難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで10人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1 37歳看護師(中等度難聴)
 2 28歳作業療法士(高度難聴)
 3 30歳ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4 31歳ろう学校教員(重度難聴)
 5 27歳公務員(中等度〜高度難聴)
 6 28歳劇団員(高度難聴)
 7 29歳鉄道会社社員(高度難聴)
 8 39歳会社員(重度難聴)
 9 31歳歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
  11 29歳保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.14 テクノロジーの進歩に胸躍る時

2024年06月29日 | 日記

       AURACAST   HPより  https://www.bluetooth.com/ja-jp/auracast/assistive-listening/

テクノロジーの進歩に胸躍る時

<埼玉県難聴児を持つ親の会主催 講演会にて>

 去る5月19日(日)、市民会館おおみや(RaiBoc Hall)で、埼玉県難聴児を持つ親の会主催の講演会があった。今回の講師は、補聴器相談室ライカ(北本市)の柴田治さんだ。子どもの補聴器の相談に親身になってくださるので、この辺では有名で人気のある補聴器屋さんだ。補聴器自体の歴史や変化、そして補聴援助システムのこと、リモートフィッティングのこと、スマホとの連携、音声認識アプリとの連携などの説明があり、こういう時代になったんだなあと改めて感じ入った。中でも興味深かったのは、「Bluetooth Auracast」(ブルートゥース オーラキャスト)なるものの出現予告だった。

  Auracastは、1台の送信ディバイスから大量の受信ディバイスへの音声送信ができるもので、例えば、公共施設や店舗に設置されている無音テレビの音声を自分のデジタルイヤホンや補聴器で直接受信できるような仕組みだ。駅や空港のアナウンスも設定しておけば、自分の補聴器やデジタルイヤホンで直接受信できるのだ。難聴者は、電車内のアナウンスやホームでのアナウンスは、なかなか聞き取れないが、Bluetoothによる直接受信ができるようになるというのだ。講演などでは、自分の選ぶ言語での音声が受信できたりするという。(https://www.bluetooth.com/ja-jp/auracast/assistive-listening/)

 これが実現できれば、かなり暮らしやすくなるのではないだろうか。駅のアナウンスなどが、補聴器で直で聞けるなら、うれしい人はたくさんいるだろう。

 

 

<デジタル聴診器の話>

左が3Mリットマンコアデジタルステソスコープ 右はネクステート

写真はTさん提供

 

 それからもう一つ、胸躍る話があった。この講演会の前日に、難聴児保護者のTさんから連絡があった。Tさんは、娘のHちゃんがこの春看護師養成校に入学し、勉強を始めている。感音性難聴70dBのHちゃんが使用可能なデジタル聴診器を探していたのだが、実際に出回っているデジタル聴診器がよく聞こえずに困っていたのだ。Tさんは、ネットで調べるうち、日本という範囲でなく、海外も含めて探さなければダメだと気づき、海外のYouTubeを調べたそうだ。そして海外の「聴診器オタク」みたいな人のYouTubeを見つけ、そこからの情報で、3Mリットマン コアデジタルステソスコープを見つけた。それを実際に取り寄せて、試してみて、ラインをくれたのだった。

「夜分にすみません!感極まってしまいました・・・。補聴器ともバッチリ同期できて、もちろんヘッドホンも使え、ボリュームも調節でき、ノイズは入らず、チューブ無しのヘッドのみで使えて、かつ補助的にスマホで波形を視認でき、Bluetoothもメチャクチャ安定・・・もはやメリットしかない!ワクワクしますー!」

 この知らせに、私もテンションが上がった。すごい、すごすぎる、自力で探しちゃったんだ!Tさん! Tさんは、昔からディバイス関係に強く、最新の最高のものを追求する人だ。今回も脱帽だった。

私の知る範囲でも、難聴者で看護師をしている人は、2名いる。そのうちの一人は、Sさんで、2000年頃にアメリカから当時20万円くらいしたデジタル聴診器を取り寄せ、以来20年以上その聴診器を使い倒していた。もう一人のMさんは、カチューシャ型の骨導補聴器とデジタル聴診器を、ロジャーやマイリンクをからませて、極めて複雑な使い方で使用していた。聴診がよりスムーズにできるようになることは、難聴看護師にとって画期的なことだ。

 SさんとMさんに是非新しい聴診器を見せてあげたいと思い、二人に連絡すると、Sさんは、講演会の場に来てくれることになった。Mさんは、仕事で来られなかった。

 親の会の会長が機転をきかせてくださり、柴田さんの講演の最後にTさんもデジタル聴診器のホットな話をみなさんの前で話すことができた。そして、興味のある人は、補聴器だけでなく、デジタル聴診器も試聴することができたのだった。そして急遽かけつけてくれた看護師のSさんも、即決でその新しい聴診器の購入を決めたのだった。

 もちろん金銭的な負担のあることだが、医療を目指す難聴者にとって、聴診器が使えることは大事なことだろう。こういうことが少しずつ、テクノロジーの進歩によって、ハードルが下がることは、うれしい。

 

 聴診器を試す練習台になってくれた、補聴器相談室ライカの柴田さんありがとうございました!

 親の会の皆様ありがとうございました!

 それからTさん! 最新の電子聴診器情報をありがとうございました!

 

 


NO.13「わたしのきこえ」を説明すること

2024年06月15日 | 記事

「わたしのきこえ」を説明すること

   〜ひかるちゃんとほちょうきちゃん〜

 

 ライカブリッジのメンバーが、知り合いの方が難聴の我が子(保育園児)のための動画を保育園とともに作成したということで、そのURLを送ってくれた。

 今は、個人でこんな素敵な動画が作成できるんだなと感心した。お子さんは保育園の年中さんなのだが、この動画へのお友達の反応はどうだったかなどが知りたくなり、その方に連絡をとらせてもらった。

 きけば、初めは、お母さんが我が子のきこえのことを、お友だちに少しでもわかってもらうために、紙芝居を作成した。人物画は全部お母さんの自作だそうだ。補聴器と背景画はネットで拾い、一度IPadの作画アプリに取り込んで編集して仕上げた。それをラミネートして、紙芝居にして、保育園で子どもたちに読んでほしいとお願いしたのだそうだ。

 保育園は、快く引き受けてくださっただけでなく、園長先生が、これを動画にして、保育園のサイトにアップすることまで提案してくださったのこと。結局動画作成に保育園も協力して、語りは担任の保育士の先生が引き受けてくださったそうだ。

