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yuzuの記

優しい風に誘われて

昭和の面影 大阪中崎町そぞろ

2017-09-10 09:07:41 | つれづれ

 

 

 大阪市北区にある中崎町は

昭和の色を濃く残した レトロな空間が点在する街ですね。

大阪駅からほんのひと駅で (地下鉄谷町線ひと駅) 

こんなに懐かしい雰囲気が存在する不思議・・・

 

 

今日が昨日になり

昨日が過去になり

過去が歴史になっていく

世の移り変わりを横目に 変わらないものがある懐かしさが

ここでは ほっとする気持ちとともに蘇ります。 

 

 

 両親や兄妹、友人たちと生きた昭和は

もうすぐ「前の前」になろうとしています。

現皇太子さまが天皇となられたら

また新たな元号が始まり

平成も昭和も少しずつ遠ざかっていくのでしょう。

 

 

 人が近い距離で生活し触れ合ってきた時代は

日本のあちこちに

どれほど残っているでしょうか・・・

 

 

 中崎町の立ち寄った古い喫茶店は

壁紙がところどころ剥がれ

建物自体もセピア色して 置かれた机やピアノも

もう長く修理もされていない様子・・・

でも 古き良き時代が そこにそのまま成立していて

自分が溶け込んでいる事を嬉しく感じたり

不思議な感覚に陥りますね。

 

 

 駄菓子屋さんの店の前に

少年が座ってラムネなど飲んでいる姿が

違和感なく入り込んできます。

 

 

 多くの狭い路地のあちこちに祭られている神様。

建物がやや傾いているのが 少し心配ですね。

 

 

 歩いていると ブームなのかそぞろ歩きしている人も多く

外国の観光客も普通に散歩していますね。

このお店の前にはマンゴー氷目当てに

行列が出来ています。

 

 

この町では活性化を計り

にゃんこカフェとかふくろうカフェ、うさぎカフェのように

動物とじかに触れあえる事を売りにした

癒しの空間も増えてきているようですね。

 

中崎町・・・古き良き時代が味として残る街でした。


NIKON PLAZA OSAKA へ

2017-09-07 08:07:19 | つれづれ

 

 

 

久しぶりに大阪に行ってきました。

変わってしまった大阪駅にも少し慣れましたよ。

何だか雑踏の中 圧倒されるパワー健在ですね。

この日はNIKON PLAZA OSAKA にカメラを持ち込みました。

 

 

 大阪駅から歩いて7.8分のビルの中にあるそこは

エレベーターでほんのわずかな瞬間で着く13Fにありました。

 

 

 私はNIKONのD7100を使っているのですが

数日前から画面の左上に影が映り込んで

いくらシュポシュポしても取れず残ったまま・・・

多分ズーム撮影した時に ゴミが入ったのでしょうね。

精密機器なので これ以上は自分でやるのは無理だと

メーカーさんに持ち込んだのです。

送ると3週間はかかると言われ 勝手知ったる大阪ならと受付へ。

土曜日になるのを待ち構えて行ったものの

流石にイベントもあってか人も多く

受付までに番号札を取って待つことに・・・

15分ほどして呼ばれると ここで修理は対応できますが

2時間ほど時間を下さいとの事。

重篤な場合はサービスセンターに送られて 3週間はかかるそうです。

覚悟はしていたので 他で時間をつぶして待つことにしました。

 

 

 

 まわりに何もない今の地元とは違って

大阪は時間つぶしの場所など選び放題にあります。

不便な環境に移ってから 便利なことのありがたさが実感できましたね。

 

 

 折角だから店内もぶらついてみると

最新のカメラが並んで 買うつもりなら目移りするだろうな・・・

こう購買意欲を掻き立てられては・・・我慢我慢

カラフルな花が試し撮りの為に置かれて

パシャパシャと 展示のカメラで撮っているお客さんも多い。

  

 

大阪の街をぶらついて 2時間後戻ってくると

修理完了の番号は提示されているものの

受付番号を取って また一から待つことに・・・あれれ

このシステムってなあに????

