なれ合い、妥協無しの本音ブログ

右、左、自称保守のどの立場にも属さないで自由に書く。時事、歴史をイデオロギー発想ではなく発信、コメント不要

人生の成功と失敗、勝ち負けをどう判断するか

2022-06-28 11:17:34 | 考え方

皆さんは自分の人生にキーワードがあるでしょうか。モットー、信条、そのように言ってもよいのですが、指針のようなものです。

何かを基準にしていると、どういう「ずれ方」をしたかが分かりますが、何もない人はふらふらし、感情も簡単にグラつくはずです。

「人生を正面から考える」、この大事なことをほとんどの人はやりません。何も毎日考える必要は全くありませんが、逆に全く考えないで時間を過ごしていると、気が付いたら何もない自分だけがただフワフワしていて、やがて老いた自分を後悔してしまうかも知れません。

人生の成功と失敗、そして勝ち負けを分けて考えてみます。

何をもって分けるのか。

成功と失敗で、人生の成功者とは「自分の自由に、好きに生き続けている人」です。

この一文で考えると、出来ている人は極めて限られます。

多くの日本人が致命的にそもそも失敗している考えが、金銭の多寡です。自由に好きに生きられるとは、生活に不自由せず生きることであり、しかも好きなことがあることは大金持ちである必要はありません。好きに生きられればいいのです。

金持ちだから幸せだ、社長だから幸せだ、そういうことは一切ありません。金が少なくても自分らしく自由に、好きなことをして生き続けていれば成功を続けています。

失敗者とは、生活に追われ自分の無い人です。しかしもっともらしい理由を出してきて、家族の為、会社の為、〇〇の為といいます。他のために生きている自分というのは一番の隠れ蓑です。その道は変えられるはずであり、変え方も千差万別なのが本当なのです。諦めた心情から始まり、家族その他を理由としていないか、よく見つめるべきです。

成功という言葉。ここで重要なのは、継続です。一時思い通りになってもそれは人生の成功ではないのです。

人生は誰のものですか?とにもかくにも自分自身のものではないですか。自分がどうあるかで周囲との関係が決まります。これを逆に見ている人だらけです。そして自分さえ我慢すればという考えでは、実は無理しているだけの話であり、単純にいって無理をしている成功など無いのです。

だから成功か失敗かで分ければ失敗者であり、失敗を日々継続しているだけです。だからもっともらしい理由を並べている自分が失敗側だと気が付けば、そこからようやく新たなる視点も生まれる可能性があります。現実逃避、あるいは思考停止は止めるべきです。

前にも取り上げましたが自由とはとても難しいことです。多くの人が望むが手に入らないもの、それが自由です。仮に自由らしきものが手に入っても継続こそが難しく、やがてそれは真の自由ではなかったことに気が付くのです。

なぜなら、これもそもそもん論ですが、自分の好きなことが明確な人も極めて少ないのです。自分の好きなことは何かと改めて問いかけられると、実は無いという人がとても多いのが現実です。当然、時間が生まれてもやりたことが無いのです。

典型的な言い訳パターンに今は忙しいが定年したら、どこかで時間が出来たら好きなことをしたいというものがあります。こういう人は大勢いますが、すみませんが典型的な失敗者の部類です。本当に好きなら今すぐやればいいのであり、そのやがてという時間は来ないと思うべきです。

定年を指折り数えて待つ人は、自分が本当に好きなことがありません。本当にやりたいのなら、勤めながらでは無理なのなら、たとえ定年の1年前にどうしても槍田こと、好きなことが見つかったのなら、その道に進めばいいのです。先送りに良いことなど何もありません。

周囲がどういうか、どうでも良いことです。誰のための人生かです。

定年までもう少しと待っても、何もかが変わっていきます。状況が変わり、定年後の自分は老いていて、しかも想像よりも悪化しているはずです。これはもはや法則です。今を生きられない人に豊かな老後は無いということです。いざ現実に直面してから、「まあ、こういうものだろう」と言い訳して、誤魔化すのです。

過去に会社勤めをしていたころ、年配者の知人で定年退職となった人たちの中で何人もの人が病死するのを見ました。定年したらあれをしたい、これをしたいと言っていた人たちがその数%もできずに他界しました。また、定年して数年後、痴ほう症で徘徊しだした人もいます。全員ではありませんが、現実はこういうものでしょう。

先のことなど一切分からないからこそ今を生きるべきです。先延ばしにしていると、全く想像と違った定年後、そういうこともありえます。今を大事に出来ない人、理由をつけて先延ばしする人に、先延ばししていた好きなことなどほぼ出来ない現実が待っていると考えるべきです。

国民皆保険という世界でも極めて珍しい国にもかかわらず、先の見えない将来だと世界で断トツ、異常なまでに保険に加入しているのに、いざその保険が必要になる事態になった時の自分の時間はどうなるのか、そこまでは考えていないのです。

ちなみに、「忙しい」は多くの人が使う隠れ蓑ですが、心が亡い人、縦にすると物事を忘れる人が好きな言葉であり、忙しいを連呼する人に仕事の出来る人は存在しません。断言します。当然、忙しい部署には無能な上司しか存在しません。見抜き方は実に簡単です。まともな仕事をしていないから忙しいのです。

やることが多いからと機械的にそれをしているだけなら、機械やコンピューターで代替えできるだけのこと。人間なら頭を使って改善し、時間を生み出すべきではないのですか。まるでいつまでも電卓で複雑な計算をしている人のようです。そのようなものエクセルに関数設定するだけの話です。

ここから人生の勝ち負けです。人生の勝ちとはどういう意味か、どういう人たちなのか。それは挑戦を続けているかどうかです。新しいことに挑戦しているかです。守りの人生は完全に負け組です。

「出来るか出来ないか」、これは時間の無駄であり、失敗、負けの典型です。「やるかやらないか」、それだけです。「うまくいくかどうか」はやってから後の話です。

「後悔と反省」の決定的な違いは、後悔はやらずに後から悔やむことであり、反省はやってから失敗点を見つけ、改善することです。つまり反省は行動しない人にはあり得ないのです。

やってみてうまくいかなかったことも経験という財産です。

行動している、挑戦している人こそが人生そのものの勝ち組であり、しかもそれが自分の好きなこと、興味を持てること、自由の自由な時間を生かすことのためにやっているのなら、人生の成功者です。

繰り返しますがそこに、地位、名誉、金品的な財産は一切関係ありません。なぜなら時間は金では買い戻せませんから。どんなに金があっても買い戻せない時間なら、今を生きるしかないのです。今をという時間を充実させるからこそ、振り返った時に充実した人生といえるのです。

何も挑戦しない今を生きているのなら、何もなかった人生ということです。

日本人は「バケツの中のカニ」と比喩されます。ガサガサ動いているが無駄な動きだらけであり、しかも他の足を引っ張るだけ。SNSには妬み、嫉妬、誹謗中傷だらけで建設的な話は壊滅状態です。さらには愚痴不平不満とゴシップがあふれています。そのような類をニヤニヤ見ているのは下品の一言です。

マスコミは問題の本質に切り込みません。スポンサーがつかないと成り立たない以上、その業界の誤魔化しや嘘は触れません。だから政治のスキャンダルやタレントの話だらけであり、そこに乗っかって一緒になり、どこぞの不倫だとかで正義感ブル偽善者だらけになってしまっています。そういう人たちこそ一番下品です。

