臣・民愛し、その時に応じ賞罰を与える。(続編)
5.ときに応じて賞罰を与える。(きびしさとやさしさ)
2.民衆を愛する。
の説明です。
諸葛亮は、ときに応じて 賞罰を与えるのに優れていた。
関羽編********************************************
関羽を許したほうが、劉備軍は一致団結して、
諸葛亮の命令を厳守し、その指揮に服従させ戦っていける。
つまり、劉備軍を1つにまとめることを考えたのである。
もし斬首すれば、諸葛亮への怖さが
疑心暗鬼を生み、劉備軍はバラバラになって
国を興す夢は散っただろう。
諸葛亮は組織の統率を第一としたのである。
しかし馬謖の場合は別である。
馬謖編********************************************
劉備亡き後の蜀軍は30万人を動員し北伐を開始する。
次々に城を落としていった蜀軍に対し、
司馬懿(諸葛亮にとって最大のライバル)を進軍させた。
守るべき所は、蜀軍にとって輸送中継地となる
街亭だった。
もし、この場所を魏軍に奪われたら、
食料は欠乏し、戦うことさえ、できなくなる。
諸葛亮は誰に街亭を守らせるか?悩んでいた。
それを察知した馬謖は、
「自分に行かさせてください。必ず街亭を死守します。
この約束に対し、家族同族全員の命を差し出します。」と言う。
諸葛亮は悩み、明朝まで考えさせてくれと述べた。
馬謖は兵法に優れていたが、なにぶん実践が浅い。
馬謖は諸葛亮が一番愛した家臣で、いろいろ教え、
その成長を楽しみにしていた。
しかし家臣からの受けは悪い。
劉備からも遺言のひとつとして、
「才が走り過ぎて、自分を大きく見せることにたけているが、
役に立たぬ男だから、重大な件はまかせてはならぬ。」
と言っていた。
馬謖の成長を見てきた諸葛亮にとって
路ひとつぐらいなら、守れるだろう
と考えた。
明朝
諸葛亮は兵2万人を馬謖に渡し、副将に王平をつかせた。
「街亭に着いたら、まず、路に陣を構えよ。
そして陣形と地形を書いて使いをよこせ。
決して高所(小高い山)に陣を構えてはならぬ。」
このとき諸葛亮としては、馬謖に蜀の命運を委ねた。
しかし、馬謖にとっては、ここで活躍すれば、
俺を非難してきた奴らを見返せると考えていた。
街亭に着いた馬謖と王平は、すぐに意見がぶつかり合う。
王平「路に柵を何重にも作っていきましょう。」
馬謖「高所に陣を構えれば、柵など不要。
敵の動きも観察できるではないか。
そちは孫子の兵法を知らぬのか?」
王平「丞相(諸葛亮)は高所に陣を構えず、
路に陣を作れとおしゃっていました。
水の確保はどうなさるのですか?」
馬謖「その都度、水をくみに行かせれば良い。
水がないほうが、兵士も死ぬ気で戦う。」
王平「では私に兵をお譲りください。
私は路を守ります。」
馬謖「兵5000を譲ってやろう。あとで
手柄をくれと言うなよ。」
馬謖は兵15000にて高所に陣を張り、
王平は兵5000にて街亭の路に陣を張った。
王平はすぐに
陣形と地形を記て丞相(諸葛亮)に送った。
陣形を知った諸葛亮は激怒。
「これでは、水が無く、火攻めにあえば
2日で全滅する。
陣を路に張り直せよ。」
楊儀が早馬で街亭馬謖の所に向かった。
司馬懿は大軍を街亭に進軍させた。
すでに蜀軍は陣を張っている。
「さすがよ。(諸葛亮)孔明は」
蜀軍の守備に、司馬懿は攻撃をあきらめた。
しかし、高所に構える馬謖の陣を見て、
決戦に踏み切った。
司馬懿は馬謖の陣に対して、十重二十重と取り囲む。
そして2日待ち、
蜀軍は水に飢え、志気は低下。逃亡する兵士が続出した。
次に司馬懿は火攻めを行った。
馬謖は既に選べる方法はなく、司馬懿の軍に向かって下る。
すぐに壊滅状態になるも、馬謖は司馬懿の包囲から脱出できた。
援軍に来た蜀軍も破れる。
逃げてくる蜀軍に、楊儀が出会った。
楊儀は来た路を再び引き返し、
諸葛亮に敗戦報告をした。
食料輸送路を取られては、退却しかない。
全軍を分散し、退却命令を下した。
諸葛亮わずかな手勢で陽平関の城に入り、
「空城の計」にて危機を乗り越える。
漢中に帰りついた諸葛亮は、敗戦の詰問を行う。
まず王平が呼ばれ、次に馬謖が呼ばれた。
馬謖は自分の身体を縄で縛り、
諸葛亮の前に現れた。
諸葛亮は問う
「私は街亭が食料輸送路であり、
我々の最重要地だと再三言った。
現在誰の手に街亭はあるのだ?」
馬謖 「敵の勢いが強大で、街亭を死守できませんでした。」
諸葛亮「お前は一族の命に変えて死守すると言った。
それなのに何というざまなのだ。
我々がどういう気持ちで、お前が街亭に行くのを
見送ったか知っているのか?