最初の受付と受け取りは 別カウンターで処理したほうが効率的では??

 

電車で往復2時間50分

受付から終了まで3時間

修理費 2400円

あはは 1日がかりで愛機は元の状態になりましたよ。

お陰様でした ^-^

 


兄の初任給 in 神戸

2017-08-25 07:22:47 | つれづれ

 

 

ふとしたことがきっかけで

もうセピア色した思い出が

鮮やかな色を伴って 蘇ってくることってあるんですね。

 

 

大学時代、私の周りには苦学生が多くて

みんな必死にアルバイトしながら頑張っていました。

今のように普通に喫茶店に入ることもなく

外食なんてとても贅沢に思っていたころです。

明日は学校は 1時限だけで終わると話していたら兄が

「なら お昼休み頃に職場に来るか? 初任給出るしお昼おごってやるよ」

と嬉しいお誘い ^-^

兄が卒業後配属されたのは 

JR元町駅から坂道を登っていったところにある建物です。

私の大学からは1時間もかからないので行く行く と。

 

お兄さんはこの坂道を歩いて通勤しているんだ・・・

お洒落な神戸らしい雰囲気をまとった景色に

なんだかワクワクしたものですね。

 

「OO君 妹さんが来てるよ」

言われた階で兄を呼び出してもらうと

仕事の切りをつけるから そこで待っているように言われました。

そっかあ ここがお兄さんの職場なんだ・・・

すぐに出てきた兄は 私を7Fだったか8Fだったか

大きな職員食堂に連れて行って

「さあ 何でも食べろ。ランチも美味しいぞ」

Aランチ、Bランチ、Cランチなどがあって

他に魚定食やうどんなどがあったっけ・・・

「なら ハンバーグ定食にする」

「Aランチだな」

兄も同じものにして 職員食堂だから他より安いと教えます。

「 うまいか? 」

「うん 美味しいよ。外食なんてしないものね。すご~ 」

質素だった当時、こんな機会はそうなくて

お洒落な街の大きなビルで働いて

社会人のスタートを切った兄が 誇らしく思えたことです。

新卒職員だから休憩は長くとれないと

食事が済んだら 気を付けて帰れよ・・・と兄は仕事に戻っていきました。

元町の坂道を駅に向かって帰りながら

お兄さんが初任給で ランチをご馳走してくれた ^-^

そのことが嬉しくてなりませんでしたね。

とてもささやかだったかもしれないけれど

私たち兄妹にとってはイベントのようでした。

 

 

神戸は兄にも私にも縁のある街です。

そしてまた 妹にとっても縁が結ばれる街となります。

兄が初任給でランチをご馳走してくれたのは

もうもう遥か昔のことで

私も忘れかけていましたが

出てきた昔の日記帳にこのくだりがあって 

こんなささやかな思い出が

まるでほんの少し前の事のように・・・

 

ゆとりのない時代だったけど

それだけに小さなことをとても喜べた時代だったと

そんな気がします。 

 

 


黄泉の国から

2017-08-15 09:59:14 | つれづれ

 

 

 お盆ですね・・・

こころなしか 今日は暑さも雨で和らいだようですよ。

 

 

 先日、草津市の水の森公園に行ってみましたよ。

ちょうど今 花蓮が綺麗な時でした。

 

 

ここにはいろんな花蓮の種類があって

色とりどりで可愛いですね。 

  

 

 ウルグアイオムニバスは 大きなものなら

直径1メートルくらいのもあって豪快!!

