筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

立岩製磨製石器の原材料は、ここで採取された。

2012-03-19 06:34:26 | Weblog

1933年、立岩の調査に訪れた中山平次郎氏は、名和洋一郎氏とともに焼ノ正の土取り場から次々と得られる、赤紫色石の石材から製作された磨製石庖丁の未成品採集に夢中となった。中山氏は翌年に「石庖丁製作所址」と公表し、四工程からなる磨製石庖丁製作の過程を提示した。その工程は、80年の歳月を経ても色あせることはない。
中山氏は、同時に2つの課題をのこされた。「原産地」と「原産地から離れた立岩の意味」である。私は、後者の課題は前者の解明にあると考える。

 ・踏査に
何度、笠置山の周囲をうろついたことだろう。目的は、恐竜の化石であるが、ご存知であろうがこの地は、白亜紀前期の頁岩類が厚く堆積し、その中から肉食恐竜の歯が発見された。私は20年前、自然史博物館の友の会に属しており、千石峡に何度も足を運んでは化石を求めていた。当時、明らかになったのは、千石の川沿いに道が走るが、そこから、笠置山山麓に横に続く頁岩の分厚い層が観察できる。そこまで這い上がると厚い化石層が横に途切れることなく続いているのがみられた。ブロティオプシスを大量に含むため、蜂の巣のような厚い化石層で、丹念に探せば必ず動物の化石が採集できると、確信できるものであった。
 早速、写真を撮り自然史博物館の冊子に投稿して、掲載された。その後、仕事が忙しいのと八幡駅まで通うのがつらくなり、友の会をやめてしまった。その化石採集時に亀の甲羅の一部が入った化石を発見した。これが、今日、立岩製磨製石器の原材料を採集した場所であり、運命的な出会いをしていたとは、まったく気づいてなかった。ただ、附近の傾斜面を踏査しているときに、赤紫の輝緑凝灰岩の岩盤が広がっていたことは記憶していた。しかし、私は石庖丁などの磨製石器にまったく興味を示しておらず、黒色頁岩に含まれる化石を探して、山中の石を割り続けていた。
ある時、1本の沢を見つけることになる。沢の底には頁岩の岩盤が見えやすく、水流のため滑らかで骨の化石があれば黒色の本体が見えるはずと、登ることにした。ところが、何も見えぬままに遡ると、水底に赤紫の岩盤が見えてきた。「輝緑凝灰岩か、化石はないな」当時の正直な感想である。沢をあきらめ平たん地に上がると、間もなく見つけたのが亀の甲羅の化石で、アドックスではないかとの鑑定を後日受けることとなった。確かに化石は黒色で、割れ口は網目状の組織が見られる。
この時点で、私の頭の中にある立岩の石庖丁の原材は、川原に点在する手ごろな礫で、筑豊の連中もそう信じて疑わなかった。ただ疑問に感じたのは、化石を求めて川原をうろいていた時、意外と礫が落ちていないのだ、例えば飯塚の歴史資料館で石庖丁製作体験を子供たちにやらせるのだが、川原から礫を拾って持ち帰り、剥片状態にして磨かせる。研磨は子供でもできるが、そこまでの加工は困難らしく、時間もない。
 私も1度やったが、手ごろな礫がそれほどなく、礫を割るのもいささか難しかった。厚味がとれず子供たちは研磨に苦労した。穿孔は電動ドリルでこれが一発で孔が開く。
 それからしばらく、千石峡に行くことはなかった。そこに、中村修身さんから抜き刷りが送られてきたが、その最後に、笠置山あるいは千石峡で原材が採取された跡があれば教えていただきたいというような内容で〆られていた。おや、そういえばアドックスらしき亀の化石を発見した場所に、輝緑凝灰岩の露頭があったはずだが。

 ・現地踏査に向かう
 「中村さんの疑問に答えなければ」千石峡に立った時身震いがした。あらためて沢の両側に無数に堆積する巨礫、おそらくt単位の角ばった巨礫も見えた。まさに、「なんじゃこりゃ」である。沢の横から少し登るとわずかな平地が見える。千石峡にはなかなか見れない光景であるが、モウソウ竹やヒノキ、雑木がまばらにはえ、周囲を尾根がさえぎるため薄暗い。すでに、猪は筍掘りに興じたらしく、あたりが耕作地のようになっている。なんと鼻がよいのか、猪が筍に飽きた頃人間の出番となるらしい。おかげで、地面化の石材があらわになり、長雨にさらされた後には丁寧に洗浄される。小豆色あるいは赤紫がはえ、気が付くとあたり一面が輝緑凝灰岩の岩片に覆われていた。
 先ずは、沢に降り立つのだが、これは壁面がむき出しになっているため土層の観察に都合かよい。厚さ1.5mほどの河川堆積層は、大小の亜角礫が粗めの土に固められている。層位ははっきりしないが、数層に分かれるようで、意外に少ないのが輝緑凝灰岩であり、扁平な小礫が上層に見受けられる。その層を下流側に観察しながら下ると、突然、無数の剥片が斜めに河川内に崩れ落ちている。その中に半月形や長方形の薄板状の剥片がまばらに混じり、しかも、色調は赤紫色に統一されている。つまり、輝緑凝灰岩の剥片やチップが散乱し、特に、チップはすごい量である。層を追うとチップが埋もれている場所は、土坑状に落ち込みが見られるようで、何やら人工的なにおいがする。


面白いのは、円礫が混在する礫層内には輝緑凝灰岩が案外に少ない。小さなが岩片程度のものは含まれているが、多くが別のものである。ところが、やや下流の壁面には大量の岩片が埋もれ、沢に崩れ落ちている。中には、未成品も含まれていて発掘調査が必要であるが、チップは大小様々なものがあり、大量に見られるのはどうもこのあたりに限定されるようで、整形や調整剥離のものと考えられるのである。
後に、藤田先生をご案内した際に「立岩を掘っていても未成品はよく出るが、石屑は少ないんだよ」と話された。「へえーそうなんだ」、飯塚の嶋田さんや樋口君に聞いてみよう、それは、私が考えている打製工程と磨製工程を区分し、原産地と生産地にあてはめている状況が見られるのだ。これも、分業の形態の1つかな。なんて考えた。
 話は戻るが、大量のチップのあたりから、やや奥に進むと大きな板状の剥片が落ちている。周囲には長く細めの板状剥片があって、どうも、石剣や石戈の原材料のようである。さらに奥に進むと、大形の角礫がいくつか落ちていて、その周囲には石庖丁の未成品らしきものが、かなりの量で散在する。その周囲に、わずかに見える輝緑凝灰岩の露頭がある。本来、平坦地の奥に切り立つ崖面が、露頭その物であろうが、何せ腐植土に覆われてどうしようもない。重機か何かで少し削れば10m程度の高さを示す赤紫の崖面が登場しようが、それでは、遺跡が台無しである。
 
 散乱する未成品らしきものは、すでに、半月形に近い。長方形状のものもあるが、多くは薄く割られている。輝緑凝灰岩の片理(葉理)を利用したもので、これが石庖丁の原材選定の1要因になっていることは間違いない。
 ※石材選択の要因について、の材質の特徴「節理・片理面」からアプローチしたレポートは、立正大の考古学論究に提出済み。12月頃に発刊予定らしいが、掲載されるかどうかはまだわかりません。
 露頭写真の右にある石材は、輝緑凝灰岩層から割り出された、あるいは、崩落した岩塊である。幅30㎝、長さ21㎝、厚さ15㎝の角ばった所謂「角礫」である。お気づきであろうか、これは露頭に合わせて置いている。両側が直線的に平行しているが、南北方向の節理面で横方向の縞模様が片理、手前の不正形な割れ口が東西方向の節理面にあたる。
 この節理と片理の組み合わせが笠置山の輝緑凝灰岩の形状と岩質を決定する大きな要因である。露頭は1本の沢に沿って山頂に向かって長く続のである。したがって、沢を登ると右手にその岩層が続いており、自然の崖になった沢の縁に多くの岩塊が砕け落ちているのを見ることができる。大きいものは、私より大きく沢の水をさえぎるように横たわっている。もちろん、近づいて観察しないと赤紫色のそれとは分からない。いつ転がり落ちたのか、全体は土色となり苔むしている。しかも、シダがはえていて近頃崩落したのではない、それこそ、立岩から訪れた弥生人が見ていたかもしれないような古さを感じる。その頃は、赤紫色の落ち着いた色合いで、緑の風景にマッチしたのかどうかは定かではないが、それなりの風情を醸し出していたのでないか。
 
 写真は輝緑凝灰岩の板状剥片である。このような幅広の板状剥片は、材質的特徴が分れば瞬時に作れるものである。長さ56㎝、幅25㎝、厚さ6㎝を測るもので、これを縦長に割っていけば、石剣や石戈の素材を獲得することは容易である。これは、自然に割れたものではなく人工的につくられたものである。石材はなにも石庖丁だけではない、石製武器の材料もえられる環境であらねばならない。
要は、磨製石鏃、扁平片刃石斧といった小さなものから、石庖丁、石鎌の中程度、石剣、石戈といった長く大きなものまでを作れる石材の要素と無限に近いほど原材が確保できる条件がそろわねばならない。
 
 ・輝緑凝灰岩の選択
 弥生人にとって赤紫の石材はどのように理解されたのだろう。今のところ縄文人までは石器の石材として利用していない。また、弥生になっても早期から前期の板付Ⅱa式段階を経ても確実な資料にはめぐり合っていない。桂川町の土師地区(八王寺遺跡)を含む小地域は、弥生前期後半期から今山の石斧がかなり入り込むポイントとである。立岩丘陵も数は多いようで、何かの関連性をかんじるのだが、特に、土師地区では輝緑凝灰岩製の石庖丁を前期後半のⅡb式あたりに使用している可能性があるが、確証はない。立岩丘陵では、下條先生が『立岩』に記す2例から前期末といいうことになり、現時点ではその時期を上限とかんがえる。
 前期末といえば、立岩丘陵に弥生文化が入り込むのが板付Ⅱa~Ⅱb式段階で、定着し活動が活発化するのが前期末~中期初頭となる。そこに生活した立岩の人々に、必要だった様々な磨製石器があるが、石斧は今山系で石庖丁は頁岩質砂岩となる。しかし、両者は遠方から搬入する品物であり、自からの村で作り出すものでなかつた。とくに、人口増加に対応するように拡大化する農耕地、多くの稲などが栽培されるがその収穫具として必要な石庖丁を獲得しようとする必要性が、輝緑凝灰岩にたどり着いた。仮に、北九州市域から北東部の脇野亜層群の広がりの中で、いち早く凝灰岩質の堆積岩を利用して石庖丁を製作していたら、遠賀川上流域に拡大化あるいは伝わることが考えられる。
 土屋みずほ氏の論考に提示された一覧表からは、前期末をさかのぼる例は見受けられない。遠賀川上流から下流域、東北部九州一帯が一斉に石庖丁製作をはじめたような感じである。
 笠置山の輝緑凝灰岩の岩質について少し掘り下げてみる。
 笠置山山麓の道を歩くと、頭上に頁岩の露頭が続く。続いて、八木山川をのぞく、あるいは、川原におりて輝緑凝灰岩の礫をさがしてみると、思いのほか見当たらない。多くは頁岩の礫で、森貞次郎先生が戦前に書かれた「無数に」との表現には程遠いのが現状である。尤も先生はもっと上流のようすをそのように表現されたことが想像できる。さらに、すたすた歩き廃屋の数件の旅館に至る。近年、その上で砂防ダム工事が行われた。出来上がった砂防近くを観察するが、やはり、赤紫色の石はお目にかかれない。森先生は最後に露頭を発見したと書かれている。ここが重要で、山麓を探しまわってようやく露頭にたどり着いたという情景が目に浮かぶのである。川沿いに歩いてキャンプ地に到着するが、その間に輝緑凝灰岩の露頭は1箇所と少ない。
 したがって、森先生が記された「無数に云々」とは中山平次郎先生の予想にピタリと一致して、鞍手郡内の笠置山麓に流れる川底に散布する礫を見つけた、そのインパクトがそのまま文章になったのであろう。最初の感動であったが次の露頭の発見は、先生らしく冷静に記述されている。

さて、この岩質はどのような特徴があるのだろうか。詳細は先に記した立正大の考古学論究(12月発刊予定)に示したが、基本的に笠置山麓をスカートのヒダのようにくねくねと褶曲しながら、脇野亜層の黒色頁岩が取り巻く形で、そのヒダの1本がかろうじて裾野にたどり着いている。したがって、八木山川の橋から細い道を通ってキャンプ地に着くまで、まだ、露頭は1箇所しか見ていない。概ね反対側もそのような感じであろうか、山頂の450mあたりに行くと露頭が見られるらしいが、おそらく、私が見つけた露頭が山頂にのびるものと想像する。尤もこの頂まで登って原材を採集する必要があったかどうかは、今後の調査によろう。
 とにかく、褶曲によって現れた輝緑凝灰岩の露頭は、黒色頁岩の下から現れ、わずかにその姿を見せるが沢の底へと消えていくのである。幅は十数m、高さは7~8m程度ある。よく観察すると岩層の南北と東西に亀裂が入る。いわゆる節理というやつで、南北の亀裂はしっかりと垂直に深く深く切り裂いている。東西方向は傾斜を持っており、自然に両亀裂から割れると南北相当の両側が平行する。しかし、東西方向の上下断面は平行四辺形状に割れるのである。また、軟質な岩質は風化と水流によって容易に磨滅するが。南北ラインは平行のままで、東西ラインは磨滅して丸くなる。
 この割れ方は規則正しく、縦横概ね決まった大きさに割れていく特徴がある。つまり、多くのブロックが自然に崩落していくのである。

 続いてブロックの割れ方は、1~2㎝基本として4㎝の厚さまで板状に剥がれるが、節理に直交する片理のその正体である。これもまた規則正しく畳を積み重ねたようだ。しかし、これは節理とは異なり自然に剥がれるようなものではない。これは2000年以上たってもほとんど変化しない表面の質と色合いに出ている。また、片理の厚さに整えればそれ以上剥がれることはまずない。頁岩質砂岩は土中にあっても表面が変化し、薄く剥がれていく。一方、輝緑凝灰岩は表面に露出していても磨滅はするものの、片理面での剥離はあるかもしれないが薄く剥がれることはない。

 能登原氏の分析によれば、頁岩質砂岩は割った当初は漆黒である。問題は漆黒の肌にかくれた葉理(片理)がどの程度の厚さであるのか、縦断面で確認する必要があろう。もし確認できればそれが剥離しやすさの根本的原因になる。私的には頁岩質砂岩の葉理はすでに存在しており、風化によって葉理面が剥がれやすくなり張り合わせた薄板のように剥がれ落ちるものと考える。もう1点は輝緑凝灰岩は著しく軟質であるらしい。だが、それは片理面に垂直に硬度計を当てた場合ではないだろうか、つまり、本体の研磨面に相当する。しかし、片理に垂直な面で石庖丁の背部面に相当する面となるがその方向の硬度を測ってもらいたいと考える。それが刃部の硬さと鋭利さに通じるからで、硬さと軟らかさの組み合わせが持ち味となろうか。
 
 片理面の大きな特徴として南北方向の節理から打ち剥がすと割と簡単に板状に剥がれるが、東西方向では片理面の接着度が強いのか、貝殻状に剥離する傾向にある。つまり、石庖丁の刃部が上下左右に力が加わっても、板状に剥がれにくい。しかし、左右両端部に加わると剥がれやすいことになる。しかし、片理面1枚から作られていれば、その危険性も薄くなることになる。輝緑凝灰岩の岩質の強みはそこにあるのではなかろうか。さらに、多方面からのアプローチが必要であろう。


階段状に現れた片理面

6/17 耳寄りな情報を入手した。飯塚市川島で昔工事が行われそこから目尾のに大量の土砂が運ばれ、巨大な石炭の露天掘りした穴を埋めたらしい。その土は嘉穂東高校つまり焼ノ正遺跡からさらに遠賀川沿いに下ったところで土木工事が行われいたらしく、その廃土がトラックで運ばれていたが、その大量の土砂に輝緑凝灰岩製の様々石器や未成品が大量に含まれ、その中にかなり大型の砥石が含まれていたらしい。情報提供の氏はその土砂採取の場所を確認して、その位置が河川敷に近いことから川原で石器が製作されたのではないかと想定した。
 1つは、殿ヶ浦では河床下3mから多くの製品や未成品が得られている。その位置から推定すると川島の例も川底の遺跡で、当時は川原とも考えられるが、注意すべきは昭和初期に中山平次郎氏と名和洋一郎氏の2人が盛んに採集した石庖丁の未成品類は、下ノ方遺跡から土取りされている現場で、かなりの土と共に大量の製品や未成品が運び出されたと考える。その土は河川附近の県道に使用されたようで、人工的な盛り土に利用された下ノ方の資料の可能性が考えられる。
 中山氏は、「飯塚市立岩字焼ノ正の石庖丁製造所址」の中で、「県営の道路改修造用の土砂採掘の為目下盛んに崩されつつある個所があって」「包含層はすでに大分崩されて居たから、新道の下積となった遺物も定めし多かるべく」と記し、発見が早く調査に至っていればどれほど資料が集められたかという気持ちが込められている。当時、県道のどの部分に使用されたのかが判明すれば、目尾に運ばれた土砂内の遺物群がどこからという疑問が解決されよう。
 下ノ方遺跡のものであれば、中山氏があえて書かれた「新道の下積となった遺物も定めし多かるべく」との気持ちが反映されよう。私は以前、立岩丘陵の全体が発掘調査されたなら、どれほどの資料が得られたであろうかとブログに記したが、私のおごりではないかと批判された。まったくの見当違いで、むしろ、中山氏と想いが重なるのである。この気持ちは高校生の頃であろうか、糟屋郡の古大間池が破壊され、中学2年からコツコツと採集した部分が削り取られた時の気持ちに近い。私は意外と純粋なんですよ。
 
 また、笠置から遠賀川へと流れ込む河川があるが、今は3面側溝の水路である。旧嘉穂から秋月に抜ける古八丁を踏査しながら、おそらくこの道は古代以前に遡ると直感したが、基本的に上り下りは関係なく直線で目的地に到達する。私は古道の基本は直線と考えており、様々な理由で迂回する、例えば新八丁などは比較的新しい発想の道と考える。
 直線とくれば、笠置山から直線的な河川と狭小な平地で、その先に遠賀川があり河床下には殿ヶ浦遺跡があり、川を渡ると川島の丘陵に至る。川島の丘陵続くように遠賀川上流にたどると立岩丘陵となる。
 問題は、笠置山の南山麓から流れ出る河川は相田から流れ出るもう1本河川と庄司本村付近で合流し、遠賀川にそそぐ。情報によればその河川工事の際に、こぶし大ほどの輝緑凝灰岩の円礫層が分厚く露出していたらしい。ということは、笠置から流れ出る河川もしくは、相田から流れ出る河川に輝緑凝灰岩の崩落礫が集中する箇所があることになる。笠置は、1度訪れたが円礫が河川の上流に結構見受けられたが、露頭は見らなかった。しかし、分厚い層をなすほどの量であれば、上流に露頭があるものと考えられる。再度、笠置と相田を訪れる価値があろう。

6/23 早速、訪れてみた。今日は気温は低いが蒸し暑い。なんとか雨は降らないようで、車を走らせ笠置ダムのある公園に到着した。そこから自転車に乗り換え、まずは笠置橋のバス停の先から左に入り、細長の河川を登っていく。この道は相田にぬける古道のようで途中から笠置古城への登り道となる。河川はその道の分岐点に立つと笠置古城への登坂沿いに1本、本流はさらに谷奥から流れている。分岐点近くには小規模の採石を行っていたのか、崖状の露頭があり観察のため水路ほどの小河川をわたる。渡り際に観察をすると輝緑凝灰岩の礫が若干混じっているものの数的には少ない事を確認した。先の露頭にたどり着くと、そこは変成岩のがれきの山であり、まさしく、中世代の下にある古生層だった。

 確認後、本流となる河川を観察すると少数の輝緑凝灰岩を確認、その流れを追って左手に小規模な谷水田を見ながら古道を進む。途中、何度か河川をのぞきこむが赤紫色の塊は見えない。さらに奥へと進み水田のもっとも奥に到着、水田はきれいに耕されているが、表土に驚くほど石屑が混じっている。河川はそのすぐ脇を流れており、少しの間観察するが赤紫色の石は見当たらない。しかし、巻貝の化石を含む頁岩がちらほら見える以外は、変成岩の礫であろうか。その後、三角の水田をひとまわりして表土に混じる石を観察、その下の水田も歩いてみるが、人為的な剥片は1点もない。また、輝緑凝灰岩は1点も見られなかった。

 引き返す途中で何度か河川を観察するが、赤紫色の礫はやはりない。先ほどの分岐点までもどり笠置城への道を歩きながら、もう一度小河川をのぞき込むと、数少ないが赤紫色の礫が観察される。どうも、山城への登り道あたりから下手になると輝緑凝灰岩が観察されるようであるが、付近にその露頭があるとはとても思えないほどの量である。さらに、その河川は急斜面の沢となって山から下る。その途中で赤紫色の礫が混じるのか、以前、山頂に向かって山を登ったが、大量の赤紫色の礫やその露頭は発見できなかった。沢はおそらく山頂付近にまで続くのであろうから、そこまで登ると露頭があって、そこに流れ込む可能性が高い。

 「笠置側に石器のにおいがしない。」というのが数回の踏査結果である。それから、自転車をこいで飯塚市側へと道を下り、途中から右の旧道に曲がる。やがて、河川と並走するが、目線は河床礫を狙うものの赤紫色は全く見当たらない。所々に水田に水を引くための堰がつくられ、水流がたまり水となり深さを増している。いるいる、「ハヤだな」つぶやくと、聞こえたのか群れを成して逃げていく。体の横にラインが見えた。このあたりではイシバヤというやつだ。

 それから、相田へと向かう広い道を自転車で進む。もう一本気になる河川が流れる谷沿いの水田地であるが、笠置の何倍の広さであろうか。ちょうど坂道を越えると右手に神社が見えてきた。そこに、山側から1本の道が通じていた。なるほど、笠置からの道はここに続くのかと1人納得。早速、河川をのぞくと、変成岩の礫ばかり、笠置の河川とはまったくちがう。つまり、この河川は輝緑凝灰岩の堆積には無関係のようである。それにしても、対面する庄司本村から相田へ続く丘陵は魅力的である。

 結論として、こぶし大ほどの輝緑凝灰岩の円礫層が分厚く露出していたのは笠置方面からの礫の堆積であろうが、何が原因でそのような堆積層ができたのかは、今の河川をみるかぎり困難な問題である。

次に、笠置山から遠賀川を渡り、川島や立岩方面への道筋を考えねばならない。川中にある殿ヶ浦遺跡は、仮重要な存在であり、地下4mから縄文後期の土器、2mから多くの輝緑凝灰岩製石器の未成品が得られている。

ようやく、「考古学の諸相Ⅲ」に笠置山採集地点の観察結果を掲載した。先生方にいくつか貴重なご教示を得た。『福岡地方史研究』最新号に笠置山と立岩の距離を埋めるものとして、そもそも、石庖丁は打製段階での技法は石核を使用した半月形横長剥片を量産する剥片石器に分類され、その段階でおのずと軽量化されるため、運搬距離約6㎞は何ら支障ないと判断、根拠は薄弱ながら前近代の背負子による運搬を想定しながら内容をすすめると、今山の石斧も内陸運搬で十分に対応できると書いてみた。研究史をさぐると色々見えてきます。意外な点が見えなかったりします。
 
 福岡地方史研究に石庖丁等石器の運搬について、近現代的合理性を論考に持ち込むと意外な結果になることが見えて来た。しかし、近年いや今でも私たちの脳裏にはそのことが当たり前のようにインプットされており、資料の選択から解釈に至るまで、あらゆる思考部分を支配することは当然である。
 

 平成26年の1月に入り、ニュースがとびこんできた。1本の電話があり弥生石器研究の第一人者であり、立岩に深くかかわってこられた下條先生から、2月に現地見学と採集資料の調査をお願いしたいとのこと、わが耳をうたがうとはこの時の事であろう。電話の向こうから先生の声が聞えてくるのだが、頭に血が上ってしまい、何を答えているのか自分で分からなくなっていた。
 笠置山麓で原材採集地を発見して10年以上が経過、古文化談叢に資料紹介したが、なかなか反応がないが当然であろう。昭和61年、原田遺跡で有文小銅鐸を発見した時に、見学にお出でになった学会の有数な先生方、中でも今後の私の考えや対応について最も心をくだいてくださった森 貞次郎先生は、そっと、「発見した時より、あとが大変ですよ。これが学会で問題になるのは、最低10年は必要ですね。」と、こんな風に言ってくださった。細分単位は10年、今回の笠置山の件はこの編年上にのっているように感じる。
 下條先生が来られる前に灰緑色等の所謂「赤紫色の輝緑凝灰岩」以外の資料を数点採集しようと、千石峡に出かけた。その際に、灰色系の資料を得る事ができた。灰緑色は剥片城の薄いものを1点加えている。問題は、灰色系のものが輝緑凝灰岩なのか、なんとなく、頁岩質砂岩に見える所が面白い。下條先生にお聞きしようと思うが、肉眼視における頁岩質砂岩の鑑定がどうなのか、ひょっとすると、灰色系の石材が出回っていたかもしれないと思っている。これは、頁岩質砂岩製石庖丁の石材鑑定がどこまで有効なのか、確かに理化学的鑑定は、プレパラート等を活用し岩石学的に特徴を明確化している。しかし、全ての石材を理化学的に鑑定しているわけではなかろう。岩石学の先生は、割って新鮮な面をみなければ分からないという。おそらく、風化が進んだ石材を鑑定するのは困難であろう。
  






立岩の尖頭器と局部磨製石斧は伴うのか ― 伴う可能性は高い ―

2011-12-17 16:01:06 | Weblog
 かつて、福岡旧石器研究会が筑豊で開催されたおり、筑豊の嘉穂地域を中心に縄文早期の刺突文土器や押型文土器の分布を基本として、前期、中期、後期と標高が低くなること、旧小石原の標高500m付近に旧石器の遺跡があることなどから、標高60~70m以上の丘陵や台地を中心に採集を続けたが、結局スカに終わった感じがあった。ところが、桂川町の古野遺跡が60mで細石刃らしきものが出土していた。また、既に報告された立岩出土とされる神柴型の石斧は、出土地点が明確ではない点から個人的には他所の可能性もあるとして傍観していた。しかし、嘉穂東高校所蔵の昭和28年代に採集された遺物の中に、明らかにサヌカイト製の尖頭器を見て以来、考えは大きく変わった。つまり、尖頭器と石斧は伴う可能性が高いと考えられるからである。
 
 岡崎氏の戦前の論考「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図(第3図)の(1)~(17)が立岩の採集資料であるが、(2)の扁平な石斧が問題の資料である。実測図が非常に小さいが寸法は一致しており左側面の稜線や右側面に残る剥離面、先端部が研磨されている様子や断面形状など、まず間違いないものと考えられる。

  岡崎論文中に、立岩の飯塚高等女学校遺跡を紹介している。名和洋一郎氏によって発見された当遺跡は、現在の嘉穂東高校の全域に及んだらしく、その中心は旧校舎付近と、当時削り取られた高さ3mの崖上に存在しており、岡崎氏たちはその上によじ登って調査したらしい。ここは、工事中やその後におびただしい石庖丁製品と土器片に多くの石器が出土したという。また、森貞次郎氏は、包含層の下から土器棺が出土した事を記している。昭和28年代に採集されたサヌカイト製の尖頭器は、当遺跡のもので、名和・岡崎両氏がよじ登った崖上の包含層と考えられる。

 そもそも、昭和8年に飯塚市営運動場が発見され、中山平次郎氏により調査が行われたが、その途中で、下ノ方遺跡が土取り工事の際に発見され、発見者の名和洋一郎氏とともに中山氏も石庖丁未成品等の採集を行っている。下ノ方遺跡は、当時、焼ノ正遺跡と呼ばれたが正しくは下ノ方として、森貞次郎「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17中にある「遠賀川流域に於ける主要遺蹟の一覧」の下ノ方遺蹟の記載中に訂正がなされている。ただし、焼ノ正と下ノ方は隣接している。ちなみに、昭和12年9月に発刊された石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9には、飯塚市市役所で磨製石器の実測を行っていて、岡崎論文挿図の大型石庖丁は焼ノ正遺蹟として掲載してある。昭和12年段階では、まだ、下ノ方との訂正はないようである。

 ※昭和14年森貞次郎氏が嘉穂中学に赴任した時期も焼ノ正遺跡は下ノ方と変更していない。森論文が17年でこの時点で下ノ方に変更されている。
 
 昭和9年から10年にかけ、下ノ方遺跡に隣接する焼ノ正では飯塚高等女学校の建設が開始され、膨大な資料が得られた。当時、遠賀川に張り出した緩やかな丘陵上にあって、当時の校舎中程から多くの資料が得られたが消滅し、そこからから南東の土取り工事によって3mもの切通しとなった崖上に30㎝ほどの包含層が残された。名和・岡崎両氏がよじ登ったのはその崖上であった。

 以上は、すでに記載した内容であるが、改めて学史的に掘り起す必要がありそうだ。思えば、九歴を訪ねた折には、横田義章さんがいた金属器の処理室をよく訪ねた。ある時、突然机の上に石器を取り出しニコニコしながら「すごいやろう」と言って、「立岩から出たらしい」と続けた。横田さんは、突然、「これすごいだろう」とか言いながら、なんであるかを抜きにして場所や状況など説明してもらうのだが、何であるのかが不明なため会話にならず、相槌を打つだけとなった。ある時は中国式の銅剣、青銅の鏡、鉄器の象嵌などである。そして、「まだ内緒だけど」と加わる。その義章さんが立岩の局部磨製石斧を取り出して見せてくれた。岡崎先生の論考に掲載してあることも聞いた。持つと確かにサヌカイトとわかるし、刃先の一部に新しい欠損があり、灰黒色の内部が見える。「サヌカイト製の石斧・・・・」古式の石斧で旧石器かとも思ったが、まさか立岩に旧石器とはにわかに信じがたく、実は、嘉穂東の尖頭器を見るまでは半信半疑ですごしてきた。というのも、嘉穂地域外で採集されたものが、たまたま、立岩と記された箱に入っていた可能性を考えるくらいであった。中山平次郎氏以来80年近く様々な人々が闊歩し、あらゆるものを拾い集めていた時代が続いてきた。時に発掘調査され、フィールドでは何人もの著名な考古学研究者が排出されたのである。その中に、他地域で採集したものが持ち込まれても何ら不思議ではなかった。森論文中に「石鏃は黒曜石のものが多く、形式は彌生式の特徴を有する無柄の有肩のものである。黒曜石の石屑は各遺蹟に非常に多い。」
とある。無柄の有肩とはどのような形態であろうか、少なくとも抉りはほとんどないか浅いものであろう。しかし、五角形や三角形の鏃とは表現していない。想像するに、先端から基部へのラインが張り出すような状況であろうか、昭和17年段階での弥生の石鏃をどのように見ていたか。今の目をもってすればもう少し時期の判定が出来るが、残念ながら図示されていない。繰り返すが、嘉穂東の尖頭器を見た瞬間確かに立岩には、旧石器末から縄文草創期の文化が存在したと認識した。

 尖頭器が嘉穂東高内で採集されたことは確実なようだ、昭和29年のことで当校が火災にあった年のようである。だから、土がついたままなのであろうか。問題は、石斧の出土場所が絞り込めないかということである。絞り込めない以上、尖頭器と伴うのか証明できない。昭和14年2月発刊 岡崎 敬 「遠賀川上流の有紋彌生式遺蹟地」考古学雑誌29巻の2 この論文は、少なくとも昭和14年2月以前に書かれ、日本考古学会に送付されたものである。したがって、本文中第3図に図示されている遺物群は昭和14年以前の出土遺物である。

※付加え・・・文献は最後まで読むべきと反省する。というのは、岡崎氏の論考の最後に(昭和13年6月29日稿)と記してある。とすれば本年の3月見学会というのは昭和13年の3月となり、年度でいえば昭和12年度末ということである。13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場遺跡(調査消滅)となろう。また、昭和12年12月12日に名和氏は、飯塚高女の崖上から遠賀川式と須玖式土器を採集し、これが岡崎論文に掲載してある。
 昭和12年の夏に岡崎市は澤井一雄氏と伊方遺蹟を実査している。続いて糸田遺蹟で発掘を行っている。つまり、12年の夏は伊方から糸田(発掘)、明けて13年3月に焼ノ正の踏査を行っている。その間、名和氏は12月に焼ノ正から土器を採集している。岡崎氏は田川の2遺蹟について昭和12年夏、旧制中学の学生であった氏は、夏休みを利用して発掘と実測を行ったことが推定される。また、参考文献中最も新しい文献は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9 昭和12年9月の発刊である。
 岡崎氏は、土器に関しては昭和12年の夏から年末にかけての採集資料を実測して使用している。年が改まり13年の3月に飯塚高女に名和氏とともに見学に訪れている。田川の資料を夏休みに、飯塚高女の土器資料は冬休みから春休みにかけて実測している可能性が高い。それでは、石器の実測はいつ頃行ったかが知りたくなる。

 内容を読むと、飯塚高女の校庭に露出した黒色の土器包含層の紹介がある。すでに学校は完成しており校庭の東南に位置する高さ3mの崖上にある30㎝程度の包含層の可能性が高い。案内した名和洋一郎氏は、すでに現地の状況を把握していたもので、見学会を実施したことになる。文中に「本年3月に見学の機会」とあり、昭和13年の3月以前に遡ることになる。飯塚高女は焼ノ正遺跡そのものであり、昭和9~10年にかけて土取りと整地が行われていたようで、大量の遺物が出土している。

 児島隆人氏の『立岩』を読むと、昭和8年10月立岩の市営運動場工事により出土した甕棺の調査に中山博士あたられ、昭和9年に報告等が出されている。森本六爾氏宅を訪れ「考古学」の抜き刷りをもらい立岩の存在を知ったと書かれている。昭和9年の冬に早速現地を訪れた当地には甕棺の破片が散乱していた。翌10年の夏休みに飯塚市役所を訪れた児島氏は山本宇兵衛氏の説明と多くの出土品を目にした。

 中山氏が調査する市営運動場遺跡を見学に来た名和洋一郎氏は、いち早く、甘木山から下る丘陵が削り取られ、そこに散乱する遺物群に目をつけ採集を始める。中山氏もこれに参加して採集した資料が、石庖丁の未成品や製品が圧倒的に多く、後に石庖丁制作所跡として焼ノ正遺跡の名で報告される。森貞次郎氏によりそこが焼ノ正遺跡に隣接する下ノ方遺跡と改められるが、その学術的価値は微動だにしない。児島氏によると測候所、測候所下、焼ノ正、下ノ方が市営運動場遺跡に加わって、昭和10年代の調査遺跡と締めくくられている。

 そこで、中山氏の調査報告(昭和8年10月に運動場工事が着手、12月17日に九州考古学会が見学、20日の新聞に甕棺等の記事が出て、23日から調査)から岡崎氏の論考が書かれたと考えられる昭和13年3月、つまり、昭和12年度までの立岩丘陵地における調査事例を追うことにする。

 中山氏の報告の中に気になる記載がある。その報告を読むと甕棺の発掘等は誰が行っていたのであろうか、例えば昭和8年10月に開始された発掘調査により3カ月近く土取りを行う中で様々な遺物が採集されていた模様である。飯塚市役所の山本宇兵衛氏が中心となって遺物が集められたようで、土木という開発側に立っての収集は大いに大変であったろう。その山本氏が中山氏に差し出した立岩周辺の詳細な道路地図に、中山氏自ら市営運動場遺跡、気象測候所遺跡、下ノ方(当時焼ノ正遺跡)遺跡の3ヶ所を×印で示した。昭和9年の段階である。報文中には、運動場から得られた遺物の石器の記載で気になったのは,「打製及び磨製石斧」というもので打製の石斧が含まれているようである。残念ながら図示はされていないが、局部磨製石斧の可能性として注目すべきであろう。

 続いて気象測候所の紹介では、多数の完形土器の出土と既に掘り出されていた小石槨内から2本の刀子が得られていた。(後漢鏡が伴った可能性もあったか)しかし、石器の記載はない。

 ここで少し整理してみよう。岡崎氏が論考を仕上げたのが昭和13年6月29日、13年当時明確になっている立岩丘陵の遺跡は、測候所、測候所下、焼ノ正(飯塚高女の校庭)、下ノ方、市営運動場の各遺跡(調査消滅)となろう。その内、中山氏の調査段階で市営運動場、測候所、下ノ方(当時は焼ノ正)が明らかで、市営運動場から打製の石斧が出土している。下ノ方(当時は焼ノ正)では、石庖丁の製品と未成品、石剣破片、諸形式の石斧、完形の抉入石斧、紡錘車とある。しかし、測候所では土器と小石槨(石棺)と刀子の記載があるだけで、石器類の記載がないことから目立った出土はないらしい。中山氏が報告された立岩夫婦石にある市営運動場遺跡と当時は焼ノ正で後に下ノ方遺跡の2遺跡から多くの石器が得られ、研究対象となっている。

