諸葛亮は劉備の霊廟に何を語りかけていたのか? 2008年10月19日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 漢中に着いた諸葛亮は、成都からの使者にあった。 その結果 呉が蜀に攻めてくる報告は、うそだったのだ。 李巌がさぼった結果、食糧輸送の期限日に遅れたために ついたうそだとわかった。 軍律に従えば李巌は斬首しなければならない。 しかし斬れば斬ったで、次の担当者も桟道を通って 期日どおり兵糧を運べるかどうか問題であった。 楊儀の提案では、 李巌の官位剥奪の上、流罪。 そして李巌の子供を兵糧輸送担当者にすれば、 頑張って必ず期日を守って、輸送をするだろう。であった。 なるほど。兵糧を期日通り持ってきて来られるなら、 斬首するよりも利益が大きいと言うのだ。 よって諸葛亮は、楊儀の案を採用して 李巌の命まではとらなかったのである。 4次北伐は勝ち続けただけに、このうそによる撤退は、 とても腹立たしかったであろう。 それでも諸葛亮は懐深く、怒らず許したのである。 またそれは、桟道の兵糧輸送の難しさを表しているのだろう。 諸葛亮も兵糧輸送の問題を解決するため、一輪車の木牛を開発し、 さらにもっと輸送量を増やせる流馬を改良に改良してゆく。 ************************************************************ この木牛流馬は、諸葛亮のみで作ったのではない。 彼の奥さんが、ほぼ原型を作ったのだ。 諸葛亮は奥さんより、からくりで動く木細工を教わっていたのである。 諸葛亮が難業をこなしてこれた理由の1つに 奥さん一人ですべて、家庭の問題、子育てをやって切り抜けたことも あげられる。 また生活のお金もたいへんだったが、 それを解決したのが桑800株だった。 蚕を育てて、シルクの糸を作っていたのだ。 これら奥さんの「内助の功」も ご紹介しておきました。 *********************************************************************** 劉備玄徳亡き後、 丞相の諸葛亮には、国益など大きな問題を、相談できる相手はいなかっただろう。 そんなとき彼は、よく昭烈帝(劉備)の霊廟に行っただろう。 悔しいとき、悲しいとき、国の報告なども同じである。 劉備が託した平安がなかなか達成できない彼は、責任感がひと一倍強かったから、 霊廟に行っては「申し訳ありません。」と謝っていたと思う。 彼は劉備玄徳と語り合った「復興の夢」をいつも思い出したのではないだろうか。 霊廟で祈る丞相諸葛亮 ************************************************************************** 曹操の南下、新野脱出の折、農民が一緒に劉備玄徳付いて来た。 劉備玄徳は逃げる速度が遅くなるにもかかわず、 農民を見捨てずに、兵2000・農民10万人が一緒に逃げたのだ。 劉備玄徳は、農民の悲しみも分かちあっていたのだ。 関羽、張飛、趙雲、諸葛亮と尽力をつくして逃げる。 しかし長坂波にて曹操軍に追いつかれ、次々農民・兵士が斬られてゆく。 この記憶も諸葛亮が北伐を続ける原動力の一部であったに違いない。
