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『侠』おとこの旅

堅気と極道の狭間を生きる武士<もののふ>なり

新参者

2009年01月21日 13時57分09秒 | Weblog
おい、和田、武、学 『へい!』 そろそろ好いころだ始めてくれわかりました120畳の大広間に若い衆の、奥さんや彼女が和服姿で入って来た。
寿司とビールが用意され、その数ははんぱでは無かった最後に一人の男が若い衆を連れて入って来た。
若い衆は座敷の下にに立ち、腕を後ろに回し警察や軍人が立肖するように統率の取れた立ちからである。入って来た男は挨拶もせず、『乾杯は後にしてくれ!これから初代竜神一家の人事を発表する、

頭は変わらず、山本 武<二代目伊藤組>

舎弟頭 北川虎乃輔

舎弟 神 智之

本部長山本 学<初代山本組>

事務局長 宮永 悟<北穂一家>

若頭補佐 高村建治(関保会四代目初代関愛一家)

若頭補佐 小山正美<北龍連合=北龍組>

若頭補佐 金 李将<北道商事>

慶弔委員長 東 神<稲神組>

若中 和田 進<総長付>

格家名は若い衆から集めたアンケーで付けたそう言うと、座敷入り口から、外にいた若い衆100にんが入って来た一気に狭くなる座敷だが、自分の家名ごとに並び統率の取れたものであった ここで全員そろったところで乾杯の音頭を舎弟の、神が取り、全113名の大所帯となった初代竜神一家が動き出した

頭の武、弟の学ぶは、変わらずカジノをシノギトとし 各組長は真っ当な正業をしのぎとして組運営をこなしていった。

若頭補佐 の金 李将は北道商事の看板を上げ金融を始めたそれもサラ金よりも利息の少ない真っ当な金融商事であった。

ところで、北川虎乃輔と若者二人は

一人は吉田 剛は特攻隊長、

もう一人は白 龍玄 総長付、

当の本人は、人斬りの虎と言われ札幌の極道で知らない者は居ないほど恐れられた極道。今まで熱海の伊達隆二の預かりの身であったが数年ぶりに帰ってきた 初代竜神一家に竜虎と双龍がそろい組織は磐石となった。 各組には総本家から送られた額も配布され
本部当番員も決まり隆二は一休みすることになる。

狭への道、大根の花

2009年01月15日 12時45分57秒 | Weblog
同年3月30日、稲川会本部長・稲川裕紘は神戸市東灘区の山本広宅を訪ねた。 同日午前11時50分ごろ、山本広は、稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れた。山本広は、中西一男や渡辺芳則ら山口組執行部に、自身のヤクザからの引退と一和会解散を告げ、竹中正久殺害を詫びを入れた。それから、山本広は、竹中正久の仏壇と田岡一雄の仏壇に、線香を手向けて、合掌した。これで、山一抗争は終結した。

そして激動の昭和が幕を下ろした。
石間春夫は、右翼団体「維新天誅会」からお歳暮を受け取った。お歳暮ののしには、「共政会」と書かれてあった。石間春夫は、維新天誅会が共政会傘下だと知り、北海道では他のヤクザ系右翼団体の活動を認めないと告げた。
平成2年(1990年)1月4日、石間春夫は、新年初めて、誠友会本部事務所に顔を出した。当日は雪だった。同日午後4時、石間春夫は、吹雪の中、ボディガード役の組員を車に乗せずに、メルセデス・ベンツの後部座席に乗り込み、運転手と2人で自宅へ向かった。石間春夫の乗るメルセデス・ベンツは、北海道神宮近くで赤信号のため、停車した。石間春夫は、2人組の維新天誅会会員に、射殺された。
隆二は札幌にも平和な日々が来たと思っていたのもつかの間だった。後に手打ちとなり、隆二は前組員を本部に集めた。

組の運営と報告であった。

組員全員と言っても10人足らずの小さな組。

ただ、組には1億以上の金が有った。

隆二は今後3年間組への上納金を納めなくてよい、

自分の組を立ち上げろ!

本部を中心に放射状に組を持たせる方針だった、

1 金と上辺だけに付いてくる女とは付き合うな

2 人の女に手を出すな!

3 薬物、シャブ、シンナーに手を染めるな!

たった三つの決め事を決議して、各組員に、身だしなみを整えさせ、背広から靴までそろえさせて、床屋にも行かせた。

若中の高村建治が

総長、今族を組織しています、根性の座ったやつは、好きな組に入れようと思ってるのですが。

隆二は

気をつけなければならないのが、デコ助だ、あくまでも未成年辞めたいやつは、引き止めるな、ところで今何人くらいもチームだ

高村は

窓の外を見てください。

流石の隆二も度肝を抜かれた、約100人の若者がダークグレーのスーツに身を固め整然と並んでいた。

高村は

族の名前は、全国竜神連合

単車は有りません、四輪だけです、個人個人しのぎを持っていますので、プー太郎はいません、未成年もいますが、みんな根性が座ったものばかりです。

隆二は

高村に、大事にしてやれ!

狭への道,牙抜かれて生きるは、侠にあらずー3

2009年01月07日 21時44分22秒 | Weblog

その後山本広は、ヤクザからの引退を固めた。

同年3月16日、渡辺芳則が上京に、山本広引退の道筋を付けてくれた稲川会に、謝辞を述べ、山一抗争終結の段取りを話し合った。

同年3月16日、渡辺芳則は、大津市の会津小鉄会・高山登久太郎会長宅で、山本広と会見した。稲川会幹部と会津小鉄会幹部が同席した。山本広は一和会解散と自身のヤクザからの引退を認める文書を、渡辺芳則に手渡した。

同年3月17日、山本広は、一和会幹部の東建二、沢井敏雄、村上幸二、上村進、寺村洋一らに、一和会解散と自身の引退を伝えた。

同年3月18日、山口組本家で、山口組緊急執行部会が開かれ、山本広引退の経緯が報告された。さらに、「同年3月19日に山口組直系組長会を開き、山本広引退を傘下組織に周知徹底させよう」との提案が出された。竹中武、中西一男、嘉陽宗輝が提案に反対した。竹中武は、渡辺芳則に、「山本広の断指と詫び入れ」を要求した。同年3月19日の直系組長会開催は取り止められ、同年3月22日に緊急幹部会が開かれることになった。

同年3月19日、山本広は、神戸市の東灘警察署に出頭し、自身のヤクザからの引退と、一和会解散を伝えた。

同年3月20日、大阪高等裁判所で、竹中正久殺害を指示した石川裕雄と、竹中殺害実行犯の立花和夫の無期懲役が決定した。

同年3月22日、山口組緊急幹部会が開かれた。竹中武と中西一男が、渡辺芳則に、山本広の山口組への詫び入れを要求した。渡辺は、竹中と中西の要求を飲んだ。渡辺は、稲川会に、山本広の山口組への詫び入れを依頼した。

