雲随の歴史話

歴史人物の生き方、考え方、行動など一緒に学びましょう。
現在は諸葛亮孔明について記載しています。

皆さんへメッセージ

いつも読んでくださりありがとうございます。

よろしけでば応援お願いします。

にほんブログ村 歴史ブログへ おかげさまで リンク許可いただけました。ありがとうございます。 英傑群像 http://www.chugen.net/link/link2.php?cat=4

「レッドクリフパーフェクトガイド」が発売されました。

2008年10月26日 | 雲随のおすすめ商品
そのまま紹介分をコピーしますと、

「物語&舞台裏を監督や全主要キャストへのインタビュー、
美麗なスチール写真ですべて見せます。
もちろんDVDにはそれらが動画で収まっているのでこちらも超必見!」

トニー・レオン
金城 武
チャン・チェン
中村獅堂
リン・チーリン
豪華キャスト大直撃
レッドクリフパーフェクトガイド 完全解剖!三国志~赤壁の戦い~ (TOKYO NEWS MOOK)

東京ニュース通信社

このアイテムの詳細を見る




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北斗星に延命を祈る」諸葛亮孔明

2008年10月24日 | 五丈原に散る
姜維は諸葛亮に
「北斗星の延命祈願術をしてはどうでしょうか?」
と勧めた。迷っていた諸葛亮に皆からお願いされた。

北斗星の延命祈願術とは、
燈火を7つ用意し、床に北斗7星と同じように並べる。
そこに延命の望む本人が剣を持ち、7日間祈り、火を守る。
その部屋の外では
北斗7星の旗を持ちながら黒装束49人が歩き続ける。
中に入って良いのは童子か、決められた人物のみ。
この火が7日目の朝まで消さずに守れれば
10年間の延命が天より許される妖術である。

諸葛亮は延命祈願を行った。
その様子を見に来るのを許されたのは
姜維だけだった。
6日間火は消えなかった。
一日一日諸葛亮の身体は良くなってきていたのだ。


司馬懿は夜になると
諸葛亮にあたる北斗星を見続けていた。
光が弱まる北斗星が、日々輝きを増してきたことを知る。
6日目の夜、
凶兆と見た司馬懿は諸葛亮の陣営に、奇襲をかけたのだ。


驚いた蜀軍陣営の魏延は、周囲の兵に止められるのを
振り払い、諸葛亮が祈りをしているテントを開けた。
テントの中に風が吹き、北斗の火すべてを消してしまう。
怒り狂う姜維が魏延を斬ろうとするのを、諸葛亮が抑えた。
「燈火が消えたのは、魏延のせいではない。
 やはり私の命は尽きたのだ。」

姜維は声を殺して泣いていた。


司馬懿は奇襲後、魏軍陣営で北斗星が再び
光が弱まるのを見て安心する。

北斗星に延命を祈る


*********************************************************
*********************************************************
*********************************************************


姜維とは?
姜維は元々、魏軍の武将だったが、
諸葛亮、趙雲に将来を見込まれて
蜀漢の人生を歩むことになった人物。


第一次北伐のとき、
魏軍姜維は諸葛亮の計略を見破った。

諸葛亮は偽手紙で、天水城の兵を遠征させる。
それを見ていた姜維は、城主に
「これは諸葛亮の計略の可能性があるから、
 私が進軍し、しばらくしたら天水城にもどって来ます。
 城主は城の周囲をお守りください。
 それから蜀軍を挟み撃ちにしましょう。」と提案した。

天水城から姜維の兵が出て行った。
しばらくすると趙雲5000の軍が城を襲おうとしたところ、
姜維の軍が帰ってきた。
趙雲と姜維は一騎討ちとなった。
姜維は槍を投げつけると、趙雲は素手で槍をつかむ。
趙雲が槍を投げ返すと、姜維も槍を素手でつかんだ。
2人とも、その武術の能力に驚いた。
さらに近づいて、槍でつきあうが決着がつかない。
そこに魏軍と蜀軍の援軍が駆けつけて入り乱れるが、
蜀軍はすぐに撤退した。

諸葛亮は自分の計略を見破られたことに驚く。
その武将は26才の青年で、趙雲と戦っても互角であるから、
知力武力を兼ね備えた青年将軍だ。

事態を重く見た諸葛亮は自ら、
天水城を攻めるが、落ちない。
夜になり攻撃を辞めて、陣を城から引き上げる。
森で蜀軍は仮眠をとった。

そのとき蜀軍の四方から火が燃え上がり、
姜維の軍の喊声が響きわたる。

蜀軍は惨敗に終わり、諸葛亮も炎と煙にまかれ、
あわや捕まりそうになった。

続けて姜維に裏をかかれた諸葛亮は、舌を巻く。

諸葛亮「姜維を傘下に入れて、我々の後継者として
    育てたいのですが、いかがですか?」
趙雲「武力と勇気も持ち、文句ない武将ですな」
2人は生まれながらの将軍の器を持った青年を
見つけて大喜びした。
彼は母一人で育てられ、親孝行だから
母から説得してもらうと考えた。

蜀軍は、すぐに母が住む冀城を取り囲んだ
姜維は母の安否を心配して冀城まで駆けつけたが、
冀城は食糧不足に悩んでいた。
籠城するには、蜀軍から兵糧を奪うしかないと考えた
姜維は蜀軍を襲った。

姜維は蜀兵に囲まれた。
何とか血路を見いだして走ったが
そこにも蜀兵がいる。
蜀兵がいない方向を見つけて走ったが、
またも蜀兵である。
もはやここまでと思った姜維は
自決をはかった。
そこに母の呼びかけが聞こえた。
目をやると、母と諸葛亮が一緒にいる。

諸葛亮
「姜維よ。死ぬことはやさしい。
 だが私は君の才を惜しむ。蜀漢に下る気はないか?
 君に敗れて以来、私の兵法の後継者は君しかいないと思い立った。
 計略で君を誘き寄せたのだ。
 わかってくれ姜維よ。」

「蜀漢の皆さんは冀城を落としたあと、
 餓えに苦しんでいた農民一人一人に
 兵糧を配ってくれたんだよ。」
母の祈るような眼差しに姜維の気持ちは決まった。
「これも天命!」と姜維は馬から降りて
 諸葛亮に膝まついた。
諸葛亮亡きあと蜀軍を託された姜維の再出発はこのようにして
始まったのである。



この後、
街亭敗北にて「泣いて馬謖を斬る」が起こる。
姜維の出現にて、
手柄をあせった馬謖が、街亭敗北の原因とも言われている。







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

このサイトと連携しています。

2008年10月23日 | このサイトと連携しています。
にほんブログ村さんにランキングが表示されています。
応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 歴史ブログへ