あなたがまんまとその手法に騙されているとしたら、時間をそこで捨てているのなら完全なる人生の失敗者です。自分の大切な人生を、過行く時間を下品なことにしか向けられないあなただとしたら、何が大事なのか、自分のやりたいことは何なのか、自由の素晴らしさとは何かを1%も考えることなく、一生を終えることになるでしょう。

繰り返しますが、自分の人生は自分のものであり、まずは自分がどうありたいのかです。足を止めてみると、好きなことも見えなくなっているようでは完全に足を踏み外しています。

今が見えなくなれば先は不安だらけになり、誰かを頼りたくもなるでしょう。それもこれも日常に埋没しているからそうなるのです。根本的な問いを自分にしていないからです。

本来、そこに他人の言動による未来予想の占いや宗教は一切不要のはずです。自分の人生を自分らしく生きるために、なぜ占いや宗教が必要なのですか。未来予想が必要という人は、ずばり自分の人生を生きていないからです。単に日常に埋没しているからです。対人関係を改善できず、自分自身や他人を信じられないからです。

だから詐欺的手法満載の占いや極めて俗な類の宗教に頼り、詐欺的手法が満載だからそれらしく納得させられてリピーターになるのです。

全部、いりません。

成功と失敗、勝ち負けとあえて極端な角度から書きましたが、他人の言動に振り回されることなく、自分の立ち位置をよく見極め、自分らしさとは何かをよく考えていけば、おのずと将来は見えてくるはずです。

そこに他人を頼る未来予想や、こっちの方角だとかこの色だとか、これを持てば幸せになれるだとか、そういう類のことは全部不要になるはずです。

実はこういうことが不要な生き方も、本来の自由の一つなのです。なぜなら他人の言動に縛られず、自分の人生を生きられているからです。

自分らしい好きなことで囲まれて自由に生きているなら、それは成功であり勝ちであり、幸せな人生といえます。

時間は今しかありません。今の連続が将来を作る、それだけです。この簡単な真理を無視している人が多すぎです。今を大事に出来ない人は将来も大事なものとはなりません。

目先のこと、刹那的なことだけを選んでいれば、結局は場当たり人生で終わるだけです。

真の成功者、真の勝ちとは、自分の好きなことで時間を自由にできる幸せ者ということなのです。言葉では成功、勝ちと表現していますが、結局はその言葉も不要であり、好きなことを自由にしている幸せな人という意味です。


本当のゴミ問題、環境破壊の意味、隠れたSDGsと台湾問題を知る

2022-06-24 10:44:13 | 考え方

日本ではだいぶ前からごみの分別がやかましく言われていますし、実践している人がほとんどのはずです。

しかし知っておくべきことがあります。数年前に「いい加減にしろ」と停止させられましたが、海上コンテナに大量のプラスチックゴミを押し込んで、タイを含めたアジアの国に海上輸送していたのが日本です。

分別してちゃんと処理していたかといえば、いやいや、まとめて海外に押し付けていただけだろが、でした。その量は年間150万トンになっていたとされます。

そもそも論でゴミは分別するの前に減らすことが大事ですが、ほとんど無視。企業は売り上げ至上主義で少し変えただけでも誇張して騒ぐ新製品もどきを連打し、買え買えだらけ。大量消費の考えはもはや悪という時代に入っているいうことを認めず、とにかく金をよこせしか考えられなくなっています。

しかもその多くの海外資本に吸い上げられて、これではもはや奴隷状態ではないですか。

国民も大量消費の生き方を覚えてしまい、もはや後戻りできないツケを海外に送って帳尻を合わせていたとは、実は相当恥ずかしい話でしかありません。

中国は人権問題を含め、日本人でも色々と言っている人はいます。確かにそういう問題はあるのが中国です。歴史を見ても、日本がかつて学んだ素晴らしい歴史があるのは事実ですが、一方で虐殺を続けたわけです。

しかし少し前までその批判対象の中国にもゴミを送り付けていた過去があり、タイだけではなくマレーシア、ベトナムにも送り付けていたわけです。

もちろんそれらの国も、資源として再利用したかったでしょうが、現実はどんどんと規制。日本のあまりの無計画な失策に処理が追い付かないわけです。

道路の見かけのきれいさよりも見えない部分の姿こそ本質です。本来日本人は恥の文化があったことから、見えなくても手を抜かないことで芸術的なまでの技術を習得してきたわけです。しかし見えなければ誤魔化せるを繰り返し、日本の美徳であった恥の文化は壊滅しました。

その一番悪い例、ゴミの話が「原発」で根本が間違っています。よそに出す、取りあえず埋める、仮貯蔵して今をしのいでいるだけとは、文明国がやることではありません。解決方法が無いのにゴミを出し続け、どこかで引き受けてくれとウロウロを何十年も続けている醜態。

アメリカやロシアのような広大な廃棄場所があるわけではない日本で、廃棄物ゴミを処理して捨てる目処が無いのに、ずっと動かしていた原発など最大級の誤魔化しです。実に日本らしいの一言。

企業も消費を煽るだけのまやかし商品開発だらけですから、現実は良いものを消費者にではなくとにかく売り上げ主義なので、どんどんとゴミを増やすことに加担しながら方やSDGsとは、どこまで性根が腐っているのでしょう。

矛盾が甚だしいとしか感じませんが、それが出来ることが不気味にさえ思えるのです。こういう誤魔化しを見抜けない左翼陣営も壊滅しているとは、なんども指摘していることです。

地球環境を、ゴミの無い世界をというのなら、本気でいうのなら、そもそも出すゴミから減らすのが筋。大量消費を煽っておいて、分別だとか再利用だとか。その前にとにかく出すなよ、売り上げよりも地球だろうが、という人しか信用できません。

しかし話はすり替えられて、ちゃんと分別しよう、あるいは再利用しているから優良会社だと誇ります。そこにきてSDGsなる気味の悪い誤魔化し、矛盾だらけの新たな金儲け手段がありますが、結局まともな作業はしておらず、その多くは補助金その他で太るだけです。組織があるところ、100%利権あり、絶対に忘れてはいけない視点です。

SDGs17ある項目から、

SDGs1 貧困をなくそう
SDGs2 飢餓をゼロに

これ、実は簡単じゃないですか。企業が大騒ぎして社員を巻き込んでやっている振りは不要です。社内留保を大々的にそういう地域に回せばいいだけです。世界の巨大企業はどれだけ金儲けしていますか。取締役が何十億と収入を得ているうちのほんの少しを貧困や飢餓で苦しむ人たちに差し出しなさいよ。それでかなり解決です。

日本人がボランティアでアフリカに行って井戸を掘るなど、本来あってはいけないことであり美談でもなんでもないのです。なぜ金や権力があるところはやらないのですか。見かけ上やっていてもそれは将来の見返りのための先行投資でしかありません。大掛かりな組織が、金がある人たちが本気でやらないから、個人が自腹で、そうなるのではないですか。

SDGs7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに

太陽光発電や風力発電は典型。よくもこんな醜いことをやっているものです。「再生可能エネルギー発電促進賦課金」とは、電力会社らしい国民への押し付け。なぜこんなことがまかり通るのか、つまり政治が腐りきっているという答えになります。その政治屋どもを支持する国民の性根が治らない限り、この国は終わるだけです。

