ゆずり葉塾

ゆずり葉塾は、きわだつ個性いっぱいの小さな塾です。

ギャンブル法案

2016-12-07 22:30:35 | 塾長独白
 知人の息子がギャンブル依存症だ。自分の稼ぎだけでは足らずに、妹の結婚資金を始め、家族の預貯金まで手を出してしまう。競馬で一度だけ大当たりをしたのが不幸の始まりだった。「あの快感をもう一度!」……ギャンブルはしかし繰り返せば繰り返すほど負けがこむのである。保険もそうだが、確率の計算に長けた連中が巧妙に仕組んでいる商売なのだから仕方ない。知人はどうしたものかと悲嘆に暮れていた。「もう二度としません」、息子は破綻するたびに誓うのだが、またすぐにもとに戻ってしまう。「まさか一日中監視しているわけにもいかないし……」
 ギャンブル法案が成立しそうである。安部首相言うことには「成長戦略の目玉」だとか。そこには「ギャンブルに溺れる奴が悪いのであって、ほどほどに楽しむ範囲であれば何ら問題は生じない、ギャンブル自体が悪いということにはならない」そんな認識があるのだろう。庶民感覚ではそうかもしれない。自分も浪人時代はパチンコをやっていたし、競馬をやったこともある。因果に追われる生活の中で、つまり努力すれば報われ、しなければ取り残されるという退屈な世界にあって、偶然に身をまかせるというのはある種の開放感を与えてくれる。必然はうんざりなのだ。偶然万歳である。じゃあ、法案も通っていいじゃないかと思われるようなものだが、道徳云々ではなくてそこに嗅ぎ取られる腐臭がたまらなく嫌なのだ。若者の退廃は未来へつながる香りがするが、老人の退廃には死臭がつきまとうばかりだ。
 議員立法だそうだが、どうせこんな会話から始まっているに決まっている。
A議員「いやぁ、先日はベガスのカジノで大枚はたいてしまったよ。スロットマシンで3本、ブラックジャックで5本、バカラで4本、いやー負けに負けたね。まいったよ。」 
B議員「都合120万負けたんですか。豪遊なさいましたねぇ。」
A議員の秘書「先生、単位が違いますよ。」
B議員「えー、1200万ですか……。」
A議員「まあ、大きな声では言えんがね。マスコミにでも知られたら大騒ぎだわい。しかし、日本にもあんな場所があったら楽しめるのになあ。」
B議員「先生、それは是非実現すべきですよ。大体、ウジ虫みたいな奴らが千円、二千円のベースアップであれこれ言う世の中で、先生みたいに1000万をあっさり賭ける男気は英雄のそれですよ。私たちは爺婆の福祉予算をどうのこうのと、いい加減疲れているんですから、ここらでひとつパァっとぶちあげましょうよ。賛同してくれる財界人もたくさんいると思いますよ。」
A議員「そうか。君もそう思うか。日本にカジノ、これまで誰も言い出せなかったことだしね。」
秘書「先生、やはり先生はすごいお人です。ホント、日本の歴史に残る方です。」
  ……こんな奴らが日本を動かしている。 

