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かつこのテラス

日々の思い、時には物語を綴ります!

書くと言うこと~あらお詩集『安達太良の青い空』に寄せて

2013-05-18 15:54:55 | Weblog
昨日、近くに住む友人が、「あらお詩集『安達太良の青い空』を知り合いが欲しがっているので」と訪ねてきた。
自分が読んで、とても良かったので、お知り合いにも奨めてくれたようだ。

彼女の感想
「人間は言葉を持っている。詩集を読んで、まず言葉を使う大事さを改めて感じました。
それは、素晴らしい行為であると同時に、本能的なものでもあるのではないかと思います。
言わずにはいられないことを、言葉にできることで、書き綴る本人も癒される。突き上げてくる、せずにはおれない思いを(彼女はほとばしるという言葉も使った)書き綴る。
人は生きていくなかで、本当に大変な事態に遭遇することもしばしばです。でも、私たちがこれまで経験してきたこと、たとえば、身近な人を突然亡くして辛い、寂しいということも、言ってみれば、まだ幸せの範疇に入ることのように思いました。
震災や原発被害のなかで書かれたこの詩を読んで、改めて、当事者の思いに触れ、たくさんの人に紹介したい本だと思いました。
このような企画をしていただいてありがとうございました」

彼女は、一昨年まで某大学職員として40年以上勤務。
退職を目の前にした冬、実家で独り暮らしを続けておられたお母さんが突然の病で倒れて病院に運ばれてしまった。
意識は戻ったものの認知証を発症し、早期退職して介護をしようか、迷っているうちに、まもなく亡くなってしまわれた。その後、二年が経った今でも、彼女がお母さんを思い出すたびに涙ぐむことも多く、まだ癒えていないのだなぁと、私などは感じたものだった。

満足に母親のために尽くせなかったという心残りがあったのだろう、私が、母と暮らし始めたとき、「大事にしてあげてね」と何度も目を潤ませていた。
その彼女も、当時しきりに、自分の思いを綴っていたようだ。
私も今、母のことを書いているのだと彼女に伝えながら、彼女の感想を噛みしめていた。

書きながら癒されるというのは、亡くなった人への鎮魂でもあろう。

しかし私自身、書きながら、3.11以前と以降では、違うのだということも感じている。
今まで住んできた場所で当たり前に暮らすことが、突然叶わなくなる。それが、他でもない個々の事情を超えた「国策」というものの故なら、これほど理不尽なことはない。
多くの避難者が、今どうして暮らしているのか、お年寄りはどうしているのかと、母の最晩年をともに過ごしたからこそ、一層考えずにはいられない。

遠く離れた私たちにもつねに訴えかけてくるのが、あらお詩集であり、福島からの手紙なのだと思う。
詩集は、鎮魂ではなく、魂起こしの詩なのだ。

母と暮らす ⑦こぼれた記憶と紙パンツ~介護・看取り

2013-05-17 16:44:02 | Weblog
 病院の母に、昨夜書いた手紙をまず手渡した。

 母は、途中からまた肩を振るわせて読み進み、
「ありがとう。こんな年寄りをここまで言ってくれて。よろしくお願いします」
 「去年手術してから、涙がでなくなって…。」と、体で泣いている。 
 「こちらこそよろしくお願いします」
二人で頭を下げあう。
 後日、姉もこの手紙を、母から見せてもらったとかで、「私たちの気持ちを代表してくれているようで、涙がでたわ」と言う。

それからは、退院の日まで、毎日母の病室に通った。


  ◎ こぼれた記憶と紙パンツ

まだ使っていない紙パンツが
床に二つ落ちていて
拾い上げた私に 母が言う
前の手術のときは
下痢で失敗ばかりしたけれど
今度は一度も失敗してないわ

ああ 今度の手術で
母の記憶はこんなにこぼれてしまったのか
紙パンツを片付けながら 私は思う
術後、毎日汚れ物を洗濯した
と 姉さんからは聞いていたので

忘れることは
軽やかになることか
こぼれた記憶と紙パンツ
拾ってそっとしまっておく



母と暮らす ⑥母への手紙~介護・看取り

2013-05-16 19:26:34 | Weblog
 その夜
 母に手紙を書いた。
 築き上げてきた91年を「嘆き」で締めくくってほしくない。自信と喜び、そしておおらかさを取り戻して欲しい。