 原点となる岡崎氏の「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」を読み進めていくと、当時、中山氏の第1系土器(須玖式)と名和氏発見の第2系土器(有紋)があり、中山氏は第1系から第2系への変遷を想定、小林行雄氏はその逆を想定した。その後小林氏に軍配が上がるのは周知の事実である。岡崎氏は遠賀川流域の弥生遺跡地、中でも中山氏の第2系を立屋敷型式の存在を流域に求めていた。そんな中、立岩・潤野に田川の伊方・糸田の4遺跡を遠賀川式土器を出土する遺跡として紹介している。当時、嘉穂郡に50、田川郡に10遺跡が知られながら、遠賀川式を出土するのは先の4遺跡で、あとは土師器系統としるされている。つまり、弥生でも最も古式とされる土器群が見いだされる遺跡を選出している。

 立岩は昭和8年に発見され、中山氏によって学会に報告された。その後の動向として清賀義勇氏所蔵の銅戈鋳型が重要物として紹介されている。次に、岡崎氏本人が参加した昭和13年3月の遺跡見学の状況が記されている。おそらく九州考古学会ではなかろうか、名和洋一郎氏の案内で、昭和9年から10年にかけ飯塚高女の建設に際し整地され、その工事中に発見された遺跡であり、発見者は名和氏である。工事中に発見された包含層の位置は、校舎の部分と整地によって削り取られた高さ3mの切通しの上で、校舎部分は既に消滅し、見学当時は崖上にある30㎝程度の包含層を調査し、木炭・土器の破片、石器が出土するとある。「従来出土品としては、弥生土器・黒曜石片・紡錘車・石斧・石鑿(扁平石斧)・石剣・石鎌・石庖丁及びその原石等が多数発掘せられている。」石庖丁及びその原石等は、石庖丁の製品と未成品である。気になるのは黒曜石片と石斧で、もちろん弥生にも黒曜石はあるが、今日に残っているのだろうか、石斧と扁平石斧とは区別してあり、蛤刃を主とするものを示すのか、それとも、そのほかのものも含め、石斧類にしているのか注目される。

 岡崎氏は立岩の現状として飯塚高女(現嘉穂東高校)の調査を掲載している。ここが、本来の焼ノ正遺跡であり、中山氏が焼ノ正遺跡としたのは下ノ方遺跡に訂正されたが、昭和13年にはすでに訂正されていたのであろうか、たしか、森貞次郎氏が嘉穂中学校に赴任されるのが昭和14年だったと思われる。そして、古代文化に発表された論考では、訂正がなされている。

 さて、「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図を見ていくと、大型石庖丁、石庖丁3点、石鎌、石剣、抉入石斧、柱状片刃石斧は、焼ノ正遺跡とあるが、これらは下ノ方遺跡である。石戈の1点と扁平石斧1点は夫婦石でつまり市営運動場である。挿図の(2)が問題の石器であるが、場所は判然としない。しかし、ここにならぶ石器は、少なくとも市営運動場と下ノ方が含まれている。昭和9年4月号の『考古学』に掲載された中山氏の論考「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」の中で、運動場遺跡とは別に県道新設の工事により新たに発見された遺跡の遺物を観察に飯塚市役所の山本宇兵衛氏のもとを訪れた。その時、新たな遺跡から出土した1点の大石庖丁様の無孔石器について説明を求められている。当時はその新遺跡を焼ノ正遺跡と称し、石庖丁製作遺跡として公表された事は周知のことである。その大型石庖丁は岡崎氏の挿図(11)や嘉穂地方史の挿図にも紹介され、今日、飯塚資料館に保管されているものと思われる。ただし、出土地点が焼ノ正となっているが下ノ方と変更すべきかもしれない。

 ※上記の大石庖丁様の無孔石器は、石鎌と判明した。また、大形石庖丁は、石村一男「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に実測図と焼ノ正遺跡としている。また、飯塚市役所で多数の磨製石器の図形をとったとも記されている。石村氏の図と岡崎氏の図を比較すると、両端の抉り部の形状や刃部の稜線が微妙に異なっていて、岡崎氏は石村氏の原図を使用することなく、自ら飯塚市役所の資料を図から実測したと考えられる。ちなみに、岡崎氏の石器図面は、タッチや剥離面の表現等が同じである。当時の交通事情や気風からして、何日も実測に時間をかけることは考えられない。特に、先方への迷惑を真っ先に考える時代である。かなり集中的に短期間で終わらせたに違いない。

上記の文中に興味ある記載がある。立岩の石器の紹介で真っ先に取り上げたのが、局部磨製石斧である。類似資料を底井野の資料としながら、「農耕社会といふことを前提とするならば一種の鍬云った方が適当かもしれない。」として扁平石斧や蛤刃石斧とは区別しており、その物が磨製ではなく打製石器であることをにおわせている。しかし、刃部は磨製を示す研磨のラインが半円を描き、断面は薄いが両面から磨かれていることがわかる。旧制中学時代の岡崎氏はこの局部磨製石斧をどのように見ていたのか、詳細は分からないが刃先を両面から研磨するものの他の部分は剥離痕と自然面である。氏は大陸系磨製石器とは一線を画していて、縄文の打製石器との類似を指摘するが、刃先の研磨は新たな知見であったろう。縄文の打製石斧は土堀具としての用途と認識されていた。形態の類似は当然用途的な類似を示すことになろう。しかし、当時、立岩採集の当品は弥生時代という観念が広がっていた。そこで、農耕社会の石器とすればという前提をたてれば「一種の鍬」となる。仮に、立岩遺跡が縄文から弥生という複合遺跡として周知されていれば、岡崎氏はストレートに縄文の石器として区分していた可能性が高い。

 さらに読み進むと、最後に記された「ご指導を賜った石村、三友両先生」と遺跡と遺物に関しては、「名和、澤井、清賀、児島諸氏」という点が気になる。特に、遺物の実測図を示すにあたり立岩遺跡の鋳型は、清賀義勇氏所蔵である。本文中第3図(1)~(17)が立岩、(18)~(24)が潤野、(25)~(33)は田川の伊方と糸田となっている。潤野は児島氏で田川の2遺跡は澤井氏であろう。それでは、立岩と記された(1)~(17)の中で
(4)・(5)・(9)・(17)は中山氏の「飯塚市附近の遺蹟より出土せる石鎌並びに其の系統の遺物に就いて」考古学5-4の図版の9・10・6・5と同じで焼ノ正出土、つまり、森氏の訂正後に下ノ方となる。(6)・(9)は11・6相当し夫婦石、つまり、市営運動場(グランド)出土である。(11)・(12)~(14)・(16)は焼ノ正と記されるが、下ノ方となろう。石剣の破片類4点は(10)としてまとめられており、土器類の挿図にも見られるように同じヶ所から採集された破片類に1つの番号が付されているのと全く同じである。では、どこから得られたのであろうか。

(10)は石剣の柄の部分に相当するもので、上下逆さに見るべきと考える。図面の上部には断面図が入れ込まれており、折損面ではないことがわかる。(21)は潤野の資料は、上下が折損したものであり縦断面は記載されていない。(10)のものは、嘉穂地方史先史編の66図の12と思われ、立岩となっていて児島氏の所蔵となっている。石戈(8)と(9)は森論文の9図の12と15に相当し、(9)はグランド出土で当時飯塚市役所蔵と考えられる。(6)の扁平片刃石斧は、森貞次郎氏の「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」の第7図の5である。(7)は同図の8と同じと思われる。(6)(7)はともに立岩と記されており、昭和17年であることから岡崎論文に時期が近い。森論文の興味ある記載は、女学校遺跡には、粘板岩や青白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かったとあり、先の岡崎氏は(6)を鑿形と表現し(7)を扁平石斧とし区分している。(6)は刃先が半円状に磨かれており、森論文の7図の5に相当する。(7)は直線的である。

 現段階で岡崎氏が実測発表されたもので、採集地点が不明で、なおかつ、その後の論考にも登場しないものが(1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧と称される棒状を呈した石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品か有茎尖頭器?である。それら資料を再見すると(1)蛤刃 石斧は当時の資料としてもおよそ納得できない、刃先の先端部のみの欠損品である。森論文には完形及び完形に近い蛤刃石斧が示されている。当時の状況は分からないが、市営運動場・測候所・下ノ方の採集遺物が市役所に集められ、測候所下は、個人や嘉穂中学に集められていた。飯塚高女もまた個人・飯塚高女・嘉穂中に集められていた。
 今のところ岡崎論文で明確な採集地は、下ノ方遺跡が多くグランド遺跡が一部存在するが、それ以外の採集地点は不明である。というより、そもそも、挿図の資料実測が行われたのは限られた場所、つまり、当時の飯塚市役所所蔵資料ではなかったかと思うのである。例えば、岡崎氏の先生である石村一男氏は、飯塚市役所で多数の磨製石器の実測を行い、「北九州出土の異形石庖丁」考古学8-9昭和12年に焼ノ正遺跡とし発表している。その際に、岡崎氏が同行もしくは、内容を聞いていたことは確かであろう。また、児島隆人氏は、旧制中学時代から岡崎氏がよく訪れていたという。実際に遺物関連の実測では児島氏のお世話になっている。
 
そろそろ、石斧の採集地点を絞り込まねばならなくなってきた。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?が出所不明ということになっているが、それ以外の多くが当時は焼ノ正遺跡後に下ノ方遺跡と改められる。それに、市営運動場遺跡が若干混在しており、いずれも、飯塚市役所所蔵である。これらは、石村一男氏によってすでに実見され実測されていたものであろう。昭和8~10年までに採集され、市役所に所蔵されたものである。

 飯塚歴史資料館の嶋田さんは、立岩と書かれた古い木箱に1点のみが収められていたとのこと、しかし、他に遺物はなく、もちろん、資料に何の記載もない。児島氏の『立岩』には清賀氏の資料にはどれも丁寧にラベルが貼ってあったと記されている。それに、清賀氏の資料は一括してずっと後に寄贈されており、まとめられている。嘉穂中学は嘉穂高校に、飯塚高女は嘉穂東高校にそれぞれ所蔵されている。児島氏個人蔵は資料館に寄贈されているようである。寄贈品は資料館でしっかりと把握されているはずで、一箱だけということはなかろう。残るは、市役所から教育委員会、資料館という流れの資料に落ち着くのではないか。

 現状では、下ノ方遺跡と市営運動場遺跡の可能性が高いと思われる。尖頭器の写真を見ていち早く答えてくれた杉原君は、多久型の槍先形尖頭器で一部に研磨痕があるのではと指摘した。宮崎の藤木君は多久型で納得、まだ、表面に残る土を黄褐色土で地点や層を知るヒントにはならないかという意見をもらった。

 森貞次郎氏は、昭和17年代に市営運動場で「薄いローム層の被覆」と記している。関東に学んだ森氏は当然、ローム層を知っていた。そこは、甘木山の奥に広がる低丘陵である。同じ山から遠賀川方向に広がる低丘陵が焼ノ正と下ノ方両遺跡で、両者は字名こそ違うが地形的には西に張り出した同じ地形である。おそらく、薄いロームが被覆していた可能性は大きい。

 結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。

 最後に、遺跡の資料を嘉穂地方史先史編の執筆時期に、所有者はどうなっていたのか。また、森論文と比較してみよう。

市営運動場(S8~9)   市役所から資料館 石剣 石戈 石棒

(森論文)        飯塚市役所蔵   薄いローム層の被覆し、中山博士が調査に当たられた遺物は、
飯塚市役所蔵

 
測候所内(S9頃)    飯塚市役所から資料館 石庖丁 石剣 石斧

(森論文)       飯塚市役所蔵    完形土器の大部分


測候所下(S9頃)    名和洋一郎、嘉穂高校 土器(前・中) 包含層

(森論文)       清賀義勇、嘉穂中学校 石庖丁 クリス形石剣 紡錘石 扁平片刃石斧 太形蛤刃斧投弾形土製品

                   

焼ノ正(S9~10)     嘉穂東、清賀義勇 児島隆人 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石 石鏃
         
(森論文)女学校遺蹟  清賀義勇 嘉穂中学校 嘉穂女学校 夥しい石庖丁を主として 石剣 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃 石斧 砥石 紡錘石 投弾形土製品 その他クリス形銅剣の鋳型


下ノ方(S9)      清賀義勇 嘉穂東 石庖丁 石剣 石戈 銅戈鋳型 砥石

(森)         飯塚市役所 嘉穂中学校 夥しい石庖丁と未製品 クリス形石剣 太形蛤刃石斧 扁平片刃石斧 砥石 抉入石剣 石鑿 石鎌


飯塚市潤野である調査が実施されている。深く掘りこまれたトレンチの壁面に明確に区分される層位が観察された。段丘面に見えた層は、上部が畑で失われていたが、黄(褐)色土層、薄い褐色土層、黄色土に礫を混在する層、以下、褐色土、青灰色砂層、褐色砂礫層と続く。薄い褐色土層が2万数千年前と判明した。とすれば、上部の黄色あるいは黄褐色土が1万年代となる。これがロームかレス層かはわからないそうだが、立岩の尖頭器に付着する層は、この黄(褐)色土層の可能性が高い。今まで、赤色層を狙って行動していたが、これは古すぎる層なのかもしれない。目指すは黄(褐)色土層、薄い褐色土層に決まった。飯塚市潤野をはじめ竜王山麓に広がる洪積世の台地や丘陵には、確かに層が存在する。また、立岩丘陵でも確認する意味は、深いであろう。

 森 貞次郎論文 「古期弥生式文化に於ける立岩文化期の意義」『古代文化』13-7昭和17は、やはりすばらしい。繰り返し読むたびに新たな発見をするのだ。私は先に「結論としては、石器類が大量に発見された下ノ方遺跡を候補としたい。尖頭器とはやや異なるが同一遺跡として、黄褐色土の中に多久型尖頭器と神子柴型石斧は含まれていたのではなかろうか、さらに、追求すべき重要性を持つ。ちなみに、岡崎氏の実測図にある、打製石器の(15)有柄石剣の未成品?は、何であるのかまことに興味深い。」と書いてしまった。岡崎先生の図面とその後に発表された論考掲載資料と何度も突き合せた結果、問題の石斧について場所を特定できなかった。 (1)蛤刃石斧、(2)問題の局部磨製石斧、(3)は棒状切刃石斧、(15)の打製と見られる有柄石剣の未成品?の4点である。多くは下ノ方で一部が市営運動場だった。

 ところが、昨夜(3/16)、なんとなく森論文を読み返していてハッとした。復刻版の375ページに石斧の項があり、「興味ある事は粘板岩製のC4等の石庖丁の出た立岩、女学校遺蹟に粘板岩或は黄白色粘板岩の扁平石斧、鑿形、抉入石斧が多かった事である。」と記されている。立岩の局部磨製石斧はサヌカイト製であり、刃先のガジリを見れば黒色でそれとわかる。しかし、全体は風化して黄白色あるいは黄灰色をしており、石材は容易にわからない。刃先のガジリは石材の見極めかもしれない。女学校遺蹟は立岩でも石斧類が多く出土したことで森氏は印象深かったようで、そのことが1つある。また、問題の局部磨製石斧は色調から黄白色に極めて近い。また、カジリから見られる色調は、粘板岩と同じ黒色である。当時、サヌカイト製品が弥生遺跡で知られていたかは疑問で、黒色系で薄く剥離する石材は粘板岩となる可能性が高い。もちろん、旧石器は知られていない時代である。

 以上の点からして、最終判断は女学校遺蹟、つまり、焼ノ正遺跡であり、多久型の槍先形尖頭器が採集された嘉穂東高校である。したがって、局部磨製石斧と多久型の槍先形尖頭器は伴うというのが結論である。

 

考古学40年「はじまりは雨」

2011-09-04 14:23:26 | Weblog
  13歳ではじめた考古学、気が付くと40年になる。芸能人なら40周年記念というところか、もちろん、リサイタルなんてものには縁がない。しかし、自分の中で何かが変化した。それは、両親の寿命を基本として逆算の人生を辿りはじめた、それほど長くはない。しかし、進む道だけははっきり見えている。後ろを振り返るとスタートラインがかすかに見える。中学1年の冬「石器時代の日本」芹沢長介著を天神の本屋で購入した。2年の秋になり、秋雨の中蒲田池で初めて石器を拾った。つまり、はじまりは雨である。
 
 膨らむ夢と現実
 憧れは大学の先生、「日本の考古学」の著者紹介の欄に連なる著名な先生方、それぞれの紹介の中に出身大学が記されている。中学生の身には「へぇ、この大学に入ると大学の先生になれるのか」との思いが先走る。やがて思いは風船のようにふくらむのだ。「おまえ、勉強しないとそんな大学に行けるはずはない」と何度もくり返す両親の声は、両耳を素通りしていく。「まずは高校に受かることだろう」という現実の声に振り向きもせずひたすら物集めをくり返した。現実が見えない。というか、高校受験から逃避していたと言ったほうがピッタリくる。

 現実は、成績の下降に過ぎなかった。というのも、自分の中で高校という過程が抜け落ちていたのだ。膨らむ夢は現実をおびてきて、いつしか、自分の将来の位置が決定したように感じ始めていた。

 来る日も来る日も、学校から帰ると友人たちと石器拾いに出かける。当然、誰もいない場合は1人で向かうことになる。そんな時、一番多く通ったのが蒲田池で、山々に囲まれた静かな場所、周囲から見られることはほとんどない。そんな環境に加え、周囲の山々に赤松の大木が何本も自生していて、他の池とは雰囲気が違っていた。それに、近くのパルプ工場から香ってくるチップの、なんとも言えない心地よい臭いが好きだった。夕暮れに1人水面に映る周囲の木々の姿を追う。そろそろ帰る時間が近づく。前回より随分と低くなった水面に並ぶ小さな波紋、小魚の仕業であろうか、秋も深まりさすがに夕暮れともなると底冷えが体を包む。依然として米松であろうか、心地よい香りが漂っている。

 石器拾いは、夕日が赤く染まり、自分の影が細長く伸び始めると限界である。さすがの黒曜石の漆黒色も、何やら赤味をおびて周囲の赤土色に重なる。ビニール袋に入った数点の獲物が、ズボンを少し膨らませている。これが、何もなくても満足感だけはあるのだ。受験勉強から逃げおうせた解放感であろう。所詮一時でも現実から逃れた気持ちはなんとも言えない。清々しさと表現すれば何か変であろうか。

 薄暗くなり始めた帰り道を、自転車のスピードを上げながら急ぐ。池を離れ和田の村中を通り、神社脇の購買店あたりから現実が頭をもたげる。帰宅すれば何やらかにやらとうるさく言われることは毎度のこと。しかし、いわれるほどに反発するのが通常か。


 学校で担任教師がおいでおいでをすると、「お前ちょっと座れ」と1対1の面談。「お前勉強しようとや」「いえ、しよりません。」「なんや、お前は進みたい道があろうが、それには最初に高校受験があるとぜ」「お前途中が抜けとろうが」こんな会話の繰り返し、3年になり担任がかわっても引継ぎがなされていたのか、相変わらず同じことをいわれる。

 私はそういわれると、逆に走り出す。ますます、表採にのめり込む始末。その分野においては、オンリーワンとなる。それが心地よく思考はマヒしてしまう。両親と自分との間に考えの違いが幅広い溝となって横たわる。「勉強せずとも成績が良ければ」という考えから、わざとせずにその考えを押し通せばカッコいいかな。そんな考えが頭を支配する。
 
 池畔で1人採集しながら、将来の姿を想像する。秋風・松の香り・野鳥のさえずり環境は整っている。緩やかに傾斜した赤土まじりの土が乾燥して、細かな粉になって、私の足跡を残す。チラリとのぞく黒曜石の角に思わず駆け寄り、周囲を探す。意外と何個か固まっている場合がある。そのうち、最初の獲物がわからなくなってしまったりして、最初に見つけた場所にもどって同じ視線で眺める。「あった」ホッとしてそれをポケットに入れる。

 将来の姿が浮かぶ、まるで白日夢である。そんな心地よさから抜け出せるはずもない。脳の中に麻薬のような物質ができるのだろう。勉強には決してそんな面はないのだ。どちらを優先するか自ずとわかる。つまり、楽で面白い方へと流れていくのだ。当然であろう。鉄の心は持ってはいない。
 
 「楽あれば苦あり」昔の人たちはたいしたものだ。その通りの結果になった。父母は随分迷惑をかけた。それでもなんとか高校に通い、再び石器拾いの日々を送る。親はすでにあきらめていた。私の現実逃避は続いた。

 大学に引っかかった。なんとか専門分野に入れ、これから思う存分考古学をやれる。と思ったが、2年間の教養課程だと、専門分野はしばらくさようならだな。それより、考古学研究会に入部した。体格のせいか、色々体育会系に誘われたが断り続け、やっと叩いた研究会の入り口のドア。思い切って「入部したいのですが」と丁寧に物申す。

 その頃、私は委託寮という名前は寮だが、一見すると養鶏場の鶏舎に見えた。入寮翌日から正座のしごきが始まる。挨拶の仕方から清掃、ふろ掃除、電話のとり方から放送での呼び出し。悪夢だ。2週間続いた。そこで学んだものは、体育会系からの入部の誘いには、丁寧かつ真剣に対応してお断りするよう。間違っても部室や道場に行かないように。

 その教えから、考古学研究会入部に際しても、つい、「自分は」という軍隊言葉とでも言おうか、その口調が抜けなかった。「うちはそのような言葉遣いはいらないから、普通に話してくれればいいよ」「それに、学問を行うにあたって先輩後輩はないから」あたりを見回すと、黒ヘルに機動隊からうばったというカシの長い警棒があった。

「なんやここは」??? 部室の隅に新聞かな?「プロレタリア考古」・・・日本考古学協会で会長を缶詰にした協会解体がどうのこうの、おや、この写真にのっている会長は、たしか、すごい時代があったようだ。
昭和57年3月大学を卒業した。卒論は「東北地方南部の古墳について」評価は良、指導教授はこう言った。「ようやく、問題点が出てきたようだね、ところで、就職はどうするの、考古学の道に進むのかね」「いえ、就職は決まっていますので、二度と考古学の方にはもどらないでしょう。」そんな会話をしたように覚えている。
 私が古墳を選んだ理由とは、とんでもないものであった。大学の1・2年次まで旧石器研究の道を望んでいた。しかし、「英語と第二外国語に堪能でないと将来はない。」との話が私を悩ませた。私がお世話になっていた県教委の方は、ひたすら縄文研究を勧めてくれた。私は、元来、天邪鬼らしい。もっとも、その方の推薦で東大の赤門をくぐり、旧石器の大家にお会いした。旧石器で卒論を書くと豪語していたからだ。3年から旧石器の道を断念したとは、さすがに言えなかったのだ。

一時期、地域を限定して縄文の遺跡群の動態を明らかにしたいと考え、山形県の高畠を中心とした地域を考えたことがある。しかし、当時は遺跡が点在するがいずれも採集資料であった。次に、縄文草創期のことを考えたが、いずれも、土器型式が引っかかった。当時、縄文土器研究は果てしないとも思える型式細分を続け、それがいつまで続くのかという藤森の問いに、「そこに山がある限り」ではないが、佐原の回答がある。もちろん、集落等をとりあげ縄文社会の研究に進む研究も多かったが、主流は型式細分であった気がする。
 
 しかし、考古学上何をするにも、型式を抜きにした方法は考えられなかった。遺構の切り合いと炉石の抜き取り例から、各住居の同時期数を明確にして行く方法など、土器型式に頼らないやり方も試みられたが、現実には、土器型式の順序と齟齬をきたしたらしい。そのように、型式とは、必要不可欠であった。

以上は、とりとめもなく過去の回想録、考古少年回顧録のダイジェスト版であった。しかし、10月2日の日曜日、私は何十年ぶりに蒲田池の鬼ヶ鼻に立つことができた。「はじまりは雨」のあの蒲田池である。すっかり様子は変わってしまったが、初心に帰ることができた。もちろん自転車で行ったのである。

 そこで思ったことは、このブログを回顧録にしてはいけない。前に進むべく今からの体験日記をつづることにしよう。蒲田池の雰囲気が、懐かしさが、私を再びフィールドに戻してくれた。・・・感謝

 何十年ぶりの鬼ヶ鼻は様相が一変していた。ようやく見えている所は、土が残っておらずすべて軟らかな挟炭層ばかりになっていた。長年に渡るさざ波はすっかり土を取り去り、基盤層をむき出しにしていたのだ。昔の小さな松は私の背丈以上となり、鬼ケ鼻の鼻筋にそってわずかに土層が残っているだけで、先端部は植物もなく、岩盤がむき出している。黒曜石が拾えない。土さえ残っていれば、どこかに残っているのだが、おそらく、多くの剥片が池の深みに流れ落ちていったのだろう。

 それでも、石鏃の脚部片と黒曜石のチップを拾った。それも、メガネをかけかがみこんでやっと拾ったのだ。何度も石炭を拾っては棄て、木の葉を黒曜石に間違える始末、情けない。これほど力が衰えているとは思わなかった。そんな悔み事を呟きながら、水鳥の糞の間を歩き回ると、なんと、土器片を発見した。蒲田池で過去に手に入れた土器片は3点、2点は時期不明、もう1点は条痕文土器である。今回ものは表面の磨滅が著しく型式は不明だが、早期以前の臭いがする。ここは、草創期のマイクロリスが拾えるところで、なんとか、土器がほしい。できれば、隆起線文か多縄文、無理かな、しかし、早期の撚糸文や縄文につながるのだが。なんて一人で考えながら、しばらく地面とにらめっこ。すると、1点の土器片を発見、一瞬、これは古いぞ、しかし、表面はすり減り何もわからない。しかし、口縁部片らしきもので、細かい波状口縁を示すようで、表面にウッスラと押捺したような縄目が・・・うーん、見えるような。また、条痕文のようなラインも見えるような、なんとも分からない。色調は灰褐色、胎土は、一定の細かな石英や長石といった粒が多く、しかも、一定量が全体に見受けられる。混和材が多く、しかも丁寧にこねることにより全体に混和材が行きわたったようである。

 続いて、お決まりの久山町高橋池に向かう。1年ぶりに池畔に立つと、懐かしいヒッツキボウが一面にたわわに実るていうのか、ふと笑ってしまった。よく、この小さな栗のイガのようなものを手元に集めては、誰かの服やズボンに投げつけていた。今は投げつける仲間はいないが、とにかく、下を向いて拾い始めた。相変わらずの珪化木の砂漠のようだ。その間に、メノウや水晶などが落ちている。その時、後ろからヘルメットをかぶりヤッケを着用した人物が、1本のスティックをもって近づいてくる。散歩かな、釣り人には釣り人には見えないが、なんて思っていると、「石器か何かをお探しですか」と声をかけられた。「えぇ」、考古学をやり始めて40年、かつてこのような質問を受けたことは皆無である。「ここが遺跡だとご存知ですか」と尋ねてみた。これも初めてである。まず「はい」という返事はないだろうと思っていると、なんとイエスである。この人はひょっとして、福岡考古などで名前を見る松尾さんかなと思って、しばらく会話をしていると、私の名前はご存じのようであった。しばらく、旧石器の採集話に花が咲いた。遅れてしまったが名前を尋ねるとやはり松尾さんだった。

特に、久山の首羅山遺跡の件が話題になった。というのも、中学生のころ高橋池の奥のあたりで、鉄滓か銅滓の山を踏みしめた記憶があった。松尾さんは、そのあたりの情報が詳しく、近代まで採掘していたらしい。問題は、上限である。高橋池奥の山が古代や中世から鉱山としての機能を果たしているとすれば、工人集団が存在し、それに関与するあらゆる人々の居住が考慮されよう。首羅山が博多商人との関係云々といわれるそうだが、足元のハイテク産業との関連、当然、古ければ渡来人の関与も考えられる。例えば英彦山と山麓の金属鋳造関連遺跡、寺院、香春岳など要因は様々、添田の庄原遺跡は、青銅のヤリガンナ鋳型に注目が集まったが、鉄斧等の鋳造がすごい。もちろん、無文系土器の出土もありなかなかいい感じである。最近、土器を見直すと前期から中期初頭である。かなり早い時期に金属の鋳造がなされたなと感じている。ぜひ、再整理作業をお願いしたい。

話しを戻すと、基本として金属鋳造にかかわる集団が存在し、それと、首羅山の山岳宗教との関連がどうかという話である。松尾さんは、銅滓を採集した畑で須恵器を拾ったそうだ。また、首羅山の麓からタタラ関連の遺構も検出されたという。高橋池から東を見ると首羅山の山頂が見える。

 2人は30~40分ほど立ち話をし結局何も拾わずに別れた。40年に1回の確率で採集者と出会うわけだから、次は、93歳の80週年記念に会うのか。うーん。

自転車で走り回る。新大間池を左に見て、あの池畔から汲田式甕棺がいくつか出土したのか、あの土取りされた丘陵は、高校の2年までは存在した。前方後円墳のイメージから中村君を連れて中学の頃見に行ったことがある。その時、ハゼの木にふれかぶれたことを覚えている。同時に、前方後円墳ではないことを痛感した。しかし、水が引くと周囲で須恵器が拾えた。その後、ことさらに、この場所を訪れることはなかった。

 高校になりあいもかわらず自転車で通っていた時、この丘陵に重機の道を発見した。早速、削られた道を登ると、弥生前期の土器の欠片を拾った。今でも持っているが、壺の肩部と甕の口縁で、前者は一段高くなった肩部に無軸の羽状文が施してある。板付Ⅱ式の壺、そして、甕は如意形口縁のもので両者に矛盾はない。しかし、重機の道は、土取りの前触れ、やがて、丘はすべてなくなりかけた。当時、粕屋町に担当者はいない。当時、須惠町の藤口さんに連絡し現地を見てもらうが、行政地が違う。そして、全て終了。途中で高校の考古学クラブで少し掘った。岡崎先生の娘さんの靖子氏も一緒だった。

 やがて、丘陵はなくなった。土坑や竪穴住居、土器棺もあった。だが、何より、博多女子高のグランドとなった、とんでもない遺跡の隣接地である。何とも口惜しい。古大間池の破壊が脳裏をよぎる。今でも鮮明に覚えている重機を風が過ぎ、鳴き声をあげる。これを読む人、読み続ける人には解るだろうか、遺跡が潰されるとき、置き去りにされている重機が後悔の念を込めて「うおーん」と泣き声を上げる。機械は先祖の営みの痕跡を壊したくはない。しかし、子孫は何も感じることなく破壊する。鳴き声が聞こえない。機械は泣く。人は何も感じない。何の恐れもなく、平気で「しらんかった」と行政職員が言い放つ。今でも、文化財は内部の敵らしい。機械の泣き声を耳にしない、耳にできない大多数の人間である。私は少数派、換言すれば診療内科の患者にすぎない。病院通いも5年目になる。

岡崎靖子さんは、元気かな。高校卒業以来あってはいない。当然、苗字は変わって、佐賀の陶磁器博物館の学芸員とご結婚されたそうである。岡崎先生は私が原田遺跡を発掘調査し、その年の暮れに開催した文化財展に、ご夫婦でお越しくださった。ご不自由なお体で階段を登られ、展示品の一つ一つを丁寧にご覧いただいた。正直うれしかった、高校生1年の頃研究室にお邪魔し、大学4年の考古学協会の時には、階段を降りられる先生を追いかけて名刺を頂戴した。大学の中庭で、岡崎・乙益・森の3巨人が椅子に腰をおろされご歓談されていた。その記憶は今でも鮮明である。その写真が森貞次郎先生の記念論集か何かに使われていた。その写真と同じ光景が、脳裏に焼き付いている。

 新大間池に突き出た丘陵はすっかり削られてしまい、池の周囲にかろうじて姿を残すが、そこから近年甕棺墓が発掘調査され、報告書が刊行されている。私は何十年ぶりに訪れ調査の終わった発掘地を注意深く歩き回っていた。赤土の中に石英片が多く含まれているからである。もちろん、かなり離れた丘陵から以前石英製の石器かと思われる剥片を拾っていた。自然礫と後にかったが、どうにもあきらめられずに赤土の断面を観察していた。しかし、露出する礫に人工的な加工は見られなかった。それよりかなり深く重機で削られた断面に、過去に大きな穴でもあいていたのかといった跡が見えた。赤土層が深くえぐられ、その上に礫層がのっていた。「隕石孔なら」なんて想像しながら帰ったが、調査された甕棺が汲田式と古式のもので、嘉穂地域の彼岸原にあるスダレ遺跡で出土した汲田式は、ひよっとして粕屋から八木山を越えて入ってきた可能性が出てきた。かつては、穂波川沿いに上穂波地域から入ってきたと考えたが、八木山越えを考える必要があろう。

 11月4日(金)今日は昼から代休をとり、九州国立博物館に向かった。途中、当然ながら旧筑穂町のトリバミ池の横を通過する。この池は嘉穂地方史の先史編で縄文遺跡としてとりあげられ、曾畑式土器と石匙、石鏃、スクレーパーが採集されている。ここは、開析谷の最奥に位置していて縄文以前の遺跡立地としては文句のないほどいい場所である。娘の大学への送迎もあって週に1度は通るのだが、まぁここ何年も水が引いたところを見たことはない。ところが、なんとこの日は水がすっからかんになっていた。一気に血が逆流した。すぐにでも車を止めて採集に向かうところをぐっと我慢、急いては事をなんとかで「大人になったなぁ俺も」なんて思いつつ、実は大宰府に急いでいた。

 心はむしろ九国博の「旧石器展示」であり、福井洞窟15層出土石器実見にあった。前段に杉原君に立岩の昭和20年代採集遺物にサヌカイト製の尖頭器があることを確認、嶋田さんに告げるとすでに気づかれていたようで、先に発見された局部磨製石斧と何らかの関係がありそうだと意見は一致した。実は、局部磨製石斧については、立岩とだけあって出土地点が不明なことから紛れ込んだとも考えられ、縄文以前の遺物が拾えない丘陵から採集されたとは正直考えられなかった。しかし、尖頭器の下にはラベルがあり詳細な地点がわかりそうで、尖頭器と局部磨製石斧がセットにでもなればすごいぞと、電話連絡していた。その中で、福井15層が話題になり、是非、見たほうがいいとアドバイスを受け、そのことが私を急がせていた。

 話は旧石器展からはじめるが、見た瞬間「大きい、やはり、ハンドアックスでいいんじゃないか」風化面は茶色に変色している。黒色から白色が混じり青灰色、このあたりが縄文後晩期、早期あたりは白色が強くなり若干茶色がのってくる。さらに、旧石器になると和白の三稜尖頭器のように茶色が強くなる。しかし、福井15層のスクレーパもしくはハンドアックスがかは知らないが、茶色に変色している。いかにも古そうで、あんな感じの色調はそうそう見れない。

 次に目についたのが尖頭器、「えっ、この尖頭器は伴出するのが問題視されたものか、剥離がよく見えないが整っているようである。おおふりの尖頭器、断面をのぞくとけっこう厚い、「ひょっとしてハンドアックスの先端かな」なんて勝手に想像し、下に並んだ厚手の剥片を見る。やはり厚みがあって大きい、しかし、色調がうすい。何と表現したらいいのか、なんだか時期が違うような感じがした。福井洞窟を見学した際にトレンチが残されているが、あの狭いスペースでよく、あれだけの成果がと感心することしきり、20年以上前かな、それにしても並べてみると色の違いが気になりましたね。

 次に気になったのが沈目遺跡の鋸歯状石器・・・・何だか韓国のハンドアックスを思い出しましたね。ひょっとしてハンドアックスのつくりかけで右側上部が破損したのか、中途で廃棄したかも、そんなのありで、福井15層のものも何だかそんな感じで製品なのか、剥片2点も出土していてその可能性は否定できません。観察すると、不定型な大型の剥片を整形し、特に左側縁の上部に調整剥離を施している。問題は、その上部に突起状に残る部分がそのまま残っていて使用しにくい感じがしました。未成品じゃないかなぁ
 
 私の心は、旧石器展に触発されすでにトリバミ池に向かっていた。何しろ雨が降りそうで異様に暖かい。この期を逃すといつ池にはいれるのかわからない。旧石器を採集できるのはこの池と密かに自信を持っていた。何せ刺突文土器までが確認されている地域である。九国博をあとに急いで池に向かう。池につくと何と自動車が池の真ん中に捨ててあった。これが筑豊か・・・死体・・・なさそう。急いで池畔を歩く、狙うは奥の平たん地、しかし、何も拾えない。まったくのスカである。このままでは帰れない。骨片は拾ったが、すぐに捨てる。何にもないし、くもり空はいつ雨になるのか、粘りに粘ったが石屑の一つも拾えない。「帰るか。飲み事もあるし、福井15層は見たし」酒飲みムードに切り替える。

 帰りに、丘陵の断面に入り込む変な層を確認、それを見ながら歩いていると須恵器が斜面に貼りついている。「えぇ須恵器、しかも、奈良かい」と自分に突っ込んだ。結構斜面に落ちているではないか、ここは、大宰府官道の近く、これ結構いけるかもとの思いから、拾ってしまいました。日曜に西谷先生の講演があるが、飯塚に持っていて奈良の遺跡ポイントとして確認してもらおう。地図を確認するとその位置から北上すると、大分の鶯塚(古墳)から大分廃寺に向かう事になるが、道が必ずしも平地を通行するとは限らない。山際の谷筋を通ることも十分考えられる。

 そうそう、奈良の遺物が急斜面に貼りつくように点在する所は、幅10mくらい、高さ2m以上の落ち込みが観察できる。斜行する第三紀層に掘り込まれ、埋土は霜降り状で赤土と灰白色の粘質土が詰まっていて1色のみ、直接埋土に須恵器が含まれている状況は発見できなかった。何の落ち込みかわからないが調査の必要はあろう。案外、官道の切通しの断面かもね。ちょっと違うかな。

