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遊去のブログ

ギター&朗読の活動紹介でしたが、現在休止中。今は徒然草化しています。

「魔の山」を読む

2016-06-19 08:30:46 | ぼやき・つぶやき・ひとりごと
 トーマス・マンの「魔の山」は40年くらいうちの本棚にあります。岩波文庫で全4冊。学生時代に古本屋の棚で見かけて買いました。何かで、北杜夫氏がトーマス・マンに惚れ込んでいるという話を聞いたのですが、聞き違いかもしれません。トーマス・マンという名前はそのとき初めて知りました。北杜夫氏の小説は読んでいなかったのですが、「どくとるマンボウ」で氏の名前だけは知っていました。そんな有名な人に影響を与えるトーマス・マンとはどんな人だろうと思っていたときに、たまたまこの本を見かけたのでした。帯には「マン中期の代表作であるこの大長編は、“ファウスト”、“ツアラツストラ”と並んでドイツが世界に送った偉大なる人生の書といえよう」と書かれています。そのころの私は人生をどう生きればいいかを模索していたので、これを読めば何かつかめるかも知れないと思いました。
 40年も前のことなのでよく覚えていませんが、長い説明が多く、ごく日常的な会話が延々と続くばかりで全くおもしろくありません。「サナトリウム」って何だろうと思いました。私にとっては異世界の話で、勝手が違うという印象でした。この先に何か意味のあることがあるのだろうかと思いました。言いたいことがあるならもっと手っ取り早く言ってくれという気分でいらいらしてきます。こんなペースにはとても付き合っていられないと思い、中断しました。
 その本を再び読み始めたのは去年です。きっかけは村上春樹著の「ノルウェーの森」を読んだことでした。ノーベル賞の発表が近づいてくるとよく村上春樹氏の名前が出て来ます。私は氏の作品を読んだことはありませんでしたが、ただ外国人がよく「村上春樹」の名前を口にすることは聞いていました。それで学校の図書館に行ったとき、村上春樹の作品を読んでみたいのだけれど…という話をすると、紹介してくれたのが「ノルウェーの森」でした。
 数ページ読んで気付きました。外国文学の翻訳を読んでいるみたいです。『な~るほど』と思いました。この人は英語かフランス語か、とにかく外国語で考えているなと思いました。それを翻訳する形で日本語にしているのではないかという気がします。それで外国人にとっては読みやすいのでしょう。
 1ヶ月間借りられるので2度読みました。おもしろかったからではありません。それまで自分の気付いていなかった世界のあることをこの小説で知ったからです。「心の病」というものがあることは知っていましたが、これまではそれを「外から見る形」で知っていただけだったということが分かりました。それを内側から眺めたら外の世界がどのように見えるかということは考えたこともありませんでした。そういうことだったのか思いました。
 この小説の中に、主人公が「魔の山」を読みふける場面が出て来ます。「魔の山」に関しては、私には<読みふける>などということは考えられませんでした。自転車で長く緩い坂道を漕ぎ上っているときのように次第に息切れがしてきて、いつ止めようかとそのタイミングばかりを探っている感じだったので、<読みふける>という表現に自分が何か大切な物を忘れてきたのではないかという気がしてきたのです。それで40年ぶりに「魔の山」を本棚から取り出しました。
 読み始めてすぐに40年前の気分を思い出しました。だいたい「魔」という文字が問題です。全部読んだ後ならどうしてこのようなタイトルを付けたかの意味もわかりますが、タイトルに引かれてこの本を手に取り読み始めた人にとっては、いつまで経っても「魔」の出てこないこの小説は「やってられない」という気分が募るばかりです。
 私は、4年ほど前から市の図書館を利用するようになりました。それまでは学校の図書館を利用していたので多少融通が利きます。市の図書館を利用するようになって「返却期限」というものの持つもう一つの意味を知るようになりました。その日になるとその本は家から消えることになるので、おもしろくなくても、よくわからなくても、とにかくその日までに隅から隅まで目を通すようになったのです。そのおかげでどんな本でも必ず読み通すようになったのですが、それでも今回は勝手が違いました。膨大な文字、それはまさに活字の海です。こんなにたくさんの言葉を使って語っているにも拘らず、私の心に響いてくるものはあまりありません。文章は文法的には成立していますが、その意味を、あえて立ち止まって解釈してみても、図式としては捉えられますが、それには実感が伴いません。気分は空虚になるばかりです。膨大な言葉の無駄遣い、そんな言葉が心の中を駆け巡ります。私も時間を無駄にしたくないという気持ちが募り、ついに2冊目の途中で本を開けなくなりました。

