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織田信長 桶狭間、安土城、そして徒然なるままに・・・

 戦国武将の雄。幅広い情報の入手から熟慮して行動に移すまでの速さは素晴らしく、中世城郭に石垣を用いた功績は大きい。

織田信長が「日本で一番最初に誕生日会を行ったこと」について調べてみると・・・

2010-10-02 07:52:36 | 織田信長
 昨日のテレビ番組で、芸能人が織田信長について「日本で一番最初に誕生日会を行ったのは織田信長である」と語っていたのが気になり、少し調べてみました。

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本能寺の変 動機と首謀者に関するその他の考察

 フロイス『日本史』によると、信長は天正7年5月11日に安土城で自らを神とする儀式を行い、見寺で信長の誕生日を祝祭日と定め、参詣する者には現世利益がかなうとしたという。

 ただし、フロイスがこの「儀式」について初めて記したのは信長の死後であり、フロイス自身が「儀式」が行われたとされる当時に安土周辺にはいなかったこと、日本国内の一級史料ではこの「儀式」についてまったく言及されていないことなどから、谷口克広はフロイスの記述に信憑性はなく、信長が滅んだことを正当化するために記したもの[30]であるとの見解を示している[31]。

[30]フロイスは「信長がかくの如く驕慢となり、世界の創造主また贖主である、デウスのみに帰すべきものを奪わんとしたため、安土山においてこの祭りを行った後19日を経て、その体は塵となり灰となって地に帰し、その霊魂は地獄に葬られた」と、信長が「儀式」の報いにより滅亡したと述べている。
[31]『信長の天下布武への道』(吉川弘文館)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%83%BD%E5%AF%BA%E3%81%AE%E5%A4%89
(本能寺の変-ウィキペディアより引用)

 ウィキペディアの本能寺の変の考察では、国内の一級の資料ではまったく言及なく、フロイスの記述は信憑性がないと解説しているのは谷口克弘であるとあり、谷口克弘はどのような人物かも以下に調べてみました。


谷口 克広(たにぐち かつひろ、1943年 - )は、歴史家。
 北海道室蘭市生まれ。横浜国立大学教育学部卒業、戦国史研究家、岐阜市信長資料集編集委員会委員。主として織田信長とその周辺について多数の著書がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E5%85%8B%E5%BA%83
(谷口克広-ウィキペディアより引用)

 谷口克弘の著書についてはかなりいろいろな書籍を執筆していますが、私も以下の本を読んでいます。
信長の親衛隊(中公新書)
織田信長合戦全録(中公新書)
信長軍の司令官(中公新書)
信長と消えた家臣たち(中公新書)
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 ということで、テレビ番組で織田信長が日本最初に誕生日会を行ったというのは、恐らくはルイスフロイスの『日本記』の記載を鵜呑みにして番組作りをして、芸能人に語らせたと考えられます。
 この織田信長の誕生日会を語っていた芸能人は、織田信長のもとに来訪していた宣教師達が誕生日会を行っているのを見て真似をしたとも説明していました。


 ルイスフロイスの『日本記』だけに織田信長の誕生日会が書かれているが、国内の一級の資料、『信長公記』だと思いますが、これには一切記載がないことは、織田信長の誤ったイメージを膨らませてしまう恐れもありますがいかがなものでしょうか。

 織田信長ファンとしては誕生日会の真偽が気になるところです。

 
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 YUKIにゃん

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