goo blog サービス終了のお知らせ 

シオンのゆかいな仲間達~シオンチャペルへようこそ~

http://zion-chapel.cocolog-nifty.com/blog/へブログお引っ越ししました。

寒い朝ですね。

2009年01月22日 06時47分47秒 | 日曜日
雨が降ってますね。

湿気が増えて少しはよさそうですね。

いま、インフルエンザが教会のおともだちを中心に流行中です。

どうか拡大しないように、


かかっている方々が一日も早く快復しますように


お祈りください。





礼拝に行けなかった

2008年11月10日 23時08分30秒 | 日曜日
  9日は義兄の記念会(仏教なので三回忌)のため

  礼拝に行けなかった

  心が渇いてしまわないうちに

  良かった、明日は火曜礼拝がある

  お経を聞いていて

  本堂の装飾を見て

  なぜかむなしさを感じていた

  きれいに飾ってあるけど

  そこに何があるのだろう

  気がついたら

  ここにいる皆に福音が届くようにって

  祈ってた

  「お焼香をどうぞ」って言われて

  心の中で

  主を賛美

  やっぱ、

  教会がいい。神様がいい

  参列していた親戚の人たち

  救われて欲しい

  私に何ができるんだろう

      ちょっと寂しかった知りたがりでした

  

クリスチャンになって

2008年07月07日 11時17分47秒 | 日曜日
  昨日礼拝後


  Hさんと城山湖のほうへ


  アジサイの花見に行ったの


  その時のHさんのことば


  「わたしがクリスチャンになってよかったって思うのは


  愛されていること


  知ったこと


  今世の中で起こっている


  いろいろな事件


  特に秋葉原の事件の犯人は


  愛されていることがわかったら


  ああは、ならなかったんじゃ・・・


  教会に来ればよかったのにネ~」って


  「うん、クリスチャンの責任って大きいね


  でも私たち、勇気がないんだよね伝道する」





     アジサイはもう終わりに近かったけれど



     こんな会話をしながら



     花が見れたこと



     神様感謝



   


      アッそれから


      告白しちゃいます


      道端に咲いていた花


      いただいてきちゃいました


      神様ごめんなさい


             お花大好きな知りたがりでした



    Hさん   又行きましょうね

  

Tー くん と wっくん☆

2008年06月10日 10時20分29秒 | 日曜日
逆光で ちょおっと見づらい写真ですが~


  ( なので、目隠ししてないけど 平気かな、、。)


  中学生のT-くんが Wっくんを 笑かそうとしてる図。


   T-くん とくにちっさい子を笑わしちゃうのが上手  


   Sちゃんのときは、 「 ぷっ~~ん 」


    だった。


   今回は、ダンス付き


    ことばは・・・う~ん ・・なんて言ったかわからなかったけど


       成功 



     T-くんにしては、てこずった Wっくんでした



      ほほえましいときをありがとう 
 
                         じょあ  



 アメージング グレイス !!

2008年05月31日 08時11分08秒 | 日曜日
  A mazing grace how sweet the sound That saved a wretch like me


I once was lost but now am found was blind but now I see 


                         


驚くばかりの 恵みなりき


   この身の汚れを 知れるわれに        
 



日曜日に、クワイヤーで賛美をしました


  今回は、英語バージョンもあり


  のアメージング・グレイス



   英語も日本語とはまた違った 深みと良さがありすね~~     


  今回は、英語指導を O 先生が~



  英語の歌詞の説明を、 yyjunさん が詩にして


  くださいました  もちろん歌唱指導は、われらの(しおんシャペルの) M子先生です 



  次は、なんの賛美をクワイヤーでできるかな   



  たのしみです        joa

   
 
ここを開くといろんなキリスト教関係のブログが見れますよ
応援よろしくおねがいします。
↓↓↓↓↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ




  

れいてき美容液☆しみ込ませ中

2008年05月29日 20時06分50秒 | 日曜日
__日曜日の礼拝後の風景__


   CA女子 3人


       



  放心状態・・・?


