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金田隆の地方自治政策研究ノート

定年近くになって無性に学びたくなりました。そこで在職中に大学院に入学。このブログは私の勉強のノートです。

永田ミユキさんの戦争体験記

2013-09-20 11:41:41 | 戦争
この体験記は大津町在住の永田ミユキさんが、お孫さんが通学する小学校担任の先生に依頼されて子ども達の前で講話をするためにまとめられた文章をご本人の了解を得て紹介するものです。半世紀近くになるのでしょうか、私が中学生の頃、来客の永田さんが自宅で父に話されていた戦争体験「人間は、飢餓でいよいよとなると子どもではなく牛や馬がそうするように大人が先に食べるようになる。」という話を印象深く覚えています。飢餓のアフリカでは子どもたちの犠牲が目立ちますが、私は人間の極限の状況での子孫延命の本能と理解していましたがどうなのでしょうか。

私の戦争体験記 
                          熊本県菊池郡大津町
                              永田ミユキ
世界に戦争が起こらない事を祈って
 皆さんこんにちは、私は、この学校から東へ13Kほど離れた、大津町から参りました。永田ミユキです。
 実は私の孫がS先生のクラスに在学しています関係から、教頭先生、S先生のご依頼によって、私が64年前に体験した戦争体験を、皆様方にその真実を、戦争の悲惨さを、苦しさをお伝えする事によって、戦争で亡くなられた方達に対する供養と共に、何時までも日本が平和で、世界に戦争が起こらない事を祈って、本日出席させて頂きました。
 フイリッピンでの戦争体験
 私が戦争体験した所は太平洋上にあるフイリッピンという国の、ミンダナオ島という所です。島全体の広さは日本と比べ同じ位でしょうか。私には解かりかねます。只、フイリッピンは7000からの島がございます。その内、人間が住んでいる島は4,000位であとの3000は無人島だと言うことです。
 今から87年前、私の両親は、安住の地を求め、フイリッピンに移住したのだろうと思います。父は鉄工所に勤め、母はハワイで生まれ育った経緯もあって英語が堪能でしたので、フイリッピンでは通訳をしていたそうです。私が物心ついた時は、綱やロープ等の材料となる麻を栽培し、その仕事に携わっていました。
 捕虜からの解放と民兵を虐殺
 昭和16年12月8日大東亜戦争が始まり、その時は民兵の手によって捕虜として収容させられたのです。この時、私は6才になっていました。12月20日、日本軍が上陸し、「日本の兵隊さんだ、バンザイ バンザイ‼」と喜びの喚声が上がったのを良く覚えています。今度は日本人が解放され、民兵が捕虜となったのです。それから3日ぐらい経ってからでしょうか、忘れもしません。「アレはなんだろう!」と人ごみを押し分け、前の方に出た私は立ち竦んでしまったのです。頭から血だらけの民兵が柱に縛り付けられていたのです。日本兵が急所を外し、銃で撃ったり、最後には死んで、土の中に埋められてしまいました。捕虜となったこの民兵は3人で脱走を企て、日本兵に見つかり2人は銃で射殺され、1人は見せしめの為か、それとも面白半分だったのか。6歳だった私はこの光景を見、戦争をどう思ったのか、そしてこの虐殺をどう見たのか、それは定かではないのです。唯、可哀相にと思ったことは良く覚えています。私の母が「可哀相に」と呟いた事が日本兵に聞こえ、「非国民」と怒鳴りつけられた事も良く覚えています。
 ジャングルでの彷徨
 昭和20年、大東亜戦争末期の頃、私はおさげ髪の小学校4年生でした。フイリッピンも愈々激戦地となり、上の兄は軍属に招集され、両親と6年生の兄、1年生の弟、2歳の弟、それに4年生の私。妹は昭和17年3月に病気のため、収容先で充分な手当ても受けられず死んで逝きました。
