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春夏秋冬ライフ

四季の変化に向き合い、目の前に起きる様々な出来事を目の丈で追ってみた。

稽古着「ドクロ」の意味

2005-11-28 12:32:00 | 歴史に向き合う

稽古着の背中の「ドクロ」の刺しゅう。額(ひたい)にある三日月のような模様は傷跡とも、角(つの)とも言われる。
この稽古着の主は、新選組局長・近藤勇が、小野路村(東京都町田市)で剣術を指南していたころに着けていた。武士は、死地に赴く覚悟を示すため戦場でドクロの模様入りの上着や袴(はかま)を好んで身につけると言われている。
先日の史跡巡りでは新選組のダンダラ模様の羽織や、こんな稽古着を着たり、身も心も新選組隊士になりきって、勇気のある都心の周回をした。流石日頃着こなして居るのか、田町改札の雑踏の中で徐に衣装を取り出し、さっさと着込んで街中に出た。この戦闘服を着た人達を含めた集団姿の群れは人込み激しい赤坂・六本木周辺では、異様な姿と目に映ったであろう。
東京タワーから六本木に向かう途中に狸穴にロシア大使館があり、折しもプーチン大統領が来日で、防弾ガラスの面で身を固めた戦闘服姿の警官があちこちで立っていた。
その前を異様な姿の一連隊がゾロゾロ通過する。さすが刀や槍を下げていなかったので職務質問まで及ばなかったが、彼らの凝視する目は異常ならざる者との目付きであった。
官軍(警察官)と浪士とのにらみ合い、すわっ「平成の乱」と思ったが、80を越える白髪姿の古参の浪士も居られる群れに、そんな心配は無用であった。(笑い)

身柄拘束に「さすまた」

2005-03-14 18:18:00 | 歴史に向き合う

これが「さすまた」と言う武具である。
朝日新聞「天声人語」で"さすまた"は罪人を捕まえる道具で、こんな物が学校の備品で脚光を浴びる様になった。
広辞苑から「"さすまた"とは江戸時代に、突棒・袖搦(そでがらみ)と共に狼藉者を召し捕るに用いた三道具の一つ。木製の長柄の先端に鋭い月形の金具を付けた武器。喉首にかけて犯罪人を取り押さえるのに用いた。」とある。
鬼平犯科帳では長谷川平蔵率いる捕手が悪党一味を追い詰める場面に出てくるようで、鬼平フアンの部品会社の社長が目をつけ、商品化したようである。身柄拘束で役たつと報じられ、たちまち注文が殺到しているようである。
荒れる学校、安全という神話が崩れ、こんな幕末の古式武具まで常備しなければならないのか、笑えない物騒な世の中である。
幕末時代、韮山の江川太郎左衛門が多摩地区まで代官職を勤めたが、警察機能はほとんど、手に及ばず、名主さんが自主組織を作って、自ら身を守らざるを得なかった。農民層でも武道である天然理心流が流行ったのも、そんな理由からである。警官を呼んで「さすまた講習」を開く学校、何か似ているいや~な時代である。



名を残す「こつ通り」

2005-03-08 21:22:00 | 歴史に向き合う

千住は、江戸時代の日光、奥州街道の出入り口として存在した宿の一つである。この要路が今でも写真の様な「こつ通り」と言う名前が使われている。「こつ」とは人間の骨である。奥州へ出入りする一番目立つところに、断罪人を戒めのため梟首、磔(はりつけ)、獄門などしたところである。埋葬された数は実に20万人ともいわれているが、埋葬とはいえ、土を僅かに掘って実は取り捨野犬に食い荒らされたのが実態のようである。周辺の地面を掘り起こすと、「こつ」が大量に出てきて、由来「こつ通り」というリアルな名前が残されている。
近くの三ノ輪橋から日光街道沿いに円通寺と言う寺があり彰義隊のお墓を見ていた時に、歴史を追う方に、是非見てきたらと言われたのが回向院であったが、その道すがら、お稲荷さんに「こつ通り」と言う表記のの看板に遭遇した。回向院には吉田松陰始め、桜田門事件や坂下門事件で、攘夷で決起した水戸藩の若き志士たちの墓が所狭しと並んでいる。まさに幕末を揺れ動かした歴史事件が凝縮されている「こつ通り」であった。


