「あなたにとって、今、本当に大事なことはなんですか?」
ある日、仕事がない日中、昨日は夜更かしし、朝寝坊し 11時頃に起きてはぼーっとペラペラ本をめくっていた。
ためになると考え、以前に自分が買って、結局ただの見栄だったのか積読状態にしていたビジネス本みたいなものだ。
いつもなら、やっているソシャゲのログインボーナスとクエスト報酬獲得のために、まずスマホを手に取るところだが、気まぐれで本をめくってみたのだ。
自分は平凡な人間で、何かを成し遂げたいとかスキルアップしたいとかいう欲望を持ちながらも、実際は中々実行ができず、休日は今書いたようにダラダラしてしまう人間だ。いつもだったらそうだった。
本を読んだ(というか、中身を頭に入れることも考えずなんとなくめくり続ていただけ)日は違った。
適当にめくり続けて気が済んだところでいつものようにスマホでゲームをしようと思ったのだが、ふと疑問がよぎった。
本を読むことは自分の成長につながる。自己投資だ。今さっきやったみたいに形だけの適当なものですら、なんとなくタイトルや見出しや、太字で強調されていた内容が、「この知識を実践すれば自分は成長できるかもしれない」と思う程度には頭に残っている。
こう疑問を考えた時、自分が取ろうとしている選択肢(ゲームをする)についても考えてみた。
ソシャゲをするとはどうなのだ?楽しい。それは否定しない。やってる間は夢中になれる。たくさん報酬をゲットできるし、当たるか当たらないかワクワクするガチャも魅力的、クエストを繰り返すことでレベルアップだってできるし、新しいイベントも満載だ。 ・・・だけど、これは現実ではない。当たり前だけど誰かが作った人を楽しませる娯楽に過ぎないのだ。
ゲームは好きだ。楽しいから。だけど、それは「誰かが作った人を夢中にする仕組みに自分の脳がハックされている」というだけなのかもしれない。
なぜなら、ゲームをすることの見返りは現実では何もないのだから。(食べ物を得るわけでもお金をもらえるわけでも、服や靴など欲しいものがもらえるわけでもない)
要は楽しくて、夢中になる中で、気が付かないうちに人を夢中にするゲームの仕組みに囚われて、半ば自動的に毎日ゲームをするという選択を自分はさせられている。
・・・そういうことなのではないだろうか?
そう思い至ったら、考え方を変えざるを得なくなった。
いくら楽しくても、ゲームでどれだけレベルアップできても、実際の現実の自分は1ミリも成長できていないのだと。
当たり前だけどそれを認めるのは辛い・・・。
だけど、じゃあ現実はどうなのか?
クソだと思う。
なぜなら、どれだけ努力しても成果が出るとは限らないし、成功できる確証もない。
もっと端的に言えば、継続しようとしても努力が続かず、スキルアップしようにも結果が出ない。
「これはためになるはず」・・・そうわかっていても、続けるうちに飽きてしまい、継続できなくなる。趣味も習い事も、仕事も出世もおんなじだ。
楽しくないのは当然だと思う。
「じゃあゲームの方が素敵じゃないか・・・」
・ゲームならログインするだけでボーナスが必ずもらえる。
・イベントやクエストをクリアするだけでスペシャルな報酬がもらえる。
・キャラクターも時間をかければ必ずレベルアップさせられる。
・常にあるイベントや新しく追加される機能は新鮮で、刺激的だ。
・・・ということは、現実がつまらないからみんな(かどうかは分からないが)ゲームに夢中になるんじゃないか。
当たり前のことだった。
だけど、当たり前なのは確かにそうなのだが、それでもやっぱり現実で成功するとか成長するとか、あるいは何かしか人生を変えたいと感じるのであれば、ゲームにずっと夢中になっているわけにもいかない。(なんてことだろうか・・・)
結論、逆に考えるしかなかった。
現実には一切何の利益も生じないにもかかわらず四六時中でもできるゲームと、
自分の成長や成功の糧になったり、人生が変えられる可能性があるのにすぐ飽きて辞めてしまう自己投資とは一体何が違うのだろうか?と。
考えることになったきっかけは、今日の行動だと思う。
本を読んだ(ただめくっただけだが・・・)。その行動をとっただけで、俯瞰的視点になれたからこそ、今まで書いてきたように自分の行動を(客観的に?)分析できた。
