも神様は生きておるんでしょうか、と言いたくなるでしょう?
(証し一つ・・・)
そういう中でダビデは祈るしかありませんでした。正直祈れないと思います。
私も今回経験しました。本当に失望している時は祈れないですね。
そういう場合は、祈ってもらうしかない。
ダビデの祈りをそういう目で見ようじゃありませんか。
詩篇にはダビデの祈りがたくさん出てくるのであります。
詩篇3篇 1-3節(ダビデがその子アブシャロムからのがれた時の賛歌)
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
ここには息子アブサロムを避けてのがれた時の歌が書かれています。こんな事があるだろうか。これでも神様の愛だろうかと疑いたくなるような状況の時です。その時の祈りです。
「しかし主よ。」これが大きいしかしです。
詩篇3篇 4-7節
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えて下さる。
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主が私をささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
このように彼はほとんど祈りと言うより、泣きを入れているんですね。
やっぱり失望のどん底では、泣くしかない事があります。しかしその場合でも主に向かって泣きましょうよね。
ただぼんやりとではなくイエス様を眼前に思い描きながら泣きましょうよね。そうすればダビデの祈りになると思うんです。
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えて下さる。
なぜならば、主は私たちを愛してくださってるからです。
主は十字架にかかり、死んでよみがえられたお方。まことの救い主として、途上に人としてこられたお方。
私たちの信ずべきお方はこの人だけです。この人によってでしか救いはないと言われているのであります。
ダビデほどの試練ではなくても、ダビデの詩を読んで、同じように主に泣いて欲しいと思います。
神の前で泣くと言う事は、人前でも泣けるはずです。神様の前に立つ時に、人を意識すべきではない。
ですから人が見ているとか、そういことであってはいけないと思う。
教会に来て本当に苦しい時に、泣き叫んで祈っている信徒を、私は何人も見てきました。
恥も外聞も無い。神様はわたしたちにいつまでも格好をつけている事を許しませんよ。
いつまでも格好をつけている人には苦しみを与え、そこで自分が本当に裸になって神様に泣きつく事を求めているんでしょうね。
(証し一つ:3分くらい)
2.望みは自分で持とうと思っても持てない。
神様から来る私たちが御言葉を読み、聖霊の働きを求めながら祈って、泣きついていく時、望みがふっと来るわけですよ。
奇跡的ですよね。
私も説明しきる事はできないけれども、逆境や、失望の中で望みを持つことができたら、それは奇跡であります。
奇跡とは神の業であります。
私たちの望みである栄光のキリストが教団の標語でありますが、イエス・キリストに私たちがしがみついて、愛を疑わないでいるならば、私たちは究極的に失望から救われる。
しばらくの忍耐が必要かも知れませんがね。
3.祈りの友を持つことである。
(証し1つ:4分くらい)
皆さん、祈りの友を持つと言うことは、すごく重要な事だと思います。自分がどん底で電話をかけるとこがあるっていう事、祈ってくれと頼める人がいると言うことは、本当に嬉しい事だと思いますね。
でもこの中に祈りの友が特別いないっていう人もそれはそれでいいですよ。
教会に要請すればいいんです。ねぇ。必ず教会では特別親しくなくても、祈ってくれる人がいますしね。ある場合には、駆けつける人もいます。
皆さん奇跡は本当にあるんです。本当に起こるんです。
・・・
あんまり長くすると家内が怒るんで・・・
(冊子の話・・・2分くらい)
お祈りをしましょう。
天のお父様。信じないものにならないで信じるものになりなさい。
イエス・キリストの言葉であります。
この年、私たちは、失望に落ち込む時があっても、どうぞ、ダビデのようにまた多くの信仰の先輩のように神様に泣きつき、神の前を確信して、そうして自分の上になされた主のわざを、感謝する事ができるように導いて下さい。お願い致します。
主イエスの御名によってお祈り致します。
・・・
希望は決して失望に終わることはない。その希望は主にある希望。
主にある希望は、決して私たちを裏切ることはない。決して欺くことはない。
信実な神の愛を心から感謝致します。イエス様の御名があがめられますように。
主の御名をあがめて感謝致します。
アーメン。