思考実験を続けよう。
一昔前の漫画なんかでよく見る、一瞬で意識が入れ替わるという思考実験である。
なんの前触れもなく、貴方の意識は親友のAと入れ替わる。
この想定自体はなんの問題もなく理解されるだろう。
ただし、この手の話全般と違い記憶は当然保持されない。
貴方が貴方だった頃の記憶は貴方の身体に依存しているのであって、
入れ替わった先の親友Aの身体には当然ながら存在しないのである。
(余談4を参照せよ)
考えてみると解るが、この変化を知覚できる者は存在しない。
自我は勿論そのままなので周囲の人間が識別する事は不可能であり、
本人たちですら「入れ替わった事を知らなければ」入れ替わった事を知覚できない。
もうおわかりだと思うが、貴方は一瞬前に
誰かと入れ替わった後かも知れないと言う事がおわかり頂けただろうか。
そして、次の瞬間にまた入れ替わる可能性は誰にも否定できない。
それが誰にも知覚されないゆえに、である。
つまり、時空間の連続性もまた、自分であるためには必要ない。
それらを越えてなお存在する、自分にしか解らない自分を自分たらしめている要素、
これを<自分>とでもよぶ事にしよう。
(ここまでの流れについては永井氏の「<子ども>のための哲学」を参照されたし)
次回は、この<自分>について考察する。
余談5
<自分>がいつ入れ替わるかわからないと言う可能性をさらに進めると、
<自分>がいつ発生したのかも本質的にはわからない事に気づくだろう。
記憶は物理的要素であるため、<自分>がそう言う記憶を持つ身体に偶然、
まさにこの一瞬前に発生した可能性が考えられるからである。
同様に未来に関しては、いつ<自分>が消えるかも全くわからないのだ。
(もっとも、物理的な身体もいつ死ぬのか怪しいものだが。
我々は産まれながらに死刑宣告をされた生という監獄の囚人であり、
生きている事は少々確率の高い奇跡の連続に過ぎないのだから。)
つまり、確かなのは<今>だけと言う時間への考察が開始される。
この<自分>と<今>との類似性は非常に面白い。
余談6
別の思考実験として、あるマッドサイエンティストに捕まり
「記憶を全て消し去られて違う記憶を植え付けられた」後、
耐え難い拷問をされるとかも考えられる。
自分にとっての時空間的連続性は記憶が完全に書き換えられる事によって
断ち切られるが、我々はその後への恐怖をやはり感じる。
つまり、記憶が変わってもやはりそれは<自分>なのである。
なお、この思考実験に関してはまだ自分で納得のいかない部分もあるため、
あくまで余談にとどめた。
一昔前の漫画なんかでよく見る、一瞬で意識が入れ替わるという思考実験である。
なんの前触れもなく、貴方の意識は親友のAと入れ替わる。
この想定自体はなんの問題もなく理解されるだろう。
ただし、この手の話全般と違い記憶は当然保持されない。
貴方が貴方だった頃の記憶は貴方の身体に依存しているのであって、
入れ替わった先の親友Aの身体には当然ながら存在しないのである。
(余談4を参照せよ)
考えてみると解るが、この変化を知覚できる者は存在しない。
自我は勿論そのままなので周囲の人間が識別する事は不可能であり、
本人たちですら「入れ替わった事を知らなければ」入れ替わった事を知覚できない。
もうおわかりだと思うが、貴方は一瞬前に
誰かと入れ替わった後かも知れないと言う事がおわかり頂けただろうか。
そして、次の瞬間にまた入れ替わる可能性は誰にも否定できない。
それが誰にも知覚されないゆえに、である。
つまり、時空間の連続性もまた、自分であるためには必要ない。
それらを越えてなお存在する、自分にしか解らない自分を自分たらしめている要素、
これを<自分>とでもよぶ事にしよう。
(ここまでの流れについては永井氏の「<子ども>のための哲学」を参照されたし)
次回は、この<自分>について考察する。
余談5
<自分>がいつ入れ替わるかわからないと言う可能性をさらに進めると、
<自分>がいつ発生したのかも本質的にはわからない事に気づくだろう。
記憶は物理的要素であるため、<自分>がそう言う記憶を持つ身体に偶然、
まさにこの一瞬前に発生した可能性が考えられるからである。
同様に未来に関しては、いつ<自分>が消えるかも全くわからないのだ。
(もっとも、物理的な身体もいつ死ぬのか怪しいものだが。
我々は産まれながらに死刑宣告をされた生という監獄の囚人であり、
生きている事は少々確率の高い奇跡の連続に過ぎないのだから。)
つまり、確かなのは<今>だけと言う時間への考察が開始される。
この<自分>と<今>との類似性は非常に面白い。
余談6
別の思考実験として、あるマッドサイエンティストに捕まり
「記憶を全て消し去られて違う記憶を植え付けられた」後、
耐え難い拷問をされるとかも考えられる。
自分にとっての時空間的連続性は記憶が完全に書き換えられる事によって
断ち切られるが、我々はその後への恐怖をやはり感じる。
つまり、記憶が変わってもやはりそれは<自分>なのである。
なお、この思考実験に関してはまだ自分で納得のいかない部分もあるため、
あくまで余談にとどめた。