  いえいえ


  
~霊的☆美容液しみ込ませ中~

 
 近くに座ってたCA3人集まってるけど・・・


  ・・・  ・・・  ・・・ 


 
  それぞれに、メッセージをこころに



  自分の人生にしみこませている最中でした。      


  
  



  一応、書いておきますが・・


  もちろん、れいてき☆美容液とは、


  みことばであり、礼拝でされたメッセージのことです☆



  れいてき美容液なる、物質があるわけではないので 


  あしからず ・・・ 




  その後、スペシャル昼食をいただきながら 

    (好物の甘い筍ご飯だった


     知りたがりBさんはじめ、しおん亭のみなさんありがとうございま~~すおいしかった~~) 



  メンバーも2人加わり、



  分かち合いに花を咲かせました         


  話の展開から、 わたしたちの興味は、N 先生の話によく出てこられた


  奥様のm子先生に     




~~ このつづきはまた後ほど~   



     fumu fumu  

 


                       じょあ 



     




 
 

☆集会がなくても賛美☆

2008年05月26日 10時09分43秒 | 日曜日
 日曜日の夕方、 Y子ちゃんがなにげなく


 ピアノを弾きだした~         



      その周りに自然とひとが集まりだして・・


       ~ 賛美集会が始まりました  ~



    Yちゃんが賛美リード 


    曲は、導かれるままに~賛美 


    めっちゃしあわせなときでした~~     



      
      また、みんなで 自然と賛美集会したいな 










         感謝~~                  じょあ




    







        


 


  

安息

2008年04月17日 11時53分12秒 | 日曜日
皆さんこんにちは yyjunです
ご無沙汰してました

ひーちゃんから、先週、
当番たのみます~って言われていたのにーーっ
書けなくってごめんなさい。
後ろ入りです~

…最近、
というか引越しからこのかた、
ちょっとバタバタ

四月になってからは娘が小学校入学。
喜びとともに…

午前中に帰ってくるし  仕事は進まないし

こまごまとやることいっぱいあるし 

全然予定通りに進まないし~

ちょっとヘトヘト

先週末は
もう礼拝に行きたくてしかたなかった

えっ?
なんで礼拝?
それは…
安息日ですからねぇ
安息を得たかったんです

とはいえ 以前まで私は
「安息日」ってあんまりピンときてなくって

日曜日は
「礼拝に行く」とか、「教会に行く」とか、
何か活動をする日、というイメージでした。

でも神様が教えてくれました。

引越しの後
ダンボールの山に埋もれていたとき
あ、けっこう最近です。

とにかくその山を一つ一つつぶしていこうと
仕事の合間に片づけをしていました。

でもなかなか終わらず…
でも片付けないことには埒があかない…

そんな中で迎えた日曜日


礼拝に行く


賛美する


あ~これだぁ
これなんだぁって。

ここではダンボールの山も関係ないです。

いろーんな雑事から離れて
家のことも 仕事も
強制的に「何もしない」時間

神様のもとで
ただ本当にどっぷりとその暖かさにふれて

礼拝する  賛美する

なんて贅沢な時間なんだろう。


心を占領している雑事から

物理的にも心理的にも「離れる」こと
そして神様のもとへ 「行く」  こと。

それが「安息」の第一歩なんだ、って

     
 すべて、疲れた人、

 重荷を負っている人は、私にもとに来なさい。

 わたしがあなたがたを休ませてあげます。

              〈マタイ 11:28〉


ただ本当にどっぷりとその暖かさにふれて

体も心も安息を得て、「出て行く」

それが私たちの 「力」 ですね



にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ

おひるねzzz

2008年03月19日 09時16分40秒 | 日曜日
日曜日の午後には、頭痛がひどくて 


 おくすりを知りたがりBさんにわけてもらいました

   (ありがとう


   落ち着くまで、どこかで休もうと~

   
 場所を探していましたの~


   そしたら~  


 ないない  どころ... 


ところが あったいっこ


  いいところ   




        会堂でおひるねしてるSちゃんのとなり


                (そいね?)