 園長先生の対応の素晴らしさに感銘を受けることしきりだった。幼児だって、何らかの事情のあるお友達に対して、自分にもできることがあることは、学べるものなのだと思う。むしろ、小さいうちから、色々な友達がいて、色々な個性があって、なにか困りごとのあるお友達もいる、そして色々な友達がいることを尊重することが大事だということを是非学んでほしいと思う。

 

 この動画の主人公は、ひかるちゃんという保育園児さんだ。聴力は右90dB台、左70dB台で補聴器を0歳から装用している。今のところ、ご両親は、きこえる子どもたちの中で育てたいと希望されているということだが、そのためには、まわりの理解を得るための努力をする覚悟をされているのだろうと思う。お母さんは、難聴全般というよりも、「ひかるちゃんのこと」を理解してもらいたいという気持ちで作成されたそうだ。そして、本人の気持ちを大事にしながら、なるべく補聴器のことをオープンにして、堂々と生活してほしいと願っている。

 

 「難聴全般のこと」よりも、「ひかるちゃんのこと」をわかってほしいという気持ちに対しては大いに共感するし、大賛成だ。大事なのは、ひかるちゃんを周りが知ることだ。ひかるちゃんとどう付き合うかがわかることだ。最近思うのだが、小学校でも「難聴理解授業」がされることがあるが、難聴自体の説明や補聴器の説明があってもよいが、一番大事なのは、そのお子さんが日常のどういう場面で、どのようなきこえにくさがあるかということを、できるだけたくさんの具体的な場面について、わかりやすく伝えることだ。その上でどんなことが助けになるかをやはり具体的に伝えることに意味がある。

 それでこそ、ああ、◯◯ちゃんには、こういう場面では、こういう困り感があるんだなという具体的な理解が進むし、どう対応するとよいかも知ってもらえるのだと思う。

 

 さて、実際に保育園で自分が主人公の紙芝居とか、動画が使われて、ご本人の反応はというと、恥ずかしがったり、嫌がったりはしないかというお母さんの心配をよそに、「ひかるのお話だ〜」と照れながらもうれしそうだったようだ。自分がかわいいイラストになるのは、結構嬉しいことに違いない。これを切れ目なく続けていってほしいなと思う。もちろん本人とよく話し合いながら。

 

 そして、まわりの反響について。保育園の友達のお母さんから、「ひかりちゃんのお耳のことは知ってたけど、じゃあどうしたらいいかって知らなかったの。動画を見て、気づかなかったら、ちょっと肩をさわればいいんだねとか、家で子どもと話したよー。」などと言ってくれたそうだ。まだ幼児なので、親御さんと一緒に見て話し合うことも大事なのだ。そういう意味でも動画を誰でも見られるようにすることには意義がある。

 また、動画を紹介した難聴の小学3年生のお子さんを持つ知人の方もお子さんと一緒に見て、その3年生のお子さんが「タオルがタルに聞こえちゃったり、自分のせいじゃないけどそう聞こえちゃうこともめっちゃわかる!小学校でもこれ流してほしい!」と言ったとか。やっぱり、わかってもらいたいのだ。

 動画の手応えは十分にあったようだ。思春期に、そういう自己開示を恥ずかしがるようになる人も少なくないのだが、全力で「恥ずかしいことじゃないこと」を小さい時から伝えてゆくことは、堂々と自己開示できるようになることにもつながるのではないかと思う。

 

  難聴は、程度の差もあるし、その人の性格とか、家庭環境とか、得意なこととか、本当に個人差が色々ある。私は、常々「私のきこえリーフレット」みたいな、その人の場合のきこえについてわかってもらうような、その個人の状況に即したリーフレットがあるといいなと考えている。

  成人のインタビューをしていても、自分のきこえについて、きこえる人たちにどうわかってもらうか、その説明はどのようにしたらよいか、結構みんな悩んでいると感じる。

 タイトルも好きなものを選んで、どう説明するかも自分に合わせて選んで、イラストも自分の好みに合わせて、自分にカスタマイズできるリーフレット作成アプリ?かなんかあったらいいなと思う。いきなりアプリ作成とまではいかなくても、好きな画像や文章を選べるようなリーフレット作成に役立つような何かを今考え中である。社会人でも使えるようなものがあるといい。

  「そうかー、テレビも字幕があると助かるんだ〜」「学校の校内放送聞き取りにくいんだね。」「グループでわいわいおしゃべりしてる時、話についていけないのね〜」など、そうだったんだ、と理解してくれ、何か自分にできることはないかと考えてくれる友達は、必ずいると思う。まわりの子どもたちにも大切な学びになるのだ。

 

  ひかるちゃんのお母さんの許可を得たので、ひかるちゃんの動画のURLをご紹介する。

 一つの参考にしていただけるといいなと思う。

 

「ひかるちゃんとほちょうきちゃん」

 https://youtu.be/F9ZbSyqL0ag?si=bJiYLoBYU3NG5mha


NO.12 わたしの難聴ヒストリー⑧ (社会インフラ関係会社社員 なおさんの場合)

2024年06月13日 | 記事

なおさん 会社員 39歳 両耳105dB   補聴器装用 

 

 なおさんは、1歳過ぎに発語がないために病院に行き、そこで専門病院を紹介され、重度難聴と診断された。すぐに療育施設を紹介されて、私たちの施設に通い始めた。また布おむつを使う人が多かった時代だった。布おむつを抱えての通園は大変だっただろうと思う。

療育施設は、なおさんと同じ年齢の子どもが多かったので、賑やかだった。なおさんは、なかなかわんぱくで、やんちゃで、けんかもたくさんした。お母さんはなおさんをとっても可愛がっていて、なおさんが泣いてお母さんのところにいくと、いつもしっかり抱きしめて慰めてくれた。なおさんは、その頃の幼馴染数人とは、ずっと長く付き合っているいるようだ。

現在なおさんが勤めている会社は、社会インフラ関係の会社で、仕事の内容は、製品の性能機能を試験する自動試験ソフトの開発や現場業務支援ツール開発、部内ホームページ管理、情報セキュリティ関連業務などだそうだ。

今回のインタビューでは、詳しくきけなかったが、デフテニスでは、10年ほど前に日本代表を務めたそうだ。

コミュニケーションは、口話も手話も両方できる。インタビューでは、手話と口話を使用した。

 

