中年オヤジNY留学!

NYでの就職、永住権取得いずれも不成功、しかし、しかし意味ある自分探しに。

私の帰国を諭した、小説”ライ麦畑で捕まえて”

2016-06-11 17:18:11 | 海外留学

中年おやじNY留学



私のニューヨーク生活の“終焉”を諭した(さとした)、小説“ライ麦畑で捕まえて
2016/06/04 RE-WRITE


 太平洋戦争で日本の敗戦が濃くなった時、アメリカ軍の飛行機から地上で徹底抗戦する日本軍にビラまきをした中に、”一葉落ちて、天下の秋を知る”というものが有ったそうです。
 敵で有る日本兵の力を削ぐのに、爆撃より日本人にはズンと来たそうです、静かに敗北を認めるほかないと。 

 私はニューヨークに来て早3年半を過ぎ、短大を卒業し出来るなら、この地で就職を捜していました。 アメリカでは正規の2年以上の学校を卒業すると1年間ビザがもらえます。 合法的に働け、その先のビザに繋げるチャンスでもあります。
 その他の事情として、1年ほど前にバイトを首になってから、バイトを捜せずいたため急激に、蓄えが減り始めていました。 
ニューヨークでバイト捜しは至難の業です
日本で素性の分からない外国人がそこかしこでバイトをしているのを参考にしたら玉砕ものです。
ニューヨークには日本人の不法滞在者(つまり競争相手)も”ワンサカ”います。


街のガソリンスタンドに飛び込みで、バイトの売り込みを2度程しましたが、軽く断られました。
多くの日本人がこの刺激的な街に1日でも居たいがために死ぬ気でバイトを探しています

一見、ニューヨークは世界に冠たる大都会のイメージが有りますが、そこに何年も居ついた日本人はニューヨーク村と呼んでいます。
日本人が泳げるのは”村”と呼ぶほどの狭い範囲との例えです
”ほら32番街のxxxという店で、板前やっていたxxxさん、暫く見ないと思っていたら、ナーニ今度はNYUの裏のXXXで働いているんだって!”と言った感じ。

 その頃の、自分は焦りと落ち込みと、少しばかり残った意地で”もがいて”いました。 頼みの職は見つからない、その上、短大卒でだけでは終わりたくない。
 傍ら、大学探しや、”G.M.T."を受験し、ビジネス・スクールへの進学の夢も捨ててはいませんでした、でもスコアーが足りません。 仕方なく、91年秋、市立大学のバルーク大学に入学が許可されていたので、その学校界隈をふらっとした時のことを思い出します。
 ニューヨークの冷たい初冬の風に吹かれ、自分は試されているかのようでした
 ”お前は、この先2年以上更に情熱をもって、この街でアメリカの学位のために頑張れるのか? 金は有るのか?”



 そんな時、読んでいた”THE CATCHER IN THE RAY - ライ麦畑で捕まえて”の後半の盛り上がった部分を読んでいました。 主人公の青年が、田舎の大学がつまらないとニューヨークに上京、昔の恩師に”大学をやめたい”と相談する。
その教師も同性愛の傾向があり、主人公の青年もニューヨークに来ていろいろ珍事に巻き込まれ、映画にしたらと面白いな!と言った展開の物語です。
さて、そこで恩師は諭す、
1)学校が面白い、つまらないは後になったら、取るに足らないこと
2)人間そんなに、アーしたい、こうしたいと決めてかからず、名や地位も無くも、例えば若い青年が危険な場所で”路”を失い、崖に向かい今にも落ようとしている時に、”ライ麦畑”から飛び出し、”こっちだよ!こっちだよ!”と諭す、そんな人間でもこの世に生を受けるに値する。
小説のこの部分で、私はニューヨークの自分の部屋で、大泣きしました。 止まりませんでした。
 ここぞという時に職は決まらず、経済的にもニューヨーク生活の先が見え始めてきて、にもかかわらず自分の中には現状には満足し切れないもう一人の自分が居る生活が久らく続いていました、もがいていました。

この”ライ麦畑”のオチで、自分は悟りました。
例え、アメリカのすごい学位を持ち帰れなくても、アメリカン・ドリームという勲章がなくても。
雑踏にまぎれる“帰国中年(今では帰国老人)”でも良いではないか この小説の”キャッチャー“のように、私のちょっとした一言が”路“を外した人の役に立つなら。

92年春に帰国後、暫くしてから中国交流会(正式名は忘れました)に出入りし、そこで上海出身の丁(てい)さんに出会いました。 彼はいくつものアルバイトを掛け持ちして、忙しそうでした。
彼の話の中で、彼が捨て身になって日本でアルバイトをして上海の一人娘を留学させるのが夢と語っていました。 留学先は英国にするつもりと言っていました
私は、なぜ英国か?聞くと、当時中国は英語といえば英国を“師”として仰いでいたようです。 
私はアメリカ留学の経験を丁さんに話す、世界の“英語スタンダード”は北米イングリッシュで有ることを強調しました。
 1)現に、ニューヨークでオーストラリアや英国の留学生を多く見、発音もアメリカ英語に近く、若い他の英語圏の若者すらアメリカを別格としていると感じました。 2)80年代後半のアメリカの物価は日本、英国より安く、留学生にとって経済的負担を軽減できること 3)そして何にもまして、当時外出するといつ何か起こっても不思議ではない、暴力、貧困、思いがけない優しさ、ふと見せられる寂しさ。 そんな大都会のニューヨークに身を置く、この上ない充実感。丁さんと接している短い機会に私は彼が将来、娘さんを留学させたいなら“アメリカ”であることを説きました

それから暫らくして丁さんと疎遠になりましたが、約7~8年してから偶然にテレビの1時間特番で丁さんの不法滞在と娘をアメリカ留学させ卒業させた苦労と涙の番組を見ることになりました。
家族を上海に置き、自分は仕事をいくつも掛け持ちし、検挙されることを恐れながらも娘をニューヨーク州の医学部を卒業させ医師にした番組でした

もちろん、私の意見だけで留学先をアメリカにしたと思いませんが、この時、少しは役に立ったことを知り、この上なく嬉しかったです。

人には過去を振り返って、世話になった人、もしくは“もし、あの人に会っていなかったら”という局面を何度か経験してます。
私はこの先、何年生きるか知れないが、あの小説“THE CATCHER IN THE RYE - ライ麦畑の中で捕まえて”のキャッチャーのように、若者、いや年齢に関係なく必要とあらば熱く語りたい
そして何年、何十年後、人生の交差点に私が立っていたことを思い出してくれたら私がこの世に生を受けた恩返しとなるかも知れない


では、また続きを書きます。








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