それどころか悪化を加速させるだけの海外資本が儲かる構造であり、環境破壊の典型でしかないパネルや風車のために金を払わねばならないのか、どうしてかくも国民は疑問がないのでしょうか。皆、騙されています。

ちなみに個人宅であっても太陽光パネルは採算が合わないでしょう。だいぶ前に徹底して試算したことがありますが、結論はメリットどころか損失という答えしかでませんでした。

少し前に動画で見ましたが、採算が取れるか取れないかという20年に及ぶ自宅に取り付けた太陽光パネルを実地体験した人の結論、採算は取れず持ち出しとなっていました。当方の試算と、他人に実地は同じ結論になったのです。

実に簡単な話です。多額の投資の割には結局、補修費その他の維持費が必要になり金が出続ける、いかにも日本らしい嘘システムということです。

先に書いていますが、海外資本が大きくかかわる太陽光パネルと風力発電は、結局利権の話でしかなく、様々な種の保存のために重要な湿原を潰して大々的に並べられたソーラーパネル、見事な景観を破壊するだけの風力発電設備など、クリーンとは真逆の環境破壊でしかないのです。

クリーンどころかゴミを中国にも押し付けていたわけですが、中国の話が出たのでその流れ。割と世の中を賑わしている中国と台湾問題も、台湾の貿易で一番重要な国が中国であるという事実を知ったら、表で言われていることとは別な政治的な駆け引きの裏があるはずと視点が変わってくるわけです。

台湾人は香港の状態をみて一気に怖くなったことでしょう。中国政府は平気で嘘をつくと。そしてロシアがウクライナに攻め込んだので、戦争はあり得ると考えているはずです。

中国からすれば歴史的にも同じ国扱いのまま、そして実効支配してさらに儲けを増やし、アジアに勢力を確立したいという思惑。台湾が本格的に中国政府の管理下になったら、困るのはどこか、そういう視点は大事です。

いずれにせよ、

現実として台湾は、中国が無いと困る国なのです。それなのにいくら日本の自称保守を名乗る政治屋を含めて勢いのあることを言っているとしても全部踊らされているだけです。あるいは知っていて票を取りたいだけで騒いでいるのでは。

本当に保守かどうか簡単に見分ける方法があります。それは台湾よりも北朝鮮の拉致問題が先ということです。現実に被害が発生している自国民を放置していながら、台湾問題もへったくれも無いのです。国会議員は日本国民を守るのが仕事であり、台湾人ではありません。

それでも拉致問題からは隠れて「台湾を、台湾を!」と騒ぐのなら、それが本気なら、では正式に台湾を独立国とし、国交を樹立し、威勢の大騒ぎにふさわしい対応をすれば簡単ですが、絶対にやりません。だから嘘であり、答えはかくも簡単に転がっているのです。

現政界に政治家は数えるだけでしょう、その他は単なる職業政治、利権政治という政治屋です。だから矛盾しても、何ら仕事をせずにやっている振りでも再選したがるのです。

台湾についてはあくまでも事実で物事を見るとこうなるわけです。報道なんて、95%くらい割引いて考えないと、どこかに引きずり込まれます。

アメリカが台湾を守る理由がまったく見当たらない当方です。台湾は大好きな国ですし、自由に繁栄して欲しい国です。しかし、昔のイデオロギーの戦争時代ではあるまいし、アメリカが守る理由が分かりません。

むしろ問題は日本にどういう影響が出るかでしかありません。日本はあの辺りがルートとなる石油輸入で困って戦争にまでなったわけです。その重要性は今も変わらないのです。

何度も書きますが台湾は大好きです。何度も行っており、行くたびにいい国だなと思います。しかし歴史を見れば、もう中国の一部としかいいようがないのでは?

実は日本もそれを証明しているのです。下関条約です。日清講和条約で、日本は清国から台湾を譲り受けたのですから、そもそも清国となるのです。

【清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)】

こういう経緯が歴史的事実です。

その前もざっくりいえばオランダと中国(明)です。事実上支配したオランダに対し、「抗清復明」で何とかした明。それまでは多民族が寄り集まっていて、明確な統治が無かったのが台湾という島で、どちらかといえば中国本土からも少しずつ人が入ってきていたのです。

倭寇も拠点としていたわけですが、実はその倭寇には朝鮮半島の人たちなども混ざっていたので、単純に日本の海賊ともいえません。しかし教科書ではなんと教えてきたのでしょうか。よって一方的に日本人をイメージさせる倭寇という言葉は捏造用語です。

もしオランダが、実質的な統治をしたのは我々だなんていい出したら、じゃあ台湾はオランダ領土なのか、という話もせねばなりません。

歴史をもって我が国の領土というのがいかに危うい話かということです。歴史的にどうだこうだというのは実は双方に言い分があり、古い文章が見つかったというのは、その時の話であってまたひっくり返るかも知れません。ではどうするか。

武力で奪われたものは武力で奪い返すのが国際社会の本当の姿です。なぜかは簡単な話で、そうしなければ舐められて要求がエスカレートするだけだからです。それに準じるのが盗まれたものにとんでもない額を提示して買い戻す方法。長い間やらないから結局難しくなるのです。完全なる政治に失態です。

どこが与党だったのですか?政治は全て結果、言い訳せずに舞台から降りねば偽保守です。保守を名乗るなら、大和魂だとか大和撫子だとか、侍だというのなら誇りがあるはずですから。

ゴミ問題に戻しながらちょっと似たような事例で多くの人が騙されている話が買い物袋。ビニール袋が海洋生物に影響を与えているからスーパーの袋は自前となって久しいわけですが、エコバックというウソの名前のバックを持参しても海洋生物とは1%も関係がありません。

ビニール袋があるからウミガメが飲み込む、いやいや、その前にその辺に捨てるから海に流れていくのです。ゴミとして処理されていれば海に行かないのですから、これはビニール袋が有る、無いではなく、その辺に捨てるというモラルの話。いつのまにかすり替えられているのに、なぜ気が付かないのでしょう。

ところがなぜかレジ袋を有料にして、問題解決に繋げたいという気味の悪い、意味不明の論理を皆、信じ込まされたわけです。

それで万引きが増えて大混乱。だからここでも証明されていることは、本当はどこまでいってもモラルの話でしかありません。

自前の袋になったら万引き増加とは、結局本性が出ただけです。個人的には、今までの様々な経験、あちらこちらで見聞きしたことを含めて、日本人は世界でもモラルが高い民族とは特に思っておりません。話をすり替える人たちにモラルは無いのです。

JTも世界では明確に健康問題として扱われるのが普通なのに、環境だとか他人に配慮だとか話をすり替えている典型で、そうまでして、全てを誤魔化して生き延びようとする姑息な方法だということを国民は認識すべきです。

北極や南極でも氷が溶ける季節はありますが、その溶けた映像を使っても温暖化の証明にはならないのに、その映像で信じ込まされることがあるように、世の中は実は、事実を使ってはいるものの意図的にゆがめられることが多いことには、注意が必要です。

事実と真実の違いを理解しない人たちが多すぎるのですが、事実とは反復性がある物、万人が同じと認めるもので、一つのことです。真実とは、ある事柄に対し自分はこう思うという人によって解釈が変わることです。つまり当人のみがそう思う、そう感じたというのは真実です。