【 なおさんのヒストリー 】  

 

<療育施設のこと>

  覚えていることは、太鼓の発表会のこと、ダンボールで何か製作したこと、避難訓練をしたこと、プールで遊んだことなどである。友達から離れて、個別指導を受けるために、別室に入るのは嫌だったことも覚えている。

<地域の小学校のこと>

地元の小学校に通った。小学校の時は、自分のきこえについてあまり気にしていなかった。まわりの子全員が自分の耳がきこえないことを知っていたので、安心感があった。

<中高生の頃>

中学校になると、他の小学校からの友達も入ってきて、きこえないことを理解してくれない人も増え、またコミュニケーションの壁も見えてきた。それで、母や先生に相談したりしていた。

高校になるともっともっと大変になった。勉強の内容も難しくなり、専門用語だったり、聞き慣れないことばが増えてきた。高校に行く時にろう学校を選択しなかったのは、ろう学校の存在をよく知らなかったからだ。高2の時に筑波技術短期大学(現在の筑波技術大学)を見学に行ったのが、ろう学校を見学した初めての経験だった。今から思うとろう学校に行っていた方が、勉強面では楽なところもあったと思うが、中学、高校と友達もいたので、その友達に支えられていた面もあった。

 高校の時、コミュニケーションの壁があったので、自分で指文字を覚えて、4人くらいの友達に教えてあげた。友達と少しでもコミュニケーションを取りたいという気持ちだった。すると、友達は、近くにいる時は、通訳してくれるようになった。しかし、だんだんと友達が指文字を使うのがうまくなってきて、早くなったので、今度は自分が読み取るのが難しくなったなんていうこともあった。

 学校生活でいじめられたこともある。しかし、自分は負けず嫌いでいじめられたら、やり返した。でも揉めているうちに、結局はその子と仲の良い友達になったりした。

自分は中高と地域の学校でがんばれたのは、一つはもっと勉強したいという気持ちがあったから。それからもう一つは、理解してくれる友達がいて、助けてくれたこと。その両方があって、乗り切れたのだと思う。やはり友達を大事にすることが一番だと思う。地域の学校に行って友達ができたことは、よかったと思っている。

まわりの環境が嫌だと感じるならば、ろう学校を選択した方が良いと思う。

 

<埼玉県難聴児を持つ親の会との関わり>

 

 中高生の時は、悩みがあった時は、埼玉県の難聴児を持つ親の会の行事に参加することも心の支えになった。耳が聞こえないのはぼく一人じゃないんだということがわかって、ちょっとがんばれる気持ちになった。親の会には、幼児の時から親に連れられて、参加していた。成長してからも、毎年参加して手伝ったりした。高2からは、勉強が忙しくて参加しなくなったが、社会人になってから、また参加して、子供のころにお世話になった恩返しをした。子供達や、親御さんたちに自分の体験談を話したりした。親御さんたちは、悩みをたくさん抱えている。でも心配しすぎることはよくないと思う。自分の親もすごく心配しすぎるところがあったが、それで、心配させないようにがんばったということもある。

 

 

<大学の選択と大学生活>

 

 高校の時、大学のオープンキャンパスに母と一緒に色々回った。やはり耳がきこえないので、不安はたくさんあった。そこで、大学のろう学校みたいなところはあるかどうか調べたら、筑波技術短期大学(今の筑波技術大学)があった。そこは、大手の会社とのパイプも持っていていいなと思った。結局そこに入学することになった。

 大学に入ってから手話を覚えた。授業も全部手話で情報保障が充実していた。寮生活だったので、ずっと友達と一緒でとても楽しかった。手話は、入学後半年でマスターした。

友達は、明るく、ハイテンションで、会話もとても楽しく、それまで色々悩んだことも馬鹿馬鹿しく感じた。

 

<社会人になって>

 

 大学生活、寮生活は本当に楽しかったけど、社会に出て、またきこえる人の世界に入ることになった。今いる会社は、自分の部署には、聞こえない人がいないので、また悩みのある生活になった。

まわりが皆聴こえる人なので、どうやって、きこえのことをわかってもらったら良いかがわからなくなることがある。新しい出会いの度に、説明しなければならないので嫌になることもある。また、説明しても、どう対応してもらえるかが問題だ。

自分の職場は、部署は異なるが、まだきこえない先輩がいるので、先輩が開拓してくれた分、だんだんとわかってくれる人が増えていることもあり、マスクを取って話してくれたりすることも多くなってはいる。先輩には、悩みを相談したりする機会もあるので助かっている。だから大変だけど、僕はまだ恵まれている方かなと思う。

 また、まわりに分かってもらうには、課長とか上司には、よく相談することが大事だと思う。上司からみんなに伝えてもらうとうまくいくこともある。上司は、ゆっくり話したり、分からない時は書いてくれたりしている。僕の知り合いに、上司がよくわかってくれず、仕事をやめてしまった人もいる。

 幼馴染の難聴の友達の場合は、一緒に仕事をする人たちに聞こえない人が多いので、コミュニケーション手段は手話が中心であまり問題はないようだ。彼と同じ悩みを話し合ったことはない。つまりどういう環境で仕事をしているかによって、違ってくる。

 

 2年前に結婚した。友人に紹介されて出会った。彼女は、きこえの程度が重く、補聴器も使っていない。だからコミュニケーション手段は手話である。結婚当初は、生活スタイルの違いでなかなか大変なこともあった。今は、落ち着いて幸せだと感じている。

 

<インタビューを終えて>

 

 なおさんは、今なら人工内耳も選択肢に入る重度難聴である。なおさんの時代は、補聴器を最大限活用して、聴覚を最大限活用することが奨励されたが、それでも、彼の聴力だと、ずっと地域の学校でがんばることは、並大抵ではなかっただろう。親御さんの「地域で育てたい」という強い希望もあったろうし、学校への働きかけもされたのだと思うが、今よりもっともっと情報保障への理解がなかっただろうし、ほとんど自力で友達関係を構築したことは、改めてすごいなと思う。

 負けず嫌いで、いじめられても、そのまま引き下がることなく、やり返し、結局は、友達になったというエピソードは、彼の対人関係の底力や自尊感情の強さを感じさせるエピソードである。ではなぜ、彼にはそのような力があったのかということについてだが、元々の性格もあるが、幼児期の姿を知っている我々には、同時にお母さんや家族の深い愛情が彼を一番底の方で支えているのを感じるのである。

