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「利他」という言葉で、
頭に思い浮かべるのは、そんな行動だ。
「利他」は、「利己」の反対。
利他的な行動は、自分の利益ではなく、
自分以外の誰か、他人の利益のために行動することを指す。
つまり、誰かに「与える」ことが前提になる行動だと思っていた。
「おもいがけず利他」(中島岳志・著、ミシマ社)を読んで、
最も新鮮だったのは、
「利他」とは「与える」だけではなく、「受け取る」ことで発動するという指摘だ。
私たちは他者の行為や言葉を受け取ることで、相手を利他の主体に押し上げることができる。
私たちは与えることで利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。
利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちはそのことに気づいていません。
しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。
私たちは、ここで発信されていたものを受信します。その時こそ、利他が起動する瞬間です。
著者は、中学生の時の先生の言葉、行為を例に挙げている。
中学生の頃は、それほど深く考えておらず、先生の言葉や行為について「ありがたさ」を感じていたわけではないという。
しかし、大人になり、現在の自分の仕事の礎は、中学生の時の先生の言葉や行為によって築かれたと気がついた。
著者が、先生の言葉や行為の「ありたがさ」に気づいた時に初めて、
先生は、著者にとって利他の主体として認識された。
つまり、誰かの言葉・行為を「受け取る」ことが前提となる
「利他」もある。
誰かが自分に向けて発した言葉
誰かが自分のためにしてくれた行為に目を向け、
その「ありがたさ」を受け取ることも価値があるということだ。
どんな立場の人でも、人生を振り返ると、
今の自分にとって財産となっているような
「あのときの一言」「あのときの行為」はあるのではないか。
それらに気がついて「利他」を発動させると、その主体となった誰かと自分の繋がりがこれまで以上に深く感じられる気がする。
そして、その気づきはまた、これからの人生を支えるものにもなりそうだ。