連続講座も虚しく終わる

2004-12-14 08:15:00 | 歴史に向き合う

渋谷社会福祉センターの講演もいよいよ大詰めへ。当日は天然理心流の話しであったが、余り専門的な話しにはならないように展開した。丁度大河ドラマも大詰めへ、近藤勇が板橋で処刑されたおり、天然理心流の宗家近藤蔵之助、二代目の近藤三助のお墓を粉々にして、官軍からの追跡がおよばないように、地中深く埋めてしまった。八王子の戸吹の田舎でもそれほどに神経を使っていたようだ。
ややもすると、一人走りがちなるので、こんな話しで繋ぎ、若干の時間が余ったがなんとか持ち回りの2時間はクリアー出来た。連続講座の難しさに苦慮しながらも後もう一回、ようやく第三コーナーを廻り、ゴールラインが目の届くところに見えてきた。
一見して直立不動で詩吟でも歌って居るような姿に見えるが、とんでもない。汗水流して作ったOHPに目を向けさせ、楽しく見て頂くことに傾注している姿なのである。記憶力に最早輝きを失った今日、この視覚メデイアであるOHPが講演の支えになってくれた。
ふう~~σ(^◇^;)
それにしても疲れるなあ~

◇何とも虚しい結末
講座も無事に終わった。

受講者が引き上げた後のひっそりした講座室である。9月から始まった講演会も今日で最後、"多摩の隊士"を熱く語った。長い長い4カ月間であり、ようやく頂点に上り詰めた感じで、ともかく終わったことの喜びもひとしおであった。2週間のインターバルで発表テーマを消化しなければならず、その資料作りと発表前の準備は重くのしかかり、忙しかった。講演者と受講者の顔合わせ、「こいつどんな事喋るんだろう」と名もない講演者に冷めた眼差しを浴びながら、適度な緊張感を持って講演が始まった。一回きりの講演ならば、後腐りなく、それでバイバイであるが、連続となると、そうはいかない。

◇これが現実の姿か
ようやく終わったが、毎回の顔合わせは対話も生まれ、受講者の心開いてくれたと思った。長いお付き合い、今日は記念すべき最終回、アフターで膝交えて話しがしたかった。お声がけしたが、講演終了後、脱兎の如く、講座室から帰ってしまった。( °◇ °) ガーン
相棒と二人、せめてもの幕引きを飾る反省会を近くのガーデンパレスで行った。4種類のビールにサービスのつまみでしめて400円、ほろ苦い飲み味であったが、講演で乾いた喉を潤すには充分であった。今日は華の金曜日、近くの屋外ステージでは生演奏、アベックの群れで賑わう中、空からステージ向かって、人工降雪が舞い降り、季節を演出していた。
{{{{(+_+)}}}}寒ううぅ~

日露戦争で輝いた「三笠」

2004-10-16 20:35:00 | 歴史に向き合う

歴史家で作家の加来耕三さんが、教科書にはない歴史を教えてくる。毎週楽しみに聞いているのがこのTBSラジオ 中村尚登ニュースプラザ「日本全国8時です」の番組である。加来さんが切れ味鋭く歴史事象を痛快に鋭く切る話しが、とても新鮮に伝わってくる。
写真は、バルチック艦隊を敗った軍艦「三笠」である。「三笠」を舞台に司馬遼太郎『坂の上の雲』主役は日露戦争の時に天才的参謀と呼ばれた秋山真之である。その司馬遼太郎作品で一躍、ロシアのバルチック艦隊から日本を救う救世主として秋山真之がヒーローに扱われ、イメージされてしまった。しかし、加来さんによれば、「影に寡黙にして功を誇らぬ武人、海軍きっての国際通・島村速雄が居て、その島村が考え出した戦術が見事に的中したのであって、秋山真之がそれに乗っただけである。」とばっさりと斬り捨てた。司馬作品が生まれた時代は中々事実が公開されなかった時期でもあったようで、歴史の実像と虚像が重なりやっぱり作り上げられた世界なのかと思い知らされた。

ようこそ松崎家の世界へ

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