K9MPの活動を通して、沖縄・福島は、とても縁の深いつながりを持ってきました。
特に、沖縄と福島は共通する苦しみや怒りを抱えています。国策という名の暴挙、沖縄は「日米同盟の強化=基地」、福島は「原発・災害」に、長年踏み荒らされ、踏みつけにされてきました。そして、それに不屈に闘い続けてきた人たちが少なからずいることです。
特に、沖縄と福島は共通する苦しみや怒りを抱えています。国策という名の暴挙、沖縄は「日米同盟の強化=基地」、福島は「原発・災害」に、長年踏み荒らされ、踏みつけにされてきました。そして、それに不屈に闘い続けてきた人たちが少なからずいることです。
沖縄の代表的な民謡と言えば「エイサー」ですが、その「エイサー」が、京都、そして、福島県会津地方とも繋がっていることを知ったのはつい最近です。
地元(京都)で月に一度発行している通信に寄せられた連載記事から、そのことをはじめて知りました。以下、京都府立聾学校の元教師、F先生が記された文章から抄録で紹介します。
「一条通りの御室(おむろ)小学校北門の東側に、四階建ての小さなビルがあります。ここにはつい十二年前までは、段通や絨毯を作っていた「内外織物」という会社のビルが入っていました。この会社が移転した後に、新しく「袋中庵花園御堂」という石柱が建てられました。
ここは浄土宗知恩院派の寺院で、このビルの四階に本尊「阿弥陀如来立像」(鎌倉)や聖観音像(平安)などを安置した立派な本堂があります。床には内外織物製の見事な段通が敷かれ、西の窓から双ヶ丘や仁和寺の塔も望めます。
この寺は 京都でも数少ない尼僧寺院で、江戸初期に「袋中上人」によって、東山の菊渓(五条坂)に創建されました。第二次世界大戦末期に五条通の強制疎開によって、壮麗だった伽藍は完全に破壊されたために、八瀬に移転し、さらに近年御室に転地されたのです。
開祖「袋中上人」は、 1552年(室町)に福島県会津で生まれ、幼い頃から聡明で仏道修行に励み、知性に磨きを掛ける一方で、深い学識を身に付けられました。
織田信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた頃、上人は専ら故郷の会津で数々の著作に没頭していました。
52歳の時、明国に渡ることを決意して出航しましたが、嵐のため渡明できず、やむなく琉球に上陸しました。以来三年間、沖縄の各地で宗祖法然上人の教えを説きながら、同時に幾つも寺院建立を果たしました。
この間、琉球国王の尚寧王は、上人の学徳の深さと熱い心に感動して、那覇に「桂林寺」を建立しました。その跡に今も高さ三㍍の「袋中上人行化碑」が残されています。
先の太平洋戦争の折、最後の激戦地として廃墟同然と化した那覇の町にあって、不思議に、この碑だけは無傷で戦火を免れたことを知った沖縄の人びとは、袋中上人は今もなお沖縄に生き続けておられるとして、民謡エイサーを唄ってその業績を称えたそうです。
民謡エイサーには昔、会津地方で流行った「踊り念仏」(ジャンガラ踊り)の流れを汲む言葉が幾つか入っているところから、上人を称える唄として今に伝えられているものと推察できましょう。
袋中上人開山の「京都檀王法林寺(三条京阪駅北側)」では、毎年6月下旬に京都の沖縄県人会の皆さんが「沖縄慰霊祭」を開催されその時、平和な未来を願う沖縄からのメッセージが読み上げられ、併せて「エイサー踊り」が行われます。」
地元(京都)で月に一度発行している通信に寄せられた連載記事から、そのことをはじめて知りました。以下、京都府立聾学校の元教師、F先生が記された文章から抄録で紹介します。
「一条通りの御室(おむろ)小学校北門の東側に、四階建ての小さなビルがあります。ここにはつい十二年前までは、段通や絨毯を作っていた「内外織物」という会社のビルが入っていました。この会社が移転した後に、新しく「袋中庵花園御堂」という石柱が建てられました。
ここは浄土宗知恩院派の寺院で、このビルの四階に本尊「阿弥陀如来立像」(鎌倉)や聖観音像(平安)などを安置した立派な本堂があります。床には内外織物製の見事な段通が敷かれ、西の窓から双ヶ丘や仁和寺の塔も望めます。
この寺は 京都でも数少ない尼僧寺院で、江戸初期に「袋中上人」によって、東山の菊渓(五条坂)に創建されました。第二次世界大戦末期に五条通の強制疎開によって、壮麗だった伽藍は完全に破壊されたために、八瀬に移転し、さらに近年御室に転地されたのです。
開祖「袋中上人」は、 1552年(室町)に福島県会津で生まれ、幼い頃から聡明で仏道修行に励み、知性に磨きを掛ける一方で、深い学識を身に付けられました。
織田信長が本能寺の変で倒れ、豊臣秀吉が天下統一を成し遂げた頃、上人は専ら故郷の会津で数々の著作に没頭していました。
52歳の時、明国に渡ることを決意して出航しましたが、嵐のため渡明できず、やむなく琉球に上陸しました。以来三年間、沖縄の各地で宗祖法然上人の教えを説きながら、同時に幾つも寺院建立を果たしました。
この間、琉球国王の尚寧王は、上人の学徳の深さと熱い心に感動して、那覇に「桂林寺」を建立しました。その跡に今も高さ三㍍の「袋中上人行化碑」が残されています。
先の太平洋戦争の折、最後の激戦地として廃墟同然と化した那覇の町にあって、不思議に、この碑だけは無傷で戦火を免れたことを知った沖縄の人びとは、袋中上人は今もなお沖縄に生き続けておられるとして、民謡エイサーを唄ってその業績を称えたそうです。
民謡エイサーには昔、会津地方で流行った「踊り念仏」(ジャンガラ踊り)の流れを汲む言葉が幾つか入っているところから、上人を称える唄として今に伝えられているものと推察できましょう。
袋中上人開山の「京都檀王法林寺(三条京阪駅北側)」では、毎年6月下旬に京都の沖縄県人会の皆さんが「沖縄慰霊祭」を開催されその時、平和な未来を願う沖縄からのメッセージが読み上げられ、併せて「エイサー踊り」が行われます。」