おかげさまで リンク許可いただけました。ありがとうございます。
英傑群像
http://www.chugen.net/link/link2.php?cat=4


日記@BlogRanking
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「五丈原にて死期を悟る」諸葛亮孔明

2008年10月23日 | 五丈原に散る
諸葛亮は前よりも多くの挑発を続けたが、
司馬懿はのってこない。
司馬懿の陣営では守備に徹することを決めた。

ちょうどその頃
呉軍が合肥から敗退した。
膠着状態は2ヶ月保たなかった。
ここで戦っていた魏軍は、
五丈原の司馬懿に合流する。
おおよそ蜀軍の4倍にふくれあがっていた。

諸葛亮はゲリラや計略したいが、司馬懿は動かない。
司馬懿は4倍の兵力のままジッとしたままだった。

諸葛亮は使者を出して、挑戦状をわたすが、
司馬懿は動かない。
しかし、周囲の武将は
「これ以上我慢できない。戦わさせてください。」
と申し出る者まで出てきた。
司馬懿も各武将を抑えきれなくなり
「では、明帝に出撃許可をもらおう」と
使者を送った。

明帝からの詔書を辛比は述べた。
「ひたすら守りを固め、討って出てはならぬ。
 蜀軍の鋭気をくじくことを第一とす。
持久戦に持ち込み、蜀軍が撤退したときに
追撃し壊滅せよ」
司馬懿は辛比に
「明帝は私の心をわかっておられる。」囁き喜んだ。


次の手として
諸葛亮は、女性の衣服を司馬懿に贈る。
「お前は女か、戦場に出て来い!!」という意味である。」
さすがの司馬懿もいきりたったが、
「今は怒れば、我が軍は敗北する。」と気持ちを抑えた。

さらに諸葛亮がくれた衣装を着る。
「どうだ。似合うか?」と蜀軍の使者におどけて見せた。
「一緒に食事をしていかぬか?」と食事にまで誘う。
このおおらかさに蜀軍使者は驚かされた。

もちろん食事の席で酒もふるまわれた。
いろいろと話をし、打ち解けたととき
司馬懿は軽く聞いてみた。
「わしは、今までなんども諸葛亮と知恵比べをしてきたが、
 敵ながら尊敬もしている。
 しかし一緒に仕事をしたことがないので、
 いまいち、どのような人物なのかわからん。
 普段の仕事はどんなことをしておるんだ?」
使者「丞相(諸葛亮)は朝早くに起き、夜遅くに寝られます。
   鞭打ち20以上の刑罰はすべて、ご自分で取り調べ、
   なられます。最近は食も細いようです。」
司馬懿「さすがじゃのう。わしも見習わんとのう。」
司馬懿は彼より2才年上であるので体力がどの程度あるのか
わかった。これでは体力がもつまい。
となれば、既に病んでいるのか?
最近挑発が多いのは死期を悟ったからではないのか?
こうして司馬懿は諸葛亮の死期を知ったのである。

「諸葛亮どのに、贈り物のお礼をお伝えください。」と
司馬懿は使者を見送った。

諸葛亮はこの会話を聞いて寝込んでしまう。
咳から血がでるようになってしまった。
過去にも同じ病気になり、治癒していたのだが
心身ともに疲労が重なり再発したのであった。
おそらく結核だったと思われる。

「司馬懿は衣装を着ておどけたのか?
 これでは、計略にはかからないであろう。」
 もともと彼には戦う気などないのだ。
 武将というものは、早急に判断すべきときは
 帝に許可などもらわない。帝の詔書も司馬懿が
 仕組んだパフォーマンスでしかない。」と皆に教えた。



諸葛亮の身体は日に日に弱り、死を悟った。
彼は覚悟を決めて、兵法書を書き出した。
咳き込み、頭痛で集中力が続かない。
書こうとしても手の震えが止まらなかった。

皆は諸葛亮に「寝てください」と嘆願するが、
彼は、来る日も来る日も書き続けた。
それを見届ける周囲の者は涙が止まらない。
「丞相、お身体に障りますから、お休みください。」
「私はしなければならないことがあるから皆は先に寝なさい。」

諸葛亮は病気で苦しいときでさえ、周囲に気をかける人物であったのだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月1日公開「レッドクリフ」

2008年10月23日 | 雲随のおすすめ商品
11月1日に公開される「レッドクリフ」赤壁を紹介します。

主題は 未来を信じる
    愛 を信じる
    友 を信じる   です。
諸葛亮孔明は金城 武さん。周瑜はトニーレオンさんです。
皆さんも 金城武さんを応援してあげてくださいね。


この映画は前編後編に別れています。
今回公開されるのは、おそらく劉備が新野を脱出してから、
呉の周瑜と蜀の諸葛亮孔明が知恵比べするところまでと思います。
中国では2009年1月23日に後編「赤壁 決戦天下」が公開予定。

諸葛亮孔明のみの動画をリンク貼っておきます。
タグがどうやら禁止みたいです。失礼しました。
ごめんなさい。ここにあります。
http://redcliff.qoolie.jp/moviepage/%E5%AD%94%E6%98%8E%E3%81%AE%E3%81%BF



こちらが公式ページです。
http://redcliff.jp/index.html



三国志映画レッドクリフ
http://jp.youtube.com/watch?v=F-cyPGI1Kgw

後日、私のサイトでも赤壁の戦いまでの諸葛亮孔明を紹介させていただきます。
上手く説明できなかったらゴメンなさい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸葛亮孔明「最期の北伐」

2008年10月21日 | 五丈原に散る
234年、丞相の諸葛亮孔明は第5次北伐に出陣にした。
諸葛亮の北伐決意はかたく、出陣前、
劉禅に「今度は何が起こっても帰ってきません。」と告げ、
10万の兵にを授かる。

諸葛亮は①斜谷→五丈原へ陣を置く。
    ②子午谷→長安へ襲撃を考えていたが、
かねてから要請していた呉軍も北上して合肥を攻めることに
同意を得られたので、
蜀軍→西北に進み祀山→渭水を攻略し、屯田兵を置いて自給自活を指示する。

魏国では司馬懿が10万の兵を率いて同じく渭水陣を置く。
(後に魏の明帝が2万を追加し12万となった。)

諸葛亮は木牛流馬の活用していたのを聞いた司馬懿は
木牛流馬を魏兵に盗ませた。
司馬懿はさらに木牛流馬を解体して、職人に大量に制作させ、
魏もまた食糧輸送に役立てた。

これには諸葛亮の計略がある。
魏が木牛流馬での食糧輸送中、
蜀兵が近づいて、木牛の舌をねじったのである。
舌をねじると木牛は一切動作しなくなる仕掛けがしてあったのだ。