例えば10という数字、これは事実です。しかし10が多いか少ないかは人によって違い、ある人は10が多いと思うのでそれがその人の真実なのです。ところが世の中の多くの人は、事実で物事を話しません。自分の解釈で物事を語るので平行線だらけ、だからいつまでもダメなのです。自分の解釈など自分だけであり、事実と真実を分けて考えられないことから世の中は混とんとするのです。

事実は一つ、真実は複数というのが意味の違いです。だから多くのことは事実で話さねばならないのです。

事実で物事を見るようになると相当な部分が分かります。

たとえばある政治家が公約を守っていないとなれば、数値目標の達成が出来なかったとなればそれが事実です。ところが理由を並べてお涙頂戴、言い訳をして公約を守らなかったという事実に対し、こういう部分はこうなっただとか理屈を並べます。つまりやらなかったという事実、これだけで判断すればいいのです。

結果が全ての政治の世界において、出来なかった理由を並べる姿が政治屋の典型です。潔く下野することが出来ないから、だからこそ政治屋なのです。

しつこく書きますが政治の大原則は全て「結果」です。なぜしつこいからはあまりに多くの国民が全く理解していないからです。とにもかくにも出来なかった理由を並べる途中過程は不要です。

選挙で投票すべき人が分からないという声が多くありますが、実は相当簡単な話なのです。結果のない人は落選、たったこれだけです!

そして今がダメなら新人に賭けてみるしかないのです。政党という枠は大きな視点のみ。個別にはぐちゃぐちゃなのが現実で、ということを人を選ぶのはそんなに難しいことではないのです。過去の人は実績をみる、新人ならかけてみる、それだけです。

しかし特に新人の注意点は、「当選したらこれから勉強しまーす」、という類のタレント議員は絶対に選んではいけません。政治の志が無く、今は落ちぶれたものの過去の知名度がまだある程度で流れで来ているだけです。

そういう人本人、そういう人を選ぶ政党も腐っていることを認識すべきです。典型的な職業政治で、公僕の資格は無く、当然ながら公憤も皆無です。

過去に当選したタレント議員も実績をみるだけです。再選の価値があるのか、つまり税金で飲食させる価値があるのかです。

いずれにせよ、事実であっても悪用するのが政治の手段の一つですからこちらも十分に注意が必要です。

溶けていることだけが事実で、それが温暖化なのかは別の話。こうしてデータがある、映像があるということでさえ、そのまま信用してはいけないのです。季節により大きな変動があるのも事実であり、溶けている=温暖化では無いというシンプルなことを知っていればいい。

ゴミ問題から色々と書きました。いずれにしましても、こういう視点を持てる人は、世の中の怪しげな洗脳、占い、マスコミ、政治の嘘に騙されにくくなるはずです。

氷の理論で水面から上は1割、水面下が9割。世の中で見えていることもそれはたったの1割で、見えない世界で暗躍している人たち、隠されていくことこそ本当の人間の姿、この世の姿でしかありません。

世の中、陰謀論というCIAが考えたともいわれる言葉がありますが、それをバカにして否定したがる人たちこそ、暗躍している人たちの思うつぼ、かなり幼稚な部類です。

陰謀が無い世の中など絶対に存在しないのです。そういう甘ちゃん発想は捨てて、何が事実かに向き合う姿勢が大事なのでは。


なぜ、日本は成長できなくなったのか。それは失敗を恐れる人だらけだからである。

2022-06-17 10:44:10 | 考え方

アジアを旅していると、日本で失われた寛容さをあちらこちらで感じることがある。日本では想像すら難しい徹底した格差社会になっている様々なアジアの国。しかしそれでも寛容さを持ち合わせ、ゆったりとした時間で生きている人たちを多く見かける。

世界を知らずに日本はいい、日本は素晴らしいという人は、あまりに狭い視点でしかない。かつて日本にあった美しさ、良さを残している地域が世界には存在している。

今の日本は皆が三面記事、ゴシップ大好きに堕してしまい、ちょっとしたことも大騒ぎし、少しのミスや失敗も厳罰にでも処したいほどくるってしまっている。

コンプライアンスの意味を理解せずに乱用し、何も言えない、出来ない社会構造にまっしぐら。いくらこれが外国から仕掛けられたこととはいえ、まるで奴隷のように受け入れて、やがては自分たちのものにして喜んで自滅していく様子は、愚かという言葉では表現できないだけ腐っている。

寛容さが無くなった日本では、何もかも縛りたがる。同時に、まるで悪しき相互監視社会になってしまった。

色々なことは経験であると思えなくなった多くの大人たち。口では言うが行動は真逆である。「可愛い子には絶対に旅をさせない」社会は縮小しかない。

例えば、小さな子供は歩いていて転ぶもの。それが危ないからと先回りして保護ばかりしていれば、結局子供の成長は遅くなる。体で覚えることを数多く経験させなければ、人との距離感やいざという時にどうあるべきかという発想が生まれにくいのは当然である。

アジアの場所によっては、今でも裸足で外を歩く人を多く見かける。そこは林の中だというところでも、子供が裸足で平気で歩いている。昔の日本もそうだったわけだ。人はもともと、環境に適応していく強い存在なのだ。

昔、企業で働いていたことがあるが、更衣室でのできごと。自分のロッカーの前のスノコに何かの拍子に一時的に靴で上がったことがあった。それをたまたま見た年配者が即座に怒鳴ってきた。

「何をしているんだ、汚いじゃないか!」

そんなに大げさなことか?とあきれた記憶がある。アメリカ映画でも見ようものならベッドの上まで靴を履いたままの人がいるわけだが、そういう人は発狂するから見ないのだろう。

外を裸足で歩いても滅多に大事にはならない。ましてや靴でスノコの上を一時的に歩くくらい、何が問題なのかまったく分からない。玄関を出て鍵をかけてから忘れ物を思い出すことがある。鍵を開け靴のまま居間に入ることがあるが、その程度のことで大騒ぎになる理由が全く分からない。

昔、中国に仕事で赴任していたことがある。休日に外を散策していたとき、リアカーにたくさんのスイカを乗せた人が商売をしていた。周辺には客が食い散らかした皮が散乱していた。そこに一人の老婆がいることに気が付いた。その老婆は、誰かが捨てた皮を広い、水たまりで洗ってから食べだした。

多少のものを口にしても人は死なない。お腹が痛くなってもそれは経験の一つ。

安全に安全に、きれいにきれいに。そして免疫力の低い子供が成長を続け、弱い人として大人になるわけだ。

昭和の日本で当たり前だったことが、今やすべて不衛生になっている。その割に病気が増える一方なのはなぜか、よくよく考えてみたらいい。全て商売の為、理屈をつけているだけなのだ。全員がカモである。

日本は大東亜戦争で敗戦している。ちなみに日本側の立場は大東亜戦争であり、第二次世界大戦でも、ましてや太平洋戦争でもない。

歴史の次いでであるが、中華人民共和国は1949年からであり、そこに数千年の歴史など存在しない。国名を略して中国というのはまだ分かる。しかしそれ以前の特に歴史的な意味を込めてシナと言えばダメだというのはあまりに頭が悪い。

英語のChina、チャイナはつまりチナ、シナを意味している。英語が良くて日本語でシナと言えば差別用語になるのは発想が完全に崩壊していると言える。

そのチャイナは日本に戦争で勝った気になりたいのか、それとも負けた悔しさが忘れられないのかずっと捏造反日を続けている。そういうこともマスコミが報道したら知り、報道が無ければ無関心という人は、何のことは無いマスコミに操られているだけだとそろそろ自覚してはいかがだろうか。