母上様
 二回目の手術を終えても、また、ちゃんと歩けるようになって、ベッドに起き上がっていて、なんて立派なんだろうと思います。それと、本も楽しめるようになっていて…。前回は、舌の手術で絶食だったせいか、本がちっとも読めなかったのに、今回はその点は良かったと思います。
 でも、すっかり小さな体になって、もうこれ以上独りぐらしで頑張ろうなんて思わないでください。住み慣れた岐阜の家に居続けたい気持ちはわかるし、新しい環境が不安な気持ちもよくわかりますが、91歳になるまで、こんなにちゃんとやってきた人なんて、私はみたことがありません。
 これ以上頑張らないでください。母上は、もう充分頑張ってこられたのだと思います。
 私の家は狭いし、陽当たりも悪いし、お庭まで遠いし、決して快適とは言えないかもしれないけれど、少なくとも肩の力を抜いて、楽になって、日々の暮らしを楽しむことはできるように思うのです。

 だから、「長生きしすぎたねぇ」とか「やっかいもの」だなんてことは決して言わないでください。今までしっかり頑張ってきた生き方まで否定しているみたいで、私はその言葉をきくたびに悲しくなります。母上には「長生きして良かった」って、心から思って欲しいです。
 それは、私たち、あとから続く者の「この先の道」だからです。母上が嘆けば、私たちも悲しい!
 昨日、「私のところに母上が来てくれることになった」と、兄や姉に、そして娘たちにも伝えました。皆とても喜んでくれました。
 
 それほどみんなそれぞれに母上のことを案じてもいたし、行き先が施設ではなくて、私の家っていうところが、よけいみんな嬉しかったんやと思います。
 京都へ来たら、母上は、やっかいものどころか、きっと「人気者」になるような気がします。
だって、91歳でこんな風に会話ができる人いないですし、私より少し年上の人たちは、自分の親が亡くなっていて、親孝行しようにも既になく、かえってうらやましがられるかもしれない。
 
 私は、母上がよく想い出してしてくれる「昔がたり」が好きです。これからももっと聴きたいし、今年は梅干し作りにも挑戦しようと思っているので、アドバイスも欲しいし…。
 
来ていただくのに今が一番良いタイミングなんじゃないかと思います。
・私は仕事を辞めてちょうど一年。気持ちも暮らしものんびりしています。もちろん、ほとんどの時間家にいられます。

 良いことをイメージしてみました。
・本がたくさんあるので、いつでもどれでも手にとってもらえる。
・新鮮で減農薬の野菜が手に入るルートがあるので、美味しい野菜を食べて元気をつけてもらえると思うんですよ。
・双ケ丘の裾を散歩したら、木立や小鳥、虫たちが季節ごとに色んな姿をみせてくれるはずです。
・春には、双ケ丘の桜、仁和寺の桜が満開でこの桜を見ただけでも「あぁ、長生きして良かった」って思ってもらえそう。
・仁和寺の裏手には、四国八十八カ所の霊場が祀られている山があります。登るのは無理だけど、ふもとの札所には行けると思いますよ。
・妙心寺も近い。お墓参りに歩いていける。(父上が喜ぶと思う)
・私のところなら、皆が気軽に母上の顔を見に立ち寄れる。
                            
                      まだまだありそう~。
 
 家が狭くて陽当たりが悪いのがとても申し訳ないけど、「住めば都」だと思いますよ。
 そして、周辺は、本物の都なのですよ。
 ねぇ、一緒に住もうよ~。
 トイレに一番近い下の部屋で寝られるように準備するからさぁ。

    2010.2.20    かつこ 

母と暮らす ⑤母の嘆き~介護・看取り

2013-05-15 17:18:55 | Weblog
一夜明けて、母が昨日のことを忘れてないだろうかと危ぶみつつ、病院に向かった。
 母は、待ちかまえていたかのように目を上げ、開口一番「昨日の話、やっぱり私はあの家にぎりぎりまで居たいわ」
「ああ、母は、昨夜からずっとこのことを考えていてくれたんだ。忘れてなかった」とほっとしつつ、「振り出しにもどる」の言葉が浮かんだ。
 でも振り出しではない。母にとっては、考えてもいなかった選択肢、「かつこの住む京都に行く」が目の前に立ち現れてきえていないのだから。
 
やっぱり、きれいにはいかないよね。気持ちはわかるけど・・・・。
 ぎりぎりっていつ?
 今度は私がお手上げかも。
 京都に来る体力は、今がぎりぎりでは?
 新しい環境に慣れるにも、今でさえ不安。

 今の母が自宅で、一人で暮らし続けるために欠かせない介護保険を利用してのサービスは、誇りを持って一人暮らしをつづけてきた母にはどれも受け入れ難い。
配食サービス「私は、できあいの物を買って食べたことがない。自分でつくる」
買い物援助「想像つかん。自分で買い物したい」
入浴「ボロ屋でも、家の風呂に入りたい」
デイサービス「いきたくない。想像つかん」