この仕掛けを知らない魏兵は、いくら操作しても
木牛が動かなくなったのだ。どうしようもなくなって
すべての木牛を魏兵は捨てていった。

それを待っていた蜀兵がもどって、木牛の舌をねじった。
再び、木牛は動きだし、すべての食料を蜀の陣営に
持ち帰ったのだ。

これら木牛流馬と屯田兵の活用で、
諸葛亮を悩ませていた兵糧問題は解決した。


司馬懿の絶対絶命***********************************************

司馬懿は蜀兵を捕らえて、諸葛亮がどこにいるのか問いただした。
「丞相は胡盧谷にて兵糧輸送の指揮をしております。」と
しゃっべってしまった。

司馬懿、司馬師、司馬昭を少数の兵にて
胡盧谷に向かった。
そこには魏延が立っていたが、司馬懿を見て逃げ出した。
「諸葛亮は近くだ、急いで追いかけろ!」と司馬懿は
一気に追いかけた。

司馬懿親子が崖を見上げると諸葛亮が微笑んでいた。
諸葛亮が手を振り下ろした。
崖上から蜀兵が一斉に松明が落とした。
諸葛亮の計略であった。

一斉に火矢が射られた。
次々に兵が焼け死んでいく。
司馬懿「ここで親子3人死んでしまうのか?
    天は我を見捨てたのか?」
そのとき、雲行きは怪しくなり、雷が鳴り出した。
司馬懿「天よ。雨をください。
    雨を我々に降らせてください。」
司馬懿親子3人が祈ったとき、黒雲が立ち込めて
雷とともにすさまじい豪雨になった。
このため、谷に投げこまれた火は
たちまち消え、火攻め道具も役に立たなくなった。

すぐに司馬懿親子は馬にまたがり
急いで、逃げた。
張虎、楽【糸林】も救いに駆けつけた。

こうして司馬懿は天の助けで、九死に一生を得たのである。
彼はこれ以降、諸葛亮をとても恐れたのである。


諸葛亮は唖然として、雨に濡れたまま、立っていた。
もはや漢の時代は終わりを告げ
天は司馬懿の世の中を必要としているのか・・・。

後に諸葛亮は
「事を謀るは人にあるが、事を成すは天にある。」とつぶやいた。

諸葛亮はこの計略と同時に
本陣を襲撃したため、
司馬懿は陣営を東側に移した。

また諸葛亮も陣営を東に移し
五丈原に陣を張った。


司馬懿 「胡盧谷」の絶体絶命






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「一冊で読む三国志」をおすすめします。

2008年10月20日 | 雲随のおすすめ商品
このリンクの読者の方より
「三国志を読むにはどの本が簡単ですか?」
とご質問がありましたので、ご紹介します。
私は成美堂出版社の
「一冊で読む!三国志」をおすすめしますが、
既に古本しかないようです。
一冊で読む!三国志―乱世を一気に読み解くおもしろさ! (成美文庫)
寺尾 善雄
成美堂出版

このアイテムの詳細を見る


同じく現在販売されている
「寺尾善雄」氏の文庫ではぶんか社文庫で販売されているようです。
この量ですと、一日の休みで読めます。
国語ぎらいであった私も読めました。
これぐらいの量で流れをつかんでおいて、
他の本で、細かく肉付けしてゆくように私はしました。

三国志の流れがつかみやすく、
またそれぞれの人物の有名なセリフは書かれており、
大切な部分は物語風に書かれているから、
とても読みやすかったです。
三国志がいまいちわからない方はぜひ読んでみてください。

一冊で読む!三国誌―黄巾の乱から呉の滅亡まで一気読み! (ぶんか社文庫)
寺尾 善雄
ぶんか社

このアイテムの詳細を見る







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸葛亮は劉備の霊廟に何を語りかけていたのか?

2008年10月19日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
漢中に着いた諸葛亮は、成都からの使者にあった。
その結果
呉が蜀に攻めてくる報告は、うそだったのだ。
李巌がさぼった結果、食糧輸送の期限日に遅れたために
ついたうそだとわかった。

軍律に従えば李巌は斬首しなければならない。
しかし斬れば斬ったで、次の担当者も桟道を通って
期日どおり兵糧を運べるかどうか問題であった。
楊儀の提案では、
李巌の官位剥奪の上、流罪。
そして李巌の子供を兵糧輸送担当者にすれば、
頑張って必ず期日を守って、輸送をするだろう。であった。

なるほど。兵糧を期日通り持ってきて来られるなら、
斬首するよりも利益が大きいと言うのだ。
よって諸葛亮は、楊儀の案を採用して
李巌の命まではとらなかったのである。

4次北伐は勝ち続けただけに、このうそによる撤退は、
とても腹立たしかったであろう。
それでも諸葛亮は懐深く、怒らず許したのである。
またそれは、桟道の兵糧輸送の難しさを表しているのだろう。

諸葛亮も兵糧輸送の問題を解決するため、一輪車の木牛を開発し、
さらにもっと輸送量を増やせる流馬を改良に改良してゆく。


************************************************************
この木牛流馬は、諸葛亮のみで作ったのではない。
彼の奥さんが、ほぼ原型を作ったのだ。
諸葛亮は奥さんより、からくりで動く木細工を教わっていたのである。

諸葛亮が難業をこなしてこれた理由の1つに
奥さん一人ですべて、家庭の問題、子育てをやって切り抜けたことも
あげられる。
また生活のお金もたいへんだったが、
それを解決したのが桑800株だった。
蚕を育てて、シルクの糸を作っていたのだ。

これら奥さんの「内助の功」も
ご紹介しておきました。

***********************************************************************
劉備玄徳亡き後、
丞相の諸葛亮には、国益など大きな問題を、相談できる相手はいなかっただろう。
そんなとき彼は、よく昭烈帝(劉備)の霊廟に行っただろう。
悔しいとき、悲しいとき、国の報告なども同じである。

劉備が託した平安がなかなか達成できない彼は、責任感がひと一倍強かったから、
霊廟に行っては「申し訳ありません。」と謝っていたと思う。
彼は劉備玄徳と語り合った「復興の夢」をいつも思い出したのではないだろうか。
霊廟で祈る丞相諸葛亮


**************************************************************************
曹操の南下、新野脱出の折、農民が一緒に劉備玄徳付いて来た。
劉備玄徳は逃げる速度が遅くなるにもかかわず、
農民を見捨てずに、兵2000・農民10万人が一緒に逃げたのだ。
劉備玄徳は、農民の悲しみも分かちあっていたのだ。
関羽、張飛、趙雲、諸葛亮と尽力をつくして逃げる。