         ちょぴりママ気分 
    

          

                      すぐおきちゃったけど~ mama~~



                       じょあ
          






         




      


  

雪の日の礼拝

2008年02月29日 10時21分31秒 | 日曜日
 
こんにちは~


もう3.4週間も前になりますが
 



  2月3日(日)


 こないな~


   こないな~。


 時間は過ぎたんだけどな~ 。


   バスがこない・・・。


  先週は (八王子では、珍しく日曜日に2週連続で雪が降りました


  雪が、もっとすごかったけど、


   時間どおりに来たんだけどな~・・。


 ど~したんだろー。


   な~んていって待っていると


  現れた     バスでなく・・


ひーちゃんが     


 わりかし近くに住んでいるひーちゃんファミリーが    


バスを待つわたしの姿を発見して


くださったんです 


 ひーちゃんのお母さまを迎えに行く途中だったそうです  


おもいもかけず、


Iファミリーと車で一緒に、教会へ行けることとなりました       


ジョアンナは、普段たいていスクーターで教会へ行っている

(これがめっちゃ さぶい   


のですが、この日はあたたかい中、あたたかい家族に囲まれて~、


身もこころもあったかくなりました~   



Happy



ジョアンナ

(わりこみ)








  

初めの大切さ

2008年01月07日 20時40分12秒 | 日曜日
みなさま新年明けましておめでとうございます。

シオンの娘です。

今年もどうぞよろしくお願いします。


さて、みなさまこの2008年の年始、いかがお過ごしでしたでしょうか


私は、いわゆる「帰省」というものがなく、
よって自宅で新年を迎え、元旦には礼拝へ行きました。

元旦の八王子、とってもいい天気でした。
教会の会堂の窓から太陽の光がサンサンと満ちて、
会堂の中の明るいこと! 2008年を神様が祝福しているみたいでした。
 

さて、この前の日曜日、1月6日。 今年最初の日曜日の礼拝。



司会者の先生が、


「みなさん、今年もあと360日です


と叫んでいました。





そんな、初めの日曜日にぴったりの礼拝のメッセージでした。


「初めに、神が天と地を創造した」 創世記1章1節


初めって大事です。神様が初めを創られました。

そして私たちを創られました。


私たちはただ偶然につくられたのではなくて、神様に創られました。

そう、私たちには、生きる「目的」が与えられています。

生きていることは、偶然というアクシデントでは、

決して、ありません。


だから、神様がいる、ということに目をそむけないで、

どんなこと、どんなところにも神様がいてくださっていること、

すべての初めのことに神様を見いだして、

神様が私たちを創られた「目的」を果たしていきましょう。


神様が私たちを創られたのは、私たちをシアワセにしたいから。

だから、私たちが神様を見つめていく時、

神様が私たちをシアワセにしてくださっていること、

それを全身で感じることができます。


今、生きてても仕方ないよ、って感じてる方。


神様はあなたのことが大好きで仕方なくて、

それであなたのことを創られました。

あなたが生きていることは、偶然ではありません。

あなたが生きていること。

それだけで、神様はうれしくて、しかたがありません。



どうか、まだ神様に会ったことのない方、

神様に出会う2008年となりますように…






昨日と今日と明日と

2007年02月05日 21時26分05秒 | 日曜日
一週間が始まりました。

今週は、結婚したての幸せ者タピオカが担当です。

よろしくお願いします

さてさて、昨日は日曜。ということはもちろん教会は主日礼拝です。

とても沁みた内容でした

礼拝の際、うちの教会ではみんなに握手をして挨拶をすることが多いです。

実は自分にとってこれ、ヒジョ~にあたったかくなる場面なんです

握手をしてその人の表情をみて、今日は元気だな、とか、疲れてるな、

とかを感じ取りながら、挨拶してます

そんな少しのことですが、自分にとっては、「生きててよかったな~」

なんて思う場面。大切にしたいです



今日は仕事、仕事の一日。福祉職についている自分ですが、利用者支援だけでなく、

畑の担当や営業などもしてます 利用者の賃金を上げるため、今日はEM菌(知っているかな?)

などというものに目をつけ、素敵な肥料を自分たちで作り売り込もうと作戦をたてていました

(実は自分の妻のお父さんが畑大好きなので話しのネタにもなるな~なんて思ったりしながら仕事をしてましたが、、、)

そんなこともしているもので、たまに自分の本職はなんだっけな?なんて

思いながら仕事をしているときがありますが、結構楽しんじゃってます

明日も気合入れていこ~っと。

ではでは明日も一日祝福がありますように










お疲れ様です。

2007年01月16日 02時07分24秒 | 日曜日

どうも皆さんこんばんわ!

