和貴の『 以 和 為 貴 』

『和』とは

日本を『和の国』と呼ぶ人がいる。和の心を受け継ぎし民が集う国、それが日本という観点からである。

「和」、現代人にわかりやすくいえば、和(ナゴ)む・平和である。

「平和を大切にする国、日本」
なるほどであるが、何かしら物足りなさを感じないだろうか。


平和は尊いものである。戦争も争いもない世界はまさにユートピア「楽園」そのものだ 。

そう、人間がこの地上にいなければ、それは実現できよう。

しかし、人間は自他共に私心があり、感情がある。

そうした私心や感情がある限り、争いは絶えることもなく、人間がこの世に存在する限りユートピア(楽園)など有り得ないのだ。


では、争いの元になる私心や感情を捨てれば済む話かと言えば、それはそれで寂しい話しだ。

あなたがもし、「私心や感情を捨てなさい。」と言われたらどう感じるだろう?


人間は生まれもっての私心や感情を持ち、それは「愛」となり「憎」となる。

そして「喜怒哀楽」のように泣いたり笑ったりすることが出来る。

しかし、それら一切を捨てて、私心や感情を持たない人間になるとは、まさにロボットそのものである。

「捨てなさい」と言われることは「ロボットになりなさい」と言われてるのと同意語なのだ。


生まれながらにもった私心や感情を保ちつつ、世界の中で人間が人間らしく永く繁栄出来るためにと、世界ではあらゆる宗教を発達させてきた。

西欧ではユダヤ教・キリスト教・イスラム教、中央アジアでは仏教・ヒンドゥー教、その他地域では自然崇拝など、しかしそれら宗教は、戦争に利用されることになった。

さらに科学の発達も例外ではないが、これも戦争に利用されてきた。

わが国では米国に原子爆弾を広島・長崎に投下され、科学の発達による犠牲者としては世界随一である。

にも関わらず、宗教や科学の発達から抜け出せないでいるのは何故なのか?


それは人間の心の弱みであるからだ・・・。
(今回はこれ以上宗教と科学の話はしない。)

わが国も古来、宗教対立的なものがあった。日本古来の神道と、外来仏教の対立である。

そして時の権力者(蘇我氏と物部氏)は争い、独裁政治を許してしまった。それを阻止したのが、現代人ではあまり関心の少なくなったであろう『聖徳太子』である。

太子は、冠位十二階と憲法十七条を制定することにより、日本国の礎を内外に知らしめようとした。

さらに太子のいう「和」とは、平和国家の樹立を目指そうとするものではなく、一人びとりが「和」を重んじ律し生きよ。ということであるが、結果、わが国における宗教対立的なものを防ぐことに成功したのだ。

こうした太子の業績は、後の世の人たちに大切に守られ、私たち日本人の「和」の心として生き続いてきたのであるが、戦前の世まで、国民的スターだった聖徳太子ではあるが、敗戦後は織田信長や坂本龍馬や新撰組などよりも、その関心度は低いものとなってしまった。

話がかなり横道に逸れてしまったが、「和」をひとことで説明することは出来ない。

「和」を重んじ生きる姿勢こそが、人間がこの地球の大自然の中で永く繁栄出来ることであり、それが「大和」の心となり、平和な世を成就出来る道、即ち『道理・真理』となるのだ。

この道理・真理を示した憲法十七条、そして冠位十二階をもっと多くの現代人に知ってほしいと願わずにはいられない。

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