しかし長坂波にて曹操軍に追いつかれ、次々農民・兵士が斬られてゆく。
この記憶も諸葛亮が北伐を続ける原動力の一部であったに違いない。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4次北伐「諸葛亮孔明街亭の雪辱を果たす。」

2008年10月18日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
上図は諸葛亮率いる蜀軍を苦しめた桟道です。
岸壁に穴をあけて、木の組み立てで出来ている橋です。
一列に並んで行軍するのが精一杯の道幅しかありません。
特に食糧輸送が深刻な問題でした。
この写真を見ても、諸葛亮と蜀軍が北伐にかける想いが
現代の我々にも伝わってきます。


**************************************************
4次北伐。
諸葛亮は3万の軍勢で、漢中より北西の祀山を目指し、
天水東部(隴西)の鹵城へ出陣する。
民衆からの諸葛亮支持は強いため、
鹵城の太守はすんなりと城を明け渡す。
まず税金として麦を徴収することにした。
太守「麦を苅ってもらうことは構いませんが、
   司馬懿の軍勢10万が見張っています。」
諸葛亮「10万!蜀軍は3万しかいません。
    地図を見せてもらえますか。」
「妖鳴樹」という森林帯を見付けて、名前の由来を聞く。
太守「昼間でも薄暗く、妖怪の鳴き声が聞こえるため、
   旅人でも嫌がって、入っていきません。
   鳴き声の原因は、木にあいている穴に風が通って
   音を出しているだけなのですが、
   人間の声のように聞こえます。」
これは計略に仕えると思った諸葛亮は、早速行動に移した。


司馬懿陣営前に
諸葛亮と思える黒ずくめの集団が踊る。
髪はばさばさで、旗を振りかざし「イッヒッヒ」と
笑い声をたてる。

兵士たちは「諸葛亮?妖怪?」騒ぎたちだした。
司馬懿と「すぐに捕まえろ」と命じた。
しかし、いくら追いかけても捕まえられない。
司馬懿も陣を出て追いかけて、妖鳴樹に入り込んでしまう。
司馬懿もまた追いかけるが、捕まえられなかった。
立ち止まると、周囲の木が悲しげ人間の声を出す。
兵士たちは
「孔明は妖怪なんだ。」と恐れだした。

司馬懿は
「この世に妖怪などおらんと兵士にいい聞かせろ」命じた。
すると
右からも、左からも諸葛亮と思える集団が現れた。

これには司馬懿も恐れて、退却命令を出した。


陣に帰ると、
「すでに蜀軍と農民が、麦を苅ってしまいました。」
司馬懿に告げられた。
「どうして諸葛亮にかかるとこんな簡単な計略に
 我々は引っかかるのだ。」
と司馬懿は嘆いた。

「今夜、鹵城を総攻撃する。」と司馬懿は命令を下した。



***************************************************
鹵城の戦い

司馬懿率いる軍勢は夜、鹵城を囲んだ。
総攻撃の合図として太鼓が鳴り響く。
ところが、
城内より、一斉に弓矢が司馬懿側に飛んできた。
司馬懿側の太鼓は、諸葛亮側の総攻撃の合図となっていたのだ。

司馬懿率いる魏軍は、混乱しパニックに陥った。
さらに麦畑に隠れていた姜維、魏延、馬忠、馬岱の8000の兵が
魏軍に襲いかかった。
城内からの弓矢が止まると門が開き、
蜀軍が一挙に攻めかかった。

前後から襲われた魏兵は次々に斬られてゆく。
司馬懿は必死に蜀兵の囲みから脱出し、
近くの山に逃げてのびた。

翌朝、鹵城一帯は魏軍の死体で埋め尽くされ、
その血は川を形成するほどだったという。

司馬懿の大惨敗だった。



司馬懿は援軍を要請し、
20万の兵が、蜀軍の兵糧輸送を断ち切るため、
剣閣に向かった。
しかし、途中で休憩を入れたところを、
蜀軍の襲撃に遭い、多数の死者を出して、敗走した。

これも司馬懿の惨敗となる。

*****************************************************
李厳より「呉の蜀侵攻計画」の報告を受ける。


蜀軍は一致団結にて勝利沸き返った。
しかし、永安を任されている李厳からの兵糧が来ない。
さらに李厳から早馬が駆けつけた。
「呉国が魏国と同盟を組み、蜀への侵攻を計画しているため、
 兵糧が上手く輸送できない」

諸葛亮は撤退を決意し、漢中への退却を開始した。
司馬懿もこのことを聞きつけ、
張合に追撃させた。


張合の軍勢が、蜀軍に襲いかかると、
張合の後方が、蜀軍の伏兵によって丸太、大石が投げ込まれ、
退路を失った。
左右から弓矢を射られ、張合は戦死する。

これもまた、司馬懿の惨敗となった。


******************************************************
1次北伐から4次北伐は毎年行われた。
魏国では来年も諸葛亮が侵攻してくるだろうから、
天水方面に食糧を蓄えておこうと案がだされた。
ところが司馬懿は
「いいや、その必要はない。
 諸葛亮は祀山、陳倉を攻めあぐんでいる。
 今後は作戦変更し、野戦を望んでくるだろう。
 今までの諸葛亮を見ると、兵糧不足に悩んで
 撤退している。
 次回は充分な兵糧を準備するだろうから、
 侵攻は3年後である。」

惨敗続きの司馬懿であっても、
平常心を保ち、諸葛亮の動きを予想していた。


まことに司馬懿予想通りで
諸葛亮の5次北伐(最期の出陣)は、3年後であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呉孫権帝位に就く。 諸葛亮孔明「耐え難きを耐えよ。」

2008年10月17日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
写真は、諸葛亮率いる蜀軍を苦しめた桟道です。


呉の孫権は帝位に就いた。名実ともに三国鼎立となった。(229年)
呉は同盟関係にある蜀にも使者を送り、同意を求めた。

魏の曹操は傀儡政治であり、曹丕は後漢献帝から帝位を簒奪した。
魏とは漢王朝にとって逆賊なのである。
そこで、劉備・諸葛亮は漢王朝の復興を目指し、漢王朝を継ぐ形を
とって蜀漢を建国したのである。
つまり蜀漢が魏を討伐して、再び漢の天下を回復することが悲願なのである。

そこへ呉もまた皇帝と主張しだした。呉も漢の逆賊となってしまった。
逆賊は討伐しなければならない。
蜀漢は、呉と同盟継続派と同盟破棄派に意見が分かれてしまった。

呉同盟破棄派
「我が国がこのまま呉と同盟継続しても、何も得るところはなく、
大儀名文さえ失う恐れがある。
ここは呉と同盟を破棄して、我が国の正統性を明らかにすべきである。
呉討伐はともかくとして、同盟を継続すべきでない。」

