諸葛亮にとっての一番の幸せは、劉備玄徳と出会いである。
諸葛亮にとって劉備とは、
「親を幼いころに亡くした境遇が同じ。」
「民が幸せに暮らせる世の中をつくりたいという志が同じ。」
「才能を買って自分の案を採用してくれる。」
「部下、領民を大切に慈しむ。」
「人に対して横暴な態度がない。」
という人物だった。一生仕えたい君子なのである。
彼の兵力は、他の軍と比較してもとても小さい。
曹操が100万人、孫権が5万人、劉備は数千人だった。
領土に関してもひどい状態だった。
曹操は天下13州の内8周を平定、孫権は2州、
劉備一つの城(ほぼ砦ぐらいの荒れた城)。
それでも諸葛亮は劉備に仕えたのである。
金銭、領土、待遇でなく、劉備という人物を選んだ。
その後、諸葛亮は劉備と孫権に同盟を成功させ、
曹操100万の軍を1日で壊滅にさせる。
その後も進撃を続け、劉備と諸葛亮は
荊州、益州、漢中(山を乗り越えれば長安、洛陽)
と手に入れ、漢中王を名乗る。すでに兵力は70万人を超えていた。
ここで関羽が呉に打たれ、劉備は弔い戦を考えていた。
魏の曹丕は漢の献帝から帝位を奪い、魏を建国する。
それに対して、諸葛亮は劉備を帝位につかせ蜀漢を建国。
諸葛亮は、過去わらじを編んで生計を立てていた劉備を
皇帝にまで伸し上げた。
このとき どうしても劉備は関羽の弔いのため、
諸葛亮の制止を振り払い、70万の兵を率いて、
孫権との戦いに挑んだ。
諸葛亮は黙ることで、劉備のやりたいことを
見届けた。
結果は劉備の惨敗。
劉備はショックで寝込んでしまい、
白帝城で、諸葛亮と2人で話をする。
劉備「皇帝までしてもらったのに、こんな惨めな結果となって、
すまない。」
諸葛亮は涙して、ゆっくりうなづくだけ。
劉備「私はもう死ぬであろう。
貴公の才を持ってすれば、国安泰にし、
漢王室復興を成就するだろう。
我が子、劉禅をよく補佐してやってほしい。
しかし、補佐する価値のない人間ならば、
貴公が帝を奪って、領民が平和で暮らせる国を成就してくれ。」
諸葛亮はさらに涙ながらに答える。
「私はなんとしても尽力をつくし、忠貞の節をつくすつもりです。」
劉備は子供たちを呼びつけて
「私が死んだら、諸葛亮を父として使え、
心同じくして、命令に背いてはななぬ。」
と言い残して亡くなった。享年63歳。
その後、劉備の死を知った曹丕は、異民族を含めて、5つの路から
蜀へ侵入するが、諸葛亮は見事に阻止する。
呉と同盟を回復し、南蛮制圧をはたし、
劉備の死後から4年後、ついに北伐(魏国討伐)を開始する。
劉備と一緒に見た夢を実現するためである。
空になびく漢の軍旗を見上げて思うことは、劉備と語り合った日々だろう。
このように
君臣忠誠をつくすのが諸葛亮なのである。
********************************************************
さて劉備の子、劉禅がどんな人物だったかと言うと、
諸葛亮の言うことは聞くには聞くが、
とにかく遊びほうけていた。
「北伐したい」諸葛亮から申し出があったとき劉禅から
出た言葉とは
「諸葛亮が居らなければ、誰が私を守ってくれるのだ?
滞る政治、執務はどうするのだ?」
諸葛亮は一つ一つ丁寧に答えてゆく。
文官も
「現在、星を見るに運気が悪い。」
「魏へ侵入するには、険阻の山がそびえ立ち、
行軍、食料運搬が困難。」
「兵力、国力の差がありすぎる」
と口ぐちに言う。
「星の運気で国の定めすべてをで決められるか。」
「軍を分けて、ゆっくりと侵入してゆく。」
「貴公は赤壁の戦いを知らぬのか?」
と諸葛亮は返答してゆく。
しかし、結局北伐の許しがもらえなかった。
後日、諸葛亮は、(前)出水表を書き記し
劉禅に読みあげる。
そこには
劉備玄徳との出会いに感激し、
この21年間職務遂行はその忠誠心を
説いている。
またそれぞれが心配していたことについても
どう対処すれば良いか記した。
(この文体は中国語の中で一番美しいと言われている。)
これにて やっと北伐が許されたのである。
劉禅は中国の皇帝の中で一番の愚か者と評価されるが、
諸葛亮は、劉備の子にもその忠誠を通した。
臥龍吟--諸葛亮
上の動画は中国語ですが、
学問励む諸葛亮が、劉備玄徳との出会い、
草蘆を出て行く気持ちが歌われています。
字幕が日本語でなくてごめんなさい。
諸葛亮にとって劉備とは、
「親を幼いころに亡くした境遇が同じ。」
「民が幸せに暮らせる世の中をつくりたいという志が同じ。」
「才能を買って自分の案を採用してくれる。」
「部下、領民を大切に慈しむ。」
「人に対して横暴な態度がない。」
という人物だった。一生仕えたい君子なのである。
彼の兵力は、他の軍と比較してもとても小さい。
曹操が100万人、孫権が5万人、劉備は数千人だった。
領土に関してもひどい状態だった。
曹操は天下13州の内8周を平定、孫権は2州、
劉備一つの城(ほぼ砦ぐらいの荒れた城)。
それでも諸葛亮は劉備に仕えたのである。
金銭、領土、待遇でなく、劉備という人物を選んだ。
その後、諸葛亮は劉備と孫権に同盟を成功させ、
曹操100万の軍を1日で壊滅にさせる。
その後も進撃を続け、劉備と諸葛亮は
荊州、益州、漢中(山を乗り越えれば長安、洛陽)
と手に入れ、漢中王を名乗る。すでに兵力は70万人を超えていた。
ここで関羽が呉に打たれ、劉備は弔い戦を考えていた。
魏の曹丕は漢の献帝から帝位を奪い、魏を建国する。
それに対して、諸葛亮は劉備を帝位につかせ蜀漢を建国。
諸葛亮は、過去わらじを編んで生計を立てていた劉備を
皇帝にまで伸し上げた。
このとき どうしても劉備は関羽の弔いのため、
諸葛亮の制止を振り払い、70万の兵を率いて、
孫権との戦いに挑んだ。
諸葛亮は黙ることで、劉備のやりたいことを
見届けた。
結果は劉備の惨敗。
劉備はショックで寝込んでしまい、
白帝城で、諸葛亮と2人で話をする。
劉備「皇帝までしてもらったのに、こんな惨めな結果となって、
すまない。」
諸葛亮は涙して、ゆっくりうなづくだけ。
劉備「私はもう死ぬであろう。
貴公の才を持ってすれば、国安泰にし、
漢王室復興を成就するだろう。
我が子、劉禅をよく補佐してやってほしい。
しかし、補佐する価値のない人間ならば、
貴公が帝を奪って、領民が平和で暮らせる国を成就してくれ。」
諸葛亮はさらに涙ながらに答える。
「私はなんとしても尽力をつくし、忠貞の節をつくすつもりです。」
劉備は子供たちを呼びつけて
「私が死んだら、諸葛亮を父として使え、
心同じくして、命令に背いてはななぬ。」
と言い残して亡くなった。享年63歳。
その後、劉備の死を知った曹丕は、異民族を含めて、5つの路から
蜀へ侵入するが、諸葛亮は見事に阻止する。
呉と同盟を回復し、南蛮制圧をはたし、
劉備の死後から4年後、ついに北伐(魏国討伐)を開始する。
劉備と一緒に見た夢を実現するためである。
空になびく漢の軍旗を見上げて思うことは、劉備と語り合った日々だろう。
このように
君臣忠誠をつくすのが諸葛亮なのである。
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さて劉備の子、劉禅がどんな人物だったかと言うと、
諸葛亮の言うことは聞くには聞くが、
とにかく遊びほうけていた。
「北伐したい」諸葛亮から申し出があったとき劉禅から
出た言葉とは
「諸葛亮が居らなければ、誰が私を守ってくれるのだ?
滞る政治、執務はどうするのだ?」
諸葛亮は一つ一つ丁寧に答えてゆく。
文官も
「現在、星を見るに運気が悪い。」
「魏へ侵入するには、険阻の山がそびえ立ち、
行軍、食料運搬が困難。」
「兵力、国力の差がありすぎる」
と口ぐちに言う。
「星の運気で国の定めすべてをで決められるか。」
「軍を分けて、ゆっくりと侵入してゆく。」
「貴公は赤壁の戦いを知らぬのか?」
と諸葛亮は返答してゆく。
しかし、結局北伐の許しがもらえなかった。
後日、諸葛亮は、(前)出水表を書き記し
劉禅に読みあげる。
そこには
劉備玄徳との出会いに感激し、
この21年間職務遂行はその忠誠心を
説いている。
またそれぞれが心配していたことについても
どう対処すれば良いか記した。
(この文体は中国語の中で一番美しいと言われている。)
これにて やっと北伐が許されたのである。
劉禅は中国の皇帝の中で一番の愚か者と評価されるが、
諸葛亮は、劉備の子にもその忠誠を通した。
臥龍吟--諸葛亮
上の動画は中国語ですが、
学問励む諸葛亮が、劉備玄徳との出会い、
草蘆を出て行く気持ちが歌われています。
字幕が日本語でなくてごめんなさい。
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