 住み慣れた家で暮らし続ける。
 当たり前にかなえてあげたいけれど、難しい。
 私が移住する?  自分の繋がりを中断して岐阜に住み続けることが、耐えられる? 
 自信がない。
 どうしたらいいのかわからなくなる。

 姉の到着を待って、また二人で昨日の話をする。
 母は、不承不承「よろしくお願いします」といい、「ああ、あんまり長生きするもんやないねぇ」「早く逝ったお父ちゃんがうらやましい」と嘆き、「やっかいものやねぇ」「私は先のことは何も考えていなかった」とつぶやく。
 真面目にこつこつと生きてきた人が、こんな嘆きを口に出さなくてはならないなんて、とても残念で、痛々しい。
 母の嘆きを聞けば、自分が罪深い提案をしているような気にも陥った。

母と暮らす~④同居を切り出す~介護・看取り

2013-05-14 13:45:01 | Weblog
 一人で暮らす。父亡き後、91歳になるまで立派にやり通した母は、つくづく凄い人だと思う。

 昨年に続く二回の手術で判断力、記憶力、体力ががたっと落ち、どれだけやる気があっても補いきれるものではない。これ以上ほおっておくことは、とてもできない。
 姉も私もそう思っているが、本人にどう切り出すか、きっかけや、話し方がつかめない。
 やる気や自信、自尊心をそぐような真似はできない。失礼な態度はとれない。
 切り出せぬまま時間が過ぎる。

 3時頃、朝食の残りの紙パック入り牛乳を姉が母にすすめる。「これは、栄養士さんが計算して出したものやから、ちゃんと飲んでね」
 食欲のない母は、無理矢理飲み始めたが、途中、牛乳が逆流してストローから溢れベッドがぬれてしまった。姉があわててぬぐい取っているうちに、母の肩がふるふると震えだした。小さな身をもっと小さくして、ふとんにうずくまっている。
「どうしよう。泣いてる?」
姉が気付いて私に囁く。見ているこちらも切なくなって声がかけられない。

 しばらくして、しゃがみ込んだ私が、ベッドの下から母を見上げて
「私と、京都で一緒に住もう」
母は、しばらく絶句して
「一時避難で?」
「ううん。ずっと」
しばらく、三人とも沈黙。そして、ぽつりと言う。
「70年も住んだあの家を離れる決心がつかん」

やはり、そうか。
「気持ちはわかるけど、体力も落ちて、一人暮らしはみんながいつも心配してるよ。交替で通うのも無理があるし。こんなにやせて。もう今まで充分ひとりでがんばってきたやん」
 姉からも、今の母の状態は、誰かが毎日見に行かないではおれないほど心配なこと、年金から家計援助をしてやれば、かつこも助かるだろう、など話す。

 しばらく考えた母は、「ではお願いします」と手をついてくれた。
 急展開ながら、母の承諾を得てほっとしたのと、母の決心の辛さも伝わってきて胸が熱くなる。
「ありがたいねぇ。こんな老婆に、こんなことを言ってもらえるなんて」
 姉も横で「よかったね」といいながら涙ぐんでいた。


介護・看取り~母と暮らす ③介護保険の入り口

2013-05-13 11:16:42 | Weblog
 翌朝、早々に病院へいった。
「退院日の延長を頼まなくては。母が受診に呼ばれるより先に」と焦っていた。
「傷の治りもいいし、いつでも退院できます」などと、先に言われてしまうと、母はすっかりその気になって、弱った体ではぁはぁ言いながら荷物をまとめかねない。9時に着くと、すぐ師長さんに事情を話してお願いする。

「実は病院のベッドが今、空き待ちで、救急受け入れ、手術待ちの大変な状況なのです。医師の判断が基本ですが、どうしてもの時は、優先的に退院になることを了承してください」
病院側は、微熱のことも、リンパの腫れも何もかも承知の上の判断だと言う。
「一人暮らしで、介護保険の申請も間に合っていない上に、まだ家での受け入れ準備ができていなくて、あんまり急なことで困っているんです。なんとか当初予定の2~3週間は、おいていただけませんか?」
「あとはどうされますか? お姉さんとも相談されましたか?」
「一人暮らしが限界と思われますので、まず岐阜で介護保険の申請をして、認定を受けてから、京都の私の家で同居しようかと。まだ本人には言えてないんですが」
「ケースワーカーの方と相談されましたか? 当院にもケースワーカーがおりますので、お姉さんと一緒にお話できるように連絡しておきますから。退院の件は、あくまでも医師の判断ですので、お宅の状況も伝えて、判断を仰ぎますので」とのこと。