ロシア、ウクライナは交戦状態にあるのは確かだ。しかしウイグル、チベットへの中国の侵略は解決したのか。香港での弾圧は無くなったのか。さらに広げればミャンマーでの国軍の暴力は解決したのか。報道があるか無いかではなく、世界の現実というのは常に争い、侵略、暴力の中にしか無い。

話を戻し、日本は大東亜戦争で敗戦した。そう敗戦である。これを終戦と言い換えるのは極めて悪しきことであろう。負けは負けだ。

なぜ今の日本がこんなにもばかげた状態になっているのかは、敗戦が大きな理由の一つなのだ。単に負けただけではなく、巨大な嘘をやったのが日本である。

戦時中、大本営は事実を公表せず、隠し続けた。マスコミは大本営に加担し、嘘の情勢を流し続け国民は騙され続けた。しかしそれでも気が付く可能性はあった。それが言葉を創作しだしたことにある。そこで何か変だぞと気が付く人はいたが、大勢は考えることをしないのでどんどんと悪化した。

負けて逃げたことを「転戦」といった。こうして言葉で誤魔化し、結局手を打たないこと現代に通じる姿勢は戦時中に確立していったのである。

今でも政治屋は、善処する、配慮する、前向きに検討する、不徳の致すところ、遺憾であると言葉を並べるが、全てその場限りの舌の動きで本質的な対応は一切せず、時間が流れて忘れられることだけを待つ。

最もらしい言葉を並べて取り繕い、実際は行動せず何も変えない連中は、ずばり悪魔の側であることを覚えておくべきであろう。

戦争で日本は負けた。なぜ、負けたのか。それを現代人はどれだけの人が本気で、正面から受け止め、学びに変えていったであろうか。ほぼやっていない。

犠牲だけを前面に出す左翼、負けにもかかわらず軍事美談を流し続ける保守から右側。だからいつまでたっても何も学んでおらず、議論にさえならない時間の浪費を繰り返しているのが日本である。

負けという失敗を正面からとらえ、その理由を様々に考えて学ぶことが大事のはずである。しかし戦後は目を背けることばかりであった。右も左も所詮、命令により命を散らした人たちのことを本気で考えていない。

左右という立場に自分はあまり深くは属さないと思っている人たちは、「見ざる聞かざる言わざる」を続ける人が多数いる。知らない振りをしても起きたことが消えることは無い。それなら正面から考えるべきではないのだろうか。しかしずっと知らない振り、気づいていない振りを続ける。

そしてイデオロギー発想の人たちも、別の意見から学んだらどうだ。確かにそれが出来ない全体主義者だからいつまでも歪んだ視点であろうが、戦争について話すなら、自分は本気だというのなら違う態度がある。

本気なら自らのくだらないこだわりを排除し、そこから様々な形で学ばなければいけないのに、批判か美談かの極端しかないのは、結局立場に終始して先人が犠牲となった命から学ぶ姿勢は無い。

日本人はとにかく極端にぶれる国民性がある。右側だった戦時中から極端な左の戦後へ。何でも極端にぶれてしまい、ほどほどが分からない。一か八か、ダメなら止めるだけで、中間というもの、ほどほどが分からない。グレーということが発揮できるのは責任逃れするときの不透明さだけである。

例えば事件の容疑者が検挙されたとしよう。裁判が終わり有罪となるまで犯人ではない。つまりグレーでしかない。しかし逮捕=犯人という気味の悪い発想から抜けられないマスコミと洗脳された国民は絶対に理解できない。後で冤罪だったとなっても、極めて小さい扱いでその頃には誰も興味さえ持っていない。衆愚の典型である。

敗戦という大失敗をしたのに学ばない日本人だが、その傾向は時間の流れで悪化していく。

どこもかしこも為さぬことの罪を考えず、踏襲主義、自己保身、責任転嫁、そしてちょっとしたことでも問題があれば、大合唱して責任の追及である。こんな国が良くなるはずは無い。

人は経験して大きくなり、その経験を生かして学んだ知識と結び付け、次につなげねばならない。しかし恐れてばかり、責任追及を逃れるために為さぬことだらけでは、どうやって大きくなれるというのだ。

言い逃れ名人が数多く出れば出るほど、悪化の証拠でしかない。

企業はどんどんと小さくなり、誰も責任を取らない。普段は縦社会を振りかざし偉そうにしている高給取りたちだが、いざとなると集団責任に隠れ、時間が過ぎるのを首を引っ込めて待つだけである。

海外で日本のニュースを見ているとき、周囲の外国人にいうことがある。

「この会社は不祥事を起こして記者会見するが、三人が出てきて謝罪するから見ていて」

その通り、三人が出てきて頭を下げる。人数が多ければいかにも謝っていると受け止めてもらえると思っているのか、一人が怖いのか、集団に隠れたいのか、なんなのだこの器の小さな経営陣たちは。

間違いは間違い、失敗は失敗、状況を説明する場なのに、どの企業もいつも三人。形式主義を続けているようでは本当の謝罪も反省もそこには無い。

政治は口だけ批判の野党と、何かあっても誤魔化しだらけの与党。大本営の転進よりも悪化し、統計データを調整してまで自己正当化できる今の様子は末期状態である。

失敗を恐れ、小さな失敗が見つかれば鬼の首を取ったように大騒ぎするマスコミとゴシップ大好き国民。自分の誤魔化しや嘘を棚に上げ、よくも他人のプライベートやどうでもいいことで大騒ぎできるものである。

そして今の日本人とは、問題があれば問題解決よりも、そのものを止めてしまう意気地のない多くの日本人。どこかの公園で子供が怪我をしたとなれば、その遊具は使用禁止。下手をすれば水平展開して存在そのものが消されている。

今の公園にジャングルジムはあるのだろうか?

そして、何事も考えた結果だととってつけた理由を並べ、やらねば分からないことでも挑戦することもしなくなった。責任問題になることの撤収は秒殺で素早く、次に繋げることからは逃げてしまう。

戦後、なぜ多くの日本企業が世界で戦えたのか。それは挑戦したからである。焦土からの復興で、これ以上失うものは無いからこそ、前に進むことに力を注いだ。失敗を繰り返しても前に進むことを選んだのだ。

GHQに始まり、その後も米国から圧力を受け続けようとも企業は独自の道を、自分たちを信じて、何度も失敗を繰り返しながらも進んだのである。そこから奇跡的な経済の成功を手にすることが出来た。そのブランド力は諸外国からは脅威か、憧れであった。それだけ存在感があったのだ。

しかし今の日本はもうその片鱗さえない。

学校からして、友達と仲良くすることだらけにしか見えない。そもそも友達が必要だとか、友達が多くいることが大事という気味の悪い価値観こそ狂っている。一人になれない奴はまずもって、弱い、それだけのことだがそれを極端に恐れさせることを生徒に教えているのではないだろうか。

自主性と言いながら、個性と言いながら、いざ本当に個性的で我が道を行く生徒が出てきたとしたら、よってたかって矯正と洗脳であろう。とにかく均一、昔風に言えば金太郎飴が大好きなのである。