体重30キロまでの子供なら 乗って立つことも出来るのですね。

 

 

 

 オムニバスの種類もいろいろで

私は初めてこれを目にしました。

植物と人、水と人の関わりをコンセプトにしたこの公園は

広い施設の中に様々なゾーンが配置されて

楽しみ方も多種多様のようです。

 

 

 昔、山奥のおばあちゃんの家では お盆になると

大きな仏壇に 野菜や果物をたくさんお供えして

迎え火をたいて ご先祖様が迷わないようにお迎えし

お盆が終わると 送り火で見送っていたものです。

 

 

幼いころの記憶なので 確かかどうか分かりませんが

小さな私の中では 

顔も知らないおじいちゃんや そのまたおじいちゃんたちが 

見えないけれど帰ってきていると聞いて

とても不思議なお盆の行事でしたね。

 

 

 私は引っ越して 遠くへ来てしまったので

お母さんたちは 帰る道のりに迷いはしないだろうか と

いつも心配になってしまいます。

仏壇もマンション用にコンパクトになってしまったけれど

好きだった和菓子や果物でお供えしお盆支度。

まさか仏壇を守るようになるとは思わなかったので

ごめんなさいね、これでも堪忍してくださいね~ 。

 

 

 黄泉の国も暑いのだろうか・・・

うちわで扇ぎ扇ぎ帰ってくるのだろうか・・・

慣れ親しんだ家に帰りたいでしょうに

「こんな知らない所落ち着かないわね」 と

言われてしまいそうですね。

ここは母たちが 馴染みのない住まいなので

やはり田舎のお墓や お寺さんでゆっくりと

命日やお彼岸に会いましょうか ^-^

出来るだけ会いに行きますからね・・・

 

 

 10日ほど体調を崩したので

7時間も8時間もかかったお盆の渋滞は無理と

また改めて体調万全で行きますよ~ 。

 ここは蜩も朝に夕に鳴きますよ。

琵琶湖も南北ず~ と見渡せて爽快ですよ。

気分転換してくつろいでいって下さいね~ 。

 

いろんな言い訳して仏壇に向かうお盆です。

 


五能線 驫木駅 (とどろきえき) は今。。。

2017-08-13 07:36:02 | つれづれ

 

 

数年前、私は1か月程をかけて北海道、東北の旅に出ました。

全てを中断して、もう一人暮らしのおぼつかなくなった母の所に 帰り

すぐに介護生活が始まったのは 虫の知らせだったのでしょうか・・・

仕事も友人関係も大阪に残してきた事には

不思議に未練は湧いてきませんでした。。

父が亡くなり、頼みの兄も病気で母より先に逝き

憔悴と過酷な病気の連続に もう押しつぶされそうな母が

それでも 安心したかのように笑顔が戻って

それが何より嬉しい事でした。

何も心配しなくていいよ・・私がいるよ。

 

1年ほどでその母も亡くなり、それは思いのほか受け止められなくて

見送り全ての事をやり終えると

腑抜けのように すぐには歩きだせない心もとなさに襲われて

私は1年を喪に服すことにしました。

たまたま 前の仕事関係から復職の依頼もあって

それまでの間に 行きたいところに行こう、したいことをしよう と

他の成り行きもあり 気ままにゆっくりと旅することに・・・

何がどうということもなく 何を考えるというのでもなく

ただ こんな時にしか出来ない、今しかない と。

 

 

今も印象に残る数々の場所はあるけれど

北海道から青森に渡り

以前から立ち寄ってみたいと思っていた駅舎があって

それは、青森県津軽郡深浦町にある

JR東日本の五能線 驫木 (とどろき)駅でした。

海岸沿いに走る五能線の 日本海に面した 無人駅です。

ここがそうなのか・・・

いろんな雑誌に取り上げられて、

2002年には春の18キップのポスターになった駅舎です。

ホームに立つと目の前に日本海が広がり

周囲には何もなく ぽつんとした風情。

 

 

なんだろ・・・当時の私には 心にぴったりと収まる風景でした。 

 いろんなことがある・・・岐路の選択の連続が

生きるということなのかもしれない。

これからは前を向こう。

この旅を区切りとしよう。

そんな事を思っていました。

 

 

 北海道でも目にしたローカル線の悲哀

高波災害にあった日高本線は

再建のめどの立たないまま 

レールがさび付いて 雑草が伸び放題になっている駅舎もあって

採算の取れない路線の厳しさがそこにありました。

驫木駅では、日に5~ 7往復の停車本数でも

1日ずっと見ていると 乗客は著しく少ない。

生き残っていくだろうか・・・

そんな思いに包まれたことです。

 