久々に自転車に乗り遺物採集に、車に自転車をのせてとりあえずハローデーにビン・缶・ペットボトルを分別して捨ててから、ロト6を購入し中に入って昼食のパンと水を買ってから旧穂波公民館に自転車を置いてからと思うと、何かのイベントがあっている。「これはまずい」急きょ王塚古墳館へ、そこから自転車で大分廃寺から鶯塚へ、鶯塚は古墳ではなさそうで独立丘の岩盤むき出しタイプと考えられる。形状は円墳だが、地表に露出する岩は河川流路にできるような凹凸のあるもので、雨水や風化も原因か、天明年間の亀井南明?(めいの字がわからない)と思われる人物の碑文あり。一里塚かな、とにかく塚には間違いないようである。人工的な整形も見られ信仰の対象にもなっている。

 そこから、トリバミ池に向かう。池はまだ水が引いているので、是非、見てほしいのは堤防の奥に接する丘陵断面にきれいに落ち込みが観察される。米山越えの道から見ると、第三紀層にきれいに掘り込まれた大きな落ち込みが見える。色調はピンク、赤土と白い土が混じっているのだろう。土色は近くで見ても1色、遺物はない。休憩場がありパンを食べ再び戻るが、古代官道に関連する何らかの遺跡があるのか興味は尽きない。灰釉陶器の道ではないが、点をつなぎ合わせていくことが重要であろう。

 
 11/16 また、トリバミ池に行く。「おまはんもすっきやのー」と言われそうだが、どうにも落ち込みが気になりデジカメ片手に日が暮れかかった池に到着。さすがに、誰もいない。相変わらず乗用車が不気味に出迎えてくれるが、釣り人がいないことは拾いやにはとてもいい環境だ。すでに、日陰になっているが落ち込みは見える。先ずは遠景を撮影、続いて近景である。やはり、幅は広い広すぎる。土は見えるが土器は見えない。つまり、薄暗くなっている。それでも、落ち込みの層を観察している私は、「ばかねー」といわれる対象か、この年になって改めて感じる面白さ、なのに、老眼と抜け毛は加速化している。

 土層は最初1色かと思いきや、堆積した様子が見えてきた。これが数人で観察すると1回でわかることが、1人ではおそくなる。それでも1人でやるのが拾いやの哲学か、遍路が同行2人なら我々は孤独なのかもしれない。

 土層があるようで、最下部に角礫、それが周囲から底部と続く。その上に数枚の土層がありそうである。

 「うーん」と池畔でうなる。人工物は1点もなし。・・・埋もれ谷・・・写真をもってみんなと相談してみよう。

11/19今にも雨が降りそうな中、穂波公民館前に駐車していつもの自転車に乗り、3時30分予約の歯医者の時間までウロウロ。歯医者にかよい1年3カ月になるが、実に長い治療である。お金もかかるが、歯を削るのがなんとも辛いものである。自然と汗がにじんでくるのをじっと我慢する。したがって、なるべく平地を選んで走りながら飯塚のはずれにある笠置山の近くまで行ってから、穂波の公民館まで帰り、汗をふいてから歯医者に向かった。

 11/20朝は曇っていたが、10時くらいから晴れてきたので本日は、須惠町の資料館に行くことにした。篠栗のオアシスに車を置いてから出発する。いつものように川沿いに下り、左折して勢門小学校の横を通って乙犬へ、それから下って201号線に出る。これは、中学生からのコースで門松で加与丁池コースか古大間池須惠コースに分かれる。もちろん、今日は須惠に向かうのだが自転車で行くのは実に34年ぶりであろう、登り道を何度か間違えてしまった。宗教施設がやけに大きいのだが、もちろん昔はなかった。ようやく、土壁の古い家置が並ぶ旧道を見つけた。田原という表札が続くが、眼医者の田原家があった場所で、今は土壁に落書きがされ以前の面影はなくなりつつある。いよいよ登り坂だが、きついのなんのって途中で降りようかどうしようか、考えながらようやく赤土の切通しが見えた。確実に覚えていたが、この先に資料館がある。気は軽く足は重い、青息吐息で到着した。

 この資料館は、九州歴史資料館とあまり変わらない古い建物で、町レベルで資料館が建設された県内でも最初の例と思う。確か建設当時、建物は出来たが中に入れる資料がないとして、テレビで放映された記憶がある。その後、すぐに集められたようだが、なかなか、厳しい状況下で立てられたことがわかる。その後、資料が増えることで建て増しを行って今の形がある。その後、蒸気機関車や西鉄電車が加わった。そういえば、古大間池発掘の竪穴住居跡をモデルに竪穴住居跡があったなぁー。古大間池発掘といえば、遺跡の重要部分が削り取られたのちに、その上方斜面で発見された一群である。今なら工事の前に連絡してすべて発掘できたのであろうが、悔しさがよみがえる。

 久々に中に入った。無料の資料館だが、100円くらいは徴収してもいいと思いますね。とにかく、考古資料を中心に展示を見ると、まず、細石器と縄文石器があった。発掘資料であろう。その横に弥生土器が並び、旅石で出土した前期の甕棺の口縁部がある。高校くらいの時に旅石で甕棺が出た話は、須惠町資料館が行った歴史散策で覚えていた。それは、岳城から下り守母神社で休憩、説明を聞きながら1本の木になんとかマイマイという珍しいカタツムリの一種が住みついていた。それから近くの古墳群を見学して旅石に到着、神功皇后云々を聞くころには午後の3時くらいになっていた。私は自転車を須惠の資料館に置いていたので、これから歩いて戻ると・・・そこで、解散となり車で資料館まで乗せて行ってもらう。その時の説明が、藤口悦子さんと高山さんであった。懐かしい話であるが集合が岳城の現地集合だったのはすごい。今なら、マイクロバスを準備して、昼食は弁当か食事処を予約、必ず土産物屋に案内して、所定の解散場所までお見送り、本当に考古学や郷土史の好きな人間は何人なのか、「歩けよ」といいたくなる。どこまで、過剰サービスは続くのか、それが文化財担当者の生きる道なのか、はなはだ疑問だ。資料館に到着したあと、「いつでも来ていいよ」とかなんとか言われた覚えがある。有頂天になり愛車のブリジストン「ユーラシア」をこいで自宅に帰った。

 それにしても、岳城から続く丘陵は粕屋町へと続くが、ナイフ形石器から細石器まで、さらに、縄文と連続的な古式の遺跡が点在している。昔から、知られていることだが多々良川を挟んだ両側の丘陵に点在し、下流域へと広がる。この多々良川流域は、石器採集の格好のフィールドである。

 11/24 体中に不明の湿疹ができている。両足から腰部、腹部へと広がっていて、かゆみはそれほどでないから、ほったらかしにしてもその内なおるか、なんて考えていたが、一向におさまる様子はない。1年ほど前左足のすねに内出血性の発疹ができて、皮膚科に行くと、「原因不明で治らない」といわれ、ステロイドである程度おさまったが、治らないのであればそのままでいいかと、1年以上経過、患部は打ち身のように紫色になったが、そのままにしていた。そんな所に、体中になんとも知れない湿疹が、そこで、再び皮膚科に行く。
 そこで、先生は「これはひどくなっている。幹部はすでに別物になっている。これが足全体に広がっている。紫斑部と両足の湿疹、体の湿疹はすべて別物で、とにかく塗り薬を出します。」
 歯医者、内科と通っているが、さらに、皮膚科が加わる。病院通いでお金が飛んでいく。ついでに、健康も飛んでいく。
 
11/26 飯塚歴史資料館に電話すれども、本日は誰も資料館にいないとのこと。いつになったら嘉穂東高所蔵の資料にお目にかかれるのか、目前にあらわれたチャンスだが、なかなか身近で見ることができない。昭和27年代に立岩丘陵で採集された遺物、弥生の石器が中心であるがその中に、サヌカイトの尖頭器を見つけている。局部磨製石斧が以前に発見され、同じ材質の尖頭器が伴えば・・・神子柴か、想いだけはふくらむ。
 そもそも、嘉穂地域で旧石器を追いかけて何年になるだろう。縄文の刺突文土器までは追いついた。また、細石刃が桂川町で確認されつつある。また、穂波町出土の尖頭器に縄文晩期と記されているが、もっと古い石器に見える。もう一点、気になるのが、飯塚歴史資料館に昔から展示されている土器片で、鯰田の川床から採集された中に、非常に薄手、口縁に刻目、外面には押圧縄文と沈線文が繰り返される怪しげな土器がある。私的には多縄文を意識しているが、これもルーペで観察する必要がある。

12月も7日になった。早いものである。立岩丘陵の尖頭器は昭和28年採集で、まだ、土がついている。鉄剣型石剣と書かれている古いラベルには、採集場所の記入がみられる。おそらく、万年筆かペン書きであろう、長い歳月の間に薄くなりにじんでいる。場所が判明、再び岡崎・森・児島各大先生の文献を追う。必要なら、名和洋一郎さんの日記を読むべきかも知れない。場所は局部磨製石斧(サヌカイト)と尖頭器(サヌカイト)が一致しそうな気配がする。
 一方、土器は古くから考えられている曾畑式かもしれない。というのも、近似した土器は宮崎や熊本といった九州の南半から発見されており、北部九州では見られないようである。一気に自信喪失。万に一つチャンスがあればそれでいいのだ。 
 

足元の資料を見直すべきだ - 第一次接近遭遇 旧石器 -

2011-02-11 00:00:53 | Weblog
いやいやいや、ついに、念願の旧石器時代突入ですかな。・・・まだ早い。
 いよいよ、嘉穂盆地の中に旧石器の片鱗が見えて来ました。一ヶ所確認できると芋づる式にというのが、考古学の世界、岩宿発見以降の状況がまさに示してくれてます。
 これまでもありました。「細石刃のようなものがありました。しかし、発掘途中でどこかに行きました。」・・・何、石器がどこかに歩いていくのか、あん。
 
 私自身が、見学に行った発掘現場で確認した黒曜石のものも、細石刃に間違いないと思いましたが、後日、ビニール袋に入れていたが風でとんで何処かに行った。・・・何
というわけで、すれ違いの連続だった、細石刃がようやく目の前に現れてくれたようです。

 2月11日の午前中、前日にメールで杉原君に細石刃の写真メールを送った返事がないかを、確認する。あった。しかし、問題点が浮上しているとのこと、実物を観察してもらうよう早急な対応を考えている。

 2月19日の土曜日、前日に長谷川さんに連絡をとり、日曜に王塚古墳館に向かうこととした。かつて、福岡旧石器研究会が田川郡香春町で開かれた際に、「遠賀川や穂波川上流域の小平野部を中心として、縄文時代の遺跡の立地からアプローチしていくと、標高80m付近から低い場所では縄文時代以降に居住の対象となったようである。したがって、旧石器時代となればそれより高い位置において存在する可能性があると考える。」と『嘉穂地域の地理的条件と先史文化―旧石器時代の遺跡を求めて―』という発表資料の中で、縄文時代の遺跡の立地から見た旧石器時代の遺跡の存在を予想したことがあったが、見事にはずしているようだ。

 発表資料中にも書いているが、標高80m以上の等高線で嘉穂盆地をたどると、ほとんど台地や丘陵は消えてしまう。こういう危険度を承知の上で、縄文早期前半期の刺突文土器や条痕文土器より高い位置として捉えてしまっているようだ。過去に書いたものを読み返すと恥ずかしいものである。

 とはいえ、肝心な細石刃関連資料の発見に努めなければならない。長谷川さんには、それ以外でも、「甕棺、玄武岩製石斧や輝緑凝灰岩製石庖丁の資料を見せて欲しい」と散々迷惑をかけっぱなしで申し訳ない。

 本日は、桂川町の古野遺跡周辺を散策する予定にしているが、自転車で行くつもりである。

 午後1時から2時間自転車に乗り、嘉穂から碓井の美術館、中学校から桂川の老松神社、古野遺跡あたりを見学(細石刃の出土地)し、筑穂の北古賀遺跡を左に見て、王塚装飾古墳館の脇から、桂川の土居、下碓井から遠賀川に出て、漆生用水の碑と地層の露頭を観察、再び遠賀川沿いに帰宅。
 古野遺跡の地点は、弥山からのびる丘陵が入り組んだ地形の中央付近を西郷川の小河川が流れ、狭い丘陵間から流れ出す西郷河が、二反田付近で標高60mの扇状地的な地形を見せる。しかし、基本的には、弥山からのびる舌状の低丘陵が開折され台地状を呈した上部に、扇状地の堆積があるのかもしれない。古野遺跡はそのような扇状地形の東端にあたり、その南側からやや広い開折谷が東にのびている。西側に隣接する二反田団地と同じ標高で、遺跡は同団地の下にのびているものと考えられる。
 
 古野遺跡を含むいくつかの遺跡は、台地上に北側にのびる地形上に位置していて先端には、丘陵の残存部と思われる独立丘陵が2箇所に見られる。

 地形的特長はつかめたが、明日はいよいよ、遺物類と対面する予定であり、中世が中心であるが、黒曜石が石鏃2点以外にも確認されており、図示されていないが、どのようなものか、大いに興味をそそる。

 2月も最後土日をむかえる。実は例の遺物類とはまだ対面していない。そのうち機会をみていくつもりにしている。楽しみは最後に・・・
 
 最近、気になるのが韓半島や楽浪系土器が内陸(遠賀川上流域)にどれほど入っているのかという点である。今までの資料を見る限り、影響を受けた土器の存在はあるように見える。立岩・土師・馬見という嘉穂盆地の三代拠点については、確実に増えるものと考える。

 3月も2週目にはいっている。いまだに桂川の資料は見ていない。そろそろ連絡しよう。

 東日本大震災に伴う巨大津波と原発事故、3万人に及ぶ死者や行方不明者、なんと恐ろしい光景だろう。連日の報道で被災地の現状や避難者の生活、特に、手が付けられない原発事故の様子など、先が見えない状況が続いている。

 考古学をやっていて何か出来ないものか、母は山形出身で当然親類や縁者は山形を中心にいて、連絡が取れた。それによれば内陸部は大丈夫なようであるが、宮城県庁に勤める従兄弟が1人、生きてがんばっていると信じている。

 それと、立正大学考古学研究会の先輩や後輩、考古学専攻の同期の連中など、特に、福島県に多くいた。大丈夫か心配である。

 仮に、復興支援で考古学関連の募集や要請があれば、役には立たないが協力させていただきたい。尤も、今はそのような状況ではないことは承知している。

 また、私が住んでいる場所でも、西山活断層の延長線が通っている可能性があり、そのあたりも地形観察から行いたいと考えている。また、西方沖地震の際に、被害が大きかった場所と被害のなかった場所があり、私邸近くでもそのような状況が見受けられた。何が違うの防災上からも何が原因か追求しなければならないだろう。

 旧石器観察は、もう少し後になるかもしれない。

 久々の更新である。梅雨から自転車乗りは、ほぼ停止状態で、梅雨が明けてしばらくすると真夏の猛暑と、腰砕けとなった。ここ、2日は朝30分ほど乗り回したが、仕事中に睡魔が襲う。なんと体力が落ちたのだろう。
 ところで、最近、古代史に少し興味を感じてしまい、嘉穂地方史の古代・中世編を眺めている。碓井封が観世音寺の寺領となるのが7世紀後半、その後、平安の末には開墾が進み領域が拡大している。明治の地籍図と照合すると東の境界が八王寺付近で納得、南は岡や小山の付近で現在の平山が相当する。問題は東境で大海とあるが、海ではなく大溝として把握されている。大溝をどう考えるか、碓井の字図を見ていると、鏡山先生が調査された結果に納得する。小さな水田が整然と並び、その一つ一つに字名が入っている。しかし、その東端に目をやると沖田というかなり広い範が1つの字名となっている。その南北に興味ある字名と地形が見受けられる。それらは、まるで大溝を連想させ、沖田とは当時湿地か沼が広がり水田には不向きであった。

嘉麻市に稲築という町名があった。伝承はこうてある。「神功皇后が三韓出兵からの帰路、立ち寄られたが、その際に稲を積み上げて座ってお休みいただいた。」つまり、稲積の城から来ているらしい。ちなみに、稲積城というのが日本書紀に登場するが所在は不明。ただし、大宰府が築城に関与しているという。筑紫のなかにあるのか。小字を探る稲築という地名発祥の神社の東に広がる地名は、興味をそそる。城山・矢櫃・初木(城?)・大城浦・城浦・カリマタ・辻・○堀などかなり広範囲に固まっている。中世山城の伝承はない。

 稲築は、稲積城あるいは稲津城と踏んでいるが、真実はもちろん踏査が必要である。踏査結果は冬になるでしょう。お楽しみに。

ついに、旧石器の尻尾をつかんだか。飯塚歴史資料館30周年記念展昨日で終了したが、立岩の調査研究・人物・成果など様々な点を振り返るとともに中山平次郎博士からの業績を展示、特に、昭和27年頃に採集された嘉穂東高校所蔵の遺物の中に、折れてはいるがサヌカイト製の尖頭器が含まれていた。立岩では戦前の採集物にサヌカイト製の局部磨製石斧が、近年報告されていた。しかし、立岩というだけで場所の特定が困難であったこと、縄文以前の遺物が未発見であったことから、疑問視していたことは間違いない。

 しかし、今回の尖頭器は出土地もラベルが貼ってありわかるものと考える。そうすると、局部磨製石斧と揃うことになれば神子柴のセットに近づくのか、また、河川出土の条痕文土器の見直しに加え、薄手の土器で押圧縄文的な1点を確認しており、ルーペ観察を行う予定にしている。少なくとも河川出土土器は縄文早期にさかのぼるものと確信している。

かつて、福岡旧石器研究会が筑豊で開催されたおり、筑豊の嘉穂地域を中心に縄文早期の刺突文土器や押型文土器の分布を基本として、前期、中期、後期と標高が低くなること、旧小石原の標高500m付近に旧石器の遺跡があることなどから、標高60~70m以上の丘陵や台地を中心に採集を続けたが、結局スカに終わった感じがあった。ところが、桂川町の古野遺跡が60mで細石刃らしきものが出土している。また、既に報告された立岩出土とされる神柴型の石斧は、出土地点が明確ではない点から個人的には他所の可能性もあるとして傍観していた。しかし、嘉穂東高校所蔵の昭和28年代に採集された遺物の中に、明らかにサヌカイト製の尖頭器を見て以来、考えは大きく変わった。つまり、尖頭器と石斧は伴う可能性が高いと考えられるからである。
 
 岡崎氏の戦前の論考「遠賀川上域の有紋彌生遺蹟地」の挿図(第3図)の1~17が立岩の採集資料であるが、(2)の扁平な石斧が問題の資料である。実測図が非常に小さいが寸法は一致しており左側面の稜線や右側面に残る剥離面、先端部が研磨されている様子や断面形状など、まず間違いないものと考えられる。

岡崎氏は、まず立岩の女学校遺跡を紹介している。名和洋一郎氏によって発見された当遺跡は、現在の嘉穂東高校の全域に及んだらしく、その中心は旧校舎付近と、当時削り取られた高さ3mの崖上に存在しており、岡崎先生たちはその上によじ登って調査したらしい。ここは、工事中やその後におびただしい石庖丁製品と土器片に多くの石器が出土したという。また、森貞次郎氏は、包含層の下から土器棺が出土した事を記してある。

そもそも、昭和8年に飯塚市営運動場が発見され、中山平次郎氏により調査が行われたが、その途中で、下ノ方遺跡が土取り工事の際に発見され、発見者の名和洋一郎氏とともに中山先生も未成品の採集を行っている。下ノ方遺跡は、当時、焼ノ正遺跡と呼ばれたが正しくは下ノ方として、森貞次郎氏の訂正がなされている。
 
 昭和9年から10年にかけ、下ノ方遺跡に隣接する焼ノ正では嘉穂高等女学校の建設が開始され、膨大な資料が得られた。当時゜遠賀川に張り出した緩やかな丘陵上にあって、当時の校舎中ほどから南東の土取り工事によって3mもの切通しとなった崖上に30㎝ほどの包含層が残された。名和・岡崎両氏がよじ登ったのはその崖上であったと思われる。

足元の資料を見直そう。(動向も踏まえて)

2010-10-27 07:52:17 | Weblog
 人気はないけど、続けます。
 
 30日から嘉麻市の美術館内にある碓井郷土館で、嘉麻市の考古遺物を中心に展示会を開催します。アミダ遺跡・鎌田原遺跡・原田遺跡・八王寺遺跡・沖出古墳・かって塚古墳・次郎太郎古墳・白門河床遺跡・東大寺文書レプリカ・宮ノ脇廃寺・益富城などの遺物を少しずつ展示しています。
 筑豊の考古関係も久々に展示というところでしょうか。最近、近代化遺産や炭鉱関連のものに隠れたような状況ですが、ぜひ、ご覧ください。11月28日までやっています。
 
 7/27 ようやく、回顧録を60ページにまとめ、中学編のスタイルで投稿しました。まぁ、採用はされないでしょうが、ブログ紹介は出来ます。
 10月29日に事務局から返事が届きました。「残念ながら」という選考結果のお知らせでした。結果を家族に知らせると、高校生の娘曰く「あれは小説じゃないよ」という有難いお言葉もいただきました。
 ようするに、中学時代の友人達に活字になった思い出をプレゼントしたいという、単純なもので、無料で掲載されるようなものがあればいいのですが。

 とりあえず、ブログに掲載した後に考えることとして、低迷中の「筑豊考古学新書」に掲載します。

 先日、添田町のメノウについてご教示いただいたSさんから、屏山山腹の沢で採集した、チャートの塊を見せてもらいました。茶色と薄いグリーン色が層になっているようなもので、角は摩滅していましたが、古生層が分布する山々に石灰岩とともに存在しているようです。現在、お借りしてルーペで観察してみようと、あれ、ルーペはどこにおいたかな。記憶がなくなる日々が増えています。
 嘉麻市西郷の竹生島古墳調査時に薄い緑色のチャートで作られた抉りの深い古式の石鏃が出土しましたが、原石は馬見・屏・古処山にかけての古生層に求められるかもしれません。

嘉麻市内の旧稲築町に遠賀川と山田川が合流するところから、川下に白門遺跡という、遠賀川の川底遺跡がある。ここは、よく土器が採集される場所で川底に散乱しているらしい。弥生前期初頭のどちらかと言えば夜臼式系統の小型壺(完形)や中期の土器片、後期末の西新式土器表面には、リアルな龍の絵画が付されている。古墳時代の須恵器や土師器、奈良時代であろうか把手付きの甕(完形)など、とても、河川に流れ込んだとは思えないものが拾える。
 この目で確認しないと分からないが、遺跡が川底に眠っているようで、しかも、各時代にわたる興味深い遺跡である。

 川底と言えば、飯塚市内がよく知られているが、白門あたりは、川底に散乱するが、飯塚になると川底から数メートルも埋もれた状態である。つまり、嘉穂盆地の北部と南部を考えるなら、特に低地などの平野部では、北部は浅くて南部は深くなることになる。白門から一本木堰、殿ヶ浦・目尾・鯰田と川底遺跡は続くが、だんだんと川底の深部に埋もれて行く。飯塚市役所でも数メートルの深部から弥生後期中頃の土器が出土していて、北部と南部では違った様相を見せている。

 これらが、徐々に埋もれたか一気に埋もれたかは探らねばならないが、少なくとも、古代までは居住地として利用されていたようである。

 11/15 本日、福大の西さんから手紙をいただきました。それは、長者の隈古墳の調査時に桃崎先生にお渡ししていた、例の扁平片刃石斧の件について調べられたレポートでした。武末先生から「半島製のものかもしれない」として写真のコピーをいただいて今たが、先の七隈史学会のポスターセッションで発表されたそうです。
 その内容に驚きましたが、縄文の後晩期に半島からもたらされた可能性がある石器とのこと、ひょつとして、硯の割れたものかと半信半疑で中学時代に拾ったものが、40年近く過ぎて、ようやく役に立ったかなと言う感じで、嬉しく思っています。
 
 11/20 私の恩師ともいえる大庭(井上)祐弘さんが永眠され、通夜の席でお別れをした。昭和59年4月16日に旧嘉穂町に文化財発掘のため就職、5月の連休明けから発掘調査に入った。全く不慣れな土地で榎町遺跡というとんでもなく難しい発掘調査にいきなりぶつかった。筑豊教育事務所に井上さんが赴任して2年目のことと記憶する。何も分からない私に、少し厳しく、細かく、丁寧に指導していただいた。当然、田川に自分の現場を持っていらしたので、その合間を抜けての指導・助、ある時は、自ら陣頭指揮をされて、遅れがちな現場を進めていただいた。それから、27年のお付き合いになる。
 井上さんとの関係は、「考古少年回顧録の発掘人生」に書き込んでいたが、こんなに早くお別れするとは夢にも思ってなかった。残念で仕方がない。ちょうど2年前くらいであろうか、筑豊の文化財担当者が集まり藤田先生や井上さんにもお越しいただいて酒盛りをやった。井上さんは、課長時代に進行中の九州歴史資料館移転の基礎を築いた。その日は、井上さんがいつになく話の主役をつとろられ、平塚川添遺跡から九州歴史資料館建設までのいきさつを県知事との絡みも含めて話を続けられた。藤田先生はじめ我々は、聞き役に回っていた。
 帰り際に、私に「お前さんの所に必ず行くから、近いうちに飲もうや」と2,3度繰返された。「ぜひ、飲みましょう。何人かに声かけしておきます。」と答えた。いつもの笑顔が見れた。それがお会いした最後であった。

 先日、飯塚歴史資料館を久しぶりに訪れた。嘉穂地域の獅子頭を展示した企画展で、嘉麻市桑野の高木神社に奉納されている獅子頭が展示してあるので見に行ったわけである。一同にならべると色々な頭があるものだと驚くと同時に、獅子頭の様式の変遷が分かると面白いな、なんて勝手に思いながら、樋口さんの案内を受けていた。ぐるりと回りながら、石庖丁の展示ケースに目がいった。ちょうど立岩の見製品等を見たい心境もあって、ケースをのぞくと、中山平次郎先生の報告に掲載されている、第一行程段位の資料を確認して興奮してしまった。70年以上前のものであるが、鮮やかな小豆飴色を手している。輝緑凝灰岩はなぜ色あせないのだろう、2000年前とほとんど同じ状態と思われ、頁岩質砂岩の風化に比べ変化のなさが、素材の特徴としてあって、機能に何かしらプラスされているのかと勝手に想像しながら、樋口さんと石庖丁の話をしながら、全体を見て回った次第である。

 12月5日 天気がよすぎて、ついフラット遠賀川の白門遺跡(稲築)に行ってみた。転倒堰のしたあたりはまだ水があって近寄れないが、その下流には川底が広く現れていた。チャンスとばかりに川床に下りてみると、大まかにこぶし大からやや小さい礫が一面に敷き詰められているような部分と砂や小礫が広がる部分があり、後者が前者より高い位置にあった。つまり、前者は古い川床で新たに上流から運ばれた後者がそれを覆い隠すように積もっていた。早速、得意の表面採集を続けていると、突然、全体の2/3はある弥生前期の甕が目に飛び込んだ。その周りにも数点の大き目の破片が落ちていた。

 「あれー、早速発見か」と思いきや、そのほかにはなかなか見当たらない。発見した甕等を観察すると、けっこうローリングを受けた感じで、割れ口は丸みを帯びて、表面も水流で磨かれた感じであった。1時間ほど川床を観察して回ったが、新しい砂層上に遺物はほとんどなく、多くは、といってもほとんど落ちてはいないが、礫床に存在し、砂層にはほとんど含まれていない。私が今回見つけた土器資料は、弥生前期、後期末、須恵器、土師器で全部一応の磨滅状態であった。

 直感として、上流部からの移動と感じられた。しかし、完形に近い弥生前期土器の存在は、それほど上流ではないことを暗示させた。

 旧稲築町教育委員会の上野君から白門の転倒堰下には、土器が散乱していると聞いたことがある。小学生だか中学生が土器片をどんどん拾って来たとも聞いた。今回は、堰の近くにはいけなかったが、採集資料を見る限りどう見てもローリングの跡はなく、包含層や遺構から出ましたよという顔つきであった。

 先日、稲築の資料室見学に稲築高校郷土部出身の方が来られ、次郎太郎古墳(1号)から埴輪を拾った状況をうかがった。話では一部土取りがはじまり、古墳が壊され始めた。直前に1号墳と思われるが石室の入り口が開いていたので中に入ったらしい。玄室は奥行き2m、幅1.5m、高さ1.2m程度だったらしい。下が埋もれていた可能性はある。しかも、石室内は真っ赤に塗られていたらしく、破壊は既に石室の側面に及んでいたらしく、石室の赤色に塗られた石を外して運び出し、稲築高校に持ち帰ったということだった。

 さらに、口春のかって塚古墳の発掘も行ったようで、出土品の位置などを聞いた。また、稲築高校裏の遠賀川の河床に完形の須恵器がごろごろしていたらしく、それを拾っていた話もうかがった。

 自転車を購入したので、天気のよい日に出かけてみようと思う。

 自転車に乗ること8回、ようやく、慣れてきた感じがする。しかし、まだ地形や地層を観察しながら、遺跡の場所を探す余裕などない。自転車に乗っている時間は1~2時間、足は最初から痛くならずに何とかすごしている。両手ばなし運転などとても怖くてやれない、こぎ続けて休む場合両手ばなしの体勢が取れれば腰が伸びて気持ちいいのだろうがそうは行かない。

 12月29日になり、ようやく休みに入った。昨日、古文化研究会の宇野さんから小田先生喜寿の記念誌が届いた。拙文ながら笠置山麓で採集した輝緑凝灰岩の未製品ならぬ加工痕のある厚手の剥片類を資料紹介させていただいた。

 研究史を触れる際には、下條先生を中心にせざるを得ない状況があり、結局は笠置山を調査していない現実にぶつかり、何とか、今回の紹介きっかけとして広く調査の手が入れば幸いと感じている。

 それにしても、いつもながら宇野さんには何度も校正していただき感謝もうしあげている。何か書くのは調子に乗りやすい性格なので、勢いで書いてしまうのだが、読み返すことが出来ない性分である。なんとかしようとは思うのだが、さてさて、テストも見直したことがないこの性格、年をおうごとにひどくなっているようだ。

 それにしても、心配は今回の資料紹介について全く反応がない場合である。だから、よってたかってのご批判等を楽しみにしています。ほんと、何の反応もないくらい寂しいことはありません。

 1月の8日となりました。久々に自転車に乗り旧稲築高校裏の河原に、須恵器が落ちていないか確認に参りました。しかし、全く落ちておらずカケラすら見つかりません。分布調査図に包蔵地の可能性ありとして記入しようと思いましたが、現状での証拠にかけると言うことで没になるかもしれません。

 1月23日(日)土曜と日曜の2日間、関東でナイフ形石器の議論が活発に行われていることであろう。ナイフ形石器の定義について、最初に提唱した人物・時期・内容ということで、当然、議論が行われたことと想像する。
 考古学雑誌の39巻2号に2つの論考が掲載されている。1953年のことであるが、21~に25ページに杉原壮介「日本における石器文化の階梯について」、26~33ページに芹沢長介・麻生 優「北信・野尻湖底発見の無土器文化」である。
 前者は、「黒曜石で作ったBladeを主体とし、細部加工は保持のために行われる所謂Backed bladeのそれである。従って剥離によって生ずる自然の鋭い縁辺が石器の刃の役をなす。」として、茂呂遺跡のナイフ形石器4点図示し、茂呂文化として岩宿文化と上平文化の間に配置している。
 後者は、野尻湖底出土茂呂形石器として図示した中の14ab~22をA・B・Cに分類し、と茶臼山、杉久保(野尻湖底)とし、茂呂形以外に杉久保形を提唱した。ここでは、Backed bladeは使用せず、Knife bladeとし「縦長のflakeの鋭利な刃部を一部分残して周辺の片面にあらいretouchを加え、先端を尖らせた形態をKnife bladeと呼ぶ。」した。
 以上、二者はいずれもナイフ形石器の定義として認識され、最初のものとして把握される。もう一つ明らかなのは杉原氏のものは、1952年のINQUA連絡紙一号で発表済みということである。
 私見としては、知る限りにおいて前者が最初と考えるが、研究会ではどうなったのか。

 1月27日(金) 先日のことである。分布調査を行っているのだが(老体の私は室内)採集した遺物を見ていたときのこと、明らかに宝珠形つまみの蓋が採集されているではないか、しかも、緑の錆が所々に浮き出ているのだ。これは、経筒の蓋ではないかと大騒ぎ、仏教考古学講座を引っ張り出すやら、インターネットで写真をプリントするやらで、一人騒いでいた。「やかんの蓋なら穴があいているよ」なんてみんなを説得するようにウキウキ気分。
 夢はそこまで、なんと悲しい知らせが、「蓋に穴が開いていました。」えぇー穴が、私は、半信半疑のままにインターネットで、しんちゅうのやかんを探していました。
「身の部分が必ず土中にあって、縁が顔をのぞかせているから、私も現場に行こう。」なんて口にしていた自分が恥ずかしい。勉強不足を知らされた日になった。ちなみに、星座占いは1番だったのに。

 1月最後の土曜日、歯医者でバランスが悪いといい歯を削られました。麻酔の注射をしますが、なにせ酒に強いからだ、30年のキャリアがあるもので、普通の量ではききにくい。その内、あのキーンという音とともに摩擦熱で焦げるような臭い、その内、神経に痛みが、その瞬間、額に汗がじっとり、「イテー」・・・、麻酔の追加だよ。今、痛みがジーンときている。
 そんな事とは別に、頭の中は立岩の石庖丁で一杯になっている。立岩の富をもたらしたものは何なのか、中山平次郎博士以来注目され、石庖丁の生産と分配とがもたらしたとして、近年まで支持されてきた解釈が、コレン レンフリューの資源獲得のモードによる互酬(交換)にあたる話が出ているような、いないような。
 話を遡れば、そもそもが下條さんが1975年考古学研究会の21回総会での研究発表の際に、藤田先生のコメントが石器の分配にもう少し政治色を入れても、という発言があり、対して酒井・春成さんのコメントがあり、最後に近藤先生が、相互扶助は社会的に認められるが、それを超えた政治的関係は認めがたい、つまり、時代がそこまで熟成していないとして、再考を促している。これは、氏の『前方後円墳の研究』でも同じであるが、最後まで貫かれた考えである。
 真実に近いのは、さてさてどちらか。答えは遺跡と遺物が語ってくれるであろう。これこそ、古くて新しい課題である。

 2月に入り、嘉穂地域内の報告書を見直していた。といっても、嘉穂地域外に目を向けれるほどの力もないが、とにかく、集落や墓地から出土した石剣の石材を調べていたら、桂川町の報告書に長谷川さんが報告した、中世の館跡らしき建物群と周囲を画す方形の溝が検出されていたのだが、何気なく見ると細石刃状石器として1点の黒曜石製石器らしきものが記されていた。
 おや、図面と写真を見ると、ますます、細石刃に似ている。早速、長谷川さんに電話して「午後からうかがいますので、見せてください」と、いつも、思いつくと電話して出かけてしまう。即対応してもらえるのがありがたい。
 早速、現物を見せてもらうが、透明度の高い黒曜石で良質である。長さ18㎜、幅4㎜で両側縁がか平行である。打点からバルブは薄く末端がやや厚くなっていてヒンジフラクチャー気味につまる。しかし、肝心の剥離方向が見えない、老眼の悲しさか、そこで、お願いして無理を承知で貸し出してもらい、自宅のルーペで何度も観察した。断面は三角状で厳密には断面頂部が極度に狭い2条の稜線が見える。
 剥離方向は、表裏ともに同じ方向で安心した。透明で剥離がみにくい、光の方向を変えながら観察すると、パティナが光の反射を抑えていることに気づいた。本来ならガラスの欠片の様に輝くのだろうが、表面風化がある程度進んでいるのであろう。

 杉原氏に連絡、状況を伝えるとともに写真をメールで送る準備中、何とか細石刃であってほしいものだ。続きは次回に・・・以上

 2月5日の土曜日、久々に千石峡に出かける。古文化談叢に掲載した輝緑凝灰岩の剥片があるポイントである。なんとか土器を探そうと必死で表採を続けるが落ちていない。沢に下りて両岸の堆積物を探すもなんら得られず。はたして、人の手が加わったものかと疑心暗鬼にかられる。
 その内、猪があたりかまわず掘り返している所を探すと、30㎝下くらいに厚手の石庖丁形の剥片が埋もれているのを確認、別の場所では、片岩か粘板岩、頁岩なのか分からないが、板状の小さな剥片らしきものを発見して採集した。ここでは、はじめて見る。
 なお、河川両岸の堆積は、1.7mほど確認できるが、河川の氾濫した堆積物が交互に堆積している状況が見てとれ、礫に混じって剥片状の物が混じる。
 最後に、30㎝ほどの輝緑凝灰岩の石核みたいなものと薄く剥離された剥片を採集する。両者は石核と剥片の関係にありそうで持ち帰り、洗浄した。

 2月10日(木)ついに、来ました。念願であった嘉穂地域での旧石器の出土。まだ、確実ではないが、細石刃の可能性が高まった。
 先日、紹介した桂川町の細石刃状石器として長谷川さんが報告した例のものです。九州歴史資料館の杉原君に打診していたのですが、本日、知らせが入りまして、どうも、細石刃らしいとのこと。これでいよいよ嘉穂地域でも、腰をすえて旧石器の探求に乗り出せます。
 田川の香春町で縄文早期前半期の土器の分布から推定した内容とは異なりますが、最初の1歩が踏み出せたようです。まだ、分かりませんという一言を付け加えます。
 
 「それでも、足りないよ願いは、まだまだ、叫びたいよ想いは」AIのStillより。



足元の資料を見直そう。(筑豊編)

