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雪姫鳥の独り語

雪姫鳥の山暮らし、日常に感じる事。
雪姫鳥のニットの紹介、旅した国の回想。
食べ物や子育て、雪姫鳥のエコライフ。

北海道 初めての一人旅

2010-07-13 18:48:33 | 

1978年9月22日、美幌ユースホステル13周年のパーティを終えて、数日後に旅に出ました。向かったのは知床半島。斜里のユースに宿泊した。

二度とチャンスは無いだろうから、観覧船で知床半島を一周した記憶があります。確か四千円位して、高いと思ったけれど、すごくいいから時間があるなら、経験したほうがいいと、美幌でヘルパーしていた人に勧められた。

今では世界遺産に登録されたから、すごい場所とは思うが、寝てばかりいた。天候も曇りで、岩肌に滝が見えるのだけど、ずっと同じような景色で退屈で、うとうとして時間が過ぎて、写真も撮ったはずなのに、アルバムに無いのは、感動していなかったのだろう。

尾岱沼のトドワラ。‘荒れ果てた感じは残っていたけれど、ここも観光地化されていた’とアルバムにコメントしてある。それほど、驚きが無かったという事なのだろう?

オホーツク海に沿って北上し、浜頓別を目指した。途中バス路線がなく、ヒッチハイクを試みた。知床旅情が流行った頃は、バックパッカーが多く、ヒッチする人も目面しくなかったと、懐かしがって、すぐ乗せてくれた。

当時、浜頓別のユースホステルは食事が良いと評判のユースで、人気がありました。2004年に閉館したようですね、クッチャロ湖が近く、宗谷岬を目指す拠点でした。


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愛の国から幸福へ

2010-07-06 14:55:14 | 

1987年に廃止された広尾線の幸福駅。当時、旅番組で紹介されて、かなりのブームになっていた。当然のように行って、記念撮影。切符も購入したような記憶がある。

アルバムのコメントには、期待はずれの場所だったと書かれているが、何を期待して行ったのだろうか?

若い時は、いつも何かに期待してしまう。結局、自分が何も感じなかっただけで、何となくブームだから行ってみただけの事。


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大雪山系

2010-07-06 14:38:15 | 

美幌Y・H(ユースホステル)のヘルパー生活は、1978年の7月7日から9月22日の、開所記念パーティまで続き、その後10月10日に東京に戻るまで北海道を一人旅しました。

Y・H滞在中は、周辺の旅にヘルパー同士で、出かけさせて頂き、多くの思い出があrます。このブログにも書いた東雲湖やオンネトーなど、特に大雪山系は、とっても魅力的でした。        

 

旭岳の登山。ロープウェイで登り、姿見の池まで、でしたが初めての登山のように記憶します。展望台までは行かずに、一時間位の登山でした、チケットが残っていて、往復2,200円でした。今でも2,800円とあるので、そんなに値上がりしていませんね。夏でもストーブが必要とロッジの人が言っていた。

旭川から一時間ほどにある天人峡の羽衣の滝。ここへも歩いて行く。宿泊は層雲峡のY・Hだったが、お勧めのスポットらしく、見学した。後にポーラと再び天人峡へ行ったが、同じ場所へ二度行くと言うのはご縁があるのだろうか?当時、お土産物としてはちょっと高いユーカラ織りに魅せられて、バックを購入した。旭川には、ユーカラ織工芸館があり、ポーラと行った際に見学して、再度、感動したのを覚えている。いつの日かゆっくり行ってみたいと思う。

 

大雪山系、高原温泉の紅葉。9月の中旬だったように思う。日本で最初に紅葉が始まると聞いた。長靴履いて、4時間位の湿地帯を歩きながら、沼地廻り。忘れられない色がそこにあった。言葉では無理、是非一度訪れてほしい、日本の風景です。

土俵沼という場所に、‘ゴミ持ち帰りにご協力下さい’と書いてあります。今でもゴミ一つ無い事を願います。

海外へ行くと、日本がひとつの点になる。日本を旅すると、十津川村がひとつの点。十津川村をマクロにするなら、私の場所はミクロになる。十津川は広いので、各地域に個性がある。北海道の旅を思い出しながら、この村にもまだまだ知らない場所が多いと、ふと思った。

 

 


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美幌ユースホステル

2010-07-03 16:46:40 | 

今日はずっと、雨。

美幌ユースホステルの前で、記念撮影。真ん中で、赤いTシャツに白いエプロンつけてるのが私です。もう32年も前だから、写真載せてもいいかな?