その大きな理由の一つが、責任を取りたくない職業先生だらけだからだ。

教育委員会も同様で責任の回避しか感じられない。もはや文化財保護を除いて存在価値は無い。

大人が見せる偽善姿勢や誤魔化しを生徒の目の前でやっているのに、口では個性だとか友達という。だからそれを見抜く鋭い、つまり個性的な生徒が潰されていくのだ。多くの生徒は洗脳されて思考停止となっていく。

そして大人になっても就職が困難なこの時代で、学卒で挫折を味わう。レールに乗った上級国民には分からない世の中の多くの人の現実である。

組織に入っても、横社会の様に見えながら極端なまでの縦社会が会社というものである。公務員の世界も同様だ。そして上役は自分の責任にならないように部下を育て、手柄だけは出世のために欲しいという構造がどこにでも転がっている。

「実るほど頭が下がる稲穂かな」も死語の部類であろう。日本で偉くなるとは、金は上がるが徹底して責任逃れが出来る構造ということに近い。頭をたれず、謙虚さが無く、己の利権に酔いしれている連中だらけで国が良くなるはずはないではないか。

日本は望まないにも関わらず、戦争状態となり、そして敗戦。その後アメリカの属国に堕してしまった。それでも先人たちは失敗を繰り返し、努力を繰り返して日本を盛り返していった。

今の日本はその歴史を食い漁り、小分けをしておこぼれにあずかることしか考えない連中は、失敗を責任を恐れ、逃げ隠れをモットーとして生きてきた。

日本が再び立ち上がる日は来るか。無理である。

研究機関も予算が取れない。失敗からしか次は生まれない研究なのに、結果が出ないからと予算が出ない国は没落しかない。

そして、世界的な価値観は他国に完全に握られている。日本の得意分野だった細かな技術も、もはや外国資本に買われるのが当然となってしまっている。

長い年月をかけて築いたものが、あっという間に金で買い取られている。そこに手を打つどころか加速させる政府と止められない野党。中にはそれこそ善であると信じている政治屋も多数いることだろう。

企業は失敗を恐れ、経験を積ませず、身の安泰だけを考える老害の巣窟となり、それだけでなく外国資本に主要な株を持たれ、利益の多くの海外に吸い取られるシステムになってしまった。

少なくても個人として、失敗から学び次に繋げるという人とのみ、関りを持っていく。


現実を直視!日本は30年、良くなっていない劣等国!誰が政治屋を支持してきた?

2022-06-14 12:19:33 | 考え方

日本は四季があり、長い歴史があり、先人が大切にして守ってきた文化伝統もある。

長い歴史があるとは素晴らしいことで、隣国のように王朝が変わり続けているのに4000年だとか5000年だとかいうのは、実は本当の長い歴史とは言えない。革命の歴史は時代を分断しているからである。土地が存在しているだけで、長い歴史というのはペテンの類である。

ところが日本も、決して褒められたことだけではない。今の日本は過去を食い物にし、私利私欲の連中が群れをなしている。

政治家、政治屋の違いを過去に書いているが、誰が政治屋を支持しているのか。地域の人ではないか。

なぜ、私利私欲の政治屋を選ぶのだ。結局は、見返りを求めたドロドロの関係を証明しているだけである。

連立与党の自民党と公明党。基本的に自民党が与党であり続けてきたわけだが、日本は悪化しかしていない。この現実を直視しないからこそ、日本はますます腐っていっている。

自民党は公明党の支持母体である創価学会にも取り入っておかなければ票が難しい、こんな政党、存在意義などとっくに無い。

国会議員の仕事は何か。高額の報酬をもらっているにも関わらず国の仕事をせず、再選のために地元しか考えてない輩を政治屋と呼ぶ。単なる職業としての政治が欲しいだけなのだ。本当に、どこまでいっても国のことなど考えていない。考えている人こそ政治家であり、地元優先をする連中は全員、政治屋である。

日本は全く良くなっていない。もはや四季の美しさ、長い歴史、文化伝統だけではカバーできない。観光大国を目指すとしながら、例えば、では自然はどうか。破壊活動しているのは誰か。

はっきり言うが、エコだ、再生可能エネルギーだという名の太陽光パネルや風力発電は、全部嘘だと断言する。そもそも現状の自然と景観を破壊する経済活動は全部、嘘である。個人の家庭の太陽光パネルでさえ、まず採算は取れない。

結局は太陽光パネルや風力発電設備を大量生産している外国企業が儲かるだけなのだ。日本人の基本さえ踏まえていない暴挙でしかない。金、金、金。

地域の人たちも同様で金、金、金だ。場所を提供する人たちがいるから、大規模な太陽光パネルの設置、巨大な風力発電設置が可能になる。

観光立国とは外国人に多く来てもらうということだ。外国人は日本の景観を楽しみにして来る人も多い。しかしもはや大自然とは言えない醜い太陽光パネルと風力発電。奇怪なあの様子にあきれ果て、再びそこに行きたいとは考えないだろう。

もちろん大規模開発であるとは、政治屋が関わっていないはずがない。この醜い構造も日本を破壊する一つである。

日本は経済的に、まったくダメである。それも単に失われた30年や、停滞の30年ではない。他国が成長しているなかで、まったく伸び率が無い国とは完全に衰退である。安倍元首相をはじめ、いかにも日本が良くなっているように言う連中は、政治屋であることを見逃してはいけない。

政治は結果である。全て結果である。公約だマニュフェストだ、どこがどれだけ守ってきたのか。選挙の時だけ「舌先三寸」、お涙頂戴の芝居、そして統計さえ誤魔化していかにも実績があるという連中だらけではないか。

結果が全ての政治だからこそ、その人たちが何をしたのかで判断するだけである。北方領土の返還や拉致被害者問題を口にしながら解決しなかったのは、元首相を筆頭に全員が政治屋である。

もちろん、自民党は保守でも何でもない、単なる偽物であることに気が付かない自称保守の支持者も同罪なのだ。ということは、偽物の自称保守を支持し続けるとは、売国政治でしかない。再生可能エネルギーという名の売国行為が出来ているのは、現政権及び地方自治体が腐っていて国益を考えない証明でしかない。

そして自民党とは、公明党とずぶずぶの関係で政権維持だけが望み。国が良くなるはずはないではないか。

対して野党はどうか。もはや語る必要も無いほど邪魔な存在である。何が大事か分からず、小事のこだわり、日本人の典型である「バケツの中のカニ」で足を引っ張りあうだけだ。

しかし当選したなら、劣悪なコメンテーターをしていれば生活できるのだから、責任を取らず騒いでいて金が入るとは、三面記事とおしゃべり好きな人の集団では皆、天職だと思っていることだろう。

この国日本は、もはや一部を除いてまともな賃金上昇が無い。実質賃金は減少である。賃金が多少上がったとしても、加速して物価はあがっている。なんだかんだと支出が増える。増税もしている。国民の多くはとにかく我慢の強制しかない。

我慢の強制を誤魔化す言葉がある。未だに教育を含めて日本の心は「和」だとかなんだとか、戯言をいうのだ。つまり「黙っていろ」、「考えるな」という意図を「和」という言葉ですり替えている。その嘘教育を見抜かねばならない。

個性が大事と言いながら、では個性的な人が出てきたら今度は和である、調和だ、協力だ、配慮だ、バランスだと逆を言って潰しにかかる。子供でどんなに能力があってもまともな飛び級は無く、バケツの中のカニどもの中に閉じ込められる構造。

