こちらに引っ越しました。まだ使い方が分からず、とりあえずこの記事を投稿しただけです。どうなるのかさっぱり分かりません。
yukyo-h’s diary
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これは冨田勲氏の本の題名です。最近読みました。冨田勲というとシンセサイザーとの関係が連想されますが、この本を読んでこの人はとんでもない根気と体力のあった人だったことが分かりました。やはり何でも物事をやり遂げる人というのは気力が充実しているようだと思いました。夢中になれるということは才能です。
本人の話はテレビやラジオのトーク番組などで何度か聞いたことがありましたが、殆どが断片的な話題で全体像をつかむことは出来ませんでした。この本で、今回ようやく人間像に触れられた気がします。
私は、この数年、日常的に、カセットテープに録音した「日曜喫茶室(FM放送)」を聞いています。かなり傷みの出ているものもあり、もう聞けなくなるのではという思いから、いつもこれが最後というつもりで聴いています。2004年4月11日放送の回は「音に魅せられた男たち」というテーマで、冨田勲氏がゲストでした。そのときにこの本を出版したという話を聞いたのです。図書館に行くとそこにはなく他の図書館から借りてもらうことなりました。図書館の相互貸借では延長はできず2週間しか借りられません。私はいつも2回読むことにしているのでぎりぎりでした。
冨田勲氏については「きょうの料理」のテーマ曲の作曲者であることやシンセサイザーを使って作曲や編曲をしているということくらいしか知りませんでした。音楽の世界では特異な立場にいる感じがしていて、氏の編曲作品は面白いと思うと同時に改めて原曲の良さを強く感じました。
この人はストラビンスキーの「春の祭典」にショックを受けたそうです。手元に本がないので確かめられませんが高校生のときではなかったかと思います。そしてその楽譜を買っています。この本の出版時の値段に換算すると「9万円」くらいの値段になるそうで、当然自分では買えません。親に頼み込んで出してもらったそうですが、この辺りで普通の感覚ではないことが分かります。何カ月も待ってやっと届いた楽譜を見て唖然としたようです。オーケストラには移調楽器がたくさん含まれているので実際に出る音は楽譜に書かれている音とは違うため全部ハ調に書き直したそうです。だけどそれでオーケストレーションがかなり分かるようになったといいます。終戦時は中学生で音楽的には殆ど素人なのにそこまでやるとは何という根性だろうと思いました。だからモーグシンセサイザーを買ったときにも格闘できたのでしょう。
「春の祭典」と言えば、私も二十歳頃、オーディオマニアの友人の家でこの曲を聞いた時、衝撃を受けました。それで語学学習用のカセットテープレコーダーしかなかったのにミュージックテープ買ったてしまいました。ズビン・メータ指揮のロスアンゼルスフィルで2300円でした。その頃のアルバイトの日給は千円くらいです。これが初めて買ったミュージックテープで、今もあります。その友人が「こちらで聴いた方がいい」と言うので、彼の持っていたティアックのカセットデッキを売ってもらい、ずっとヘッドフォンで聴いていました。再生してみたら50年以上の前のものなのにきちんと音が出ました。そして『ああ、あの時の音だ』と思いました。若い時の記憶は凄いですね。
同じ頃、ラジオでビラ・ロボスの12の練習曲を聴いたとき、特に第1番にもショックを受けました。それまでのギターのイメージがひっくり返ってしまいました。すぐ楽器屋に行き楽譜を買いました。1800円だったと思います。楽譜を開けてみて、これがどうしてあんな音になるのかと思いました。曲を間違えたのではないかと思いました。楽譜を買ったら弾けるものと考えていたようで、自分は甘いなと今も思います。とはいえ、今も練習しているので、諦めない限りコスパは極めていいようです。まあ、終わりのない世界ですから。