こうやって、泊まった人(ホステラー)が帰る時に、よく記念撮影をしました。考えると、私の写真が多くの人の手元にあるのですね、ちょっと不思議です。

ユースホステルって言うと真面目で、泊まりずらいって思う人もいると思いますが、出会いの場としては、中々、面白いかもしれない。ゲームしたり、ミーティングしたり、必ず参加しなくてもいいと思うし、若い人だけでもないし、個室じゃないけれど、ホテルより安い。

元々は、ドイツで始まったユースホステル。バンクーバーでもヘルパーしたり、北欧やカナダを旅した時も利用した。海外のドミトリーは男女一緒で、気楽に泊まれる。旅はいい。一人で見知らぬ土地で、客観的に自分を見れたり、考える時間が持てたり、自分を少し変える事もできる。

このように、毎日キャベツ切ったり、マカロニサラダ作ったりしていました。その後もスキーロッジでバイトしたり、ハウスキーパー出来たのも、料理って面白いと思えた、この経験が始まりでした。

 

コメント (1)
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美幌峠

2010-07-03 11:28:26 | 

今日も雨、また雨量規制で、通行止めだけれど、ダンプは往来しているし、売り屋さんも来た。私も小雨の時に、走りたいのだけれど。

TV朝日の旅番組、旅サラダを久しぶりに見ると、美幌峠が出てきて、懐かしかった。私の旅の始まりは、十九歳、1978年の7月6日、上野発のはつかりで、午後4時に出発し、美幌に着いたのが7日の午後4時、長くてドキドキした一人旅。それから美幌ユースホステルでヘルパーをして、北海道を旅して、3ヶ月を過ごした。以後4回訪れている。

今月は、懐かしい北海道の思い出を、書きます。

古い写真でも、修整すると、奇麗になるので驚く。美幌峠です。北海道の地名は、多くがアイヌ語に由来していて、美幌(ピポロ)水多く・大いなる所のようです。道東は湖が多く、今思うとカナダと似ている。

特に、美幌を望んだのではなかった。個人的な事情で、会社を辞め、旅する人生、自分捜しをしたかった。友人がY・H(ユースホステル)を利用して、北海道を旅したと聞き、Y・H協会へ電話し、ヘルパーをしたいのだけれど、と問うと、美幌を紹介され、すぐに決った。遠い所へ行きたかった。

辞めた会社は薬業界の出版社で、辞めてから、バイトをしたりして、思えば、私の人生、計画的ではないのだけれど、人のご縁で導かれたようにも感じる。

摩周湖も二度行ったが、霧の摩周湖は見れなかった。


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中国の旅 ゴルムド

2010-05-09 08:57:34 | 

青海省ゴルムド、チベットへの入り口で、海抜も2千メートル以上もある。

招待所では特別室のような部屋しか無く、そう高くないので、久しぶりにゆったりした気分で過ごす。2006年にはラサまでの青海チベット鉄道が開通したが、当時も西寧 - ゴルムド間が既に開通しており、大きな駅が市内にありました。屋台では圧力釜を使っている人もいて、標高の高さを感じる。ラサへは飛行機も飛んでいましたが、空港で突然倒れる人もいるそうで、慣れない気圧に身体がついていけない。

特に何をするわけでもなく数日を過ごし、目的はラサまでのバスチケットを手に入れる。公共のバスもあるが、招待所にツアーバスのチケットを売りに来る。外人専用バスのような感じでした。旅人からの情報では、学割で半額との事。一人ずつ調べられないとの事。席を確保する為に、バーゲンセールのように人が集まる。私はユースホステルの会員証で、何とか買おうとしたが(エジプトでは通じた)、だめでした。諦めていたら、学生らしき白人の女性がいて、彼女が購入した後で頼んでみると、気軽にOK。無事、二人分のバスチケットを学生料金でゲットする。

日本円にすると、そんなに大きな差は無いが、それでも数千円は違った。それより何よりゲーム感覚になる。童顔とは言え、学生で通じるのも、最後の時期だった。

そしていよいよ、一泊二日かけてラサへ向かいます。

チベットについては、またいつか書きます。記憶だけが頼りで、確かでない部分もあるかもしれませんが、読んで頂いてありがとうございます。当時を振り返り、とても懐かしい思いと、中国の変わり様に驚いています。

時間のある旅は、今思うととても贅沢だったように感じ、今の生活に繋がっています。Travel is studied.