2010-08-07 10:32:16 | Weblog
 小生、半世紀と2年生きて来ました。ここ数年は、現場から一歩退き、財務会計・行革・事務事業評価・人事考課・予算・決算等々、まさに、事務吏員としての仕事を行いつつ、訳の分からない外部攻撃にもさらされながら、なんとか生きております。
 遠賀川流域での研究会が数年開かれ、私は主に嘉穂地域の縄文・弥生を担当し、中身のない発表を繰返しておりました。そのあたりから、遠賀川上流域の研究史に興味を持ち始め、結構、大きな課題が積み残されている状況に遭遇しました。
 以前から、いくつかの研究会に顔を出しながら、筑豊の資料がどのように取り扱われているのか、地元根性の塊となって見て・聞いて参りましたが、何が悪いのか、どう考えれば良いのか、筑豊地域がスッポリト抜け落ちてしまっている場合が多々あったように思われます。以前は立岩参りとまで言われ、九州弥生文化研究の牽引役を担った筑豊も、1980年あたりから研究者の目に届かないようになって来ました。それでも、縄文集落や青銅器の複数発見によりなんとか、振り向いてもらえましたが、近年はかなり厳しい状況です。
 これは、筑豊地域の研究者全体の問題であり、どのように情報発信をするのか、そうしなければ、夥しい資料に翻弄される今日では、待っていてもなかなか来てもらえません。9月に行われる埋文研究会では、韓半島系の土器を取り上げられるようですが、やはり、筑豊を含めた内陸部は取り上げられないようです。この問題にしても、嘉穂や田川地域にいくつかあるようで、一つは、玄界灘沿岸地域から中・四国、そして近畿という図式の中で、海岸沿いに分布を示す様子は、想像できますし、一つの流れとして九州と近畿を結ぶ海岸ルートが浮上するわけです。
 しかし、その一方で内陸に分け入った人々も当然想定されるわけで、その証拠をさがすのも必要かと思います。1980年代から今日まで嘉穂や田川地域で莫大な面積が発掘調査され、それこそ、単年度で報告書を刊行し、後は山積み状態の資料がどれだけ眠っているでしょう。私も含め韓半島の土器などほとんど知識がなく、日々発掘に追われていた状況ですから、見落としも当然あります。そのような資料を見直すことが、私に出来ることの1つと考え、進めていきます。
 まずは、報告書の見直しから始めますが、「韓半島系のものかな」というのが何点かあります。いずれまとめて報告するでしょうが、情報は流すべきと考えます。ただし、各担当者の同意のもとです。韓半島系に限らず「おや、これは」と思うものは、概略を掲載します。
まずは、足元から見直しです。
 
 1 昭和59年発掘調査の榎町遺跡から、東部瀬戸内地域の第Ⅳ様式のⅢ段階と同時期と考えられる、凹線文土器片5点ほどが出土するも、当時の私の知識では理解できず、報告書への掲載を行っていない。実測は終了しているため何れ掲載予定。
 注意すべきは、当遺跡では中期後半から末の遺構・遺物は一切確認されていない。整理作業は、当時、九歴の岩瀬さんに3ヶ月来ていただいて指導を願うが、中期の須玖式相当の遺物は確認されていない。極論だが、状況では材地系土器を混在することなく、純粋な形で外来系土器が出土したことになる。おそらく、嘉穂地域は立岩遺跡が頂点に立った時期であり、当該遺跡もその傘下に組み込まれていた可能性が高い。
 この状況をどう解釈するのか、遺物群の再整理が必要である。

 2 旧山田市の成竹遺跡の調査は、福岡県の調査で未報告である。当時の写真から栗原氏が担当した可能性が高い。ここで、問題となるのがサヌカイト製の凸基式有茎石鏃で、長さ4.4cm、幅1.4㎝、厚さ0.6㎝のもので、出土土器から導かれる時期は、中期後半である。実測済みで掲載予定。これは、榎町遺跡の凹線文土器同様に、外来系の影響下に製作された可能性が高く、弥生時代中期後半の立岩遺跡全盛期における外来系文化の内陸への流入を考える上で重要な遺物と考えられる。

 3 旧碓井町の八王寺遺跡の調査で、古墳時代の竪穴住居跡から移動式カマドの把手部分が破片で出土している。八王寺遺跡の報告書に掲載されている。

 4 飯塚市立岩遺跡の最初の調査となった、中山平次郎氏の手による報告「飯塚市立岩運動場発見の甕棺内遺物」に第二図として4点の土器が写真で示されている。その向かって左にある鉢に注目願いたい。以前から飯塚歴史資料館に行くたび、ガラス越し、あるいは、直接観察して感じているのは、どうも半島系の粘土帯土器に影響受けた無文土器系のものと考えられる。色調は白色に近く、全体に楕円のゆがみがあり、底部は厚底で高い、特徴的な口縁部は、粘土紐を貼り付け厚く突出している。一見の価値あり。

 5 飯塚市下ノ方遺跡の報告書「立岩周辺遺跡発掘調査報告書3集」1982の41ページに掲載されている139番の土器は、やはり、無文土器のように見える。鉢形で小ぶりであるが丸く粘土帯を貼り付けているように見える。実見はしていないので何とも申し上げられないが、可能性は高いと思われる。
 
 4と5を通じて、僅かであるが朝鮮半島系の土器が見られ、この時期あたりから輝緑凝灰岩の石庖丁が製作され始める。直感であるが石庖丁製作の開始時に半島系文化の何らかの影響を感じているのである。福大の武末先生に韓半島で輝緑凝灰岩の石庖丁はありますかと聞いたことがある。答えは今のところないらしいが、半島にも笠置山と同様の中生代の地層が広がっており、その内、発見されるのではないかと信じている。立岩の弥生人が笠置山の輝緑凝灰岩に目をつけたのは、偶然の発見ではなく半島のいずれかの地で石材利用を行っていた人々の記憶と知恵が導いた結果と考えたい。単なる希望であるが、実証されるよう努力しよう。
 

 6 桂川町赤松浦遺跡の1号竪穴住居出土の青銅製品について、長谷川氏と電話でやり取りしたが、全長3.3cmで長い二等辺三角形状を呈すもので、表面は緑青に覆われているらしい。形状は基部が太く先端に行くと細くなって、中軸よりやや斜めに傾く感じ、つまり、先端が僅かに湾曲し微妙に抉りのようにも見える。基部の厚みが1.1cmで、断面は隅丸方形状で、形状や断面から小銅鐸の舌ではないかと考えられる。長谷川氏も当初からその考えもあったようだが、実証性に欠けることから不明の青銅製品として取り扱っている。これは、竪穴住居から出土しており、共伴の土器から見て高三潴式で弥生後期前葉と考えられる。
 しかし、舌に特徴的な吊り下げる孔がないが、先端の湾曲した部分を紐で結んで吊り下げれば、小銅鐸の舌として使用できる。必見の一品である。
 土器群は、鉢、長頚壺、甕が出土している。その5番の甕は、内外共に箆削りで仕上げられている。

 7 桂川町寿命隈西遺跡の8号袋状竪穴から出土した、弥生前期後半から末頃の土器の把手であるが、長さ2.5cm、幅4.5㎝、厚さ2㎝ほどの大きさである。重要な点は把手の中央に1㎝ほどの孔が開いていていることである。また、前期後半から末頃という時期も重要で、韓半島系の壺に付される把手ではないかと考えている。佐賀県土生遺跡を髣髴させる。ただし、先端は丸味を持って短い。これは、長谷川氏に話していない情報であるが、そのうち、実見しよう。

 8 桂川町寿命隈西遺跡の1号竪穴住居出土土器は、興味がわく。おそらく、広口壺の口縁部かと思われるが、直径が20㎝ほどであろうか、口縁が内面にやや突出し、外部に4条の突帯を巡らしている。しかも、口唇上には、細い竹管の刺突文が並んでいる。外面は丹塗りだが、中四国あたりのⅢ様式の影響が大きいように思える。ただし、4条突帯には刻みはない。これも、長谷川氏に話していない情報である。

 話かわって、輝緑凝灰岩の未製品について嘉穂地域で年代をおさえようと、報告書をあたっているが、予想以上に少ないのである。しかも、前期末から中期初頭くらいであろうか、今のところ集中的に出土する地区もありそうで面白い。地域の担当者と話しても、未製品はよく出るということを言うが、案外出土しておらず製品の欠損品が多い。しかも、時期も限定されるような雰囲気である。そのあたりを少し調べると、輝緑凝灰岩の未製品が出土する時期や地域、製品に取って代わられる時期、製品のみと何か見えてきそうな気がする。
 立岩の地域でありながら、嘉穂地域は意外と押さえられていないのである。もっとも、立岩の石庖丁の研究が進められていた時期は、ほとんど調査された遺跡がない状態で、なんとも仕方のない頃であった。今こそ立岩のお膝元がどうなのかを調査する時期が到来したと考える。みなさん、どうでしょうか。

9 桂川町赤松浦遺跡の12号土坑から高三潴式の一括資料が出土していることに気づいた。袋状口縁の広口壺で、口縁部は開き頚部と胴部に三角突帯が巡る。それに、細く伸びた頚部が特徴的な長頸壺、袋状口縁の広口壺を頚部から切り離したような短頸壺、口縁部が内湾する無頸壺等に跳上口縁の薄手の甕、高杯の口縁部が伸びて若干下がる丹塗土器、そこに、破片であるがほぼ直立した短い口縁部から逆九の字に屈折する、おそらく、高杯と思われるが、瀬戸内方面からの影響、もしくは、搬入の可能性がある。それに、6番で紹介した土器群と原田遺跡の竪穴住居(嘉穂地区遺跡群Ⅳに掲載)を加えると、筑豊内陸部の高三潴式の様相が明らかとなろう。ちなみに、赤松浦が古相で原田が新相と考えている。

 10 凹線文の関連で旧頴田町(現飯塚市)の井尻遺跡から出土している複合口縁壺(下大隈式)の、口唇部に3条の凹線文が巡る。また、中期末から後期初頭くらいの跳上口縁の甕にも、口唇部2条の凹線文が巡る。個々の資料は実見したが、さらに、高杯の脚部等にも同様の凹線文が見受けられて興味深い。

 11 旧穂波町(現飯塚市)の彼岸原遺跡は、過去、採集や調査が行われて来た、嘉穂地域では、知られた遺跡である。県教育委員会の吉田氏が調査員として発掘調査が行われ、中期後半の円形竪穴住居跡が複数検出され、住居内周溝からのびる排水溝が確認されている。調査作業員には、藤田先生が参加するという調査でもあった。
 特に、排水溝から多くの須玖Ⅱ式の土器が発見され、土坑慕から、牙玉2点が検出された。そんな中で、長頸壺の頸部に凹線文が施された破片が紹介されている。あれだけの土器片中からよく見出したものである。これは、正式に認められた外来系土器として記されるものである。

 12 旧碓井町(現嘉麻市)八王寺遺跡出土土器中に、弥生中期の袋状口縁壺の口縁部片とした2点について、再検討が必要かと感じられる。図では、袋状というより口縁部の先端がのびたようで、やや内傾した二重口縁的な壺の口縁部に見えるのだが、いかがであろう。実見する必要がある。

13 桂川町寿命隈西遺跡の1号竪穴住居出土土器は、興味がわく。おそらく、広口壺の口縁部かと思われるが、直径が20㎝ほどであろうか、口縁が内面にやや突出し、外部に4条の突帯を巡らしている。しかも、口唇上には、細い竹管の刺突文が並んでいる。外面は丹塗りだが、中四国あたりのⅢ様式の影響が大きいように思える。ただし、4条突帯には刻みはない。これも、長谷川氏に話していない情報である。という件で、器台の可能性もあり、現状では何ともいえないことが分かった。しかし、4条の突帯と口唇の細い竹管の刺突文は、やはり、外来の影響下にあるものと考える。

 輝緑凝灰岩の石庖丁未製品については、時期・地域ともに特色があり、石材も一定していないようである。さらに、調査してみたい。今までも経験があるが、定説のようになって流布しているものほど怪しい場合がある。
 
 あまり、議論されてはいないが、スダレ遺跡の3号甕棺出土人骨に突き刺さっていた石剣は、その厚みから石戈の疑問もあったようだが、とにかく、石材は輝緑凝灰岩であるようだ。中期中葉の甕棺であり、立岩では石庖丁や石製武器が精力的に製作され嘉穂盆地内に拡大化している頃のものである。
 すると、犯人は嘉穂盆地内の人間である可能性が高い。嘉穂盆地内のお墓から出土する石剣の切先は、頁岩系が主であり輝緑凝灰岩は少ない。立岩の倒立甕棺から出土した頭骨の下に、輝緑凝灰岩製の切先があった。となれば、スダレを含め、立岩近辺の連中は、立岩産の武器で殺された。そして、周辺の連中は、頁岩系の武器で殺されたのか。このあたりも調査する必要があろう。・・・いったい、戦争はどことどこがやったのかな。それとも、スダレ遺跡は殺人事件だったのか。

 人骨に刺さった石剣の切先について、その厚さが問題となり石戈説が浮上、しかし、嘉穂地域内の石戈例をもとに、剣先の幅から推定して石戈説は退けられた。しかし、スダレ3Kの被葬者の背後から突き刺した人物は、もっと、薄手の鋭利な石剣を使用しなかったのだろう。武器〈石剣〉の選択はしなかったのだろうか、相手を仕留めるために常備した武器が、厚さ10㎜という。頁岩の製のものではだめだったのか、それとも、立岩の連中の仕業かな。この1点のみを捉えるなら、たまたま、そこにあった石剣、あるいは、相手のものをもって、逃げようとする相手の背後から突き刺した。あるいは、倒れた相手上に馬乗りになって突き刺した。それにしても、一撃で相手の死も確認せずに戦場で通用するのか。それとも、怖くなって逃げ出したか。推理をめぐらすのにはいい材料である。

 話を戻そう。

 桂川町と旧碓井町との境に八王寺から土師区にかけて広がる丘陵地が存在する。この付近の弥生遺跡の特徴として、嘉穂地域(盆地)では有数の玄武岩製石斧、つまり、今山産石斧が集中的に出土する地区で、石器原産地研究会でも発表したところである。

嘉穂地域の玄武岩製石斧集成表(桂川町)

1 影塚東遺跡        1点      前期末~中期   
2 飯塚牟田南(2地点)     26点中24点   前期末~中期初頭
3 寿命隈西遺跡       36点の大半 前期末~中期初頭
4 飯塚牟田北遺跡       30個の大半 前期末~中期初頭
5 大坪遺跡        8点中5点 前期末~中期初頭
6 二塚遺跡        5点中5点   前期末~中期初頭
7 八王寺遺跡(碓井)      3点      前期末~中期初頭

 周辺諸地域の中でも、飯塚牟田南(2地点)、寿命隈西遺跡、飯塚牟田北遺跡の3ヶ所に限っては、100点近く出土する特別な遺跡群である。先の7で紹介したが、無文系土器群が何例か混在しているようだ。今後も例示したいと考えている。
     
14 八王寺遺跡の30㌻NO1058の口縁部に把手状の突起状のがついた鉢は、どうであろう。弥生前期末から中期前半の遺物に混じっている。朝鮮半島東北地域北部にありそうなもので瘤状把手とも言うべきものである。

15 八王寺遺跡163㌻NO2472と2473は要注意。袋状口縁ではなく台城里7号墓出土の口縁部上端が内傾する甕の口縁部に似ている。尤も中期の無頸壺を重ねたような土器かもしれないが。

 先日、王塚古墳館を訪ねて長谷川さんと対面し、桂川町土師地区の石庖丁資料を見学。そこで、土師地区出土の土器の中に無文系土器が含まれているようだとの状況を伝える。長谷川さん曰く、実は、調査中にそういう指摘を受けていたそうである。
 この、土師地区は嘉穂地域でもかなりユニークな遺跡群であり、特に、今山産の石斧が大量に発見されるという特徴を持っていた。さらに、弥生石器の未製品や穿孔具、砥石など石器製作にかかわる遺物が多く出土している。
 また、中期中頃から甕棺(成人棺)が導入され、後半~末、あるいは後期の前葉まで認められるという、立岩遺跡と似たパターンで注目している地区である。

 1977年『立岩遺蹟』が刊行され、下條氏が石庖丁をはじめとする石器類と生活用土器類の報告を行い、輝緑凝灰岩製石庖丁の生産開始時期を前期末に位置づけられ、以降、その年代感で捉えられてきた。その証拠として2基の貯蔵穴の調査成果が示され、土器も図示されている。しかし、読み返すと腑に落ちない点が出てきた。確かに、前期末の土器は出土しているが、中期前半期までを含んでいて、貯蔵穴の切り合いや後半期の甕棺墓の墓坑が大きく切り込んでいたりで、遺構自体の保存状態が極めて悪いことがわかる。
 
 当時、立岩での発掘調査も堀田遺跡がきちんと調査された第1号といっても過言ではない。また、周辺地域ではほとんど調査事例のない中で、まとめられたのは大変な苦労があったと考える。特に、立岩と石庖丁の関係は中山平次郎氏にまで遡る重要課題であり、成果を残すことは絶対的課題であったと推測する。しかし、再検討するとやはり、前期末という断定は出来かねるようである。

 また、輝緑凝灰岩製石庖丁の嘉穂地域内での比率については、当時、嘉穂地域内の事例がほとんどなく、100%近い占有率は多分に生産遺跡である立岩の資料が含まれていたものと考えられる。石庖丁の搬出の比率を表したグラフの横に、但し書きで立岩の製品が多く含まれるため、嘉穂・田川両地域は除外すると記されており、当時の事情の一端がよく分かる。

 その後、嘉穂地域では大規模な発掘調査が繰返され、石庖丁に関してもある程度の資料が蓄積されている。それらから判断すれば、生産遺跡の立岩を除外すると占有率は70%を下回り、筑後の数値に近いようである。

 ただし、未製品の数は、以前にもカウントされているが約1500点でそのほとんどが採集試料であり、1980年代から行われた立岩周辺遺跡の調査では、未製品と製品では3対1の割合で未製品が断然多い。やはり、中山氏曰く「石庖丁製造所址」という点は、下條氏の研究を踏まえ、現状を加味しても動くことはなかろう。

 1980年代以降、急激に増加したのが立岩周辺の諸地域、旧嘉穂郡の発掘調査である。その結果、1970年代までに分からなかったことが次々と明らかになる。資料の蓄積は、当時の担当者レベルでは追いつけないくらいの勢いであり、30年を経過した今日ようやく落ち着いて資料を見直すことができるようになった。尤も、発掘と報告に追われながら、自治体の文化財行政をほぼ1人でみんなこなしていたのだから無理もない。

 立岩を石庖丁の生産地とすれば嘉穂郡は消費地に相当しよう。そういう視点から改めて立岩を見直そうというのが私の発想である。 

 1980年代立岩周辺遺跡として、焼ノ正・下ノ方遺跡等が調査される。焼ノ正の5号袋状竪穴は、前期末・中期初頭・中期前半の土器群が出土しており、様相的には焼ノ正・下ノ方で古式の様相を示すが、堀田の28号袋状竪穴同様に前期末と決めがたい。両遺跡のほとんどが中期に属する時期である。
 一方、消費地の周辺諸地域では、前期後半~末のものが確実に存在するようで、この当りの当時の様相が面白い。それが、中期となると立岩オンリーになるようで生産の集中化が図られるように感じる。

 生産当初の様相(前期末前後)・立岩集中生産(中期)と流れるが、その中で流通システムの構築が予想される。つまり、製品の流通は甘木・朝倉・北筑後方面と西南方面が多い。そこで、嘉穂地域の西南地区に流通拠点が存在するとしたらどうだろう。

 近年、能登原 孝道氏の『いわゆる「頁岩質砂岩」の原産地について』九州考古学82号2007の中で、立岩産石庖丁で知られる輝緑凝灰岩のビッがース硬度試験結果が記されていた。ダイヤモンド圧子を輝緑凝灰岩に押し付けたところ押し付けた部分の周辺もくぼんで、丸くクレーター状につぶれ測定が不可能であったらしい。粘り気等の実験はしていないがどちらの石材が(頁岩質砂岩と輝緑凝灰岩)石庖丁の石材として良質か、一概に「頁岩質砂岩は脆いため、中期に輝緑凝灰岩へと取ってかわられた」という従来の意見に疑問を抱かれている。

 上記の実験結果について、単純に私は「輝緑凝灰岩は節理にそって割ったり剥いだりするのは簡単であるが、粘りであろうか折るのはかなり大変であるし、節理から剥がれて行くこともなかなかない。しかし、穿孔するのはかなり簡単なようで、一般に穿孔過程での欠損品が多いのをカバーする石材だな」と考えた。 続く。

 最近、がらにもなく古墳の分布について考えてみた。古墳時代にそれほど興味はないが、古代から近現代に至る地域編成のカギとして、弥生から古墳時代は省くことは出来ないだろう。

 嘉穂地域における古墳の分布について

 筑豊地域における古墳は、盛り土による高塚古墳と岩層に横穴を穿って墓室とする横穴墓とに大別する事が出来る。また、前者と後者の折衷的な様相を呈する墳丘を有する横穴墓も存在し、その墳丘に埴輪をならべるものまで存在する。
まず、穂波川と合流するまでを遠賀川(嘉麻川)とし、それから下流を遠賀川とし、嘉穂地域の前方後円墳の分布状況を概観するならば、遠賀川(嘉麻川)上流の嘉麻市上西郷の久吉古墳()、西郷の竹生島古墳()、漆生の沖出古墳()、樋渡の樋渡1号墳の4基があり、それに、下臼井の日吉神社裏の大型円墳(前方後円墳か?) 、漆生の次郎太郎古墳 () 2基 (円墳か?) を加えると樋渡を除く6基が嘉麻市の大隈町・牛隈・下臼井の平野部に面して立地してる。穂波川流域では、ホーケントウ古墳、天神山古墳、北古賀第1号墳、王塚古墳、金比羅山古墳、宮ノ上古墳、大平古墳、森原1号墳、山の神古墳と9基が存在するが、その内6基は王塚古墳周辺に位置している。最後に、遠賀川(嘉麻川)と穂波川が合流した地点の東に、飯塚市の立岩から川島にかけての丘陵に宮ノ脇古墳、寺山古墳があり、西側の対岸には山の谷古墳が位置しており、これらの分布を基に全体の構成を3群に大別することも可能である。
 次に、高塚古墳の大多数を占める円墳群について概観すると、河川の作り出す平野部に面しながら嘉穂地域全体に拡散するように映るが、そこに前方後円墳の分布を重ねると興味深い状況が浮上する。
 1群:遠賀川(嘉麻川)左岸の下益から上西郷に分布する一群は、西ヶサコ古墳(前期の円墳)を含む古式の円墳が点在し、下益の谷奥には20基程度の円墳が群集し、上西郷の久吉前方後円墳(前期)が含まれる。
 2群:琴平山を中心とする嘉麻市西郷から上臼井、下臼井にかけ、竹生島の前方後円墳や下臼井日吉神社の大型円墳(前方後円墳か)を含む古墳の集中が見られる。
 3群:遠賀川(嘉麻川)右岸は、漆生の沖出から咲ヶ鼻の丘陵でまとまる漆生古墳群があり、沖出や次郎太郎の前方後円墳を含む円墳群が丘陵上に集中する。大正末から昭和初期にかけて様々な遺物が掘り出されたが散逸し、古墳の多くもほとんど消滅している。 
 4群:立岩丘陵の北端から川島の丘陵部にかけて宮ノ脇と寺山の前方後円墳を有し、装飾古墳の川島古墳も含まれる古墳群となり、それが遠賀川右岸の北限となる。
 5群:嘉麻市樋渡から飯塚市上三緒の丘陵上に樋渡の前方後円墳と少数の円墳が存在するが、やはり群としての発展は確認できない。
 6群:穂波川流域に目を移すと、桂川町の王塚古墳周辺には前方後円墳はじめ相当数の円墳群が存在しており、嘉穂地域において最も高塚古墳が集中する場所であり、複数の前方後円墳と数多くの円墳が集中する当該地は、嘉穂地域内において横穴墓群との関係を観察する際に、典型的な高塚古墳群分布の様相を示す。
 7群:柳橋の古墳群から目尾にかけての古墳群は前方後円墳を含む円墳群で、嘉穂地域の北限をなす。
前方後円墳を含む古墳群は概ね7群が存在し、前方後円墳や円墳の数など規模の相違も様々である。また、5群に近似するが森原や山の神の前方後円墳のように、周囲に古墳群が発達しない例もあり、これを別途に8群として把握する。
次に、前方後円墳を含まない円墳群の分布について示すが、A群は古墳群として把握できるもの、B群は疎らな分布で群としては捉えがたいものとして進める。
 A群:a漆生古墳群の上流で、大隈町から牛隈小学校付近までの丘陵の高所には、10基未満ほどの円墳群が点在しており、それぞれが群単位として存在する。
   b飯塚市下三緒栗咲山付近から立岩丘陵の間に円墳群存在する。
   c飯塚市川津の丘陵上に、やや散漫ではあるが円墳群が存在する、
   d庄内川流域右岸側の飯塚市仁保から元吉、勢田にかけての丘陵上に数基から10    基程度の円墳群が6群ほど存在する。
   e八木山方面から洪積世台地を開析しながら流れる小河川沿いの高所にも円墳群
が存在する。

 B群:a1・2群の間には、上西郷から西郷に続く丘陵部高所に疎らに円墳が乗る程    度である。
   b下臼井から口ノ春、山野と続く丘陵は、かって塚の中期円墳を含むものの、分
布は散漫である。
 以上のように、嘉穂地域の高塚古墳群は、その分布を観察すると前方後円墳との関係下に発展したと推定されるもの(1~7群)と、円墳群で構成されるもの(Aa~Ae群)がある。また、群を構成しないものに単独的に存在する前方後円墳(8群)や広い間隔をもって点在する円墳(Ba・b)もあるが、当地域の主となるものは、前方後円墳と円墳の組み合わせが群をなすもので、遠賀川や穂波川に面する丘陵状に島状に分布している。後述の前方後円墳を伴わない円墳群や疎らに分布する円墳は、島状に分布する主要な古墳群の間を埋めるように連なる特徴が窺える。また、庄内川流域や八木山方面の小河川沿いに分布する単独的な前方後円墳(8群)や円墳群は、主となる古墳群とは別途に考えることも必要であろう。
 なお、高塚古墳群の分布についてもう一点加えるなら、山田川から上三緒にかけての遠賀川(嘉麻川)右岸については、ほとんどその存在は見られない。また、対岸に相当する嘉麻市下臼井から飯塚市菰田にかけての遠賀川(嘉麻川)左岸は、右岸ほど顕著ではないが、やはり高塚古墳の分布が希薄で、樋渡1号墳のような前方後円墳がありながらも、古墳群としての発展は見受けられない。この様相は、山田川下流域から遠賀川と山田川合流地点に形成された稲築地区の平野部に面しており、嘉穂地域内の高塚古墳群分布状況において特異性を見せており、後述する横穴墓群の分布も含め古墳の存在に希薄さを感じる。
 次に、横穴墓の分布を概観すると、山田川右岸の嘉麻市下山田から平にかけての丘陵は、横穴墓群が独占状態である。遠賀川(嘉麻川)左岸の嘉麻市岩崎から口ノ春、山野に連なる丘陵は、稲築公園付近と山野の丘陵地の2ヶ所に横穴墓群の集中が見受けられる。その下流に位置する飯塚市鶴三緒から菰田の丘陵は、横穴墓の一大群集地で池田と鶴三緒横穴墓群で占有されるが、遠賀川(嘉麻川)の対岸は平の北半分から鴨生の間は横穴墓が未確認で、途中に飯塚市上三緒の横穴墓群が孤立するかのように存在するが、再びその下流は空白地となり、下三緒から立岩丘陵を含め横穴墓の存在は確認されず、結局、さらに下流の川島の丘陵地までその分布は見られないのである。
 以上、横穴墓群の分布を概観したが、これに嘉穂地域の高塚古墳群の主流である前方後円墳を含む高塚古墳群(1~7群)の分布を重ねると以下のようになる。
 Ⅰ類: 単独型 (1・5群)
 1群と5群は、単独的に高塚古墳で構成され横穴墓群を含まず、隣接もしていない。
 Ⅱ類: 住み分け型 (3・4・6群)
 6群は嘉穂地域内で最も多くの前方後円墳と円墳で構成されているが、南側の出雲と北側の久保白に隣接的に横穴墓群が存在するが、両者の存在は住み分け的な状況である。それに類似するのが3・4群で、3群の漆生古墳群の場合は、丘陵部高所を高塚式古墳が占有し、南側の才木と北側の咲ヶ鼻に隣接的に横穴墓群が存在する。4群の川島古墳群付近では、遠賀川に面する丘陵の西側を前方後円墳が占有し、同丘陵の下流部に円墳群が位置する。横穴墓群は隣接的位置ではあるが丘陵部の反対側に位置し、中でも70基以上の小池横穴墓群は最も奥側の谷を隔てた場所に群集していて、住み分け的状況である。
 Ⅲ類a:混在型(2群)
 2群は古墳群内に横穴墓群が存在しているもので、高塚古墳と横穴墓との数が同程度のものである。
 Ⅲ類b:混在型(7群)
 7群は同様に横穴墓を含むが数的には、高塚古墳の数が圧倒的である。
 以上の様相を観察する限り、嘉穂地域では前方後円墳を含む主要な高塚古墳群と横穴墓群の関係は、1・5群のように高塚古墳単独で群をなすものや、3・4・6群のように周辺に横穴墓群が位置するが、高塚古墳群とは混在しないものが圧倒的で、Ⅲ類aの混在型といえども圧倒的に高塚古墳の数が多く、単独か住み分け型が優勢であり、7群のように混在型でもⅢ類のbの類は異例敵である。
 続いて、前方後円墳とは無関係に発達する円墳群として分類した(A群のa~e)と(B群のa~b)とを横穴墓群の分布と重ねてみると以下のようになる。
 Ⅰ類: 単独型 (A群b・c・e)
 A群bの南端には、2基ほど横穴墓があり住み分け型に入れることも可能であるが、占地や数からして単独型に入るであろう。また、eに関しては、大塚谷、幸中学校裏、伊川などの古墳群がそれぞれのエリアごとにまとまる。
 Ⅱ類: 住み分け型 (なし)
 Ⅲ類a:混在型(A群d)
 Ⅲ類b:混在型(A群a・B群a・b)
 Ⅲ類c: 混在型 高塚古墳数を横穴墓数が圧倒する。
 山田川右岸の嘉麻市下山田から平にかけての丘陵及び、遠賀川(嘉麻川)左岸の嘉麻市岩崎の稲築公園付近と山野の丘陵地の2ヶ所に横穴墓群の集中が見受けられる。
以上、円墳群との関係では、Ⅰ類の円墳群の単独型が旧飯塚市の範囲内に集中しているが、同時にこの地域は横穴墓の集中地域でもあり、飯塚市下三緒栗咲山付近から立岩丘陵の間、飯塚市川津の丘陵上、八木山方面から流れる小河川沿いの高所といった限定的な場所ではあるが、マクロな視点に立脚するなら両者の占有地は重複を避けるような住み分け的な考えが働いていた可能性がある。気がかりなのは、(前方後円墳+円墳)で見られた隣接しながらも横穴墓群とは住み分け的な分布状況という例が見られず、Ⅲ類aやbの混在型が増加する状況は、円墳群と横穴墓群とのより接近した関係を物語るもので、特に、混在型の数が均衡するA群dの庄内川流域は、嘉穂地域でも新たなタイプとして認識される。
 高塚古墳群を中心とした嘉穂地域の様相は以上であるが、横穴墓群を中心とした場合には、飯塚市の鶴三緒・菰田を中心に発達する鶴三緒・池田といった大規模な横穴墓群は、そのエリア付近に辻古墳という前期の大型円墳があるが、その後、高塚古墳群の発展は見られず1基のみの存在で、横穴墓群との系統的な関係は見受けられず、単独型と言えよう。同様に、上三緒横穴墓群は明確に単独構成であり、さらに上流部の嘉麻市下山田・平の横穴墓群のエリア内にも1基の高塚古墳が確認されるのみである。また、飯塚市横田から相田付近は単独型で、唯一、混在型に近い川島付近でも群集する小池横穴墓群は立地として単独型に分類される。つまり、嘉穂地域内の大規模な横穴墓群は、単独型による構成で高塚古墳との混在はないといっても過言ではない。
 高塚古墳群と横穴墓群との分布について、単純に平面的な見方を述べてきたが、結論的には両者が互いに造営エリアを異にするというのが基本で、前者の場合前方後円墳を中軸として発展した一群が中心的な位置を占有し、立地は主に主要な大河川に面しており、それぞれ河川沿いに島状に分布する。前方後円墳を要しない円墳群は島状分布間を充填するかのように連なる。しかし、そのエリア内に横穴墓群が入り込む事はなく多くが住み分け状態にあり、河川に面する高塚古墳群からさらに奥に立地するものが多い。あえて、両者が混在し数が均衡する庄内川流域は、大河川に接せず、新しい古墳群の造営を予感させる。また、横穴墓群に目を移せば、高塚古墳群とは表裏的な様相を呈しており、中規模を含め大規模な群集エリアは横穴墓群が単独的に存在している。また、嘉麻市岩崎の稲築公園や山野、下山田・平という高塚古墳の希薄なエリアでは、Ⅲ類cの 混在型に属し横穴墓数が高塚古墳数を圧倒するという状況で、嘉穂地域では庄内川流域と並んで特異な古墳群分布地として注意を引く。





 「歩けおじん」 愚痴りの考古

2010-04-25 17:39:59 | Weblog
 なんか、最近愚痴るのがはやっとるらしいな、私もいろいろあるから、折りに触れて愚痴りの考古学といジャンルを作ろう。
 この間、地形的に谷地形と思われる箇所を試掘調査した報告を聞くと、地形状からして谷の湧き水が流れていた場所なのだが、鉱害復旧により様子は変わっていた。地下の様子は、予想では、マサ土の堆積した厚い層と下部からの湧水で、堆積層に遺物が混じる程度と踏んでいたら、1m以上の客土下に黄色(白色気味)の粘土層があり、その下に、鉄分の多い黄褐色の粘土層、それ以下はだんだん黒褐色に移り湧水下という。問題は、黄白色系粘土層の存在である。そういえば、この谷地形の始まりは第三紀層の丘陵で、横穴墓群が点在する。ひよっとして、第三紀層が風化するとこのような粘土層になるのか、それとも、黄砂の堆積したレス層なのか、確認が必要である。
 
 4/25 旧石器のシンポジゥムの旧版を読んでいたら、芹沢氏いわく、山内先生の究極は実年代を求めることとある。おや、と思ったが、山内氏は先史考古学なるものを提唱し実行している。では、先史考古学とはとなれば、氏の先史考古学会から出版された先史考古学の本学会内容を読んでみた。「先史考古学の本義は、個々の遺物遺跡発見記録に始まり、年代及び地方による組織を整え、能く古文化の系統、地域性の変遷を尋ね、独自の体系を持って人類史の欠を補うものと云うべきであろう。」と記されている。山内氏のこだわりは、カーボンによる年代測定結果を無批判に近い状態で受け入れ、そのままに、縄文の編年やそれ以前の年代に当てはめる基本的態度について、私見を披露した事に始まる。
 このことについては、長くなるので別途コーナーをつくって考えることとする。
 ようやく、風邪も治まり、鼻のどの調子もよくなった。

 5/8 追記 山内氏は「考古学の最高目的は実年代を知ること」と考えたか否か     と題して掘り下げるつもりだったが、内容が難しすぎて書けなくなった。そのため、この コーナーは削除します。なお、掲載分は下記に記します。

 1977年 学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」256ページに、日本旧石器の課題として「山内学説の検討」という項を設け、特に、丹生問題に関するものであったが、当然、山内氏の学説全体を検討する必要があったのであろう。
 芹沢氏はその中で「山内先生の一つの問題は、考古学の最高目的は実年代を知ることであるという考えかたです。」とし、自分達は年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎないとして、真向から対立していると考えてよいだろう。そして「画龍点睛の弁」を引き合いに出している。
 「画龍点睛の弁」は、1964年成城新聞に2回分けて掲載されている。その(上)に先史考古学を段階的に1~4に区分し、遺跡遺物の発掘調査の記載を初歩、つまり1として始め、A多くの研究資料の分類。B比較考究して系討論に至る。C分布を調べる。D往時の生活手段を推定復元する。そして、その他、多くの個別的分野が開かれている。これまでを2としている。3として、組織的研究に進み、一国の先史時代の各時期を区分して、その詳細を極め、文化の発達を論ずる。ここまでくれば大半の作業を終えたことになる。そして、4で実年代の決定を説いている。相対的な積み重ね、しかも、一国のものでは積み木細工に過ぎないが、そこに、実年代を与えることで、世界史の一員に加えられ広汎な文化史のうちに編入される。
 実年代は最終的なものであるが、1~3までの過程が完成しなければ意味を持たない。積み木細工にもならないのである。また、実年代の付与は世界史への位置づけを行うための重要な点としている。旧石器さながらな生活を近年まで続けていた世界もあれば、金属器の利用をかなり早い段階で行っていた世界もある。そのような様々な世界と物だけで比較すると、とんでもない状況となりうる。この点では、山内氏が晩年に縄文草創期の石器類の比較を海外に求められたり、縄文の海進期を諸外国のデータと比較されたりしている。その内容が現在の水準でどのように取り扱われているかは分からないが、「年代を知ることは考古学の仕事のほんの一部にすぎない」という芹沢氏の考えは1~3をすっとばして、4だけを見ているように感じる。
 芹沢氏の言葉からは、「年代を知ることは考古学のほんの一部にすぎないことで、それをを、最高目的としている山内氏の考古学に対する考え方は如何なものかと受け取れるのである。つまり、自分達はもっと崇高なところに目的があると聞こえて来る。尤も、このシンポジウムは、山内氏が他界された後のものである。
 山内氏は、縄文文化の研究を通じて、考古学の方法による解明を段階的に論じられている。昭和7年に雑誌「ドルメン」に掲載された「日本遠古の文化」を14年に序文と50の補註を加え先史考古学会より再出されている。

