雲随の歴史話

歴史人物の生き方、考え方、行動など一緒に学びましょう。
現在は諸葛亮孔明について記載しています。

諸葛亮孔明とは臣・民愛し、その時に応じ賞罰を与える。(続2)

2008年10月13日 | 諸葛亮
兵から見た諸葛亮孔明とは?
忠節を尽くした者、功績があった者は必ず褒賞し、怠惰な者には親族で
あっても処罰した。
兵は期間ごとに交代し、ある時期は最前線に行き、ある時機になれば
帰国して良かった。
北伐にて、魏軍と対峙したとき、兵はなるべく多くいたほうが、
有利で心強いから、兵士の帰国日を延長してはどうかと
諸葛亮に提言する部下がいた。
諸葛亮は
「いや、必ず期日が来たら帰国させてやってくれ。
 将が必ず約束を守ってやってこそ、兵士は死ぬのも怖がらず、
 戦ってくれるのだ。」の答えた。
実際、兵士は丞相(諸葛亮)の言葉に感銘し、
帰国日を自ら延期して、戦い続ける者がほとんどだったという。


また中国ドラマの中ではこんな逸話があった。
北伐のとき、全ての賞罰は諸葛亮が処理し、
夜は咳き込みながら、漢中・中原の地図を見て作戦を
一人で練っていた。
毎食、食事を運ぶ兵士は、そっと、生卵を足しておいた。
兵士「食事を置いておきます。」
諸葛亮「そこに置いといてくれ。」と言って、
地図を見たまま食事には目もやらなかった。
兵士は泣き出す。
諸葛亮は兵士が泣き出すのを見て驚いた。
「丞相(諸葛亮)、今日は食事を摂ってくださいね。
 丞相が食事を摂らないことに、我々兵士皆が心配しております。」
毎晩、他の者より働き続ける丞相を見ていた兵士は
恐れながらも、親愛の情を持っていたのである。


北伐にて蘭州、安定、天水の三郡の攻略で、成都は沸く立ち、
祝辞を寄せたが、諸葛亮は喜ばない。
「民はすべて漢の民だが、我が蜀漢の勢威不振のため、
 民を乱世の禍で苦しめている。
 たとえ一人でも死ねば、それは私の罪だ。
 祝辞を寄せられるのは、心苦しく、羞ずかしいことだ。」
だと述べている。


南伐は、南蛮(ベトナム)が蜀の領地に反乱を起こしたため、
鎮圧、平定のため行われたが、
烏戈王の藤甲の兵士に苦められる。
最後、火攻めで圧勝するのだが、諸葛亮は、
「また多くの者を殺してしまった。私の寿命も縮まっただろう。
 生き残っているものを助け出し、手当てをしてやってくれ。」と
戦い済めば、敵の兵にも寛大に対応した。
南蛮平定後は
蜀漢の役所、役人を置かずに、猛獲に今までどおりに統治させて、
税もかけなかた。


民から見た諸葛亮とは?
善政を布いて、民心を得ている。
孔明は成都に対して、
厳しい法律を制定して厳格に実行した。
法正はそのきびしさを見かねて
法正「漢の高祖に習い、法の民の望みに応えられては?」と問う。
諸葛亮「そうしてはならぬ。それは1を知って2を知らぬ発言だ。
    秦の始皇帝の後だからこそ、高祖のゆるやかな法が効果あったのだ。
    だがこの益州(成都)は違う。
    政治がたるみきっていたのだから、引き締めて政治の威信を
    取り戻さねばならぬ。」と答えた。
彼は北伐は5回起こしているが、民に新たな重税をかけていない。
  そのため、食料の蓄えがないときは出兵を行わいでいる。
  また漢中は曹操が農民を連れて行ってしまったため、
  兵に田畑を耕やせ(屯田兵)、食料を備蓄することに時間を費やすことに
  なった。出兵先でも民から略奪は行っていないのである。
  であるから馬謖の街亭敗戦に対し、全軍撤退をしたのだ。

*******************************************************
これらより、
諸葛亮は、民を愛し、そのときの状況、人物を加味して
賞罰を行って、統率を強めたのである。


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 諸葛亮孔明とは臣・民愛し、... | トップ | 諸葛亮孔明を知るエピソード... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

諸葛亮」カテゴリの最新記事