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中国の旅 敦煌

2010-05-09 08:26:52 | 

柳園からバスで敦煌に着いたのは、日が暮れた頃でした。主な宿泊施設は招待所しかなく、まだこの頃は‘世界の観光地’という感じではありませんでした。

莫高窟が世界文化遺産に登録されたのも、1987年で、日本で‘敦煌’の映画が上映されたのは’88年。ロケは87年と聞きます。

莫高窟と月冴泉を観光バスで、回ったように記憶するが、歴史に興味の無かった私はあまり感動した感覚が無かった。月の砂漠のオアシス、情緒ある月冴泉も、あああそこね、という感じで見ていた。今ならしみじみと見学できるのに。

暑かったのか、月冴泉で、出発前にスイカを売っていて、そのスイカの美味しかった事と、敦煌の街と記憶しているが、麺打ちの凄さに感動した。両手で麺の橋を持ちながら、だんだん細くなっていく、もうびっくり。

二泊してゴルムドへ向かう。


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中国の旅 柳園から敦煌へ

2010-05-06 18:16:04 | 

1986年、8月の末に神戸から、鑑真号で上海へ行き、列車で昆明へ。飛行機でシーサンパンナ、そしてバスで昆明に戻り、バスで大理へ。再び昆明に戻り、飛行機で成都へ。次も列車で西安に来て、また列車で柳園を目指します。

チベットへ行くにはゴルムド(海抜2000m)で、身体を慣らし、バスでラサに入る事を、旅人のターバンおじさんから勧められ、コースは西安から直接ゴルムドではなく、柳園駅から敦煌を経て、ゴルムドへ向かうバスルートが良いとの事。

私と連れは、特に計画を立ててなく、2ヶ月で中国を回り、チベットからネパールへ入ろうとしていただけで、一年以上になる旅の始まりでした。旅人に出会い、感性の近い人の話を聞いて、じゃそうしよう、という感じでの気ままな旅でした。

連れは既にネパールや東南アジアは2度も旅しており、南米にも行き、ヨーロッパから陸路でアジアに来た経験もあった。私にしても、アラスカやカナダ、ヨーロッパやエジプトと、長期の一人旅は経験していた。ただアジアには、少し不安もあり、好奇心旺盛な私は連れのような人と旅をしたかったし、女一人では周囲が煩いので、連れがいると楽でした。そんな訳で、旅費は私が出すと誘ったのです。連れと一緒だと安宿も平気だし、二人分でも普通に旅する一人分より、ずっと安い。結局、一緒に旅したのは、中国とネパールだけでしたが、連れのお陰で、一人でも一年以上も旅できました。

無事に西安を出発し、一泊かな?朝、柳園に着く。列車内で食堂車に行くと、日本人だからか?メイヨウと断られたり、あまり歓迎されていない雰囲気でした。親切な人にも多く会いましたが、自由に旅する日本人をあまり好く思わない人も、現実にいました。

柳園に着き、まず朝食。卵とトマトを炒めたのが大皿に山盛り出てきた記憶があります。多分、卵なら食べれると思い、オーダーしたのでしょう。

すぐにバスは出発し、一日かけて敦煌へ向かいました。途中は地平線の見える荒野を走り、その広大さにはただただ感動しました。

上海の変わりようには驚きますが、あの広大な原野はどうなっているだとろうか?とふと思う。


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中国の旅 西安

2010-05-05 12:13:12 | 

長都から西安まで、どれ位の時間、列車に乗ったかは記憶にない。個室だったけれど、四人一部屋、ソファが二段ベットにもなった。私達が入ると、先客がいて、仕事で移動中の女性とマネージャーらしき男性の二人で、会話した記憶がない。ずっと西安までではなく、途中で降りたので、ほっとしたように覚えている。

