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かつこのテラス

日々の思い、時には物語を綴ります!

沖縄・福島・京都

2014-04-22 21:58:17 | Weblog
  K9MPの活動を通して、沖縄・福島は、とても縁の深いつながりを持ってきました。
 特に、沖縄と福島は共通する苦しみや怒りを抱えています。国策という名の暴挙、沖縄は「日米同盟の強化=基地」、福島は「原発・災害」に、長年踏み荒らされ、踏みつけにされてきました。そして、それに不屈に闘い続けてきた人たちが少なからずいることです。

沖縄の代表的な民謡と言えば「エイサー」ですが、その「エイサー」が、京都、そして、福島県会津地方とも繋がっていることを知ったのはつい最近です。
地元(京都)で月に一度発行している通信に寄せられた連載記事から、そのことをはじめて知りました。以下、京都府立聾学校の元教師、F先生が記された文章から抄録で紹介します。


「一条通りの御室(おむろ)小学校北門の東側に、四階建ての小さなビルがあります。ここにはつい十二年前までは、段通や絨毯を作っていた「内外織物」という会社のビルが入っていました。この会社が移転した後に、新しく「袋中庵花園御堂」という石柱が建てられました。
 ここは浄土宗知恩院派の寺院で、このビルの四階に本尊「阿弥陀如来立像」(鎌倉)や聖観音像(平安)などを安置した立派な本堂があります。床には内外織物製の見事な段通が敷かれ、西の窓から双ヶ丘や仁和寺の塔も望めます。

 この寺は 京都でも数少ない尼僧寺院で、江戸初期に「袋中上人」によって、東山の菊渓(五条坂)に創建されました。第二次世界大戦末期に五条通の強制疎開によって、壮麗だった伽藍は完全に破壊されたために、八瀬に移転し、さらに近年御室に転地されたのです。

 開祖「袋中上人」は、 1552年(室町)に福島県会津で生まれ、幼い頃から聡明で仏道修行に励み、知性に磨きを掛ける一方で、深い学識を身に付けられました。
 織田信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた頃、上人は専ら故郷の会津で数々の著作に没頭していました。

 52歳の時、明国に渡ることを決意して出航しましたが、嵐のため渡明できず、やむなく琉球に上陸しました。以来三年間、沖縄の各地で宗祖法然上人の教えを説きながら、同時に幾つも寺院建立を果たしました。

 この間、琉球国王の尚寧王は、上人の学徳の深さと熱い心に感動して、那覇に「桂林寺」を建立しました。その跡に今も高さ三㍍の「袋中上人行化碑」が残されています。
 先の太平洋戦争の折、最後の激戦地として廃墟同然と化した那覇の町にあって、不思議に、この碑だけは無傷で戦火を免れたことを知った沖縄の人びとは、袋中上人は今もなお沖縄に生き続けておられるとして、民謡エイサーを唄ってその業績を称えたそうです。

 民謡エイサーには昔、会津地方で流行った「踊り念仏」(ジャンガラ踊り)の流れを汲む言葉が幾つか入っているところから、上人を称える唄として今に伝えられているものと推察できましょう。
 袋中上人開山の「京都檀王法林寺(三条京阪駅北側)」では、毎年6月下旬に京都の沖縄県人会の皆さんが「沖縄慰霊祭」を開催されその時、平和な未来を願う沖縄からのメッセージが読み上げられ、併せて「エイサー踊り」が行われます。」

3.12街頭スピーチ~福島からのメッセージ~

2014-03-13 22:37:04 | Weblog
京都府知事選挙の予定候補・尾崎望さんを応援する街頭スピーチを行っています。

昨日、3月12日は、福島県二本松市 あらおしゅんすけさん(詩人・獣医さん)からのメッセージも読みました。福島の現状を一人でも多くの人に知って欲しいというあらおさんの思いを伝えたくて…。