同盟継続派
「魏一国でさえ、持て余しているのに、呉まで敵に廻せば、
 蜀漢は国の維持さえ困難極まりなく、危ない。亡国を望むのか?
 同盟を破棄すれば蜀漢に攻めてくる恐れもあるではないか!」

議論に沸く劉禅を前にした御前会議。
黙っていた諸葛亮が、ついに述べた。
*****************************************************************
孫権が帝位を望むようになって、既に久しい。
我が国が彼の動きとして
荊州要求
孫夫人帰国
関羽斬首
夷陵の戦い
これらに目をつぶってきたのは、
ともに魏を討つ同盟軍がほしかったからである。

今、もしも、同盟を破棄すれば呉は
深く蜀漢を恨むであろう。

そうなれば我々は、東に進軍しなければならず、
中原(黄河領域)の回復は後回しとなる。
しかも呉国には有能な家臣が多く、
平定にはとても長期間となるだろう。
これが魏国の狙っている計略である。

先帝(劉備玄徳)は柔軟姿勢で呉と同盟を結ばれた。
臨機応変に対処してチャンスを待つ為である。
一時の怒りに任せて、軽挙妄動しては目的が達成できない。


我々は耐え難きことも耐えるのが、必要なのである。


孫権が望んでいることは三国鼎立である。
皆は孫権に魏国討伐の意志がないと思っているが、
これは間違いである。

彼が今、北伐しないのは、力不足であって、
魏が蜀に攻めてこないのと同じである。

蜀漢が今後、魏国に対して、攻め続けば、
呉国も呼応して、領土拡大のために北伐をする。
もし呉国が北伐に進まなくても、
我々は、呉の蜀侵攻を心配しなくて済むし、
魏国は、軍を蜀と呉に分割してあたらければならない。

呉との同盟継続についての現実的利益は、
同盟破棄によって得られる大儀名文の利益より
大きいのである。


**********************************************************
つまり、
我々の理想(漢王朝復興)は高く上げるが、
その手段は現実的なものを選び、
仲間の小さな利益(孫権の帝位)は目をつぶってやれ
と説得したのである。                  

蜀漢が領土、食糧、人ともに豊であれば、
諸葛亮孔明も呉を逆賊として討伐したであろう。
しかし、蜀漢の現実は非常にきびしい。

「耐え難きを耐えよ。」は家臣に呼びかけたものであるが
自分にも言い聞かせて、説得したのだろう。

丞相の立場として、
家臣たちを説得する諸葛亮が一番、
つらかったのではないだろうか。
****************************************************











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

司馬懿の反撃「3次北伐」・・・

2008年10月16日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
3次北伐とは・・・

2次北伐勝利にて諸葛亮は再び丞相に官位をもどされた。
しかしまたも諸葛亮に悲しみが襲う。
張飛の息子の張苞が亡くなる。
あまりの悲しみに諸葛亮は起きあがれなくなり、
成都で養生する。

その頃、司馬懿・曹真は50万の兵で蜀討伐に進む。
陳倉城に蜀軍はおらず、
蜀軍撤退時には城内部を全て焼き払ったらしい。
ここで魏軍は30日の大雨に遭遇する。
馬は死に、兵は病死するものが多くでた。
大軍は戦わずして退却を決めたのである。

このとき、司馬懿と曹真(曹操の甥)は賭けをした。
司馬懿は諸葛亮が来襲すると考え、箕谷に陣を張り
曹真は諸葛亮が来ないと考え、斜谷に陣を張ったのである。

その頃、蜀軍では
魏延は魏軍はいないと考えながら箕谷に向かい。
関興は魏軍がいると斜谷に向かった。


魏軍と蜀軍は衝突したのである。
魏延は予想していなかった魏・司馬懿の伏兵によって敗走し、
曹真は予想していなかった蜀・関興によって敗走し、
危ないところを司馬懿に助けられた。

大いに恥をかいた曹真は病床につき、
そこへ諸葛亮が侮辱の手紙を曹真に送りつけ、曹真は憤死したのである。


******************************************************************
司馬懿の反撃「離間の計」にて諸葛亮は撤退する。********************
******************************************************************
諸葛亮は
李巌の部下が食糧を予定より一週間遅れた配達することを激怒した。
次遅れれば斬首になることを恐れたこの兵は蜀を裏切って
司馬懿に投降した。

司馬懿はこの兵に
「成都に帰って、諸葛亮が蜀を乗っ取ることを企てていると
噂を流せ。劉禅と諸葛亮の仲が割れたら、投降させてやろう。」
と述べた。

この兵は早速、成都に向かい、諸葛亮簒奪の疑いがある
と噂を流す。
この噂を聞いた文官は、劉禅に「北伐中止」を促す。
劉禅は今までの諸葛亮の働き・忠誠心を忘れ、諸葛亮の帰国を命じた。
これから進軍というときに、帰国命令である。

成都に帰国した諸葛亮は、劉禅に会う。
劉禅 「久しく、おじ上の顔を見てなかったので逢いたくなったのだ。」
諸葛亮「話は聞いております。私が簒奪を考えていると疑われている。
    ・・・・・・・・・。
    私が何をやったと言うのでしょう。昭烈帝(劉備)より忠義をつくし、
    武将、兵ともにそのご恩をお返ししようと日々戦っております。
    かような疑いは昭烈帝もあの世でお悲しみでございますぞ。
    誰がこのようことを企てたのでしょうか?」

劉禅は「この者が噂に聞いたと申すのだ。」と文官を指さす。
文官は李巌の兵から聞いたという。
諸葛亮「その者は食糧輸送を7日遅れたので罰したのです。
    今どこにおるのだ。」
すでにその兵は魏へ投降していた。

諸葛亮は、この文官が後々、蜀を乱すと考え、斬首した。


さらに諸葛亮は今後疑われないように自分の財産を述べる。
「臣は成都に桑八百株と痩せた田畑15町歩と持っておりますから、
家族の生活はどうやら保てますし、出征中の私自身の衣服や身の廻り品、
食物も、すべて国から支給されますので、これ以上の私財を持つ必要は
ありません。
したがって、私の死後、余分な財産を蓄えていたと非難されて、
陛下のご信頼を裏切る恐れはございません。」
*****************************************************
その諸葛亮の死後に調べてみると、
その言葉どおり質素な生活ぶりで、私欲のない人だった。
*****************************************************

さらに蜀漢を分裂の危機に陥る。
呉の孫権が帝に就き、呉を建国するのである。
このまま蜀と呉が同盟を続けるのか?
または同盟を破棄するのか?
議論することとなった。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2次北伐・・・孔明はどうして苦戦した?