日曜日これなかった人のために、今日はテープでとったメッセージの内容を書いときます。
文字ちっちゃ目でいくので、ちとみずらいかも?
ブログで乗せる事も無いですが・・・見たい人は見てください。
書ききれず、文章がまとまらなかったかもしれません。ちゃんとした内容を聞きたい方は、
テープを教会で借りて下さい。(100円です。)

日曜日のメッセージより:望みをもって生きる
(一部に関して、個人名がでる話に関してはカットしてあります。多分10分くらい)

ローマ人への手紙:5章 3-5節
そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。



多くの人が心を病んでいる時代です。原因にはさまざまなものがあって、いちいち考えたらきりが無いほどだと思います。
心を病む原因として失望がある。
クリスチャンは特に、内向的に向かっていって自分の内側に向かっていって心を病む。
失望の問題をうまく処理できなければ危ない。
自分も昨年不眠症に苦しんだという経験をして、眠れない事が本当に苦しい事だと知りました。
通常、不眠くらいなものは一晩寝れなければ次の日眠れると、こういうもので若い頃にメッセージをした事もありました。
ずいぶん薄情な牧師だなと言われた事もありました。
今までも眠る事で苦労した事はなかった。はじめて眠れないと言う事を経験しました。
大事な日は恐怖を覚えました。
その中で考えた事は、神様は絶対に無駄な事は経験させないという信仰。
理由があるに違いない。すくなくとも不満を持つとかそういうことはなかった。

コリント人への手紙2  -1章3-4節より
私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。


私は癒される事は信じていました。癒された後にきっと人を励ます事のできる力が与えられるに違いない。
そう思いながら苦しんでいました。
パウロの尊い経験から適用するのは恐れ多いかもしれませんが、数ヶ月、失望・落胆について真剣に考えさせられました。
もし私たちがいつでもどんな時でも望みに生きることができるならば、人生は勝利ですよね。
聖書より:いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさい。すばらしい言葉です。
クリスチャンの行くべき道です。
しかし、そう書いてあるが、一たび失望にとりつかれたら、喜びも祈りも感謝もいっきょに吹き飛んでしまうんですねぇ~。
そういう中にいる方に、いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事に感謝しなさいなんていっても入ってかないですねぇ~。
私たちは本当に失望が重なって、絶望にならないように。その連続によって心を病んでいかないように。
どうしていくかという事は真剣な問題でなければならないですね。
失望から立ち上がる、すなわち望みに生きるということは、信仰の事柄であるということを理解しなければならない。
私たちが、自分で望みを持とうとしてもできない。あがいてもどうやってみてももてない時はもてない。
聖書より:主にあって望みをいだけ!
主にあってとは、イエスキリストを信じるものとして、信じる事にことにおいて望みをいだけ。ということは、
信仰抜きには望みを持てと言う事は聖書は私たちには言っていないんですね。信仰の事柄なんです。

アブラハムより:
100歳近い年齢の時に、サラもそれに近い年齢の時、あなたには来年の春、子供が与えられると言われた時、サラは笑いました。
「いいえ、笑いません」といって、問答しましたが・・・

創世記18章10-15節より:
するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。その時、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人の後ろの天幕の入り口で、聞いていた。
アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。
それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」
そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私は本当に子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』といって笑うのか。
主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻ってくる。そのとき、サラには男の子ができている。」
サラは「私は笑いませんでした。」といって打ち消した。恐ろしかったからである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」

人間的に考えていたら絶対にありえないという事が起こるという事をクリスチャンは信じている。神が私たちの造り主だからです。
人間は神に造られたんですから。被造物に過ぎないんです。
人間はそこまで謙遜にはなれない。そして自分が正しい。人間が宇宙で一番正しいと思ってしまう。
だから、神の子としておいでになったイエス・キリストを十字架にはりつけて殺したんです。
わたしたちのこの不遜・神への反逆・神を認めない不信仰が神の子としてきたイエス・キリストを殺した原因なんだとなかなか分からないんですねぇ~。
どんだけわたしたちが不遜なのか聖書を学んで欲しいと思います。
そうする時に、本当に苦しみの原因が分かってくるし、聖書を一所懸命読みたいと思うし、いろいろな困難から私たちは救い出されるのであります。アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じた。
ここに神を信じるって事が、真の望みをもつ事との根拠であることが分かる。