そして、再稼働を進めようとする国に対して、「NO!」の意思を示そうと呼びかけて…。

●スピーチラスト
京都に住む私たち。福井県の大飯原発、高浜原発から50km圏内に住む私たち。
福島からのメッセージは、遠くの出来事ではありません。
今私たちにできることは、国が進めようとする原発再稼働にきっぱりNO!と言うことです。
4月6日の京都府知事選挙は、その絶好のチャンスです。
「原発の再稼働はNO!」と関電や国にきっぱり物を言うのが知事候補 尾崎望さんです。
4月6日の京都府知事選挙、行動するお医者さん尾崎望さんといっしょに、新しい京都・日本をつくっていこうではありませんか。


下記のメッセージは、あらおさんのブログに掲載されているものです。
街頭では、まず、この文を読みました。


2014年「3.11メッセージ」
                                

福島原発事故から間もなく3回目の3.11を迎えます。
福島県の中通り、低線量被ばくを強いられている二本松から
メッセージをお届けいたします。


2014年「 3.11メッセージ 」
      
みなさん!
あの忌まわしい福島第一原発事故からまる3年を迎えました。

〈私は福島県中通りの二本松市に住む一市民ですが、原発に反対し、
この国の行く末を案じて行動しているみなさんに敬意を表すとともにメッセージをお届けいたします。〉

ご承知の通り、福島原発は収束どころか大きな問題を抱えたままです。
昨年暮れに次のような川柳をみかけました。
「コントロールしているとウソをつくシンゾウ」。
まさにこの通りです。汚染水は流れ続けています。

廃炉までの道のりは手探り状態で、リスクを抱えながら世代を越える長期戦になります。
現在、依然として十数万人の福島県民はじめ多くの人が過酷な避難生活を送っています。

かつて事前秘密会を持った福島県県民健康管理調査検討委員会はこの2月7日に、
75人の子どもたちが甲状腺ガンまたは濃厚な疑いがあると公表しましたが、
いまだに原発事故との関連を認めておりません。


そして、福島県の中通りなどでは、100万人もの人たちが、望んでもいない低線量長期被曝を強いられています。
多くの福島県民が「私たちはモルモットなのだ」とささやいています。

〈ちなみに二本松市役所前舗装広場に置かれたモニタリングポストでは1時間当たり0.3マイクロシーベルトですが、
正面玄関前芝生では0.7、私の家の居間で0.2というような線量です。
これは一般公衆の被曝限度線量、年1msv、つまり毎時0.23μsvを越える線量と言えます。〉

中通りの昨年末の除染状況を見ると住宅除染は計画に対してやっと50%、除染効果は50%にすぎません。
ご承知の通り除染は年間1msv以上のところが対象ですが、避難地区などで線量が下がらないのに
国は20msv以下なら安全だから帰還するようにと公言しているのは到底納得がいきません。

3.11原発事故によって福島ばかりでなく地球全体に放射能をまき散らした東電はその責任を認めず、
健康被害をはじめ物的損害にも極めて冷淡で原因企業の責任を全く果たさず電気料金の値上げや
、税金投入の道をつけ生き残ってさえいるのです。

私たちは適正な「原発事故子ども・被災者支援法」の早期具体化を強く望んでいます。

原発システムは未だ人類がコントロールできない未完の技術であり、
使用済み核燃料の処理の点でももはや破綻していると言えます。
多くの先人が原発について警告を発していますが高木仁三郎氏は、
はるか以前に今日の社会の到来を喝破して次のように指摘しています。
「原子力産業や宇宙開発などの巨大システムは、多くの人を駒の一つにさせて自分の中の人間が殺されていく」と。

それにもかかわらず、原発や核を止められないのは何故でしょう。
原発や核から多くの利益を得ている人は誰でしょう。
そして我々は今、何をしたら良いのでしょう。
我々は無限の大宇宙をこの美しい小さな星に乗って旅を続けています。
我々の子どもたち、子孫から預かっているこのか細い乗り物を大事に守り通して、
彼らに手渡せるように、みんなで力を合わせていこうではありませんか。

                           2014年3月
                            福島県二本松市(詩人)あらおしゅんすけ

物 語

あの人災事故から3年
不安を抱えたまま
元に戻らない生活
一人にひとつの物語
1000人がいれば1000の物語
お父さんと遠く離れて住む母と子
あのことが原因で離婚した夫婦
打ちひしがれて立ち直れない人
新たな出会いで再出発した人
後に続く人のために語り始めた人