同年3月23日、山口組臨時直系組長会で、岸本才三から、山本広の引退と一和会解散の経緯が報告された。

同年3月28日、山本広は上京し、稲川会幹部と話し合い、稲川会の保証で山口組に詫びを入れることを了承した。

同年3月29日、東京都のホテルニューオータニで、山口組執行部は、稲川会幹部と会い、山本広の引退・詫び入れに尽力してもらったことに、謝辞を述べた。

同年3月30日、稲川会本部長・稲川裕紘は神戸市東灘区の山本広宅を訪ねた。

同日午前11時50分ごろ、山本広は、稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れた。山本広は、中西一男や渡辺芳則ら山口組執行部に、自身のヤクザからの引退と一和会解散を告げ、竹中正久殺害を詫びを入れた。それから、山本広は、竹中正久の仏壇と田岡一雄の仏壇に、線香を手向けて、合掌した。これで、山一抗争は終結した。

第三章・狭への道-牙抜かれて生きるは、侠にあらずー2

2009年01月03日 15時54分58秒 | Weblog

しかしこれを不服とする花田組本部長・長峰康平を中心にした男達は、日本中のヤクザをも敵にまわす行為”手打ち破り”を決意するのであった。
同年2月21日千葉県木更津市で、元稲川会系組幹部が連れ去られそうになる事件があり、男5人が22日、営利目的等略取未遂容疑で緊急逮捕された。
同日稲川会本部事務所など東京都内で3件の発砲事件があり、江戸川区の住宅では破損したガラス片で女性(72)が軽傷を負った。 2004 2月22日:午前6時45分ごろ、さいたま市見沼区深作の路上に倒れていた同市北区今羽町の稲川会系の佐久間武夫幹部(66)は両足を3カ所刺されており、間もなく死亡した。 午前8時20分ごろ、一和会系木下組の木下主税組長(57)方の玄関ドアで弾痕6発と薬きょう5個が発見された。 同8時25分ごろ、埼玉県川口市新井宿、露天商、大塚一男方玄関で、大塚さんが男に右太ももを拳銃で1発撃たれ重傷を負った。男は走って逃げた。
抗争は本州にも飛び火し札幌は緊張の渦に巻き込まれて行く。
日午後1時5分ごろには、札幌市ススキの路上で、近くに住む一和会系の鈴木博之組員(29)が倒れているのが発見され、約2時間40分後に死亡した。腹と背中の計6カ所を刃物で刺されていた。3人組の男が逃走した。
同1時35分ごろ、北見市の元露天商(71)方の庭で、段ボールを片付け中の同市高萩町、露天商、山口司さんが男に拳銃2発を撃たれ、左肩などに重傷を負った。男は黒い乗用車で逃げた。
同日午後4時ごろ、東京都六本木路上で稲川会系組員上田光が撃たれ2時間半後に死亡した。
稲川会系組事務所が飯島会系事務所と同じビルの10階と8階に入っていることから稲川会組員と間違えての誤射。
これ以上の部外者への誤射が続けば極道社会全体に関わる、稲川会総本家では早速札幌に連絡を取り、北海道相談役、名取、三井、そして隆二に熱海に来るよう連絡した。
総本家では、北海道のことは北海道で解決してくれ、
手打ち破りは五分の手打ちにはならない、そこん処、隆二、収めてくれ。
そう言われ、三人は帰路に着くのだが、全面的に隆二に任せると言われ、隆二は手打ちの準備にかかった。
まず、先に隆二は一和会加茂田服会長と会うことにした。
隆二はたった一言言っただけで
「一和会が極道で有り続けたいのであれば、花田組本部長・長峰康平を破門、花田組解散、でなければ、日本全国の極道を敵にまわします。山口組だけではないことを胆に命じてください。」
加茂田は
「分かった」

第三章・狭への道-1

2009年01月01日 12時42分36秒 | Weblog
北の大地が今、鮮血に染まろうとしていた・・・。
北海道北見市―
旭川関保会初代分家斉藤組幹部星川組組長・星川竜二は、
斉藤組の代行職を下ろされたことにより組長・斉藤茂造
に対する不信感を募らせ、親を捨て、一家を捨て、関東を本拠とする
巨大組織・稲川会稲川一家岸本組組長・岸本卓也の盃を受けた。
この頃、日本最大組織・山口組が北海道に代紋を掲げるべく
勢力の拡大を図っていた山口組直参加茂田組舎弟・花田章は、
北見進出の足掛かりとして、
極道社会の掟に反すると知りながらもあえて旭川関保会から
絶縁されていた斉藤茂造を舎弟にし、
札幌の本部事務所を北見へと移した。これにより、
星川組と花田組の間に不穏な空気が流れ始める。
そしてこの後、北海道やくざ史上最大と言われる凄絶な殺戮のドラマが
繰り広げられることになるのである。
加茂田組北海道支部・花田組も、一和会に移った。花田章は、加茂田組舎弟頭補佐となっていた。
そして昭和63年(1988年)5月、丁字家蜂谷連合会が消滅した。
昭和六十年「山一抗争」の最中の北海道北見市。一和会加茂組内花田組組長・花田 章が稲川会星川組都築組組員の手により北見の大型スーパー駐車場にて射殺された。
以前からシノギの小競り合いからの射殺だった。
射殺事件はすぐに札幌の隆二の下へと知らされた。
北海道北見市の星川組系牧野組組員亀谷哲也(29)が花田組組員に暴行された恨みとして花田組経営の金融会社[橋本商事]の事務所を訪れ,奈良義勝事務局長(61)を刺殺。花田組は報復として以後2日間で3名を殺害,2名を負傷。
隆二は若い衆全員連れて北見に向かった。
本部事務所前には警察がびっしり詰めていた。
何処へ行くにもボディーチェック!
隆二と若い衆一ヶ月もの間地下へ潜り花田組の様子をうかがっていたのだが、本部事務所は警察の張り付き警戒の為身動きできず、花田 章が射殺されたスーパーへ買い物に出た時、
二代目花田組を襲名した丹羽勝次と遭遇した。
隆二と丹波はお互い若い衆を連れていたが、揉める事も無く
「疲れましたね、そろそろ止めようか」
そんな会話をした後、隆二は花田組総本部を訪れた。
その後手打ちが成立した。

第二章 激動の765日8

2008年12月30日 15時36分37秒 | Weblog
同年2月16日、一和会・加茂田重政理事長が、神戸拘置所から出所した。

同年2月17日、山本広が、加茂田重政の出所を祝った。

同日、神戸市東灘区の山本広宅近くの路上で、山口組竹中組若頭補佐・増田国明と竹中組増田組(組長は増田国明)組員・西浦恵信の2人が、兵庫県警に暴力対策二課と生田警察署の警察官に職務質問された。2人の乗っていた車の後部座席のゴルフバッグの中から、拳銃4丁、アメリカ軍用M67型手榴弾2個、実弾25発が発見された。

同年4月、山口組竹中組安東会・安東美樹会長は、一和会の山本広の自宅襲撃を計画し、安東組組員・西沢進と同組組員・荒嶋巧を襲撃班に選んだ。西沢進と荒嶋巧は、神戸市兵庫区のマンションで、手製爆弾5個を作った。

同年4月11日、北海道札幌市ススキノで、一和会加茂田組二代目花田組・丹羽勝治組長は、喫茶店を出たところ、山口組弘道会司道連合幹部・佐々木美佐夫ら2人に銃撃された。丹羽勝治は、銃弾を受けたが、マンション「クィーン南5条」に逃げ込んだ。丹羽は、エレベーターホール前で追いつかれ、射殺された。