 4/27 黄砂がひどいようで、車が黄粉をまぶした状態になっている。レス層とはこの黄粉がが大量に降り積もったやつかと思うと、大陸により近い九州の位置を改めて知る。    このところ、沖出古墳公開後、提出書類が多くて困っている。

 
 4/30
 1 6月補正ヒアリング資料 2 行政改革 3 人事考課制度 4 公的施設での喫煙なんとか 5 来週のスケジュール表 6 緊急雇用対策 7 史跡めぐり関連スケジュールの送付8 事前審査書類の返送 9 時間外の提出等等 黄砂より事務関連のアレルギーである。

 5/1 ようやく連休に入った。入ったとたんに連休後のことを考える。すでに、病気ですな。あと2ヶ月で52歳になりますが、職探しでもしますか。合併とともにトンネルに入ったが、まだ、闇の中を走る列車に乗っている。闇の舵取りは難しく、1つのポイント切り替えのミスでも、ネプリーグではないが谷底に・・・おぉー怖 
 
5/3 考古少年回顧録118ページを55~60ページに縮めている。うまくいけば、何か読み物にでも投稿してみようと考えている。だめもとでね。

 5/13 考古少年の編集まったく進まず、才能のなさに自信喪失。尤も、ここ10年くらいは喪失感で埋め尽くされている。それにしても、読み返すとダラダラと長いだけで、面白くないものを書いていたと反省する。それでも、当時の仲間達に形になったものを見せたくて、パソコンに向かうが、肩こりがひどくなる。
 
 5/18 立岩の石庖丁について考えてみようかと考えている。弥生社会の中で産声をあげたと考えられる今山や立岩にいてもう一度整理し、なぜ現れたのかを考えてみるのも良いかと思っている。特に、立岩は自分にとって絶好のフィールドであるため笠置山をも含めて、考察したい。なぜ、地場産の石庖丁が入り込むのか、糸島や吉野ヶ里、壱岐にまで流通する赤紫色のもの、機能の面で非常に切れ味がよくそれが持続するらしい。品質の良さという点からのアプローチ、それ以外に、製作行程の見直し、流通事情などもう一度再考する時期かと考えている。

 5月も最後の金曜日となった。黄砂が引き起こすのか鼻から喉が悪く耳鼻科に行かなければならないだろう。せきが止まらず苦しい。それは別として分業論について改めて学習する必要があるようだ。藤田先生が以前言われていたが、考古学的に極めて難しいらしい。まずは、藤田先生が『日本の考古学を学ぶ』2の分業論から原 秀三郎先生のものあたりを読まなくてはならないようだ。それにても苦しい。うー 

 半月ほどブログを更新していない。仕事で色々あって頭に浮かばなくなっています。明日は、考古少年回顧録を短くまとめたものの校正を考えていますが、実にだるい日々が続きます。「やる気が出ない」というやつですかね。そういう時はしない、やらないのが一番でしょう。あぁーだるー

 7月5日になった。再びブログの更新を開始します。
 最近、気になりだしたのが九州考古学82号に掲載された能登原孝道さん・中野伸彦さん・小山内康人さんの『いわゆる「頁岩質砂岩」の原産地』である。ゆっくりと読み進めるが、まず、気になったのが能登原氏が実見確認した立岩の石庖丁(921点)とある。これは製品で流通したものの数を示されている。ところが、立岩遺跡群では、中島茂夫氏により1980年頃に製品・未製品あわせて1488点をカウントしている。しかも、未製品が1283点もの数になっており、その大半が採集品であることに驚く。
 立岩は今山と異なり原材を6キロ先から運び込んだ石器製作の遺跡であり、笠置山の輝緑凝灰岩で石包丁をつくった経験のある方は、お分かりになるだろうが、かなり加工しやすく研磨も初心者の子供でも出来るものである。ただし、穿孔はドリルでやるのでわからないが粘り気があり、滑石より気をつかわない。それが、1300点近く採集された状況を考えるなら、どれだけの材料が運び込まれ製品化されたのであろうか、想像するしかないが要注意点である。
 能登原さんは、実見された頒布資料から考えられ、私は頒布した側から考えを述べているのでかみ合うこともないであろうが、「頁岩質砂岩」は、現在研究資料として取り上げられ、新たな位置づけをされつつあるようだが、「輝緑凝灰岩」は、1970年代で止まっている状況である。笠置山も含めもう一度立岩遺跡を見直す必要が出てきているものと考えている。

 頁岩質砂岩と輝緑凝灰岩をビッカース硬度試験機を用いて硬度測定をされている。結果、今山の石斧は5.68GPaですごく硬いらしい。また、叩いて金属音のする玄武岩は緻密で硬いということも経験でなんとなく分かり、重くて硬い玄武岩を大きな石斧にする今山の人達に感心する。問題の頁岩質砂岩は3.36GPaで、細粒砂岩の石斧と硬度が近いらしい。そして、問題の輝緑凝灰岩は軟質で測定が出来なかったという。頁岩質砂岩は石斧の硬度に近く、薄く剥がれる性質がなければ石斧でもいけるかもしれない。一方、輝緑凝灰岩は軟質で石斧に向かないようであるが、石庖丁には向いていたようで、軟質でも稲穂は摘むことが出来るようである。笠置山には黒い頁岩が大量に産出し、磨製石器の材料にもなっているが、どうも、前期段階で、石庖丁には軟質の輝緑凝灰岩がお気にめしたらしい。もっとも、軟質という点では切れ味が落ちてもすぐに研ぎなおせるという利点はあるようだ。草を刈る人達が大鎌や鎌を使う際には、常に砥石を携帯して近くの水や草の露、それもない時には唾で鎌をといでいる。
 実際にどうなのか、笠置山には頁岩や粘板岩もあるのだが、好んで紫の軟質な石材を大量に製品化している。硬度や粘り、加工のしやすさ・・・重さはどうであろう。輝緑凝灰岩は思いのほか軽い、石斧と違い稲穂を摘むのに重さはあま関係ない。むしろ、稲穂1本ずつを摘むには軽くて切れ味がよく、研磨しやすいものがよい。本体を薄く仕上げる必要もない。逆に、緻密で比重があるものはより薄くする必要があろう。稲穂を1本ずつ摘み取っていくのだから。

 気になる記載が14ページの終わり頃に、立岩の石庖丁の石材である輝緑凝灰岩が河川で採集されていたようにということで、森 貞次郎先生の文献から引いているが、先生は川床に輝緑凝灰岩の礫がおびただしくあるということと、その後に露頭を発見したと書いているが、川床の礫をそのまま拾ってきたとは書いていないと思います。その後、何人かの研究者が川床の礫、割り取った長方形の石片、一時加工した石片などと記載していますが。残念ながら現地での調査は行われておらず、どういう石材の採集を行ったかは、不明と言わざるを得ない。したがって、菫青石ホルンフェルスも同じように河川の礫を採集したのではないかという考えは、現状としてストップしておいた方がいいと思います。
 というのも輝緑凝灰岩の場合、河床の礫になると意外と硬く加工しにくいものです。しかし、露頭から長方形に剥がれる石材は薄く加工しやすいのです。菫青石ホルンフェルスも露頭からの採集を考えられてもいいと思います。

 7/27 ようやく、回顧録を60ページにまとめ、中学編のスタイルで投稿しました。まぁ、採用はされないでしょうが、ブログ紹介は出来ます。

8/15 一年ぶりに書き込みを行っているような状況です。考古少年回顧録は、見事に散りました。内容は別のブログに掲載しております。なかなかアクセスがありませんね。落ちるはずだし、小説でもないから、もっともですわ。ツイターで愚痴るのもいいですが、私はここで頑張ります。

石包丁の原産地については、小田先生の喜寿記念になんとか掲載してもらいました。第三者の調査も行い一応認めていただいたと感じております。また、行政的には宮若市に入るので、先方の教育委員会にも直接申しております。そのうち、周知の遺跡として登録されるはずですが、なかなか進んでないようですね。かなり重要な遺跡で今後の研究に活用される、あるいは、活用すべきと感じております。

8/16本日のお昼に我が家に用事があってもどると、玄関の床にやまかかしの小さなやつがうろついてました。すぐさま、かさで追い出しましたが、初めて蛇のお客か、これは何やらお金が入る前兆かと喜んで家族に話すと、蛇のようなまなざしでにらまれました。今日は夕方に自転車に乗ろうと思います。40分程度でしょうか、乗り始めると続くようで、これがやめてしまうと、なかなか乗りたくない。乗っていて思うのは、目的地があって乗っているのではなく、なんとなく風景を見ながらぶらついている感じで、写真でも撮りながらとなれば、気分も盛り上がるのでしょうが、窓の外は突然アキアカネの群が飛んでいます。川沿いや水田のところもアキアカネが飛び回っているでしょう。

8/21 昨日は、土曜講座をやっていました。2回目になりますが、台湾の植民地化における主要な施策の中に、教育と社会教育による教化があることがわかり、迎えの車中で先生に、大内氏支配体制の中で、秋月や千手氏が次々に禅宗にかわっていったことを話し、宗教観、世界観といった部分への教化政策ではなかったか、本来は、真言化天台宗であったが、中本山とされる寺院が、地方の核となり政策がすすめられたようです。なんて知ったかぶりを吹聴しました。しかし、この問題は以前から興味を持っていて、政治・経済政策と同時に教化が行われる必要があるのかと考えています。これを、弥生や古墳といった古い時代に持ち込めないか、嘉穂地域であれば、甕棺の導入なんてことも関連するか、尤も、土坑・木棺墓と甕棺墓の視覚的相違はわかりますが、宗教観の違いなどは分かりませんね。そのあたりをもっと追究する必要があるでしょうね。

ニュース「歩けおじん」2 腰痛に要注意

2010-02-06 17:20:46 | Weblog
 石垣島の化石人骨のことである。そもそも、明石の西八木から腰骨の化石が発見されたが、直良氏はじめ眼差しは石灰岩洞窟に向けられた。牛川・三ヶ日・浜北と続くが、断片過ぎたり、新しいものが混じったり、明確なものは三ヶ日・浜北くらいかな。そこに登場したのが沖縄を中心とする琉球諸島の石灰岩洞窟群だ。山下町・港川など点々と発見されている。沖縄の戦跡を訪ねガマといわれる洞窟をいくつか見学したことがある。そこで思ったのは、人類が住むにはいい場所かななんて、戦争の悲惨さを物語る遺品が残る洞窟内でそう思った。20年くらい前の話だが。
 それはそうとして、石器類の出土についてはほとんど聞かないがどうなのだろう。山下町では、骨角器?やハンマーストーンなどが出ていたようだが、石器類の関連がよくわからない。いずれにしても、今後のさらなる発見が期待できる良好なフィールドのようだ。そこから、九州へのルートはすでに考えられているようで、洞窟を積極的に利用する旧石器人は、どうも、今の所南方経由型か、例えば福井洞穴などもなんとなく関連があるのか。列島の多くの場所に洞窟遺跡があるが、そのほとんどが縄文草創期で、九州以北では南方系の進出はどうなのか、もう一つは朝鮮半島経由、それと、北方から南下する人々など様々である。
 田川市の岩屋1号洞窟を掘ってみたいね。県指定だが堆積物を探るのは、いいんじゃないかな。洞窟遺跡調査を試みたい方々へ、是非、1度たずねてみてください。
 おっと、そうそう、考古学やってる皆さん、無理して長年発掘やっていると、腰に来ますよ。

 2月も中旬に入りますね。石垣島の人骨記事をインターネットで探していたら、大腿骨も出ているようでしたね。骨に含まれるコラーゲンでC14が可能とか例のなんたらスピン法ですか、2万~1万5千年まであるようで、測定値が正しければ3段階にわたって人類の痕跡が残されていることになりますね。不安なのは、発掘状況、特に層位の関係が伝わってこないし、道具類の提示も全くありません。港川のように石灰岩の裂け目に何らかの理由で埋まった、あるいは埋められた可能性があれば、道具は無理でしょうし、スティルクフォンティンのようにヒョウなどの猛獣が狩った獲物とすれば、これも道具はないでしょうね。もっとも、獲物であれば人骨に歯形が残るでしょうが。
 その洞窟で過ごしたのか、運ばれたのか、流れ込んだのか、そのような点が分かれば、なお、興味がわきます。
 沖縄諸島は石灰岩多く、近年の化石人骨はほとんどそのあたりからのものですね。九州や四国、本州をはじめ結構石灰岩の分布は知られていて、規模もかなりなものですが、なんといっても、セメント関連企業による鉱業権が設定されているから、うかつによれないのが難点ですね。それでも、帝釈峡なんかは何十年も調査をやっていますが、化石人骨にたどり着けない。三ヶ日や浜北などいずれも石灰岩の裂け目に流れ込んでいる。逆に考えれば、近辺にいたことは間違いないですが、旧石器時代の石灰岩洞窟利用がよくわかりませんね。
 それが、草創期あたりから盛んに利用し出す。氷期に利用せず、暖かくなると利用を始めるこれもまた解釈に苦労します。
 インターーネットを見てたら、人骨は流れ込みのようですね。正式な発掘ではないようで、2010年に正式な発掘調査に入るようです。期待してます。
 
 2月14日の朝日に高島忠平さんの記事があった。今年度で学長をやめられるそうである。いつもは、詰め襟のワイシャツだが、さすがにネクタイ姿での写真である。九州説を唱えるにあたりかなり勇気がいったこと、はじめは、奈文研の中で1人九州説側で討論し、全員にひどい目に合わされたこと、その火付け進行は坪井さんだったこと、立岩の発見者で佐賀県ではニ塚山遺跡にすぐに遭遇し、吉野ヶ里地域の秘めた可能性をうすうす感じていたこと、吉野ヶ里遺跡の調査、国指定、全国に先駆けた広大な史跡公園の完成、九州邪馬台国説の先鋒、様々な経歴と顔を持った方で、紅白の審査員をした考古学者は、高島さんただ一人かと思う。
 偶然、「卑弥呼と台与」を840円で買った。何の事はないが、前1世紀から邪馬台国の時代まで続けられた中国との関係は、九州からはじまり受け継がれている。一方、あきらかにヤマトが勢力拡大あるいは統一を行う4世紀前後から100年以上中国との関係は断たれている様にみえる。邪馬台国とヤマトの中国政策について断絶を感じるのである。それまで、統一や勢力の拡大、安定には中国の後ろ楯が必要だったのが、何故ヤマトは必要としなかったのか、ヤマトは邪馬台国の系譜を受け継いでいないのではないかとも思えて、たまたま、木曜にかったのだ。そこに、高島さんの記事を見つけたわけです。

 「卑弥呼と台与」の最後にありましたね、ヤマト政権がなぜ中国の力を後ろ楯にする必要がなくなったのか、前方後円墳の出現によりその上での儀礼行為によって首長継承がスムーズになったとか、どうでしょうね。例えは悪いが、ある組織グループが治める地域がある。その縄張りは、他のグループからちょくちょく狙われる。そこで、巨大な組織に属すことで庇護を受けるが、代償を支払う義務が生じる。しかし、この関係なくしては外敵から身を守れず内部分裂も起る危機がある。それが、邪馬台国でも継続される。卑弥呼の没する前には、真っ向から対立する狗奴国があり、30余とされる以外に様々な国の存在も考えられる。しかも、卑弥呼の死後男王が出るが治まらずに台与が擁立されるという。不確だが資料では倭から使いが来たと言う。そのような不安定な状況の中で、いわばまつろわぬ国々をはじめ、内部抗争を停止するような力が古墳と継承儀礼にあったのか、しかも、1世紀余りの間である。そして、5世紀の巨大古墳群がヤマトに登場し、それこそ列島内に前方後円墳が続々と作られる頃にようやく、中国に使者を送るというなんとも理解できないことが、起きているのは事実であろう。むしろ、謎の4世紀こそバックの強大な権力を必要としたのではないかと、これまた単純に考えるわけである。また、中国へは九州の諸勢力の力がないと渡れなかっただろうから、特に、1世紀後に使者が使わされる際は、その傾向が最も強く出たと考える。まあ、今の所こんなんかなー

 2月20日 久しぶりに福岡旧石器文化研究会の例会に顔を出す。九州大学キャンパス予定地の発掘現場を見学、出土遺物を見てから内容の検討会。その中で、石器研究とは異なるが、近年のC14関係の年代データで驚かされたのが、撚糸文土器の年代であった。浦江・松木田・大原Dなど9000年以上前のデータが示されていた。最近、縄文の情報にうとかったが、関東の撚糸文とほぼ同時期ではないか。唖然とした。それまでは、東日本で確立する撚糸文の影響下で北部九州あたりに出現するが、押型文土器に若干伴うものくらいの認識であったが、あらためて、年代を見ると「えー」と素直な感想。ところが、その系譜がわからないと言う。西日本での撚糸文土器の資料は圧倒的に少なく、どこをどう経てやってきたのか見当がつかないのが現状。しかし、確かに、撚糸文土器で構成されるような遺跡が、九州大学キャンパスの造成が進む地域に存在している。
 もう1点は、撚糸文が斜行しいる資料が多い。古式のものは横位方向に施文されているようで、本気で撚糸文の解明を行う必要を感じている。実は、この一連のブログの中に撚糸文土器群についての疑問を感じて書いていた。
 東日本には、草創期の後半に絡条体圧痕文を含む非回転押捺の多縄文が出現する。室谷などは半回転の付加縄文かな、それから、回転押捺の時代へと入る。少し乱暴な展開だが、多縄文の時期に、縄文と撚糸文の原体は揃っていて、それを回転させる施文が井草、大丸、夏島、稲荷台と変遷していく。ところが、その夏島と変わりない年代が得られている撚糸文群は、現状として前後が全く不明なままである。少なくとも、絡条体の原体があり土器面に回転押捺させる技術の存在はある。
 今、思い出したが福井洞穴の出土土器中に線縄文(縄文原体を横位に押捺したもの)があったのを水ノ江氏のスライドで見た。氏も不確かながらそのことに触れたが、それ以上の進展はなかった。もしそうであれば多縄文群の可能性もあろうが。

 2月23日 福岡市松木田遺跡の報告書を再見する。土器の230番には、口縁部に半円状の突起、すなわち、把手が付されている。カーボンでいくと8500年前となるから縄文早期に位置するものである。1972年段階で、全国的視野に立って縄文土器の把手の出現は、関東の田戸下層式とされている。関東では撚糸文から沈線文の段階に入っている。そのあたりの整合性はどうなのか、関東と九州では地域が離れすぎて比較できないとして、独自に考察するのも当然であるが、松木田の例は、田戸下層式より関山などに見られる形状である。
 さてさて、何をどう考えるのか慎重にならざるを得ない。
 大形石鏃様のものが、山形県日向洞窟発掘資料中に存在する。石鏃と石槍を比較研究するには、同遺跡資料も参考となろう。現状として西日本に類例が、まだないとすれば、東日本にも視野を広げてはどうだろう。

2月24日 
 山内清男氏『日本先史土器の縄紋』によれば、早期の時期にRとして押型文土器に伴うもので判断したとしている。吉備も同様で畿内はRかLは不明であるが押型文に伴うようである。関東がLの斜位のものがあり、続いてRになる。もちろん、情報は1960年代までのもので、50年以上も前のことではあるが、関東では縄文・撚糸文全盛期の時期が、あり、それが、微妙ではあるが九州方面に及んでいる可能性が見えるが、近年まで九州の撚糸文群は、押型文に伴うものと判断され、それほど注意は払われなかった。
関東を中心とする回転撚糸文は縦位方向を主とし横位方向は希である。器面に45度近くから横位方向の斜行撚糸文とも言うべき福岡市西部の一群はどう解釈すべきか。撚糸文の施文は条間が密であり、コイル状にかなり密に巻かれた原体を使用しているようであるから、器面に斜方向あるいは横位となろう。稲荷台式のように条間が離れていれば、斜方向に施文しないと縦位にはならない。
 また、密に巻かれた原体を考えると関東の早期でも、井草・大丸や夏島といった古式の様相と類似する。山内氏は、押圧縄文(多縄文)までは、文様帯(古)があり、撚糸文群の時期に文様帯の断絶があり、再び、文様帯が出現するという。(小林達雄氏は、撚糸文群にも文様帯があるとした。)この文様帯が途絶える時期には、全国的に縄文・撚糸文が拡散するのか。これも、系譜が解らないため類例を待つしかないだろう。ちなみに、多縄文の時期に、線縄文や絡状帯圧痕文は横位の展開であるのだが。
また、円孔文とどのような関係にあるのか刺突文も福岡ではかなり広範に認められる。時期的には、なお型式差があるようで、福岡市西部では条痕文⇒撚糸文⇒刺突文といった年代差みたいなものがあるようにも見えるが、なんともいいがたい。条痕文や撚糸文は純粋なものがあるが、刺突文は条痕文や撚糸文と組み合っており、条痕文・撚糸文の次段階での刺突文の導入ということなのか。

 3月えーと何日かかな、とにかく土曜日だ。あまりの衝撃に曜日も忘れてしまった。何が原因かって、きまってらー「石垣島の洞窟遺跡破壊」という朝日の記事です。ガックリもいいとこ昨日は飲みすぎてしまった。いつもだが。今回は何が何だかさっぱり分からないが、新石垣島空港建設に伴い、数年前から化石骨を多く含む堆積物が確認され、しかも、頭骨を含む人骨が発見され、新聞に大きく報道されたじゃないの。それがなに、一転して堆積物のほとんどがなくなった。空港建設賛成反対の様々な葛藤はあったろうし、今でも続いているのだろうが、以前からの調査要請に県教育委員会は重い腰をなかなか上げなかった。空港の完成図を見ると橋の方だよね。ここに、貯水池を作るのだとか、そんなもの少しずらせよ。
 それはともかく、洞窟遺跡内に入りにくかったので、天井部を重機で引っぺがしたんだって、堆積物中に目に見えるものがなかったから埋め戻した。なにそれ、考古学の土器や石器ではなく相手は骨だよ。石灰華に包み込まれ、土とまじりあったような状況、しかも、土自体が白かったら白に白、見えないよ。それとも、目をつぶったか、知っていながら知らんぷりだったのかな。前庭部もなくなっているところを見れば、洞窟遺跡云々は知っているね。県の担当者様よ。堆積物や前庭部の土はどこに持っていったの、全力で探しなさいよ、まだ、見つかればきっと出てきますよ。遺跡はなくなっても人骨等の資料が残れば幸いとして探しましょうよ。
 直良先生と腰骨(明石原人)の因縁を読んでくださいよ。守りに守ってついに戦火で消失、残った石膏模型がふたたび論争を起こし、とどめを刺すように人類学者から中世以降とされた。直良先生のご子息はその化石化した状況を観察、重量感まで記憶してあった。いくら状況証拠をそろえても化石がないから先には進めない。直良先生の叫びが聞こえますか、洞窟の上を重機で割り取る調査方法は誰が教えたのですか、何と言う先生が教えたのですか。前庭部から洞窟ないの堆積物をどのように葬り去ったのですか、教えてください。
 緊急調査の状況や苦労は分かります。いたばさみになっていたのでしょう。みんな逃げますよ、最後は担当者が責められますよ。だから、埋め戻したなら、再度、自然科学系と一緒に、どこかに処分したのなら、断片でも調査してください。お願いします。
ちなみに、先日『ホモ・フロレシエンシス』の上下巻を買って呼んでいる最中だった。

 3月17日 中学生時代にひろった大形の扁平片刃石斧についてに聞いてみた。案外のものらしい。早速、下條さんが書かれた伐採石斧の論文に目を通すと、形状の似たものがあった。こりゃ大変とばかりに、採集屋の魂が揺さぶられた。近日中に36年ぶりのひろった場所に行ってみることにしている。
 つくづく思うが、正直なにより心ときめくものは、遺物の採集でことに古い石器がよい。しかも、誰も見つけていない遺跡を探すことに燃えるようである。なんと、中学時代から何も変ってない自分に驚く。

 3月19日 古八丁峠の指定範囲測量に行くが、足腰がバリバリになった。光波をもって距離等を計測し簡易な作図を試みる。それと、やはり行ってみるもので、下草まで刈ってあり峠の石畳の片側のみ建物跡を発見していたが、反対側にも簡単な石垣と平場があり陶磁器類がけっこう落ちていた。中に江戸期のものらしいものや縄文土器のようなものまであった。また、下りの石畳付近で江戸期の古そうな磁器も発見した。何より、足を運ぶことがかんじんと反省する。しかし、そう簡単に近づけるものでもない。ほんと、運動不足です。

 3月21日 彼岸参りのついでに篠栗町若杉の長者ノ隈古墳の北側に西浦池に行ってみた。なんと、40年ぶりくらいにお寺の人と再会した。私より2つ上、さらに、3月上旬の紅姫祭りの時には、40年以上であろうか、小学校低学年のころよく遊んでくれた近所の兄ちゃんにあったばかりであった。今回池に来るのもまさに36年ぶりである。運のよいことに池の水は完全に抜かれていて、工事が行われようとしていた。久々に池に降りたが重機が中を走っていて、そこの一部は剥ぎ取られ片岩系の石がごろごろと露出している。まあーこの中で遺物を狙うのはかなり困難である。
 とりあえず、昔の記憶を頼りに池に流れ込む所に近づくが何も落ちていない。以前は、砂っぽい堆積がありその中に片刃石斧があったが、今回は、土ごとはがされ何もわからない。そこで、池はあきらめおそらく石器が包含されていた小川沿いの水田地を歩き回った。小石がかなり混じる扇状地のような地形で、ほ場整備は受けておらず以前の地形そのままに水田にしているようである。中に、数箇所畑が作られていたので見てみたが、それらしきものはなし。ただ、龍泉窯の青磁片を拾ったので、中世初頭遺跡があることは間違いないだろう。
 それにしても、懐かしい人物2人と再会したことのほうが私にとってはよかった。

 3月最後の日曜日、昨日の夜久々に佐藤達夫氏の「縄紋草創期前半の編年について」を寝床の中で読んでいた。隆起線文土器と爪形文土器の位置関係について爪形文に隆起線文が後続するというもので、波紋をよんだ内容である。そして、最古の土器として小瀬ヶ沢洞穴の窩紋土器、刺突紋土器、箆紋(櫛目紋)土器という候補が提示され、その系統をウラディウォストク近くのザイサノフカⅠ遺跡、あるいはミヌシンスクのサラガシやシャバラク・スクのものに求められている。近年、窩紋土器については縄文原体の先端による刺突文が確認されたようで、多縄文に含められているようである。佐藤氏は「土器は土器から、文様は文様から」という原則にのっとられ土器の位置付を石器によった福井洞窟の2層・3層の問題を型式学に基づけばという問題提起をされたのだと思ったわけである。
 当時、福井洞窟の調査で土器に細石器が伴うということで、関東以北で確認されていた隆起線文や爪形文と九州のそれとが整合しないことになり、西高東低あるいは九州だけ細石器が残存するという考えが登場するのだが、その辺の整理はまだ判然としないようである。
 また、豆粒文土器の位置付や九州の細石器が爪形の次の押引(刺突)文まで残ることなど、本州域とは不整合の状況らしい。これも、福井洞窟の再調査が行われるようで楽しみの一つである。
 
 なんか、野尻湖から45,000年前の敲石が出土したとか、写真を見るとこげ茶の土に青色の楕円状をした円礫が写っている。なんでも、キルサイトというからナウマン像やオオツノ鹿を解体した場所なのだろう。もう少し探るとほかの石器も出てきそうであるが、がんばってください。必ずあると信じてやれば、けっこうむくわれます。確実に動物の化石は出土していますから、ヨーロッパ的ですね。私の好きな『ライフ』の91ページにスペインのアンブロ谷の発掘の様子が写真に出てます。クラーク・ハウエルが発掘したもので、94ページの図を見ると、結構石器が出てますね。特に、剥片や剥片石器が多いようで、その場で解体用に石器を作ったのかもしれませんね。範囲は結構広いようで像を中心にかなりの骨が出ているようです。
 日本列島に到達した人類の年代を限定的に考えるというのがありますね。立川ロームのⅩ層ですか、それ以前の例はないという考えですね。それ以前を見つけてほしいという希望の現段階ですか、それとも、ありえないという否定的見解でしょうか。
 あるというのは、岩宿ではないですが1箇所見つかれば扉は開きますね。しかし、「ない」という断定はよほど難しい。出アフリカもグルジアのドマニシでアフリカのホモ・ハビリスやジンジとほぼ同じ年代の人骨が出ているという。極東地域への到達ももっと早くなる可能性がないかな。
 とにかく、すべての地域でより古い確実な証拠を探そう。あせりは禁物、まずは、野尻湖なんか力を入れるべき遺跡であろう。期待してます。

 4月21日 しばらく書いてませんでした。嘉麻市の沖出古墳公開を17・18の両日に行い180人くらいのお客さんを案内してました。王塚古墳の公開にあわせて遠賀川流域の古墳を一挙公開というところです。沖出古墳は、完全に近い状態で復元した4世紀後葉の前方後円墳で70mほどあります。割竹型石棺という珍しさに加え、近年、石棺に朱が塗られていたことがわかりました。過去に何度となく盗掘され副葬品は残っていませんでしたが、盗掘した穴の底から三種の腕輪が見つかっていて現在県指定になっています。
 しかし、装飾古墳の人気には勝てずいまいちお客が少ないのが悩みです。まあ、王塚古墳に勝とうとは思ってませんが。
 最近新聞で、アウストラロピテクスの新種が発見されたとか、南アフリカだったかな、タウングチャイルドと関係するのか、アフリカは新発見続きで、200万年あたりのころに極端に種がふえるものの、ピテカントロプスの時期には、何らかの原因で種が少なくなった。隕石かな、なんて、これも新聞ネタで古生代から中生代に5回にわたって生物群の絶滅状態があったとか、旧石器以降の日本列島での画期といわれるものにも小規模ながら絶滅とはいわないが人口が著しく少なくなる何かがあったかもしれない。災害考古学とでもいおうか、弥生後期初頭ころの飢饉説を書いたことがあるが、そんなことも頭の片隅におくと、面白いかもしれない。

 4月23日沖出古墳公開翌日より風邪をひいてしまい、木曜は1日休み、昨日は耳鼻科にかかってしまった。というのも、45歳を過ぎるころから、春前後に鼻が悪くなり急性の蓄膿になってしまうのだ。何度かそのような経験をしながらも、洗浄と飲み薬で快復していた。ところが、あるとき担当の先生が、薬を直接患部に注入する方法がありますのでやりましょうという。「え、洗浄じゃないですか」と聞くと「治癒するのに時間がかかるし、再発する可能性も高いですから、薬を入れましょう。」しかたなく「はあ、お願いします。」「そうですか、やり方は簡単です。この鉄の鍵爪で鼻の中の骨に穴を開け、そこから洗浄液を流し込んできれいになった所で薬を注入します。」・・・「えっ」見ると歯医者で使用する鍵爪の柄が太いもので鼻に差し込んで側面に穴を開けるという。しかたない、イエスと返事をしてしまったからにはしょうがない。やがて、注射による鼻の中の麻酔がはじまった。「少し、チクットするかもしれません」チクッどころではない、異様に長い針が鼻の中にめり込んでいく。なんとか辛抱していると「麻酔も聞いたようなので」と例の器具を左側の鼻の穴から入れはじめ、「このあたりで」といいつつ両手で汽車のレバーを動かすように力を込めた。鼻の骨がミシリと曲がりやがてグズっといってバキッと音がした。貫通である。こんな思いをするなら、なるべく早くに医者にかかる決心をしたのである。
 おかげで、今回も蓄膿ではなかった。年齢とともに虚弱になっていくのがひしひしと伝わり、医者がよいがやたらと多くなった。そうそう、先日も腰と首を診てもらいに病院にかかっている。
 
 4月24日 夕方のこと飯塚市の花瀬あたりで石をふみ突然のパンク、おそらく、タイヤが切れていると思う。久々のタイヤ交換でくたびれてしまった。最近の車のキットはちゃちでジャッキをあげる際に回転させる棒が見当たらない。適当なものでやったが、タイヤ交換なんかする人もめっきり減ったのであろう。
 ところで、よさそうな地形と切通しを見つけた。不幸中の幸いかもしれない。明日、早速訪れ見よう。何か発見できればよいが、嘉穂盆地ではどうにもアンテナが働かない。何か調子が今一である。

 4月25日(日) タイヤは側面が切れていた。最近、新しいのにやり変えたのに交換しかない。なんだかついてないよなあー。「何かに当ったなら」ということで、スクラッチを5枚買っていたのをみんなで削るも、100円当っただけ。当りは当りだがなんだかさびしい。
 昨日、パンク修理中にふと見つけた丘陵の切通しに行ってみた。やはり、スカだった。しかし、丘陵上には墓石があり、一軒家がたっているがその上の丘陵部には、古い墓石が倒され木琴のように並んでいる。さしずめ、ポルターガイストのそれと似ている。考えすぎかな。
 この、ページも10000字の限界に近づきつつある。内容は、さらに続く。ひつこいかのー

ニュース 「歩けおじん」

2009-12-27 00:31:38 | Weblog
 宮崎の藤木君へ「歩けおじん」からの緊急ニュース。
 あの、水が引かない新大間池が池畔の地肌を全面に出しているぞな。奇跡かもしれんので、38年ぶりに池におりようと思う。それと、堤防の脇にある丘陵が削られている。しかも、全面に赤土が露出しているようで、ぜひ確かめなければ気がすまない。同じく堤防のすぐ脇にあった丘陵は、あきらかに弥生の集落であったが、高校生の時に全て削られ、なすすべもなく前期の土器片を悔しい思いで今でも持っているが、今回は、すでに上半分は削り取られ、赤土が露出している。鳥栖ロームかも知れないが、見てみよう。
 報告は後日、夢は大きく、事実は・・・。

 報告します。地球歴 2009.12.27 99%の不安と1%の希望を胸に、新大間池に到着、目指す丘陵の上半部が削られたのはかなり以前と判明、水が抜いてあるのは護岸を拡張する工事のためで、半島状に突き出た丘陵の側面を削ることで、護岸の幅を広げようとしているらしい。しかも、発掘調査が実施されたようで、弥生と思われるがかなり残りの良い土壙墓群が列埋葬状に並んでいた。
 結果から申せば、石器はいっさい落ちていない。あるのは、弥生土器(中期~後期前葉)と奈良あたりまでの須恵器がけっこう拾える。さて、丘陵の断面には鮮やかな土層が見られ、勉強にはなった。おそらく、変成岩の丘陵が谷状に開析され溝状のくぼみなった所に阿蘇4が堆積したように見えた。侵食された大きなくぼみを最初に明黄色の粘土がかなり厚く堆積した後に赤色の粘土層が覆っている。おそらく、八女粘土と鳥栖ロームと考えられる。
 それでは、八女粘土と侵食された変成岩の谷間には何があるのか、そこには、厚さ30㎝ほどの赤黄色粘土と変成岩の角礫層があり、全くの無遺物層と判明、しかも、変成岩中には部分的に石英の厚い脈が見られる。そのほか、過去から露出している石英脈も観察できた。
 問題は、ローム中から石英の角礫が少し顔をのぞかせているのが、土壙墓の断面から確認できた。位置は、鳥栖ロームと八女粘土の境付近、しかも、自然礫でした。一瞬、全谷里が浮かんだのだが、火砕流に挟まれて石器は無いだろうと思い直した。石英の露出するあたりには、自然に破損した石英の角礫で覆われる感じ。しかし、石英がなくなると別の石になるようで、まさに、天然物、金木のエオりス出土状況のモノクロ写真が目に浮かんだ。石英の破砕礫を見てるといい形のものが、確かにある。節理面からの破損で、縦方向のラインはばっちりで、鋭利な刃部をおもわせるものが、ごろごろしている。藤木君も新大間で目撃しているだろうが、おやっとおもうものがあるよね。しかし、整形や調整の連続した剥離が見られない。そこが、くやしいけど全谷里と違うんだね。
 仮に、石英製石器群が出土するとすれば、若杉山から続く丘陵の赤土に埋もれた、半透明の質の良い石英を狙うと思うがどうかな。
 38年ぶりの訪問は、実物なしの地層情報のみで終了。久しぶりに池の急斜面を横歩きして、坐骨神経痛が襲ってきた。しかし、「歩けおじん」で気持ちは晴れている。 以上

 12.30になった。晦日というやつで、今年最後のミニロトを新聞で確認するのだが、当たればね。
 今年も嘉穂地域で旧石器に遭遇する事は出来なかった。丘陵や台地において、阿蘇4が各所で確認できるようだ。しかし、その上が流れ去り低地に堆積しているように感じる。嘉穂盆地はすり鉢状の地形となっていて、周囲の開折は著しい。ましてや、中生代の花崗岩が基盤となっており、真砂と呼ばれる風化土壌は柔らかく風雨の餌食となり、堆積層を容易に手放すようである。
 その代わりに、各所に石英が見られる。韓国の古式の石器群は石英の利用が良く見受けられる。仮にホモ・サピエンス以前に朝鮮半島から移動してきた人類がいたならば、少なくとも福岡の地で石英をのがす法は無かろう。もっと、石英の自然破損と人為的加工の差を観察せねば。とにかく、福岡は原材料に乏しい所で、石英・玄武岩・中生代の頁岩くらいかな、海岸部に瑪瑙とかチャートもあるらしい。そうそう、添田の瑪瑙も忘れる所でした。来年に続く。