観衆8万人というドナウ川でのコンサートの模様はNHK特集で見ました。そのときの印象は「どうしてこんなことをするのだろう」というものでした。私は基本的に大規模なものは苦手です。人が大勢集まるところには行きません。どちらかというと誰も行かないところばかり探しています。番組を見たときにはシンセサイザーを使うとそちらの方向へ進むのかなと思いました。馬鹿げているという感じで全く興味は湧きませんでした。私が好きなのは耳を澄ますことだからです。
この本を読んで、どうしてそうなるのかということが自分なりに分かった気がしています。モノラル、ステレオ、サラウンドと進んで行くと音響に包まれることに快感を覚えるようになるのでしょう。オーディオマニアの友人たちを見ていると音楽ではなく<音響>を楽しんでいるように思えます。莫大な金額を注ぎ込んで機器の性能を楽しんでいるように見えます。それがマニアなのでしょう。
「源氏物語幻想交響絵巻」の中では、生霊の音を会場内で動かしてみたそうで、この辺りの楽しみ方は「子供」だなと思いました。考えてみれば、私はサラウンドを体験したことはありません。一度聴いてみれば私もその世界にハマる可能性はあります。
冨田勲は太平洋戦争末期に岡崎で艦載機の機銃掃射を受けた経験があるようで、グラマンとゼロ戦のエンジン音の違いを聞き分けることができないとダメだったと書いています。戦闘機を見てから逃げたのでは遅いのです。戦闘機が低空飛行で山を越えてくるとき、見える前にその音でグラマンかどうかの判断をし、敵機なら竹藪に逃げ込んだそうです。私も一度ゼロ戦が飛んでくるのを見たことがありますが、飛んでくるはずの方の空を見ていても殆ど見えません。「あっ」と気付いてからは、おそらく10mも走る時間はないなと思いました。先日、図書館で戦時中の体験談の展示があり、読みました。地元の女性で、17歳のとき戦闘機の機銃掃射を受けたそうです。この辺りは平野なので隠れるところがありません。何度も旋回して戻り、執拗に撃ってきたと書いていました。そのときパイロットの顔がはっきり見え、にやにやしていたそうで、殺すことを楽しんでいると思ったそうです。
冨田勲はどうも音への研ぎ澄まし方が尋常ではないようで、音楽を作るとき既に存在する楽器を使わなければならないことに不満を持っていたようです。学生のときにそのことを音楽仲間に話したが誰もそう思うものはいなかったと言っています。バイオリンやフルートなどを使って音楽を作るのではなくもっと違う音が欲しいと思ったそうです。新しい楽器を発明する人はこういうことを考えるのだろうと思いますが、シンセサイザーはまさにこれをシミュレーションできるわけで、冨田氏が飛びついたのは分かりますが、海のものとも山のものとも知れないものに、借金して2000万円も注ぎ込むとはやはり尋常ではないでしょう。
「モーグシンセサイザーを操作して初めて気がついたのは、人間は自分も含めて、日常耳にしている音から遊離した、まったく聴いたことのない音はたんに雑音としか聞こえず、その音からは共感も感動も得られないということだった。<新しいユニークな音>とは、いままで自分が聴き慣れた音からわずかに離れたところに存在し、そこから離れ過ぎると、だんだん雑音に近くなっていってしまって無機的な音になっていく。つまり雑音とか無機的な音というのは、聴いている人の気持ちがついていけなくなってしまう領域の音ではないだろうかと考えた。(P.97から)」
「時代の先端を行く」というのは実際には「半歩先」を行くことで、「一歩先」では行き過ぎになり、理解されないというのと同じですね。理解されたいと願うならそうする必要があると思います。金言です。
今、うちの家にはラジオが6箇所に置いてあり、何処に行っても聞こえるようにしてありますが、最高の時間だなあと感じるのは全ての音を消した時です。つくづく困ったものだと思います。冨田氏も明珍火箸の音に魅せられたようですが、何もないところにほんの僅かの音を加えてそれに耳を澄ますというのは実に日本的な良さだと思います。疲れません。
2025年8月31日