それはつまり習慣というか、悪習になっていたいつもの無意識の選択に自分でストッパーをかけられたということだと考えられる。
ということは、そこが惰性や良くない習慣を直す為の鍵なのだと思った。
以下、考えてみたこと。(若干文章が箇条になってますがご容赦ください^^;)
考えてみた。
前提:モチベーションは脳が動かないと発揮されない。
(本をめくりでもしてないといつものようにゲームを始めることに疑問を抱くことさえなかった=つまり「脳が動く」ことが重要なのだと推定しました。)
結論:「脳を動かす」には文脈に触れる必要がある。
(※結論の理由については以下記載していきます。)
具体的オプション:
・『問い(自問など)』
・『本を読む』
・『人と関わる』
(※なぜいきなり「問い」が出てきたかについては、以下著作から参考にしました。冒頭大文字で書いた問いは本の中から抜き出した1文です)
では、それぞれの論理
◯問いではクリティカルな問いを自分に投げると習慣や惰性での選択に疑問を持ち、自分が本当は何をすべきか考え始める。すると「脳がうごく」
例
毎朝、鏡に映る自分に問いかける。
「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか?」
『違う』という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということだ」
◯本の場合は文章で「脳が動く」
文章に触れることは文脈に触れることと同義だと思う為。
まず、どんな本でも良い。自分が取ったノートを読み返すのでも良い。そこで目に入る文脈や論理的な流れを追ううちに、「あーこの人はこう考えているのか・・・」とか「本の構成ではこの章には〇〇についての情報があるのか」とか、「あ、前に自分がノートを取っていた時はこれについてこんな着眼をしてこんなロジックで考えていたな・・・」とか勝手に浮かんでくる。
そうやって読んでいると、別の考え方が入ってきて、いつもと同じ行動をこれから取ろうとしていた自分の考え方との違いに気づくきっかけになる。(さっき書いたような、休日ダラダラ朝からソシャゲ・・・というような無意識の思考との違いとか)。すると無意識ではなく「自分は今、〇〇のことを考えていて、こういう選択をしようとしている・・・」と、自分の行動をメタ的に観察し始めることができる。(それでもゲームを選んでしまうことも時にあるのだがw)
ともあれ、朝方に、思考力皆無で、寝起きにぼーっペラペラ本をめくるだけでも、それでも文脈(文章)に触れれば脳が動き出すというのは、おそらくこういう理屈なのだろうなーという結論に至る。(だから今朝はたまたま、いつもの行動に疑問を持てたのだろう。)
◯人と関わることで「脳が動く」
これも理屈は簡単だ。人間は自分と他人を無意識に比べるものだし、コミュニケーションをする上では必ず自分以外の人間はどう考えているのか?どういう意向があるのか?を読み取るために頭を使わざるを得ない。だから自動的に「自分のいつも通りの考え方」の外に出ることになる。
例えば、嫌々で仕事をやっていたとしても、いざ退職し寝坊すらできる気ままな朝になって、24時間を自由に使える日が迎えられたとしても、途端に会社にいた時より活力がない日々になったり、ゲームばかりするようなより自堕落な生活を送ってしまいがちになるのはこれ(対人関係から強制的に「脳が動く」環境が無くなること)が原因だろう。
例、
・他人と関わるから自分の外の考え方に強制的に触れざるを得ない。
・仕事という制約の枠組みがあるから時間は浪費が許されず貴重なものとして感じる。
・嫌いな人間を見るから反面教師で「自分はこうならないよう〇〇をしなければ!」とモチベーションが出てくる。(もちろん逆もある)
・満員電車に揺られるから、こんな疲れるような現状を一刻も早く抜け出したいと思う。
つまり、これらも自分が自分以外の文脈(他人)に触れるからこそ「脳が動く」のだろう。
(より正確に言えば状況から感情が先立ち、その興味や驚きや関心、あるいはストレスや不快感などの刺激が身体の中で生理学的に処理されることで脳が刺激され、モチベーションを生み出す(「脳が動く」)状態になるのかもしれないが。)