テレビとうさん

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「宗教」 と 「宗派」 Ⅱ

2021年12月09日 | 雑感
 【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】 

 憲法第第二〇条
1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。


 憲法の言う「信教」とは、宗教を信仰する事とされていますが、「宗教」の定義が為されていません。

 「宗教」は一般に、「人間や自然の力を超えた観念体系」にもとづく教義の信仰、或いは儀礼・施設・組織などをもつ集団の教義を信仰する事と言われます。つまり教義が無く、自然そのもの信仰する事は宗教とは言えません。当然ですがその理由は、「自然(人間を含む)」は自然の力を超えていないからです。但し、人間と自然を逆転させる唯物主義の場合は、ヒトの教えの方が自然を超えているので宗教と言えます。当然ながら、その意味では共産主義も宗教の末席を汚していると言えます。

 神からの啓示などを直接受け、その教義を最初に広めた人を「教祖」と言い、一つの教義の解釈の違いにより、多くの「宗派」が現れます。宗派の開祖も教祖と言われる事も有りますが、ここでは単に「宗祖(開祖)」と考えます。

 ユダヤ教とキリスト教・イスラム教で考えると、何れも一神教であり「同じ神」を信仰しているとは言え、その教祖は同じ神から(時代に合った)別の啓示を受けたと言われているので、「別の宗教」と言えます。そうでなければ、神が三枚舌を使ったか、何れかの、或いは総ての教祖はウソを言った事になり、お互いに不都合な結果になります。カトリックやプロテスタント等は、教義(聖書)の解釈が違うようなので「宗派の違い」と言えます。

 仏教で考えると、釈迦は自身が「無我」を悟ったが故に仏陀と言われるのであり、神の啓示を受けた「教祖」では無く、「開祖」と言えます。釈迦の弟子たちが釈尊を教祖と呼んだとしても、釈迦が自らを「教祖」であると自認する事は悟りを自ら否定する事になります。釈迦が仏陀になる前に、弟子たちに教義を広めた事からすると、「釈迦教」と言えますがそれは仏教とは言えません。つまり、仏陀が教義を啓示している訳では無いので、それ自身は宗教ではなく、弟子たちが自ら釈迦の教義を解釈し広めたモノで、「宗派を習合した宗教」が「仏教」と言えます。

 神道の場合では、神(道)を信仰したとしても特段の教義は無く、いくつかの風習(儀礼・施設・組織)が有るだけです。また、神を信じない人でも、信じている人と同じ行動様式をとる事が見受けられます。つまり、神道は「宗教」ではなく日本人特有の習俗に過ぎないとも言えます。神道に於ける「神は自然(人も含む)の化身」でしか無く、何も教えてくれませんが、崇拝されるべき人はいます。

 ところで、大相撲はその施設である土俵上での女人禁制や、十両以上の清め塩が決められています。これは、神道から派生した「宗派」とも言えます。清められた土俵に上がる事は「宗教的活動」なので、政治家が政治家の身分で土俵に上がる事は憲法違反になります。

 「宗教」ではない神道から「宗派」が派生するのは奇妙な感じがしますが、「宗教」ではない道徳や倫理から「儒教」や「道教」等の「宗教・宗派」が生まれている事を考えれば、当然とも言えます。孔子の会話集である「論語」は「道徳・倫理」を説明した本ですが、数百年後に孔子の知名度を利用する為政者が、孔子の「論語」を除いて、孔子の教えではない「五経」を儒学として広め、これを孔子の教えとしての「儒教」と捏造されました。

 「宗教」はそれ自体が権威となりますが、「宗派」はその権威を利用し政治的・経済的な背景を持った分派である場合が多いように思えます。神による啓示が完全で最初の教義が正しければ、分派が出来る筈はなく、争いごとを起こす教徒は、自ら「宗教」を否定していると言えます。




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