政治、企業を含めた大人社会のなーなー、なれ合い、忖度構造は個性と真逆であり、それは上役の顔色を窺う職業先生だらけの学校も同様。ずば抜けた子供が才能を生かせる可能性は絶望的なほどゼロに近い。

ところで民主主義とは、有権者一人一人が自分自身の意見を持ち、それを戦わせて良いものは良い、違うものは違うとしたうえで、多数決を取るということ。黙っていろ!ではない。

和だとか、穏やかであるとか、民族性だとか、全部違う。自由主義、民主主義国家というのなら、静かで従順な国民ということそのものが間違っている。だから日本にはいまだに、自由も民主も無く、肝心の国民はその意味すら理解していなとしか思えない。

自由に政党を選ぶ、多数決だ、こんなレベルを自由主義と民主主義国家だと思っているのは、既にその人が何も学んできていない証明でしかない。

また、反論しない、反撃しない、そういう洗脳は戦後のGHQに始まり、それを利用してきたのが自称保守、あるいは保守本流なる意味不明な言葉で民衆を惑わしてきた連中ということ。日本人はいい加減に、その洗脳から脱出しなくてはいけない。

知る必要な無い、黙って自分たちに投票しろ、そうして物言わぬ民衆を好むのが政治屋であり、そういう人たちが国のかじ取りをしてきた結果が、このみじめな国、日本ということだ。

有事の際に黙って列をなすことを素晴らしいというが、違う。どうしていいか分からない、自分の考えも無いからとりあえず黙って並ぶのが今の日本人だと思えてならない。

歴史的には敗戦の失敗に始まり、アメリカ主導の政治でまんまとやられた政治の失敗、それが現代日本のこのだらしなさに繋がっている。アメリカの奴隷のような政治の下、おとなしい、真面目だ、調和だとか意味不明の言葉で騙されて声を上げない国民という図式は完全におかしい。

ところで民間企業が原材料を理由に値上げするが、では原材料費が下がったら値下げしているか。上がる一方ではないか。

同じ値段で売っていても、内容量を減少させているのは値上げそのものである。そんな詐欺まがいのことを平気でやる。

添加物を大量に投下して、飲食する人たちの健康は考えない。だから癌大国。そして医療関係が儲かるこの狂った仕組みは、政財官一体の日本破壊活動である。

多くの企業で正社員は減少。派遣その他の労働者は、正規雇用とはますます賃金格差が広がる。しかし一度入ってしまえば、働かないおっさん、おばさんでも辞めさせることができない不気味な労働制度。企業なら戦力にならない人を解雇するのが当たり前のことなのに、出来ない。

左翼の様に何でも保護を訴えると、結局は自然環境もそうだが悪用されるのが落ちである。環境保護と言いながら大々的な開発で環境破壊をする「自然エネルギーの活用」というキャッチフレーズとまったく同じである。

電力、水道、ガスも基本料金は全部止めよ。完全従量制として本来の企業活動をすべきである。甘えた組織は悪化するだけである。だから日本全体がいつまでもダメなのだ。基本的な生活部分に金がかかりすぎるのだ。しかし多くの人はまったく疑問を持たない。基本料金や契約料金というものは全部、ダメである。

さて先日、某教育委員会で長年、偉い立場であった上級国民側の人と話す機会があった。

その人は言う「人生100年時代、80歳過ぎまで働かなくてはいけない社会になる。健康は大事だが、新たな学びを繰り返しながら新しい仕事に挑戦していく生き方が大事になる」と。

これは典型的な上級国民の発想である。そもそも論から指摘していく。

若者の多くはまともな職に就けない。安定した正社員になれない。多くの組織はすでに硬直し、給料が高い働かないおっさん、おばさんが遊んでいるのに解雇できず新陳代謝が無い。

金が無い、仕事が無い、そういう多くの若者という現実を直視したなら、いつまでも何歳になっても、年寄りになっても仕事をしろという発想は残酷そのものでしかない。

また、失業や解雇された人たちの再就職がどれだけ大変かもわかっていない。ましてや高齢者の再就職など、皆無と考えねばならない。新しい仕事に挑戦どころではない、無理だというのが現状なのだ。可能性すらほとんど無い!

もし、求人欄に条件年齢が復活したら実に分かりやすいのだが、平等なのか何なのか本音を隠すからダメなのだ。実態は年齢制限があるのに求人では誤魔化すことになっているから、双方に無駄な時間が発生しているが形式大好きな日本は是正しない。

現代において未だに座っていればお茶が出てくるような組織や立場に長年いた人たちは、絶対に本当の日本を理解することはできないのだ。

こういうことが分からない人たちがこの国をコントロールしているわけだ。よくなるはずが無いではないか。

当方の考えは、50歳定年制である。人間、50歳になったら思いっきり次のステージに行けと考えている。65歳が定年だからと社会や会社のルールに従って、退職する日を指折り数える人が多いからこそ衰退なのだ。然るにこの国はさらに年寄っても働けという側。

なぜ、こんな幼稚なことさえ分からない連中がこの国を操作しているのか。そう、なぜではない、そういう連中を選んでいる人たちがいるからである。

年金制度を大改革し、当たり前に支給されるようにせねばならない。しかも50歳からもらえるような大改革。問題をどんどんと先延ばしにし、支給年齢も上に上にとする国は間違いなく将来性は無く失敗する。

官僚は政治次第である。政治が政治屋だから官僚は前向きな仕事をせず、結局は政治屋と同じで制度を維持し、権力が集中することにエネルギーを注ぐ。実はすべて、有権者が間違った判断をするからグルグルと回って国が悪くなるだけなのだ。

50歳で定年とし、再雇用とは戦力となれる人のみである。本人が残りたければ残れる現状の制度は完全に腐っている。だから日本の企業はだめなのだ。変化を嫌い、常に現状維持を選ぶ。

現状維持とは衰退でしかないという現実を受け入れる可能性すら存在しない。

50歳になったら、何かにチャレンジせよ、そうとしか思わない。それも金、金、立場、立場というしがらみではなく、例えば趣味やボランティアを充実させる社会ということだ。そういう社会にならなければウソだ。

勤めている時から何もしてこなかったからこそ、定年後に何をしていいか分からず、いつまでも組織にしがみつこうとするのだ。

そもそも論として、先延ばしのシステムがおかしいから、個人の問題というよりも構造そのものが狂っていては皆、おかしくなるのも当たり前とも言える。

定年が60になり、65になり70になりでは、残り時間の方が圧倒的に少ない。こんなことだから、だから何も考えず、考えることはどうやって組織にいるかとなる。しかも仕事をしている振りをしながら。

そもそも単なる組織ではないか。それを自分の人生だと考えるのは、実はみじめであろう。仕事を充実させることと組織にしがみついていることは何の関係も無い。

中には単なる組織であることを忘れ、そここそが自分の居場所だと錯覚するから、いつまでも居残る発想になるのだ。偉そうにふるまうわけだ。仮に自分が作った会社でさえ、健全化のためにどこかで離れるべきが、いつまでも居残るワンマン型経営者は既に独裁者になっていることさえ分からない。