 昭和20年5月頃、私たちの居住地にもB29(爆撃機)が飛んでくるようになり、私たちは軍の命令によりタモガンという山中に逃げ込みました。日本人の殆どがこの山中に逃げ込み、そしてジャングルでの彷徨が始まったのです。良かれと思って逃げ込んだこのタモガンのジャングルに攻撃が始まったのです。
 毎日続く艦砲射撃と、爆撃機の襲来
 毎日B29の襲来に泣き叫ぶ幼児たち。ときどき偵察に観測機が飛んでくる。観測機が通った後には艦砲射撃の弾が一斉に飛んでくるのです。この観測機には子供の泣く声、それより時計の針の音さえ聞こえると聞かされていました。観測機が飛んでくると、私は急いで爪の伸びた手で2歳の弟の口を塞ぐ、爪が皮膚にぬかり血がにじみ、弟はその痛さに泣き、何時も顔は傷だらけでした。
 昼も夜も容赦なく飛んでくるのが迫撃砲の弾です。空からは毎日爆撃機の襲来です。空からと陸からの攻撃に正気の沙汰をなくし、包丁で切腹する人、又、幼い子供たちや病気や怪我をして歩けなくなった人たちを置き去りにして逃げる人。歩くことの出来ない者は其の儘そこで死んで行かなければならないのです。
 校長先生家族の死と先生の悲惨な最期 
 暫く避難していた小屋から次の避難小屋に移動する為、翌朝出発の準備をしたとき、私たちが通った、日本人小学校の校長先生の家族が避難小屋を探していらっしゃったので、「先生、ここに入って下さい。私たちは明朝出発のつもりでしたが、これから出発いたします。」と、入れ替わり夕方5時頃(定かではない)出発したのです。次の避難小屋まで2日位は掛かります。途中は野宿です。出発して20分足らずの出来事です。小屋の前に砲弾が落ち、私たちと入れ替わった校長先生一家(奥様と子供たち)3人と小屋に残っていた人たちは小屋もろとも吹き飛んでしまいました。先生は荷物を取りにあと返り助かったのですが、私たちが親切めかしたばかりに、私たちが助かり先生の家族を死なせてしまいました。私たちは先生の家族の犠牲のうえに生き延びたようなものです。それからの先生は家族の遺品をしっかりと抱き、ジャングルの奥へと逃げる途中、病気と飢えで動けなくなってしまわれ、動けなくなった先生の上着、ズボンを日本兵がはぎとり、先生を丸裸にしてしまい、その悲惨な出来事を知人は見ていても、どうすることも出来なかったそうです。
 逃げる途中の夜の出来事
 それから、どれくらい経ってからでしょうか、逃げる途中の夜の出来事です。砲弾が近距離に落ち、その爆風で吹き飛ばされそうになり、やがて爆破した破片がバラバラ落ちてくるのです。私が立ち止ったと同時に破片が足元にドスン!と、もし前進していたら頭にグサリ!とでも…..。
 何処からともなく焦げ付くような臭いがしてくると思えば、弾に直撃され黒焦げになった死体があるのです。初めは団体で行動していた私たちは、持っていた食糧を分配して単独行動と変わりました。
 悲惨な極限の姿、日本兵の蛮行
 またこんな出来事もありました。今日少し食べ、明日に残していた食べ物を夜寝ている間に全部取られてしまいました。近辺に逗留している日本兵の仕業です。母は、すぐ兵隊の所に行き、「食べ物を返してください」と頼んでも「知らん」との返事。母は「では鍋は返して下さい」と頼んだら、今度は銃を突きつけられました。隊長らしき人の「鍋は返せ」と言う声に、鍋は返してもらいましたが、日本兵が、民間人の食糧を取り上げたり、着ている服を剥いだり、今になって考えると、本当に情けなく思いますが、自分自身が生き延びるためには仕方がなかったのでしょうか。そして、これが戦争と言う異常な人間の生きるための悲惨な極限の姿と言う,惨い世界なのでしょうか。
ジャングルの奥の地獄絵図
