Rising斬 the侍銃士

音楽のこと、時代小説、映画を中心にしていくと思います。タイトルは自分のHNの由来になったゲームから

LE BIZZARRE AVVENTURE DI GIOGIO

2007-11-30 01:58:21 | ジョジョの奇妙な冒険 アニメ

今年は、やたらと「どんだけ?」が流行りましたが、「どんだけ」を聞くとどことなく「ピンクダークの少年」を思い出せるようになってきた昨今。
「ピンクダークの少年」は「ジョジョの奇妙な冒険 第4部(ダイヤモンドは砕けない)」のキャラ、岸辺露伴が同作品内で描いている人気漫画。
ちなみに、露伴ちゃんは某人物をヘブンズドアで調べたとき、「最低な男だな…。こんな奴を漫画に描いても読者に好かれるはずがない」と語っていますが、荒木飛呂彦氏は「ああいう最低なキャラが主人公を引き立てる」と重宝するようにしていましたね。
むしろ、荒木先生は露伴ちゃんにあてつけるかのように最低な悪役キャラに力入れてましたね。
なかなかうぶな事、じゃない。やぼな事…。鯔な事でもなくて、鯖な事?
味な事か。知ってんだよ。国語の教師か? うおお おっ おっ オメーはよォォォォ
とりあえず荒木飛呂彦先生が岸辺露伴のつもりでピンクダークの少年を描く日がそのうち来るかと期待していた頃もありましたが、方向性の違いにより実現はできなさそうですね。


そんなわけで、今回は現在自分の中のブーム再燃「ジョジョの奇妙な冒険」について。

「ジョジョの奇妙な冒険」は俺の10代の頃は一時期「聖闘士星矢」とならぶ俺の中の2大巨頭。そして「聖闘士星矢」のちょうど1年後の同じ1・2合併号から連載を開始しました。
1・2合併号は当たる、というジンクスを勝手に打ち出したが、さらに次の年の1・2合併号から始まったリアルマニズム対スーパーマニズムの超人サッカー漫画(タイトル忘れた)は早く終わりました。目が見えない人はパラリンピックに出るのが普通ですが少年漫画ではそんな差別はありませんでしたね。

話を戻します。
物語のきっかけは1880年代イギリス。
幼い頃に父ダリオ・ブランドーを無くしたディオ・ブランドーは、父に命を助けられた(ことになっている)ジョージ・ジョースターに引き取られます。
ジョースター家にはディオと同い年の一人息子ジョナサン・ジョースターがおり、皆は彼のことをジョジョと呼ぶ。
悪の天才ディオはそのジョースター家乗っ取りをたくらみ、ディオが来てからジョジョの生活は「メチャメチャ、孤独だ!」になります。
「スポーツ!」も「恋!」もディオに阻まれ、そういう中でディオの「ドキュゥン」にキレたりと…
その二人の争いを、ジョースター邸に安置されていた石仮面が静かに見守り…。
ディオのたくらみに気づいたジョジョがディオを逮捕しようというとき、石仮面によって物語は超能力ウォーズへと一気に加速します。


今思えば本題に入るまでずいぶん長い漫画だったのですねぇ。
石仮面については冒頭で触れられていますが、実際に使用されるのは2巻以降。時々出てきては存在感を示すところがうまいとはいえ、ジャンプには非常に珍しい。
人気がなければ早々に終わらせる雑誌、というイメージでしたが、あまり人気もなかったろうに2巻に到達できたのは作者の計画を尊重することくらいはしてくれるということでしょうか。
まさか本当に「そこに痺れる、憧れるゥ!」とかだけで人気を保っていたのか?
本題に入ってからの長さもジャンプには珍しい、というかこち亀に次ぐ長期漫画です。


それにしても、問い詰めを切り抜けようとするディオを逮捕に踏み切る切り札がスピードワゴンの「ゲロ以下のにおいがプンプンするぜッ」とはイギリスの警察は超能力(スタンドでも波紋でもはない)に寛容だ。

そして、ジョナサンの孤独な青春を描いた第1部が終了すると、「殴られたことよりもおばあちゃんにもらった服を汚されたことに怒るタイプ」である孫のジョセフを主人公にした第2部に。
石仮面を作った究極生物たちとの戦いが繰り広げられます。


