Re-Set by yoshioka ko

■沖縄から〈小泉参拝〉を考える

 この5年間、いまでは「託さざるを得なかった」小泉純一郎という男とそれを支えてきた自公政権というのは、結局のところ、日本はどうあるべきか、日本人はどう生きるべきか、という本来政治家が語るべき「哲学」を全く語ることをしてこなかった政権として記憶されるのだろう。

 今日までの3日間、私は沖縄にいた。8月15日の「靖国参拝」は、沖縄にとってはリアリティーをもって受け止められなかったかも知れない。なんといっても8月15日という日は、日本が負けた、ということを宣言した日であって、沖縄はそれより2カ月近くも前に、「鉄の暴風」と比喩されたごとき地上戦を体験、日本より早く6月23日には、文字通り戦争が終結していたからだ。

 靖国問題を考えるとき、沖縄の人びとの心は「疼く」。あの沖縄戦で、自決を強要された人びと(民間人)も、日本軍によって兵の「壕」だといって、そこから追い出された人びと(民間人)も、スパイだ、とののしられ、日本軍に殺された人びと(民間人)も、そのほとんどの人たち(民間人)は、靖国神社に〈英霊〉として祀られている。

 唯一〈戦場〉となり、「捨て石」とされた沖縄の人びとの〈その後〉を救済する手だてが、〈英霊〉として靖国に祀られる、という〈屈辱〉と引き替えることだった。なんとも、悲しい。遺族年金、にたよるしか生きる術がなかったからだ。

 小泉首相がなんといおうとも、沖縄から眺める「8・15小泉参拝」はみっともない。中韓のことだけではない。沖縄の人たちは、まさに〈沖縄戦〉後の生活の苦しさからあまり多くのことは言わないが、戦争で痛めつけられ、戦後からずっと今日まで、最初はアメリカ、次に日本の軍事・安全保障政策から「捨て石」にされっぱなしの生き方を余儀なくされている。

 首相が「尊い犠牲」というのならば、そこに沖縄のまた違った「遺族」がい、A級戦犯がいたからこそ沖縄の「悲劇」があった、と認識することも必要ではないか。

 沖縄の遺族は決して大きな声を上げないが、小泉参拝に異議申し立てをする〈声なき声〉もあるのだ、ということをしっかり認識をして欲しいものだ。

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