 

 

 

日本海に夕日が沈みかける時

この駅舎は孤高のたたずまいにも見えますね。

今も無事に こんな夕日に照らされているでしょうか・・・

お盆だからかな ふと思いが交差してしまいましたね。


蜩 ( ひぐらし )

2017-08-02 17:08:12 | つれづれ

 

 

夜明け前、少し湖畔寄りの林から

カナカナカナカナ カナカナカナカナ と

蜩の鳴く声が聞こえます。

こちらに来て分かったのですが

この地では 夏の訪れはこの蜩の声で始まるようです。

南北にも長い琵琶湖ですから

地形や環境などで そこそこ違いはあるでしょうが

住んで3回目の夏、そんなことを感じています。

ここだけの事かも知れませんが。

夏はまず ミ~ ンミンとかジィジィジィとかの

蝉の声が 暑さを上乗せするような印象が

街で住んでいた時の実感でしたね・・・

 

 

梅雨明けの区切りもはっきりしないまま

いつの間にか過ぎて もやもやと夏が始まりましたね。

今年の夏は雨が多くて スカッとしないようです。

迷走した台風5号も 何故そんなにゆっくりと進むのか。。。

被害の心配が増幅されます。

 

 

いつもなら押し寄せた若者たちの歓声や

モーターボートの爆音で賑わう夏の琵琶湖ですが

なんとはなしに天候不良が ちょっと邪魔しているようですね。

比較的その賑わいもまばらなようです。

 

夕方から夜へとバトンタッチされる時間帯に

また カナカナカナカナ カナカナカナカナ と

蜩がソロで鳴き ジィジィジィのバックコーラスを従えて

それは・・・

少しのもの悲しさが 尾を引いて

切なさをにじませていくようですよ。

 

この夏はやけに蜩の鳴き声が染み入りますね。


M女史のふるさとを通るとき

2017-07-31 09:27:25 | つれづれ

 

                                ☆ Mさんは強いブルーが一番似合う人でした

 

新潟経由の帰路で信号待ちの時

標識にある「 長岡 」の文字に 思い浮かんだ顔がありました。

M女史と呼ばれたその人は 確か長岡の出身でしたね。

大阪時代に 新規のシステム立ち上げのために

全国から立ち上げメンバーが招集されました。

システムを立ち上げ 機械や試薬、検査法などのレールをひいて

後続の若手メンバーに引き渡すのが仕事です。

その中に新潟から転勤してきた 私より一つ年上のMさんがいて

E部長によると 「仕事は出来るが性格が悪い よろしく頼むよ~ 」との事。

うーむ 他に言いようはないのかな・・・

個性的だとか、主張を貫くとか・・・

 