 友達とのコミュニケーションは決してスムーズにはいかなかったのだと思うが、自分で指文字を勉強し、友達に教え、その友達がどんどん指文字が上手になって、通訳をしてくれたというエピソードも、単純に良い友達に恵まれただけではなく、彼の友達に働きかける力もあっただろうと思う。

 地域の学校でがんばれた理由は、「もっと勉強がしたい」と「友達が助けてくれた」という二つが理由だったということだが、助けてくれる友達を作ったのは彼だったのかもしれない。今でいうセルフアドボカシー(自分に必要な支援を求める力)の力もあったのだろうという気がする。

 それから埼玉県の難聴児を持つ親の会のキャンプなどへの参加が彼には大きな支えとなったことも特筆すべきことだろう。大きくなってからも恩返しとしてお手伝いで参加続けたことも素晴らしい。

 筑波技術短大での楽しい生活で手話でのコミュニケーションの楽しさを知った彼だが、就職して社会人となり、再びきこえる人たちに囲まれて仕事をするという、なかなか大変な環境に身を置くこととなった。今の時代も聴覚障害者をめぐる情報保障はまだまだなのだなと思う。最近また彼と連絡を取ったが、社内で、聴覚障害者の社内交流会(情報交換会)があり、それをきっかけに環境がよりよい方向にいけるといいなと思うとのことだった。

 まだ30代はじめ、是非がんばってほしいと思う。


No.11 わたしの難聴ヒストリー⑦(鉄道会社社員 ゆきさんの場合)

2024年05月17日 | 記事

ゆきさん 鉄道会社勤務    29歳  右94dB   左99dB 補聴器装用

 

 ゆきさんは、2歳の時にご家族が聞こえの反応やことばの遅さで、専門機関での幼児聴力検査してもらったが、その結果、聴力に問題なしと言われてしまい、少し遠回りして、3歳で私たちの療育施設にきた。その頃は、たまにそういうことがあった。聴力は、その頃80dB台であったが、今は90dB台とのことだ。

  療育施設でのゆきさんたちのクラスは、人数が多かったので、ゆきさんはここでたくさんの友人と出会った。保護者さん同士も、お互いに支え合うよい関係だった。卒園してからも、連絡を取り合い、夏休みなどには、一緒に遊んだりしていたし、子供達が大きくなると、自分たちで会うようにもなった。社会人になった今でも、年に2回は集まって、お互いの近況などについて話合っているし、何かおめでたいことがあるとみんなでお祝いしたりしているようだ。頼んでおくと私にも集まった時の写真を送ってくれて、うれしい。

  今回、ゆきさんにインタビューをお願いすると、快諾してくれた。自分の経験が誰かの役に立つのはうれしいと言ってくれた。そういう心持ちも大変うれしい。横のつながりも縦の繋がりも応援したい。

 

【 ゆきさんのストーリー 】

<幼児期・小学校時代> 

 

 療育施設の思い出は、和太鼓を練習したことや、劇ごっこをしたことなどで、そういう行事が楽しかった。並行して幼稚園にも通っていた。

 幼稚園、療育施設を卒園した後、地元の小学校に通った。雑音防止のために教室の椅子すべてにテニスボールをつけてもらった。席も前の方にしてもらっていた。ほとんどが幼稚園からの友達で、今思うと皆自分のことをわかってくれる子ばかりだったように思う。あまりきこえのことで困った記憶がない。

 3、4年生の時、ノートテイクも希望すれば、やってもらえそうだったが、断ってしまった。今から思うとプライドがあって、他の子と同じように扱って欲しいという気持ちが強かったし、目立ちたくなかった。友達に気軽に話しかけてもらえなくなるという心配もあった。

 席替えも本当は、皆とおなじようにくじ引きで決めたかったが、それは前の方にしてほしいという母からの要望が出ていたので、諦めた。自分がみんなとは違うということを意識したのは、席替えで自分だけ、くじ引きができなかった時からだったように思っている。

 きこえなくて困った記憶はあまりないが、音楽の授業は、できないことが色々あった。鍵盤ハーモニカを真似してひくことは難しかった。

 

<中学校時代>

 

 中学校も小学校からの友達が多かった。しかし、段々勉強も難しくなっていたし、6年生の時に、地域の中学校かろう学校かどちらに進むかで少し迷った。ろう学校に見学に行ったりした。見学してみて、確かに授業はろう学校はわかりやすいと思った。

 しかし、遠いところを通わなくてはならないし、何よりもこれまでの友達と離れるのは残念だと思った。結局勉強よりも友達を優先して、地元の中学校への入学を選んだ。勉強のわからないところは、お母さんにきいたと思う。お母さんは、参考書などを買って、一緒に勉強してくれたりした。

 高校受験の時は塾で個別に教えてもらった。個人的に教えてもらうとよくわかった。高校選びの時は、選択肢にろう学校はなかった。公立の工業高校を受験した。前期の面接は難しいだろうと思って、後期の試験でがんばろうと思っていたが、前期の面接で受かってしまった。

 面接では、「お菓子のパッケージはどんなものをイメージするか」ときかれたり、「新聞は読んでいるか」きかれたりした。新聞は、こぼちゃんを読んでいたが、それは言わず、地元の出来事などのニュースのところを読んでいると答えた。政治の欄を読んでいると言うと、政治のことをきかれるかと思って、言わなかった。予想に反して、面接で受かってしまった。

 

<高校時代>

 

 工業高校だったので、聞くだけの授業の割合は多くなく、実際にものを作ったりする授業が多く、楽しかった。ただ、英語だけはいつも赤点だった。別に英語は、外国にも行かないし、使わないからいいやと思っていた。しかし、後に鉄道会社に就職してから、駅員をしていた時に、お客様にご案内する仕事をしていて、外国の人のお客様が多かったり、自分が海外旅行にはまったりしたので、勉強しておけばよかったと後悔した。 英語はレポートを提出したりして、なんとかクリアした。

 就職については、初めは地元の老舗のお菓子屋さんに就職したかったが、難聴があるということを学校の先生が伝えると、面接を受けてくれなかった。そこで、受け入れてくれるという会社を先生が教えてくれて、それが今の勤め先の鉄道会社だった。

 

<鉄道会社に勤めて>

 

 18歳で入社して、初め2ヶ月は新入社員研修をした。その研修の時、列車防護というのがあって、レールになんかあった時に大声で列車を停めるというのがあり、その大声を出すというのが苦手で難しかったと記憶している。