 新年おめでとうございます。去年の暮れ朝鮮半島経由の旧人以前の人類を想定した場合、石器の材料として半島で使用していた原材料を最初に探すはずと考えたわけで、これはいいせん行ってると思う。最初に壱岐・対馬あたり、北部九州西岸である長崎から福岡の海岸部を当然経由し列島各地に拡散するよね。
 したがって、関東はそれより後になることは当然で、その年数を長期・中期・短期と考えるかであろう。関東最古の石器類は、河岸段丘に含まれるチャートなど身近なものを使っているらしい。北部九州では何を使うのか、まずは石英であろうが、多くの遺跡で石英が確認されても現実として、なかなか石器として観察する、あるいは、した例を聞かない。先ず、加工痕を観るのが困難、当初から石英は石材から外して考えているなど、担当者の考えに左右される点がかなりある。
 しかし、全谷里みたいなものが確認されればなしは別であるが、全谷里もかなりの剥片等があるはずで、石核石器の最も観やすいものだけを並べられても難しい。旧石器研究者は、半島で発見されている古式石器類と剥片など機会を見つけて写真等でも紹介願いたい。日々発掘され一部は出土しているかもしれないが、担当者の眼力にかなわず捨て土の山に消え去っている可能性があろう。
 もっとも、新人の日本列島到達を4万年あたりと考え、すでに石材もより石器製作に向いているものを選択する能力を身につけ、渡ってきていれば上記のような考えはもつ必要もないが。まてよ、福岡県内は石器の素材に恵まれてないため、素通りされてしまったかな。周囲の県に散在する黒曜石やサヌカイト、ホルンフェルスなどを知った上で、あらためて、福岡の地に入り込んだのか、いやはや複雑ですな。

 考古学研究56-3号 ついに出雲市の砂原遺跡をめぐる意見が述べられていますね。グレーゾーンという表現、自然破砕礫と理解しても十分合理的との疑問視もあり、今後の発展に興味があります。もっとも、島根県は小野忠凞先生が碧玉製石器を前期旧石器として研究されていた地域で、碧玉や玉髄、瑪瑙なんか結構原石があるんでしょう。内容を読み進むうちに前期旧石器の問題点として、杉原先生が単純に2つの問題点をクリアーしなければならないとして、出土した地層と人工品であるかどうかということを記されていたことを思い出しました。そういえば、以前、明石の西八木海岸近くですか、やはり、玉髄製のとても古い石器が出たとか。
 やはり、杉原仮説を打ち破りたい人は多いと思いますが、大多数を納得させるだけの遺跡に当たっていないのが現状でしょうね。ランドブリッジを渡って来れば、やはり、壱岐・対馬・北部九州沿岸と近いところの海岸部から攻めるべきかな。オーストラリアやアメリカでは、けっこう単純に渡ってきたルートの海岸部をかなり攻めながら成果をあげてるようですね。
 個人的には、福井洞窟の再調査にかなり期待しているんですが。
 
 11日、全国で成人式です。20歳といえば今から31年前私は何をやっていたのだろう。大学の委託寮「楊井第一学寮」の一室に虫のように蠢いていたのはま違いない。寮の位置する台地は荒川が形成した段丘で、多くの遺跡が点在していたが、とりわけ、寮付近は古墳が点在し、格好の餌場だった。台地の端に白髭神社があってその脇に畑が広がっている所で見事な黒曜石のナイフ形石器を採集したのが20歳の秋頃で、さらに。チャートの切り出し形ナイフも離れた場所で採集していた。黒曜石のナイフをめぐて「茂呂タイプ」か「杉久保タイプ」かでちよっとしたもめごとがあったが、それは、考古少年回顧録の学生編に掲載している。
 あの頃、よく耳にしたのが、砂川、月見野、野川で野川のものはどこかで必要な分をコピーした覚えがある。たしか、その夏に山形県の月山沢遺跡の発掘に参加したのだと思う。弓張平の見学はその時に行った。
 よく、我々は人と会うごとに「何やってるの」と問いかける。これは何時代ということで、次に「どんなこと」と「あぁ、それだったら何々もう読んだよね」と相手のレベルを少しずつ探っていくのである。そして、自分とかぶる時代だと、「これこれしかじかと」精一杯な聞きかじりの言葉を並べて立ち向かうが、あっさり、袈裟懸けに着られ微塵となる場合があった。というか、全くレベルが違うやからがいたのである。
 レベルは関係ないが、「旧石器をやってます」とかいうと、まず、はーんみたいな表情から「芹長さんかな」とジャブがはいる。つづいて、「彼プレやってんだって」とくる。「プレてなんやろう。」と考えていると、無土器・先土器といった時期区分の話から、旧石器を使うなら前期・後期、あるいは、前期・中期・後期と区分して使用すべきで、「後期以前の遺跡はどこに」とくる。早水台や星野、岩宿0文化といった点をあげると、「あれ石器かい」と帰ってくる。最もこちらは、「石器時代の日本」を中学からバイブルとしていたため、「日本の考古学Ⅰ先史時代」は、もちろん座右の書であったが違和感があった。その後に「古代史発掘 最古の狩人」を購入、カラー写真で見る石器群に興味は尽きなかった。そこに、早水台等の資料が「石器かい」と来ると、何じゃかじゃと理由をつけて話すが、まとまらない。そこを察知しながら、それぞれの批判を連打され、ノックアウト。自分で探す決心を固めるのだが、また、同じ様な話になる。あれから31年、大学の終わり頃から宮城県中心の例の遺跡群が日本全土を席巻したが、あの結末、くしくも友人は、「お前があの場所にいたら確実に飲み込まれていたよ。九州でよかった。」その一言は心に響いた。わたしの性格を見抜いた一言だった。
 派閥の戦国時代から全国統一を果たそうとしたが虚実の世界に終わり、前期旧石器の崩壊を経て、今度は全国の研究者の目で確かめようとする時代に入ったようで、学問的にはいい傾向と考えます。願わくば松藤先生が、砂原遺跡の資料をより多くの機会に公開するとともに、平面的に剥片や製作が分かるような良好な地点を探査し、誰もがうなづける遺跡として欲しいですね。あの資料群が石器なら、近くにかなりの数の資料を包含するキャンプ地があるかと思います。石材の採取も含め、ぜひつきとめてください。その際には、石英も頭の隅に置いてください。 
 
 1/13から大雪、その頃久々に杉原君から電話がかかる。九州歴史資料館にある嘉麻市関連資料の引き取りについてということで、60箱くらいの量があるらしい。もちろん、引き取ることになるが、思い出深い九歴移転はやや複雑である。中学から何度となく訪れたいわば聖地とも言えようか。ちょっと、おおげさかな。
 それと、期待できるグッドニュース、これは、後日分かるでしょう。今、加藤晋平さんの「日本人はどこから来たか」1988を読み返していました。また、日経サイエンス「人類の祖先を求めて」や「人類の足跡10万年全史」なんかも見ております。DNA分析が進み新人の出アフリカから世界への拡散について取り沙汰され、東アジアの東端に到着したのが約4万年前、ランドブリッジを渡り日本列島到着は、立川ロームの最下部あたりになろうか、3万~3万5千年前で、所謂ホモ・サピエンスとなろうが、これに近いのが立川や武蔵野で確認されている古式の石器群、このあたりが列島到達の初期人類となるのか。山下洞窟が3万2千年くらい前かな、福井洞窟が昔の炭素14測定で約3万2千年以上前となり、このあたりに確実な列島内の石器は集中している。
 問題は、関東の武蔵野ローム以下のところになるが、そこから先がぷつんと切れている。「シンポジウム 日本旧石器時代の考古学」1977の中で、下末吉期約13万年前の関東における古東京湾が、貝塚氏によって154ページに掲載され南関東が海進により海になっている状況が示されている。その後も氷期により海進・海退をくり返すのであろうが、武蔵野ローム以前の石器文化を追及するには不向きという意見もある。
 今、最も関心があるのは朝鮮半島と列島の石器文化の関係がどう整合性するかである。例えば、中国から朝鮮半島への人類の拡散は、近年、意外とスムーズに流れているようである。これは、中国や朝鮮半島の古式石器群の年代がどうなのか、私には分からないが、そこでかなりの間足止めされたのか、動物群は拡散し列島に到着しているようだが。さてさて、問題である。
 
 1/21 検索していたら、偶然、砂原遺跡の記者発表資料にあたり、さっそくプリントした。残念ながら石器の図はないが、土層の断面図は見ることが出来た。今、ちょうど下末吉海進にはまっていたので、興味を覚えた。この海進は実際にどれほど海面上昇があったのか、古い本だと5~10mで縄文海進より上昇したようにとれる。いずれにしても、砂原の下層にこの時の海成層があり、その上に砂礫混じりのシルト層がある。これは淡水の堆積なのか、砂礫を伴うシルトで海成層の上部であれば限りなく海岸に近い堆積物であろう。その上に古土壌3が10cm堆積しその中から下部の石器類5点が出土しているらしい。その上に酸化鉄の薄い層があり、その上に礫混じりの泥砂質シルト層が堆積しその中から、9点が出土しているという。上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土している。しかも、浜堤堆と書かれているから、直接的な人類の遺跡ではない。ヨーロッパのハンドアックスが礫層から出土した事は以前からよく引き合いに出されるが、この場合、自然石とは全く異なり誰が見ても石器と分かるもので、昔で言えばアーティファクトかな。今回の砂原はどうなのか、気になるところである。下層のものも含め極めて海辺近くに住んだ人々が残したものと考えられる。その点、出アフリカを果たした人類が海辺づたいにオーストラリアに向ったという説があり、かなり古い貝塚も残っているようで、海辺に住まいした人間も当然考えなければならない。しかし、今回の試掘調査は山側から運ばれたという事実を示しているので、その源を確認する必要があろう。
 星野や早水台でも背後から運ばれた、あるいは、崖推など石器以前に、その環境に疑念が投げかけられている。今回は、ぜひ解きほぐしていただきたい。かつて、礫層出土の問題は古くは酒匂川や早川のマンローにはじまり、椿山や長木などもふくめ問題になってきた。星野では、第3文化層が乱堆積の上層と下層との間の不整合面にあってルバロアタイプの石核など人工品と認められるが、出土層事態に信憑性がないと芹沢先生も認めている。石器はいいがあとが・・・というやつですね。その点を思い出しましたが、Ⅵaの上部石器群は、その不整合面あたりにありますね。古いのは上部の火山灰でわかっていますが、不整合面はどうでしょうか。とんでもない、古ーいものが背後の山から流れてきたなんてね。
 今後の展開が楽しみです。

 1月23日土曜です。休みというのに朝4時に目が覚めました。
 またまた空想ですが、下末吉海進に興味を持ち出したのが最近です。というのも、先の砂原遺跡が話題となった頃から気になりだしたのですが、縄文海進で海水面が上昇し、遠賀川は一時期古遠賀湾となり、現直方あたりまで海水が入り込んでいたという。つまり、遠賀川の流路が現在の半部くらいに縮まった結果、川はよどみ現河川は長い湖のようになり、泥炭のような堆積物を残した。この時の海面は5m以内と考えられている。しかし、下末吉海進は5~10mと考えられていて古東京湾を形成したほどの海面上昇とされている。そこで、仮に縄文海進より海面上昇が大きければ海水は、直方よりさらに奥の嘉穂盆地や田川地域へと侵入する可能性が生じる。さもなくば、流路はさらに短くなり淡水の湖は幅を増したであろう。特に、嘉穂盆地はすり鉢に例えられ周囲から飯塚市の中心街に水が集まってくる。
 さらに、飯塚市役所付近の沖積地は深く、-6~7m付近で弥生後期土器が出土するほどで、遠賀川川底の数メートル下方からも縄文や弥生土器が出土している。何度も言うように想像の域を越えないが下末吉海進により浅い湖や湾が出来たとすればその周囲が怪しいことになるのだが、いかなるものか。それが、最終氷期になり海面が120メートル下がれば、遠賀川はどれほどの流路になろう。盆地盆地内の水は流速を早め浸食が激しくなり、盆地の周囲や中央部をかなり侵食したであろう。それが、縄文海進ですり鉢の底に堆積物を残すようになり、現在に至る。下末吉海進の痕跡が見つかればよいが、その後の阿蘇4に飲み込まれたため容易にたどれない。阿蘇4は盆地内で結構確認しているが、問題はその下になろう。人工物があるなら阿蘇4との境界でも良いのだが、なかなか。

 朝刊に目を通すと、朝日のp24に「石器と石ころどう区別?」という記事を目にした。おや、マニアックな題やなーと内容を見ると、例の「砂原遺跡」に関連して石器と自然石の区別はどんなん。というもので、前期旧石器ではないかとされる、早水台、星野、岩宿0文化などにからみ、いつかはぶつかる「石器か否か」という根本的な問題を著名な先生方にうかがったものである。昔で言えば、「こなた杉原!、かたや芹沢!」という同じ岩宿からスタートされ、杉原先生は岩宿から4年後には、金木で洪積世中葉あたりというかなり古い層から硬質頁岩の石器が多数が発見されるということで、最大の費用をかけて発掘したが、翌年の4月には「偽石器」として報告された。その後、杉原仮説として知られるが、「3万年前の上部旧石器時代になるまで日本列島は無人の地であったろう。」というもので、日本の前期旧石器時代を否定する説を示された。
 一方、芹沢先生は、早水台から星野、岩宿0文化など日本列島の各地を転戦し、石英・硅岩製石器の資料を集め、コールスの3条件やバーンズの統計学的方法、セミヨーノフの使用痕研究、そのほか石器に付着した脂肪酸研究などを取り入れ、石器と石ころの違いを科学的に証明しようとした。この二者対決は決着がつかないまま、捏造事件という思わぬ方向へと進むが、昨今の発見等でも行き着く所はそこになる。杉原先生は「杉原仮説を打ち破って欲しい」と願われた。結局、捏造という大火が思いもよらず芹沢先生を巻き込み、焼け野原の中、再び早水台や星野にとの想いを残された。
 近年の発見を、例えば金取遺跡の場合「石器セーフ、層位はアウト」そう、あの権現山と同じである。入口遺跡は「層位セーフ、石器アウト」として問題を積み残したまま走る現状を述べている。石器の見分け方として安蒜先生は、石器には「割り方の法則性」があり、道具としての機能が反映されているからその点を注意し観察すれば『きちんとした石器なら見間違う事はありません』としている。この「きちんとした」というのが割り方の法則性をもち道具としての機能が反映されているということであろうか。よく以前から引き合いに出されたのが周口店の石英製石器でフリントや黒曜石といった石材になれたものはなかなか理解できないそうで、吉崎先生がシカゴのフィールド・ミュージアムにある周口店のコレクションは、ほとんどバルブが見えないので、そこの研究者達は石器とは理解していないようにボックスに放り込んだままと述べている。もちろん、周口店の石器は「きちんとした」の方に入っていようが。
 問題の砂原について、松藤先生は(人工的な)剥離痕や人が力を加えた部分が認められるため、全て石器であり、発掘した地層中の石は安山岩系が主であるから、石英系や流紋岩といった素材は、(人工的に持ち込まれたもの)で、出土状況も自然石の堆積ではないと述べている。つまり、松藤先生にとっては「きちんとした石器」である。しかし、安蒜先生は、「加工の跡らしいものはあるが」と人工品の可能性を認めて入るらしいが、『きちんとした石器なら見間違う事はありません』には当てはまらないようで、数量が少ないとしている。『加工痕』は「きちんとした」につながらないのか?ますます分からなくなった。
 やはり、、「こなた杉原!、かたや芹沢!」にもどってしまう。ただ、当時は白黒はっきりつかなければ認めない主義、今はグレーゾーンと呼ぶらしいが、何だか、はっきりしない。それと、「発掘した地層中の石は安山岩系が主である」というのは、流紋岩や石英、玉髄などが全く含まれてないのか、記者発表資料には、上層Ⅵaは、山側からの二次堆積で所謂礫層から出土していて、堆積場が浜堤堆と書かれているから、当然、山側と海側も考慮しなければならないだろう。摩滅が進んでいるのならなおさらである。Ⅹ層の礫岩の中にそのような質の礫は混じっていないのか、海側も考慮し礫岩やⅦ層の砂礫混じりのシルト層などもサンプリングしては、あぁ、もうされてますよね。
 
 1月も終わり2月になりました。直良先生の「日本の最新世と人類発達史」『ミネルヴァ』を読んでいたら、旧石器時代の遺物を発見するには、ヨーロッパのように洞窟遺跡を探すのではなく、当時河床であった礫層や湖沼を形作っていた湖成層を探す方が良いと記している。もちろん、当時の常識ではローム層はだめであるからしかたない。それと、西八木発見の腰骨化石(後の明石原人)と数点の石器状のものを意識されているのかもしれないが、今の私はうなづける。もっとも、後に数点の石器状の物を観察した芹沢先生は、一部石器と認められる発言をされている。また、春成さん自ら明石海岸の地層から引き抜いた剥片石器状のものと近年は、玉髄製のハンド・アックスも加わっているようだ。

 腰痛の日々、明日は文化財保護審議会だ、長年の案件は街道の峠道でこれを指定にするにはかなりの困難を生じている。しかし、勉強にはなった。長年お世話になっている先生から、「あきらめずに資料を探し続ければ必ず行き当たりますね。」ありがたい言葉だった。

2月5日金曜日、朝刊に石垣島で2万年前の人骨の化石が出土したと言う。これに関しては、眠った後に書こう。

新「気になることども」

2009-08-03 21:40:26 | Weblog
 最近、プログに集中しません。というのも、古八丁越というテーマでここ数年調べたことをなんとかまとめてみました。福岡地方史研究会の例会で発表したものに手を加えて何とかまとめました。これを、文化財保護審議会の調査記録として提出し、古八丁越の一部を市指定文化財にする基礎資料とします。また、福岡地方史研究に投稿予定をしておりますが、現在、ページ数が大幅に増えているため、上・下の2回に分けてと考えておりますが、内容のまずさで落とされるかもしれません。
古八丁越は、寛永年間に新八丁開削によりふさがれ通行できなくなりますが、九州の諸大名がこぞって新八丁を利用するもので、路銀が秋月藩に落ちる。その内、幕藩体制は磐石となり、領地を狙われることもなくなり、「防衛のため」という古八丁封鎖の理由も薄れ、やがて、人々は古八丁を通行するが、秋月藩もお目こぼしになる。藩の宿駅や城下は、もっぱら諸大名の通行で潤っていた。
 ところが、元禄・宝永になると諸大名は冷水越に移り、新八丁はお特異様を全て失うこととなる。そこで、古八丁越の通行を禁止するのが正徳元年で、ターゲットを一般の通行人とし、新八丁往還に全て客を集中させ宿駅や城下を通行させて、経済危機を乗り越えるのである。それが、幕末まで続くが、文久4年突然古八丁越を開くことになる。起因は第一次小倉戦争、緊急時に際し秋月藩は、古・新両八丁越を開いて、肥後藩を中心とする大部隊を小倉に進ませることとなる。
 詳しくは、福岡地方史研究に掲載されたら読んでください。
 それと、以前からしつこく書いておりました、笠置山の輝緑凝灰岩の石材産地について、ぐらつきながらも、中村修身さんに背中を押してもらって資料紹介をしようと決心し執筆に入りました。主となるのは研究史で中山平次郎先生が昭和8年石材産地の確認と周囲の遺跡に注意するよう記され、その言葉に促されるように森 貞次郎先生が踏査により発見されたのが昭和14年、露頭まで発見されたが、その後実質的な踏査や調査はされず、森先生の河床に無数の凝灰岩があるという一文をそのままに、原石の採取と搬出には今日に至るまで正面から向き合ったものが見当たらないというのが基本となり、それに、私が発見した石材の散布地と採集物の実測図等を掲載して書き上げます。
 ところが、老眼で剥離が見えず実測が進みませんが、なんとか仕上げて関心を持ってもらえたらと考えております。
 
 採集品を実測すると扁平な角礫や楕円形の扁平な円礫を使ったものがあり、沢や河床、あるいは採集地点の堆積層から得たものがありそうである。それ以外に露頭から節理に沿って割れていく輝緑凝灰岩を採取し、さらに摂理から割って剥ぎ取ったものや落石の角張ったものを使用したものなど多彩な顔ぶれであることが分かる。詳細はきちんとした調査の上で述べなければならないが、表面加工は粗く行われるが裏面は厚さが問題のように思え、加工がさほどなされていないようである。
所謂主要剥離面側に加工をさほど施さないのは、平坦に仕上がっているからであろう。もし、瘤状の厚味などが生じていれば、粗く加工してある程度の半月形には仕上げているものと思われる。

 立岩石器製作システムが明らかとなる日も近いと考えられる。何故、立岩だけが石材産地から6㎞も離れて存在し、しかも、原石を搬入せず第1次工程を行った後に運び込み、仕上げを行って広範囲に搬出するのか、この過程こそが立岩の真髄であり、中山平次郎先生が今山とある意味で対比される遺跡の解明が必要と記されたゆえんである。1970年代に終結した問題ではなく、さらに深める問題である。と実測をしながら思うのである。

 8月17日、郵便局から古文化研究会に原稿と挿図を送付する。原稿を印刷してハッとした。4おわりにの段落0行となっていた。気付かなかったので明日、宇野さんにメールで送付する。あわてることはなかったが、早く送らないと落ち着かない性格になってしまった。いや、昔からあわて物であったことを忘れていた。

 立岩の石材採取と運搬について研究史をたどると面白い。河床礫であったり板材であったり、はたまた、粗割まで行って搬出するとか様々である。立岩の石庖丁を最も研究した下條さんでさえ、河床礫から板材、そしてまた河床礫に戻っている。このようなゆらぎともいえる考えの変化の裏には、立岩での資料観察という限界があり、原産地の調査がなされなかったことに起因するように思える。

 8月19日ついに出た出た月が出た。うん。なんと70㎡ほどの範囲から土器片が出る出る。土器の破片混じりの包含層というか遺構の切りあったものか、さて、困ったことになった。最初は立会で層状を確認するくらいの予定であったのだが、現場を見た瞬間、「やべー、まじやべー」今時かな。弥生中期の須玖Ⅱ式・6世紀末の須恵器や土師器、それに、8世紀から9世紀と多彩であるが、とにかく、土器の缶詰包含層で40㎝ほどもあろうか、その下に隠れている遺構を考えるとぞっとする。まあーごちゃごちゃしながら月曜から発掘に入る。久々の現場で正直ばてている。暑いのなんのって1.5mほど掘り下げた四角の水なしプール、病気になりそう。とか言いながら、隅で確認した黄褐色の地山を少し削っては旧石器を探している。なんとなく予感はするが竪穴住居4軒が確認され、おそらくその埋土中から出るやもしれん。
 公然の秘密というのがあるが、密かに狙っている。しかし、残暑厳しきおり、皆様方倒れないよう無理せずに、頑張ろう。
 久々に壁面を削って土層を分けるが、何年ぶりだろうか、それにしても遺構が切り合っている中にかく乱層それも牛糞を処理した穴だ、滴り落ちる青絵の具のような液体、その臭いことといったら、せめて涼しくなってから嗅ぐと少しは香水、いやいや、糞尿は所詮糞尿だ。牛糞であるのがせめてもの救い。おー神よ。
 それにしても、役所での文化財の位置は、あるのだろうか。26年目になるが未だによけい物扱い、そのくせ、偉いお客さんが来ると「歴史は古く、この先は文化財係が説明します。」なんじゃそれは、26年前と変っていないじゃないか。何事も無く定年までいれば、笑わせるんじゃないよ、数年のうちに文化財は1人体制で係消滅、あるいは、文化係でいくつかの係掛け持ち、考古学は絶滅危惧種だね。
 今、日本の考古学を底辺で支えているのは、おそらく、各地の文化財担当者であろう。そもそも、文化財でこれだけ多くの人間を食べさせてくれているのだから、先達の偉大さに感謝。それも、時代の流れとともに変化し、退化し、消滅、あらら。
 8月19日の遺跡発見から半月、2週間の猶予をいただき発掘開始、まぁーその暑いこと、夏の現場は何年ぶりだろう。坐骨神経痛が痛み出した。また、包含層の残りがよいので、遺構が深いこと深いこと。70㎡くらいの中に竪穴住居4軒が入り乱れ、何がなにやらさっぱり分からない。
 9月4日約束の日に現場終了。1点の轟式、3点の後・晩期土器片が下部より出土、それより古いものはないようである。暗灰褐色のマサ土が基底の層で、その上に暗黄褐色の粘性土が部分的に堆積している。おそらく、基底のマサ土が凹凸状に侵食された上に堆積した層で、なんとなく古層の感じが漂う。最後に一部を掘り込んでみるが遺物は出なかった。また、旧石器を逃してしまったようだ。

 2週間の発掘調査で得たものは様々である。最も気になるのが弥生中期後半の竪穴住居が方形プランである。飯塚市の立岩や穂波地区では円形のプランで福岡に近いが、遠賀川の原流域では、明らかに方形プランと確信した。古くは八王寺遺跡、千手のアナフ遺跡、今回の一丁五反遺跡と全て方形プランである。
 出土した弥生土器を観察しているが、凹線文を意識したような例が見られるのだが、確実に凹線文は中期末に榎町遺跡で出土している。しかし、今回はやや古式の感があり、立岩遺跡全盛期の頃に瀬戸内方面の影響が見受けられるようである。石器では、旧山田市の遺跡からサヌカイト製の有茎石鏃が出土しており、須玖Ⅱ式に伴うようである。豊前の海岸に面した遺跡で杉原氏が弥生の石鏃に対して、瀬戸内方面の影響を指摘している。凹線文の時もちらほら出ているようで、その流れが田川方面から入ってきているのであろう。
 弥生中期前半はともかく、後半期は立岩一色になるかと思いきや、地域性はなかなか破れるものではないらしい。嘉麻地域は簡単に立岩の傘下に入るものと踏んでいたが、地域の結合を打ち破るにはいたらないようで、上澄み部分の結合にも思える。いわば擬制的結合関係にあるが、その結びつきは結構弱い紐帯かもしれない。
 まだまだ、謎は多いようで、地域のまとまりをまずは解明する必要があろう。
案外、立岩中心組織体の崩壊は、地域力の強弱あたりと関係しているかも知れない。
 一丁五反遺跡の出土品に須玖Ⅱ式と思われる甕の口縁部が、一際特徴的なものがある。やや厚みがあり匙面というべきか、熊本の黒髪式や四国愛媛あたりに見られる口縁部のそりが強く、外面は口縁端部が湾曲して丸みを帯びるものがある。また、跳ね上げは当地方に多く特徴的だが、口縁端部がきれいに切られたような平らな面が見られ、瀬戸内の甕のような様相を呈している点である。確実な凹線文は今のところ見当たらないが、中には、ハケ目を巡らせたもの、1条の沈線文をめぐらしたものもあり、今まで見たものとはどこか違っている。それに、色調が白っぽいものが散見され、特に、凹線文を思わせるものがその色である。元来、当地域の須玖Ⅱ式赤褐色や赤黄褐色系のものが多いのだ。
 近刊の彼岸原遺跡が同時期と考えられるが、住居プランは円形、当方は確実に方形で、嘉穂地域を2分しているようである。その整理はおってやりたいと考えるが、出土した土器の中に瀬戸内系と考えられるものが含まれている。一度、見る必要があろう。
 とにかく、中期後半に瀬戸内系の影響が見られ、今のところ旧嘉麻あたりに強く感じられる。今山系石斧が多く見られるのは、桂川や現飯塚市で、旧嘉穂や山田、稲築にはそれほど見られない。嘉穂地域が鎌と穂波に区分された所以は、自然発生的に嘉麻川流域と穂波川流域で、地域性や交易相手の相違があり相対的に2つの地域文化が成立していたからではないか、と思っている。
しかし、その地域性も当然揺らいでいて、時期的に変化の兆しが見える。弥生前期板付Ⅰ式併行と考えられる土器は、旧穂波・飯塚あたりにあって、周囲は板付Ⅱa式が取り囲むように存在する。この流れは福岡から糟屋や三笠を経たもので八木山・米山越となろうか、このルートはその後も今山石斧の流入の見られる前期末~中期にかけて主に、飯塚の立岩周辺から桂川の土師地区に及ぶ。もちろん、旧嘉麻にも流入するがわずかに過ぎない。特に、桂川の土師地区には集中しており、立岩でもその数は多いように思える。

 何年ぶりか、全同教に参加するため広島県の福山市に行った。目的は2日目の分科会で、奈文研の松井さんが、遺跡から出土する動物の骨により食肉の習慣が日本人の根底にあったこと、古代律令製により平城京や平安京ではそのエリアの中に、動物の解体や骨・角の加工、肉や皮の取り扱いを行う職人集団が取り込まれていた可能性を説かれ、それが、律令制の崩壊とともに分からなくなり、次に登場する時には、河原に住まいしとなる。
 やっと、部落史に考古学が加わるのかと思うと感慨深い。大阪の部落史では、初めてその成果が取り込まれているらしい。京都の場合はそれが無かった。ちょうど、大阪の貝塚市で獣骨が大量に発見された記事が新聞に発表された。その直後だったか、福岡の部落史研究の例会で福岡市の事例が発表された。そこは、砂質土壌で獣骨の残りがよく、土壙からの出土が報じられ、部落史との関連性が取り沙汰された。その後、どのようになったのかはわからないが、興味ある事例であった。
 文献という一面ではなかなかつかめない日常生活、その一端を知る上でも考古学の積極的発言は大いに重要であると感じた。

過去の報告再見 何が出るかな?

2009-05-28 22:57:45 | Weblog
 過去の報告を再び見よう。何か新たな発見があるかもしれない。
 みなさん、「宇宙、それは最後の開拓地である」というフレーズから始まるスタートレックをご存知でしょう。その昔、テレビ放送で宇宙大作戦と出ていましたね。中でもスポックの「魅惑的だ」という台詞を何度も聞いたことでしょう。また、カーク船長がスポックを呼ぶ時、日本語吹替えにも関わらず「スパァック」といっていたような気がします。
 それはともかくとして、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」を見てたら何だか興味がわいてきて、過去の文献の世界に飛び立とうという感覚になりました。魅惑的な世界が待っているように思えてなりません。

 昭和9年3月の、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」第九輯 史蹟之部
の91ページに浮羽郡福富村西山古墳群地帯の遺蹟 宮崎勇蔵とある報告の中に、ふと目を引く縄文土器片があった。写真上段の一枚で、上下二段に土器片3点ずつ並べられている。下段3点は突帯文土器の口縁部であるが、気になるのは上段部左の1点である。右端は細かい楕円文の押型文土器で、中央はよくわからない。左端は撚糸文か、さもなくば多縄文系に見えるのだが、実物はどうなっているのやら。是非、見たいものである。吉井町辺りになろうか、興味をそそる。
 とかく、九州の撚糸文は東の影響と考えている。大体、長崎・宮崎・鹿児島と隆起線文土器があり、福井洞穴出土土器の中に線縄文土器が1点あるのを、見ている。多縄文系の土器があることを望んではいるが、なんとか、資料に出会いたいものである。
 同じ中山博士の報告に飯塚市立岩遺跡の立岩運動場(グラウンド)から発見された甕棺墓の報告がある。5基が見つかったようであるが、その2号と4号が多条突帯をもつ大型甕棺であったことから、福島(2006) 井上裕弘(2008)須玖式甕棺の胴部に3条以上の突帯が巡る多条のものについて、嘉穂地域特有の生産品という視点で指摘されているが、井上氏によれば22基が確認されており、さらに、その2基が加われば24基となる。今後ともその数は増加するだろう。
 さて、その報告に第2図として土器が4点写真で示されている。その最も左に口縁が厚ぼったく若干胴部がはるもののほとんど底部に向ってすぼまる。底部は暑くやや張り出し気味の甕がある。これは、現在も飯塚市の歴史資料館に展示してあるが、以前から後期無文土器との関連を疑っている1点である。疑無文なのか折衷なのかは定かでないが、その素性に興味がわく1点である。もう1点、昭和57年に刊行された飯塚市の「下ノ方遺跡」の報告書の土器の中に甕の口縁部小片であるが、口縁端部がくるっと円形になるものが1点示されている。下方にハケ目が見られるようであるが、断面の実測は明らかに粘土を巻き込むように円形に仕上げているのが分かる。何れ実物は見せてもらうが、極めて無文土器に近いと考える。
 おそらく、前期末に相当する時期であろうが、立岩遺跡において輝緑凝灰岩製の石庖丁が製作されだした頃に相当する。そういえば、韓国中央国立博物館で石庖丁を見たときに、1点だけ輝緑凝灰岩のような色をしたものがあったように記憶する。韓半島にも脇野亜層と同様の堆積岩が南の方に広がっているのは知っている。韓国でもその利用があった可能性はあろう。前期末になって突然輝緑凝灰岩を使用するというより、それ以前に石材の利用を知っている一部の人たちが内陸の笠置山に原材料を求めたとも考えられる。今は、砂質頁岩や縞が入る頁岩の磨製石器が弥生の古相を独占するようだが、輝緑凝灰岩の利点は韓国でもすでに知られていたと考えれば、添田の庄原にも無文土器があるし、求める価値はあろう。

 ミネルヴァという雑誌の合本を昭和61年に購入して時々読むが、喜田御大と若手山内両氏のミネルヴァ論叢は、何度読んでもいいですね。甲野 勇氏も対談で火をつけておいて誌上で対決なんて、なかなか出来ませんね。縄文土器の編年に限らず概念から縄文時代観、そして、ついには、考古学全体の方法論に至るまでけを包括する内容に拡大化していく、佐原さんだったかな、「考古学の現状として否応なしに山内レールの上を走っている。」いった様なことを書いたのは、それほどに影響力のある両氏の論争が記されている。
 
 話は、飛びます。近年、立岩製石庖丁の原産地遺跡の可能性が高い地点を発見して、1年以上が経過した。何ら進展のないままに過ごしたが、中村さんのすすめもあって資料紹介をしようと目論んでいるのだが、採集資料の実測は進まないし、夏場は寄り付けない場所でもあり、もっぱら、研究史に目を向けている。
 中山・森両先生から児島・岡崎・藤田各先生方、そして、下條先生の一連の研究につながるのだが、『立岩遺蹟』あたりを境にあまり触れられなくなった。特に、原産地である笠置山での原石採集については、森先生以来、踏査すら進んでいないように感じる。
 そこで、そのあたりから関心を持ってもらおうと、再度、この問題に触れてみたいと考えている。
 中山先生は、立岩運動場の工事で丘陵を大きくカット、甕棺5基が発見され内部から貝輪や鉄剣片が出土したのを詳細に報告、しかも、人骨の鑑定を行っている。その一方で、先生は焼ノ正と記したが、その後、下ノ方遺跡と判明、数多くの石庖丁の製品、未製品を発見、また、工事の際に採集された多くの未製品等を観察し、そこが、石庖丁の製作所であることに気付いた。これは有名な話であるが、先生は、それ以前に今山においてすでに石斧の製作所を発見され、その報告と論文を公にされていた。
 先生は、今山と立岩を調査され、石材の採集場所を明確にすること、また、今山と立岩の比較から、石材採集場所周辺に石器製作所がある今山タイプと立岩のように石器製作所近辺に石材の供給場が見当たらない場合の2タイプをすでに指摘されている。北九州の梅崎さんが弥生の石器製作遺跡で石材産地から、6キロも離れているのは、立岩だけであろうと書かれているように、今日でも明快な回答は得られていない気がする。中山先生の2つの課題は、残されたままである。
 石材産地については、戦前に森先生が川床に無数に散乱する輝緑凝灰岩の礫と山頂もしくは、山腹あたりであろうか露頭を発見したと書かれ、飯塚の地を離れて福岡に越されている。『立岩遺蹟』の中で岡崎先生が古生代の呼野層が、千石峡キャンプ地の上にあることから、そこからの転石に原石を求められた。しかし、おそらくは現地踏査を行われず、森先生の論文と地質学的な見地から導き出された回答ではなかったのかと思うのである。その後も、その影響の下に書かれた先生方は多いと考える。
 直方の牛島さんは、石鎌の未製品らしきものを採集され報告されているが、河原で採集されたのか、その後の追跡はされていない。福岡の今山は、行政発掘が繰り返され、全貌が明らかとなりつつある。一方、笠置山は、以前のまま手付かずの状態である。その差は何なのか分からないが、笠置山は開発の波が押し寄せることなく残されており、全域を調査するチャンスは大いにある。遠賀川関係者よ集まれである。
 今、改めて立岩の石庖丁に関する研究史をひっくり返しているが、中山先生が報告した焼ノ正(後に下ノ方と判明)遺跡は、市営運動場出土の甕棺を調査しているのを見学に訪れた名和さんが発見者だとはじめて知りました。市営運動場や焼ノ正あたりの包含層はかなりの厚さがあったようで、立岩丘陵の西側あたりは、丘陵にそって段丘が形成されていたのであろうか。そうすると、背後に丘陵を有する南北に長い平坦な台地が帯のように延びていたとも考えられ、そこに立岩の集落群が形成されていたのかもしれない。