ローマ人への手紙 4章18節
彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。


愛の書簡である、コリント人への手紙の13章に愛の定義が書いてあり、最後に重要なものとして「信仰」「希望」「愛」が書かれている。

コリント人への手紙1 -13章13節
こういわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

信仰も希望も愛も神様からのギフトだと言う事がわかった。ねぇ~。初めから分かっている牧師も多いと思いますが、私は本当に実感として、望みと言うものが神様からのギフトなんだと分かりました。

ローマ人への手紙 5章5節
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちに注がれているからです。


聖霊による悟らされる神の愛は上から来るんですね。望みと言うものは持とうとしても持てないと何度も繰り返す。何度も繰り返しますが・・・。私もあがいてみました。持てないですねぇ~。
身近な人に祈りをお願いしました。
(話たくさん)・・・
何がどう働いたかわかりません。全てが益となったと信じます。
そして皆さんの祈りを背後に感じながらですね、本当に眠れたんです。本当にうれしかったです。
何を言ってるんだか分からなくなっちゃった。・・・・
そう!信仰の事柄であるということ。信仰を私たちが持っていると言うことは、いかなる絶望からも救いだされる宿命である。
信じましょう。みなさん。
信仰の事柄について3つの事をお話しましょう。

1:望みに生きるためには神の愛を信じる事が必要である。
神の愛とは、個人的に愛されていると言う確信。皆さんにそれを持って欲しい。大切な君とはあなたの事です。
ある人は、そういわれると、世界には何十臆の人がいて、半端な自分までかまってられないでしょうと言う。
それは間違っているんですね。
先日、ある人からY先生はどんな人ですかと言われ、どんな風に言ったらいいかと思い思い出した事は、
「Y先生はね。200人近くいた先生に教えてもらった生徒は全員、自分が一番愛されていたと皆そう思っているんですね。」
面白いですよ。これは。偶像とは違うんですが。そういう人物になりたいですね。本当にすごいと思いますね。
私も特別愛されていると長い事思っていましたが、皆がそう思っている事を知った時にがっかりしましたけどね。
何を言いたいかと言うと、200人を超える人々が皆そういう風に共通に思っている事はすごい事ですよね。
鼻から息をする人間に過ぎない人ににでも、多くの人を愛する事ができる。一人ずつ具体的に自分が愛されているという事実がある。
やがて死ぬべき人間でもそうだとするならば、まして私たちに命を捨てて下さり、十字架で私たち全ての罪を負って永遠の命を下さった
永遠の命そのものであるイエス様が私たち一人一人に目をかけていらっしゃる事はうそではないじゃないでしょうか。
これを信じなかったら駄目ですよ。
私はこのことを最も信じていたモデルが聖書にあると思います。
旧約にでてくるダビデ王であります。サムエル記の1・2に詳しく書いてあります。
少年ダビデとして彼は、サウル王に召抱えられたのは、ゴリヤテとの戦いをしている戦場に彼が、お兄さんたちの弁当を届けにいき、
そこで彼はゴリヤテを石投げと石で倒したわけです。サウル王の目にとまり、サウルの息子のヨナタンにも愛された。
ところが、彼が戦場に行くとあらゆるとこで手柄を立てる。
そうしてペリシテの戦いから勝利してダビデが帰ってきた時、エルサレムの町では女たちが迎えた。その時歌った歌がでてますよね。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

サムエル記1 18章7節
女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。
「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。」

サウル王は、この歌でねたみを持ちました。そして、サウル王は、ダビデを2度にわたって槍で殺そうとして、
うまい事外れてダビデは助かった。
しかしサウル王はあきらめず、2・3千の討伐隊を集めてダビデを追いかける。
ダビデは、岩や洞穴に隠れて命かながら逃亡する。
皆さん、自分が命を懸けて仕えている自分の主君に、命を狙われるこんな馬鹿な事があるか。
神よ。あなたは生きておられんでしょうか?そういいたくなるでしょう。
しかし彼は、それに近い泣き言を言ってますけど・・・なぜ、失望の連続でも心を病む事が無かったんでしょうか。
しかももっと酷い事が起こります。
サウルが戦いで死に、ついにダビデが王になります。
けれども、おわらない。
ダビデの息子が反乱を起こします。
皆さんねぇ。わが子に命を狙われる。こんな悲劇はないでしょう?
皆さんねぇ。これでも神様は生きておるんでしょうか、と言いたくなるでしょう?
(証し一つ・・・)
そういう中でダビデは祈るしかありませんでした。正直祈れないと思います。
私も今回経験しました。本当に失望している時は祈れないですね。
そういう場合は、祈ってもらうしかない。
ダビデの祈りをそういう目で見ようじゃありませんか。
詩篇にはダビデの祈りがたくさん出てくるのであります。