4次北伐「諸葛亮孔明街亭の雪辱を果たす。」 2008年10月18日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 上図は諸葛亮率いる蜀軍を苦しめた桟道です。 岸壁に穴をあけて、木の組み立てで出来ている橋です。 一列に並んで行軍するのが精一杯の道幅しかありません。 特に食糧輸送が深刻な問題でした。 この写真を見ても、諸葛亮と蜀軍が北伐にかける想いが 現代の我々にも伝わってきます。 ************************************************** 4次北伐。 諸葛亮は3万の軍勢で、漢中より北西の祀山を目指し、 天水東部(隴西)の鹵城へ出陣する。 民衆からの諸葛亮支持は強いため、 鹵城の太守はすんなりと城を明け渡す。 まず税金として麦を徴収することにした。 太守「麦を苅ってもらうことは構いませんが、 司馬懿の軍勢10万が見張っています。」 諸葛亮「10万!蜀軍は3万しかいません。 地図を見せてもらえますか。」 「妖鳴樹」という森林帯を見付けて、名前の由来を聞く。 太守「昼間でも薄暗く、妖怪の鳴き声が聞こえるため、 旅人でも嫌がって、入っていきません。 鳴き声の原因は、木にあいている穴に風が通って 音を出しているだけなのですが、 人間の声のように聞こえます。」 これは計略に仕えると思った諸葛亮は、早速行動に移した。 司馬懿陣営前に 諸葛亮と思える黒ずくめの集団が踊る。 髪はばさばさで、旗を振りかざし「イッヒッヒ」と 笑い声をたてる。 兵士たちは「諸葛亮?妖怪?」騒ぎたちだした。 司馬懿と「すぐに捕まえろ」と命じた。 しかし、いくら追いかけても捕まえられない。 司馬懿も陣を出て追いかけて、妖鳴樹に入り込んでしまう。 司馬懿もまた追いかけるが、捕まえられなかった。 立ち止まると、周囲の木が悲しげ人間の声を出す。 兵士たちは 「孔明は妖怪なんだ。」と恐れだした。 司馬懿は 「この世に妖怪などおらんと兵士にいい聞かせろ」命じた。 すると 右からも、左からも諸葛亮と思える集団が現れた。 これには司馬懿も恐れて、退却命令を出した。 陣に帰ると、 「すでに蜀軍と農民が、麦を苅ってしまいました。」 司馬懿に告げられた。 「どうして諸葛亮にかかるとこんな簡単な計略に 我々は引っかかるのだ。」 と司馬懿は嘆いた。 「今夜、鹵城を総攻撃する。」と司馬懿は命令を下した。 *************************************************** 鹵城の戦い 司馬懿率いる軍勢は夜、鹵城を囲んだ。 総攻撃の合図として太鼓が鳴り響く。 ところが、 城内より、一斉に弓矢が司馬懿側に飛んできた。 司馬懿側の太鼓は、諸葛亮側の総攻撃の合図となっていたのだ。 司馬懿率いる魏軍は、混乱しパニックに陥った。 さらに麦畑に隠れていた姜維、魏延、馬忠、馬岱の8000の兵が 魏軍に襲いかかった。 城内からの弓矢が止まると門が開き、 蜀軍が一挙に攻めかかった。 前後から襲われた魏兵は次々に斬られてゆく。 司馬懿は必死に蜀兵の囲みから脱出し、 近くの山に逃げてのびた。 翌朝、鹵城一帯は魏軍の死体で埋め尽くされ、 その血は川を形成するほどだったという。 司馬懿の大惨敗だった。 司馬懿は援軍を要請し、 20万の兵が、蜀軍の兵糧輸送を断ち切るため、 剣閣に向かった。 しかし、途中で休憩を入れたところを、 蜀軍の襲撃に遭い、多数の死者を出して、敗走した。 これも司馬懿の惨敗となる。 ***************************************************** 李厳より「呉の蜀侵攻計画」の報告を受ける。 蜀軍は一致団結にて勝利沸き返った。 しかし、永安を任されている李厳からの兵糧が来ない。 さらに李厳から早馬が駆けつけた。 「呉国が魏国と同盟を組み、蜀への侵攻を計画しているため、 兵糧が上手く輸送できない」 諸葛亮は撤退を決意し、漢中への退却を開始した。 司馬懿もこのことを聞きつけ、 張合に追撃させた。 張合の軍勢が、蜀軍に襲いかかると、 張合の後方が、蜀軍の伏兵によって丸太、大石が投げ込まれ、 退路を失った。 左右から弓矢を射られ、張合は戦死する。 これもまた、司馬懿の惨敗となった。 ****************************************************** 1次北伐から4次北伐は毎年行われた。 魏国では来年も諸葛亮が侵攻してくるだろうから、 天水方面に食糧を蓄えておこうと案がだされた。 ところが司馬懿は 「いいや、その必要はない。 諸葛亮は祀山、陳倉を攻めあぐんでいる。 今後は作戦変更し、野戦を望んでくるだろう。 今までの諸葛亮を見ると、兵糧不足に悩んで 撤退している。 次回は充分な兵糧を準備するだろうから、 侵攻は3年後である。」 惨敗続きの司馬懿であっても、 平常心を保ち、諸葛亮の動きを予想していた。 まことに司馬懿予想通りで 諸葛亮の5次北伐(最期の出陣)は、3年後であった。
呉孫権帝位に就く。 諸葛亮孔明「耐え難きを耐えよ。」 2008年10月17日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 写真は、諸葛亮率いる蜀軍を苦しめた桟道です。 呉の孫権は帝位に就いた。名実ともに三国鼎立となった。(229年) 呉は同盟関係にある蜀にも使者を送り、同意を求めた。 魏の曹操は傀儡政治であり、曹丕は後漢献帝から帝位を簒奪した。 魏とは漢王朝にとって逆賊なのである。 そこで、劉備・諸葛亮は漢王朝の復興を目指し、漢王朝を継ぐ形を とって蜀漢を建国したのである。 つまり蜀漢が魏を討伐して、再び漢の天下を回復することが悲願なのである。 そこへ呉もまた皇帝と主張しだした。呉も漢の逆賊となってしまった。 逆賊は討伐しなければならない。 蜀漢は、呉と同盟継続派と同盟破棄派に意見が分かれてしまった。 呉同盟破棄派 「我が国がこのまま呉と同盟継続しても、何も得るところはなく、 大儀名文さえ失う恐れがある。 ここは呉と同盟を破棄して、我が国の正統性を明らかにすべきである。 呉討伐はともかくとして、同盟を継続すべきでない。」 同盟継続派 「魏一国でさえ、持て余しているのに、呉まで敵に廻せば、 蜀漢は国の維持さえ困難極まりなく、危ない。亡国を望むのか? 同盟を破棄すれば蜀漢に攻めてくる恐れもあるではないか!」 議論に沸く劉禅を前にした御前会議。 黙っていた諸葛亮が、ついに述べた。 ***************************************************************** 孫権が帝位を望むようになって、既に久しい。 我が国が彼の動きとして 荊州要求 孫夫人帰国 関羽斬首 夷陵の戦い これらに目をつぶってきたのは、 ともに魏を討つ同盟軍がほしかったからである。 今、もしも、同盟を破棄すれば呉は 深く蜀漢を恨むであろう。 そうなれば我々は、東に進軍しなければならず、 中原(黄河領域)の回復は後回しとなる。 しかも呉国には有能な家臣が多く、 平定にはとても長期間となるだろう。 これが魏国の狙っている計略である。 先帝(劉備玄徳)は柔軟姿勢で呉と同盟を結ばれた。 臨機応変に対処してチャンスを待つ為である。 一時の怒りに任せて、軽挙妄動しては目的が達成できない。 我々は耐え難きことも耐えるのが、必要なのである。 孫権が望んでいることは三国鼎立である。 皆は孫権に魏国討伐の意志がないと思っているが、 これは間違いである。 彼が今、北伐しないのは、力不足であって、 魏が蜀に攻めてこないのと同じである。 蜀漢が今後、魏国に対して、攻め続けば、 呉国も呼応して、領土拡大のために北伐をする。 もし呉国が北伐に進まなくても、 我々は、呉の蜀侵攻を心配しなくて済むし、 魏国は、軍を蜀と呉に分割してあたらければならない。 呉との同盟継続についての現実的利益は、 同盟破棄によって得られる大儀名文の利益より 大きいのである。 ********************************************************** つまり、 我々の理想(漢王朝復興)は高く上げるが、 その手段は現実的なものを選び、 仲間の小さな利益(孫権の帝位)は目をつぶってやれ と説得したのである。 