芽育塾ブログ

宇治市五ヶ庄一里塚にある学習塾。小さな個人塾の今日をつづります。

無題

2017年01月23日 10時22分56秒 | 日記
 人が亡くなったと聞くと遣りきれない気持ちになる。

 それは、亡くなった方は、まだまだこれからやりたいことがあったのではないかと思うから。亡くなられた方のとても近しい人はその方との未来を思い描いていたと思うから。
 亡くなられた方が感じたかもしれない驚き、恐怖、痛み、不安などを想像するから。亡くなられた方を心の底から大切に思われている人の、喪失感や深い悲しみ、絶望感や孤独感などを想像するから。

 大切な存在が亡くなることは、残された人に大きな試練を与える。
 
 「悲しみを乗り越えて、前向きに生きてほしい。」
 残された人に対して言われる言葉だ。ぼくもそう思うけど、何か違うような気もする。悲しみを「乗り越え」て、「前向き」に生きる。ポジティブが称賛される現代ではこうでなければならないように思われているのではないだろうか。
 悲しみは乗り越えたければ乗り越えればいいだろう。しかし、悲しみを引きずりたければ引きずればいい。悲しみから目をそらしたければそらせばいい。

 前向きとはどちら向きなのか。体の正面が前で、顔が向いている方向がその人の「前」であるとすれば、亡き人との過去を振り返っているまさにそのときであっても、その人にとっては前を向いていることにはならないだろうか。どちらを向いても本人にとっては前なのではないだろうか。
 いや、分かってる、みんなと同じ方向を向いてほしいという意味の「前向き」だということは、そんなことは分かっている。その言葉の意味と、それを言う人が持つ思い遣りの感情は理解できてる。しかし、その言葉は強引であると思うのだ。深い深い悲しみの底に、希望の光が差し込まない真っ暗闇の中に、寒さと孤独に身を震わせながら、うずくまり、涙を流すその人に対して、みんなと同じ方向を向いてほしいという言葉は暴力的だとも思えるのだ。

 過去を振り返りたければしたいだけ振り返ればいいと思う。前になど進みたくはないと思えば進まなくていいと思う。

 もし、自分が、亡くなられた方の最も近くにいる人ではない場合、自分よりも亡くなられた方を愛し、自分よりも大きな悲しみに暮れている人がいらっしゃる場合には、その人を支えてあげること、励ましてあげること、悲しみを分かち合うこと、またはそれ以外のことでその人の力になりたいと思う。そして、その人が選択したことを認めたいと思う。前に進むことを選んだはらばその強さを、その場にとどまることを選んだのならばその弱さを認めたい。あなたはそれでいいと言ってあげたい。あなたの選択を尊重したいと伝えたい。

 生きることが善くて、そうでないことは悪くて、強いことが称賛されることで、弱いことが蔑まれることではないと思う。絶対的な善悪は存在しない。善悪は人の判断であり(判断にすぎず)、個人や国、時代や状況によって変わるものだから。
 例えば、挨拶をすることは良いことで、挨拶をしないことは良くないことだと一般には考えられている。ぼくもそれに異論はない。挨拶は相手に対する敬愛の念を伝え、相手を思い遣りで優しく包むためにかける言葉だ。それができれば素晴らしいことだと思う。しかし、挨拶は想いを伝える手段であり、目的ではない。
 悲しみのどん底にいる人に対して、挨拶をすることが良いことか。その人の気持ちを思うとかける言葉が見つからない。声をかけないことが、表現しうるいちばんの優しさである。そのような場合があるのではないか。その場合、挨拶をしないことは良いことだも考えることができる。同じ行為であっても、いつでも誰に対しても良いと言える行為はない。
 もしかすると、生きることも、そうでないことも、その奥にある目的に向けての表現なのかもしれない。生きることと死ぬことが、大いなる目的の手段であるならば、その目的とは何か。それは分からないのかもしれないし、それこそ万人に共通のものなのではないのだろう。しかし、もっと言うならば、その目的は分からないものだが今すぐに分かり、人それぞれ違うが万人に共通する、そんなものかもしれない。


 ぼくは37歳だが36年前に大切な人を亡くしている。それを初めとして、何人もの人が生を終えたのをぼくは知っている。ぼくの周りのそれらいくつもの死がぼくの中に積み重なっている。
 多くの人が、自分よりも先に旅立つ人を見送っているだろう。何人もの人が後悔し、あのときああしていればと考え、時間を巻き戻せるならと真剣に思いを巡らせたことがあるだろう。

 今の記憶と言語能力を携えたまま1歳の「あの日」まで戻ることができたのならば、未来は、今は変えられるのだろうか。「あの日」、仕事に行かないでと真剣に訴えることができれば、喋るはずのない1歳の息子が急にしゃべりだせば仕事に行くこともなく未来は変わっただろうか。「あの日」を万一変えられたとしても、別の日に同じことが起こってしまい、結局同じなのだろうか。父親がいるというのはどういう感じなのだろうか。家族全員で夕食を囲めたらどれほど嬉しいだろうか。父親がいてくれたらぼくは今とは変わっていたかな。きっと変わっていただろうな。なぜいなくなってしまったのだろうか。お父さんは星になってぼくを見守ってくれているのだろうか。星じゃなくて、人間としてそばにいてほしかったな。ぼくは幼すぎてお父さんの顔も声も匂いも、何んにも覚えていないよ。

 父親の死について、幾度となく考えた。何回も何十回も考えた。もしかしたら百回以上考えているかもしれない。でも、だからこそ、今のぼくがあるように思う。そして、母は同じ人の死について、ぼくの何千倍も、何万倍も考えたであろうことを知っている。

 父親の存在がぼくの肉体を生み、父親が存在していないということがぼくという一人の人間を育てた。その人の生も死も、その人の周りにいる人々の心を育むのだと、ぼくは思う。

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