火の山の展望台からの眺望と透き通ったような水色の花・ネモフィラが見るために、
山口県下関市にある関門海峡に面した火の山に行きました。
火の山付近詳細
日の山展望台の駐車場から見た眺望
夕日に響灘の海が光っていました。
下関市街と響灘
響灘 六連島
火の山展望台から見た眺望
下関市内が見渡せ、巌流島、海峡ゆめタワーが見えます。
***************************************************************
火の山展望台からの眺望を見たあと、ネモフィラを見たいというので
麓の火の山トルコチューリップ園に寄りました。
火の山トルコチューリップ園 別称『オルハン・スヨルジュ記念園』
公園入口にある像 、愛情と優しさに満ち溢れていました。
この公園は、下関市とイスタンブール市とは「海峡」という地理的類似性があることから
1972年姉妹友好都市となった記念公園です。
5万株のトルコ国花のチューリップがあり、
すべてイスタンブール市から寄贈されたものです。
初めて来園した公園ですが、別称『オルハン・スヨルジュ記念園』に興味を引き調べると
胸を熱くする物語が隠れていました。
このチューリップ園の名称『オルハン・スヨルジュ記念園』とは、1985年3月、イラン・イラク戦争の最中に
テヘランに取り残されていた日本人215名を救出した元トルコ航空機機長オルハン・スヨルジュ氏(1926−2013)を
顕彰するために付けられたものです。
イラン・イラク戦争時、イラク大統領サダム・フセインは「48時間の猶予期間後にイラン上空を飛ぶ機体を
すべて撃墜する」と宣言しました。
当時の日本にはイランへ行き来する航空便がなく、他国の航空会社も自国民の救出に精一杯で
タイムリミットまでに日本へ帰国することは困難でした。
日本人の窮状を知ったトルコ政府は、日本人救出に乗り出しタイムリミット直前に、
200名以上の日本人をイランから脱出させてくれたのです。
***********************************************
当時のトルコ政府が危険を覚悟で救出しようとした背景
起点は、1890年におきた「エルトゥールル号事件」です
1887年、小松宮彰仁親王同妃両殿下が欧州訪問の帰途にオスマン帝国を公式訪問し、
その答礼として、1890年にトルコ側は特使としてオスマン提督を日本に派遣します。
トルコの艦船がオスマン帝国へ帰路の途中に和歌山県串本町沖にて台風と遭遇して、
エルトゥールル号が座礁・沈没してしまいます。
その際、近隣の紀伊大島の住民が救助活動の末に69名を救出しました。
日本人のこのような無償の行動にトルコ国民は感銘を受け、
日本とトルコは歴史的に友好関係が築かれてイランから決死の脱出をさせてくれたのでしょう。
火の山に裾の広がる花々
もう薄暗い時間で残念でした。
明るければ、眼の前を様々な花が美しく艶やかなはずです。
目の間にわずかにネモフィラを見ることができました。
イラン・イラク戦争は入社して間もなく起きて、会社の人も対象だった記憶がありました。
その時は、それが何だったのか深く理解もしなかったことがこういうことだったのかとわかり
感銘しました。
そして、トルコの国、イスタンブールの町がとても好きになりました。
火の山は3度目くらいですが、日も暮れての眺望は初めて見てうっとりとしました。
ただ、撮影場所から関門海峡と関門橋が見えず残念でした。