蜀漢が領土、食糧、人ともに豊であれば、 諸葛亮孔明も呉を逆賊として討伐したであろう。 しかし、蜀漢の現実は非常にきびしい。 「耐え難きを耐えよ。」は家臣に呼びかけたものであるが 自分にも言い聞かせて、説得したのだろう。 丞相の立場として、 家臣たちを説得する諸葛亮が一番、 つらかったのではないだろうか。 ****************************************************
司馬懿の反撃「3次北伐」・・・ 2008年10月16日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 3次北伐とは・・・ 2次北伐勝利にて諸葛亮は再び丞相に官位をもどされた。 しかしまたも諸葛亮に悲しみが襲う。 張飛の息子の張苞が亡くなる。 あまりの悲しみに諸葛亮は起きあがれなくなり、 成都で養生する。 その頃、司馬懿・曹真は50万の兵で蜀討伐に進む。 陳倉城に蜀軍はおらず、 蜀軍撤退時には城内部を全て焼き払ったらしい。 ここで魏軍は30日の大雨に遭遇する。 馬は死に、兵は病死するものが多くでた。 大軍は戦わずして退却を決めたのである。 このとき、司馬懿と曹真(曹操の甥)は賭けをした。 司馬懿は諸葛亮が来襲すると考え、箕谷に陣を張り 曹真は諸葛亮が来ないと考え、斜谷に陣を張ったのである。 その頃、蜀軍では 魏延は魏軍はいないと考えながら箕谷に向かい。 関興は魏軍がいると斜谷に向かった。 魏軍と蜀軍は衝突したのである。 魏延は予想していなかった魏・司馬懿の伏兵によって敗走し、 曹真は予想していなかった蜀・関興によって敗走し、 危ないところを司馬懿に助けられた。 大いに恥をかいた曹真は病床につき、 そこへ諸葛亮が侮辱の手紙を曹真に送りつけ、曹真は憤死したのである。 ****************************************************************** 司馬懿の反撃「離間の計」にて諸葛亮は撤退する。******************** ****************************************************************** 諸葛亮は 李巌の部下が食糧を予定より一週間遅れた配達することを激怒した。 次遅れれば斬首になることを恐れたこの兵は蜀を裏切って 司馬懿に投降した。 司馬懿はこの兵に 「成都に帰って、諸葛亮が蜀を乗っ取ることを企てていると 噂を流せ。劉禅と諸葛亮の仲が割れたら、投降させてやろう。」 と述べた。 この兵は早速、成都に向かい、諸葛亮簒奪の疑いがある と噂を流す。 この噂を聞いた文官は、劉禅に「北伐中止」を促す。 劉禅は今までの諸葛亮の働き・忠誠心を忘れ、諸葛亮の帰国を命じた。 これから進軍というときに、帰国命令である。 成都に帰国した諸葛亮は、劉禅に会う。 劉禅 「久しく、おじ上の顔を見てなかったので逢いたくなったのだ。」 諸葛亮「話は聞いております。私が簒奪を考えていると疑われている。 ・・・・・・・・・。 私が何をやったと言うのでしょう。昭烈帝(劉備)より忠義をつくし、 武将、兵ともにそのご恩をお返ししようと日々戦っております。 かような疑いは昭烈帝もあの世でお悲しみでございますぞ。 誰がこのようことを企てたのでしょうか?」 劉禅は「この者が噂に聞いたと申すのだ。」と文官を指さす。 文官は李巌の兵から聞いたという。 諸葛亮「その者は食糧輸送を7日遅れたので罰したのです。 今どこにおるのだ。」 すでにその兵は魏へ投降していた。 諸葛亮は、この文官が後々、蜀を乱すと考え、斬首した。 さらに諸葛亮は今後疑われないように自分の財産を述べる。 