 その旨、姉に電話をすると
「じゃ、今から行く」
「焦らんでいいよ」
「焦る!」

 およそ一時間後、姉が到着し、ケースワーカーの方と面談。
 介護保険申請の手順を教えていただいたあと
「お母さまは、お名前、生年月日、今の季節、全て言えますから、要支援1.2、よくいって要介護1程度じゃないでしょうか。今、介護保険も昔のように通りませんから。ドンドン打ち切られていますからね」
 名前、生年月日、季節も言えぬ状態にならないように援助をして、自立生活がスムーズに送れることこそ必要なのに、なんということ!

8年前に父が倒れたとき、介護保険認定のための調査は、結局亡くなった後にようやくアポイントの電話があったのだった。介護保険制度の入り口のまどろっこしさをまた痛感することとなった。本当に困った時、いざというときに間に合わないのだ。(しかも入院中は、申請できない、使えない制度らしい)

介護・看取り~母と暮らす ② 退院後どうする?

2013-05-12 17:24:17 | Weblog


 母、首リンパを手術(2010.2.12)。

 術後、姉が毎日付き添い、6日目に交替のため私が岐阜へ。途中用事で京都へ日帰りした以外は、8日間、岐阜の家に泊まって、毎日病室へ通う。
 姉からの報告では、リンパに思った以上に広がっていて、手術に時間もかかったようだ。
 昨年9月の舌腫瘍手術以降、認知症がでてきていて、今後の一人暮らしは客観的に無理と思われた。
 思い悩んで娘とも話し合い、おばあちゃんに、数ある選択肢から選んでもらおうかと思っていた。

①介護保険制度を最大限活用しながら、今の家で一人暮らしを続け、時々私たちが訪問。
②京都の私の家で同居する。
③施設への入所を考える

 午後2時頃病室のカーテンからのぞくと、母は一段と小さくなった背中をまるめて、ベッドに座り、文庫本を開いて読んでいる最中だった。
「あれ、もうついたの? 早かったねぇ」
 見上げた顔が痛々しい。両の首リンパが腫れ、顎にかけて内出血が広がっている。
「オバケのような顔」と母は闘病記に記していた。(入院中、母は闘病記を記している)

 病室で付き添ううちに、選択肢から母が自分で判断できる状態ではないことがわかってきた。
 先生に「傷の治りが早いので、あさってにでも退院できますよ」といわれたのを、今日退院かと早とちりして、午前中に荷物をまとめていたらしい。看護師さんから「違う」といわれて、またもとに戻したとのこと。

 まだふらふらで、熱もある。
 荷物をまとめても家に帰ってからの生活はどうするのか、何も決まっていないまま、気ばかり逸ったようだ。今日は、姉が来ない日で、支払いは? 車は? など相談しないままの退院なんてあり得ないのだが・・・。
 こんな状態であさって退院して、あとどうして暮らす?
姉とも相談して、退院日をできるだけ延ばしていただくよう病院に頼んでみることにした。
 当初、術後2~3週間は入院という話だったが、まだ1週間も経っていない。あまりにも早い退院指示。

 今考えると、この早期の退院指示こそが、「長く入院すれば、それだけ病院が赤字」という医療制度の情け容赦のなさに起因していることに思い至る。

介護・看取り~母と暮らす ① 発病・入院

2013-05-11 18:55:28 | Weblog
まよいつつ、悩みつつ、母を看取り、やり終えたというべきか、成し遂げたというべきか、そんな充足感、ある日を境に身近な人がいなくなった寂寞感、喪失感。
そして、身体的には、極端な疲れ。
母に寄り添い、「食事が喉を通った、通らなかった」「起きられた、起きられなかった」で一喜一憂した日々が突然絶たれたとはいえ、母の苦しげな息づかいは、自分の身のうちにしばらく張り付くように遺っていた。

この半年は、私にとって、日にち薬というに相応しいものだったようだ。
できることとできないことの区別が、自分でもわからない。
ずっと元気に動き回っていたようだが、できたのは、母の手続き上のあれこれ(事務手続きや法事、親しかった人への挨拶などは山盛、それを仕事師のようにこなしていた)と日常生活だけで、プラスαを誰かに提案された途端に、めまいを起こして倒れる、という始末。そうなって初めて、「ああ、よほど私、疲れていたんだ」と気付く。