電通と公民

2016-11-16 22:53:28 | 塾長独白
 公民の授業はできるだけ現実を認識できるものにしたいと思っている。例えば教科書(東京書籍)の記述では「……しかし、労働者は使用者に対して弱い立場にあるため、一人一人がばらばらに交渉したのでは、不利な条件になりがちです。そのため労働者は労働組合を結成し、労働条件の改善を使用者に要求するようになりました。……」そして労働三法、特に労働基準法は重要だとしている。この記述は、しかし何故電通の新入社員が自殺しなければならなかったか、の疑問に答えてはくれない。また相談に来る卒業生のあきらかに不当な労働条件を改善する道筋を教えてくれはしない。聞き知る限りでは老舗の大手企業や公企業は別としても(それさえも今は危ぶまれるが)、労働組合が存在しないか機能していないのが現実であるように思われる。教科書も色々と具体例を盛ってくれてはいるのだが、やはり綺麗事で、「鬱」「自殺」に結びつくような記述ではない。
 日本は「法治国家」である。法自体の問題はあるにせよ、少なくとも法に則り問題の解決が図られる社会ではあるはずだ。しかし法は意志を持たないのだ。ペンがそれを握って紙に書き付けなければ文字を描かないのと同じく、法を掴んでそれを訴えなければ法は機能しない……それが「建前」と「現実」の差だ。電通に基準局が入り、条件の改善を促したとしても、働く側が意識的に「ライフ・ワークバランス」(教科書)を当たり前に実現できる状況がなければ、基準局の勧告は意味がないだろう。××時に全ての明かりを消します?皆、仕事を持ち帰り自宅でつじつまを合わせるに決まっているのだ。
 要はそうした既存の権威に対して立ち向かえる反逆の精神が法を使う精神につながるということ、おとなしく従順な生き方がどれほど不条理な結果に至るのか、ということを知ること、それが公民の授業に求められているのだろう。「労働組合法」の存在よりも近くにある「ユニオン」の存在、「就活でどう成功するか」よりも「自己の誇り・尊厳をどう守り抜くか」を教えることが今の公民の授業に必要なのだろう。マインドコントロールを受け付けない自立、それはやはり「反逆」に収斂する。

角を矯めて牛を殺す(3)

2013-07-31 22:40:06 | 塾長独白
「石原前都知事が日教組を大嫌いだったっていうのは知っているだろ。まあ、平和憲法も嫌いな人間だから日教組の戦後教育を嫌うのは自然だよ。そして彼は都知事になったとたん日教組を解体するため、できる限りのことをやったんだ。組合には直接手をかけられないから公務員への職務命令という形で組合員それぞれをバラバラにしようと目論んだ。」「職員会議が会議ではなくって管理職の一方的な命令伝達をする場に過ぎないってことになっちまったんだろう。ニュースで見たよ。」「ああ、それもひとつだ。現場の問題を職員皆で議論し、解決するための場はなくなった。問題があれば管理職に直接相談しろっていうことだ。管理職なんてのは大抵自己保身で登り詰めた奴が多いから、問題をもちかけたところでまず考えるのは自分の体面だよ。話にならない。でもそればかりじゃない。」友人はしごく穏やかな性格であまり饒舌な方ではないのだが、酔いも手伝ってか今日は立て板に水だ。言葉もだんだん乱暴になってきた。「あいつ(石原前都知事)は配置転換を頻繁にするようになった。昔は20年くらいひとつの学校にいることもあった。それが妥当な場合ばかりじゃないのはわかるが、その適否は個々に考えればよかった。今は4~5年で職場を変えられちまう。校長だって将棋の駒状態だ。ぽんぽん移動させられる。職員同士がチームにならないようにってことだ。バラバラの個人として都の公務に従えってことだ。」「昔は職員室ってわきあいあいで先生たちが仲良くしているのが子ども心にも嬉しかったって記憶があるけど、それがなくされたってこと?」「ああ、そうでないところもあるとは思うが、そういった職員同士の連帯を切断するようにしむけているってのは事実だよ。」「だからこの頃先生のノイローゼ退職とかの話をよく聞くのかい?」「そうだと思う。以前は職員には横のつながりがあって、ひとつの教室で起きた問題を共有できた。チームで問題を解決していた。でも今の僕らは都の職制にぶらさげられた一体のマリオネットだ。」「子どもの自殺報道を見ると、なんとも官僚的で学校が本当にそんな現場になってしまったのか、と思うことが多いけれどそれも背景には石原の施策があったのか。」「ああ、そうだと思う。あいつは牛の角を矯正しようとした。日教組に対する自分の憎悪をはらそうとして。でもそこには子どもに対する視点は微塵もなかったんだ。結果、子どもたちを取り巻く環境まで殺してしまった。職員をバラバラにしてチームを作らせないってことは、民間の会社でいえば自殺行為に等しい。しかも僕らが作っているのはモノじゃない。未来を担う人間たちなのに。あいつは牛の角を矯めて牛を殺してしまったんだよ。愚かしいことだ。」その後も随分飲んで気炎をあげた。
 人には派手な強い者に憧れる者と人の弱さをそっと見つめる者がいる。最近の日本は強さに憧れる者ばかりが幅をきかしているようで寒々しい。戦前の軍部もそうだったから。