いざ仕事にかかると 確かに妥協を許さず仕事のきれる人でした。

でも、休み時間にはたばこをスパスパ

夜には食事代わりに居酒屋でひとり飲んでいるとの噂もあり

女傑だねと みな注目するようになり。。。

口癖は 「何故そんなことがまともに出来ないの? 」

仕事に甘えが出ようものなら こっぴどく叱責されていたので

怖いんですけど~ と訴えに来たりしていたものでした。

でも M女史は正しい! 決して間違ったことは言っていないのです。

後続の女子が「それはまだ習っていません」と言ったところ

「あなた 教えてもらうまでずっと待ってるの? 実習生じゃないでしょ

それで仕事になるの? 自分で学習して分からなかったら聞きに来なさい」

ピシャッと言われて その姿勢を叱られたと言う。

「仕事には厳しい人の方が為になるのよ Mさんのいいところを吸収したら? 」

相談されて そんな答え方をしていたけれど

私も仕事へのスタンスは完璧だと思いながら

後輩をそう急がずに育ててもらえないだろうか と思ったものです。

以来3年の約束で赴任したMさんは 

K氏や私たちと10年に渡って働くことになり

先に北区へと転勤の決まった私の送別会で

「少し話したいんだけど」 と・・・

「私ね、決してyuzuさんと親しくなりたくなかった訳じゃないのよ」

「ただ 仲良しこよしで仕事はしたくなかったし、群れるのも嫌だったから

なんだか疎遠みたいだったけど 一緒に仕事ができてよかったと思ってる」

「世代も同じだし 話が理解してもらえるのはyuzuさんだろうと思ってた」

宴会のみんなから少し離れたところで

Mさんがぽつぽつと話したのは

新潟の実家はもうすでに両親は亡くなっていて

お兄さんが継がれているとのこと。

「私は帰る家はもうなくてね、そんなのはいいのだけど・・」

「やっぱりいづれは 生まれ育った新潟がふるさとなんで帰りたいのよ」

思いがけない言葉でした。

Mさんが心をさらしたのは 初めてのことで そんな事思ってたんだ。

そんなことはスパッと切り捨てて わが道を行く人なのかと。。。

結婚もせず自分自身が頼りの人生だと言い笑います。

そっかあ・・・強い姿勢はそこから来ていたんですね。

手に職はあっても 悲しいかな男社会で能力を維持発揮するのは大変です。

多分その視線の先には ずっと先の老後の一人暮らしもとらえていたのでしょう。

「もっと早くにそんな話ができたら良かったですね」

「いやあ 今だから話せるのよ。それぞれの道で頑張りましょ」

 

あれから10年近くになりますか・・・

希望通り新潟に転勤したMさんは 今頃どうしているだろうか・・・

厳しい姿勢は崩さずに凛とした人だったけれど

この空の下で 今もこっぴどく後輩をしごいているだろうか・・・

 


がんばれ湖西線!!

2017-07-10 07:15:18 | つれづれ

 

出かけていた京都から帰ろうと

京都駅3番ホームに降りていくと

なにやら黒いラッピングをした電車が止まっていました。

ん??

間違いなく 次発車する湖西線の電車のようです。

「 忍電車 」

ほう~ ^-^

忍者と言えば伊賀、甲賀、根来・・じゃなかったっけ?・・

 

琵琶湖は大きく湖東と湖西に分けられて

平良山系から琵琶湖にかけて 土地の面積が少ない湖西は

もう手一杯状態で広がりようがなく

道路事情も161号1本に頼っていて 慢性的な渋滞が続きます。

片や湖東は東海道本線も走り、

広い土地面積を有して、様々新しい商業施設も出来

居住空間としても整備されたニュータウンが造られ

次々と新しく生まれ変わっています。

 

 

実際に滋賀県で暮らし始めてみると

少しずつ滋賀県の輪郭が見えてきました。

 

1時間に4本の新快速を走らせる湖東と違って

各駅停車がメインの湖西線は

北陸方面へ向かうサンダーバードも走ってはいるけれど

時間帯によっては乗客数もまばらだったりします。

 

 

そんな時に見かけたこの電車は

うんうん がんばれ~ 湖西線!! と

応援したくなるような浮き立つ気分になりましたね ^-^

 

 

 


MIHO MUSEUM  (滋賀県甲賀市信楽町)

2017-06-20 09:46:08 | つれづれ

 

 

 この宇宙空間のようなトンネルは・・・

滋賀県て面白いですね。

えっ こんなところにこんなものが・・・と

驚くような施設があったりするのですね。

ここは甲賀市信楽町の それこそ辺鄙な山の中に

忽然と姿を現す 「MIHO MUSEUM 」へのトンネルです。

 

 

 こちらが受付、入場券売り場やレストランなどがあるレセプション棟。

MIHO MUSEUM はこのレセプション棟と

トンネルなど抜けて500m程行った先の 美術館棟から成り立ちます。

 

 

 にしても このトンネルは柔らかい照明と

差し込む自然光のコラボで とても面白い表情があります。

 

 

 歩いて行くのが楽しくなって

乗り物で送迎もあるのですが ここは歩く人が多いようですね。

 

 

トンネルを抜けると、向こうに美術館棟が見えてきます。 

どうしてこんなところに美術館をと

考えついたのでしょうね。

 

 

 ここはルーブル美術館のガラスのピラミッドを設計した

世界的建築家 I.M.ベイ氏による設計だということです。

 

 

 

ふんだんにガラスを取り入れた明るい設計ですね。 

入口はコンパクトですが

中は広大なスペースが広がっています。

 

 

 中も明るくて個性的・・・

 

 

 エジプト館、撮影は内部はNGなので外から

 

 

 喫茶コーナー 

 

 

 今回はガラスの展示でしたが

江戸時代あたりから器や装飾品などに 

幅広くガラスが使われたようですね。感嘆しきり !!