平城遷都1300年祭で、奈良は盛り上がっているが、西安の広大さには驚いた。平城宮跡地のように、だだっ広い。城壁が市内にあり、かつての都を感じさせていた。

西安に来て、初めて観光をした気分になったのは、兵馬桶(へいばよう)を見た時でした。博物館だったのか倉庫の中に、兵士をかたどった像が何百か何千か、所狭しと並んでいて、圧倒された。死者を埋葬した、はにわのような物なのか、詳しくは知らずに見学したけれど、とにかく印象深く、驚かされた。1987年に世界文化遺産に登録されたようです。

そして楊貴妃で有名な華清池、ここはいかにも観光名所という感じで、外には土産物屋さんも多く、日本的でした。中の庭園は中国らしいセンスで、楊貴妃との関係もよく知らずに見学していた。郊外の山麓にあり、ほっとした気分になった記憶がある。

西安の思い出は、何と言っても食、菜食の街でした。ふかしたさつま芋や、蓮根やキャベツの酢漬けが、屋台で売られていたり、お店で頼む食事にも、大豆タンパクで作られた、肉もどきを使っていたりして、とってもほっとした。

ここでも、悪戦苦闘が、鉄道の切符の手配。敦煌に近い柳園を目指す。当然、空席は無く、外人専用かキャンセル待ちか。二泊位の予定が、招待所を、もう二泊程、キープして、料金も支払い、毎日、駅へ行く。日本人旅行者の、情報もあり、どうやって切符を取ったか記憶にないが、運良く、購入できた。招待所をキャンセルするが、当然、支払ったベット代は戻らなかった。この時はドミトリーだったので、まあいいかと思う事にした。

次は鉄道で柳園へ、そこからバスで敦煌へ向かいました。


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中国の旅 成都

2010-05-03 12:07:23 | 

昆明に戻り、駅で切符買おうとするが、一週間先まで無いと言う。外人専用はあるか?と何を聞いてもメイヨウ。

そこでまた、旅行代理店に行き、飛行機はあるかと聞くと、運よく成都まで予約でき、翌日か翌々日に飛ぶ事ができた。

昆明、最後の夜、ホテル周辺の屋台で、ラーメンを食べたら、10倍位の値段を言われた。詳細を問うと、理由の分からない事を言って、半分以下になった(つまり、100円位が値段だと思う)が、中国もかと思うと少し悲しかった。

さて、無事に成都に飛び、リムジンのようなバスで市内へ。旅行社のある所で降りたので、すぐに次の西安までの切符を手配する。列車の個室が空いていて、成都は二泊位だったと思う。

四川省成都、チョンドゥーと呼んでいた。招待所へ行き、私は疲れて休んだが、相方は散歩に出て麺を食べたようだ。真っ赤で辛くて、全部は食べれなかったとの事。

招待所は川沿いにあったと記憶し、川辺にはお茶を飲む、カフェのような場所がある。翌日、茶屋に行くと、回りは皆男性ばかりで、鳥籠を持参していた。何やかんやと、ずっとおしゃべりしている。お茶は中国茶、蓋付きのマグカップに茶の葉が入っていて、お湯を注いでくれる。時々、回ってきて、蓋が開いていると、すぐにお湯を足してくれるので、蓋を閉めておくと、いらない合図のようでした。

樹木が多く、奈良へ来て感じたが、猿沢の池へ初めて行った時、成都のイメージがあって懐かしかった。

夜は西洋ホテルの階上にある、レストランへ行く。このホテルには踊れるクラブ、いわゆるディスコがあり、ちょっと驚く。メニューにロシアンサラダがあり、オーダーする。ジャガイモとビーツの角切りを茹でて、マヨネーズで合えた物。その他には何を食べたか記憶にないが、体調も万全ではないので、辛い物を避けたかった。

今思うと、もう少しのんびりしたかったが、2ヶ月でチベットを越え、ネパールに入るので、先へ進む。


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中国の旅 大理

2010-05-01 14:30:53 | 

今日から上海万博ですね。私の旅は’86年9、10月でした。

西双版納(シーサンパンナ)から昆明に戻り、翌々日位には、バスで一日かけて大理に行きました。旅人に人気の大理、日本で言う小京都のような感じで、山に囲まれ、湖もあり、カトマンズのようだと相方(この頃は夫ではなかった)は言う。

白(ペー)族自治州、大理。私は白(パイ)族と記憶していた。招待所は西洋人が多く、皆長逗留のようでした。どこへ行っても中華料理ばかりでしたが、ここは洋風なオムレツやトーストなど、白人が好むメニューもあり、ちょっとほっとする?

