FMのラジオを聞くことは、ほとんどない。FMといえば怪しげな英語日本のちゃんぽん。耳から入ってきた瞬間に声色をまねて疲れてしまう。人口3~5万人程度の町のコミュニティFMにはそういう心配がないので、ドライブに出かけたときにはFMの電波が入らないかどうか探すことがあるが、それ以外はだいたいAMだ。
北海道の民放AM局、HBCとSTVのうち、私はHBCを聞く。STVで聞くのは松山千春の番組くらい。ほかにも面白い番組はあっても、日高晤郎という人の声がラジオから流れてくる恐れがあるから、私は絶対に聞かない。実際には出演は週末だけのようだが、農薬が入っているのがごく一部でも全体が敬遠される中国産冷凍ぎょうざと同様、成分として日高晤郎を含んでいるラジオ局は、曜日を問わず嫌いなのだ。
津軽海峡から南では、日高の知名度はほぼゼロであろう。もともとは歌手だか俳優だかを東京でしていたがパッとせず、北海道に渡ってきてラジオに出たら人気に火がつき、以来数十年にわたってSTVで「日高悟郎」の名を冠した番組が放送されている。いまは土曜日の朝から夕方にかけて、数時間の番組を持っているようだ。
しばらく前の話になるが、週末に昼食をとりに近所の食堂に妻と入ると、日高の番組が大きな音で流れていた。日高がスタジオ内にいて、女性のリポーターが外から中継していた。リポーターの伝え方が気に入らなかったのか、日高は明らかに不機嫌。AMラジオの中継リポーターは昔からハイテンションと相場が決まっているものなのに、スタジオが相手にしないと空回りするしかない。
そのうちに別のコーナーになり、スタジオに来たゲストとの対談が始まった。手元に用意された資料でゲストの名前が間違っていたことに日高が怒り出し、スタッフを何度もバカヤローと叱った。スタッフに対する「いじり」でリスナーを喜ばせようというのではなく、本気で怒っていた。仕事に厳しいのは結構だが、番組のなかで反省会を始めるのはリスナーに失礼だろう。
自宅のテレビならリモコンでチャンネルを替えればいいのだが、外出先だとそうもいかない。他にも客がいたので、両耳を指をふさいで「アーウーアーウー」のも格好悪い。いたたまれなくなりながらも、妻が全部食べ終えるまで待った。この店のエビフライ定食はなかなか美味しかったが、それ以来足を運んでいない。
以前から、日高晤郎が好きではなかった。声はいいし、教養も豊かで、しゃべりもうまい。ジョークも(狙っている年齢層が私よりもやや上だが)おもしろい。気に入らないのは、自分がその番組のためにどれだけたくさんの時間を費やしてどれだけ入念な準備しているのか、努力しているのかを、番組のなかで言ってしまうということ。結果としての番組が面白いと評価してもらうだけでは満足できず、そこまでに至る過程も評価して欲しいようなのだが、これって日本人の価値観からかけ離れていないだろうか。周囲の人間が「この人が立派な結果を残したのは、こんなに努力したからだ」と裏話を明らかにするのはありだが、自分から「私はこんなに努力していますから」と吹聴するのは、かっこいいものではない。
ところが、ある日インターネットで、日高晤郎の番組の聴取率が5%台であることを知った。ラジオで5%といったら、テレビに換算して何%なのかは知らないが、他の人気番組はせいぜい2%台だったから、怪物クラスであることは確かだ。
さて、少し前に休日出勤したときの話。同僚の50代の女性が事務室のラジオで日高の番組を聞いていた。私は、日高の番組がいかに不愉快なものであるのか語ったあとで、この人がファンだったらどうしようとちょっと後悔したのだが、その人は「そうそう、そうなのよ」と一通り相槌を打ったあとで、「それでも」と反論を始めた。
この人も、時々日高の番組を聞いて嫌な感じがしていたのだが、あるとき日高を絶賛する人に出会ったのがきっかけでなんとなく聞くようになり、いつのまにか自分もすっかりファンになってしまったという。この人にとっては、傲慢さと毒舌がいいスパイスになっているようだった。