 

 

 帰りもまた歩きましたが 全く苦ではなく

楽しい道のりです。

近くには茅葺の「しがらきの里」もあり

大人の半日ぶらりにはもってこいですね。

 

受付からトンネルまでの道のりには

春には両側に見事な桜並木がピンクに染まり

それはまた美しい景観のようです ^-^

 


ルーツを見つめて

2017-06-13 18:38:41 | つれづれ

 

 

 

6月18日は亡き母の命日。

みんなで休みを調整して 一緒にお墓参りが出来ましたよ。

私はひとり遠く離れてしまったので 今は車で4時間近くかかってしまいます。

妹やこうちゃんたちとは お寺さんへの道中の

20キロほど手前にある 道の駅で待ち合わせることに・・・

7時前に出たら、予定通り10時半には着きました。

今回は父方、母方両方のご先祖さまにも挨拶しようと

備える花を買うと もう両手で抱えるほどいっぱいに (笑)

ほどなく無事合流して まずは命日の母の所へ。

「お母さん来たよ~ 」

妹が話しかけながら墓石を磨いて

こうちゃんが洗い流しています。

ここには父も、母よりも先に逝ってしまった兄も眠っています。

以前の墓所が 土砂崩れや動物被害の危険が増えたので 

母の埋葬を機に お寺さん境内に移しお墓も新しくなりました。

後継ぎが途切れてしまうので、永代供養のお願いも済ませましたよ。

私もこれで役目が果たなあとホッとしています。

すぐ近くに新しい塔婆が立っていて

最近どなたかが亡くなったんだな・・・

お花を立てると あたりがパッと明るくなって

「よかったね~ 賑やかでいいでしょ」

相変わらず妹が話しかけていて

手を合わせていた私に

「なにを長くおがんでいたの??」

「なかなか来られないからまとめて報告よ」

次いで父方のご先祖様様のお墓へ。

ダムの周囲をぐるりと半周したところにそれはあり

山深い里から 街へと移っていった子孫たちが

なかなか帰ってこられない様子がひと目で窺えます。

近くへと街に移されたお墓も少なくないのでしょうね。

「おばちゃん ここは何代前位からなの? 」

「さあ 先祖代々だからねぇ。ほら墓石に家紋が刻んであるでしょ」

「不思議なんだけど〇に十の字は 薩摩の島津家の紋なのよね」

「お父さんの方は源氏の子孫で、お母さんは平家の子孫という

古い家系図や鎧、刀、槍なんかが双方に残されていてね、

島津家の家紋とどうして一緒なのかは不明なのよ」

「ふーん 僕らはおじいちゃんくらいしか遡って知らないもんね」

「良く知っている人で ひいおじいちゃんまでかなぁ」

「戸籍は150年位保管されるそうよ」 と妹。

「どっちにしても おじいちゃんがいて そのまたおじいちゃんがいて

そのまた顔もしらないご先祖がいることで 今の私たちに続くのね」

命の継承ってほんとにすごいことだ・・・

 

 

 

私や妹にとっては

ふるさとは 幼少期や青春時代を過ごした

「赤とんぼ」の小さな城下町だけれど 

父や母にとっては この山深い里がふるさとなんですね。

もうお寺さんくらいしか知る人も 住む人も少なくなったそこは

歴史から置き去りにされる日が近いかもしれない・・・

それはいつでも来られるほど近い方がありがたいけれど

 

でも私たちのルーツがそこである限り

お墓参りには出来るだけ来なくちゃと 思うことでしたよ。^-^