新連載になっていきなりまた、遅れました。すいません。
意見のぶつかり合いこそ演劇だ、というと極論かもしれませんが、コミュニケーションの芸術とも演劇はいわれます。
先日のなぎさ高校のパンフレットにも書いたんですけど、書道とか美術とか音楽だと、基本個人で決着がつくことが多いんですよね。
でも演劇は一人では作れない。他者と意見を闘わせる、というと大げさですが、いろんな人と関わり合い、変化を及ぼしあいながら一つの作品を作っていく。
だからもうこれを選んだ時点で諦めてくれ、と生徒によく言います。自分勝手をしたいかもしれないが、それはかなわないよ、と。
これはでも、自分勝手をする人たちをどう包摂していくか、ということでもあります。結局その人たちも含めて作らないといけないので。そういう時に大事なのは、いかに諦めないか、です。
僕はいま、枚方に住んでいますけど、感覚的に大阪寄りの地域と京都寄りの地域で、やはり明らかな違いってあると思います。言葉にしても文化にしても。
ほんとは僕らは明らかに一人一人異なっていて、個性を重視とか言っている場合じゃなくて、個性がぶつかり合いながら、どう物事を前に進めていくかなんだろう、と思います。
僕らはことばを商売にしているし、ことばを使わずには人とコミュニケートしていけないから、大事にしていかないといけない。勉強していかないといけない。
何というか、ディスコミュニケーションを描くことが僕自身の作品としては多いんですけど、その時に多分、意見が伝わらない、とか通らない、ということ自体への耐性が社会としても人間としても必要なのかな、って思ったりします。
もちろんしなやかに意見を通す、山口六平太※マンガとかすごいと思いますが、そうした技術面はともかく、人って分かり合えないよね、で終わるんじゃなく、まずは意見を言ってみよう、伝えてみよう。
これがダメなら次はこうだ、って感じで、日常も作品も作っていけたらと思います。
Tomo Matsuura
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