夜半、ベッドのなかで、ぽろぽろ涙が出て仕方がない日々も数日。
「すまなかったねぇ。世話かけたね。ありがとうね」と母の声が聞こえるまでになったのは3月が過ぎた辺りだっただろうか。(母は、しょっちゅうこの言葉を口にしていた)

半年が経って、ようやく、一定の距離を持ってふり返ることができるようになった。

母と同居したのが、およそ3年前。そのとき母は、独り暮らし8年目に入っていた。
4人の子どもを育て、父を看取ったその家で、母は70年暮らしていた。
生まれてからこの方、一度も入院したことがなかった母が、初めて入院したのは、同居の前年、舌腫瘍(舌癌)の手術のときだった。
幸い、手術はうまくいって、3週間の入院で、母は、自宅での独り暮らしへ戻ったのだが、翌年、リンパへの転移が発覚、手術入院となった。
「91歳の母と同居」という結論に至る少し前、私自身の記録からその経過を辿ってみる。



介護・看取り~②草案では家族を強調

2013-05-09 14:23:15 | Weblog
2つの番組では、制度が不十分ななか、現場の自助努力で、なんとかやりくりしている当事者たちの姿が浮き彫りになる。家族への依存が大きくハードルの高い、在宅での介護・医療。貧しい制度の狭間で、当事者や専門家への負担が大きく、現場での努力は計り知れない。
自殺、他殺を含む、介護を巡っての痛ましい事件があとを絶たないのは、受け皿がない状態で家に囲い込まれ、家族だけが抱え込まざるを得ない、閉塞状態のあらわれだ。
私は、認知症の母とともに暮らし、不安に押し潰されそうになりながら、在宅で看取るまで、そうした事件を見聞きするたびに、身につまされる思いがしたものだ。

昨年出された自民党憲法改正草案には、こう記す。

自民党改正草案
(前文より抜粋)
日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。

第二十四条 家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない。


美文の裏から、透けて見えるのは「国はそんな金はださないよ」「家族で面倒みてくださいネ」という冷たい態度だ。既に、じわじわと予算削減による制度改変の波が押し寄せているが、「国民が守らなければならないもの」と変質させられた「改正草案憲法」はそのトドメの役割を果たすに違いない。

介護・看取り~①2本のTV特番紹介

2013-05-08 11:37:46 | Weblog
まっただ中にいた頃には、心のゆとりがなくて、見るのも辛かった介護・看取りに関する特番、ドキュメンタリー。
少しずつその日々が遠ざかり、ちかごろやっと、むしろ最も身近な問題として、捉えられるようになった。
そこで起きている問題点が、急速に迫りつつある改憲の動きと無関係ではないからこそ、「今できることを今」、の思いも強くしている。


以下は、先日(2013年4月21日)放映された
 NHKスペシャル「自宅で親を看取る その時あなたは」の番組紹介

現在、日本人の8割が病院で亡くなり、“在宅死”はわずか2割ほど。超高齢化が進む中、国は「看取りの場所」を「病院」から「在宅」へと転換する政策を打ち出した。2012年を「地域包括ケア元年」と位置づけ、年老いても住み慣れた地域で暮らし、最期を迎えられるよう、在宅医療や看護、介護サービスの整備を進めている。
「治療は終わったので病院以外で療養を」と早期退院を求められる高齢者と家族。しかし24時間対応できるヘルパーや在宅医など、在宅医療を支える社会インフラは不足し、家族は“老い”や“死”を受け入れられず、苦悩を深めている。横浜市で診療所を開く在宅医は言う。「これまで医療は命を延ばすためのものだった。これから必要なのは“死に寄り添う医療”だ」と。
人口に占める高齢者人口の増加率が全国一の横浜市を舞台に病院や在宅医療の現場をルポ。「在宅の看取り」に何が必要なのかを探っていく。


昨年(2012年)5.29放映(この番組は見ていない)
クローズアップ現代「もう病院で死ねない~医療費抑制の波紋~」

医療費の抑制を推し進める国の施策。国は病院が長期入院患者を抱えるほど、受け取る診療報酬を少なくしています。
今、高齢者が退院を迫られる事態が相次いでいます。
しかし退院後の受け入れ先も見つからなくなっています。受け皿となってきた病院でも、国がベッド数を削減しているからです。介護施設の数も不足したままです。
残された選択肢は、自宅に帰すこと。しかし半数は一人暮らしや、夫婦二人だけの世帯です。自宅へ戻ることが困難なケースは年々増えています。
現在、病院で亡くなる人は全体の八割。
しかし、近い将来、およそ半数が病院以外で死を迎えると見られています。


続く