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ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【さよなら、俺たち】相談に答えを出すと間違える理由

2022-05-09 21:52:15 | Weblog

 

「さよなら、俺たち」は、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表を務める清田隆之さんが、

ジェンダーとしての「男性」に関わる問題についてまとめたエッセイだ。

 

この中で、女性が、男性に恋愛相談をして「げんなり」した対応について書かれていた。

「話をちゃんと聞いてくれない」

「話を間違って解釈される」

「自分の恋愛観を語ってくる」

「解決策を押し付けてくる」

「別れさせようとしてくる」

「やたら盛り上げようとしてくる」・・・

列挙された対応例を見ていくと、

なるほど、そんな対応をされたら、確かに「げんなり」してしまいそうだ。

 

私自身は、恋愛の相談で、上記のような対応を経験したことはない。

ただ、恋愛以外の相談に拡げて考えると、

「話を聞かない」とか「間違って解釈される」「価値観の押し付け」などを

経験したことがいくつか思い当たる。

男性に限らず、女性から「げんなり」な対応をされたこともある。

相談した後に、とても嫌な気持ちになって、「相談する相手を、間違えた」

「相談する相手を選ぶべきだった」と反省したこともある。

 

相談して失敗した経験を、よくよく考えた結果、

私は、相手に「正解」を出してもらいたくて相談したのでなかったことに気が付いた。

自分の考えや気持ちを、聞いてもらいたい。

自分の考えや気持ちに、共感してもらえたら嬉しい。

相談相手にそんなことを期待していたのだ。

そして、それは叶わず、さらに「甘い」「足りない」などと欠点の指摘があったため、

嫌な気持ちになった。

 

私自身が、友達や知人から相談を受けるとしたら、

まず、その相談者が何を求めているか?を考えて対応をしたい。

「答え」を求めていない相談に、

「こうしたほうがいい」「こうすべきだ」という答えを提供しても、

それは間違いになる可能性が高いからだ。

 

さよなら、俺たち


【我が友、スミス】肉体美追求の場で、押し付けられた「女らしさ」の評価のものさし

2022-04-20 23:16:14 | Weblog

小説「我が友、スミス」(石田夏穂・著)は、会社員の女性U野がトレーニングジムで声をかけられたことをきっかけに、ボディ・ビル大会への出場を目指す物語だ。
スミスとは、筋トレのマシンの名前である。

ボディ・ビルの大会に向けて、肉体改造に取り組む中で、U野の身体は変化していく。大会で「勝ちたい」という思い、自分に得意なことがあったのだという自覚、自信が出てくる。

一方で、職場の同僚からは「彼氏ができたの?」と問われる。母親は、ボディ・ビルを男性のように筋肉ムキムキになることだと捉えており、「女らしくない」と懸念が示される。さらに、ボディ・ビル大会での高評価を得るためには、肌の美しさ、ハイヒールで綺麗に歩くことなども必要とされていることが分かる。


なあ、母ちゃん。先日は、すまなかった。だが、あなたが「女らしくない」と評したボディ・ビルは、実はそうじゃないのだよ。この競技は世間と同等か、それ以上に、ジェンダーを意識させる場なのだ。「女らしさ」の追求を、ここまで要求される場を、私は他に知らない。人は、ボディ・ビルを「裸一貫で戦う」競技と見做し、その潔さを称える。ところが、そんな称賛に、私は鼻白んでしまうのだ。(「我が友、スミス」より)

ボディ・ビルの評価のものさしが、どのような価値観を基盤としているのか。その価値観と、彼女自身の価値観の相違に気が付いた時、どうするのか?が、クライマックスだ。

ボディ・ビルって「そんな競技だったの?」という驚きがあり、「それと、これとは関係ないじゃん!」とつっこみたくなるような、大会の評価基準の不思議や面白さがあった。

読み始めた当初は、肉体改造によって、主人公がこれまでの人生で感じていた抑圧的なものから解放されていく物語かと思っていた。しかし、物語の後半、ボディ・ビルは「女らしさ」が押し付けられる競技であることが示され、当初の予想とは逆になったのは意外性があり、面白かった。

 

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【ほんのちょっと当事者】「ほんのちょっと」の距離感を考え続ける

2022-04-11 00:25:00 | Weblog

「当事者」という言葉は、あまり積極的に使いたくない言葉の一つだ。

「当事者」は、事故や事件を起こした加害者あるいはその被害者を指して使うことが多いと思っているためかもしれない。

「私は、当事者だ」と言うと、事故や事件、何らかのトラブルで揉めている状態のど真ん中に立たされる気がして、 想像しただけで気が重くなってしまう。

では、他人に対して、「あの人が、当事者だ」と考えた場合はどうか。

「あの人が、当事者だ」と言う時には、「私は、当事者でない」が前提となる。

事故や事件、トラブルの渦中から距離を置き、自分自身は安全圏にいて、 そこから上から目線で当事者を見ているような気がする。

「あの人が、当事者だ(私は当事者ではない)」と言うと、 「私には、直接の関係はない」さらに「私には関係ない」と言っている気もする。

事故や事件、トラブルについて何も考えなくていい、無関心になってもいいと、その言い訳に「当事者ではないから(非当事者だから)」を使ってしまう気がする。

「当事者」ではないけれど、「非当事者」だと断定したくない時がある。

「もしも、自分が当事者だったら?」 「もしも、自分の友達や家族が当事者だったら?」と考える時、 「当事者」に近い位置に立っているはずだ。

そういう立場に立つ人を指す、適切な言葉があったらいいと思っていた。

「ほんのちょっと当事者」(青山ゆみこ・著)は、 児童虐待、性暴力などの問題について、 「自分事」として捉えて書かれているエッセイだ。

著者自身が過去に経験したことを踏まえて 「当事者」に近い視点で書いているものもあるし、 ライターの視点から、他人事を自分事に引き寄せて書いているものもある。

「ほんのちょっと当事者」の「ほんのちょっと」の加減は、 取り上げているテーマによってさまざまといえる。

「当事者」ではなく、「非当事者」でもない立場を「ほんのちょっと当事者」と位置付けたとしても、それでスッキリするわけではなさそうだ。

この「ほんのちょっと当事者」になって考えることは、自分自身と当事者との「ほんのちょっと」の距離感を、 自分自身に問い続けることになるのかもしれない。

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【旅する練習】我孫子から鹿島まで歩きたくなる1冊

2022-04-06 22:04:02 | Weblog

「旅する練習」(乗代雄介・著)は、作家の主人公が、中学校入学を控えた姪とともに、千葉県我孫子から茨城県鹿島まで歩いていく物語だ。

我孫子って、どんなところ?

鹿島って、何があるんだっけ? と、思いながら読み始めた私にとっては、 ガイドブックのような本だった。

主人公は、旅の行程のところどころで見たもの、捉えたものを綴っていく。

その中で、民俗学の祖といわれる柳田國男のこと、小島信夫の作品「鬼(えんま)」のことなど、土地に縁がある作家や作品について触れており、 「へぇ、なるほど、そんな地域なのね」と思わされる。

一方、姪っ子の亜美(あび)は歩きながらサッカーの練習、リフティングを続けている。

鹿島を本拠地とするサッカーJリーグの「鹿島アントラーズ」のこと、

このチームのクラブアドバイザーとなっているブラジルの元サッカー選手ジーコのことも物語の中で紹介される形になっており

「ジーコってそんな選手、監督だったんだぁ」

「鹿島アントラーズって、そういう地域にあるのね」と知り、思わず応援したくなってきた。

物語の終盤は、そういう終わり方になっちゃうのかぁ…と、少し残念な気もしたのだが、別の終わり方にしたら物語にそれほど起伏ができなかったかもしれない。

読み終えた後、 我孫子から鹿島まで歩いてみたくなった人、意外と多いのではないか。

作品の舞台になった土地を訪れる「聖地巡礼」を、この「旅する練習」を片手にやってみたら面白そうだ。

「旅する練習」のルートが上手に活用され、集客できたら、地域振興・地域活性化に貢献する1冊になるかもしれない。

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【女の子だから、男の子だからをなくす本】「男は人前で泣くもんじゃない」「女のくせに口を出すな」、その男女は必要?

2022-04-03 21:40:48 | Weblog

 

「男が、人前で泣くもんじゃない」「女のくせに口をだすな」

「女だから」「男だから」と性別を理由に「こうしないといけない」「こうするべきだ」と言われた経験はありませんか?

子どもの頃、「女の子だから、かわいくしないとね」「男の子は元気に、外で遊べ」なんて、言われた経験はありませんか?

女の子でも、かわいいより、かっこいい感じが好きな子がいてもいいし。男女問わず、泣きたい時には泣いていい、はずだ。
それなのに、なぜ、「女だから」「男だから」と考えて、それを口にしてしまうのだろう?

なぜ、「女だから」「男だから」という枠組みで、自分自身の言動をしばってしまうのだろう?

 

「女の子だから、男の子だからをなくす本」は、「女だから」「男だから」という見方や考え方の呪縛を解く、きっかけとなる1冊だ。

「女だから」「男だから」といわれてきたことに、なんとなくモヤモヤしていたり、違和感を感じていた人は、その理由が見えて、すっきりすると思う。

あぁ、これって、自分も口にしてしまったことがある。

だけど、よく考えてみると、男女の性別に基づくものじゃないよね。と気が付くことがたくさんある。

自分の中に埋め込まれていた思考のバイアスに気が付くことが多かった。

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【殺人者の記憶法】曖昧になる記憶を巧みに活用した小説

2022-03-23 22:35:16 | Weblog

薄暗い森の中、大きなスコップで地面に穴を掘る。大きな穴に、自分が殺した人間の死体を落して、再び土を被せた。

「私は、知りません」。

自分がしたことを知られてはならないと、必死に隠そうとしている。 隠し通せるはずはない。嘘をつき続けるのは苦しい。 そう思ったところで、パッと目が覚めた。 夢だった。

なぜ、そんな夢を見たのか、 思い当たることがあった。

数日前に見た映画の中で、主人公が殺人を犯して、その死体を森の中に埋めるシーンがあった。

そのシーンが特に気になったわけではなかったが、記憶にこびりついていたらしい。

夢の中で、私自身がその主人公とすり替わってしまった。

目が覚めて安心はしたが、 夢の中で味わった、罪が暴かれることへの恐怖、プレッシャーを思い返し、 しばらくの間、気持ちが重かった。

小説「殺人者の記憶法」(キム・ヨンハ著、吉川凪・訳)は、アルツハイマー型認知症と診断された男の独白で構成されている。

男は、猟奇的な連続殺人を犯してきたものの、警察に捕まらず、今まで生きてきた。

認知症により、男の記憶が曖昧になっていく中、 男が語る「事実」と、 男に関わる人々が口にする「事実」とが交錯し、 物語の終盤に向かって、その乖離が示されていく。 客観的な事実が明らかにされていくのだが、 男の頭の中にある「事実」のほうを信じるように、 読者は巧みに誘導されているのかもしれない。

男の語る「事実」のほうが、事実であるような気がして、 周囲が説明する「事実」とのズレが奇妙に思えてきた。

私は、作者の仕掛けに、まんまと嵌まった読者になったのだろう。

読後に思い出したのが、自分が経験した夢のことだ。

もしも、あの夢を夢だと思えなかったら? 想像を超える恐怖、不安に襲われそうだ。

自分の人生、生活は、自分の記憶を基盤に成り立っているのかもしれない。

さらっと読めるが、深いテーマに触れている作品だった。

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【ニワトリと卵と、息子の思春期】親だって、親になれない時がある

2022-03-18 00:31:46 | Weblog

 

親というのは庇護してくれる存在であるが、子どもにとっては最大の権力者。子どもは非力だ。

子どもの多くが、このことを知っているし、感覚的に分かっているものだろう。しかし、子どもから大人になって、さらに結婚や出産して、親になってから、このことにどれほど自覚的にいられるだろうか。

「ニワトリと卵と、息子の思春期」を読んで、まず、興味を魅かれたのは上記の「権力者」に関する指摘だった。

「オレに何が必要か、お母さんには分からない」

この本の著者・繁延あづささんは、ある時、長男からこう言われた。
母親であっても、息子のことで分からないことがある。

長男の指摘は、ある意味、正しい。だから、胸に刺さる。
一方で、長男が必要だという物事をすべて認めることも難しい。

未成年の場合、親は、自分の子に何が必要か否か判断する役割を担っている。

その役割を放棄するわけにもいかないだろう。
ある意味で正しい、けれど、それを正しいと認めてしまうわけにもいかない。
そんな時、多くの親は「親の言うことを聞きなさい」という態度をとり、親という立場に伴う権力を使ってしまうのかもしれない。

著者の繁延さんは、フォトグラファーとして妊婦の出産などを撮影されている。

夫と、息子2人娘1人の5人家族。3人の子どもの母親だ。

このエッセイは、思春期に差し掛かった長男が、「ゲームを買うのをやめるから、ニワトリを飼わせて」と言ったことが起点となっている。

実際に、家族でニワトリを飼い始め、その後の経過を追っていく中で、著者の気づきが盛り込まれている。

母親として息子・娘と接する中で感じたこと。考えたこと。

ニワトリという生き物の命に触れて感じたこと。考えたこと。

東京・中野から東日本大震災を機に長崎に移住し、猟師から分けてもらった猪やキジの肉を食べている。

そんな繁延一家は、食べること、生きること、育てること、死ぬこと、これらが繋がっていることなどを実感しながら生活されている。

こうした生活のスタイルは特殊だろうが、子どもたちの様子や言動を受けとめて、母親として、どう感じたか。
特に、著者が息子との口論で感情的になった時の自分自身を振り返っている点などは、読み応えがあった。

子育て、教育など、子どもに向き合っている方に、特にお勧めしたい1冊。

 


「ダメ。ゼッタイ。」だけではダメな理由 季刊誌コトノネ41号 ぶっちゃけインタビュー

2022-02-28 23:16:11 | Weblog

アイドルグループの元メンバーが覚せい剤を所持して逮捕されたというニュースがあった。

お笑いタレント、アイドル、スポーツ選手などなど、
多くの人に知られるような活躍をしている人達が覚せい剤を所持・使用していたことが報道されるたび、「なぜ?」「どうして?」と思う。

見ている人を笑わせたり、歌って踊れたり、応援してくれるファンもたくさんいるような人たちが、なぜ、どうして覚せい剤を所持するようなことになってしまうのか。

メディアを通して伝えられる彼らの姿からは想像もできないほどの孤独や不安、悩みなどを抱えていたのだろうか。芸能人やプロスポーツ選手には、違法な薬物を売る人達が接触しやすいルートのようなものがあるのだろうか、と考えたりする。

社会を楽しくする障害者メディア季刊誌「コトノネ」41号の中で、特に注目して読んだのは、ぶっちゃけインタビュー 精神科医の松本俊彦さんの「救いの依存症と救いからの脱皮」だった。
松本氏は、国立精神・神経医療研究センターの精神保健研究所薬物依存研究部部長で、薬物依存症の方の治療などに携わられている。 このインタビューで指摘されているのは、薬物乱用防止キャンペーンの「ダメ。ゼッタイ。」というスローガンを掲げるだけでは、ダメということだ。「違法薬物」を使わないように啓発し、使ってしまった人を取り締まるだけでは、解決できない問題が残されている。

覚せい剤だけでなく、ドラッグストアなどで購入できる市販薬についても、若者がそれを使用して依存症になり、オーバードーズで死亡するケースもあるという指摘があった。
彼らが市販薬を使用し、依存するまでになってしまう背景、彼らが置かれている環境や抱えているものに目を向けなければ、問題は解決できない。
仮に市販薬が購入できなくなったら、彼らは別のものに依存することで自らを救おうとするのかもしれない。

本誌の読みどころは他にもいくつかあるが、
もう一つ、私が特にお勧めしたいのは、
野々村光子さんの連載エッセイ「『私のセンパイ』~優しき労働者~」だ。

福祉関係のお仕事をされている方で、心が優しく、真面目で、一生懸命な方ほど、このエッセイに登場する「センパイ」のように、その優しさゆえに潰れてしまうことがあるんじゃないかと思う。

優しき労働者は、一個人で引き受けられることと、そうでないことの線引きが難しく、苦しさや辛さを抱えていても誰かのために頑張ってしまいがちかもしれない。
優しき労働者が、無理なく働き続けられるようにするには、何が必要なのだろう?。そんなことを、考えさせられた。

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【夏への扉】猫って、自分のこと人間て思っているよね?

2022-02-23 19:31:38 | Weblog

在宅オンラインでミーティングをしていると、パソコンの画面に映っている相手の顔の前を、右から左へ茶色い毛並みの動物が通り過ぎた。

猫だ。

似たような出来事は、他の相手とのオンラインミーティングでもあった。

飼い主がパソコンの画面越しに誰かと話をしていると、その間に割って入ってくる。

それが猫という動物の習性なのか、自宅で飼われているとそういう態度を身に着けてしまいがちなのかは、分からない。

猫をペットとして飼っている人からよく聞くのは、「あのこ、自分のこと人間だと思っているから」というものだ。

「家族の中で、自分が一番偉いと思っている」とか、「誰が遊んでくれるとか、餌をくれるとか、自分に都合がいい人を分かってて、相手によって態度を変えている」という人もいる。

犬は、きちんと躾られると、飼い主の言うことをきちんと聞いて、それを守って行動する。

「お座り」と言われたら、じっと座っているのが犬だ。

それに対して、猫は、気ままに行動する。飼い主から「お座り」と言われても、そのままじっとしていないのが猫らしい。

猫が自分のことを「人間」と思っているかどうかは確認できないが、猫は自分の気持ちの赴くまま行動する傾向があるのかもしれない。

猫が登場する本として思い浮かべるのは

SF小説「夏への扉」だ。

主人公の相棒として登場する、猫のピート。

ピートの好みやあくびや髭の様子などの描写を読んでいると、

猫の様子をよく観察している人が書いたものだと思う。

猫好きな人、ペットとして飼っている人が読むと、

ああ、そうそう、こういうところあると思う猫のツボを捉えていると思うのかもしれない。

物語は、いわゆる「タイムトラベル」もので、30年の時を進み、戻りする。

学生の頃、おそらく20年近く前に、猫好きの友人に勧められて読んだ記憶があるが、

今、改めて読んでも古い印象はなく、面白かった。

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【牧師、閉鎖病棟に入る。】「男の人も、大変なんだな」と感じていた。その理由が少し見えてきた

2022-02-17 00:32:47 | Weblog

 

「牧師、閉鎖病棟に入る。」(沼田和也・著、実業之日本社)を読んでいて、

コーチングをしている時によく感じていたことを思い出した。

それは、「男の人も、大変なんだなぁ」ということだ。

男女の性別で分けて物事を考えるのは偏見になるかもしれないのだが、

私が「大変なんだなぁ」と思ったのは、

自分のことを誰かに話す機会が少ないのかもしれない

話せる相手がいないのかもしれない

と感じたことだ。

 

私がコーチングを提供したクライアントさんの中で

そう感じたのは女性より、男性のクライアントさんの場合が圧倒的に多かった。

なぜ、そうなのか?

本書を読んでいて、理由が少し見えてきた。

 

著者は、キリスト教の牧師であり、幼稚園の理事長を務めていた。

しかし、ある時、同僚にキレてしまう。

妻の言葉もあり、精神科の閉鎖病棟に入ることにした。

主治医とのやりとりや、閉鎖病棟で出会った人、観たこと、感じたことを綴っている。

 

精神的に追い詰められてしまった自分を振り返り、

なぜ、そうなってしまったのかを考えている

 

わたしを含めた男性の多くは、自分の弱さを自覚することや、助けを必要とするほど追い詰められていると認めることが、非常に難しい。男らしさとか、男が泣くものではないとか。世代によっては「女々しい」という言葉と共に、泣き言を言うことを恥として叩きこまれてきた。だから自分の弱さを隠す鎧として、学歴や仕事など、積み重ねてきたものへの自負を強調しなくてはならない。

「先生」と呼ばれている者は、その呼び名から降りることはときに恐怖でさえある。男らしさを内面化してしまった男性は―わたしもそうであったが、―そもそも自分が死にたい、ああ死ぬなと思うほどに追い詰められるまで、自分が苦しいということすら自覚できない。

歯を食いしばって耐えてしまうのである。

涙を流せばすっきりするのだが、そもそも泣き方が分からない。泣かないのではなく、泣けないのである。

(本書・終章:こだわるのでもなく、卑下するのでもなく より)

 

 

自分が抱えているものについて誰かと話をする中で、

自分の考えや思いに気が付くことがある。

誰かに話を聞いてもらうだけで、気持ちが楽になることがある。

そういう機会が少なかったり、ほとんど持てない場合には、

頭も心もいっぱいいっぱいになってしまうのではないか。

それはとても苦しく、大変な状態に違いない。

 

コーチングは、カウンセリングとは異なるので、

心の病には対応できない。

 

しかし、コーチである私と「対話」することが、

自分のことを話す、聞いてもらう経験になっているとしたら

それはそれで価値を提供できているかもしれない。

そうだったらいいな、と思う。

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