2008年10月15日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
2次北伐について・・・

馬謖の敗北より6ヶ月経過
呉の陸遜は淮南にて曹休を大破。
呉より魏国へ出兵願いが来る。

漢中にいた諸葛亮は既に兵を補充し、馬も整い、兵糧も貯まった。
しかし諸葛亮に悲しみが襲う。
趙雲の長男と次男が喪に服してあいさつにきたのである。
五虎将軍(関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠)の中で一人生き残り、
諸葛亮をよく理解し、相談相手であった。さらに猛将であり、
一次北伐敗戦時の退却しんがりは趙雲が引きうけ、
兵をほぼ失うことなく漢中にもどしてくれた。

蜀軍では出陣反対の声も出だしたが
諸葛亮の後出水の表にて出陣許可が降りた。
20万の軍で3000で守る陳倉城へ向かう。

泥沼の陳倉城攻め******************************************
魏延に命じて陳倉城を攻め、降伏勧告を促す。
がしかし聞き入れられない。
ここで総攻撃が命じられた。
はしご車を100台が一気に城壁に向かう。
これを見た城側は多量の火矢をあびせた。
兵ともにはしご車すべてが燃えあがる。
蜀軍は総崩れになった。

次は石球をぶつける戦車を繰り出すが
城側も石球にて戦車を破壊しつくす。

次はトンネルを掘るが、トンネルも切断されてゆく。
20日余りの攻防戦が続くが、
魏軍の援軍が駆けつけ、蜀軍の兵糧も欠乏し、
諸葛亮は撤退を命じた。

魏援軍の先鋒、王双は蜀軍の武将2人倒す。
蜀軍は漢中への近道をつかわず、迂回して
祁山に逃げ込む。
ここで激しいゲリラ戦が繰り返された。

食糧欠乏の蜀軍に対して
魏は、おとりの兵糧をつかって誘う。
それを取りに来た蜀の王平を魏軍が囲い込むが
さらに大きく蜀軍が囲い込み、挟み込んで壊滅させた。

魏の王双は姜維の計略によっておびき出され、、
魏延が討った。

一度蜀軍は漢中まで引きあげた。
陳倉城の内部を探らせると、
城主の合阝昭が重病だとわかった。
すぐに姜維・魏延5000の兵で城攻めに向かわせる。
城に着くと、既に諸葛亮が城を奪っていた。

姜維・魏延をおとりにして、諸葛亮・関興・張苞が
城を落としたのだ。  さらに散関、建威の2郡を攻略する。

この戦いの目的は
魏の援軍を止め、陳倉城から西の祁山を制圧すること。
また蜀軍の志気を回復し、北伐続行を維持させるためだと
考えれている。

**********************************************************
諸葛亮ファンにつらいのだが、
歴史研究家によれば、諸葛亮は政治家としては
1流だが軍師としては2流である と言われている。
祁山後の戦いは、諸葛亮らしい戦いであるが、
陳倉城攻めは、諸葛亮の戦い方がとても鈍い。

これは私の私見なのだが、
このとき、武将の間でも統率がむずかしくなり、
戦い方を変えたのではないかと考える。
そこで、諸葛亮によく反対する魏延の案を用いて
力攻めを実行した。
だから猛将魏延の活躍が多いのではなかろうか。
諸葛亮は
「力攻めの戦い方では、蜀軍は減衰するだけで
明日はなく、計略を中心にした戦い方が得なのです。」
と各武将に教えたかったのではないだろうか。





























コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸葛亮孔明を知るエピソード「空城の計」とは?

2008年10月14日 | 「北伐」ライバル司馬懿と対決
第一次北伐では、
馬謖が司馬懿に敗北したことを聞いて
諸葛亮はすぐに、各武将に退却を指示する。
諸葛亮はわずかな兵で、陽平関の城に
兵糧を取りに向かう。
この兵糧を取りに行った理由は
    兵糧を採られれば、兵糧を貯めるのに日数がかかり
    次回の北伐が延びること。
    魏の戦利品を渡さないこと。
である。

兵糧を半分積んだところで、砂煙をあげながら
司馬懿の軍15万が向かってくる。
諸葛亮にはこのとき2000の兵のみで、将軍・武将がいなかった。
逃げれば、捕まる。
すぐ、空城の計をすることに決めた。
「物音は一切立てず、騒いだ者は切り捨てよ。
城門は全て開いて、きれいにそうじせよ。」と指示した。
しかし 本当にこの手が司馬懿に通じるのか?
不安でたまらない。
羽毛扇を落とした先には、琴があった。

司馬懿の到着である。
城門の上に目をやれば諸葛亮が立っている。
後ろに童子を引き連れ、香をたき、諸葛亮(孔明)は座って琴を弾き出す。

司馬昭「父上。空城の計です。孔明は軍勢がないから
    わざとあんな芝居をしているのです。
    一気に攻め落としましょう。」
司馬懿「待て。孔明は元来用心深い男だ。あぶない橋は渡らん。
    伏兵があるに違いない。
    琴の音色を自信に満ちて優美である。よく聞けば、
    殺気さえ感じる。」
このとき諸葛亮の琴の弦が切れる。緊張のため力を入れすぎ
切れたのだ。しかし司馬懿は諸葛亮の攻撃が始まると考えて
一気に退却した。
こうして諸葛亮の危機を逃れることができた。
しかし 考えてみると、これだけの軍勢の差があれば
攻撃しても、諸葛亮は討てたはずである。
司馬懿は諸葛亮を討っても得がなかったのである。
司馬懿は隠居の身だったが、諸葛亮に勝てる魏の武将がなかったので、
再び、司馬懿将軍にもどることができたのだ。
諸葛亮が生きていれば、司馬懿の活躍の場も維持できる。
司馬懿の身を守るため、孔明を討たなかったと見るのが自然である。
空城の計

空城の計 (続編)




******************************************************************
皆さんは張飛に空城の計があったのもご存じでしたか?
紹介しますと・・・
諸葛亮は1000人で襄陽を守っていたが、
曹操は30万の軍勢で樊城に攻めてきた。劉備や主なる武将はいない。
いたのは新婚の張飛のみだった。
諸葛亮は張飛に100名で樊城の守りに行ってくれと命じ、
「ここに計略が書いてあるから、着いたら開けてくれ」と
錦袋を渡す。
張飛は大軍と戦うのに空城の計しかないと考え、城の門を開ける。
ピンチになったら諸葛亮の計略を使おうと簡単に考えてた。