「臣は成都に桑八百株と痩せた田畑15町歩と持っておりますから、 家族の生活はどうやら保てますし、出征中の私自身の衣服や身の廻り品、 食物も、すべて国から支給されますので、これ以上の私財を持つ必要は ありません。 したがって、私の死後、余分な財産を蓄えていたと非難されて、 陛下のご信頼を裏切る恐れはございません。」 ***************************************************** その諸葛亮の死後に調べてみると、 その言葉どおり質素な生活ぶりで、私欲のない人だった。 ***************************************************** さらに蜀漢を分裂の危機に陥る。 呉の孫権が帝に就き、呉を建国するのである。 このまま蜀と呉が同盟を続けるのか? または同盟を破棄するのか? 議論することとなった。
2次北伐・・・孔明はどうして苦戦した? 2008年10月15日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 2次北伐について・・・ 馬謖の敗北より6ヶ月経過 呉の陸遜は淮南にて曹休を大破。 呉より魏国へ出兵願いが来る。 漢中にいた諸葛亮は既に兵を補充し、馬も整い、兵糧も貯まった。 しかし諸葛亮に悲しみが襲う。 趙雲の長男と次男が喪に服してあいさつにきたのである。 五虎将軍(関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠)の中で一人生き残り、 諸葛亮をよく理解し、相談相手であった。さらに猛将であり、 一次北伐敗戦時の退却しんがりは趙雲が引きうけ、 兵をほぼ失うことなく漢中にもどしてくれた。 蜀軍では出陣反対の声も出だしたが 諸葛亮の後出水の表にて出陣許可が降りた。 20万の軍で3000で守る陳倉城へ向かう。 泥沼の陳倉城攻め****************************************** 魏延に命じて陳倉城を攻め、降伏勧告を促す。 がしかし聞き入れられない。 ここで総攻撃が命じられた。 はしご車を100台が一気に城壁に向かう。 これを見た城側は多量の火矢をあびせた。 兵ともにはしご車すべてが燃えあがる。 蜀軍は総崩れになった。 次は石球をぶつける戦車を繰り出すが 城側も石球にて戦車を破壊しつくす。 次はトンネルを掘るが、トンネルも切断されてゆく。 20日余りの攻防戦が続くが、 魏軍の援軍が駆けつけ、蜀軍の兵糧も欠乏し、 諸葛亮は撤退を命じた。 魏援軍の先鋒、王双は蜀軍の武将2人倒す。 蜀軍は漢中への近道をつかわず、迂回して 祁山に逃げ込む。 ここで激しいゲリラ戦が繰り返された。 食糧欠乏の蜀軍に対して 魏は、おとりの兵糧をつかって誘う。 それを取りに来た蜀の王平を魏軍が囲い込むが さらに大きく蜀軍が囲い込み、挟み込んで壊滅させた。 魏の王双は姜維の計略によっておびき出され、、 魏延が討った。 一度蜀軍は漢中まで引きあげた。 陳倉城の内部を探らせると、 城主の合阝昭が重病だとわかった。 すぐに姜維・魏延5000の兵で城攻めに向かわせる。 城に着くと、既に諸葛亮が城を奪っていた。 姜維・魏延をおとりにして、諸葛亮・関興・張苞が 城を落としたのだ。 さらに散関、建威の2郡を攻略する。 この戦いの目的は 魏の援軍を止め、陳倉城から西の祁山を制圧すること。 また蜀軍の志気を回復し、北伐続行を維持させるためだと 考えれている。 ********************************************************** 諸葛亮ファンにつらいのだが、 歴史研究家によれば、諸葛亮は政治家としては 1流だが軍師としては2流である と言われている。 祁山後の戦いは、諸葛亮らしい戦いであるが、 陳倉城攻めは、諸葛亮の戦い方がとても鈍い。 これは私の私見なのだが、 このとき、武将の間でも統率がむずかしくなり、 戦い方を変えたのではないかと考える。 そこで、諸葛亮によく反対する魏延の案を用いて 力攻めを実行した。 だから猛将魏延の活躍が多いのではなかろうか。 諸葛亮は 「力攻めの戦い方では、蜀軍は減衰するだけで 明日はなく、計略を中心にした戦い方が得なのです。」 と各武将に教えたかったのではないだろうか。
