炭鉱遺産と今

北海道炭鉱遺産の現状と思い出をエッセィ風に記述

閉山20年

2014-07-07 21:53:22 | Weblog

「あの時はうれしかったなぁ!」

一人の仲間が、コップ片手に私の席へ来て言った。私より数歳上のはずだ。70半ばにはなっているだろう。顔に見覚えはあるが名前は思い浮かばない。どう応えたらいいか言い淀んでいると、「あの頃のあなたは前向きだった」と、空いた手を肩にのせて微笑んだ。いつもムッスリしていたという印象しかないその仲間は、はるか昔の私に好印象を持っていたらしい。

「住友赤平炭鉱閉山20周年の集い」での再会。彼は、現役時代の私が、ある居住区で合理化闘争の妥結報告に行った時のことを話題にしたのだ。昭和50年代初めの話だ。私にその場面の記憶はない。しかし、労働組合幹部になったばかりで、意欲に溢れて仕事をしていた頃だ。会社が組合の要求に一定程度譲歩していた時代でもあり、結果の報告に力が入っていたのだろう。

ところがその会話から数分後、今度は別の仲間がこう言った。

「高橋さんは、一時期、相談しても返事をしなかったことがあったよな」と。

組合の3役入りしたのは昭和56年。炭鉱では毎年のように合理化提案があり、労働者の要求はほとんど通らなくなっていた。必然、組合幹部としての苦悩は続き、組合員への対応も不十分なことが多かっただろう。その頃の私を指して、不親切だったと言ったのだ。もちろん数十年経っての会話だからそこに悪意は感じられなく、昔を懐かしむ響きしか伝わってこなかったが。

「集い」は180人ほどが集まった。閉山時の平均年齢は50歳を超えていたから、ヤマを去ったほとんどの人が人生の大半をここで過ごしたことになる。私自身、世界のエネルギー事情に翻弄された石炭労働の変遷とまともに闘っていた半生だ。苦悶の連続だったが仕事としては中身の濃い時でもあった。

そんな人生の凝縮された時代を振り返る6月14日のそれぞれの2時間は、あまりにも短すぎたかもしれない。しかし、思い出話の続きは、帰路の途中で、あるいは故郷を遠く離れた現実に戻ったときでも、しばらくは脳裏に甦ってくるにちがいない。

30周年に再び会えることを願わずにはいられない。