でも
誰にも知られない物語もあります
物語はこれからも続きます
世代を越えて続きます
半減期に伴走するように・・・
                           
(詩人)あらおしゅんすけ さんからのメッセージでした。





手回しオルガンを楽しむ京都府知事予定候補 尾崎望さんも、手回しオルガンも魅力的

2014-03-12 00:01:42 | Weblog
 3月8.9日、各地で、原発反対のつどいが開かれました。
 以下は、ある「通信」への「バイバイ原発3.8きょうと」参加報告。

 「東日本大震災、福島原発事故から3年。原発再稼働の動きが強まるなかで、老若男女、子どもたちも含めて多彩な人たちが集いました。(主催者発表・円山音楽堂に2500人が参加)集会に先だってPM12時からは円山公園のしだれ桜周辺で、訴えやスピーチ、思い思いのパフォーマンスが繰り広げられました。
 京都府知事予定候補の尾崎望さんもスピーチ。「知事になったら『福井の原発を廃炉にせよ』と関電に申し入れる」と訴えられました。


 「通信」への報告は以上、簡単なものでしたが、知事予定候補の尾崎望さん、実はお住まいが私と同じ小学校区の「じもと」の方で、その政策、人柄を知るにつけ、こちらの応援にも熱がこもります。
 特に、「知事としての初仕事は、『京都府庁に《憲法を暮らしの中に生かそう》の垂れ幕を掲げます』」。こんな台詞を聞いたら、心が躍らないわけにはいきません。

 「バイバイ原発3.8きょうと」で私たちK9MPは、手回しオルガンの横に陣取って、本のお店出しをしていました。
 手回しオルガンは、穴の空いたロール紙をセッティング、手回しで空気を送り込んで、穴から吹き出す空気圧で音を出すという大道芸の楽器です。穴の位置で音の高低が調整され、メロディーを奏でます。回す速度で速さも変わります。

 活動報告のブログにもあるように、私たちは、お店をおしゃれな雑貨屋さん風の「本屋さん」に仕立て、時々隣の手回しオルガン屋さんも手伝って楽しんでいると、目の前に、知事予定候補の尾崎望さんが…。府下各地への訴えの最中に「集会」へも立ち寄られたのでした。

 お連れして、手回しオルガンを体験していただきました。すると、あちこちからバチバチ写真をとられ、後日、案の定、尾崎さんのフェイスブックにも掲載されていました!

 手回しオルガンを楽しむ尾崎望さんもですが、手回しオルガンも、そのレトロな風貌といい、音を出す構造といい、持ち主の出で立ちといい、魅力的な代物です。

 尾崎望さんは、小児科医として、福島の原発災害に見舞われた患者さんを診察されたエピソードも交えて、「原発0」を国や関電に申し入れることを政策として掲げることを、壇上からもスピーチされました。

 
 4月6日は京都府知事選挙、京都から国の悪政、暴走に物言う知事を!

アン・ライトさんと語る会~コード言語=暗号で書かれた「2+2文書」

2013-10-30 15:44:05 | Weblog
 以下、アン・ライトさんが講演のなかで話された「コード言語」、裏の意味。

 特に、(2+2文書のなかに)「日米の集団安全保障を見直し」という文言がありますが、これがまさに「9条をなくせ」という意味です。再検討という言葉がありますが、「9条を再検討」するということは、「戦争の放棄」から「戦争ができる」「侵略戦争に参戦できる」「自分たちが自ら侵略戦争をおこす」ように再検討する、との解釈ができます。
 また、防衛費の増額を「expansionエキスパンション」という言葉を使っています。普通は、「increaseインクリース=増額」を使います。「expansionエキスパンション」はもっと莫大な国防予算にすると言う意味です。
 ここでいえることは、この文章は、アメリカと日本が手に手をとって、日本の「憲法9条=戦争放棄」を放棄して、再び戦争ができる軍国主義の国にしようという意図です。
10頁にわたりまして、日米の協力をどのように進めるかということが長々と書かれております。そのなかで、このアジア太平洋地域において、アメリカと日本の、なくてはならない共同の役割があるということが強調されております。
 「indispensable インディスペンサブル」という言葉は、欠くことができない、必ずなくてはならないという強い意味です。この言葉は、ブッシュ政権のときにも使われ、オバマ政権でも、アメリカの強い指導力、役割というものが強調され、これを日本と一緒にやろうと強調しているということです。