同年4月21日、佐々木美佐夫が名古屋市の千種警察署に出頭した。千種警察署は、丹羽勝治殺害と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で、佐々木美佐夫を逮捕し、札幌市の中央警察署捜査本部に護送した。

その後、竹中武から派遣された仲介役が、加茂田重政に、引退を迫った。加茂田は、山口組弘道会への報復をするまで、待ってほしいと返答した。竹中武は、仲介者を通じて、加茂田重政に「昭和61年(1986年)2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、井垣道明と星山勲を射殺した犯人が、加茂田組関係者だとわかってからでは、引退は認めない」と迫った。加茂田重政は「昭和63年(1988年)5月7日までに、加茂田組事務所から一和会の代紋を外す」と返答した。加茂田は、竹中武との遣り取りを加茂田組内部には、秘密裏に行なった。その後、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が、加茂田に弘道会襲撃のための資金提供を求めたが、加茂田は資金を出さなかった。

その後、渡辺芳則、宅見勝、桂木正夫らは、一和会松美会若頭・小條鎮生らと接触し、「松美会を解散するのならば、松美会・松本勝美会長の命を保証する」と伝えた。

同年5月3日、小條鎮生は、松本勝美の誕生パーティーで、松本に渡辺芳則らの提案を伝えた。松本は、引退と松美会解散を承諾した。松本は、山本広に、自身の引退の旨を伝えた。山本広は、思い止まるように説得したが、松本勝美は意志は固かった。

同年5月7日、一和会加茂田組定例集会に、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が無断欠席した。

第二章 激動の765日7

2008年12月21日 13時48分31秒 | Weblog
同日、一和会副会長兼理事長の加茂田重政がヤクザからの引退と加茂田組の解散を表明した。
このころ、一和会の組員数は約650人となった。
同年5月13日、安東美樹は、山本広が、神戸市東灘区の自宅にいることを知った。
同年5月14日午前2時30分、神戸市東灘区で、安東美樹と西沢進は、山本広宅を襲撃するために、山本宅を警備していたパトカーに向かって自動小銃や拳銃を構えて、車中の警察官3人を威嚇した。助手席の警察官が、自身のホルスターから拳銃を抜こうとしたので、安東美樹は自動小銃を車内に向かって20数発発射した。西沢の拳銃は不発だった。3人の警察官は、ヘルメットに防弾チョッキを着ていたため、命を取り留め、2週間から5ヶ月の重傷を負った。その後、安東はてき弾を自動小銃の先端に差し込み、山本広宅に向かって撃ち込んだ。てき弾は山本広宅の防護ネットに当たって、路上に落ち、爆発した。この爆発で金属片が飛び散り、安東は肩を、西沢は膝を負傷した。
同年5月16日、安東と西沢は、茨城県東茨城郡城北町の私立病院を訪れ、金属片の摘出手術を受けた。その後、安東と西沢は、病院を抜け出した。
同年5月21日、一和会幹事長代行・松本勝美がヤクザから引退し、松美会を解散した。
同日、小條鎮生は、松美会の「解散声明書」渡辺芳則宛で、宅見勝に郵送した。一和会松美会組員は、山口組一心会(組長は桂木正夫)や山口組倉本組(組長は倉本広文)に吸収された。
同年5月22日、中西一男や渡辺芳則ら山口組執行部は、「山本広宅前で3人の警察官を銃撃した犯人が山口組竹中組組員だ」という情報を入手した。渡辺芳則は、竹中組が警察官を襲った行為を、非難した。
同日、神戸市東灘区篠原本町の山口組本部で、直系組長会が開かれた。岸本才三本部長は、直系組長に、山本広宅前で3人の警察官を銃撃した犯人が自分の組内にいるならば警察に自首させることと、今後警察官や市民を銃撃した者は処分することを通達した。竹中武は、山口組執行部の発表を、岸本才三に大声で念押しした。
同年5月24日、兵庫県警は、山本広宅前で、3人の警察官を銃撃した犯人を、山口組竹中組安東会・安東美樹会長と断定した。山口組執行部は、竹中武や竹中組に対して処分しなかった。
その後、渡辺芳則は、安東美樹を非難し、竹中武に「シャブ打ってやったとしか、思われない。プラスになることは一つもない」と発言した。
同日、東京都千代田区の半蔵門会館で、警察庁は、全国の暴力団取締担当課長69人を集めて、「全国暴力団取締り主管課長会議」を開いた。警察庁長官・金沢昭雄は、会議で、山口組壊滅のために、徹底的な集中取締りをするように指示した。
同年5月28日、兵庫県警は、安東美樹を爆発物取締法違反容疑で、指名手配した。
同日、山本広は、加茂田重政の除籍と、松本勝美の絶縁を決定した。
同年6月10日、佐世保市の一和会理事長補佐・福野隆が、一和会から脱退した。福野隆の次女の夫は、山口組小西一家(総長は小西音松)迎組・迎正剛組長だった・
このころ、一和会の組員数は、450人ほどとなった。
同年6月16日、名古屋市の一和会常任幹事・中村清がヤクザから引退し、中村組を解散した。
同年6月中旬、山口組は、一和会風紀委員長・松尾三郎ら一和会幹部に「山本広が引退し、一和会を解散するならば、山本広の命を保証する」と伝えた。
同年6月22日、一和会定例会で、山本広は、鹿児島県の温泉旅行を提案した。費用は全て、山本広が負担した。
同年7月4日、一和会は、3日間鹿児島県に観光旅行に出かけた。一和会幹部は、観光旅行中に話し合い、山本広を引退させることで固まった。
同年7月初旬、山口組直系組長4人は、一和会直系組長4人と話し合い、一和会幹部が山口組の要求を受け入れるつもりであることを確認した。
同年7月12日、大阪市住吉区の松尾三郎宅前で、松尾三郎は、3人のボディガードとともに、一和会大川組(組長は大川健)組員2人に銃撃された。ボディガードの一和会松尾組幹部・中辻克行が、首と背中に銃弾を受けて、重傷を負った。大川健は、一和会解散に反対していた。
同年7月15日、一和会組織委員長・松尾三郎、一和会組織委員長・北山悟、一和会特別相談役・井志繁雅、同・坂井奈良芳、同・大川覚、一和会本部長・河内山憲法、一和会理事長補佐・浅野二郎、同・徳山三郎、一和会副幹事長・吉田好延、一和会事務局長・末次正宏、一和会常任理事・片山三郎が、一和会から脱退した。
同年7月30日、山本広は、松尾三郎、北山悟、井志繁雅、坂井奈良芳、大川覚、河内山憲法、浅野二郎、徳山三郎、吉田好延、末次正宏、片山三郎の11人を絶縁や破門処分にした。

第二章 激動の765日6

2008年12月21日 13時42分58秒 | Weblog
同年6月19日、京都府宇治市で、山口組中野会組員が、砂子川組幹部の経営する不動産会社に侵入し、従業員1人を殺害した。
同年6月22日昼、別府市緑ヶ丘町路上で、山口組石井組江口組組員が、一和会宮脇組首竜会会長を拳銃で射殺した。
同年7月28日、姫路市の山口組菅原組・菅原光雄組長が、兵庫県警と山口組に「組解散並びに脱退声明書」を提出して、ヤクザから引退した。
同年9月14日、岡山地方裁判所は、野球賭博で起訴された竹中武に無罪判決を出した。
同年11月、警察は、池田一男殺害の犯人を、一和会山広組川健組組員2人と断定した。渡辺芳則は、高山登久太郎の仲介で、砂子川組・山本英貴組長に、謝罪した。
同年11月26日、神戸市灘区の山口組本家で、中山勝正と南力の合同組葬が営まれた。250人が参列した。
同年12月1日、竹中武は、竹中組本部事務所を、姫路市十二所前町から、岡山市に移した。
昭和63年(1988年)1月3日、神戸市本町の一和会山広組事務所の南隣の駐車場で、山広組事務局長・浜西時雄が、不審なセドリックを発見し、車中を覗き込もうとしたところ、車外で待機していた山口組山健組組員・井上浩と山健組組員・野田桂治に射殺された。井上浩は、覚醒剤の常用で、山健組から謹慎処分を受けていた。
同年2月16日、一和会・加茂田重政理事長が、神戸拘置所から出所した。
同年2月17日、山本広が、加茂田重政の出所を祝った。
同日、神戸市東灘区の山本広宅近くの路上で、山口組竹中組若頭補佐・増田国明と竹中組増田組(組長は増田国明)組員・西浦恵信の2人が、兵庫県警に暴力対策二課と生田警察署の警察官に職務質問された。2人の乗っていた車の後部座席のゴルフバッグの中から、拳銃4丁、アメリカ軍用M67型手榴弾2個、実弾25発が発見された。
同年4月、山口組竹中組安東会・安東美樹会長は、一和会の山本広の自宅襲撃を計画し、安東組組員・西沢進と同組組員・荒嶋巧を襲撃班に選んだ。西沢進と荒嶋巧は、神戸市兵庫区のマンションで、手製爆弾5個を作った。
同年4月11日、北海道札幌市ススキノで、一和会加茂田組二代目花田組・丹羽勝治組長は、喫茶店を出たところ、山口組弘道会司道連合幹部・佐々木美佐夫ら2人に銃撃された。丹羽勝治は、銃弾を受けたが、マンション「クィーン南5条」に逃げ込んだ。丹羽は、エレベーターホール前で追いつかれ、射殺された。
同年4月21日、佐々木美佐夫が名古屋市の千種警察署に出頭した。千種警察署は、丹羽勝治殺害と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で、佐々木美佐夫を逮捕し、札幌市の中央警察署捜査本部に護送した。
その後、竹中武から派遣された仲介役が、加茂田重政に、引退を迫った。加茂田は、山口組弘道会への報復をするまで、待ってほしいと返答した。竹中武は、仲介者を通じて、加茂田重政に「昭和61年(1986年)2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、井垣道明と星山勲を射殺した犯人が、加茂田組関係者だとわかってからでは、引退は認めない」と迫った。加茂田重政は「昭和63年(1988年)5月7日までに、加茂田組事務所から一和会の代紋を外す」と返答した。加茂田は、竹中武との遣り取りを加茂田組内部には、秘密裏に行なった。その後、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が、加茂田に弘道会襲撃のための資金提供を求めたが、加茂田は資金を出さなかった。
その後、渡辺芳則、宅見勝、桂木正夫らは、一和会松美会若頭・小條鎮生らと接触し、「松美会を解散するのならば、松美会・松本勝美会長の命を保証する」と伝えた。
同年5月3日、小條鎮生は、松本勝美の誕生パーティーで、松本に渡辺芳則らの提案を伝えた。松本は、引退と松美会解散を承諾した。松本は、山本広に、自身の引退の旨を伝えた。山本広は、思い止まるように説得したが、松本勝美は意志は固かった。
同年5月7日、一和会加茂田組定例集会に、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が無断欠席した。


第二章 激動の765日5

2008年12月21日 13時38分28秒 | Weblog
このころ、稲川会・稲川聖城総裁と同会・石井隆匡会長が、病気療養中の田岡文子を見舞い、次いで山口組幹部と会い、一和会との和解を打診した。中西一男や渡辺芳則らは、「同年3月13日までに、山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した[1]。山口組組長代行・中西一男は、服役中の豪友会・岡崎文夫会長を説得し、一和会との和解を了承させた。中西一男は、岡山刑務所に拘置中の竹中武を説得したが、竹中は一和会との和解を拒否した。
同年1月24日午後10時43分、田岡文子が、肝硬変で死亡した。
このころから、警察は「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(通称は暴対法)の制定を考え始めた。
同年2月24日夜、別府市内のクラブで、山口組石井組石友会会員が、一和会稲葉一家・稲葉実組長を拳銃で銃撃した。
同年2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、一和会加茂田組花田組(組長は丹羽勝治)組員が、山口組竹中組柴田会組員・井垣道明と同会組員・星山勲を射殺した。山口組は、一和会との和解を取り止めた。
同年4月26日、囮捜査によりハワイで捕まった竹中正と織田譲二が無罪判決を受け、オアフ刑務所から出た。
同年5月21日午後11時30分すぎ、大阪市ミナミの路上で、山口組竹中組二代目生島組幹部・北原智久と同組幹部・大宮真浩は、タクシーに乗って信号待ちをしていた一和会副本部長・中川宣治を射殺した。その後、大宮真浩は、マンション9階から投身自殺を図り、一命を取り留めたが、寝たきりとなった。
同年6月5日、石井隆匡は、中西一男ら山口組幹部と会い、再度一和会との和解を要請した。
同年6月15日、山口組臨時直系組長会が開かれ、中西一男は、山一抗争の終結を受け入れる意向を示した。
同年6月19日、竹中武は、岡山刑務所から保釈された。
同年7月12日、福岡市のゴルフ場で、石川裕雄が、竹中正久殺害指示の容疑で、逮捕された。
同年7月24日、渡辺芳則は、神戸市のゴルフ場「神有カントリー倶楽部」での傷害容疑[2]で、兵庫県警から指名手配された。
同年8月6日、別府市国際観光港前の国道で、一和会稲葉一家組員が、徳弘喜一郎を拳銃で銃撃した。
同年8月14日、渡辺芳則が兵庫県警本部に出頭し、逮捕された。
同年8月18日、兵庫県警は、兵庫県議会で、「山一抗争は事実上終息状況にある」と発言した。
同年11月13日、最高裁判所は、一和会・加茂田重政副会長の上告を棄却した。加茂田の常習賭博罪での懲役1年が確定した。
昭和62年(1987年)2月2日、サイパン島バンザイ岬沖で、一和会常任顧問・白神英雄(白神一朝とも名乗った)の射殺死体が発見された。
同年2月4日、山口組直系組長会で、山口組幹部は、竹中武に山一抗争終結への意向を質した。竹中は、抗争終結に反対か賛成かの採決するように提案したが、山口組幹部は採決しなかった。
同年2月8日、山口組本家2階大広間で、山口組直系組長会が開かれ、中西一男は、山一抗争終結の決定を指示した。
同年2月9日、中西一男ら山口組幹部は、上京して、石井隆匡に山一抗争終結決定を伝えた。
同年2月10日、石井隆匡は、京都市に行き、会津小鉄会・高山登久太郎会長に、山口組の抗争終結決定を伝えた。
同日、高山登久太郎は、一和会本部で、山本広ら一和会直系組長34人に、山口組の抗争終結決定を伝えた。山本は、一和会の山一抗争終結決定を、高山に伝えた。
この後、竹中武は、山口組執行部に、一和会との抗争継続の意志を示し、山口組からの脱退を申し出た。山口組執行部は、竹中武に思い止まるように説得した。
同年4月3日、中川宣治を射殺した大宮真浩が、病院で死亡した。
同年4月19日、明石市の金勝寺で、竹中武は、大宮真浩の組葬を行なった。山口組竹中組若頭・大西康雄が、葬儀執行委員長を務めた。
同年6月、一和会・佐々木道雄幹事長に、恐喝罪での懲役3年が確定した。佐々木は、府中刑務所に服役した。
同年6月13日午後11時、大阪府枚方市のレストラン「ファンタジア」で、一和会山広組川健組(組長は野崎成博)組員・横尾勝と同組組員・今堀義浩が、食事中だった山口組山健組中野会(会長は中野太郎)・池田一男副会長を射殺した。中野太郎は、池田一男殺害を、砂子川組(組長は山本英貴)の犯行と勘違いした。
同年6月17日、大阪府枚方市の砂子川組斉藤組事務所で、斉藤組・西岡和明組長が、山口組山健組中野会組員に射殺された。
同日、大阪府守口市の砂子川組岡田組事務所で、山口組山健組中野会組員が、岡田組組員3人に向かって、拳銃を乱射し、重傷を負わせた。
同年6月18日、山口組中野会組員が、砂子川組本部長・沢田一夫宅に、ダンプカーで突っ込んだ。


