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岡田斗司夫を撃つ! 日本では語られないファーストフード業界の闇。マクドナルドの真の創業者は誰か? マクドナルド創業の闇を描いた映画『ファウンダー』 動画

2021-08-05 19:03:25 | Weblog
後年、英紙「デイリー・メール」の取材に、マクドナルド兄弟の甥ロナルドは、こう怒りをぶつける。「レイ・クロックは詐欺師であり悪魔だ。
マクドナルド兄弟が存在しなければマクドナルドハンバーガーはこの世に存在しなかった。1を10や100にすることなんて誰にでもできる。
真の天才は0から1を生み出す者だ」

マクドナルドの「創業者」と言われるレイ・クロックを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』に対する解説。
アメリカでは成功のためなら手段を選ばない傲慢さやその好色ぶりから、「ドナルド・トランプはレイ・クロックの現代版」などと揶揄されている。
たった135万ドルという"はした金"でマクドナルドの店舗もマクドナルドというブランド名すら乗っ取り屋に奪われたクリエイターの悲劇。
まさにAmazonのレビューなどで指摘されているとおり、胸クソが悪くなる映画であり史実だ。

岡田斗司夫はクリエイターの尊厳と名声を悪辣な乗っ取り屋が奪ったという映画のレビューを解説動画で「頭が悪い」と断じて嘲弄していたが、
それは岡田自身がクリエイターの上前を撥ねるプロデューサーだったから乗っ取り屋の方に感情移入しているだけだ。
そもそも論で言えば、どれほど乗っ取り屋が敏腕でもマクドナルド兄弟のハンバーガーとその店舗システムがなければ
マクドナルドという「産業」は存在しなかった。要するにアニメのプロデューサーが原作者を軽んじているようなものだ


【UG# 190】2017/8/6 マクドナルド創業の闇を『ファウンダー』 AmazonPrime会員特典無料作品で解説 / OTAKING explains "THE FOUNDER"
https://www.youtube.com/watch?v=hy_E03oaKQU

映画日本語版公式予告編
https://www.youtube.com/watch?v=erU-4M1VxNc&t=90s


フランチャイズを奪い合う“世界的暗闘”
マクドナルドというブランドを乗っ取り、「創業者」と呼ばれた男

2017年1月、マクドナルドの創業者レイ・クロックを描いた映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』が、米国で劇場公開された。

成功者の代名詞として語り継がれてきたクロックだが、これまで光が当たることのなかった彼のダークサイドが浮き彫りになった形だ。
マクドナルド社からも公認されないまま、2度の延期からやっと公開に漕ぎつけた本作は、公開と同時に各国のメディアに大きく取り上げられ、
物議を醸した。独善的で口が悪く、3度の結婚、妻には暴行、という彼の正体とは──。

トランプは現代版クロック?

マクドナルドは、飽くなき野望を抱える1人の男によって世界的ファストフード企業へと成長を遂げた。レイ・クロックである。死後30年以上が
経っても「最強のビジネスマン」としていまも語り継がれる一方、成功のためなら手段を選ばない傲慢さやその好色ぶりから、
「ドナルド・トランプはレイ・クロックの現代版」などと揶揄されている。

店名にマクドナルドの名前があるにもかかわらず、公式にも創業者とされ、いつもスポットライトを浴びるのはクロックのほうだった。
だが真の創業者は、クロックではなくマクドナルド兄弟だ。クロックこそが、この兄弟から企業を奪ったのだ。

ある日、営業先で…

1902年、レイ・クロックはシカゴ郊外の町オークパークで、チェコ系移民の家庭に生まれた。米国が第一次世界大戦に参戦すると、
15歳の彼は高校を中退して年齢を偽り、赤十字に志願。負傷者用救急車の運転手になってヨーロッパへ行こうとする。

しかし、研修終了間際に第一次世界大戦が終わりを告げる。その後は、ピアノ奏者や紙コップのセールスマン、
ミキサーのセールスマンとして働いた。彼が売っていたマルチミキサーは、ミルクシェイクを同時にいくつも作ることができる最新式のものだった。

1954年、52歳のクロックはカリフォルニア州南部サンバナディーノにあるレストランを訪れることにした。
突然、8台ものマルチミキサーを発注してきたからだ。そのレストランこそ、スコットランド系米国人モーリス・マック・マクドナルドと
リチャード・ディック・マクドナルドの兄弟がオープンしたファストフード店、マクドナルド・ハンバーガーだった。