私たちは、ジャングルの奥へ奥へと逃げ込み、空襲と砲弾の音から逃れることはできたのですが、今度は、それ以上に苦しめるものは、食糧がいよいよ無くなり、とにかく毒草以外は食べつくしました。6年生の兄がおたまじゃくしを捕まえてきて、「これ!旨かろうナ…..」と。
又、ある日山猫が一匹。今夜は猫にあり付こうと何人かは死に物狂いで猫を追っかける。猫も又、死に物狂いで逃げて行ってしまいました。衰弱している体では、到底猫に追いつくことは無理だったのです。
 明日へ生き延びる、それを繋ぐもの(食べる物)も無くなり、次々と餓死して逝く人が多くなりました。その死骸を埋葬してやる元気は、生きている者にはありません。土に埋まる事無く、その死骸には銀蠅が群がり、3日も経ちますと目から鼻から蛆虫が出たり入ったりして、何日も経たずに蛆虫たちは丸々と太り白骨化させていくのです。私は、この地獄絵図を忘れることは出来ません。いや、忘れてはいけないのです。
 置き去りにされた子ども達
それからどれ位経ってからでしょうか、幼い子供に出会ったのです。この幼い子どもは近所に住む知人の子どもでした。私は、「H子ちゃんどうしたの?ひとりネ?」と尋ねますと、H子ちゃん曰く「M子もいっしょヨ M子はあっちに寝ているヨ」私は更に「母ちゃんは?」と聞きますと、「かあちゃんは、バナナを取ってきてやるから、ここにいるのヨ」って。そう言って3歳のH子ちゃんと1歳のM子ちゃんを置いて去って行ったのだと思います。そして何時まで経っても帰って来ない母親を探しにジャングルをさ迷い、私たちと出会ったのだと思います。その夜、私の母は2歳のわが子を右腕に、H子ちゃんを左腕にしっかりと抱いて寝たのです。連れて行くことの出来ないH子ちゃんへの精一杯の気持ちだったと思います。1歳のM子ちゃんは、置き去りにされたそこら近辺を這い回り母親を探したと思います。
 もうこの時は、私の父は病身で自分の体一つがやっとでした。母は大きな荷物を背負い、首からは妹の骨箱をぶらさげ、6年生の兄も1年生の弟もそれぞれの荷物を背負い、私は2歳の弟を背負い誰もがH子ちゃんを背負って行く事が出来なかったのです。それと我が身も何時までの命か、何時果てるか判らず、黙って見送る3歳のH子ちゃんに心を残しながら、その場を去って行きました。
 私の孫が(葵)3歳に差しかかった頃、時々孫の顔とH子ちゃんの顔を重ねてしまい、あの時どんな気持ちで私たちを見送ったのだろうか、付いていくと迷惑をかけると思ったのか、それとも母親が迎えに来てくれるのを待っていたのか、あの3歳の幼い子にそんな事を思う力があったろうか、などと当時を思う時、胸が痛み涙するのです。
 築き上げた麻山で終えた53歳の父の生涯
H子ちゃんと別れてから、今度は食糧を求めてジャングルを出て我が家の方向に進みました。あと一山超えると我が家の麻山に辿り着くという所で、父がいよいよ歩けなくなり、父は、「もう自分は駄目だ‼自分の土地で死にたい」と。母のいとこに当る人に頼み、父を背負ってもらい我が麻山に辿りつき、安心したのか2日後(9月3日)自分で築き上げた麻山で53歳の生涯を閉じたのです。
 終戦と父の指、弟の死
 それから10日位経ってからでしょうか。終戦(敗戦)の声を聞いたのは。1台のジープが山中を「ニホンノミナサン、センソウハオワリマシタ。ニホンハマケマシタ。ハヤクデテキテクダサイ」と日本語で、呼びかけてきます。母は、「日本は全滅しても絶対降伏はしない筈だ‼」と言い、「米軍に会って確かめてくる」と英語の堪能な気の強い母は、1人で米軍に会いに行きました。何時まで経っても帰って来ない母を心配していた矢先に戻って来た母は、今度は父の墓を掘り始め、「爪と髪の毛だけでは日本の兄姉に対して済まない、指を持って帰る」と合掌していた父の指を一本一本はずし、指を切り取ろうとしたのですが、家族の者たちは誰もできませんでした。宮城県出身の方が「私が切り取ってあげましょう」といわれ切り取ってくれました。確か中指と薬指だったと思います。指を火葬して、そして父の墓に「お父さん必ず迎えに来ます」と約束して、翌日迎えに来たジープに乗り、米軍の収容所にと下り、1週間位経ってから衰弱し切っていた弟も2歳で死んで行きました。