第二章 激動の765日4

2008年12月21日 13時36分29秒 | Weblog
同年5月、姫路市で、竹中正は、知り合いの不動産業者から、ヒロ佐々木に、マイケル・ジャクソン日本公演の保証金5000万円を支払ってもらった。
同年5月5日、山口組紺屋組(組長は紺谷久雄)幹部2人が、一和会加茂田組宮原組傘下奥原組事務所に、宅配便の配送員を装って押し入り、拳銃を乱射し、奥原組若頭・佐々木俊彦を射殺し、同組幹部・萩原貴之に重傷を負わせた。
同日、大阪市中央区加納町の山口組岸本組事務所横の路地で、岸本組南野組組員・西村賢次が、2人組の男に拳銃で射殺された。
同年5月12日、竹中正は、ハワイで、偽物のマイケル・ジャクソン日本公演(公演料は4億円)の基本契約書にサインした。
同年5月15日、ワイキキの「アラモアナ・ホテル」で、竹中正は、ヒロ佐々木から、アメリカ陸軍の拳銃や機関銃を見せられ、購入を勧められた。この模様は、全て隠しカメラで収録されていた。
同年5月20日、神戸市東灘区の山本広宅で、山口組後藤組と山口組美尾組(組長は美尾尚利)の組員3人が、大型ダンプカーで突入しようとして、山本広宅を警備していた兵庫県警機動隊員と撃ちあいになった。大型ダンプカーは、車止めを押し倒して、電柱に激突した。後藤組幹部が機動隊員に左肩を撃たれて、重傷を負った。
同年5月24日、ヒロ佐々木が来日し、竹中正に、保証金4億円を同年5月末日までにハワイに送金するように求めた。竹中は送金が遅れたため、罰金30万ドルを支払った。
同年6月13日、北海道同行会の誠友会を除いた臨時総会が持たれ、誠友会の除名問題が議論された。
同年6月14日、北海道同行会の臨時総会が、誠友会を加えた全役員で議論されたが、結論は出なかった。その後、会規はうやむやになり、誠友会は、北海道同行会に残ることになった。
同年6月23日、香川県高松市のパチンコ店で、山口組一心会幹部・美村道彦と山口組一心会南声会組員が、一和会山広組幹部・岩附秀雄を射殺した。
同年7月、石間春夫は、四代目山口組舎弟となり、山口組に参加した。
同年7月6日、一和会・溝橋正夫常任顧問が、ヤクザから引退した。
同年7月19日、元神戸市長で弁護士の中井一夫が、同年8月28日から同年9月4日まで開かれるユニバシアード神戸大会のため、山口組と一和会に、抗争休止を呼びかけた。山口組と一和会は、休戦した。
同年7月21日、高知市中水道のアパート「平和荘」で、山口組豪友会岸本組幹部・足立栄祝が、就寝中に、右手と右脇腹を銃撃されて、重傷を負った。
同年8月末、ヒロ佐々木は、「ジョン・リー一家結成25周年記念パーティー」なる招待状を、山口組幹部に送ったが、殆どが大阪空港に局どめされ、竹中正と織田組・織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)以外には届かなかった。竹中と織田は記念パーティーに出席し、ヒロ佐々木から、ロケット砲やマシンガンの購入を勧められた。
同年9月3日、ハワイで、竹中正と織田譲二と香港の元飲食店主・梶田聖が、ロケット砲3基・マンシンガン5丁・拳銃100丁の密輸未遂、麻薬不正取引、殺人教唆の容疑で、囮捜査官・ヒロ佐々木らに逮捕された。
同年10月27日、鳥取県倉吉市のスナックで、山口組竹中組杉本組輝道会組員・清山礼吉が女装して、一和会幹事長補佐・赤坂進(赤坂組組長)を呼び出し、輝道会組員・山本尊章が、赤坂進と赤坂組組員・田中義昭を射殺した。清山礼吉は、包丁で、他の赤坂組組員を刺し、重傷を負わせた。その後、山本尊章は無期懲役、清山礼吉は懲役15年の判決を受けた。
同年11月、競馬や競輪などの公共施設への暴力団の立ち入りが禁止され始めた。
同年12月20日、神戸市中央区北長狭通りの一和会本部前で、一和会中川連合会(会長は中川宣治。一和会副本部長)愛国青年同盟幹部・戸田昇と一和会松美会組員・今井浩平が銃撃された。戸田は、左胸と左腹部を撃たれて死亡し、今井は重傷を負った。
同年12月25日、神戸市三ノ宮駅前のセンタープラザで、一和会組織委員長・北山悟が、3人組の男に銃撃されて負傷した。
昭和61年(1986年)1月21日午前2時、加古川市で、竹中組大西組(組長は大西康雄)組員・前田哲也と同組組員・山本孝道が、一和会加茂田組小野会・小野敏文会長の自宅に押し入り、小野に加茂田組からの脱会届を書くように要求した。小野敏文が要求を拒否すると、前田哲也と山本孝道は、小野を射殺した。
同年1月22日、和歌山市畑屋敷の交差点で、一和会松美会吉田組組員・松岡勤が、赤信号で停車していたところ、山口組小山組吉村組幹部に銃撃された。松岡は、病院に搬送される途中で、死亡した。


