最近、テレビ番組を見ていて印象に残った歴史学者の言葉。何時、誰かは覚えていないが・・・
その意味は、歴史はこれまで指導者の民衆支配の手段として、自分の支配を正当化するためそれ以前の支配を語る手段であったし、民衆に過去の支配に対する恨みを根付かせる手段であった。しかし、今や歴史を科学として捉え、学者による科学的な分析の対象として確立すべきである。というものだったと思う。
確かに「歴史」は過去も現在も「科学」として成り立っていない。常に、自分の政権の正統性を立証するものとして過去の政権を分析し、その悪政を指弾する手段として「歴史」は語られていた。つまり、歴史を語るのは後世の指導者とそれに追随する勢力。その前の政権の時代に当時の指導者から疎外され不利益を被った(あるいはそう思い込んでいる)勢力がそれまでの政治権力の不当性を喧伝する「手段」として歴史は使われてきた。
歴史を語る指導者やそれに追随する勢力は、「歴史」を語ることによって支配する民衆に、前政権やそれに追随していた勢力に対する「恨み」「憎しみ」を掻き立て、自らを正当化しようとしている・・・と。
確かに、指導者が「歴史」あるいはそれ以前の体制を語るときには、民衆にこれまでの「不当」な差別やいわれなき不利益を強調して「憎しみ」を掻き立てるのは、お隣の国々を見てもわかるし、明治維新当時の我が国、終戦直後の我が国を見ても明らかだ。
暗殺された安部元首相も残念ながらこうした「歴史を語る指導者」だった。対象は戦後民主主義体制と「革新勢力」とやらに向けられ、自民党はいまだにこの輪から抜け出せていないし、対象となった側はまともな論議はできていない。
科学的な思考、合理的な思考、人文主義的思考、ひいては「真の民主主義」とは決して「わかりやすい」単純な言葉一つで両断できるものではないし、ましてや「(笑)」などのサインで片付けられるものではない。面倒で忍耐の必要な論議、何よりも対峙する人への尊敬とその意見への冷静な受け止め方が必要だ。
しかし・・・・・どうだろう、今の日本にそこまでの余力も余裕も無いのかもしれない。それは、指導者たちが・・・ということに止まらず、われわれ国民が・・・ということなのだと思うが。