 先日、直方の牛島さんから秋月藩士 江藤正澄の「秋のかり寝」という幕末に書かれた史料のコピーをいただいた。正澄が嘉麻郡の史蹟・遺物など様々な資料調査を行ったもので、慶応元年に古八丁越を利用しての見学旅行である。古八丁越については、それまで通行止めになっていた道であるが、この時は通行可能となっており、道を開くにあたり背景に小倉戦争があるようで、幕末から明治への転換期を、この峠道利用の動向から感じ取ることが出来る。
 正澄は、峠を下り千手宿駅に到着し、それから才田村・九郎原村にいたって秋穂某なる庵室を訪ねるが留守であった。これは、地誌類に登場する庵のことで現存しない。その後、陰陽石などを見学、次に、上臼井の永泉寺に立ち寄る。ここは、秋月家の位牌が納めてあり、宗 貞国の寄附状や種実の位牌を龍の巻たる掛絵があると聞いて、主僧に会わんとしたが、ちょうど安国寺学寮に行かれいた。享禄年間に
没せられたものから順にあった。寺を後にして、上臼井の小山の半腹に岩窟を見る。以前にたずねたおりに秋穂某氏が岩屋に住む人がいて日頃から隠れ家造作の窟という。岩屋の中に入ってみると、神代むかしの穴居か、岩窟の数12であるが、この1とつに遊民の老夫婦が住み着いている。内部の四方は岩壁で戸や障子の必要も無く、雨露や風などの心配も無い。この岩窟は横穴墓で山腹に1列に並ぶ様子が描かれている。また、内部は副室の横穴で入り口からのぞいた様子では、排水の溝が掘り込まれ、奥壁の天井には棟を示すラインが掘り込まれたようすが見える。横穴墓から出土したものは、はそう・つきみ・つまみのついたつきふた・金環3点・かめの口、管玉である。
 これは、上臼井の横穴墓に関する古い資料である。大正から昭和初期にかけ多くの著名な学者が調査に訪れた横穴墓だろうか、それにしても、慶応年間にこのような記録があろうとは思わなかった。筆書の挿図が何ともいえず興味をそそる。しかも、平面図に寸法が書き込まれ、斜め方向からの立面図的なものを入れている。しかも、遺構配置図的な鳥瞰図を入れており、横穴の分布状況が分かる。
 

韓国ソウルへの旅 「全谷里の旧石器をみた。」

2009-04-05 11:33:21 | Weblog
 突然ですが、韓国のソウルに2泊3日で行ってまいりました。インチョン空港からソウルへと入りましたが、ものすごい開発ラッシュに驚きました。高速の両脇は、すでに開発によって丸裸の丘陵が続いていて、紅土というかまっ赤な土の小山がどこまでも続き、トレンチを縦横に入れたあとがはっきり見えました。もちろん、発掘の最中なのか終了後なのか、遺構すら手に取るようにわかりました。

 まず感じたのが、土の色が赤色でおそらく粘質あるいは粘土層でしょう。どこもかしこも真っ赤で、粕屋の古賀や粕屋町あたりの土の色と似ている。例えば私が今住んでいる筑豊にはそのように赤い土はほとんど見れない。なにせ、花崗岩地帯であるから基盤は全て花崗岩の風化したマサ土、これはやわらかいためすぐ風化による開析が進み上にのっているロームやレス層はあまり残らない。旧石器がないのもそれが原因かな。
  さて、韓国中央博物館というとてつもなく大きな建物に向った。玄関入口と間違って最初に入ろうとしたのが、博物館への車専用入り口で警備が常に2人立っているが、そこから入ろうとすると「ノーノー、入り口あっち」とだめだしをされとぼとぼ入り口に向う。博物館は巨大な建物2つがエントランスホールで連結されたもので、その大きさは想像を超える。
 まず、入場券を手に入れようときょろきょろとその販売所を探す。ようやくそれらしき建物を発見した。隣接して食事が出来る所があるらしく、家族ずれでごったがえし、ハングルと英語の案内表字が各所にある。
 その建物の横が入場券販売所らしいのだが、誰一人並んでない。みんな、どうやって入っているのか不思議であったが、まず、自動の券売り機を探すがない。そこで思い切って売り場らしきガラス窓の、穴から顔を見せ、韓国語で「今日は」あとは英語で「いくらですか、1まい」といったら「むりょん」と聞こえた、もう一度「なんですか」とたずねると再び「むりょん」とかいってチケットをくれた。あぁー「無料」といっているのかとおもいつつ、チケットを受け取って「かむさむはむにだー」と礼をのべ、上の建物群へと階段を登っていった。もちろん私1人で行っているので、たよるものは自分だけである。
 階段を登りきると広いエントランスホールがあり、韓国語が飛び交っている。とにかく、親子・学校・大半が子ども達で、エントランスの塀に登っていた子供が警備の叔父さんから怒鳴られていた。日本で言えば「はやくおりなさい」だろうが、もっと強く叱っているように聞こえる。日本なら子ども達が「あの親父なにいってんだ、うるせー、うったえるぞ」とかなんとか言うのかもしれないが、すなおに、おりていた。
 左右巨大な建物だが、どこから入るのかさっぱりわからない。見た目は左が近代的、右が重厚な建物である。しかし、みんな、左に入っていくのでついついつられて左の建物に入る。日本人だなーと感じた瞬間だった。左は子供ばかりで全く何だかわからない。ことも専用の建物に感じた。そこで、案内板を見ると、ライブラリーの字が見え右側の建物を指していた。
 大理石の建物で、建築費用はいかばかりかなんて考えながら、ライブラリーに進むが、これも距離がある。中に入ると、突然吹き抜けの大理石の広間に入る。3階からなっているようで、ねらう考古館は1階、あとはとても回れないと感じた。チケットもぎりのおねーさんが三人くらい立っていて、奥に向って右が入口、左が出口となっているが、ほとんどオープンである。化石に興味がある人は、必ず見つけられるよ。壁、床、天井全て大理石でアイボリーかうすい茶色のものばかりであった。
 さて、考古の入り口を入ると、崖の上のポニョではないが壁面に巨大な壁面の写真が飾られている。壁面というより崖面であるが、海の動物など様々な生き物の壁画の写真である。そこを右に進むと右側の壁に埋め込まれたガラスケースに、櫛目文土器などが飾られている。「トキ、トキ」と子供がいうと、親や祖父母が何じゃかんじゃと説明する。写メとり放題、ノートにスケッチと説明を書き入れるもの、とにかく、親子、親族、学校の先生と生徒、カップルとぼう然となるくらい人がたかっている。しかも、子供に熱心に親が説明しているのがすごい。そこは、また後で書こう。

 いよいよ、旧石器展示が目に入ってきた。進行方向の左手ガラスごしに、石英製の大形で重量感あふれる石器類である。これが全谷里の石器かと覗き込むようにしていると、韓国の子ども達が数人でやってきては写メのとり放題、一歩下がって全体をみわたすと、茶褐色に色あせた6~7点の石器で、ハンドアックス・ピック・クリーバーといった、ヨーロッパのアッシュール文化に登場する名称が付されている。それにしても、石英の角礫みたいなものの側面から粗い剥離を施して仕上げている。よく見ると剥離面に横方向に石英本体にあるしま模様が見える。こいつはどこかで見たことがあるなとしばらく考えていると、糟屋町の新大間池で昔採集した石英製の石器見たいなものと全く同じである。脈石英というのだろうか、新大間は急斜面の丘陵の下方に、少し平らな部分があって、そこに、石英の破片みたいなものがかなりころがっていて、ハンドアックス状のものとルバロアのポイントによく似たものをひろって近年まで所有していたが、石器ではなく自然剥離と断定して処分した。
 うそー、そんなバナナ、いや、馬鹿な。ここで、同質の石材にあえるとは何ということであろう。違いは石器か自然石かという根本にあるが、その色や風化具合、よく似ているのだ。まてよ、似ているとまずいのか。
 石英系の風化したのは、土の色がしみこんでいるのか表面が茶系である。自然面と剥離面がよくわからないものもある。全谷里のものも本来白色系の石英であろうが長年の風化や色素の浸透により同じように茶色がかったものであった。少し気になったのは、剥離の稜線が以外にきれいにで、鋭利であった。誰かも書いていたがピックの先端に使用痕が見られないという。そこまでは気が付かなかったが、想像以上に鋭利であったこと。また、剥離面も新鮮であったことが頭に残る。
 それと、石核があった。これは、全谷里ではなく金坡里遺跡出土のもので、石英の白色に赤い筋みたいなものが見えた気がする。韓国の土はそれこそ赤く、石英の摂理にしみこんだものだろうか。上端が丸みをもっており、周囲に剥片を剥いだと思われる稜線が見えた。興味を覚えたのは、ハンドアックス系の石器は、剥離が深くおそらく剥片がバルブを有しているので、その反転で凹面をなしている。一方、石核の剥離は、目立つ凹面が見えなかった。摂理を利用して、薄く的確に剥いでいったものか、最初、上部が丸みをもった厚手の円形枕のように見えてしまった。ガラス越しには限界が多いものである。
 話変って中国の周口店の石英系石器は同なんだろうか、古いものの多くが石英で、中国・韓国ときたら、やはり、日本のしかも九州にも石英系の旧石器があっても・・・早水台?という考えが出るよねー。
 とにかく、石英製の石器はないものでしょうか、筑豊は、花崗岩地帯でけっこう石英の露頭があるんだけど、ちゃんと見ていない。馬見・屏・古処山の変成岩の下は花崗岩で、ペグマタイトが何ヶ所かあって、水晶が拾える。その周辺は石英だらけである。標高は500~600mくらいかな、高原のような地形が続いていてひょっとすると、ひょっとする。学生時代に山形の弓張平に行ったけど、やや似ている場所がある。小石原の旧石器はそれくらいの標高のところにある。今度は高いところを探してみようか。興味はつきない。
 おっと、話がそれてしまった。韓国へもどろう。
 全谷里のハンド・アックスには、側面から段階的に剥ぎ取っていかれた剥離面がきれいに残っている。横長の厚手の剥片が飛び散ったことだろう。残念ながら剥片石器は見ていない。もう一つは金坡里のハンド・アックスはさらに美しい剥離のラインを示しており、剥ぎ取られた剥片にはバルブ等がきちんと見えるのだろうと想像した。ただし、多面体の石核の剥離面は、いかにも石英らしく平面的で、薄くそぎ落とすように剥いだ感じであった。
 学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」の中で、早水台の石英系石器や星野のチャート製石器を踏まえて、周口店の石英石器について、杉原氏と芹沢氏のやり取りが続いている。基本は剥片等にバルブ・リング・フィシャーが明らかであることが人工品ということから始まるが、芹沢氏は脈石英を割っても明確なバルブ等は見られないという。杉原氏はかなり周口店のものにはバルブが見られるという。芹沢氏は斐 文中氏等の書き物から引用しているのに対し、「実際に見てきた」という杉原氏、しかし、杉原氏はバルブがあったのは砂岩系のものかもしれないといい、チャートも石英同様バルブがわかりにくいならと、おそらく、早水台から星野へ移行した芹沢氏に対して、石英=チャートという矢を放った。ところが、石英系は斐 文中氏等も書いているように、容易にバルブ等は見られないとするが、チャートは質がよいところに当たれば、バルブは明確にわかるとした。
 周口店の石英石器を一度はじっくり観察したいと考えているが、韓国のものは、明確に石器とわかり、剥ぎ落とされた剥片にはバルブ等が見えそうな気がする。やはり、石英や水晶といった石材の石器研究を何故やらないのでしょうか。
 水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。
 行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。
韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用しているらしい。
 中国から韓半島とくれば北部九州という道筋が出来ようが、杉原荘介先生はかつて、「杉原仮説」の中でリス氷期、ビュルム氷期前半、そして後半期に陸橋を渡って原人・旧人・新人が渡ってきたと考えるのは、いかにも話がうますぎて信じるわけにはいかないとしている。先生も自分の仮説を破って欲しいと願ってあるのだから遂行すればよいわけで、原点にもどって身近にある石材の石器群を探すこと、足元をもう一度注意することが必要と考える。それと、石英・チャート・玄武岩などの破砕礫と加工品との違い、層位など再び研究する必要を感じる。ぜひ、3~4万年の扉を開きたいものである。

 次に、色々な石材の石器が展示してあったが、その中に北九州の辻田遺跡で出土した石材とそっくりなもの、いや、同じものがあった。凝灰岩系の石材だろうか驚いてしまった。しかし、アジア大陸の東端でともに同一の陸地であった時期が長ければ同じ石が出てもいいのかと考え直す。次に、棒を削るノッチが施された石英の石器状のものがあったが、中国の東谷坨のものと似ていた、おそらく、本物ではなく石器の使用法説明のためのレプリカとも感じられたのだが。
 剥片尖頭器が6点くらい展示してあった。これが、九州の方でも出てくるやつかと見ていると、やはり、石材が違うのかレンガ色のものもあった。凝灰岩質の頁岩のような感じでながめたが、全体に短いのかなとも感じた。というのも、日本のものの中には恐ろしく長いものがあり、長刀かと考えてしまうものまでバリエーションがある。対馬と釜山の間に深い地溝帯があるという。それが、勢いよく流れていたのか、緩やかに流れていたのかは知らないが、凍結していた可能性もあろう。韓国ではそれほど出土していないようだが(古い資料より)もっと出ることを望んでいる。それと、各石器るいとの組み合わせやテクノロジーなど共通することが多いならまた面白い。
 細石器類も多く展示されていた。私には何技法とか分からないが、私の見慣れた黒曜石があまりなかったかな(あやふや)正直疲れていたため意識がうせてしまっている。新石器に入ってだろうか巨大な石鏃がいくつもあったように思えたが、儀式用、それとも石槍かもね。
 実は、今かぜをひいて微熱の中キーボードをたたいている。せっかく、フィールドに出ようと思ったのだが、無理らしい。あとは、家族サービスの日々が待っている。娘に有田の陶器市だけは勘弁してもらった。今日は息子の誕生祝で焼肉屋に行かねばならないが、それまでに完治させよう。葛根湯を飲んでね。ふー。

 韓国旅行からかなりの時間が過ぎた。インターネットを見ると全谷里のレス古土壌の問題やさらに古い石器群の発見など松藤さんを中心に研究が進められているらしい。中国でもハンドアックスが多く発見されているようで、東アジアにもアフリカ・ヨーロッパから西アジア、中央や東南アジアを経てハンドアックスの文化が流入したのだろうか、私が学生の頃はチョッパーやチョッピングトゥールの文化と記され、群馬の権現山が何か特殊的に考えられていたようだった。もっぱら研究者はチョッパーやチョッピングトゥールを追い求めていたように記憶する。特に、前者は自然破損でも見られるのに対し後者は人工品として考え、学生時代に別の研究会がさかんに前期旧石器といっていたことが懐かしい。
 国府遺跡のサヌカイト製ハンドアックスは、どうなっているのでしょうかね。喜田先生が報告された例のものですが、そのままでしょうね。

過去への旅(気になることどもの続き)

2009-03-08 01:16:24 | Weblog
 さて、八丁越、あるいは八丁坂がどれくらいさかのぼって利用されたのか。永禄10年の記載は紹介したが、はたして、古くはどこまでか。
 利用時期の確実な例としては、天正15年(1587)に豊臣秀吉とその軍勢が、大隈町の益富城から秋月の荒平城への進軍の際に通行していることや慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。
 その他、慶長5年(1600)(推定)「路次之儀、道も近く候間、秋月通能候ハんと存候、但其元可然談合尤候」の史料は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が国許に送った書状であるが、秋月を通る(古)八丁越が最も近いと記している。
 確実なのは何れも江戸初期で、有馬、立花、細川、鍋島などの諸大名が、江戸にのぼるさいに使用していたようで、重要な道として認識、存在していた事はわかる。
 慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。これは、関ヶ原合戦のあたりで、江戸時代直前に黒田が豊前から筑前、そして、筑後を目指した合戦のくだりである。これを見ると、八丁越が豊前と筑後を結ぶルートとして最短距離にあったことがわかる。
 このように頻繁に利用された峠道であり、江戸初期の江戸登城と藩との往復に使用されてきたのである。千手町は慶長期に宿場町として整備され、諸大名はじめ旅人の憩いの場とされてきた。

 その他に、可能性を示唆するものとしては、文明12年(1480)「是より守護所陶中務少輔弘詮の舘に至り・・・折ふし千手冶部少輔、杉次郎右衛門尉弘相など有て、一折あり・・・十六日、杉の弘相の知所長尾といふに行・・・」(宗祇〔筑紫道記〕- 文明期 -)がある。
 これは、大内政弘の招請により宗祇の九州下向が実現し、筑前の木屋瀬にある陶弘詮の館に宿泊、その後、杉 弘相の所領である上穂波の長尾、米山越から大宰府に入っている。コースとしては、木屋瀬→上穂波長尾→米山越→大宰府となる。ここで、陶 弘詮の館では、杉次郎右衛門尉弘相と千手冶部少輔2名の名を記している。ここで、コースとして上穂波長尾→米山越→大宰府が設定されていたことは、杉氏と宗祇とのその後の関係でも明らかであるが、嘉麻郡千手を領有する千手冶部少輔もまた同席した事から、米山越がもし通行出来なかった場合の腹案として、千手冶部少輔の千手から八丁(町)越を通り、秋月氏の秋月経由で大宰府に向かうというコース設定も考えられていたのではないか。千手と秋月は建武4年(1337)には南朝方としてともに軍事活動を行なっていた事がわかっており、大内の筑前・豊前支配時代は、ともに大内配下の筑前衆として名を連ねた国人衆で、千手から(古)八丁越で秋月コースもまた、可能な選択であったと考えられる。
 大内氏は、寛正2年(1461)の教弘の時代に、支配下の周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前の各郡への使節の所要日数と飛脚等による返書の日数を定めており、通行路を把握していたものと考えられる。ちなみに、嘉麻郡は使節の所要日数4日、返書までに13日を要し、上座・下座は6日・17日と記され、千手と秋月をつなぐ(古)八丁越もまた主要な通行路として把握されていた可能性はあろう。
 おそらくは、秋月氏と千手氏が南北朝期から、かかわりの深い間柄であり、その連絡網として、また、内陸交通において豊前・筑前・筑後を結ぶ重要な往還であった事は間違いないだろう。
 
 それでは、もともと八丁坂・八町坂、八丁越・八町越と称された名称が、古あるいは新と呼ばれ、さらに、八丁越、八丁往還が常に新八丁越の名称となり、古八丁が間道となるいきさつとは何であろう。
 寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、また、「是肥後、肥前、筑後より・・・此道を超えて、嘉麻郡千手町、大隈町をへて豊前に通る大道なり」(筑前国続風土記-元禄期-)ということから、往来は新八丁越に移ったことが分かる。
 これを期に、古八丁は間道というただの峠道に格下げとなった。しかし、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点を考慮するなら、江戸期を通じて道を消滅させなかのは何故か、しかも、険しい峠道の大半を石畳で覆い、風雨から道を保護し明治以降再び同じ道が通れるほどに管理してきたのはなぜであろう。

 正徳元年(1711)には、「古八丁の道人馬通路止と古記にあり、其頃迄は新旧共に通路とせしにや、寛永七年より正徳元年迄八十年斗なり」(望春随筆-天保期)にもあるように、江戸期半ばにして古八丁の人馬通行止めのお触れを出してまで、交通を遮断している。その後は、全く禁じられたようで、秋月の望春の記憶には通行の差し止めしかなく、さらに、地方文書には嘉麻の才田村紺屋久吉なる人物が、八丁口の番所でさんざん文句を行ったので、その先の石原口まで連れて行かれたが、再び舞い戻って文句を言ったので、取り押さえられてしまった。つまり、地元の者でも八丁口・石原口といえば新八丁コースであり、一般やある研究者達が記すように地元は古八丁を通れたという曖昧な事実はなかったものと考えられる。第一に地元と一般の旅人の違いを番所が設けられていない嘉麻郡側でチェックする事は困難である。
 それなら、いっそ道自体を消滅させれば事足りたはずである。しかし、秋月封内図をはじめとする地図にはしっかりと書き記されている。道は手入れしなければ10年以内に埋もれ、あるいは崩壊していくものであるが、古八丁は残されたままである。
 
 そもそも、古八丁と新八丁の区分とはいつ頃行なわれたのであろう。古記録を見ると以下のようになる。

 貝原益軒の筑前国続風土記 -元禄期-)には、八丁(町)越の由来を「山路の嶮き所を八町通る故、八町越といふ。」と記すとともに、「いにしえより名ある要害也。」とし、重要な古道として紹介している。
また、「四月四日 秀吉公以大隈城・・・自大隈越八丁坂入夜須郡秋月・・・種長為古所山道之案内者給、此時肥前国住人・・・八丁坂蛇渕」 (古本九州軍記十一巻 - 慶長期 -)や「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-) から八丁あるいは八町という両方の書き方があるとともに、八丁坂・八町坂とも称されていた事がわかる。
 それが、寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、新道の開削によって古八丁と新八丁という名称が使用されることとなる。黒田長興意図することは、従来の八丁越では、大休から野鳥を通って、まともに城館にたどり着くコースの問題と、峠を秋月に下る際に城館及び城下の配置が丸見えとなること、また、古処山から連なる標高600m以上の尾根を直接越えるため、非常に旧坂となり峠を越える人々の負担を少なくするという狙いがあった。
 つまり、この新八丁開削によって、古八丁と新八丁という呼称が出来たのである。
 これに似た話が、実は大隈町の益富城にもある。それは、愛宕山の横から大隈町に下る坂道を通っていたが、後藤又兵衛の築城の際であろうが、コースを谷底に切り替えている。この話は新八丁切り替えほどには有名でないが、その名残として、太閤坂という小字が愛宕山の西斜面に残っている。

 新八丁が完成するまでに、この峠を越えた大名
 1 元和3年(1617)年 柳川藩主 田中忠政
 2 寛永3年(1626)年 立花藩主 立花宗茂
 この道を利用した大名は、肥前佐賀藩主鍋島、筑後久留米藩主有馬、筑後柳川藩主立花、肥後熊本藩主細川などである。(福岡県文化財報告書「秋月街道」より)

 新八丁越完成後も、上記の大名は度々この道を利用したようである。特に、細川は、黒田と反目していたため、筑前の黒田本藩領からよりはなれたこの道を利用している。
 正徳元年に出された「古八丁の道人馬通路止」のお触れについては、望春が記す「八十年斗」という長い年月の間に徐々に人々が通行するようになり、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点において、形骸化した古八丁越の通行差止を古事にならって再度掲げ、通行する旅人等を八丁往還(新八丁越)に集中させる手段と目される。
 新八丁越開削以来、元禄・宝永頃まで続く諸大名の参勤交代等において、新八丁越とその前後に設けられた秋月のお茶屋は、大名達の休憩あるいは宿泊の場として賑わい、宿場及びその沿線に相当のお金を落としたことであろう。したがって、古八丁なる間道を旅人が急ぎ通過しようともなんら痛手はこうむらない。まして、大休から野鳥口までに郷足軽・番所・武士団といった警護とも取れる居住地があり、やすやすと進入する風でもない。古八丁の間道越は大目に見られ始めたのであろう。それも、望春が言うように80年もの時の経過があった。

 ところが、その状況が一変する状況が生じたのである。その背景には、この時期、千手地域の大力と千手町にそれぞれ御茶屋があった、徳元年(1711)「此年御舞台・大力村茶屋等年内ニ被成御解」(秋城年譜)と「千手町御茶屋并諸御道具当分御預り」(「萬覚帳」田中家文書 )により大力は解体し、手町は閉鎖状態になったと考えられ、再び千手町に御茶屋が設けられるのは寛延4年(1751)のことであるが、明和7年(1770)千手町大火(「萬覚帳」田中家文書 )により消失し、その後の再建はなかった。
 これについては、甘木根基(天明期)の「秋月城下ヨリ久留米・柳川街道、往古西国諸大名此筋御通路、甘木御茶屋柳川 立花様御泊、宝永年中以後此筋大名通路相止、御茶屋其後引ル」とあり、宝永年間に鍋島、有馬、立花、細川といった諸大名の通行が途絶えたことによる秋月藩の財政事情から御茶屋を一旦整理したものと考えられる。
その後も、甘木においては、明和年中から細川氏がたびたび通路についてお尋ねになったが、筑前や豊前に御茶屋がないことから通行を止められたとあり、明和7年(1770)千手町大火により御茶屋が消失し再建されなかった点と一致する。
 なお、甘木御茶屋の利用について、宗官家文書の「先祖より覚書」によれば、当家は黒田忠之より御茶屋を仰せ付けられ代々甘木御茶屋守を続けている。また、「其節細川越中守様八丁通被遊、御宿被遊候節・・・立花飛騨守様ハ、毎々御泊り被遊・・・其上御通り之御大名様方御休泊御座候ニ付」に記されるように、細川氏は八丁(新八丁越)を利用していること、立花氏や甘木を通る諸大名が御茶屋を利用していた事がわかる。
 今まで相当の金額を秋月藩に落としたであろう諸大名の通行が途絶えたのである。いわば財政状況の悪化に伴う解決策が必要となったわけであり、その一つが、御茶屋をなくすこと、また、通行路を往還に絞り込むことで、一般の旅人にその代価を求めて行ったのではなかろうか。

 文化・文政よりややさかのぼる頃からかと思われるが、八丁峠(新八丁越)で興味ある事件が起っている。
 千手や秋月の助郷たちが、峠の上までやってくると座り込んで一歩も動かなくなるというのである。目的は酒代と称していかほどかの賃金をねだるというもので、これも、大名達の通行が途絶えてしまったための余波であろうか、しかも、街道警護が手薄になっているようで、八丁口の番所から人を引き上げたなんていうこともあったようだ。街道筋の治安の悪化と経済事情が比例しているようにも思える。

 餘樂日記によれば、往還筋の手入れに十分にするよう、あるいは、1月4日に毎年手入れをして怠らないよう注意し、それが、5日から日常の仕事始めにつながるとしている。特に、往還は様々な人が往来するので手入れが行き届くように命じている。

 この日記の中に興味あることが記されている。それは、文政11年の大水害が野鳥村の川筋を襲ってから、下流に大水をもたらした様子がかかれている。そこに、すぐさま石方夫が召集され、まずは道の修理を2日間行なっている。根石を居えと書かれていて、石畳が敷かれていた様子がわかる。しかも、この道は往還と書かれているが、古八丁越の大休あたりをふくめてのことと考えられる。石方夫とは、間 小四郎時代に、主に河川における石垣や石井手を構築する専門集団で、筑後方面から師をよんで修練させている。それが、文政に入ってのことであり、さっそく石方を使って道の修理を試みている。その後は、嘉麻郡からかなりの人数を招集し、野鳥の番所あたりまで道の修復を行なっている。

 八丁往還手入之事

一 八丁往還出水之節土流れ、石を洗出し、人馬之通路難渋ニ付、石工江申付、大  石ハ割除ケ、小石も取除、其上出夫ヲ以テ致手入候、猶後年折々手入之儀申談  候事

 この史料は、文政11年の大水害を踏まえてのことと考えられる。新八丁往還に関することであるが、石工とあるのは石方のことかも知れない。その後、往還の手入れはことに他国の人々も通行するので、決められた手入れはきちんとやるように、しかも、1月4日と定め、これを期に仕事始めとしている。どこか、役所の仕事始めと同じで、江戸時代以来の決め事の踏襲かとがっかり。

 
 突然ですが、韓国で石英製の旧石器を見て、中学2年のときに見つけた新大間池の丘陵先端にあった、石英製石器のようなものを採集したあの時のことがよみがえり、いてもたってもいられず日曜に行きました。37年ぶりにあの現場に足を踏み入れました。池の渕にあるという以外は全て変ってました。あの頃、ちょうど植林のため木々は伐採され、およそ低木くらいしか生えていなかった。池の渕には家があったのかなかったのかさえさだかでない。当時は数件あったかなというくらいで、狭い水田の畦道を通って山の裾野に行った記憶がある。
 全谷里遺跡の石英製石器を目の当りにして、37年前にかよった粕屋町新大間池の南東に位置する急傾斜の丘陵先端部で採集した、2点の資料を思い出した。当時、植林のため木々が伐採されていた丘陵が2つあり、奥の丘陵上にかなり盗掘された古墳を発見。手前の丘陵では、先端のかなり狭い平地から、ハンド・アックス、あるいは、尖頭状石器と思われるものとルバロアのポイントと思われる、両者ともに石英製石器(思い込み)を採集した。
 この頃、テレビでルイ・スリーキーのオルドバイ峡谷における一連の活躍を見た。また、ライフの「原始人」を必死に読んでいた頃で、ボルドー大先生による石器製作の図の中で、ルバロアの石核とポイント製作が頭に残っていた。というのも、非常に複雑な工程を経てポイントを製作するが、ポイント自体には加工を加えないという点が興味を持ったのと、星野遺跡発掘のきっかけとなるのが、ルバロア型のコアだったからである。
 数年前まで所持していたが、石器ではないという事で砕いて捨ててしまったのだが。韓国で現物を見たとたん思い出して、4月12日の日曜に新大間池の奥にある畑に立っていた。以前は水田であぜ道をいった記憶があったが、今は畑となっていた。畑を耕していた人に、奥に行ける道があるかと尋ねたら、獣道みたいなものがあるだけという返事、それでも40年近く経過した思い出の地であり、ここで引き返すわけにはいかない。一つ目の丘陵の縁を歩いていたが当時とは全く違っている。竹の子の頭がかすかに出ていて、食べごろの物がわんさと見える。そんなものには興味がない、ただ、石英の破片を見つけながら歩くと、丘陵のはしに点々と石英片が落ちている。「ここだ」と思わず声が出た。次に丘陵端部に露出していた石英の露頭を探すとすぐに見つかった。やはり、ここであった。すっかり木々に覆われていたが間違いない。
 さっそく、採集に取りかかる。10cm内外の薄くはがれた石英片が土にまみれて茶色に染まっており、縁辺は鋭いが肝心の加工痕がない。北京原人の剥片製作技法に両極打法があるというが、石英の自然崩壊がすでに手頃な鋭い剥片をしょうじさせるのである。石英の露頭に行けば崖錐堆積中に方形の鋭い刃部をもった剥片がてにはいるのである。その中には、ノッチ状のものドリルといえる先端の尖った一部を有するものというように、加工を加えることなく手に入る道具はそろっている。
 問題は、アーティーファクトと呼ばれ、現代の人間の目に明らかな石器とそうではない石器、さらに、擬石器の違いとはどこに求めるべきであろう。意外と、石英はどこにでもある石材であり、自然に剥片として存在するとするなら、まずは、手頃なそのあたりから手を付けるのが人間、もう一度、このあたりを注意しないと永遠に3万年は超える事は難しい。 
 先ずは、大陸に近い福岡で、到達した人類が何を最初に石器として求めたらよいか、そのあたりから考えてみても面白いと思う。


 5月31日日曜、宗像の田熊石田遺跡を見学に行った。

気になることどもⅣ

2008-12-16 23:06:10 | Weblog
 崖面に立つと青味がかった砂岩の厚い層が傾斜して見える。右手には一層挟んで石炭層があり、砂岩層が上に積もっていることが分かる。石炭層は沼地などに静かに堆積した植物群らしい。その上に礫層が積もっている。不整合を示しているのかもしれない。さらに、その上に砂岩層があるのだか、4~6mほどはあろうか、よく見ると生痕化石の円形に黒い輪が見えている。しかも砂岩層一面に無数に見えいる。本当に無数それが傾斜する分厚い層の全面に分布している。久々に興奮した。海の水がしかも石炭層の上にちゃんと流れ込んだ後である。九大の坂井先生が言われたことがドンぴしゃで観察できている。「少なくとも200キロくらいに広がっているでしょう。」この先生の言葉どおり、その広がりの一端をつかんだ。浅い海ならなんとかサメの歯の化石でもと、欲は限度を知らない。結局、1時間半くらい風の中で全域を回り、探し続けた。石炭層の上に薄い泥岩層(数ミリ)が幾重にも重なっているいかにもスローな堆積とわかる層を発見したが、あんのじょう木の葉の化石が炭化してブラックで印刷されたように入っている。たしか、篠栗の池ノ端で見つけた化石層によく似ている。ただし、池ノ端はカラーで、栃木県塩尻の植物化石のようであった。ふと思い出したが、篠栗に青い砂岩層があった。生痕化石は見逃したが例のサンゴに似た化石はひょっとすると巣穴の生痕化石のような気がしてきた。直方層群の大焼層なのかは分からないが、高田層というのがあるらしい。
 また、勉強じゃ。

 12月もあと一週間で休みにはいる。今度は休みが長い分表面採集に出かけるつもりである。もちろん狙いは旧石器であるが、未だに何も発見できない。碓井、桂川、筑穂、飯塚の八木山から続く丘陵群を踏査するも感触すらない。縄文のものはいくらか発見したが、獲物に当たらない。弁分から彼岸原、潤野もまわった。明日は伊岐須から蓮台寺、建花寺の丘陵にある溜池を回るつもりである。金が尽きたので握り飯と水筒持参でいこう。ぬかるみにはまらないよう気をつけるが、昔のように軽くはなく、機敏でもないのでしょうがないか。
 最近、昔に帰っているような気がする。結局は遺跡と遺物探しに帰るのか、そこがスタートだったからグランド一周してきたと思えばいいのかな。それにしても、視力がよければと度々思う。何か見逃してしまったような感じがするのだが。

 12月20日の土曜日、天気は晴れ。おにぎりを2個作り水筒にお茶を入れ出発、伊岐須に向う。脊損センター横の溜池は満水でだめ。ここは引くことがないようである。その次に西側の筒口池に回る。やや岸が見える程度に水面が下がっているが、下に降りれない。というより池畔の状態を見ると、花崗岩の純粋な風化土で赤土が見えない。おそらく直接見ると、石英や長石の砕けた粒が堆積、あるいは、岸を覆っているようだ。
 次に、弥生の散布地になっている蓮台寺小学校の裏にある池に向う。ようやく堤防を見つけて行くと、水面が下がって池畔が見える。これは行けると確信したが、まてよ、地図と大きさも形も違うのである。これは、予想に反して隣の小さな池に来てしまったようである。サギが飛んで行った。周囲を見ると、花崗岩の岩盤がむき出しになっていて、あんのじょう、石英の氷砂糖のような粗い礫が、岸を埋め尽くしている。「こりゃだめやな」と思いつつも一応、見ることにしたが、何にも落ちていない。次があると気を取り直しつつ、目的の蓮台寺小裏の池に到着、ここはやや広く、左岸に黄褐色の堆積土が見える。「これはいける。」と確信し左岸の急斜面を這うように進む。途中に何本かの木が倒れ、枯れ果てて白い骸をさらしている。その小枝の間をすり抜ける以外に進む方法はない。そこで、右足が枝に引っかかり転びそうになる。「年齢にはかなわん」と思いつつ右足のズボンの裾を見ると、見事に穴が開いていた。コーデュロイの温かいやつだが、残念であった。
 先に進むと、どの池でも同じだが、水が流れ込む小さな小さな入江みたいなのがよくあるが、ここは注意が必要である。何故なら必ずぬかるんでいる。奥を見るとわたれそうな所が見えるものの、年をとるとめんどくさくなり、近場でわたろうとしたが、その瞬間、両方の靴がぬかるみにしずんだ。幸いに、下が固く靴全体がぬかるんだだけ助かった。またまた、泥靴になってしまった。やはり、奥に進み、倒木をつたってわたりきる。それまで、氷砂糖の石英ばかりだったが、黄褐色の土が見えているし、上は平らで池に向って突出している。ここが狙い目とばかりに、探すと土器片がぱらぱら落ちている。何れも弥生土器、やや大きい壺の肩部の破片がまだ新鮮な面を残して落ちていた。ひょっとして、甕棺墓があるのかと思う。さらに進みながら、もう一つのぬかるみを倒木を2本渡して橋にしながらわたりきる。昔の感が戻ってきたようだ。
 そこは、さらに出っ張っていて弥生土器の口縁部や底部が結構大きな破片で落ちている。形状から弥生中期前半の須玖Ⅰ式新とわかるが、それにしても破片が大きい。そのうち、斜面に、つぶれてはいるが完形に近い甕が真横に埋まっている。その先にももう1基埋まっているようで、間違いなく土器棺、つまり、小児用甕棺である。それにしても、黒曜石やサヌカイトの微塵も落ちてはいないのである。墓地ならしょうがないが、せめて複合遺跡であればと望んだが全くアウトだった。
 そこを後にして、伊川に向うが何れの池も幼魚池で満杯。しかし、思うのだが、碓井・桂川・穂波・飯塚と久保白ダムや溜池回りを繰り返しながら観察するのだが、花崗岩の風化土、つまり、どこもかしこもマサ土ばかりで、肝心要の洪積世の堆積土がほとんど見られないのである。つまり、赤土が顔を見せているのは、土師地区、天神山古墳付近、北古賀の丘陵、彼岸原地区くらいかな、それも、ところどころにあって何れも薄く、マサ土ばかりが目立っている。横田の切通しで観察しても、50㎝あたりであろう。これでは、旧石器の包含層に当たるのはかなり困難と見た。芥田にも赤土の丘陵があるが、圃場整備で大部分が失われている。嘉穂盆地は赤土が少ない地域と感じる。粕屋あたりに行けばどこでも見られるのだが、どうも地質が違うのか見当たらないのである。
 結局、黒曜石の一片も拾うことなく終了した。ふと思ったのだが、すり鉢のような形状を呈する嘉穂盆地は、毛細血管のように河川が入り乱れ、それが遠賀川へと向っている。つまり、浸食作用が著しいために、旧石器の包含層がすり鉢状の底へと押し流されてしまったのではないか。また、ひょっとすると、縄文草創期以前は、湖のような状態で、湖岸に住まいした人々の痕跡が、湖の水が引くのと同時にすり鉢状の地形とって、解析が急進し全てを流したのか、何て考えたりもした。その点、田川は彦山川等の流路に沿って長い地形であり、おのずと長い丘陵が多く、赤土もよく残っている。今のところ、旧石器は田川方面に多いのは、そんな環境の関係かも知れない。
 ひとまず、溜池回りは休みにしよう。