第二章 激動の765日3

2008年12月21日 13時32分59秒 | Weblog
同年2月24日、後藤栄治の「詫び状」に応じて、弘道会菱心会は、吉田清澄を解放した。しかし、後藤は自首しなかった。
同年2月下旬、山本広は、一和会の人間に対しても、所在を隠した。
同年3月2日、高知県警は、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、凶器準備集合罪で、岡崎文夫を逮捕した。豪友会若頭代行・久武康彦と同会本部長・山口励也が、山口組豪友会を指揮することになった。
同年3月5日、大阪市西成区の一和会溝橋組(組長は溝橋正夫)事務所で、同組幹部・大岩正博が、突然の訪問者に、背中を撃たれて重傷を負った。
同年3月6日、三重県四日市市の喫茶店で、一和会水谷一家・宮本一利組長の元相談役・清水幹一が、2人組の男に拳銃で、胸と腹を撃たれて、死亡した。
同年3月17日午後8時すぎ、一和会中井組弘田組舎弟・竹中幸雄らは、山口組豪友会岸本組事務所に侵入し、仮眠中だった同会組員・吉門正光を拳銃で撃った。吉門は5日後に死亡した。
同年3月24日、甲子園球場の駐車場で、竹中組組員が、一和会特別相談役・大川覚のテキヤの長男を銃撃し、重傷を負わせた(大川の長男は、一和会とは無関係)。
同日、大阪の一和会徳山組徳心会組員が、徳心会事務所前で、足を2発銃撃され、全治3週間の怪我を負った。
同年3月、大川覚のテキヤの長男が銃撃されたことを受け、祭礼や催事での露店の出店が制限され始めた。
同年4月4日、山口組豪友会岸本組幹部・谷脇修は、一和会中井組事務所に、宅配便を依頼し、配達員とともに、中井組事務所に向かった。谷脇は、宅配員に、呼び鈴を押させ、事務所ドアが開いたところで、一和会中井組組員・門屋義之を射殺し、他の中井組組員に重傷を与えた。
この時期、高知県警は、県内540人の暴力団員のうち、181人を逮捕した。
同年4月5日午後3時、山口組本部事務所で、山口組定例会が開催された。山口組定例会で、山口組本部長・岸本才三(山口組若頭補佐)が、直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会の舎弟待遇での山口組参画を発表した。
同年4月12日、山口組弘道会内薗田組幹部ら3人が、名古屋市のレストランで、三重県四日市市の一和会水谷一家隅田組幹部・中本昭七と同組組員・島上豊を拉致し、警察に電話して「水谷一家が一時間以内に解散届を出すのならば、中本と島上を解放する」と伝えた。水谷一家は解散を拒否した。
同年4月13日、山口組弘道会内薗田組幹部らは、中本昭七を射殺し、島上豊に重傷を与えた。
同年4月14日、一和会定例会が開かれ、山本広が姿を見せた。
同日、一和会・吉田好延副幹事長は、一和会定例会からの帰る途中、国鉄三ノ宮駅前の交差点で、停車中に、山口組後藤組(組長は後藤忠政)幹部・佐藤明義に38口径の拳銃で4発銃撃された。吉田は無事で、同車していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。
同年4月18日、石間春夫は、札幌拘置所病院棟で、山口組組長代行・中西一男、岸本才三、桂木正夫ら5人と面会した。石間は、北海道同行会の会規に「内地の広域組織は同行会には入れない」をいう条項があったため、北海道同行会からの脱会を決めた。誠友会・川岸朝明会長は、石間の指示を受けて、誠友会の北海道同行会から脱会を伝えた。北海道同行会は、返答を保留した。
同年4月21日、山口組山健組極心連合会幹部ら2人が、大阪市淀川区の一和会加茂田組西林組事務所で、拳銃で5発を乱射した。同組若頭・園田卓磨が被弾して、全治3週間の怪我を負った。
同年4月23日午前1時30分、和歌山市のクラブ「シンザン」で、山口組山健組健竜会傘下の梁取総業組員は、一緒に酒を飲んでいた一和会松美会光山組・光山勝治組長を、ウィスキーボトルで殴打した上で、射殺した。
同日午後6時すぎ、神戸市中央区花隈町の山口組山健組事務所近くの駐車場で、一和会加茂田組組員が、車を走らせながら車内から拳銃で発砲した。山健組高橋組組員・川崎竜夫ら3人が負傷した。通行中だった団体職員も右足に被弾した。団体職員は全治1ヶ月の重傷。山一抗争で、初めて市民が巻き込まれた。川崎竜夫は4日後に死亡した。
同年4月28日午後4時すぎ、神戸市長田区三番町の加茂田重政宅前のたばこ屋で、公衆電話をかけていた加茂田組河内組組員・鄭海鎮が、山健組鷲坂組幹部に右腹部を銃撃されて、重傷を負った。

第二章 激動の765日2

2008年12月21日 13時26分17秒 | Weblog
同年10月、一和会・石川裕雄常任理事は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中正久の愛人が住んでいることを掴んだ。
同月、一和会は「義絶状」に対する反論文を一部団体に送付した。
同年11月11日、山口組二代目石井組・秋山潔組長が出所した。
同年12月初旬、石川裕雄は、「GSハイム第二江坂」の204号室を知人名義で借り、無線機を置いて、一和会の「GSハイム江坂」の見張り要員と交信できるようにした。
同年12月21日、長野修一は、大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借りた。長野はこの部屋を武器の隠し場所にした。
同年末、山口組構成員数は14000人、一和会構成員数は2800人となった。
昭和60年(1985年)1月9日、竹中正久に対する、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博容疑での最高裁判所の判決が決まり、竹中の懲役5ヶ月が確定した。
同年1月12日、後藤栄治は、石川裕雄から竹中正久の愛人宅を教えられた。後藤は、長野修一を西名阪道路の津インターチェンジに呼び、ともに吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かう車中で、長野に25口径ベレッタと25口径タイタンと32口径回転式拳銃を渡した。その後、「GSハイム第二江坂」204号室で、後藤栄治は、長野修一に、石川裕雄を紹介した。石川は、長野に、無線機の使い方を教えた。
同年1月13日、神戸市で、竹中正は、ハワイのマフィアのジョン・リー一家と称するプロレスラー・ヒロ佐々木(実は、アメリカ連邦麻薬取締局の秘密エージェント)と会い、マイケル・ジャクソンの日本公演を依頼した。
同年1月16日、中山勝正ら山口組最高幹部を連れて、大阪国際空港から午前8時45分発日航911便に乗り、沖縄に入った。那覇空港では三代目旭琉会・翁長良宏会長、旭琉会の15の一家の総長と幹部クラスの合計約60人から出迎えられ、接待を受けた。同日、竹中正久らは、旭琉会の案内で、沖縄を観光した。同年1月17日、竹中正久らは、琉球カントリークラブで、旭琉会とゴルフを行い、夜にはクラブ「銀馬車」を借り切って、全員で宴会となった。
同年1月17日、三重県の山中で、長野修一は、二代目山広組組員・田辺豊記、同組広盛会舎弟頭・立花和夫、同組組員・長尾直美 とともに、拳銃の試撃ちを行なった。
同年1月18日、長野修一は、石川裕雄から38口径回転式拳銃を1丁受け取った。
同年1月23日、長野修一は、後藤栄治から32口径改造拳銃1丁を受け取った。
同年1月26日午後9時15分過ぎ、竹中正久は、中山勝正と山口組南組・南力組長とともに、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、田辺豊記、長尾直美、立花和夫に銃撃された。南力は即死だった。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分のメルセデスベンツに乗り込み、運転手の南組組員に大阪南区の南組事務所に向かわせた。南組組員が自動車電話で救急車を手配した。中山勝正は、「GSハイム第二江坂」から救急車で、病院に送られた。同日午後9時30分、竹中らは南組事務所に到着し、竹中は大阪警察病院に搬送された。
同年1月27日午前1時7分、中山勝正は死亡した。その後、岡崎文夫が豪友会を継承した。
同年1月27日午後11時25分、竹中正久は死亡した。
同年1月28日、石間春夫は、竹中正久の暗殺を聞き、山口組に参画することを決断した。その後、石間は、私文書偽造により、懲役4年の判決を受け、宮城刑務所に収監された。
同日夜、夜、神戸市灘区の旧田岡邸で、竹中正久の仮通夜が行なわれた。
同年1月31日、竹中家としての、竹中正久の密葬が行なわれた。
同年2月1日、福崎のインターチェンジで、竹中武は、兵庫県警の機動隊と岡山県警の刑事に、野球賭博開帳で逮捕された(後に竹中武は無罪)。その後、竹中武は1年5ヶ月間拘留された。
同年2月5日、山口組直系組長会で、舎弟頭・中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則(山健組組長)が若頭に就任した。山口組本部長・岸本才三は、「組方針を不言実行、信賞必罰」と宣言した。
同年2月19日、山口組弘道会菱心会組員が、一和会後藤組(組長は後藤栄治)若頭・吉田清澄を拉致し、後藤の居場所を吐くようにと、暴行を受けた。
同年2月23日、高知市の高知市営競輪場で、山口組豪友会組員が、一和会中井組(組長は中井啓一)組員3人を襲い、2人を射殺し、1人に重傷を与えた。