2+2の文書は、外務省ホームページで閲覧できます。
概要  http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000016026.pdf
日本語 仮訳 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/pdfs/joint_120427_jp.pdf
英語  http://www.mofa.go.jp/region/n-america/us/security/scc/pdfs/joint_120427_en.pdf

アン・ライトさんと語る会~「2+2」の配布文書

2013-10-29 21:16:53 | Weblog
10月16日、台風が心配されるなかを、アン・ライトさんと語る会を開催した。

配布した資料の一つ「2+2」文書(概要)。
2+2とは、まるで暗号のようだが、1960年に設置された日米安全保障協議委員会のこと。
日本からは外務大臣と防衛大臣の2名が、アメリカからは国務長官と国防長官の2名が参加することから「2プラス2」と呼ばれている。
配布文書は、この10月3日に行われた岸田外務大臣、小野寺防衛大臣、ケリー国務長官、ヘーゲル国防長官参加の日米安全保障協議委員会での文書。

アン・ライトさんは、こう言う。

これは、もうおわかりのように非常に危険な文書であります。
 と言いますのは、この声明の中身、また意図していることは、まさにアメリカが日本に「改憲を強引に迫る文書」だからです。
 ご覧になるとおわかりのように、この文書には「9条を変える」という文言はひとこともありません。ですがその中身は、まさに改憲をせまる内容を具体的に書いていて、こういう文書のことを私たちの用語では「コード言語」、つまり暗号と呼んでいます。実際の裏に持っている意味があって、意図していることを隠すために、美辞麗句を並べ立てた「コード」で書かれた文章です。中身は「改憲」「9条をなくそう」ということを日本に迫る文書です。
 
以下、美辞麗句の意味する具体例をアン・ライトさんは2、3挙げたが、それはまた後日掲載するとして、この委員会の名前自体、まさにコード言語そのものではないかと思う。
「日米が、日米の安全を保障するために協議する委員会」といった意味の名称だが、裏の意味は、「アメリカが、アメリカの世界支配、戦争政策を推し進めるために、日本にいかなる役割を担わせるかを迫る委員会=支配政策米日脅迫委員会」とでも言うべきか?
ズバリこの名称で勝負をかけられたら、「アメリカは日本を守ってくれているんでしょ」とか「同盟を結んでいるアメリカが大変な時だから、日本が協力するのは当たり前では…」なんて言う言葉は出てこないだろう。

木琴との出会い

2013-08-26 01:33:23 | Weblog
このところ、マリンバの演奏をして! という嬉しいような、緊張するような依頼を受けることが続いている。
私自身、マリンバの深い音色と、プロの演奏家の方々のバチさばきには子どもの頃からとても惹かれているので、楽器の持つ豊かな響きに触れていただくのもいいかな、と、できるだけお断りしないで、挑戦してみようとは思っている。
ただし、自分のバチさばきはなかなか満足のいくものではないし、たくさんの目にじっと見つめられると緊張もし、実際は薄氷を踏む思いでもある。

小学校の頃、5年間木琴を習っていた。
木琴との出会いは、小学校一年生。学校からの配布物のなかに、「木琴教室」の案内があった。「毎週土曜日の午後、学校の音楽室で開いています。月謝は200円」
当時、木琴の第一人者、平岡養一さんが日本中をまわって精力的に演奏活動をされていた時期で、子どもたちへの木琴の普及にも力を入れていたという背景があったのかもしれない。
やってみたいと母に言うと、賛成してくれた。月謝が安い、しかも学校で教えてくれるということは、一人で通えるということ、そんな理由もあって、決して裕福ではなかった我が家だが、母の後押しを貰えた。教室へは、卓上木琴に、母手製の布袋で通った。
4年生だった姉も一緒に習い始めたが、すぐに挫折、私は5年まで続いた。
3年生の頃、近所の演奏家の方が、大きなパイプ付きの木琴をしばらくの間貸してくれた。我が家に大きな木琴があって、その前に立つだけで、わくわくして嬉しくてたまらなかった。