さらに1985年、ジョセフの孫、歴代主人公で最も親に恵まれ、なのに「いわゆる不良のレッテルを貼られている」、そして唯一の喫煙者、空条承太郎を主人公にした第3部から、荒木流超能力表現方法として考案された幽波紋(スタンド)が登場。舞台もアジア・アフリカをまたにかけ、より独創的な戦いの連続にシリーズ中でも圧倒的な人気を得ます。


ドラクエもスターウオーズもそうだし恐らくジョジョも第3部で終わりだろうと思っていたのですが、さらに物語は続く。
今度は1999年、承太郎のおじで、亀が苦手、髪型がサザエさんだと言われたくない東方仗助を主人公にした第4部では3部と打って変わって杜王町に潜むキチガイスタンド使いとの戦いが展開。


この第4部のモナリザ好きの敵や、途中に出てくるイカレギタリストは好きだったのですが、静かに暮らしたい殺人鬼を倒すとそれ以外の様々な問題を適当に片付け大団円。


そして…、


2001年、第4部で大活躍だった広瀬康一君は承太郎の依頼で汐華初留乃という少年を探しにイタリアへ行きます。
イタリア到着早々に出会う少年が、塩花初留乃改めジョルノ・ジョバァーナ。
このジョルノ・ジョバァーナを中心に、ギャングたちとの息つく間もないスタンド勝負を描いたのが第5部「黄金なる遺産」(現在は「黄金の風」に変わったらしい)。


このように「ジョジョの奇妙な冒険」は、各部で誇り高き血統を受け継いだ新たな主人公が登場し、波紋の戦士やスタンド使いなどどの漫画にもない独特の超能力を持つ者たちが活躍します。
さらに「ドキュゥゥン」とキスしたり鉄砲を「メギャン」と構えたり独特の擬音、イタリア系ファッション雑誌を手本にした不自然なポーズ(通称ジョジョ立ち)、少年誌にも、マニアックなはずの青年誌でも真似することが許されない独特のセンスが売り。
でも、俺には、特に第2部以降顕著になったトリッキーな戦法、力ではなく抜け目のない作戦で相手を出し抜いて勝つやり方がスカッとして好きです。
本編で触れることはありませんが、設定上は下着のブランドまで決めているそう。このように徹底的にこだわった作り方が、ある意味どの点を取っても隙がない漫画を可能たらしめているのですかね。


第5部の頃、週刊少年ジャンプは史上ワーストかもしれないほどの名作氷河期で、俺自身も漫画を読む余裕が作れなかった頃。
それとともに、また、ジョジョ自体あまりに敵が強すぎて読むのに疲れてしまい(今思えばそれが長所なのだが)、リタイアしてしまいました。


しかし、ジョジョ好き仲間で「シリーズ最高は第5部」と言う声が多いこと、
未だに連載が(形を変えながら)続いていて、それも読みたくなってきたこと、
そして先日の「ジョジョ芸人」での出演者の絶賛振りにより、とうとう手を出しました。


そして、


むちゃくちゃ面白かったです。


比べることもしたくないですが、今回はギャングが相手、「『ぶっ殺す』は使うな。『ぶっ殺した』なら使ってもいい」と言うプロシュート兄貴ら殺しのエキスパートとの戦い。
決着はこれまでのように懲らしめたり再起不能ではなく、相手が死ぬまで終わらない。
さらに某キャラの能力も手伝ってか主人公側の戦い方も肉を斬らせて骨を断つ、むしろ骨をも斬らせて命を絶つ戦法の連続。
作者自身も「今回が最後」と決めていたであろうし、鬼気迫る緊張感がハンパじゃなかった。
こんなときになんですがナランチャはプロシュート兄貴が出るまでやたらと「ぶっ殺す」を連発してましたね。
でも「オレに命令しないでくれ!」には泣けたけどね。


何年か前からコミックスの売上の割りに雑誌の売上が落ちているということが取り沙汰されていましたが、それは恐らく伏線の多さや謎の多さで一気読みしないと話しに付いていけない作品が多くなっていることにあるんじゃあないですかね。
小説なんかもわざわざ新聞や雑誌で読む人より単行本で買う人のほうがずっと多いのでしょうし。
つまりは作品レベルの向上により雑誌で楽しむのには向かなくなってきているんじゃないですかね。
昔はコミックスで読むとやたら粗が見つかっていたものですが。


