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ヒガワリテイショク

BGM:Last Dinosaur

哲学論考「私とは何か」3

2004-09-08 20:32:31 | 哲学
思考実験を続けよう。
一昔前の漫画なんかでよく見る、一瞬で意識が入れ替わるという思考実験である。
なんの前触れもなく、貴方の意識は親友のAと入れ替わる。
この想定自体はなんの問題もなく理解されるだろう。

ただし、この手の話全般と違い記憶は当然保持されない。
貴方が貴方だった頃の記憶は貴方の身体に依存しているのであって、
入れ替わった先の親友Aの身体には当然ながら存在しないのである。
(余談4を参照せよ)

考えてみると解るが、この変化を知覚できる者は存在しない。
自我は勿論そのままなので周囲の人間が識別する事は不可能であり、
本人たちですら「入れ替わった事を知らなければ」入れ替わった事を知覚できない。

もうおわかりだと思うが、貴方は一瞬前に
誰かと入れ替わった後かも知れないと言う事がおわかり頂けただろうか。
そして、次の瞬間にまた入れ替わる可能性は誰にも否定できない。
それが誰にも知覚されないゆえに、である。

つまり、時空間の連続性もまた、自分であるためには必要ない。

それらを越えてなお存在する、自分にしか解らない自分を自分たらしめている要素、
これを<自分>とでもよぶ事にしよう。
(ここまでの流れについては永井氏の「<子ども>のための哲学」を参照されたし)

次回は、この<自分>について考察する。

余談5
<自分>がいつ入れ替わるかわからないと言う可能性をさらに進めると、
<自分>がいつ発生したのかも本質的にはわからない事に気づくだろう。
記憶は物理的要素であるため、<自分>がそう言う記憶を持つ身体に偶然、
まさにこの一瞬前に発生した可能性が考えられるからである。
同様に未来に関しては、いつ<自分>が消えるかも全くわからないのだ。
(もっとも、物理的な身体もいつ死ぬのか怪しいものだが。
我々は産まれながらに死刑宣告をされた生という監獄の囚人であり、
生きている事は少々確率の高い奇跡の連続に過ぎないのだから。)

つまり、確かなのは<今>だけと言う時間への考察が開始される。
この<自分>と<今>との類似性は非常に面白い。

余談6
別の思考実験として、あるマッドサイエンティストに捕まり
「記憶を全て消し去られて違う記憶を植え付けられた」後、
耐え難い拷問をされるとかも考えられる。
自分にとっての時空間的連続性は記憶が完全に書き換えられる事によって
断ち切られるが、我々はその後への恐怖をやはり感じる。
つまり、記憶が変わってもやはりそれは<自分>なのである。
なお、この思考実験に関してはまだ自分で納得のいかない部分もあるため、
あくまで余談にとどめた。

哲学論考「私とは何か」2

2004-09-07 12:08:44 | 哲学
思考実験として、自分の目の前に自分のコピーを作ってみよう。
例えばSFのナノファクトリーとかで原子1個単位で正確なコピーを目の前に作ったとする。

コピーは自分が持つ全ての性質を当然持っている。
生きてるし、記憶もあるし、自分が○○(自分の名前)であると主張もする。
「私は○○である」の○○に入るようなものは、全て持ち合わせているわけである。

しかし、そのコピーは決して自分ではなく、他人である。
では自分を自分たらしめている部分は、いったい何処なのだろう。

一つは、コピーであるかどうかを知っているかどうか、と言う事。
だが、これは実験的に本人に何も知らせずにコピーを取るとか、
各種条件で簡単に差異をなくす事ができる。
ゆえに、これは決定的な点ではない。

もう一つは、時空間的な連続性。
時間的・空間的に連続であることが自分を自分たらしめている。
寝る等の意識が飛んでいる時間がたとえあっても、
それは自分にとっての連続性に関しては何も問題がないし、
これはなかなか良さそうな答えである。

次回はこれについて検証してみよう。

余談3
自分を自分たらしめている部分として、記憶の存在も考えられる。
全ての記憶が消えてしまった場合、それは果たして自分といえるのだろうか。
ここで、「自我」と「自己」という言葉を導入しよう。
自我とは「普遍的に」他人にもある(ように見える)もので、人間のOSと考えても差し支えないだろう。
だが、普遍的な自我の中の一つが、何故か「自己」として認識されているわけである。
さて、記憶はこの説明でいけばむしろ自我の方に影響を及ぼしていると言える。
数学の知識が全て吹っ飛ぼうが、昨日の夕飯が忘れ去られようがこの
「私とは何か」という問いは残るからである。

余談3の余談
記憶と自我に関しては、砂山をモデルとして考える事ができる。
砂が一粒消えてもそれはまだ総体として砂山だが、
大きくごっそり取られて崩れればそれはもう砂山とは言えない。

余談4
記憶が脳に依存していて、物理的な回路として記録されているのであれば、
ジャンル問わずフィクションで良くある「怨んで幽霊に」とかはあり得ない。
脳が物理的に破壊された時点で記憶も消え去るからである。
それとも、仮想単位としての「霊子」とかで脳の物理的リレーが違うレイヤーで存在し、
(生きてる間は霊子は物理的な変化をフィードバックとして受けているのである)
死後は独立して保持されるんだろうか。謎。

哲学論考「私とは何か」1

2004-09-06 18:51:38 | 哲学
ちょっと今まで考えてきた哲学を展開してみようかと思います。
できれば、わからない点、間違っていると思う点を私に教えてくれると大変うれしいし、
より多くの人にこの文章を紹介してもらえると助かります。
欲しいのは同意・賞賛ではなく反駁ですが。

なお、このblogに書く(予定の)私の哲学は、
永井均さんの著書と哲学を共有できる友人達に支えられています。
両者に惜しみない感謝と尊敬を。

さて、私とは何かを考えるために、まずは他人を考えてみよう。
他者とはつまり自分以外の全てであると定義する。
自分ではない、と言う点に於いて他人とゴキブリと月は全て同列である。
他人とは、自分ではない人の事である。
他人に限らず他者は全てブラックボックスとして存在し、内部を知る事はできない。
(内部を知る事ができないと言う事がそもそもの定義だから)
つまり、入力と出力によってのみ我々は他者を認識する。
だからこそ、他人の考えている事は解らないし、考えているかすら解らない。

平たく言えば、行動を通して本心を「知った気になる」ことは出来ても、
本心を「知る」ことは出来ない存在が他者である。

・余談1
考えているかすら解らないのに、例えば脳の有無なんて問題にすらならない。
入力と出力のつじつまが合ってればいいのであって、
実は脳のあるはずの部分にあんこが詰まっていたとしても、
それが他人に全く悟られることなく入力に対して完璧な出力をしていれば問題ない。
つまり、他人はロボットかも知れないと言うロボットの疑惑に繋がっていく。

・余談2
他人の心(つまり内部)は知る事ができないので、そもそも偽善という概念は存在しない。
この場合の偽善とは良い事をしつつ「本当は」悪い(非道徳的な)事を考えているという事である。
しかし、他人の定義から、そもそもこの概念が成立しない事は明らかであろう。
(けだし、この手の「本当は」と言う存在は実にうさんくさいものが多い)