 帰国後10日目の母の死そして兄も
 強制送還で引き揚げ船に乗せられ、引き揚げ船の甲板から遠ざかる生まれ故郷に別れを告げ、10月の末に広島に上陸致しました。そこで冬服と下駄を渡され、下駄が重くて裸足で両親の故郷まで帰って行った事を思い出します。故郷に20数年ぶりに帰って来た母は、翌日急いで父と弟妹の葬式をさせて貰い、その夜床に伏し衰弱し切った母は、安心したのか帰り着いて10日目に母もとうとうこの世を去ったのです。
 残された私たち子供たちは身内に一人ずつ引き取られ、育てられました。6年生だった兄も中学生になってから、とうとう元気になれず、母の後を追うように死んで逝ったのです。「寒い」と言っては泣き、「お母さん」と言っては泣く1年生の弟を見ては、私も「お母さん何故死んだ」と墓前に泣き崩れた日も幾度あったでしょうか。世間の皆様にご迷惑をかけ、お世話になりながら、強く生きることを学び、何時しか60数年の歳月が経ちました。
 フイリッピンへ墓参
 昭和58年、父との約束を果たすその時がやってきたのです。当時軍属に招集されていた兄、1年生だった弟、4年生だった私と、生き残った3人で、フイリッピンへ墓参団の一員に加えて戴き生まれ故郷へと。そして一人寂しく麻山に眠る父の所へと急ぎます。
 戦後初めて訪れる我が家は影も形も無く、荒れ放題に荒れて、38年という過ぎ去った歳月を物語っていました。当時逃げ込んだタモガンの山中、千古斧鉞(せんこふえつ・大昔から斧や鉞が入ったことがない」という意味・金田付記)を知らずのあのジャングル、何千人いや何万人もの命を呑み込んだあの原生林の大木は、今はいずこに? 激戦地だったタモガンの山々も地肌を見せ、今は裸の山となり慰霊碑が建てられていました。語る言葉もありませんでした。私たちは、唯々合掌し跪くのみでした。
 現地の日系人(先輩)の人たち数人のご協力を得て、無事に父の遺骨は39回忌の命日に間に合うよう持ち帰ることが出来ました。父の遺骨は、母の許に埋葬してあげることが出来、長年の父との約束を果たし、安堵した気持ちで父の御霊に「おとうさん、今度こそは安らかにお眠りください」と供養をすませることが出来ました。
 勝者と敗者、戦争の犠牲となり、とうとう生きて帰ることの出来なかった、校長先生のため、又、同朋の方々のために、私は、経済の許される限り現地へのお墓参りを続けることが、それが生きてい帰った者の務めでもあると思います。
 父の遺骨収容後、数えて10回の墓参団に参加し、現地の方々の温かい人間愛に支えられながら、墓参を重ねることが出来ました。又、国内にあってはダバオ会が組織され、関係者の方々との交流が進み、その事は私にとって深くて強い絆となり、何時の間にか会の事務局を担当させて戴き、高齢化される会員の方々のお力になればと、これは私の生きがいとなっています。
 戦争の現実を風化させてはならない
 戦争との遭遇により、波乱万丈の体験は、今は過ぎし人生のドラマと風化するかもしれません。然し、この現実を風化させてはなりません。このことが、ふる里の平和を守る総てであると信じている私であるからです。
 戦争を起こしてはならない。してもならない。
 再び起こらないことを祈る毎日です。

 差別のない、いじめもない、明るいT小学校であることを信じ、学校ご当局のご配慮に感謝申し上げ、拙い私の戦争体験発表を終わらせて頂きます。
 ありがとうございました。

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