公民の授業はできるだけ現実を認識できるものにしたいと思っている。例えば教科書(東京書籍)の記述では「……しかし、労働者は使用者に対して弱い立場にあるため、一人一人がばらばらに交渉したのでは、不利な条件になりがちです。そのため労働者は労働組合を結成し、労働条件の改善を使用者に要求するようになりました。……」そして労働三法、特に労働基準法は重要だとしている。この記述は、しかし何故電通の新入社員が自殺しなければならなかったか、の疑問に答えてはくれない。また相談に来る卒業生のあきらかに不当な労働条件を改善する道筋を教えてくれはしない。聞き知る限りでは老舗の大手企業や公企業は別としても(それさえも今は危ぶまれるが)、労働組合が存在しないか機能していないのが現実であるように思われる。教科書も色々と具体例を盛ってくれてはいるのだが、やはり綺麗事で、「鬱」「自殺」に結びつくような記述ではない。
日本は「法治国家」である。法自体の問題はあるにせよ、少なくとも法に則り問題の解決が図られる社会ではあるはずだ。しかし法は意志を持たないのだ。ペンがそれを握って紙に書き付けなければ文字を描かないのと同じく、法を掴んでそれを訴えなければ法は機能しない……それが「建前」と「現実」の差だ。電通に基準局が入り、条件の改善を促したとしても、働く側が意識的に「ライフ・ワークバランス」(教科書)を当たり前に実現できる状況がなければ、基準局の勧告は意味がないだろう。××時に全ての明かりを消します?皆、仕事を持ち帰り自宅でつじつまを合わせるに決まっているのだ。
要はそうした既存の権威に対して立ち向かえる反逆の精神が法を使う精神につながるということ、おとなしく従順な生き方がどれほど不条理な結果に至るのか、ということを知ること、それが公民の授業に求められているのだろう。「労働組合法」の存在よりも近くにある「ユニオン」の存在、「就活でどう成功するか」よりも「自己の誇り・尊厳をどう守り抜くか」を教えることが今の公民の授業に必要なのだろう。マインドコントロールを受け付けない自立、それはやはり「反逆」に収斂する。
日本は「法治国家」である。法自体の問題はあるにせよ、少なくとも法に則り問題の解決が図られる社会ではあるはずだ。しかし法は意志を持たないのだ。ペンがそれを握って紙に書き付けなければ文字を描かないのと同じく、法を掴んでそれを訴えなければ法は機能しない……それが「建前」と「現実」の差だ。電通に基準局が入り、条件の改善を促したとしても、働く側が意識的に「ライフ・ワークバランス」(教科書)を当たり前に実現できる状況がなければ、基準局の勧告は意味がないだろう。××時に全ての明かりを消します?皆、仕事を持ち帰り自宅でつじつまを合わせるに決まっているのだ。
要はそうした既存の権威に対して立ち向かえる反逆の精神が法を使う精神につながるということ、おとなしく従順な生き方がどれほど不条理な結果に至るのか、ということを知ること、それが公民の授業に求められているのだろう。「労働組合法」の存在よりも近くにある「ユニオン」の存在、「就活でどう成功するか」よりも「自己の誇り・尊厳をどう守り抜くか」を教えることが今の公民の授業に必要なのだろう。マインドコントロールを受け付けない自立、それはやはり「反逆」に収斂する。
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