では、ここからはいよいよ読んだことがる人のための話。


まずは今回ジョジョを通して読んでわかったこと。


第2部 ルドル・フォン・シュトロハイムのよく言うセリフ。
「ナチスの科学は世界一チイイイイ!」 で1
(一チイでイチチイとは読まない。イッチイって読むのかな?)
第3部 皇帝(エンペラー)のスタンド使いホル・ホースのセリフ
「一番よりNo.2!これがホル・ホースの人生哲学。モンクあっか!」 で2
第4部 キラー・クイーンの吉良吉影
「トロフィーや賞状 全て「3位」」 で3
そして第5部 セックス・ピストルズのミスタにとって
「知らねーのかッ マヌケッ 「4つ」のものから ひとつ選ぶのは縁ギが悪いんだ!」 で4
(なんでギだけカタカナ?)


話が進むたびにこだわる数字が増えてますね。
このまま「ストーン・オーシャン」では承太郎がスタープラチナ・ザ・ワールドで止められる時間が5秒になり、「スティール・ボール・ラン」ではリンゴォ・ロードアゲインのマンダムが6秒戻す能力でした。
もしや第1部で0もある?


それにしても、4が苦手なミスタ。
途中ブチャラティチームは4人になりかけるが、それを阻止してくれたナランチャには感謝しているに違いない。


ところでブチャラティがジョルノを組織に紹介する時に言ってた「18歳の幹部」ってもしかしてドッピオ?
と、思っていたけど、巨大掲示板によると違うらしい。リゾットやセッコの態度から察してもどうやらドッピオは組織内では知られていない様子(ブチャラティチームはずいぶん皆に知られていたのに)。ドッピオは正体を知られたがらないボスに近づく手段だから隠密にされていたかもしれないし、恐らく18歳の幹部はまた違う人間でしょう。


そして第5部では気になる点もいくつかあり、書かないのもせっかく立てた目くじらが可愛そうですから書きますと、


ボスを倒す鍵を握る人物、再起不能のためにブチャラティ達を頼らざるを得ないのですが、
この人、東方仗助と共通の知り合いがいっぱいいるはずなのに、なんで仗助呼ばないんでしょうね?
仗助は杜王町を守らねばならないから?シリーズの主人公の中ではずいぶん意識が狭いような。康一君をイタリアに寄越すことは出来たのに。
コミックス上は全ての連絡手段から孤立させられたとあるし、下手に動くとボスに見つかるのを警戒したのかもしれませんが(それはおおいにありそう)。
逆にスピードワゴン財団や隠者の紫で消息を調べれば一発で様子がわかりそうなものですがね。
まあ、彼ではどうしても適わないと悟り、もっと強い人間に託すことを選んだとしておきますか。昔の彼からはそういう判断をするとはとても思えませんが、大人になったということでしょう。そこまでどうしようもなく力不足を悟ったのかも。
といっても昔だって、「見損なったぜ!」と言ってる割に見損なわれた人より後に攻め込むタイプでしたけどね。


その後、なんたらレクイエムの能力により、矢を取ろうとしてもできず、攻撃しようとしても自分に返ってくる状態に。
攻撃は自分に返るって初期のゴールド・エクスペリエンスが作った生物みたいじゃないですか。ジョルノは自分の能力なのに対抗策考えてなかったんですかね。
まあ結局対抗策はその頃とは全然関係ない部分にあったからよしとしますが。
つーかせっかくこっちもどうしたら矢を取れるか考えていたのに、それかよ。と思ってしまった。


それかよといえば最後の敵のスタンドも、いったいどうやって倒すんだと思っていたら、パワーアップという非常に少年漫画らしい倒し方でしたね。
第3部の承太郎もいきなりそれまで無かった能力使いやがったし、敵が強すぎるのだから仕方ないか。もとからの自分の能力だけで勝った仗助やジョセフ、ジョナサンは偉いと思う。
敵との知恵比べに勝ったから敵を倒す能力をもてたのだと、そういう風に解釈すればまだマシでかすね。