詩篇3篇 1-3節(ダビデがその子アブシャロムからのがれた時の賛歌)
主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。
しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。

ここには息子アブサロムを避けてのがれた時の歌が書かれています。こんな事があるだろうか。これでも神様の愛だろうかと疑いたくなるような状況の時です。その時の祈りです。
「しかし主よ。」これが大きいしかしです。

詩篇3篇 4-7節
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えて下さる。
私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主が私をささえてくださるから。
私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。


このように彼はほとんど祈りと言うより、泣きを入れているんですね。
やっぱり失望のどん底では、泣くしかない事があります。しかしその場合でも主に向かって泣きましょうよね。
ただぼんやりとではなくイエス様を眼前に思い描きながら泣きましょうよね。そうすればダビデの祈りになると思うんです。
私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えて下さる。
なぜならば、主は私たちを愛してくださってるからです。
主は十字架にかかり、死んでよみがえられたお方。まことの救い主として、途上に人としてこられたお方。
私たちの信ずべきお方はこの人だけです。この人によってでしか救いはないと言われているのであります。
ダビデほどの試練ではなくても、ダビデの詩を読んで、同じように主に泣いて欲しいと思います。
神の前で泣くと言う事は、人前でも泣けるはずです。神様の前に立つ時に、人を意識すべきではない。
ですから人が見ているとか、そういことであってはいけないと思う。
教会に来て本当に苦しい時に、泣き叫んで祈っている信徒を、私は何人も見てきました。
恥も外聞も無い。神様はわたしたちにいつまでも格好をつけている事を許しませんよ。
いつまでも格好をつけている人には苦しみを与え、そこで自分が本当に裸になって神様に泣きつく事を求めているんでしょうね。
(証し一つ:3分くらい)

2.望みは自分で持とうと思っても持てない。
神様から来る私たちが御言葉を読み、聖霊の働きを求めながら祈って、泣きついていく時、望みがふっと来るわけですよ。
奇跡的ですよね。
私も説明しきる事はできないけれども、逆境や、失望の中で望みを持つことができたら、それは奇跡であります。
奇跡とは神の業であります。
私たちの望みである栄光のキリストが教団の標語でありますが、イエス・キリストに私たちがしがみついて、愛を疑わないでいるならば、私たちは究極的に失望から救われる。
しばらくの忍耐が必要かも知れませんがね。

3.祈りの友を持つことである。
(証し1つ:4分くらい)
皆さん、祈りの友を持つと言うことは、すごく重要な事だと思います。自分がどん底で電話をかけるとこがあるっていう事、祈ってくれと頼める人がいると言うことは、本当に嬉しい事だと思いますね。
でもこの中に祈りの友が特別いないっていう人もそれはそれでいいですよ。
教会に要請すればいいんです。ねぇ。必ず教会では特別親しくなくても、祈ってくれる人がいますしね。ある場合には、駆けつける人もいます。
皆さん奇跡は本当にあるんです。本当に起こるんです。
・・・
あんまり長くすると家内が怒るんで・・・
(冊子の話・・・2分くらい)
お祈りをしましょう。
天のお父様。信じないものにならないで信じるものになりなさい。
イエス・キリストの言葉であります。
この年、私たちは、失望に落ち込む時があっても、どうぞ、ダビデのようにまた多くの信仰の先輩のように神様に泣きつき、神の前を確信して、そうして自分の上になされた主のわざを、感謝する事ができるように導いて下さい。お願い致します。
主イエスの御名によってお祈り致します。
・・・
希望は決して失望に終わることはない。その希望は主にある希望。
主にある希望は、決して私たちを裏切ることはない。決して欺くことはない。
信実な神の愛を心から感謝致します。イエス様の御名があがめられますように。
主の御名をあがめて感謝致します。
アーメン。