私は‘地球の歩き方’の中国編を持参していて、この本に紀行文を載せている‘ターバンおじさん’と出会う。彼とはこの後も度々、旅の途中で遭遇し、奈良へ来て知り合った人とも共通の知人であったり、不思議なご縁。大理からチベットまで、予定の無かった私達は、彼のお勧めコースを行く事にした。

大理は藍染めや絞りの布が多く、お気に入りの生地でズボンやシャツを仕立ててくれる。この襖一枚程の大きさで、当時のレートで千円位でした。90年代には日本でも、安く売られていたが、このような手の込んだ柄は、現地でないと中々手に入らないかな?相方はズボンを作ったけれど、私は布を買った。

これは、白族から購入した、銀細工の髪留め。長い髪を束ねて、これに回して留める。十津川に来た頃は髪が長かったが、もう何年も使用していない。目面しい貴重な思い入れのある物です。

大理ではサイクリングも出来、のんびりしたように記憶する。チベットへ向かうので、再び大理に戻り、ひと月のビザを延長する。

次は成都です。


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中国の旅 西双版納

2010-04-30 11:27:19 | 

まだ寒い。世の中、ゴールデンウイークです。ちょっと旅した気分で、中国の旅の続きを書こうと思う。画像が無いので、いろいろ調べると時間がかかるので、記憶を頼りに書きます。興味のある人は調べて、旅の企画で楽しんで下さい。

西双版納(シーサンパンナ)、雲南省の南、ラオスやミャンマーと接する、タイ族の自治州。中国初の飛行機は、昆明から近くの思茅(スーマオ)まで飛び、そこからバスで、シーサンパンナに入る。その頃は、まだタイに行っていなかったが、夫曰く‘タイの山岳地帯と同じ’との事。後の話だが、歴史好きの夫の父親から、日本の鳥居はここから来ているとの事、知っていれば注意深く見たのにと、少し残念。

川沿いに招待所があり、バンガローになっていて、何泊したかは覚えてないが一週間位だろうか?途中、船で少数民族のいる村に行き、民族衣装のスカートを下に降ろし、お尻の割れ目すれすれに(見えていたようにも思う)、着用している女性達が普通に歩いていた。シルバーのアクセサリもジャラジャラ付けており、すごく新鮮に感じた。この村にも宿泊施設があるので、泊まりたかったが、急なので無理でした。

シーサンパンナでどんな食事をしたか、マーケットがどんなだったか記憶はないが、美味しい焼酎があったのだけは覚えている。

帰りは昆明まで2泊3日のバス。旅行バスではない定期便、夜は走らないので招待所に泊まる。私達の他は全部中国人、出発時間が良く理解出来ず、ランチをオーダーして食べようとしたら、出発と呼ばれたりで、いつも他の人の同行を気にしてました。道の蛇行が多く、途中、人が倒れてそのままになっているのも見ました。夫はアンデスのようだと言っていた。

棚田も多く、その景色はすごかった。後に世界有数のライステラスと知る。

無事に昆明に着き、ほっとする。そして、次は大理 ’86年9月の事です。

 


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中国の旅 没有(メイヨウ)

2009-09-30 20:25:56 | 

中国で必ず耳にするのが、没有(メイヨウ)。部屋はありますか?メイヨウ、座席はありますか?払い戻しはできますか?メイヨウ。つまり、NOの意味なのだが、ありません、とか、出来ませんなど、すべて否定や不可能な事はこの言葉、メイヨウの一言ですむ非常に便利な単語です。私達のような外国人にとっては、慣れるまで、何となくあしらわれている気分で、どうしてか?尋ねても、メイヨウなのです。