さらに、矢をスタンドに刺す、これも最初にやられている…。まあこのころはまだ成長前で、選ばれる力がないということでしょうけど。


そして、魂が天へと昇っていくシーン。
もう帰らないということを象徴、していましたが、
第3部でジジイの魂も一度天に昇ってるんですが…。


荒木先生は昔描いた事をなかったことにしてしまうことがあるようです。
ま、すでにその辺についてはすでに前もって説明してありますけどね。
(「おとなはウソつきではないのです。まちがいをするだけなのです」とかって)


この第5部について、荒木先生のあとがきによると、
「もし「運命」とか「宿命」とかが、神様だとか、この大宇宙の星々が運行するように、法則だとかですでに決定されているものだとしたら、その人はいったいどうすればいいのだろうか?」
「その答えを僕にくれたのは誰あろう、主人公たちでした。主人公たちは「運命」や「宿命」を変えようとはせず、彼らのおかれた状況の中で「正しい心」を捨てない事を選んだのです」
だ、そう。
このあとがきには感動しましたよ。
人は生まれる場所を選べない。人生を選べない場合もあるかもしれない。でも、「生き方」を選ぶ事はできるんですよね。


で、それを象徴するのがローリング・ストーンズのスタンド。
非常に、エピソードとしては好きなんですけどね。
でも、この能力、ボインゴのトト神と似たタイプなんですけど。あれと同じ方法で攻略できたんじゃないのかな。できればそうして欲しかったな。
エピソードそのものは非常に好きなのですが。

で、ちょっと見方を変えまして、
ジョルノ・ジョバァーナの好きな本は「レ・ミゼラブル」。
この壮大な物語のきっかけになる、ジョナサンの父ジョージ・ジョースター?世がディオの父ダリオを命の恩人と勘違いするくだりですが、これが「レ・ミゼラブル」にもあります。
「それは彼にあげた物です」云々も恐らく「レ・ミゼラブル」。
物語が5部構成なのも偶然でしょうけど同じ。
そこで別にパクリを糾弾したいとかそういうんじゃないのですが、
そんな「レ・ミゼラブル」と対比してみると気づける部分があります。


この小説は、元々悪人だった主人公が改心し、無情な運命に襲われる都度「正しい人間」としての選択をする、という物語なのですが、あえて損してまで正しい人間でいようとする気持ちが、字面だけだとわかりにくく、著者のヴィクトル・ユゴーはそれについての説明にけっこうな行数を費やします。
そのおかげで読者としては「そんなものかな」程度の理解ができます。
それに比べ、「ジョジョの奇妙な冒険」では、そういう主人公の心理描写に関する説明が少ない。でも、それは足りないのではなくいらないのです。
彼らが土壇場の状況で身を捨てて仲間同士守り合う所は文句なしにカッコいい。
トリッシュがそれを不思議がる気持ちのほうが読者にとっては不思議なくらい。
こういう「読者をねじ伏せ納得させる力」としては、漫画は小説の限界を超えているんじゃないか、と思わせられました。
と言っても「レ・ミゼラブル」そのものは大好きですよ。ラストまで読むことで正しい人間でいることの美しさに納得できます。


最後に、俺がすごく気に入った話。


第5部において、ある警官が言った言葉。
「わたしは『結果』だけを求めてはいない。
 『結果』だけを求めていると、人は近道をしたがるものだ…
 近道した時 真実を見失うかもしれない。
 やる気も次第に失せていく。
 大切なのは『真実に向かおうとする意志』だと思っている」


このセリフ自体、非常に含蓄の在るいい言葉だと思います。
でもさらに、非常に重要だと思うのは、
この話のころ、無敵とされる敵がいましたが、その(過程をすっ飛ばして結果だけが残るという)能力を、このセリフは否定できてもいる気がする。
そしてこのセリフが出てから物語は動き、無敵のスタンドを倒せるかもしれないという方向へ。
セリフとしてもすごく生きる力を与えてくれるし、ストーリー上も「あの能力は強くない。むしろ逃げているに過ぎない」ということが示唆され、実際にそのスタンドを倒したおかげで、考えてみるとこのセリフが言わんとしている事がすごく力強くなった気がする。
こういうやり方が憎たらしいほど巧いと思います。


一流の文学作品は、2回以上読んで初めて気づける部分があったり、哲学的というか、深い読み方に応えられる部分があったりする。
「ジョジョの奇妙な冒険」はそういう面を取っても一流の芸術作品だと言ってやりたいんですがかまいませんね!!



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