角を矯めて牛を殺す(2)

2013-07-02 17:34:42 | 塾長独白
 先日、もう三十数年高校教師をしている友人に久しぶりに会ったので、最近疑問に思っていることを尋ねてみた。「どうも近頃の高校は大学進学のための予備校みたいに思えてならないんだ。きめ細かな進路指導、勉強合宿、宿題の厳しいチェック、予備校と連携した衛生放送授業等々、親切すぎるくらい親切だよ。僕らの頃には想像できなかったような学校ぐるみの進学支援体制だよ。ある高校の保護者なんて夕食の時間を何時にするかまで学校に指示されたと言っていた。親切もそこまでくると、大きなお世話だよな。それにしてもなんとも窮屈な青春じゃないか。時間も空間も細分化されて管理され、はみ出すのが難しい。なんだかブロイラーみたいだ。子どもが自分で工夫できる空間なんて残されていない。決められたことをトレースするだけだ。形はいいけれど小振りな花しか咲かない。教育現場はそんな土壌になりつつあるんじゃないだろうか。」いささか感情的になってまくしたてた。友人には自分が責められているように受け取られたのかもしれない。そんな気は毛頭なかったのだが。「おまえの言わんとしていることはわかるし、俺もそう思う場面はたくさんある。でも、現場の教師から言わせてもらうと、個人の努力ではどうしようもないことだらけなんだよ。」「というと?」「おまえ、角を矯めて牛を殺すって成語を知っているか?」「ああ、正確かどうかは知らんが、牛の曲がった角を真っ直ぐに矯正しようとして牛を殺してしまうという愚かさのたとえだろう?ことの本質がわからないくせに自分の好悪で誤った判断をしてしまうということだ。」「その通りだ。」「して、何を言いたいいんだ?」

角を矯めて牛を殺す(1)

2013-06-26 22:43:19 | 塾長独白
ここ10年くらいだろうか、都立・私立を問わず高校が説明会に学習塾を招待してくれるようになってきた。その学校の空気を肌で感じることができるし、学校案内には書かれていない情報も得られるので、私どもにとってはなんとも嬉しいお誘いなのだが、最近、各高校のお話を伺っていて何かひっかかるものがある。都立高校と一口にいっても、色々あって普通科、総合学科、商業・工業などの専門学科、定時制等々、この10年の統廃合を経て分化してきたし、もちろん私立高校はそれぞれの伝統を守ってカラフルだ。それぞれの校風、伝統があって子どもたちはその香りに惹かれて進学する、それはそれでいいことなんだろうくらいに思ってきた。でも最近の説明会で強調されるのはどの高校もおしなべて「大学進学率」一辺倒。私立高校が高進学率を目玉にするのはわかるが、都立高校まで「難関大学に○名合格」を目標にすることにはどこかひっかかるのである。背景には都の教育委員会が各校を競争させているという事情がある。旧制高校のバンカラ気質を懐かしんでも仕方ないのかもしれないが、どこか大きなところで都の教育行政は舵を取り違えてしまっているように思えてならない。