5.6年の担任が厳しく、体罰を与える女教師だった。
私は、山盛りの宿題を毎日、真面目にこなし、なおかつ友人との遊びもかかさなかったせいで、木琴の練習がおろそかになった。
そのころには、個人レッスンになっていたのに、次週の課題ができていない。一週さぼり、二週さぼりして、ついにいけなくなってしまった。
そうして、大好きだった木琴から遠ざかってしまった。

長いブランクを経て、6年前から再び、マレット(ばち)の打ち方の初歩から特訓を受けて今日に至っている。ブランクの期間も、実は、木琴を購入して側に木琴のある暮らしでもあった。(20歳の時購入したもの)
長い間、離れていたからこそ、いつまでも、こんなに好きでいられるのかもしれない。
木琴もマリンバも、演奏するのも、聞くのも、今も好きでたまらない。
マリンバは退職後、今から5年ほど前に購入したのだが、さあ弾くぞ、と覆い布をはずしたときに現れる鍵盤の木をみると、一瞬、「わくっ」と嬉しくなる。
それは、子どもの時の感覚そのままだ。

母と暮らす ⑪ 捜し物~介護・看取り

2013-05-23 19:53:09 | Weblog
そのころ母は、もの探しをしない日が珍しいくらいで、私もたびたび捜し物につきあった。見つかったらみつかったで、今度はまた大事にしまい込みすぎて、どこへしまったのかがわからない。
そんな日々の繰り返しのなかで、本当に大事なものは預かること、見つからないものは深追いしないこと、そんな力の抜き方を覚えていったかと思う。
下記は、まだ、わたしにとっても初心者マークのつく頃のこと、こんな経験をくりかえしながら、母のおかれている状況を知っていくことになった。


なくした手紙 と ため息

京都行きの話を二人でしていたら
母がまた 
長生きしすぎたねぇ と
ため息ついて
つぶやくものだから

またそんなこと言って
母への手紙を 印籠のように見せようか
と 思ったのに

母はベッド中を探し回り
何度も読んで 大切にしていたのに
どこへ行ったんやろうねぇ と 
ガサゴソ辺りを探る

私も一緒にガサゴソ
おかしいねぇ
しばらく二人でガサゴソしていたら
なに探しとったか 忘れたわ

母の言葉で
ガサゴソはやめにして
ベッドの上をきれいにした

捜し物の手紙も 
母のため息も
雲隠れしたらしい

どこか片隅で
出てくる頃合いをはかりながら
こっそり様子をうかがって

母と暮らす ⑩ 労いのことば~介護・看取り

2013-05-22 13:56:41 | Weblog
職場ではできて当たり前、間違い、ミスに対する大らかさは、みじんもないなかで働いてきた。
母の側にいると、間違い、早とちり、思い込みは日常にころがっていた。それを指摘された本人が一番がっかりしているのだから、こちらは、できるだけ、おおらかになんでもないように振る舞おうとは思っていた。
でもこれは、なかなか難しいことでもあった。
ふりかえれば、母は、いつも、自分を嘆くことはあっても、わたしへの労いの気持ちを忘れなかったように思う。
「ミスが許されない世界」から、「おおらかな許し」の世界へ、「できて当たり前」から「労い」へ、私は母の側で、極めて人間的なゆとりや優しさを取り戻していったように思う。


律儀なボケ老人

カーテンが大きく開かれて
ベッドの周りにカバン 袋が散乱し
小さな母が私を見上げる
ベッドのはしに腰掛けて

今日 退院だって
え? そんなはずないわ
先生が そう言われたと繰り返すので
ナースステーションで確認すると
やっぱり違っていた

なんで? 早とちり? いや もう 私って
自分を嘆く母

しまい込んだ入院用品を もう一度取り出して
私は元のところに戻す
ひとつずつ確かめながら

横から 母が言う
それは お姉ちゃんに返す分よ
娘の用意したシャツにタオルにパジャマに本
ビニール袋一枚までも 取り分けて
母は何度も言う 返さないと
本は 娘のと 息子のと 交ぜこぜに入っていたけれど
なんて 律儀な