夫の体調も、2~3日で良くなり、昆明の街をブラブラ。大きな公園の湖のほとりでは、青空の下で大きなマージャンパイで楽しむ人が多く、マージャンのイメージも健康的でした。食事は漢字が読めるので、青菜と豆腐の入った物なら、ほぼ大丈夫。珍しい魚に興味あって頼むと魚の皮ばかりの料理が出て来て、びっくりした事があった。

ドミトリーの日本人からの情報を得て、南の西双版納(シーサンパンナ)へ行く事にした。南が好きな夫はタイに近い、暖かい場所でのんびりしたいようだ。旅行社に行って、飛行機の予約をすると、さっそくメイヨウ。飛行場へ行かないと、空席があるかどうか分からないと言う。毎日、便があったか、一日おきかは忘れたが、二度目で乗れた。ドミトリーは引き払ったので、旅行社のあるホテルの旧館、クラッシックな部屋に泊まった記憶があります。


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中国の旅 昆明

2009-09-28 11:47:23 | 

地図が見にくいでしょうが、右上の上海から、左下の混明まで、東から西へ南下します、約2,400k。'86年当時は火車(蒸気機関車)が主流で、石炭燃料でしたから、車内で3泊したと思います。寝台と言っても、硬臥という硬いビニール張りで、下が座席、上2段がベットと3段階に分かれていました。私は体調をくずして寝てばかり、夫は退屈で弁当やお菓子を食べてばかりいました。満席の車内で通路をぬうように、お湯のサービスや弁当売りが来ます。中国人の社交なのか、すぐに煙草を勧めます。共通の話題は‘山口百恵’と‘おしん’、好(ハオ)、ハオと言っていました。蒸気機関車に乗るなんて、初めての事、もっとしっかり見れば良かったと、今は思います。窓越しに見た煙と、石炭を入れる光景は微かに覚えていて、小学校の石炭ストーブを思い出した、記憶があります。

昆明は雲南省の省都、私達はクンミンと呼んでいました。この頃はマラソン選手の高地トレーニング場所としても、紹介されています。薄暗い、早朝に列車は着きました。駅前の真っ直ぐな大通りには、屋台の朝食屋さんがぎっしり並び、上海とは違う活気を感じました。ガイドブック‘地球の歩き方’に出ていたホテルのドミトリーに落ち着きました。ここは男女の区別も無く、日本人ばかりの部屋でした。ベットと洗面器、お湯のポットだけがそれぞれにあり、シャワーの使用は可能でした。私はすっかり元気になりましたが、今度は夫が体調をくずし、この先どうなることやら。


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中国の旅 上海から

2009-09-25 18:36:06 | 

 

鑑真の船内で紹介されたホテルで、長かった船旅を癒す。窓から見る光景は、紛れも無く中国だった。自転車と人民服、早朝には太極拳、活気にあふれる中国でした。今の上海は高層ビルが建ち並び、昔の記憶も飛ぶほど、懐かしさはない。まさか、こんな風になるとは、、、、。

どこを見たという感じではなく、昆明までの列車の切符を取り、その日までの数日間を過ごしただけだった。和平飯店(ピースホテル)という、クラッシックなホテル内に、両替や切符の手配をしてくれる所があった。列車の空席が中々なく、直接、駅に行ったように思うが、記憶が定かでない。だが、確かに切符は手に入れた。

街をぶらぶらしながら、決められた時間で食事をする。魚の骨等、残した物はテーブルの下に捨てるのが、あちらのマナーでした。若い人は普通の服を着ている人が多かった。不思議なのは、夫は昔、髪を伸ばしていたので、後ろでゴムで束ねていた。顔立ちは日本人っぽくなく、ラテンやアラブ系。何が可笑しいのか、夫を見ては人が笑った。特に若い人がビルの上の窓から、指差して笑っている。髪の長い外国人は、当時でも珍しくないのに、何故か夫を見て笑う。東洋人だからなのか?今でも分からない、不思議な経験でした。もっと驚いたのは、笑われても全く気にしない彼の態度でした。

中国の旅は上海から昆明へ、3泊4日の列車から始まりました。


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