 「きびすをかえす」という言葉があるが、握り飯を2個食べ、水筒のお茶を飲んだのが午後2時前、頭に浮かんだのが田川の夏吉にある岩屋第一鍾乳洞である。気がつくと201号線を田川に向っていた。前回訪れたときは今にも雨が降り出すような天気、鍾乳洞の中に入ることなく概観のみの観察に終わった。今回は、晴天前回にまして様子がつぶさにわかるのである。鍾乳洞はほぼ西を向いているようで、標高60mで脇に神社がある。また、入口の前には水田が開けており、圃場整備か鉱害復旧により整然と区画された水田である。比高差は2mほどだが、おそらくは、もう少し水田面が高かったと考えられる。午後の太陽光は鍾乳洞を照らし全体が明るく暖かな気分になる。
 入口は、中央にある石壁により、本来人間の鼻のように2つに分かれており、やや進むと1つになるという構造だったようである。したがって、中は概観より広く、角が丸い三角形を呈している。高さは3mほどもあろうか、底部はおそらく4~5mはあろう。床面は黒色土が固くしまった状態で堆積している。また、入口に向うほど傾斜度は高くなる。底部はどれほど深くなるのかは、わからないが、数mはろう。外部は特に向って左側に崩落した岩が重なる事から、左側に庇が延びていたもので、幅は10m近くあり、前方にも8m以上のテラスが存在したようである。
 やはり、洞窟あるいは岩陰遺跡として、試掘調査は行なうべきと考える。建指定の天然記念物ではあるが、遺跡としての確認はおこなうべきであろう。
 第二鍾乳洞は、水が流れ込む状況下にあるため遺跡とはならないと思われる。第三は未確認であることから、正月休みを利用して確認するつもりである。

 夏吉古墳の近くを間違えて通過したが、かなり広く土取りが行われており、赤土の層が奥のほうに続いていた。観察したかったが、うっかり立ち入って起こられると大変と思い。2度通過して様子を見たところである。夏吉のあたりにも洪積世の堆積物が広く分布するようで、なんだかうらやましかった。

 洞窟遺跡に興味がある方は、ぜひ、夏吉第一鍾乳洞を見学していただきたい。

 12月23日、早朝、香月先生から電話がかかった。「馬見山に雪は積もってないですか、天気は同ですか山に登れますか」というおたずねに、「少し、白くなっていますが、大丈夫じゃないでしょうか」と答えると、予定通りに登りましょうという、力強い声が返ってきた。
 馬見神社に集合したのが11時、9名の参加である。皆さん山登りの格好で登場するも、私だけ長靴に手提げバックと作業着姿という、表面採集にでも出かける姿に、先の不安を感じる。登り始めは馬見キャンプ場の上にある林道から、登山道を登る。馬見は古処山に比べてかなり険しい。

 途中ですが気になることを書きます。九州考古学83号が送付されてきた。その編集後記に、論文の査読による論文の掲載について査読(各論文2名)による審査の上に成り立つものであり、伝統ある学会の会誌としてのクオリティ維持のためとしてという納得できる内容の編集側の意見をのべられており、査読の結果、「投稿者が原稿を辞退されることもあります。」と残念な結果があッたことを記されている。
 その、残念な結果辞退した人物の1人が私「福島 日出海」である。内容は、立岩の石庖丁の原産地遺跡と仮定されている宮若市の千石峡で、輝緑凝灰岩の第1次工程、つまり、粗割段階の加工品と膨大なチップが散乱する場所を確認し、その内容を投稿したのだが、内容の不備により大幅な内容変更、あるいは、資料紹介という形での再投稿を詳細な内容で提示していただき、かえって編集の方々にご苦労とご迷惑をおかけするものと辞退した次第である。
 査読結果の内容をお知らせいただき、立岩と今山を無理に比較するような安易な内容である点等気付かせていただき感謝申しあげる。別の機会に何らかの形で報告できればと考えているところである。
 ただし、釈然としないのは、その査読内容の結果が送付され来たのが、最終しめ切り2週間前という時期、社会人として仕事をしながらもなんとか考古学にしがみついている人間にとっては、あまりに短い時間であり、しかも、5月あたりに投稿しているにもかかわらず、その時間的な対応はいかがかと感じる。投稿の締め切りを早くされるのであれば、当然、査読結果も早く知らせるべきではないかと考えるのだが。
 この件は、過去のものとし、新たに出直そうと考えていたが、編集後記でふれてあったので、あえて書いた次第である。遠賀川源流の落水の音が、九州考古学会関係者の方々のお耳に届けば幸いである。

 話をもどそう。馬見山は険しく直登は結構辛い。香月・豊福両先生ともに昭和5年生まれ、かなり厳しい山登りとなろう。それより、私がばてそうである。ゆっくりペースで登り始めたが、途中が倒木やがけ崩れのため迂回する道が出来ているのだが、何れも下を通る事は出来ないのであり、自ずと険しい上に上がることとなる。途中の伐採材を運ぶ林道で休憩、飴が配られる。一息して再び登り始める。昔登った道とはどこか景色が違う。それは、間伐のためいたって見晴らしがよくなっているからで、かえって道の痕跡がわからなくなっている。木立を抜ける一本道だったのが、その木立がすき間だらけとなれば、道と木々のコントラストが大きく変化してしまっている。私が案内人をしなくてつくづくよかったと思う。
 途中何度かの休憩を挟みながら、目指す羅漢岩に到着する。標高820m、さらっと残雪を残し、羅漢の大岩には何本ものつららがたれている。寒い、今までのぼりばかりで、少し汗ばんだ体には、立ち止まって食事をとると寒さがしみて来る。昼飯には自分でつくった2個の塩むすびのみ、それで十分に事足りており、すぐに、1人で調査に入る。私は、正面のスケッチと平面のスケッチをして必要ヶ所の寸法を記入する。やがて、他の人が幅35㎝のハサミ岩とも言うべき狭さで胸あたりまである両脇の岩の間を横になって登ってくる。私が通れたのだから他の人は軽く通るはずである。
 すき間を通りぬけると目前に半洞窟が広がる。奥行き5メートル、幅8メートルほどもあろうか、巨大な変成岩が上部に乗っていて両脇に同じ変成岩がそれを支えているという構造である。中は湿気がありもちろんかび臭い。奥の方を照らすと礫が詰まっており、ある時期までこの中を水が流れていたように見える。おそらく、大水で大量の礫が運ばれ奥を塞いでしまったのであろう。その結果、洞窟となったというところであろうか、期待される遺物等は落ちてなさそうである。今でも、大雨などの場合は水が流れ込むような感じである。
 中には昭和に入ってつくられた石仏が納められている。ただ、中に1対古そうなものがあり、馬見の庄屋の名が刻まれた碑が横になり、石仏の台座に使用されていた。これが、羅漢岩である。注意深く前庭部を掘れば何か出土するかもしれない。おそらく、古式のものは期待できないようではある。

 1月20日になった。実は市内に防災無線のアンテナが100ヶ所以上建つとあっ
て、そのうち40ヶ所ほどの立会いが始まった。本日は1日目で3ヶ所、何れも遺跡とはかけ離れた場所であるが、分布調査の大きなデータとなる。明日は1ヶ所、次は4ヶ所と毎日の仕事となるが、何かに当たりそうで心ひそかに期待している。
 そういえば、圃場整備の前に土壌調査が行なわれ、1m四方の穴が地権者の手で掘られ、それを見回りながら、遺跡の有無などを調べていたが、今回はそれを思い出させる。土壌調査の時には、掘りあげられた土の中に、青磁や弥生土器が混じり、断面にまともに遺構がひかかっていたことが時々あった。今回もやや期待しながらの予備調査である。

 最近、また、石灰岩地帯の周辺部に堆積していると思われる石灰岩の礫層や周辺より骨の残り具合によいと思われる堆積層がどうなっているのか知りたくてしょうがない。もちろん、鍾乳洞や石灰岩の裂け目に堆積した土中からの化石骨の出土はよく耳にする話であるのだが、なにせ、一般人には近づけず、危険も伴う。例えばあの広い平尾台から流れ出る河川堆積物はどうなのか、カルスト台地周辺に堆積するのであろうが、すべて酸性土になるのかどうなのか、調べた人もいないだろう。
また、洞窟内堆積物が流れ出る可能性もあろう。田川の糸田町で河川敷から見つかったナウマン像の臼歯もその手のものだろう。
 ジャワ原人の出土したトリ二―ルの地質図には、河川によって寸断されている丘陵の両方に石灰岩の長方形マークが記してあるのだが、地質的にはどうなんでしょうか、ご存知の方はいませんか。石灰岩の周囲にある堆積層は、通常より化石の保存に適した土質であれば、素人の我々でも夢が描けるのですがね。今度は、河川を歩いて見ます。数万年前の化石を含む地層が周囲にあれば探すのですがね。石灰岩採石場には法的な網がかかっていて近づけもせず、直良先生のものでも読みましょうかね。あきらめずに探しましょう。

 突然ですが、しばらく休んでおりました。というのも、現在、甘木市史料の1巻から5巻までを読んでおりますとともに、旧嘉穂町関連江戸期の古文書史料をつきあわせ、古八丁越の江戸期における利用と石畳の年代推定をこころみているわけで、老眼の身には辛いものとなっております。もちろん、古文書原本は読めませんので、読みやすくしたものをつかっております。

なんとも困難な作業で、正徳元年に古八丁人馬通行止なる文言が出てまいります。また、寛永に古八丁を塞ぎ新八丁を開削するとあり、基本古八丁は通れないとなりますが、秋月封内図等には道が記してある。ということは、完全封鎖ではない、しかし、通行記録も見当たりません。また、塞いだ道にわざわざ石畳を設けて管理する必要があったのかどうか、これが最初の疑問。
 
 しかし、読み解くうちに竹の伐採を嘉麻で行なった場合、蛇渕山など切り出した竹を大休に運んでいる。また、文政11年の大洪水のさいに、大休の上が崩れ野鳥川に流れ込み多大な被害を出しているが、即座に石方を野鳥川筋に派遣し往還の根石を居たと記されている。2日間かかり、その後に野鳥番所の上や下の川や道の普請を行なっている。往還の根石とは石畳の可能性があり、しかも、往還あつかいというのがいい感じである。この道は、古八丁に続き、一方では古処山参道で秋月の殿様も何度か参詣している。
 ちなみに、石方は川の石垣等の普請のため間 小四郎が筑後より師匠を招いて教示し、郷夫石方という専業的集団として編制している。この集団と石畳普請、あるいは定期的作道がかんれんしているのかな。

 この史料集「秋城年譜」の中の東畑記録中に面白い現象が書いてある。一つは彗星らしきものの出現、もう一つは、古処山から屏山、馬見山、江川の方へと幅180メートルほどでかなりの距離になるが木々が木っ端微塵に砕け散り、あるいは、大風で倒れたように根こそぎなぎ倒されたらしい。2日2夜振動したというが地震とは書いていないし、限定的された範囲のみそのような状態になるのもおかしいものである。当初、隕石かとも思ったが、2日間振動したとあるし光のようなものを見たとの記録もない。
 古記録の中に天狗倒しと表現される現象があるが、まさにそれかもしれない。それにしても、幅が同じで木々が砕けるような現象が起るのか、ひょっとすると竜巻かもしれないが、3月か4月頃のこと、しかも、標高6~700メートルくらいの限定箇所である。UFOかもしれませんね。馬見あたりに以前UFO騒ぎがあったらしいから、また、彗星かとしてある記載も絵が描いてあるが、これもそのてのものでは、いやーはまっちゃいましたよ。
 
 隕石で思い出しましたが、ずいぶん前のことですが、嘉麻市(当時は嘉穂町)牛隈に隕石が落ちたという話がないか確認に来た人たちがいました。ある炭鉱経営者の自宅に飾られていたもので、なんでも、隕石が落下するのをご本人が見たとのこと、炭鉱で働いていた人たちに仕事そっちのけで探させたそうです。溜池に落ちていたとかでだれかが探し出して持ってきたそうです。
 炭鉱経営者は相当の金額で買い取り応接間に飾っていたそうです。それが、流れ流れて福岡の人が所持されていました。箱には九州大学の先生による鑑定書が入っていて、隕石であり鉄隕石と何かの中間のようなもので大変珍しいものだということでした。実物はいかにも高熱で解けた感じでした。

 今、甘木史史料集を何度も読み返しては、古八丁越の利用と石畳の時期について調査している。なかなか面白いことがわかってきたのだが、決定打に欠けるのも事実である。というのも、市指定文化財に一部をしようと以前から奮闘しているのだが、なにせ、寛永年間に塞がれたとあり、正徳元年には人馬通行止となり、文久年間に開こうとしたが再び閉じられた道が古八丁、今で言う旧八丁越の道なのである。秋月街道をあつかわれた方は多いが、その利用について明確な回答をもっておられる方はいないといってよい。せいぜい、秋月封内図に道が記載してあるという理由から地元は使ったと想像されるが、その根拠は乏しい。
 当時、才田村の紺屋なる人物が八丁口の番所に文句をいったところ、その先の石原口まで送り出されたが再びもどってきて文句を言ったという地方文書の記録がある。つまり、地元でも新八丁越を使っている証拠である。それと「石畳の残りがよく」と街道のガイド本にもあるが、新八丁開削から明治頃まで通行止めの道にあのような大掛かりな石畳を敷いたのはいつのことか、はたまた何故なのか明確な証拠がないのである。
 何人もの先生方が本を書いておられるが、そこは新八丁と混同した書き方ですり抜けている。根拠がないのだからしょうがなかろう。しかし、指定して保護しようという地元にとっては事実をきちんと記していただきたいものである。
 ともあれ、こまめに史料に当たるとなかなか面白く、状況証拠ではあるがこつこつと集めている。今度、何かの機会に発表しようと思うが、秋月街道という名称も古(旧)八丁越の利用等に関しても嘆かわしいくらいな研究しかなされていないのには驚く。街道研究家と称されるみなさんしっかり研究してよ。あとが大変なんですよ、あとがね。
 
 石方郷夫・郷足軽・竹木が伐採される蛇渕山・大休・文政11年の大水害など、これらは間 小四郎関係でなかなかにいい史料を残してある。また、郷足軽の配置とその役目の一つに、夜須の津出し米の件で甘水を通る白坂越の改修に伴う史料に面白いことがのっています。これらは、間接的証拠として古八丁越の利用に関しかなりよい史料です。また、明和の殿様御郡回りの記録には、わざわざ蛇渕山を通って御帰城とあり、通常なら何も書かずに御帰城あるいは書いても八丁という文字がはいるが、明和の例は異例であったのかも知れない。もちろん、地方文書「田中大庄屋」の中の記載ではある。

 さて、これから古八丁越関連の問題に付き合っていただこう。
 まず、八丁関連の古記録で豊臣秀吉以前にさかのぼる例としてこのような資料がある。
 永禄10年(1567)に秋月・毛利の軍勢と大友の軍勢が争った「休松夜軍」では、秋月軍が大友軍に夜襲をかけ大友軍を敗走させるが、その際に「豊後勢以ての外大崩れして、芥田千手へ引もあり。甘水、長谷山を打通り」(筑前国続風土記 元禄期)同合戦を甘木根基(天明期)では、「豊後三将甘木・長谷山間七度鑓合戦」と題し「以て外ニ大崩シテ、或ハ千手・大隈ニ引クモアリ」と記し「九州記四巻ニアリ」としている。
 この記載を見ると、おそらく、(古)八丁越を命からがら逃げる大友軍の姿が浮かんでくる。面白いもので、石瀧先生は求める史料は、図らずも向こうから飛び込んでくる場合があるとか、この史料もその手のものである。
 もうすぐ、字数の限度がせまっているので、新たにコーナーを設けます。

気になることどもⅢ

2008-10-20 07:43:58 | Weblog
 10月18・19の2日間は、沖出古墳の公開日、春・秋の2回公開です。東京や大阪から来てくれてありがたい。しかし、2日間外にいるのはつらいね。テントを建てるけど日陰が段々動くもので、1日に当たっているようなもの、春も秋も日差しは強い。年齢とともにこれまた、段々と疲れてまいりますね。ちなみに、2日間で167名でした。王塚古墳は、1日1000人を越えるそうです。

 10月20日月 だるい一日のスタート、今日は前から気になっていた田川の川崎町の現場に見学に行く。情報で10cmに及ぶ茶褐色チャートのナイフ形石器というふれこみと大きな原石の茶褐色チャートも出土しているらしい。電話で、それはナイフでなく剥片尖頭器じゃないかとつげるものの現物を見ていない。そこで、現地に赴いた。当初から旧石器とふんで、いったい筑豊の旧石器の遺跡はどんな地形にあるのか、それが知りたいというのが目的である。
 車で木城川をさかのぼり狭い谷をのぼると現場が見えた。遺跡の主体は、狭い谷に延びる細い丘陵の脇で丘陵あるいは1度は水底でのたい積をへているようである。まず、原石との情報を受けたものは、珪化木であった。おそらく、石器の原材にはなってないと思われる。次に、ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。
 このような石材で見事な石刃状のフレークをつくる時期はと考えると、剥片尖頭器の時期か縄文後期、なんともわからない。しかし、そのような大形のフレークを剥がすにはそれなりのコアが必要であるから、大分の岩戸とか比べるといいのかもしれない。
 まずは杉原君の出番をまとう。それと、上流に洞窟があるようでそのほうが、私の興味をひいてしまった。
 フレークの出土した場所は、マサの地山の上に20~30センチの砂層(マサ土)のたい積があり、ところどころに粘土層が混じっていて、その中にあったようだ、遺構群が明確ではなく、剥片やチップの存在も確認できないところから、付近から流れ込んだ可能性もあるが、非常に鋭利でローリングはないようである。
 条痕文の縄文土器が点々と出土していて、やや厚手、全体を見たいものだが、轟あたりと踏んでいるようである。つけたりで、石英の石器みたいなものが数点ある。偶然かも知れないが石器だったら面白い。出土層は上層でせいぜい縄文かな。これも、杉原君にたずねたいものである。
 例のフレークの話に戻るが、出土地点は狭小な谷の低地に相当し、花崗岩風化土(マサ)の基盤の上にたい積した、河川堆積物中でざっと見たところ遺物はなく単独出土のようである。しかし、所々に礫群のたい積箇所と粘土がたい積した箇所が在り、それらを見極める必要があろう。ただし、それの中にチップすら見出せていないのは苦しい。
 以前から気になる縄文早期以前の遺跡立地の問題であるが、今回は狭小な谷に長く延びる丘陵の斜面につくられた段丘状の部分で、谷頭に相当しようか。
 驚いたのは、弥生後期末あたりの竪穴住居があることで、久々にこの時期の遺構を見る。こんな山間の中にもとの思いが巡る。

 ようやく、杉原君と連絡が取れる。川崎町の石刃状のフレークについて観察結果を報告する。いずれにしても現物にあたらないと何ともいえないが、石材という点では、豊前から豊後あたりからのものかもしれないし、ひょっとすると古い可能性もあるかもということで話が終了。それにしても、洞窟が気になる。土曜あたりに行ってみようか、子どもが遊び場にしていたらしい。
 
 土曜がきた。行ってみるか。早速、パンを2個購入し現地に12時前に到着する。石器が出た付近を何度と歩き回り剥片やチップを丹念に探す。再度、例の石器を見せてもらい、ルーペでなめるように観察、打点付近には調整痕があり明らかに意図した剥離で、パンチ痕のような微細な剥離がある。さて、前回「ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。」と書いたが、今回の観察でも石材は茶色の硬質か珪質の頁岩で、稜線が中央にあり、両側縁はほぼ平行で、末端がやや尖っている。基部から末端まで何度となく2次加工痕を探すがないようである。また、表面の反面近くがザラザラした感じで自然面と考えたが、主要剥離面にもあって真裏の位置に在ることから、石材の摂理や質的な部分と判明。少なくとも10センチ以上の長さのコアがあり、2回にわたって10センチ程度のものを剥いだ後に、稜線の中央上面にパンチをあて意図して美しい剥片、石刃といったほうがよいだろうが、このものを見事に打ち剥いでいる。周囲に同じ石材が全くないことから、素材として搬入された節がある。さらに、丘陵脇の1段高い部分からは、アカホヤがブロック状に入っており、条痕文の土器が出ている。さらに、アカホヤが混じったような黄色みの土が出てきており、早期と思われる土器片がある。
 石刃が出た部分の廃土をさがしまわり、サヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップを採集する。縄文土器出土層から出ており、おそらく、早期や前期に伴うものであろう。頁岩系の剥片は全く見ない。
 夕方になりついに杉原氏の到着である。観察結果は私とほぼ同意見、石材に関しては大平村あたりに見当をつけているようである。縄文早期に伴うものであれだけの技法を駆使した美しい石刃があるか、縄文に伴うものはサヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップで定番商品、だとすれば単独出土で砂礫層の上面ということもあって明確な層位が分からないが、可能性としてAT以前の古式な石刃ではないかと来た。おもろうなってきたでー。実は、アカホヤの下に角礫の入った層があり、その上に赤味を帯びた黄色い層が薄くのっている。そのあたりがあやしいのだ、実は、石刃が出た付近にも黄色い層がわずかにのっていて、これが鍵になりそうだ。いずれにしても、2万5千年以上の古い石器の可能性があり、何とか突きとめてもらいたい、神様・仏様である。
 
 10月29日 県の研修で福岡にやってきた。そこで、吉留さんに硬質頁岩のような石材があるか確認すると、いわゆる流紋岩の変成を受けたやつで、ホルンヘルスだという情報を得る。大野川と五ヶ瀬川上流に存在し上部の礫層中に多く含まれ、AT以前の石刃やそれを加工した石器の石材として利用され、日田や旧宝珠山で採集しており、川崎に入っている事は考えられる。しかも、製品として加工されたものが入るようで、その石材を加工したりするのは見られないという。まさに、ぴったりで、おそるべし。問題は、それにどのような石器が伴うものなのかを知る必要がある。今のままでは迷子の石刃である。

 再び杉原君と電話で話す。要は時期の問題であるが、可能性としてAT以前の古式のもの、あるいは、旧石器の終末頃の二通りが考えられるため、調べる時間が欲しいとのことであった。層位の確認が出来ない以上仕方ないこと、しかも、1点のみの出土とくれば困難きわまりないことである。よい点は古式の石器の可能性のあるものが、嘉麻市の山田近くから出土していることで、搬入ルートの推定が可能となってきている。山田の熊ヶ畑地区や上山田あたりは、全く未知の世界であり、表際を行なう必要がある。もう一つは、粕屋方面からのルートで、八木山から飯塚・穂波あたりも再調査する必要がある。なかなか、休みが取れず採集にいけないのが残念であり、年齢的に集中力が持続しないこと、腰痛、老眼と苦難の連続であるが、何とかして、旧石器の遺跡と洞窟や岩陰遺跡を探すことが今の希望である。
 笠置山の資料については、嶋田さんに見てもらったが、なかなか判断がつかないということで、藤田先生、嶋田さんはじめ仲間内で現地調査を試みるつもりである。嶋田さんによれば、飯塚側にも輝緑凝灰岩が採集できる場所があり、笠置山周囲に何ヶ所か点在する可能性もあるかもしれないということである。これも、楽しみの一つである。

 10月1日に岩宿文化賞の授与があったそうだか、なんと、諏訪間 順が取ったそうだ、要ではない諏訪間大明神である。足柄山の山中にこもること18年、旧石器に憧れ、地層から引き抜いた剥片を大事に持っていた彼は、相模野という10mにも及ぶ関東ローム層の立川層に挑むこと27年、積み上げた石は崩れることなく山をなした。もう一人仲間に香川県善通寺市の笹川がいる。横穴式石室の石材に掘り込まれた線刻文様を20年以上追い続けて、モガリ屋に到達した彼の記事が新聞の全国版に掲載された。諏訪間、笹川ともに学生時代を過ごした仲間である。みんな卒論で苦労したし、青海苔に醤油をかけ酒のつまみにしていたあの頃を思い出す。その店は、河川の再開発でなくなった。

 豊前國風土記曰 田河郡 鹿春郷在郡東北 此郷之中有河 年魚在之
其源従郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉
此河瀬清浄 因號清河原村 今謂鹿春郷訛也
昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神
又 郷北有峯 頂有沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有龍骨
第二峯有銅并黄楊龍骨等
第三峯有龍骨。

(逸文 宇佐宮託宣集)
 豊前国風土記の香春岳を示した一文がある。一の岳から三の岳まで全て竜骨が出ると記されている。奈良時代のことではあるがこれは非常に重要なことで、どういう形で出土していたかは不明であるが、鍾乳洞のような中に出る可能性などがあり、調査研究する価値はおおいにありそうである。北京原人の竜骨洞を探し当てたアンダーソン、ブラック博士やワイデンライヒ、また一つ夢がつながり始めた。
 なお、一の岳の西側に絶壁があり、その下に平地がありそうである。秩父の橋立岩陰遺跡が断崖絶壁の下にあり、岩陰となっていたことを思い出す。
 吉田 格先生の関東の石器時代を購入した。絶版らしく手に入らなかった。というより学生時代からチャンスはあったが購入しなかった。実は先生に埼玉で採集した隆起線文土器の破片を見てもらったことがある。その時、石器時代の「橋立岩陰」の抜き刷りをいただいた。もうひとつ、井草と大丸両型式の縄文と撚糸文施文の違いを聞いたら、詳細は江坂君にきいてくれといわれたことを思い出す。

 飯塚市井手ヶ浦の窯跡を見に行って、藤田先生と遠賀川上流域の旧石器の話をしたが、先生も必ずあるんだろうけど何故か見つからないし、今まで出たという話は聞かないが、狭い谷あいの段丘や張り出した地形のところにあるかもしれないと言われていた。旧筑穂と嘉穂両町の穂波・遠賀両河川の上流域で狭小な場所から刺突文土器が出土していることから、あと一歩でとどくんだろうけどと須恵器の話は、その後になってしまった。
 
 香春岳の竜骨から、また、帝釈峡や清龍洞窟、小瀬ヶ沢や室谷の本を引っ張り出してきた。命の旅博物館の図書閲覧室に中国の洞窟遺跡が紹介された本があったが、カラー版で厚い本を思い出している。また、日本洞窟遺跡が復刻されているなら購入も考えよう。
 
 11月16日曇りの天気をついて洞窟遺跡探し、まず、川崎の現場に向う。今日はあんのじょう工事は休みと来ているから、山田の筑紫に抜ける道を歩こうとせっせと車で乗り付けた。一応、石刃が出ているので現場検証を行い断片でも採集できればと、工事で削り取られた場所に近づく。地面は雨でびちゃびちゃ、現場用の靴の底に容赦なく粘土がくっついてくる。しかし、ものはない。やはり、旧石器の住人の生活痕跡はないようである。
 さらに、奥の例の筑紫に抜ける道に近づくが、ここもべちゃべちゃ、再び靴底に粘土が絡む。昔、現場のおばゃんが「神宮皇后さん靴のごとなった」と言っていたが、まさにそんな感じである。さて、ようやく道に到達すると、先は草が生い茂りとてもいけたものではない。
 引き返しながら、また、神宮皇后の靴になってしまった。土をやや落として履き替え車を出していると、前方に長い通行止めのポールで何かを押さえている。一人のおばちゃんが車を止めて盛んに「殺してくださいと」わめいていた。見るとマムシである。つかまえている叔父さんの隣であんちゃんが「上のほうで赤マムシがおったばい」と言っていた。ひょっとすると、筑紫への草むらに入ったらがぶりとやられていたかもしれない。最近はそうそうマムシは見ないのだが、くわばらである。次に、香春岳に向う車で横の道を通るが、中国の桂林のようにそそりたつ岩山になす術がない。確実に案内人がいる。
 そこで、帰る前に田川市の夏吉にある岩屋の鍾乳洞に行ってみようと車を走らせた。以前に行った事があるものの鍾乳洞の位置が分からず引き返していた。
 正面にお宮があり向ってその左に第一洞窟があると説明書にあった。そこで、神社の横から行くと崖面にぽっかりと横穴が開いている。私は鍾乳洞に関心がある訳ではない。その前庭部がどうなっているのか、また、過去の庇部分がどこまでせり出していたか、それと、洞窟の入口の方向である。私はハッとした。おそらく南西か南南西を向いており、前方は平地が広がり眺望がよい。さらに、向って左手は前庭部が過去に存在し、落盤で岩海のように石があるが、明らかに前庭と庇があったと考えられる。しかも水田をぎりぎりまで近づけているため、緩やかに下っていた斜面は全く削り取られ、かなり狭くなっている。また、看板や排水の側溝を埋設する工事も行なわれていて、かなりの部分が削り取られたものと推測する。
 何の事はなかったのである。おそらく、前庭を掘れば遺物は出そうである。洞窟遺跡だと考えるが、岩屋をもっと探れば条件の良い所が必ずあると確信した。まずは、入口前方の水田の持ち主に聞き込みをする必要があろうし、何か過去に出土しているはずであるのだが。長谷川さんを通じて調べてみよう。 今から、夏吉の岩屋がよいがはじまる。
 皆さん楽しみに。
 昨夜調べたら、県指定になっているようで第一洞窟は無理のようである。第七洞窟まであるようなので、それらにもあたる必要があろう。条件の整ったものがあるかどうか疑問ではあるが。

 ※田川石炭博物館の福本君へ、第一鍾乳洞の前庭部付近に看板を建てているし、前の水田は圃場整備か鉱害復旧かは知らないが、整備されているようで、その際に前庭部を削り取っていると思われるが、その時に何か出土したものがないか、地主さんか近所の人たちに是非聞いてくれるようたのみます。また、昔、土器や石器が出たとか骨が出たとか、そんな話がないのか聞いてください。夏吉の石灰岩地帯は洞窟・岩陰遺跡が必ずあると思います。いいフィールドになるでしょう。

 旧碓井の竹生島古墳出土の土器片を杉原君に預けていたので、九歴にとりに行く。ついでに青銅製の金具をもって行って岡寺君をまじえて「なんだろう」と検討するも分からず。刀関係の金具かなということで、松浦君に再度調べてもらった方がという話になる。土器片については、形状や焼成等からかなり古式なものの可能性があるとまではいえるが、小片でありあくまで可能性でしかないという限界である。帰りの受付で西谷先生とお会いする。九歴にいくたびにお会いするのだが、例の金具を見せると、しばらく考えておられたが、おおよそこのようなものではというところで、先生と考えが同じである事は分かったが、詳細は・・・というところで時間がなくなりもどる。
 帰って、土器の実測に断面を入れていたが、どうも、上部が一部かけているものの口縁部に相当するようで、口縁部直下に刺突文あるいは押し引き文が付されているようである。しかも、土師器のような焼成や色調、器壁厚が5~6mmと薄手で繊維が入っている。あくまで可能性としてだが押引文から刺突文あたりの段階で捉えたい。願望がかなり占めているのだが。

 今、竹生島古墳の縄文遺物を書かせてもらっている。石器の実測を久々にやったが、乱視がひどくて全く剥離が見えない。石器をやっている方老眼でお困りではないですか、石器の実測を続けることこれが老眼に打ち勝つこつかもしれません。ふだんは見えないものでも、長年の経験と感で見ることが可能となる。吉留さんや平ノ内さん、もはや、心眼ですね。チャートの石鏃などほとんど見えませんね。いやー寂しいものです。まして、トレースとなると全くだめです。手は震えるし、ただ、口だけは達者になりました。中村孝三郎さんの「越後の石器」に使用されたトレース図が「縄文文化の起源をさぐる」新泉社出版に出てますが、すごいですね。ロットリング以前の職人わざですね。講談社から出版された「古代の追跡」1970を読んでいました。中学生の時に買いましたが、背表紙がなくなりバラバラになりかけたので、ガムテープで張っています。そのうち図書館に行って黒いテープでしっかり止めてもらいます。その中で、小瀬ヶ沢洞窟発見前くらいに、地元の方の家で玉ねぎのさらしたものを食べて美味しかったとありましたが、じつは、このくだりを読んで、中学の時に玉ねぎを薄切りにして、水でさらして食べたことがあります。さらしたりなかったのでしょう、辛くて食べれませんでした。そんな思い出があります。
 藤森さんの「旧石器の狩人」がまたいいですね。学生社のこげ茶の表紙のやつと全集を持っていますが、なんとなく、こげ茶色のハードカバーのやつがいいですね。1000円以内で買えましたから。

 竹生島古墳出土の横長厚手の剥片で、どう見てもフリント製のものが1点ある。チャートかと思ったが、火打石に使用する灰色のどう見てもフリントで、縄文の石器というよりは、火打石の可能性がやや高い。もちろん、近世にお宮を建立し今日に至っているので、火打石が混在しても不思議ではない。むしろ、剥片を粗く加工して長方形状に整え、握りやすくしている点に石器にはないものを見ている。はたしてどうなのか、もし、石器であれば原材料の産出地が問題となろう事は目に見えている。

 また、考古少年回顧録の続きを書き始めた。昔の世界に逃げ込む自分がいる。逃げ込む場所があるからいいのかもしれない。日々くたびれている自分がいるのは確かで、明日からくたびれる場所に戻る。乱視がひどくなりパソコン画面が辛くなる。これがまた仕事で財務会計の画面に食いつくように、夕方には離れた位置で、しかめっ面して見入っている自分がいる。結構くたびれるが、頑張りはしないし無理もしない。不思議なもので、この画面はなんとなく心地よい。時間もなければ内容の制限もない。会計から「訂正お願いします。」という女性の若い声もない。
 行革・都市計画・商工観光など他の部署からの問い合わせもなく、何だか分からない電話もない。そんな世界にいつも逃げ込む。ハリーポッターではないが、魔法の鏡が今見ている画面なのかもしれない。

 12月11日今日は千手川両岸にあるポットホールの地質学的調査に同行。久々に感動を覚える。直方層群(大焼層)の露頭がありそこに江戸時代から知られる甌穴が存在しており、河川工事の際にもその部分は特に注意を払って工事がなされた場所である。筑前国続風土記の附録に記載されており、昔から知られた名勝である。
 今回は、地質学の先生方にその分析を願った次第であるが、第三紀を専門とされる先生の細かな調査、その解説を聞きながら考古学とは異なるアプローチ法を学んだ気分であった。
 第一にその層が河川堆積かそれとも海の堆積かということから始まったわけであるが、一般に直方層群は挟炭層で石炭を産出し淡水から汽水線あたりの堆積と考えられているが、先生方の調査は詳細に及び、まずは、砂岩が花崗岩系であること、さらに、重要な点で甲殻類の巣穴の化石つまり生痕の化石を確認された。これは、水深数十センチの浅く広がる海に生息するなんとかという甲殻類の巣穴で、蜂の巣のように存在するのだが、それと、波の痕跡が残ることなどから海進が起って数百キロに及ぶ浅い海が広がったこと、しかも、短期間に起ったことなどを説明された。
 付近には、炭坑がある事から炭層の上に積もったものであろうことを突き止められた。さて、我々もその生痕化石とやらを観察したのだが、なるほど、巣穴が無数にある。これを目に焼き付けた後上流に移動し、再び地層の観察に入られた。
 状況証拠を丹念に集められている。その一つに地層の構成がほぼ均一な花崗岩系の砂であること、河川では時おり礫が混じるものの、ここの層は比較的均一である。さらに、堆積層がやや波打つように凹凸していること、これは、海で見られるが砂全体が振動したように動いていた証拠で、河川や湖、沼には見られないらしい。しかし、決め手がない。決め手がなければ下流の層との比較による一致点が明確ではない。夕方になり帰る寸前であったが、私が例の甲殻類の巣穴の生痕化石があるのを見つけた。先生は確認するとただちに写真で撮影され、下流と同じ層である事を決定された。この一連の調査は大変勉強になった。是非、見習わなければならない方法である。かなり刺激となったし、久しぶりに面白く時を過ごした感じがして満足した。

 12月14日久しぶりに旧石器探しに出かける。今日は、碓井の美術館西の池から桂川町の狩野の溜池、大分の馬敷の丘陵、久保白ダム付近の溜池を回るが全くない。遺跡の臭いすらしないのである。嘉穂盆地の地形はすり鉢で周囲の土は解析が進行し洪積世の土を全てすり鉢の底にためてしまっているようである。どこに行っても花崗岩の風化土だらけ、これでは先人の痕跡は失われても仕方ないと感じた。
 気を取り直して、田川の夏吉に向った。途中で川崎町と大任町の境あたりに大きく造成している現場がある。先日の地質学の講義で少し第三紀も面白いなと思っていたが、その前に少し立ち寄った時には、かなりの量の砂岩が重機の削岩機によって割られ運び出されており、日曜の休みをねらって見に行ったが、化石もなさそうなのでその場をすぐに離れた。遠くに、地層が見えていたのだが、石炭層が目立っていたのでなんとなく、薄くなった髪ひかれる思い出引きあげた。
 しかし、今回は少し頭が大きくなっている。早速、地層のむき出しになった斜面に近づいていく。今回はまっしぐらに進んでいった。前方ばかり見ていたものだから、久々に右足がぬかるみにはまった。靴はズボッと抜けたが真っ白に土化粧をしていた。池の中を歩くときはかなりきおつけていたのだが、こんな所でわなにはまるとはと思いつつも崖面に向った。