学力低下について

2006-09-20 00:02:37 | 塾長独白
 先日、次世代ゲーム機がどこかの会場で一斉に発表され大盛況だった。今のゲーム機だって驚くほど良くできているのだから、その上っていうのはどうなるのかと思ってしまう。
昔、ある王様が大人も子供も我を忘れて夢中になる玩具を発明した職人の首をはねた、なんて本当だか嘘だか知らない話を何かで読んだことがあったが、その王様は娯楽の功罪を知っていたのかもしれない。
 塾には「びっくりノート」というのがある。生徒たちの珍談奇聞ならぬ珍答奇問を記すノートだ。たとえば国語で「安穏な砦」という表現が出てくる。「砦って知ってるよね?」「うん、神社にあるやつでしょ。」「それは鳥居!」「鳥が入っているカゴよ。」「………。」「手抜かりはないか。」の手抜かりは?「手の垢。」語感はわかる気もする。駐在所は?「駐車場。」宿直は?「宿題を直すこと。」金物は?「楽器のこと。」これは全て中3の授業での発言だ。
 最近の日常生活では「駐在所」などという言葉を使うことがなくなったのは事実だが、少し前の童話や物語には見かける語だと思う。国語ばかりではない。地理では「メキシコ湾ってどんな国?」と聞かれ、川は海から内陸に遡って流れる。日本列島はひょうたん島のようにプカプカ海に浮かびその下を鯨が通り抜ける。理科では太陽が東から上ると答えられるのは半数、月にいたっては大部分が西から上ると答えるし、星は天を動かない。自分だって子供の頃はとんちんかんな思い違いをたくさんしていたし、今だって己の無知に顔を紅らめること頻りなのだから偉そうなことは言えないが、でもやはり自分の子供時代よりも語彙や生活体験が希薄になっているような気がしてしまう。
 テレビやゲームは本当に良くできている。娯楽としての巧緻を極め、見るものを飽きさせないという点においてはもはや完成の域に達しているのではないか。すごい。あの面白さには学校のどんな授業も文学も対抗するのはほぼ不可能なのではないか。莫大な予算と人知を駆使して作られた快楽に、活字を追ったり行間を想像したりなんて面倒くさい作業を強いる紙っぺらが勝てるわけないのだ。「家に居ても本を全く読まないんですよ。あのコ、漫画も読みませんからねえ。テレビとゲームにばかり夢中になって。どうしたらいいんですかねえ。」「はあ、どうしましょうねえ。」答えようがないのだ。参った、一人勝ちだよ、もういい加減、これくらいで満足して開発努力をやめたらどうだ。
でもテレビやゲームはさらに進化するだろう。少し大きめの水中眼鏡みたいなものをかけて自分が画面の中の世界に入り込んで遊べる3Dの機器なんかすぐにできてしまいそうだ。究極は「水槽の脳」のパラドクスと言われるやつだろう。僕らの人生は実は「水槽に浮かんでいる脳が管理人に刺激されて作られている幻想に過ぎない」と仮定しても否定できない。よくSFで出てくるのだが、脳を電極か何かで刺激して実際の感覚、臭いや痛みすらも実際に体験させてしまうという話だ。棺桶みたいな箱に入ってコードがたくさんつながれたヘルメットをかぶる。するとそこはもう別な人生の舞台だ。現在の人生と等価で、しかもあらゆるジャンルの中から好きなものを選択できる。ハリーポッターだろうとビルゲイツだろうと、お好みの人生そのものが味わえる………テレビやゲームはそんなところまで行ってしまうのかもしれない。皆が棺桶に入っているシーンは不気味ではあるけれど。
 

ゆずり葉塾について

2006-08-28 18:33:31 | ゆずり葉塾のこと
 子どもが歩き始めたころ、おぼつかない足取りを見かねて手をさしのべると、ときに子どもがそれを拒否したことはなかったでしょうか。誰も自分の力で歩きたいのです。
 子どもにゆずるべきもの「いのちあるもの、よいもの、美しいもの」を本当に私たちは残そうとしているのか……それをいつも忘れずに繰り返し自問しながら子どもたちと勉強していくために、私たちはこの塾を「ゆずり葉塾」としました。