第二章 激動の765日

2008年12月20日 13時39分54秒 | Weblog
昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、山口組若頭・竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山口組組長代行・山本広を支持する直系組長は、直系組長会に出席しなかった。
同日、大阪市東区の松美会事務所で、山本広、加茂田組・加茂田重政組長、佐々木組・佐々木道雄組長、溝橋組・溝橋正夫組長、北山組・北山悟組長、松美会・松本勝美会長、小田秀組・小田秀臣組長ら約20人が、在阪のマスコミ各社を呼んで、記者会見を開き、竹中正久の山口組四代目就任に反対した。
同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は、山口組の山菱の代紋を、組事務所から外した。この段階で、山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。
同年6月8日、兵庫県警と姫路警察署は、竹中事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、昭和57年(1982年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わったというものだった。
同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは、山本広を会長に据えて、「一和会」を結成した。加茂田は、副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会・加茂田俊治会長を、一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会・加茂田勲武会長を、一和会常任理事に据えた。
山口組福井組・福井英夫組長は、山口組宅見組・宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めて、ヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せず、ヤクザから引退した。名古屋市の弘田組・弘田武組長も、一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が、弘田組を引き継いだ。
同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。
同年6月23日、竹中正久は、若頭に豪友会・中山勝正会長、舎弟頭に中西組・中西一男組長、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組・岸本才三組長を据えた。山健組・渡辺芳則組長、宅見組・宅見勝組長、嘉陽組・嘉陽宗輝組長、一心会・桂木正夫会長、角定一家・木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中武を竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。
同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川会・稲川聖城会長。取持人は諏訪一家・諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家・大野鶴吉総長、今西組・辻野嘉兵衛組長、松浦組・松浦繁明組長、大日本平和会・平田勝市会長、森会・平井龍夫会長、草野一家・草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会・津村和磨会長。霊代は、田岡文子。
山一抗争
同年8月5日、和歌山県串本町の賭場で、山口組松山組岸根組・岸根敏春組長が、一和会坂井組串本支部若頭補佐・潮崎進を刺殺した。この事件をきっかけに、山一抗争が勃発した。
同年8月23日、竹中正久は、「義絶状」を友誼団体に送った。これは、実質的に一和会への絶縁状だった。
同年、札幌刑務所の病舎で、山口組一会・野沢儀太郎会長(元柳川組幹部)は、誠友会・石間春夫会長と面会した。野沢は敢えて石間に、山口組参加を切り出さなかった。
同年秋、札幌刑務所の病舎で、山口組若頭補佐・渡辺芳則(後の五代目山口組組長)と山口組若頭補佐・桂木正夫と面会した。渡辺は、年明けの石間と四代目山口組・竹中正久組長と山口組若頭・中山勝正の面会の約束を取り付けた。
翌年7月下旬、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治は、同組舎弟・長野修一ととに山口組に対する行動隊を結成し、長野修一を行動隊長に据えた。
同年9月3日、一和会宮脇組首竜会副会長・衛藤一生が、山口組石井組石友会・徳弘喜一郎会長(二代目石井組本部長)を、徳弘喜一郎の入院先の病院で、拳銃で銃撃し、重傷を負わせた。
同年9月中旬、後藤栄治は、山広組から19人の隊員を選抜し、行動隊の結成式を行なった。

第一章木漏れ日の中5

2008年12月20日 02時41分14秒 | Weblog
「では最後となりますが初代龍神一家総長伊藤龍二様からご挨拶を受け賜ります。隆二は「只今初代龍神一家総長となりました伊藤隆二と申します、今日この晴れの日を設けていただき、また遠路はるばる誤来場いただいた親分、御一統さまに感謝いたします。この家業に、馬鹿でなれず、利口でなれず、中途半端じゃなをなれず、と言う言葉があります、まだまだ家業未熟の身ですが、今後共ご指導ご鞭撻のほど宜しくお頼み申し上げます。こうして、隆二は札幌に一枚岩の組織を作り上げたのだった。
隆二は襲名式の後日を置かず、組織の人事に着手するのだった。初代龍神一家総長 伊藤隆二若頭 山本 武舎弟 神 智之本部長 山本 学若中 高村建治若中 小山正美若中 金 李将若中 宮永 悟若中 東  神若中 和田 進<総長付> 龍神一家本部を札幌南4条西6丁目舎弟神智之の母親のビルに置く事にした、ビルはお化けビル同然でテナントも入っていなかった、5階建てのビルは外装から作り直さなければだめだった。とりあえず、神の母親から神へ登記を変えさせ、ビル改装の資金つくりから始まった。手っ取り早いのはリスクを考え、博打を開くことだ。隆二自身の襲名花開そ証して、札幌の古くから付き合いのある寂れた旅館を貸切花開の案内を回した。北海道各地及び東北、関東の名だたる親分衆に連絡を取り、3日後に開帳した。元金はかき集めた百万円。それでも強行に始めたのだった、下手をすれば各家名の親分に迷惑を掛けるだけでなく、金看板に泥を塗ることになる。
狭い博打場だが順調にテラ銭が上がっていった。
その時遠く大阪から駆けつけた波谷親分が入ってきた。
極道界では広島県呉市阿賀出身なので阿賀者と呼ばれていた
博打は筋金入りの博徒。
掛け金はいつも百万、一千万単位、隆二は手持ちの金を掻き集めた、それは、波谷親分は3億と言う金を用意してきたからだ。
「はい、どっちも、どっちも、先、先無いか、先・・・はいそろいました、先・・オイチョウ、後・・三寸、先と出ました」
博打の盆の上では、数百万、あるときは数千万の金が飛び交っていた。
隆二の手元の金も火を噴くように消えていく、隆二は困り果てていた。
そんな時、ジュラルミンケースを二つ持った黒服の男が連れの男を二人付けて入ってきた。
その男の顔を見ると、総裁と山川修水、隆二は人生が終わったと思った。
総裁はジュラルミンケースをドンと置き
「襲名祝いだ、使ってくれ」
そう言って博打場の隅で日本茶を飲んでいた
隆二は総裁の器の大きさを知り鳥肌が立っていた。
博打は午前2時まで開帳して終わった。
隆二は上がった寺銭の中から本部へ3億と言う金を返そうとした時、一言言われた言葉は、『一度出したものを引っ込めることは男として出来るわけが無い、お前の気持ちだけを受け取っておくと。』
隆二はその金で神のビルを大掛かりに改装した。
地下を作り、一階に喫茶店、二階を事業部事務所、三階に龍神一家本部、四階に大広間、五階に総長室、突貫工事をさせて、
三ヶ月、事務所開きをかねて、内輪だけでの、親子盃を四階の大広間で執り行った。
元々家業人、テキ屋だった若い衆4人はお祭りがあれば、
神社、仏閣で三寸を組みバイをしては組資金を調達していた。
地下には秘密のカジノを作った、知らない人は入り口が分からない。
会員制の秘密クラブ、潰しを掛けない程度に掛け金の上限を一万、
一日の売上を三百万程度と定めたのだった。
客を潰しにかかると、サツに垂れ込まれる、負けこんだ客は、徐々に勝たせていく。
上手く、ルーレットを操作していた。
そうして組織もスムーズに動き出し若い衆にも徐々に組員を増やしつつあった。
のんびりテレビを見ていた隆二にとんでもない映像が飛び込んできた。