日高の人気は知っていたが、これほどとは知らなかった。毒舌で傲慢だから人気なのか、人気があるから毒舌で傲慢なのか。おそらくは両方なんだと思う。
北海道の民放AM局、HBCとSTVのうち、私はHBCを聞く。STVで聞くのは松山千春の番組くらい。ほかにも面白い番組はあっても、日高晤郎という人の声がラジオから流れてくる恐れがあるから、私は絶対に聞かない。実際には出演は週末だけのようだが、農薬が入っているのがごく一部でも全体が敬遠される中国産冷凍ぎょうざと同様、成分として日高晤郎を含んでいるラジオ局は、曜日を問わず嫌いなのだ。
津軽海峡から南では、日高の知名度はほぼゼロであろう。もともとは歌手だか俳優だかを東京でしていたがパッとせず、北海道に渡ってきてラジオに出たら人気に火がつき、以来数十年にわたってSTVで「日高悟郎」の名を冠した番組が放送されている。いまは土曜日の朝から夕方にかけて、数時間の番組を持っているようだ。
しばらく前の話になるが、週末に昼食をとりに近所の食堂に妻と入ると、日高の番組が大きな音で流れていた。日高がスタジオ内にいて、女性のリポーターが外から中継していた。リポーターの伝え方が気に入らなかったのか、日高は明らかに不機嫌。AMラジオの中継リポーターは昔からハイテンションと相場が決まっているものなのに、スタジオが相手にしないと空回りするしかない。
そのうちに別のコーナーになり、スタジオに来たゲストとの対談が始まった。手元に用意された資料でゲストの名前が間違っていたことに日高が怒り出し、スタッフを何度もバカヤローと叱った。スタッフに対する「いじり」でリスナーを喜ばせようというのではなく、本気で怒っていた。仕事に厳しいのは結構だが、番組のなかで反省会を始めるのはリスナーに失礼だろう。
自宅のテレビならリモコンでチャンネルを替えればいいのだが、外出先だとそうもいかない。他にも客がいたので、両耳を指をふさいで「アーウーアーウー」のも格好悪い。いたたまれなくなりながらも、妻が全部食べ終えるまで待った。この店のエビフライ定食はなかなか美味しかったが、それ以来足を運んでいない。
以前から、日高晤郎が好きではなかった。声はいいし、教養も豊かで、しゃべりもうまい。ジョークも(狙っている年齢層が私よりもやや上だが)おもしろい。気に入らないのは、自分がその番組のためにどれだけたくさんの時間を費やしてどれだけ入念な準備しているのか、努力しているのかを、番組のなかで言ってしまうということ。結果としての番組が面白いと評価してもらうだけでは満足できず、そこまでに至る過程も評価して欲しいようなのだが、これって日本人の価値観からかけ離れていないだろうか。周囲の人間が「この人が立派な結果を残したのは、こんなに努力したからだ」と裏話を明らかにするのはありだが、自分から「私はこんなに努力していますから」と吹聴するのは、かっこいいものではない。
ところが、ある日インターネットで、日高晤郎の番組の聴取率が5%台であることを知った。ラジオで5%といったら、テレビに換算して何%なのかは知らないが、他の人気番組はせいぜい2%台だったから、怪物クラスであることは確かだ。
さて、少し前に休日出勤したときの話。同僚の50代の女性が事務室のラジオで日高の番組を聞いていた。私は、日高の番組がいかに不愉快なものであるのか語ったあとで、この人がファンだったらどうしようとちょっと後悔したのだが、その人は「そうそう、そうなのよ」と一通り相槌を打ったあとで、「それでも」と反論を始めた。
この人も、時々日高の番組を聞いて嫌な感じがしていたのだが、あるとき日高を絶賛する人に出会ったのがきっかけでなんとなく聞くようになり、いつのまにか自分もすっかりファンになってしまったという。この人にとっては、傲慢さと毒舌がいいスパイスになっているようだった。
日高の人気は知っていたが、これほどとは知らなかった。毒舌で傲慢だから人気なのか、人気があるから毒舌で傲慢なのか。おそらくは両方なんだと思う。