クロックは、この店の「限界まで簡略化、効率化する」という革新的なオペレーションにあっけに取られた。

そこではわずかなメニュー、つまりハンバーガーとフライドポテト、飲み物だけに注力し、その分、高品質と素早いサービスを売りにしていた。
当時のハンバーガーは15セント、フライドポテトは10セントほど。皿ではなく、使い捨ての紙でハンバーガーを包む手法は、
高価な食器洗浄機を導入せずに済ませるためだった。

マクドナルド兄弟はテニスコートにチョークで店の図面を描き、従業員が効率的に動けるように指導。パテを焼くだけの担当、
バンズに挟んでラッピングするだけの担当……そうして、注文からわずか30秒でハンバーガーを出すことに成功した。

マクドナルド兄弟はちょうど、この店の新たな代理業者を探していた。クロックはそれを大きなチャンスだと捉えた。1955年、
フランチャイズ権を獲得し、マクドナルド株式会社の前身となる「マクドナルド・システム」を設立。イリノイ州に店をオープンすると、
またたく間に全米展開に成功。わずか3年で、総計1億個のハンバーガーを売り上げた。

「花瓶を窓から投げてやろうと思った」

しかしその直後から、クロックとマクドナルド兄弟との関係は日に日に悪くなるばかりだった。本来の契約では、
クロックが総販売額の1.9%を、マクドナルド兄弟は0.5%を受け取るというものだったのだが、実際の分配はそうなっていなかったのだ。

1961年、マクドナルド兄弟が270万ドルのロイヤリティを要求すると、クロックは激高した。彼は、「マクドナルド兄弟が自分を失敗させようしている」と
感じていたのだ。かつて、自伝『成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝』のなかで、彼はこう振り返っている。

「窓から花瓶でも投げてやろうかと思った。奴らのガッツが大嫌いだったんだ」

「マクドナルド兄弟は鈍感で、僕がこのプロジェクトに注ぐ1セント1セントにはまったく無関心だった」

とはいえクロックは、店内のデザインを変更したい場合は、そのつどマクドナルド兄弟に書留で手紙を送らなければならなかったという。
それがどんなに小さなことでも、たとえばどこでどのようにジャガイモを保存するか、といったようなことにでも書類が必要になった。

結局、1961年にクロックがマクドナルド兄弟からすべての店を買い取った。50%もの所得税に辟易としていた兄弟は、もし自分たちが他界したら、
家族に莫大な税金が請求されることを恐れていた。それだけは避けたいと、店を売ってつつましい生活を送ることに決めたのだ。

「30年間、来る日も来る日も働いてきた」と訴えるマクドナルド兄弟に対して、クロックは自伝でこう述べている。

「それは、じんとくるものだった。ただ、哀れみの涙がこみあげることはなかった」


食い違う双方の言い分

その後もこの大型ディールについては問題が付きまとった。契約書には、マクドナルドの原点であるカリフォルニアの店の譲渡は含まれていなかったのだ。
同店は当時すでに年間10万ドル(現在の価値では約100万ドルともされる)を売り上げていた。

このことは、後にマクドナルド兄弟が主張したもので、クロックにとっては寝耳に水だった。クロックは「何て馬鹿で腐った騙し方だ! 
俺はあの店の売り上げも必要なんだ」とさらに激怒した。

ついに、クロックはその店からわずか1ブロックしか離れていない場所にマクドナルドをオープンさせた。兄弟の「マクドナルド・ハンバーガー」を
潰しにかかったのだ。兄弟の店は、店名を「ビッグM」に変更することを余儀なくされた。

その6年後、ビッグMは廃業に追い込まれた。関係修復の可能性はとっくに失われていた。

ワシントンDCにあるマクドナルドの店舗に飾られたレイ・クロックの盾。「クロックがマクドナルドのシステムを作り上げた」と書かれている

兄弟が他界したいまでも、マクドナルド一家はクロックへの恨みに苦しめられている。英紙「デイリー・メール」の取材に、マクドナルド兄弟の甥ロナルドは、こう怒りをぶつける。

「奴は詐欺師であり悪魔だ。マクドナルド兄弟が存在しなければマクドナルドハンバーガーはこの世に存在しなかった。1を10や100にすることなんて誰にでもできる
真の天才は0から1を生み出す者だ」



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