マルクスの「資本論( Das Kapital. Kritik der politischen Ökonomie:資本論。経済学批判)」は、私は読んだことが無いのですが、1867年に第1部(全7編)がマルクス自身により刊行され、それまでの経済学を批判し、「資本主義的生産様式」「剰余価値の生成過程」「資本の運動諸法則」を明らかにした本のようです。
第1部 資本の生産過程
・第1篇 商品と貨幣
・第2篇 貨幣の資本への転化
・第3篇 絶対的剰余価値の生産
・第4篇 相対的剰余価値の生産
・第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産
・第6篇 労賃
・第7篇 資本の蓄積過程
第2部(1885年:資本の流通過程)と第3部(1894年:資本主義的生産の総過程)は、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集・発刊したそうです。何れにしても「唯物論」が中心思想なので、少なくとも本来の日本(GHQの洗脳が始まる前)では成立しない理論であることは確かなようです。
第1部 資本の生産過程
・第1篇 商品と貨幣
・第2篇 貨幣の資本への転化
・第3篇 絶対的剰余価値の生産
・第4篇 相対的剰余価値の生産
・第5篇 絶対的および相対的剰余価値の生産
・第6篇 労賃
・第7篇 資本の蓄積過程
第2部(1885年:資本の流通過程)と第3部(1894年:資本主義的生産の総過程)は、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集・発刊したそうです。何れにしても「唯物論」が中心思想なので、少なくとも本来の日本(GHQの洗脳が始まる前)では成立しない理論であることは確かなようです。
ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦:1922年~1991年)は社会主義国家とされていて、「社会主義革命」の後に「(絶対に正しい)共産主義国家」が成立する筈でした。但し、「共産主義」はその無謬性から一国で成立することは有り得ず、世界同時革命が至上命題と言えます。
戦前の一部の日本人の中にも「共産主義」を信奉する「カネメ」の人はいたようで、これに騙された純真な人もチラホラ現れたようです。現在でも「レインボウバッチ」とか「SDGsバッチ」を付けている人がいるので、当時としては止むを得なかったのかも知れませんω.ω
それはさておき、「資本論」で最も単純な間違いは、労働搾取による剰余価値の生産です。これは、(自由)資本主義ではなく、「共産主義(統制社会主義)」の正統な手段として乱用された事からも明らかです。つまり、共産主義国家では「(所謂)労働者階級の団結」によって、「資本家(実際には国家)」と「労働者(人民)」とを、明確に切り分ける事が容易になり「身分制度」が確立したと言えます。
資本主義の場合は、労働者も資本参加は可能なので被搾取者が固定される事は無く、運や能力次第で自分も資本家になる可能性が有る事から「過剰労働(資本論では労働搾取)」を自主的に行います。一方、「共産主義」では、階級が固定されているので与えられた労働しかせず、国の政策による余剰価値を生むには「労働搾取が必須」です。何故なら、労働価値と生産価値が等価なら余剰が生まれないからです。
資本論 ;「万国の労働者よ、団結せよ。失うものは鎖だけだ!」
資本主義論;「万国の労働者よ、資本参加せよ。失う物は無い!」

戦前の一部の日本人の中にも「共産主義」を信奉する「カネメ」の人はいたようで、これに騙された純真な人もチラホラ現れたようです。現在でも「レインボウバッチ」とか「SDGsバッチ」を付けている人がいるので、当時としては止むを得なかったのかも知れませんω.ω
それはさておき、「資本論」で最も単純な間違いは、労働搾取による剰余価値の生産です。これは、(自由)資本主義ではなく、「共産主義(統制社会主義)」の正統な手段として乱用された事からも明らかです。つまり、共産主義国家では「(所謂)労働者階級の団結」によって、「資本家(実際には国家)」と「労働者(人民)」とを、明確に切り分ける事が容易になり「身分制度」が確立したと言えます。
資本主義の場合は、労働者も資本参加は可能なので被搾取者が固定される事は無く、運や能力次第で自分も資本家になる可能性が有る事から「過剰労働(資本論では労働搾取)」を自主的に行います。一方、「共産主義」では、階級が固定されているので与えられた労働しかせず、国の政策による余剰価値を生むには「労働搾取が必須」です。何故なら、労働価値と生産価値が等価なら余剰が生まれないからです。
資本論 ;「万国の労働者よ、団結せよ。失うものは鎖だけだ!」
資本主義論;「万国の労働者よ、資本参加せよ。失う物は無い!」