しかし曹操は、帰ってくれるどころか、城に一気に攻めてきた。
敵が迫って来るのを見た張飛は、錦袋を開けて紙を取り出すと、
何も書かれていない。白紙なのだ。
「あのやろう。孔明に騙された!!
わざと、俺に空の城を守らせやがって!!」
あまりのすさまじい声に
曹操は、罠だと勘違いし、すぐに退却したのである。
退却する曹操を見て、張飛と妻は大喜び。
この張飛の声が 諸葛亮の計略と知った。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸葛亮孔明とは臣・民愛し、その時に応じ賞罰を与える。(続2)

2008年10月13日 | 諸葛亮
兵から見た諸葛亮孔明とは?
忠節を尽くした者、功績があった者は必ず褒賞し、怠惰な者には親族で
あっても処罰した。
兵は期間ごとに交代し、ある時期は最前線に行き、ある時機になれば
帰国して良かった。
北伐にて、魏軍と対峙したとき、兵はなるべく多くいたほうが、
有利で心強いから、兵士の帰国日を延長してはどうかと
諸葛亮に提言する部下がいた。
諸葛亮は
「いや、必ず期日が来たら帰国させてやってくれ。
 将が必ず約束を守ってやってこそ、兵士は死ぬのも怖がらず、
 戦ってくれるのだ。」の答えた。
実際、兵士は丞相(諸葛亮)の言葉に感銘し、
帰国日を自ら延期して、戦い続ける者がほとんどだったという。


また中国ドラマの中ではこんな逸話があった。
北伐のとき、全ての賞罰は諸葛亮が処理し、
夜は咳き込みながら、漢中・中原の地図を見て作戦を
一人で練っていた。
毎食、食事を運ぶ兵士は、そっと、生卵を足しておいた。
兵士「食事を置いておきます。」
諸葛亮「そこに置いといてくれ。」と言って、
地図を見たまま食事には目もやらなかった。
兵士は泣き出す。
諸葛亮は兵士が泣き出すのを見て驚いた。
「丞相(諸葛亮)、今日は食事を摂ってくださいね。
 丞相が食事を摂らないことに、我々兵士皆が心配しております。」
毎晩、他の者より働き続ける丞相を見ていた兵士は
恐れながらも、親愛の情を持っていたのである。


北伐にて蘭州、安定、天水の三郡の攻略で、成都は沸く立ち、
祝辞を寄せたが、諸葛亮は喜ばない。
「民はすべて漢の民だが、我が蜀漢の勢威不振のため、
 民を乱世の禍で苦しめている。
 たとえ一人でも死ねば、それは私の罪だ。
 祝辞を寄せられるのは、心苦しく、羞ずかしいことだ。」
だと述べている。


南伐は、南蛮(ベトナム)が蜀の領地に反乱を起こしたため、
鎮圧、平定のため行われたが、
烏戈王の藤甲の兵士に苦められる。
最後、火攻めで圧勝するのだが、諸葛亮は、
「また多くの者を殺してしまった。私の寿命も縮まっただろう。
 生き残っているものを助け出し、手当てをしてやってくれ。」と
戦い済めば、敵の兵にも寛大に対応した。
南蛮平定後は
蜀漢の役所、役人を置かずに、猛獲に今までどおりに統治させて、
税もかけなかた。


民から見た諸葛亮とは?
善政を布いて、民心を得ている。
孔明は成都に対して、
厳しい法律を制定して厳格に実行した。
法正はそのきびしさを見かねて
法正「漢の高祖に習い、法の民の望みに応えられては?」と問う。
諸葛亮「そうしてはならぬ。それは1を知って2を知らぬ発言だ。
    秦の始皇帝の後だからこそ、高祖のゆるやかな法が効果あったのだ。
    だがこの益州(成都)は違う。
    政治がたるみきっていたのだから、引き締めて政治の威信を
    取り戻さねばならぬ。」と答えた。
彼は北伐は5回起こしているが、民に新たな重税をかけていない。
  そのため、食料の蓄えがないときは出兵を行わいでいる。
  また漢中は曹操が農民を連れて行ってしまったため、
  兵に田畑を耕やせ(屯田兵)、食料を備蓄することに時間を費やすことに
  なった。出兵先でも民から略奪は行っていないのである。
  であるから馬謖の街亭敗戦に対し、全軍撤退をしたのだ。

*******************************************************
これらより、
諸葛亮は、民を愛し、そのときの状況、人物を加味して
賞罰を行って、統率を強めたのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

諸葛亮孔明とは臣・民愛し、その時に応じ賞罰を与える。(続編)

2008年10月12日 | 諸葛亮
臣・民愛し、その時に応じ賞罰を与える。(続編)
5.ときに応じて賞罰を与える。(きびしさとやさしさ)
2.民衆を愛する。
の説明です。
諸葛亮は、ときに応じて 賞罰を与えるのに優れていた。
関羽編********************************************
関羽を許したほうが、劉備軍は一致団結して、
諸葛亮の命令を厳守し、その指揮に服従させ戦っていける。
つまり、劉備軍を1つにまとめることを考えたのである。

もし斬首すれば、諸葛亮への怖さが
疑心暗鬼を生み、劉備軍はバラバラになって
国を興す夢は散っただろう。
諸葛亮は組織の統率を第一としたのである。


しかし馬謖の場合は別である。
馬謖編********************************************
劉備亡き後の蜀軍は30万人を動員し北伐を開始する。
次々に城を落としていった蜀軍に対し、
司馬懿(諸葛亮にとって最大のライバル)を進軍させた。
守るべき所は、蜀軍にとって輸送中継地となる
街亭だった。
もし、この場所を魏軍に奪われたら、
食料は欠乏し、戦うことさえ、できなくなる。
諸葛亮は誰に街亭を守らせるか?悩んでいた。

それを察知した馬謖は、
「自分に行かさせてください。必ず街亭を死守します。
この約束に対し、家族同族全員の命を差し出します。」と言う。
諸葛亮は悩み、明朝まで考えさせてくれと述べた。
馬謖は兵法に優れていたが、なにぶん実践が浅い。
馬謖は諸葛亮が一番愛した家臣で、いろいろ教え、
その成長を楽しみにしていた。

しかし家臣からの受けは悪い。
劉備からも遺言のひとつとして、
「才が走り過ぎて、自分を大きく見せることにたけているが、
役に立たぬ男だから、重大な件はまかせてはならぬ。」
と言っていた。

馬謖の成長を見てきた諸葛亮にとって
路ひとつぐらいなら、守れるだろう
と考えた。

明朝
諸葛亮は兵2万人を馬謖に渡し、副将に王平をつかせた。
「街亭に着いたら、まず、路に陣を構えよ。
そして陣形と地形を書いて使いをよこせ。
決して高所(小高い山)に陣を構えてはならぬ。」
このとき諸葛亮としては、馬謖に蜀の命運を委ねた。
しかし、馬謖にとっては、ここで活躍すれば、
俺を非難してきた奴らを見返せると考えていた。