諸葛亮孔明を知るエピソード「空城の計」とは? 2008年10月14日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決 第一次北伐では、 馬謖が司馬懿に敗北したことを聞いて 諸葛亮はすぐに、各武将に退却を指示する。 諸葛亮はわずかな兵で、陽平関の城に 兵糧を取りに向かう。 この兵糧を取りに行った理由は 兵糧を採られれば、兵糧を貯めるのに日数がかかり 次回の北伐が延びること。 魏の戦利品を渡さないこと。 である。 兵糧を半分積んだところで、砂煙をあげながら 司馬懿の軍15万が向かってくる。 諸葛亮にはこのとき2000の兵のみで、将軍・武将がいなかった。 逃げれば、捕まる。 すぐ、空城の計をすることに決めた。 「物音は一切立てず、騒いだ者は切り捨てよ。 城門は全て開いて、きれいにそうじせよ。」と指示した。 しかし 本当にこの手が司馬懿に通じるのか? 不安でたまらない。 羽毛扇を落とした先には、琴があった。 司馬懿の到着である。 城門の上に目をやれば諸葛亮が立っている。 後ろに童子を引き連れ、香をたき、諸葛亮(孔明)は座って琴を弾き出す。 司馬昭「父上。空城の計です。孔明は軍勢がないから わざとあんな芝居をしているのです。 一気に攻め落としましょう。」 司馬懿「待て。孔明は元来用心深い男だ。あぶない橋は渡らん。 伏兵があるに違いない。 琴の音色を自信に満ちて優美である。よく聞けば、 殺気さえ感じる。」 このとき諸葛亮の琴の弦が切れる。緊張のため力を入れすぎ 切れたのだ。しかし司馬懿は諸葛亮の攻撃が始まると考えて 一気に退却した。 こうして諸葛亮の危機を逃れることができた。 しかし 考えてみると、これだけの軍勢の差があれば 攻撃しても、諸葛亮は討てたはずである。 司馬懿は諸葛亮を討っても得がなかったのである。 司馬懿は隠居の身だったが、諸葛亮に勝てる魏の武将がなかったので、 再び、司馬懿将軍にもどることができたのだ。 諸葛亮が生きていれば、司馬懿の活躍の場も維持できる。 司馬懿の身を守るため、孔明を討たなかったと見るのが自然である。 空城の計 空城の計 (続編) ****************************************************************** 皆さんは張飛に空城の計があったのもご存じでしたか? 紹介しますと・・・ 諸葛亮は1000人で襄陽を守っていたが、 曹操は30万の軍勢で樊城に攻めてきた。劉備や主なる武将はいない。 いたのは新婚の張飛のみだった。 諸葛亮は張飛に100名で樊城の守りに行ってくれと命じ、 「ここに計略が書いてあるから、着いたら開けてくれ」と 錦袋を渡す。 張飛は大軍と戦うのに空城の計しかないと考え、城の門を開ける。 ピンチになったら諸葛亮の計略を使おうと簡単に考えてた。 しかし曹操は、帰ってくれるどころか、城に一気に攻めてきた。 敵が迫って来るのを見た張飛は、錦袋を開けて紙を取り出すと、 何も書かれていない。白紙なのだ。 「あのやろう。孔明に騙された!! わざと、俺に空の城を守らせやがって!!」 あまりのすさまじい声に 曹操は、罠だと勘違いし、すぐに退却したのである。 退却する曹操を見て、張飛と妻は大喜び。 この張飛の声が 諸葛亮の計略と知った。