 研修後に各駅に配属され、自分は東京駅に配属された。初めは駅員として新幹線東京駅のホームに立った。また改札に立ったり、窓口で切符を作ったりした。ホームなどでのお客様対応は、初め大変だったが、質問のパターンが大体決まっていた。トイレはどこ?大丸はどこ?何時何分の電車は何番線?などの質問が多く、そのパターンを把握してからは、接客ってこんなに楽しいんだというのを知った。相手に喜んでもらえるのは、やりがいがあって楽しかった。 高校の時は接客なんてとんでもないと思っていたがいざやってみると、きこえる友達の中で鍛えられたおかげで何とかやれたのだと思う。

 しかし、お客様に後ろから呼ばれて、気づかなかったことも何回かあり、そのうちの1回は、なんで無視するんだ!と怒鳴られた。その時はたまたま近くにいた同期の友達が代わりに謝ってくれた。が、悔しい思いだった。その時から、周りをよく見るように努力したり、困っているお客様がいないか自分から目を配ったりするようにした。

 

 通常のコースとしては、駅員を3年やって、次に新幹線の車掌になり、車掌を5年やると、全員ではないが、今度は運転士になる。運転士になるには、厳しい訓練を受けて、さらに半年研修を受けて、その後見習いを半年やってようやく運転士になれる。女性でも運転士に成る人は、珍しくなく、例えば出産後に運転士となって復帰する人もいる。

 しかし自分は駅員としての仕事、ホーム、改札に立つ、切符を作成する窓口業務のいずれも、最後まで一人立ちができなかった。本当はどれも一人でやってみたかったが、ホームは騒がしく、きこえないと何かあった時にすぐに対応することができない。窓口での切符作成も切符を作る際に色んな質問がくるので限界があった。改札もすべてのお客様の質問がききとれるわけではないし、結構頻繁に業務での電話がかかってくるが電話も難しかった。流れてくるアナウンスをききとって案内するのも限界があった。

 結局駅員を3年やって、同期が皆車掌になっていく中で、自分は、「わかっているとは思うけど、あなたにはこのまま駅に残ってもらいます」と言われた。それで駅員として残り、結局6年間駅員をやり、そのほとんどは、新入社員の教育係をやった。

 今、同期がどんどん運転士になっているのだが、自分もきこえていたら、なっていたのかなと思う。この会社に入れたからには、やってみたかったと思う。でも1300人のお客様の命を預かると思うとやはりちょっと無理かなと思う。

 そして、5年前に今いる営業課に配属された。そこでは、団体旅行の予約の処理や、列車の変更があった時に券売機に変更をかけるシステム(マルス)の管理などをしている。コロナ対応とか、冬休みなど、新幹線の運行に変更がある時は忙しい。接客ではなく、裏方なので制服も着ていない。コロナの最中は、皆マスクをしているので、接客は難しいが、コロナが終わったら、もう一度接客はしてみたいなと思っている。

 今の営業課の仕事は、上司と先輩と自分の3人でチームを組んで行っている。上司は耳のことをよくわかってくれる人で、上司の方から「しゃべる時は、マスクをはずした方がいいよね」と配慮してくれている。先輩は、自分より後からこの部署に来た人だが、この部署に来る前に予めメールで「自分には難聴があること。マスクをしていても大きめの声ならわかるが、外してもらったほうが正確に伝わること」を伝えておいた。それで、先輩は、話す時はマスクをはずして話してくれる。しかし先輩は、他の人と話す時もマスクを外す癖がついてしまったようで、申し訳なく思っている。

 まわりの人が気持ちよく協力してくれている。まわりとの人間関係は大事だと思っていて、それを大事にすることで、気持ちよく協力してもらえると思っている。また、今後異動があった時にまた環境が変わる可能性はあるなとは思っている。

 

<友達のこと・デフフットサルチームのこと>

 幼児期に同じ療育施設に通った友人たちとはずっと付き合っている。年に2回くらい集まっている。お互い難聴同士でも、ずっと口話で話をしていたが、皆段々手話もできるようになって、自分が一番手話に関しては遅れていた。一緒に旅行に行った時は、お風呂の時など、補聴器をはずした時は会話についていけなかった。ずっと手話は覚えたいなとは思っていたが、普段使わないとなかなか身に付かない。

 3年前に療育施設の後輩に誘われて、デフフットサルチームに参加した。初めは、埼玉女子チームを立ち上げる時に誘われたが、自分には無理だと思って断っていた。しかし、その後メンバーが足りないからお試しでもいいから来てほしいと言われ、試しに手伝ってみたところ、思いの外、楽しくて、はまってしまった。

 フットサルのおかげで、友達が増えた。ろうの友達もできた。おかげで、手話ができるようになった。手話で会話する楽しさを知った。土日や、仕事帰りにもやっている。仕事だけでない楽しみもできて、充実した生活を送っている。

 

<インタビューを終えて>

 

 ゆきさんは、鉄道の駅員を経験して、ホームでの駅員業務、改札での切符作成、窓口でのお客さま対応など、自分なりに工夫し、努力し、接客の楽しさややりがいを知ったと言う。「接客は初めからあきらめることはないよ、やってみればできるし楽しいよ!」ということを後輩たちに伝えたいとインタビューをお願いした時にも言っていた。

 そういうポジティブなメッセージを第一声で伝えられるのは、改めてすごいなと思う。インタビューを進めてゆくと、同期が通常のコースを進む中で、自分だけ、駅員として残るという苦い経験もしていることがわかった。

 駅員としての接客業務は、想像以上に楽しかったのに、ホーム、改札、窓口いずれも誰かのサポートを必要とし、独り立ちできなかったことについては、その当時はきっと悔しい思いをしたのだろうと察する。

 また、後ろから話かけられて、無視するなとお客様にどなられた悔しい経験もあった。しかし、その経験を活かし、周りを自分から見回したり、自分から困っているお客様を探すようにしたという彼女の努力の姿が心に残る。へこんでいるばかりではないというのが彼女らしい。できなかったこと、させてもらえなかったことを全面に出して、困難さをアピールするというよりも、できる部分、楽しかった部分をアピールするところが、ポジティブで彼女らしいと思った。

 また、一緒に働く仲間にも、予めメールで、難聴があること、口元を見せてもらえると話がよみとりやすいことなどを伝えるなどして、理解を求めるところも、ゆきさんならではの根回しが、上手だなと思った。

 

  ゆきさんは、幼児期から芯のつよい子だった記憶がある。5歳頃だったか、療育施設で、みなでサッカーのまねごとをした時も、男の子に混じって、果敢に、強気でボールを取りにいく姿はとても印象に残っている。決して自己主張の強い目立つタイプではないが、意味なく引き下がることはなく、やりたいことはやりたいとはっきり意思表示する子だったように思う。一見おとなしそうだけど、1本筋が通っているというのが私の印象である。

 だから、大人になって、できれば同期と同じように新幹線の運転士がやってみたかったというのは、とてもゆきさんらしいと思えた。調べてみると、国の定めた法律「動力車操縦者運転免許に関する省令」では、運転士は「各耳とも5メートル以上の距離でささやく言葉を明らかに聴取できること」と決められている。聴力として何dBという基準ではないのが、ちょっと法律の古さ(昭和31年つまり1956年)を感じさせるが、乗客の安全を担う仕事として、きこえは条件の一つとなっている。

 医者、看護師、薬剤師などは、難聴があっても門戸が開かれているが、消防士、警察官、列車の運転士などは、まだハードルが高いのだろうか。命を預かるという面では、医師や看護師とて同じと思うが、少なくとも運転士などの方も、もう少し基準を今の時代に合ったものにしてほしいなという気がする。

 

 最後に、これはどちらかと言うと、私たちの、そして指導者側の課題なのだが、小学校の時、ノートテイクは、断ってしまったこと。皆と同じがよかったこと。については、小学校1年から「支援は受けるもの、受けることが当たり前」という空気を作ることも、私を含めて、大人の仕事、学校の仕事として大事だったのだろうと思う。クラスに対する理解授業なども当たり前になるといいなと思う。本人が恥ずかしくなってしまったり、目立つことが嫌になってしまう前に。支援を受けることが、当たり前で目立たないような社会になってほしいと思う。きっとクラスメートにも大切な学びとなるに違いない。

 

 

 

 

 


NO.10 わたしの難聴ヒストリー⑥ (劇団員ひでさんの場合)

2024年04月09日 | 記事

ひでさん 劇団員 29歳 良聴耳80dB台 補聴器装用

 ひでさんは、ご両親がろう者のご家庭に生まれた。高度難聴だった。ひでさんが1歳代の時、他県から転居してきて埼玉県の療育施設に通い始めた。そして、母方の祖父母も他県から転居されてきた。祖父母は、きこえる方で、子どもたちの「聞く、話す」を育てるために同居を決めたのだ。妹さんが生まれたが、その後ご両親は離婚され、お母さんは、祖父母の協力を得ながら、二人のお子さんを育て上げた。ひでさんは、素直なやさしい男の子だった。妹思いでもあり、友達思いでもあった。

 ひでさんは、大人になってから、2回ほど私たちの療育施設にきて、保護者や療育者に経験談を話してくれた。ユーモアもあって話上手だった。実は、この記録は、その2回目の講演の記録である。

 1回目の講演の時は、まだ就職前で、内容的には、自分は、苦労もあったけど友達に恵まれて結構楽しくやってきました、というような内容だったが、2回目は社会に出て色々な経験をし、デフファミリーに生まれた自分のことを見つめ直したより濃い内容の話だった。2回目の講演は、1回目ほどきれいにまとまった内容ではなく、途中で「まとめきれません!」とおどけてみせる場面もあった。しかし、1回目よりももっと自分の本当の思いを伝えようとしてくれたことがわかる内容だった。私たちは、笑ったり、涙ぐんだりして話に引き込まれたのだった。

 彼は、この講演の4年後33歳の若さで癌のため亡くなった。まだ幼い息子さんを残して天国に行ってしまった。あまりにもあっけなく彼はいなくなってしまった。私は、特にこの2回目の講演に字幕をつけて期間限定でYouTubeで配信した。そして、今回、一連の他のインタビューの記録と一緒に、ここに彼の講演もご紹介することにした。今後も彼の濃い33年の人生を大切に語り継ぎたいと思う。

 

【 ひでさんのストーリー  〜講演より〜 】

<学校>

   就職前に一度、昔お世話になったこの療育施設で講演をしたが、その講演ではぼくは、自分を出していなかったかもしれない。見栄や強がる気持ちもあったかもしれない。ぼくは、長い間きこえる人の中で勝手に負い目を感じていた。ずっと相手の顔色をうかがってきた。

 療育施設を卒園した後、小、中、高とずっと地域の学校に通った。その12年間で身につけたことは、何かというと、何かおもしろい話でみんながどっと笑った時に、何がおもしろいのか分からなくても、タイミングよく一緒に笑うことだった。そして、それを深刻に考えることもなく、まーいっかいっかと流すのが自分のやり方だった。

<就職>

 高校を卒業して、障害者の職業訓練校に2年間通った後、IT企業に就職した。そこに5年勤めた。初め、「電話はできますか?」と言われ、「ぼくが難聴だとわかっている人となら電話で会話できますが、ぼくがきこえる人だと思って、わーっと喋られると難しいです。」と答えた。会社はそれを了解してくれた。そして、初めのうちは、顔を見て話をしてくれたり、わかりやすく話してくれたりしていた。しかし、ぼくが普通にしゃべるので、段々みんなそういう配慮をするのを忘れるようになった。

  会議も、自分は聞き取ることが難しいと上の人に伝えていたのに、特に配慮はなく、周知もしてくれなかった。会議の内容がわからず、その時間は眠くなるだけなので、別の仕事をしたいと申し出たが、却下された。それどころか、会議の書記を頼まれたりもした。書記を頼まれた時はさすがにびっくりしたが、あんまり「できないできない」というばかりではいけないと思って、引き受けたことがある。しかし、一人ずつ順番に発言しているうちはよいが、段々みんなが熱くなってきて、複数の人の発言が被るようになると、全くわからなくなり、分からないので寝てしまったのだった。記録はやはりできなかった。

  あとで、書記をしないで、寝ていたことを注意されて、寝てしまったことについては謝った。しかし、「ぼくは、話せるけれども、全部は聞き取れません。まさか書記を頼まれるとは思いませんでした」と抗議した。その時は、会社の人も謝ってくれたが、何度言っても、きこえないことを理解してくれず、周知もしてくれず、段々と嫌になってきたのだった。結局会社の中での自分の存在は軽く捉えられているのだと思うようになった。

<大橋さんとの出会い、そして転職>

  会社に勤めていた頃、大橋弘枝さんという聴覚障害の女優さんの舞台を見る機会があった。ダンスがとても上手で素晴らしい舞台だった。それを見てとても感銘を受けた。ろう者でも舞台に立っていいんだ!!と思った。それまで会社の中で悶々としてきた思いが一気に弾けた。そして、少しでもその舞台に関わりたいと思って、なんでもやらせて欲しいとお願いしに行った。すると、ちょうど男性のダンサーが足りないとかで、大橋さんにダンスやってみない?と言われたのだった。会社に行きながらだったが、まずダンスから練習を始めた。

  ダンスの次には役者にも挑戦した。役者は楽しかった。舞台の上で医者にも弁護士にも何にでもなれるというのがとても楽しく感じた。段々と役者をやりたいという気持ちが膨らんでくる中で、会社での自分の存在意義が感じられなくなってきていたこともあり、会社を辞めることになった。

  会社を辞める前に、人形劇団デフパペットシアターひとみという劇団を教えてもらった。その劇団は、地方回りが多く、全国を回っていた。そこの劇団員になることになった。

  ぼくは、この劇団に入る前は、手話を使うことはあまりなかった。祖父母や母は、ぼくの「聞く話す」という力を育てたいと思っていたので、あえて手話を覚えなさいとは言わなかった。自分も覚えようとは全く思っていなかった。ろう者である母も、がんばって口話を使ってくれていた。子どもの頃から、きこえない人ときこえる人がいることはわかっていたが、母とのコミュニケーションで困ったら、文字を書くことで通じていたので、特に困ってはいなかった。

 社会に出る前に、ろうの友だちに「デフファミリーなのになんであんたは喋れるの?あんたはろうなの?難聴なの?」ときかれた。ぼくが「難聴」と答えると、チェッという顔をして離れていく友だちが何人もいた。それを母に相談すると、「あなたが自分を難聴と思うなら、それでいいじゃない。離れていかない友だちを大事にすればいい」と言われた。確かに、ろうの友だちの中には、「おまえ、しゃべれるの?じゃ通訳してよ。」と頼んでくれる友だちもいた。それで、広く浅くではなく、狭く深い友だちづきあいをすることにした。

 劇団には、口も動かさず、早い手話(日本手話)でコミュニケーションする50代のろうの人がいた。一方で、声と共に手話(日本語対応手話)を使う人もいて、それぞれが会話をする時には、同じ聴覚障害者なのに、通訳が必要だった。そういう色々な人と毎日付き合っているうちに、段々とぼくも手話を覚えてきて、声なしの早い手話(日本手話)もできるようになった。(ひでさんが劇団でろう者と難聴者、聴者の橋渡しとして働く姿は、NHKのハートネットTV、または、その前身の番組でも紹介されたことがある。)

( ※ 注  日本手話 →  ろう者の伝統的手話、日本語対応手話 →   日本語に対応した手話  両者は、別々の文法を持つ異なる言語。)

<母とぼく>

  ぼくが、家でその声なしの手話(日本手話)を使った時は、母は驚いていた。しかし、同時にとてもうれしそうな顔をしていた。その時初めて、ぼくは「あ、母は、今まではぼくのために、使いたかった手話を、あえて使わないで接してくれていたんだな」と気づいたのだった。ぼくは、母に尋ねた。「ぼくが(日本)手話を使うことで、お母さんの今までの何年もの間の苦労が無駄になると思わない?」すると母は、「それはあなたが決めることだから、何とも思わないよ。」と言ってくれた。元々仲はよかったが、手話でやりとりすることで、さらに関係が深まった。母とは手話で、祖父母とは口話で話すようになった。

今、仕事でろう学校に行くこともある。最近のろう学校は、人工内耳の子どもが増えてきて、ろう学校でも口話の子どもが増えていてびっくりしている。同時に少し「さみしいな」とも思う。母の時代は、ろう学校で手話は禁止されていたので、母たちは学校ではがんばって口話を使い、家に帰ったり、友だち同士では手話を使っていた。それが段々ろう学校でも手話を使っていいんだよというふうに変わったのに、今度は人工内耳で口話が主流になっていて、なんだか不思議な気がする。手話か口話かは、大人が決める。どっちじゃなきゃダメということはない・・・。ぼくはどっちでもいい・・・。ただ、母にはすごく感謝している。(ここで時計を見て、時間が押していることに気づき、あわててどうしても触れておきたいという祖父の話に移った。)

<祖父のこと>

 母がろう者だったので、他県から祖父母が孫と一緒に暮らすために来てくれた。ぼくは初めは祖父母と一緒に暮らせることを喜んでいたが、ぼくが小学校に上がったとたん、祖父は厳しくなった。ぼくは、ぼくが何か悪いことをしたから祖父に嫌われたんだと思った。

 祖父はことばの教室にも来てくれて、そこで教え方をメモして、家で訓練した。学校から帰宅すると、遊びに行かせてもらえず、家で勉強させられた。50音を一つずつ発音させられたり、いろんなことを教えられた。間違えるとげんこつが飛んできて、それがとても痛かった。小学校1年から3年までは訓練され、間違えるとたたかれるという体育の先生と生徒みたいな関係だった。

 ぼくは、小、中とぼくのことをよくわかってくれる友だちのいる地域の学校に通った。そして高校は公立の高校に進んだ。高校では、知らない友だちばかりの環境になった。高校に入った時、友だちに、「おまえ、補聴器はずしたらきこえないんだろ?だけどそんなにしゃべれるなんてすごいなおまえ。」と言われた。その時初めて祖父があんなに厳しく訓練してくれたことの意味―きこえる人と対等にいられるようにーに気づいた。それで、学校から帰って、「今日学校で友だちにすごく褒められた。それはおかあさんやおじいちゃんのおかげだと思う」と話をした。すると祖父は、「本当はよくある孫とおじいちゃんの関係でいたかった。だけど、おまえは父親がいないからその代わりをするのはおれしかいないだろ?だからしつけも厳しくしたし、ことばの訓練も本当は遊ばせてやりたかったけど、社会に出た時に困らせたくなかったからやったんだ。お母さんが社会に出たときにすごく苦労したから、それもあってやったんだ」と語って、初めて涙した。その時は、ぼくも一緒に泣いた。それからは、普通のおじいちゃんと孫の関係で暮らした。祖父は、3年前に亡くなった。