街亭に着いた馬謖と王平は、すぐに意見がぶつかり合う。

王平「路に柵を何重にも作っていきましょう。」
馬謖「高所に陣を構えれば、柵など不要。
   敵の動きも観察できるではないか。
   そちは孫子の兵法を知らぬのか?」
王平「丞相(諸葛亮)は高所に陣を構えず、
   路に陣を作れとおしゃっていました。
   水の確保はどうなさるのですか?」
馬謖「その都度、水をくみに行かせれば良い。
   水がないほうが、兵士も死ぬ気で戦う。」
王平「では私に兵をお譲りください。
   私は路を守ります。」
馬謖「兵5000を譲ってやろう。あとで
   手柄をくれと言うなよ。」
馬謖は兵15000にて高所に陣を張り、
王平は兵5000にて街亭の路に陣を張った。
王平はすぐに
陣形と地形を記て丞相(諸葛亮)に送った。

陣形を知った諸葛亮は激怒。
「これでは、水が無く、火攻めにあえば
 2日で全滅する。
 陣を路に張り直せよ。」
楊儀が早馬で街亭馬謖の所に向かった。

司馬懿は大軍を街亭に進軍させた。
すでに蜀軍は陣を張っている。
「さすがよ。(諸葛亮)孔明は」
蜀軍の守備に、司馬懿は攻撃をあきらめた。
しかし、高所に構える馬謖の陣を見て、
決戦に踏み切った。
司馬懿は馬謖の陣に対して、十重二十重と取り囲む。
そして2日待ち、
蜀軍は水に飢え、志気は低下。逃亡する兵士が続出した。
次に司馬懿は火攻めを行った。

馬謖は既に選べる方法はなく、司馬懿の軍に向かって下る。
すぐに壊滅状態になるも、馬謖は司馬懿の包囲から脱出できた。
援軍に来た蜀軍も破れる。

逃げてくる蜀軍に、楊儀が出会った。
楊儀は来た路を再び引き返し、
諸葛亮に敗戦報告をした。
食料輸送路を取られては、退却しかない。
全軍を分散し、退却命令を下した。
諸葛亮わずかな手勢で陽平関の城に入り、
「空城の計」にて危機を乗り越える。

漢中に帰りついた諸葛亮は、敗戦の詰問を行う。
まず王平が呼ばれ、次に馬謖が呼ばれた。
馬謖は自分の身体を縄で縛り、
諸葛亮の前に現れた。
諸葛亮は問う
   「私は街亭が食料輸送路であり、
    我々の最重要地だと再三言った。
    現在誰の手に街亭はあるのだ?」
馬謖 「敵の勢いが強大で、街亭を死守できませんでした。」
諸葛亮「お前は一族の命に変えて死守すると言った。
    それなのに何というざまなのだ。
    我々がどういう気持ちで、お前が街亭に行くのを
    見送ったか知っているのか?
    街亭を失うことは、蜀軍30万兵の命も失うところ
    だったのだぞ!!
    私は高所に陣を張ってはいけないと言っただろう。
    お前の横には戦場経験豊かな王平をつけたのだ。
    副将王平もお前を戒め、止めたではないか!
    それをお前は、王平の意見に耳をかさず、
    机上だけの兵法をそらんじ、
    その結果、将兵は討たれ、土地を失い、城を奪われた。
    他の将兵が、これ以上の損害を出さぬために、
    必死にどれだけ駆けずりまわったか、わかっておるのか?
    もはや・・・処刑はまぬがれない。
    
    今まで、お前はよく忠誠をつくしてくれた。
    誓約状の書面で家族・一族の命も渡すと言ったが、
    家族と一族については無罪とし、処刑はしない。
    だが馬謖の罪状については、
    軍律どおり斬首は免れない。
楊儀と、成都から駆けつけた蒋琬は
   「助命はできないでしょうか。」と言う。



諸葛亮「それはよくわかる。だが馬謖を斬らぬことの損失は
    大きい。義をつらぬき、軍法を守るためにも斬るほかはないのだ。」
人間味豊かだった昭烈帝(劉備玄徳)が亡くなった蜀漢は、
公明正大、法の下、賞罰をおこなわけば、
人と人に不平が生じ、疑心暗鬼になる。こうなれば崩壊はまぬがれない。
諸葛亮は、法の平等によって、組織の統率を守ったのである。

しかし、諸葛亮のきびしさの中にある、やさしさは次のことでわかるだろう。
馬謖「私は罪を受けます。
   ただ1つ心残りなのは、私を信じて来た、妻と子供たちです。
   私が死んだあとも、どのように生活してゆくのか。
   生きてゆけるのか・・・。」
諸葛亮「馬謖の家族は、私の家族と同じである。
    お前が死んだあとも、給与は支給続け、
    お前の子供は私の子供として育ててゆくから
    心配することはない・・・。
    斬人、馬謖を連れてゆけ。」
馬謖は歩きはじめるが、諸葛亮に振り向き、答える。
   「(家族への)ご慈悲をありがとうございます。
    丞相(諸葛亮)には私を我が子のようにかわいがってもらい
    私も丞相を父のように慕っていました。
    死んでも何も恨みはございません。
    では私は先に逝きます。
    将の皆様、先に逝きます。ありがとう。」
馬謖は斬首台に連れていかれる。
諸葛亮は、とても泣いた。
諸葛亮「昭烈帝(劉備玄徳)は死の床で、私に
    『才だけ走りすぎいて、自分を大きくみせるところが
    得意だが、口ほど任せぬ男だから重大な件は、
    まかせてはならぬ。』とおおせられた。
    今日、まことにおっしゃる様になってしまった。
    
    私は自分の才能のなさを悔やみ、悲しい。
    私が街亭に行く者として馬謖を選ばなければ、
    馬謖を死ななくて良かった。
    私が人選を誤ったのだ。
    本当の罪は私にあるのだ。
    私が責任をとって死ぬのが筋ではあるが、
    蜀をまとめてゆかなければならないので、
    今は死ねない。
    この後は、私にミスがあれば指摘をしてほしい。」
さらに諸葛亮孔明は、自ら、成都の帝・劉禅に上奏文をおくり、
罰として丞相罷免をこうた。
劉禅は仕方なく官位は3つ下げ、右将軍にしたが、
職務と権限はそのまま、丞相を与えた。
諸葛亮孔明の代わり
全てにわたって、仕事こなせる人物がいなかったからである。


次回へ続く

泣いて馬謖を斬る。

これも中国語で、ごめんなさい。
でも 諸葛亮の判断がどれほど辛かったか
伝わってきます。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする