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ヒガワリテイショク

BGM:Last Dinosaur

情報存在としての人(仮)

2005-02-13 01:36:06 | 哲学
情報は価値を持つ。情報の価値は希少性で決まる。
人が情報存在だとすれば(これについては次回)
人は他人と話すことによってその希少性を失っていく。

つまり、人は他人に情報を与えるごとにその価値を失っていく。
テレビに出てくるコメンテーター(例えば立花隆)が
年を経るごとにその価値を失っていくのもこれで説明できる。

しかし、他人の評価を得るためには自分の希少性を削らねばならない。
逆に言えば他人は自分の希少性を削ったことを評価している。

そして、希少性が0になる前に新たにインプットしないと、いつか出力できなくなる。
絶え間なく続くインプットとアウトプットにより、人は変わっていくのだろうか。

補足
情報も熱力学第二法則に従って拡散しているように思える。
つまり人は稀薄になりたがっている?

哲学論考「宗教概論 キリスト教批判その2」

2004-12-02 23:32:10 | 哲学
さて、キリスト教が広まった理由。
ニーチェ曰く、それはルサンチマンによるものである。

ルサンチマンとはつまり価値の転倒だ。
酸っぱいブドウの話をしよう。
狐はブドウを見つけるが、ブドウは高い位置にあり食べることはできない。
狐「フン、あんなブドウ酸っぱいに決まっている」

ここまではただの負け惜しみ、と言うやつだ。
(心理学的には何か名前が付いていたような気がするが…)
ルサンチマンは、この先に存在する。

狐「あんな酸っぱいブドウは食べない方が体によい」

ここで価値が転倒したのが分かるだろうか。
ブドウを食べることが悪いことになってしまったわけだ。

キリスト教の構造はそれよりさらに一段階上手い。
それまではただの汚点であった「弱いこと」を美徳としたのだ。
つまり、弱いこと=善良なことになったのである。そして、強いこと=悪徳に勿論変換される。

この価値観の転倒により、奴隷達は虐げられて(現実は何も変わっていないのに!)
いるにもかかわらず「善良」になり、彼らより強い主人は「悪」となってしまうのである。
精神上の奴隷一揆、これこそがキリスト教の本質だったわけだ。

こうして、奴隷達の(それはつまり、大多数の)指示を受けたキリスト教
(勿論当時はうさんくさい新興宗教だった)は勢いよく広まったわけだ。
そして広まりすぎた宗教は生活にとけ込み、道徳となっていく…
と言うのが大雑把な流れじゃないかと思う。

余談19
そもそも、それまで善悪と言う概念はほとんど存在してなかったはずだ。
英語では善も良もどちらもgoodであり、見分けが尽きづらいから見過ごされがちだが。
現在の道徳観はかなりキリスト教に浸食されている事も添え書きしておこう。

余談20
大多数に指示されることにより、もはやあって当たり前の概念として
定着してしまったものの一つに「人権」というモノが存在する。
考えてみれば、生まれながらにして生きる権利があるとかおかしな話だと思うのだが。

哲学論考「宗教概論 キリスト教批判その1」

2004-11-30 00:01:04 | 哲学
キリスト教の成立は次回にして、端的に言えばキリスト教が駄目な点は一点。

神の行動が駄目すぎるのである。

聖書を読むと分かるが、自分を信望しない他教徒を殺し、
自教徒に自分のために息子を殺せるかどうか試し、
(愛は試すことではないとか言っているのに!)
あまつさえ罪もないらしい動物すら洪水で大虐殺。

イエスとかも自分がイチジク食べたかったのに実をつけてないだけで
イチジクの木を枯らしちゃったり、実に素晴らしい行動の数々。

神の愛は無限であり、あますことなく降り注ぐならば、
何故「悔い改めない罪人」を罪人のまま愛することができないのか。
その一点にキリスト教の矛盾は尽きる。

結局のところ、キリスト教は完璧であろうとしながらも人間くさすぎるわけだ。

では、何故こんな矛盾だらけのヤバイ新興宗教が世界三大宗教になれたのか。
この経緯を次回は分析してみようと思う。

哲学論考「宗教概論 宗教とは何か」

2004-11-06 04:16:15 | 哲学
宗教とはそもそもなんなのだろう。
世界中の人間が(日本は相当例外的だが)宗教に夢中で、神のためなら他人を殺すこともいとわない。
宗教のおかげで人は他人の首を切れないナイフでゴリゴリ切ったりできちゃうわけだ。
いやぁ、宗教って素晴らしいなぁ。

さて、宗教とはものの見方じゃないかと私は考えている。
その点では科学も宗教であるといえるだろう。
ただまぁ一般的に言う宗教の意義は、多分死の恐怖の解消だ。
この点において宗教は圧倒的なパワーを誇る。と言うか、負けようがないシステムなのだ。

死んで、もし死後の世界があったとしたら、宗教を信じて善行を積んできた人間が教義通りに救われる。
死んで、もし何もなければその後はイーブン、引き分け。
つまり、信じた物勝ち、引き分け前提のシステムだからである。

そうして生まれた素朴な宗教はやがて生を縛るようになり、道徳へと変貌していく。
生活規範としての宗教がこうして誕生するわけだ。
では次回は、個々の宗教(とは言っても宗教はあまり詳しくないので極一部だけど)について考察してみよう。

余談16
勿論、他宗教のやつはもはや人間じゃないのかも知れない。
異教徒は人じゃないから殺しても全く問題なしとか、あり得る設定だ。

余談17
某香田さんの映像は失神してるか、薬でも使ってるかでずいぶんぐったりしてましたが。
切り落とされた生首がこっち向いてる映像ってのはなかなかシュールですね。

余談18
科学は多分最も普遍的に信じられている宗教の一派だ。
客観性と再現性があるから信じられやすかったんだろう。

哲学論考「宗教概論 禅」

2004-11-05 02:58:31 | 哲学
なんだか寝付けないのでちょっと禅の話を。

禅、と言うか仏教の目的は短期的には煩悩、つまり欲を無くすことを目標にしている。
(勿論、最終目標は輪廻からの解脱らしいが)
その一派である禅を、私は高く評価している。ストイックに欲を削っていくその姿勢は実にかっこいい。
が、しかし禅というのは根本的に矛盾というか構造限界を持っている。

端的に言えば、「欲を無くそうとする」欲が常にそこに存在するのだ。
よりよく生きようとすることすらまた欲になると言う壁が、そこには強固に存在する。

しかし、この構造限界すら禅は乗り越える。
より良く生きることすらやめ、「ただ生きる」ようになるからだ。
禅僧の生活は完全にルーティン化され、そこに思考の余地はない。
これも何か余分なことを考えてしまわないために考え抜かれたシステムなのである。

つまり、このシステム全体が、生活が、生き方そのものの総称こそが禅と呼ぶに相応しい。

在野でこの精神を獲得したいと私も考えてはいるものの、
こう考えていることがそもそもそこから私を遠ざける要因であるわけだ。
やっぱり禅は難しい。

哲学論考「何故生きるのか」2

2004-10-07 23:50:21 | 哲学
意味、とか生きる、とか根元的なことを定義するのは実に難しいと思う平野ですこんばんは。
特に生きるの方なんて、我々人類はまだ生命とは何かすら定義できていないと言うのに!
と言ってても始まらないので暫定的にさくっと定義を。

意味、とは私の定義では「価値」として考えてます。意味がある=価値がある、とかそんな感じで。
勿論凄く狭義な定義なのでもっと拡張されます、実際は。多分。
生きる、というのは命があること、とかそんな感じの言葉しかもはや思いつきません。
生きるって言うのは相当根元的な感覚だと思うので生きるという点で食い違いは
脳死とか特殊な事例に絡まないと発生しないと考えるので、とりあえずこれで。

さて、本題です。
結論を言えば、生命とは宇宙を効率的に冷えさせる最適解だから、です。
ちなみに結論にいたる途中経過、と言うか思考の道筋はありません。
熱力学の講義受けてる時にふと気づいて、そのまま納得してしまったので。
結論から天下りに説明をすると、宇宙は熱平均に向かって行く系であり、
(つまり、宇宙の温度は全て均一になろうとしているわけだ。
 身近な例で行くと温かいお茶はいつか冷めるが、逆はない。
 熱力学第二法則が言わんとしていることはこんな事。)
最速で熱平均に向かうためには地球の初期条件だと
(初期温度とか。太陽からの距離とか。その他諸々)
生命という形が最適解であった、と言うこと。

生物が例えば種を残そうとそれぞれ頑張るのも、
種がより多くいた方が突然の環境の揺らぎにより生物全体が適応しやすいからだし、
人間がエネルギーをモリモリ使うのもエントロピーを増加させるためなのだろう。

ちなみにここから
「何故そう言う初期定数だったのか。何故宇宙はそう言う方程式に従っているのか。」
と言う疑問を考えることもできなくはないと思いますが、
ここら辺に来るともはや偶然、とかそう言う答えしか考えつきませんね。
こういう設定を作ったモノがいるとすればまさに神だと思いますが。

余談14
熱平均に向かう宇宙は、理論上無限時間後には完全な熱平均、つまり熱的死を迎える。
死後に何かが残ると仮定しても、こうして最終的には物理的に無意味になるわけだ。
こうして無意味論、哲学的に言うと虚無主義(ニヒリズム)は強化されていく。

余談15
キリスト教的には何故生きようと思うのか、とかは実にシンプル。
神が産めよ、増えよ、地に満ちよとか命令したからですね。

哲学論考「何故生きるのか」1

2004-10-06 21:22:02 | 哲学
いわゆる「何のために生きてるんだろう」とか言う命題を今日は考えてみよう。
世間じゃよく聞くフレーズだが、聞く度にあまりのアホらしさに吹き出しそうになる、あの命題だ。

断言するが、一生をそんな観点から意味づける事なんてできない。
例えるならば、それは部屋の中だけに住んでいる状態で、部屋の外見を特定するようなことだ。
その外に出ない限り、自分で自分の一生に意味づけることなどできやしない。
まぁ、意味づけられると思うのは自由だが。

別の観点から言えば、~のために生きていると特定できたとして、
その人は以後そのために生きるのだろうか?ずっと?一生?
そんな不自由はこちらから願い下げだ。

そもそも死んだ後に何にもないと既に断定しているのに、
生きてる間に何らかの意味を見いだしてそれが何の意味を持つのだろうか?
意味さえも消滅する絶対的な無が待っているのに。
(死後の世界があると言う人は、こういう点で実に幸せなことだ。見習いたい。)

断言しよう。人生は無意味だ。
人は、生きたいから生きる。それ以外の理由は嘘っぱちだ。
勿論、死にたければ死ねばいい。ほっといてもいつか死ぬ「らしい」ので今死ぬ必要性はないと思うが。

しかし、こう断言してみても実はこの命題の答えには全くならない。
問題が「では何故生きたいと思うのか?」に変わるだけだ。
もっと拡張するなら、地球の全てのものは何故か生きたがっている。
そして、時にそれを超越して種を残そうともする。
私の知る限り、それは「当たり前」らしく、そのこと自体を問う例を聞いたことがない。
(多分私の寡聞だろう。既にこの世に出たことがない表現や問いなど、早々あるものではない)

私は、それを「当たり前」だとは認めない。
次回ではその点について考えてみよう。

余談12
自殺というのは、つまりこれからの人生を生きてもずーっとマイナスが続いて、
マイナスが増えるだけだと確信したから0にする、と言う行為なのだろう。
実に正当な行為で、権利だと思う。する気はないが。

余談13
ちなみに死ぬ「らしい」としたのは、まだ死んだことがないからである。
もしかしたら死なないかも知れない。下駄を履くまで勝負は分からないのだ。
とまぁ気張ってみても多分死ぬんだろう。今のところそれ前提だし。
死に近づくにつれ時間がたつのが無限に遅くなり死とともに時間は止まるという
ブラックホール型のモデルも考えたことがあるが、それは死ぬのとかわらんよなぁ…

哲学論考「赤は赤いか?」

2004-10-04 01:16:24 | 哲学
さて、今回のテーマは我々の認識について。

タイトルについて補足をすると、
(自分にとっての)赤は(他人にとっても)赤いか?
となる。

例えば晩年のモネの睡蓮は、病で色を失っているため常人には理解できない色彩で描かれているし、
色盲の人は赤と緑が同じ灰色のような色に見えるらしい。

が、それとは全く違う階層にこの疑問は位置している。
全く障害が無く、色の判別に関して問題ない(と自負している)自分が見ている赤は、
「実は」他人には自分にとっての青色として見えているのじゃないか、と言う疑問なのである。

結構昔にこの疑問にたどり着いて暫く悩んだが、結局この疑問自体を否定することはできなかった。
と言うより、これは今考えれば問い自体がかなり怪しかったのだ。

つまり、そもそも赤とはポストや血などの色を指しているのであり、
(自分にとっての)赤が他人には(自分にとっての)青に見えていようとも全く問題がないからである。

余談10
色とは光の特定の波長、と言う定義が当然ながら存在する。
が、波長が何ヘルツであるかと言うことと、
それが赤い「色」に見えると言うことの間には、
何かとても深い断絶があるように思えてならない。
今は思うだけで言葉にできないのだが、いつかこれを言葉で捕らえることができるのだろうか…

余談10の余談
ハイデガーが言っていた「存在は存在してない?」という疑問はこの類の疑問だったのだろうか?

余談11
勿論、この認識に関しては色(視覚)だけでなく聴覚や味覚にだって当てはまるだろう。
砂糖をなめて(自分にとっての)辛味を味わう人がいても何ら不思議はないのだ。
当然それは当人にとっては甘みなのだろうし、
甘みの定義を砂糖をなめて想起される感覚としておけば問題ない話なのだが。

哲学論考「死とは何か」

2004-09-23 12:01:10 | 哲学
暫く留守にしてました。まぁ、色々ありまして。

さて、今回は死をは何か、を考えてみよう。
余談7でも書いたとおり、<自分>が消えることが死の本質だ。
そして、世界を成立させている<自分>が死ねば全ての価値・意味は消えてしまう。
そのことは、とても怖い。本能的な恐怖を感じる。

結局のところ「永遠に続く」と言う概念でしかこの死の恐怖を乗り越えられないのだろう。
宗教も、哲学も(ニヒリズムの到達点?)永遠に続く輪廻や、永遠に存在する天国なんかを引き合いに出しているし。
(仏教がこの輪廻から脱出しようと言うのを当初の最終目的にしてたのは驚嘆である)

死を直視し続けると、人は狂う。何を持って狂っているとするかはさておき。
目の前にある死だけでなく、いつか死ぬというそのことをまっすぐ見つめてしまえば、人は容易にその圧力に膝を屈する。
いつか死んで消滅なのだから、全ての積み重ねは無意味であると言うことを悟ってしまう。
世界は厭世的になり、社会を維持していく事は不可能になるだろう。
だからこそ、世の中では「生まれてきた意味」や、「死んだ後も心に~」などという戯れ言が日夜繰り返されるのだ。
嘘だと知りつつも、人はそこに安息を覚えるから。

しかし、いつか死ぬと言うことの無意味をしってしまった人間は、どう生きたらいいのだろう?
生まれてきた意味など無いと断言し、特別な人間など世の中には存在せず、死後の無を信望する人間は?

余談9
死から本能的な恐怖を抜きにした感情は、やはり「虚しい」だと思う。
そして、自分が、世の中で最も愛おしい自分が消えてしまうと言うことは、とても「寂しい」。

哲学論考「私とは何か」4

2004-09-09 20:32:44 | 哲学
しかし、この話の面白い点は別にもある。
そもそも、この話の始まりは「自分である事の特別さ」からスタートしていて、
自分にしか存在しない<自分>に到達したのである。
ならば、この話は他人には決して理解されないはずなのだ。
自分にしかないはずの<自分>が、他人にも「普遍的に」理解される奇妙さ!

これは言語の限界であり、つまりウィトゲンシュタインの言うところの言語ゲームなのだろう。
「語り得ぬものについては沈黙するしかない」らしいので、
ここらで<自分>への言及は一端ストップすることにしよう。

余談7
この<自分>が消え去る事こそが、死の本質である事は言うまでもないだろう。
そして死んだあとは、全てを受け止めるはずの<自分>がいない以上、何もない。
<自分>があってこその世界であり、少なくとも<自分>が消えたとき<自分>にとっての世界は終わる。

余談8
言語の言及能力の限界に関しては、培養液の中の脳の話がなかなか面白い。
H・パトナムの著作において有名になった思考実験だが、これについてはいずれ機会があれば言及しよう。