第一章木漏れ日の中4

2008年12月19日 01時02分04秒 | Weblog
隆二はしつこくついてくる男を戒めるように、追い返そうとした時、後ろから「北海の龍さん」そう呼び止める声。隆二は、「はじめまして」その男は札幌で古くから地盤を築いている木暮連合会四代目総長水野四郎だった。「龍さんその男面倒見てやったらどうだい、もうその時期ですよ」隆二は何も答えずにいると。水野は「どうですか、そこら辺で飯でも食いませんか?」隆二と水野、そして着いてくる男は、近くの外食レストランに入っていった。水野も隆二も案内された席につくのだったが、ついてきた男は立ったままだった。水野は男に、「すわれよ!」そう言うと。男は「いいえ、親分に座れと言われない限り座れません」そい言うと。水野は「隆二さん、いい若い衆になりますよ」隆二は、男に座れと言い、昼飯を食い始める。食事を終えると、水野総長は「伊達さん、ここの支払いは私にさせてください」すると隆二は、「ヤクザの飯には骨という名前の義理が付いてきます、その義理をよう返さん男になりたくないので、ここは割り勘にしてください。」そう言うのだった。隆二に付いてきた男は隆二の目をみて動き出すすぐさま会計に行って全ての会計を済ませておくのだった。それを見て水野は、この男は札幌を動かす男になると思った。 隆二と水野はそこで別れて、隆二と男はタクシーで帰路に着くのだった。その日から3~4すると突然のように隆二のヤサ<借家>に背広姿の男が二人「失礼します、伊藤さんでしょうか?」そうですが、何か?「今日ご足労ですが、薄野のクラブ司までお越しください。」そういい残して去っていった。隆二はクラブ司が関東の稲川会の名取 司が経営する高級クラブだあることは知っていた
隆二は、山本武と、成り行き上若衆となった和田健一を伴って、クラブ司へとむかった。司には、水野四郎、三井組組長、熱海稲川会理事長石井横須賀一家総長がクラブのソファーに深々と座っていた。隆二は驚きもせず、お辞儀を交すと三人の前に座った。連れて来た二人は隆二の脇を固めるように立ったままでいたが、隆二に促されるように山本だけが席につく。それを見ていた、稲川の石井は、「なるほど・・北海の龍といわれるだけの狭だけあるは。」そこで口を開いたのが、水野だった。「実は今日わざわざ来てもらったのは、伊藤さんも知っていると思うが、北見の極東連合会関保会の三代目阿部が亡くなってから跡目不在のままもう五年経つ、その組織を預かりのまま私のところに家名だけ残っているのだが、どうだろう?跡目をついでもらえないか?そう言われた隆二は「すみませんが、テキ屋になる気はさらさらありません、そう言って席を立とうとした時三井組長が「テキ屋になれとは言ってない、伊藤さんがそっくりそのまま初代総長として、稲川の直参として襲名してくれればいいだけだ。」その意図を知った隆二は「石井さんそれでいいのですか?総裁の言葉として受け取っていいのですね」石井は「それでいい、総裁の承認は取ってある」隆二は「承諾しましょう、ですが条件があります、自分には生涯一人の兄貴分がいます、三井組の本間の兄貴です、自分とは五輪下がりの兄弟ですが、自分が稲川直参となれば、貫目が逆転してしまいます、本間の兄貴も直参扱いにしていただくなら承諾します。」隆二の提示した条件に石井は「本間は三井組舎弟として稲川の専務理事として初代一家名乗りをしてもらう。」隆二はそれ以上何も言わず、「分かりました」とうなずくのだった。その言葉を聞いて石井以下3名はリラックスした雰囲気となり、やっと酒に手をつけることとなった。
後日本間の様態が回復をもって手打ち式を行われたのだった家業人でも無い愚連隊の本間一派との手打ちは業界でも初めてだった。 本間と隆二は盃を交していないもものの兄弟付き会いをしていたのだが、今後はその付き合いも制限されるようになってしまった、それは本間が三井組預かりではなく、三井組直参となり、三井組若頭、秋河氏との兄弟盃を交したことによって、隆二とに貫目に違いが出てきた。本間は自分の舎弟山本 学を隆二に預けるのだった。本間の金庫番と言われた学は、隆二の舎弟山本 武の実弟でもあった。
そんな会話の日から一ヶ月後、小樽の祝津温泉の大宴会百二十畳の大広間には、羽織袴姿の隆二が下座の席に座っていた。上座には北海道木暮連合会四代目水野四郎総長が鎮座していた。媒酌人の言葉で襲名式典が始まる。「只今より北見関保会四代目、改め初代竜神一家初代襲名式を執り行います、北見関保会預かり水野総長より代名盃を下ろしていただきます、御前にに御座います盃お気持ちを残しまして、お飲みください、受けます盃、伊藤隆二殿、御前に御座います盃、腹定まりましたら、一気に飲み干し懐深く収め下さい。」隆二は一気に飲み干し、和紙の包み懐深くしまうのだった媒酌人の口上はさらに続き「では、席をお変わりください・・・席が変われば当代です」会場には万来の拍手がなり響いた。「只今より稲川会理事長石井様から守り刀一振りと、稲川会承認書譲り受けの義を行います。会場はピーンと張り詰めた空気を漂わせ承認書を読み上げられていった。