片付け終わった私に向かって 母が言う
すまんねぇ 勘違いやったかぁ
こんなことでは 独りで住めんねぇ
こんな ボケ老人と一緒に住むあんたも 大変やねぇ

母に いたわられて ねぎらわれて
私は苦笑いしながら
ちょっとだけ 幸せになる

母と暮らす ⑨ 生涯現役~介護・看取り

2013-05-21 11:37:24 | Weblog
そのころ私は、長年勤めた仕事を辞めて、ほぼ一年が経とうとしていた。
病気の母に付き添うには、絶好のタイミングで退職したといえる。
「今まで待っていてくれたかのよう」病院通いをしながら、そう思ったものだ。同居も、既にフリーになっていたから切り出すことができたのだ。

40年もの間、生活の大部分の労力を仕事に注いできたのは、自分がそういう道を選んできたからでもあり、何人もの扶養家族たちを食べさせなくてはならなかったからでもある。あとにひけない状況のなかで働き続け、もう充分だ、と心底思ったときに、約一年間の引き継ぎ期間を設けて退職に至った。

退職前と後、時間の流れ方が、こんなにも違っていいのだろうか。
片や過労死寸前までに働かざるを得ない人、片や職に就けない人、不安定雇用でなんとか食いつないでいる人、数字を右から左に動かすだけで大もうけをする一部の人。
それらの縛りを終えて、悠々自適(?)に暮らす人。

自らはほっとしながらも、「効率」「採算」の陰で、あまりにも厳しすぎる現役世代の働きぶりと、そこから外れた人の落差、その偏り方がどこかおかしかった。
それは、不平等・不公平への素朴な怒りでもあり、また人が生きるためのあらゆる行為が儲けの対象にされていくことへの疑問でもあった。さらに、世の中がこんなに変なのに、いわゆる悠々自適の暮らしに切り替わったからって、そればっかりでいいの? という思いも加わる。

下記は、つきそいの合間に、京都へ日帰りをした列車のなかでの一コマである。


生涯現役

「効率優先」
「採算改善」
の世界で息を吸って
暮らしの糧を運んでいた私が
そこから最も遠い世界に住む母のところへ
列車にゆられてゆく
座席のとなりに紙を繰っている人
熱心に読むその人は
紺の背広に身を包み
紙は どうやら
企業研修か プレゼンのレポートらしい
横目で チラリと盗み見ると
グラフの上に タイトル文字が並ぶ
「高齢化社会の到来
今後 日本は 生涯現役の社会になる!」
次の停車駅で
現役の人は アタッシュケースを片手に
レポートをもう一方の手に
さっそうと歩き去る
退職組の私は 
大きな荷物を ゴロゴロ引きずって
生涯現役の母の待つ病院へ向かう

母と暮らす ⑧穏やかなとき~介護・看取り

2013-05-19 14:48:12 | Weblog
入院中は、足腰が弱らないように、少しでも陽にあたったり、歩いたりを試みる。
日差しの暖かい日は、極力屋上に出て、手押し車をおして歩いた。
およそ半日を付き添って、語り合う穏やかな時間。
昔を語るとき、母の顔は、以前と同じ凜としたものだった。しかし付き添いの日々は、急速にすすんだ母の記憶のあやしさを確かめるときでもあった。


 屋上にて

ビルばかりの岐阜市街を見下ろし
母は 遠い記憶の日々をたどる

ここら空襲で焼け野原になったわ
一面みわたす限り
生まれたばかりの赤ちゃんのミルクの配給を
遠くまでもらいに行ってね
どこまでも続く焼け野原を歩いて
私もろくろく食べてなくて
お乳もでるわけなかったわ
ガリガリにやせて
目ばかりギラギラさせた赤ん坊を見て
あの子大丈夫かしら 育つかしらん
あとになって おばさんが言うのを聞いた

ずいぶん高い建物が建って
こうしてみると
緑がないねぇ 岐阜の街も

たくさんつまった過去の記憶と
さらさらこぼれる このごろの記憶