 今年の1月の半ばから浄化槽の工事が始まりました。そして2月に入りトイレが洋式になりました。私は洋式トイレは苦手です。これまでの人生の中で数回しか使ったことがありません。それで、使い方を知らない道具を渡された時のようにどうしていいかわかりませんでした。まだ残っている感じがしてすっきりしないのです。『仕方がない、出るまで待つか』ということで本を持ち込むことにしました。
 幸いにして今回の工事でトイレに不潔感はなくなりました。とはいえ、大切な本をトイレに持ち込むことはためらわれます。そこで候補に挙がったのが読みかけのままになっていた「魔の山」でした。
短い時間でも毎日読むことには意味があったのだと初めて知りました。というのは、以前、ある高校で1限目の授業の前に、10分間、「読書の時間」を作っていたのですが、そのとき私は、こんな短い時間で、ぶつ切りで読んでも…、と思ったのです。読書の習慣をつけさせるということだろうと思いましたが、そのときには「毎日」ということの威力に気付きませんでした。
 トイレ読書で「魔の山」は再び動き出しました。しかし、おもしろくはありません。喜びはただ一つ、ページが進んでいくことだけです。それなら止めたらいいようなものですが、最後までそうなのかは終わりまで目を通さなければわかりません。興味を引かれた箇所もいくつかはあります。主人公のハンス・カストルプが、死を間近に控えた患者のところに花を届けるという活動を始めたところもその一つです。一種異様な印象を受けました。確かに、青年期ならそういうことを思いつき、そこに意味を見出すこともありうることでしょう。作者のマンは、この出来事をハンスの精神的な成長過程に必要なことと考えて挟んだのか、それとも、ふと思いついて挟んだのか、もしこの場面がなければ小説あるいはハンス青年の色調が変化してしまうのか、そのあたりのことはわかりませんが、自分の青年期の「ふわふわした気分」を思い出しました。
 セテムブリーニ氏とナフタ氏の論争もそうです。両氏はありったけの用語を駆使して議論を展開します。ハンス青年は2人の論争を聞きながら時々口を挟みますが、私はそれを読みながら、工科大学を終えたばかりの青年に、怒涛のようにぶつかり合い、溢れ渦巻く言葉の流れが理解できるものだろうかと思いました。しかし、考えてみれば自分もそうだったかもしれません。難解なものが立派に見えて、そんな言葉を使いこなせるようになりたいと思ったときがあったのですから。今はそれが青年期なのかもしれないと思います。
 セテムブリーニ=ナフタ論争の結末は意外でした。これは私にもさすがにショックでした。だけど『なるほど』と納得できるものでもありました。そして、すぐにすべては第一次大戦に飲み込まれていって物語は終わり、私の「魔の山」も終わりました。
 読み終えて思いました。最初に読みかけた青年期では、たとえ最後まで読んだとしても、そのときの私にはこの小説を受け止めるだけの力はなかったでしょう。だから中断したのです。今も、この小説が、帯に書かれているような「偉大なる人生の書」であるかどうかわかりません。ただ、40年間、ちらちらと気になりながら、今、機会を得て読むことになったということには味があると思います。日記をみると、この本を読み終えたのは4月5日でした。そして、5月1日には「リンの話」を書き出しています。リンは私が最初に飼った犬の名前ですが、この話を書くということは自分の人生を整理する作業を始めることでもあるからです。これまで何度もやろうとしたのですが、書き出しても続けることができず、どれもが途中で止まってしまっています。それが動き出したということはようやく機が熟したということでしょう。自分が人生でお世話になった人や物の話が中心ですが、それを書くことで自ずと精神的な身辺整理ができていくのではないかと思います。
 トイレ読書は今、ドストエフスキーになりました。ドストエフスキーは十代の終わりから数年間に亘って読みました。「魔の山」同様、読めば何かつかめるのではないかと思って読んだのです。その頃は、人生には答があると思っていたようです。それを先に知りたいということだったのかもしれません。それが青年期というものなのでしょうか。昔、「薬」として読んだものが、今は「小説」として読めるようになりました。長く生きるということにはいいこともあるなと思います。
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