 ぼくは総じて環境に恵まれていたと思う。学校で特にいじめに遭ったこともないし、幼、小、中、高と色々な方々にお世話になり、ありがたいなと思っている。

 

< あとがき >

 講演は少し時間が足りず、最後は、少々無理やりまとめて終了となった。本当は、ひでさんは、もっともっと言いたいことがあったのではないかなと思っている。もう少し突っ込んで話をきいておけばよかったと今になって思う。

 

ここで少し歴史的な背景を説明する。

 

<ひでさんのお母さんが学校生活を送った時代> 

 ひでさんのお母さんが育った時代は、日本の多くのろう学校で手話が禁止されていた時代だった。その理由は、ろうであれ、「日本語」を学ぶべきだという当時の「文部省」の方針だった。お母さんは、高度難聴にも関わらず、ご両親がきこえる方だったので、学校でも家でも口話を求められた。しかし、充分な補聴もされないままの口話教育には限界があり、コミュニケーションの手段にはなり得なかった。本当は、「言語習得」だけでなく、周りの人たちと「コミュニケーション」がとれる手段が絶対的に必要だったのに、そこが見落とされていた。ところがどっこい子どもたちは逞しい。ひでさんのお母さんたちは、先生の見ていないところでは、子ども同士で手話を身につけていった。上の子ども達が下の子どもたちに伝えたところもあっただろうし、デフファミリーの子どもたちは、家庭で手話を自然に学んでいたのだろう。結局お母さんたちは、口話よりも、ろう者の言語である「日本手話」を身につけた。

 

<ひでさんたちが育った時代> 

 補聴技術が進歩して、聴覚を活用することでの聴覚口話教育がそれまでにない成果を上げるようになっていた。ろう学校では、手話は禁止はされることはなかったが、使用されていたのは、口話(音声)と同時に使えるキュードスピーチ(母音や子音を表す手指サイン)とか日本語対応手話などだった。

 ひでさんの時代には、補聴効果が一定以上あり、幼児期の対応をしっかり行えば、1対1の会話は実現可能になっていた。しかし、「聴覚活用」を目指して、耳を鍛錬するという観点から、手話を遠ざける傾向があった。ひでさんの家庭でも、音声での交信が日常的にできるようにきこえる祖父母との同居を選んだのだった。

 一方で、まだ世の中には、情報保障という概念が浸透しておらず、聴覚口話で育った子どもたちは、きこえる子どもたちの「集団」の中で、苦労することが多かった。集団では、雑音の中で様々な音が飛び交い、後ろから横からの複数の音声など、聞き取れないことが山ほどあった。その中で、まわりの空気を読んできこえるフリを身につける子どもが多かったし、どんどん自己不全感を募らせることが多かったのである。ひでさんたちは、お母さんとは別のところで、お母さんとは異なる苦労を体験したと言ってよい。

 

<現在> 

 

 現在は、補聴に関しても、デジタル補聴器、人工内耳の技術も進んできており、補聴援助システムの性能も向上している。難聴の発見も早まり、人工内耳の手術年齢も早まり、両耳人工内耳の効果も成果を挙げている。もちろん課題も少なくないが、高度重度難聴の聴覚活用は以前とは革命的に変化してきているのは事実である。

 また、情報保障という概念が充分と言えないまでも、以前よりは浸透してきているし、合理的配慮は、法的にも正当に要求できるものとなっている。ノートテイク、手話、音声文字変換ツールなどのサポート手段も選択肢が広がってきている。当事者自身がしっかりと自分に合った支援を求める必要があるが、今後もこの領域が進展してほしいところである。

 一方で、「ろう」として生きることを主体的に選択する場合もあり、その生き方も尊重されるようになってきている。日本手話で育てる学校の数が決定的に少なく、まだ教育環境が整備されているとは言い難いが、少なくともそういう選択肢もあるべきだということは、認識されるようになってきている。多様性を尊重する時代では、当然ろうとして生きる道も保障されなければならないが日本ではまだ未整備と言わなければならない。

 

 

 このように時代の推移をみると、お母さんは、きこえないのに口話を強いられるという理不尽な目に遭っている。ひでさんは、話せるようになったが、やはり聞き取りには限界があることを充分には理解されないまま集団生活を送った。私たちもひでさんの時代に療育施設でその時代の色に染って仕事をしていたなと思う。おそらくお母さんは、子ども達に「社会で困らないように」より多くの選択肢を持って欲しかったのだと思うし、私たちもそう思っていた。あの頃、私たちは、聴覚活用し、日本語を習得した子どもたちは、きこえる子どもたちの集団の中でのコミュニケーションではどのような経験をするかについての充分な想像力を持っていなかったなとつくづく思う。

「社会で困らないように」の「社会」そのものが変わっていかなければならないこと、そしてことばの発達が保障されるだけでなく、親子の、家族のコミュニケーションが豊かなものであること、集団の中で充分に情報保障されて、個々の子どもたちの尊厳が守られること等々、今後も課題はたくさんある。

 

 ひでさんが「まーいっかいっか」の生き方をやめて、自分の尊厳に目覚めた大きなきっかけは、大橋弘枝さんというロールモデルに出会ったことだろう。きこえにくさを理解しようとしない会社に見切りをつけ、自分でも舞台に上がっていいんだ!と一歩踏み出した。空気を読んで遠慮して生きるのをやめたのだ。

 しかし、劇団の活動の中で、手話か口話か、ろうか難聴かの二者択一ではなく、「どっちでもいい」または「どっちも受け入れる」ところに彼のアイデンティティは行き着いたのではないかと思う。その辺りはもう少し話をしてほしいところだった。

 そして、自分に深い愛情を注いでくれた母や祖父への感謝で講演は終わったのだった。

 

<大橋弘枝さんのこと>

 大橋弘枝さん(1971〜)は、「もう声なんかいらないと思った」(出窓社)の著者で、聴覚障害のダンサー、女優である。ひでさんより10歳以上年上だが、子ども時代は、口話を学び、やはりきこえる人たちの中で、理不尽な目に遭ってきた方である。この本を読むと、ひでさんとは異なる個性だとしても、口話という選択肢しかない苦しみや葛藤、そしてそれを理解しなかった社会を知ることができる。彼女も紆余曲折を経て、この本の最後で、ろうか難聴かの問いに「私は私!」と言い切った。きっと大切なことは、どちらかを選択することではないのだ。