街亭を失うことは、蜀軍30万兵の命も失うところ
だったのだぞ!!
私は高所に陣を張ってはいけないと言っただろう。
お前の横には戦場経験豊かな王平をつけたのだ。
副将王平もお前を戒め、止めたではないか!
それをお前は、王平の意見に耳をかさず、
机上だけの兵法をそらんじ、
その結果、将兵は討たれ、土地を失い、城を奪われた。
他の将兵が、これ以上の損害を出さぬために、
必死にどれだけ駆けずりまわったか、わかっておるのか?
もはや・・・処刑はまぬがれない。
今まで、お前はよく忠誠をつくしてくれた。
誓約状の書面で家族・一族の命も渡すと言ったが、
家族と一族については無罪とし、処刑はしない。
だが馬謖の罪状については、
軍律どおり斬首は免れない。
楊儀と、成都から駆けつけた蒋琬は
「助命はできないでしょうか。」と言う。
諸葛亮「それはよくわかる。だが馬謖を斬らぬことの損失は
大きい。義をつらぬき、軍法を守るためにも斬るほかはないのだ。」
人間味豊かだった昭烈帝(劉備玄徳)が亡くなった蜀漢は、
公明正大、法の下、賞罰をおこなわけば、
人と人に不平が生じ、疑心暗鬼になる。こうなれば崩壊はまぬがれない。
諸葛亮は、法の平等によって、組織の統率を守ったのである。
しかし、諸葛亮のきびしさの中にある、やさしさは次のことでわかるだろう。
馬謖「私は罪を受けます。
ただ1つ心残りなのは、私を信じて来た、妻と子供たちです。
私が死んだあとも、どのように生活してゆくのか。
生きてゆけるのか・・・。」
諸葛亮「馬謖の家族は、私の家族と同じである。
お前が死んだあとも、給与は支給続け、
お前の子供は私の子供として育ててゆくから
心配することはない・・・。
斬人、馬謖を連れてゆけ。」
馬謖は歩きはじめるが、諸葛亮に振り向き、答える。
「(家族への)ご慈悲をありがとうございます。
丞相(諸葛亮)には私を我が子のようにかわいがってもらい
私も丞相を父のように慕っていました。
死んでも何も恨みはございません。
では私は先に逝きます。
将の皆様、先に逝きます。ありがとう。」
馬謖は斬首台に連れていかれる。
諸葛亮は、とても泣いた。
諸葛亮「昭烈帝(劉備玄徳)は死の床で、私に
『才だけ走りすぎいて、自分を大きくみせるところが
得意だが、口ほど任せぬ男だから重大な件は、
まかせてはならぬ。』とおおせられた。
今日、まことにおっしゃる様になってしまった。
私は自分の才能のなさを悔やみ、悲しい。
私が街亭に行く者として馬謖を選ばなければ、
馬謖を死ななくて良かった。
私が人選を誤ったのだ。
本当の罪は私にあるのだ。
私が責任をとって死ぬのが筋ではあるが、
蜀をまとめてゆかなければならないので、
今は死ねない。
この後は、私にミスがあれば指摘をしてほしい。」
さらに諸葛亮孔明は、自ら、成都の帝・劉禅に上奏文をおくり、
罰として丞相罷免をこうた。
劉禅は仕方なく官位は3つ下げ、右将軍にしたが、
職務と権限はそのまま、丞相を与えた。
諸葛亮孔明の代わり
全てにわたって、仕事こなせる人物がいなかったからである。
次回へ続く
泣いて馬謖を斬る。
これも中国語で、ごめんなさい。
でも 諸葛亮の判断がどれほど辛かったか
伝わってきます。