健全な精神があるなら、さっさと後輩に道を譲れ、それしか無い。

年金支給も遅らせていくのは国家的詐欺である。そこにメスを入れるとした元首相がいたが、結局それは消滅。よくもそれで保守を自認できるものだ。それこそ恥知らずではないか。

ところが50歳定年で年金もあるとなればさすがに残りの時間は長く、自分の人生を正面から考えねばならない。だからこそ人生半ばの40代から何をすべきかを本気で考え出す人が増える。それまでに引き継ぎできる体制を作り、多くの企業が会社内を循環させるようにすれば当然、社会も活性化するのだ。

仕事が遅くてもなんでも一生懸命だったという意味不明の感情論を全部排除し、その中身が確かな人だからこそ、会社側は残ってほしいと考えるべき。そして当人と話し合うことにすれば、会社はいつまでも良い状態にある。

それでも組織とは60歳になったら、誰もが完全定年である。老兵はただ去るのみ。逆にどんなに優秀でもそれ以上いてはいけない。それだけ変化する組織、社会でなければいけないのだ。

特に政治は20年定年制である。60歳定年ではない、20年定年制である。権力者が長い間、権力の側にいると絶対に腐敗する。断言できる。

政治も企業も理由を並べて居座る連中は全員、社会に貢献していない。年齢が上の層がいなくなるからこそ、若者にチャンスが生まれる。だから年寄りは去れ、ということだ。

長い間居座り続けて、若者論を言うのは政治屋とまったく同じ精神構造で、何が大事かが分かっておらず、ほかならぬ自分自身という存在が「害」であるという認識が無い。

本来、日本人とは恥の文化を持っていた。しかも裏表無くという考えがあった。だからこそ「お天道様に顔向けできない」という感覚があったからこそ、見えないところで手を抜くことをせず、努力精進したわけだ。今の日本でこの考えはほぼ壊滅といってよい。

「もし約束を違えたなら、万座の前で笑い飛ばして構わない」とは、江戸時代の商人倫理と言われている。然るに現代政治と現代ビジネスは、「舌先三寸、騙される方が悪い」になってしまっている。

誰もかれも、己や組織の利益しか考えないから、政治屋とそれにくっつく悪徳商売屋という構造になり、地域や国を破壊しているのである。

国民は目覚め、再選を目指す人が政治家か政治屋かを見極め、政治屋を落選させねばならない。本気でこの国を、自分たちの子孫を、多くの子供たちの未来を考えるのなら、1%でも良心があるのなら、本気で歪んだなれ合い構造を変えねばウソである。

変えたいが投票すべき人が見つからないから、とりあえず前と同じ党にしておくか。これは最悪の考えである。変えたいなら変えろ、新しい人たちを見つけろ、そういうことになる。調べもせず、単に日常生活を送っているだけでは、自分自身が変わっておらず、結局その姿勢がこの国を悪化させているわけだ。

他人を変える前にできることは、自分が変わること。

現状のメリットのみを追いかける国が発展するはずはないではないか。失われた30年は、もうすぐ40年となり、そしてアメリカ、中国、ヨーロッパその他に利用されるだけの構造も変えることが出来ず、確実にうま味を吸い取られるだけの現状。当然悪化し、滅亡に向かう。

それも諸外国と戦える政治家がいないからだ。皆が政治屋を選ぶから、全ての発想が間違っているから、諸外国に利用される。

政治は実績をみよ。「政治は結果である」という大原則を常に忘れず、何をしたかで判断せよ。

「もう一度チャンスを」、「議席を死守」、「自民党公認」、こういうことは全部嘘である。政治屋どもを政界からたたき出し、本気でこの国を良くすることを考える人に、かじ取りを任せなくてはいけない。

あなたの目先の利益が、あなたの子孫の未来を破壊しているのである。


織田信長は本願寺と比叡山を潰しにかかったが、今の仏教界はどうか

2022-06-10 11:50:24 | 考え方

織田信長が石山本願寺と戦いを始めるのは元亀元年9月12日(1570年10月11日)のこと。約10年戦い続ける。

比叡山焼き討ちは、元亀2年9月12日(1571年9月30日)のこと。どちらも有名な話である。

特に比叡山焼き討ちは女子供の首も撥ねた残酷な戦い方であったとされ、後世からも極悪非道の烙印を押されることになる。仏教側からすれば憎き仏敵ということだが、これは後世の見方であり、そのまま信じると本質を見誤ってしまう。

なぜここまでやったのか。それは仏教界がダメだったからである。

僧兵という言葉があるが、僧侶が武器を所持し戦う準備をしている、しかし実態はその多くが乱暴狼藉を働く、芸者と乱痴気騒ぎをするということが度々行われていた当時。現代の仏教のイメージはまったく違うのだ。

日本を統一しようとしていた織田信長からすれば、腐りきった仏教界にしか見えなかったであろう。

ちなみに比叡山の焼き討ちの提案者は明智光秀ともいわれている。京都「本能寺」で織田信長を討ったとされる明智光秀だが、比叡山焼き討ちでは一番の功労者という評価がある。心優しく、追い込まれて信長を討ったイメージの人が多いと思うが、実態は違うであろう。そのような軟な人物であるはずがない。

出自も幼少期も不透明な人は、様々な手法を使ってのし上がるしかない。厳しい時代にも関わらず、名が残るとはそういう意味である。

比叡山焼き討ち後、領土は信長のものとなるが、居城の安土城から琵琶湖を挟んで対岸に、明智光秀が坂本城にて管理することになる。これは織田信長がさらに仏教勢力に釘をさしたということだ。

ここから見えてくるのは、後の処理はお前に任せるという信長の姿勢であり、光秀を信用していたとしか見えない。

つまり、比叡山焼き討ちで一番働いたのが明智光秀であり、その後光秀が管理することになったと読むのが普通の解釈であろう。光秀領内となったことから今度は一転して鎮静化に入り、保護を大々的に行った光秀というのが事実ではないのだろうか。

そこに政治的駆け引きがあり、それを一方的に光秀美談にしてしまうのは時系列の展開をあまりにも見ておらず、点で評価しているように思えて仕方がない。

なお、比叡山焼き討ちも全土ではなく、一部だけだったという指摘もあることは知っておいてもよいであろう。

さて、信長は当時の絶対的タブーである仏教界に戦をしかけた。どんなに巨大勢力になり、横暴な僧兵がいようとも、一部の僧が酒池肉林を展開しようとも我慢しかない時代に、討ってでた。この勇気は認めるべきである。仏教本来の姿であれば起きなかったことであろうから。

インドで釈迦牟尼によりはじめられた仏教だが、大きく二つに分かれる。いわゆる小乗仏教(上座部仏教)と大乗仏教である。日本には基本的に古代シナ、今の中国で編纂され体系化されていく大乗仏教という流れが入ってくるわけだ。そこには数多くの如来、菩薩、羅漢というような仏が出てくることになる。

対して小乗仏教には仏である仏陀しか存在しない。考えてみれば、誰が保証できるわけでもない数々の如来や菩薩というのと、存在が明確な釈迦牟尼では、小乗仏教の方が本質をついていると考える。

日本で大きな勢力を持っている宗教団体に「創価学会」がある。日蓮正宗であるが歴史を見てみると、そもそも創価学会という信者団体が宗教法人を取得して行ったことそのものがおかしい。また、ご本尊模刻その他、数々の問題を起こして寺側から破門されたのが創価学会。その後は醜い訴訟合戦である。

日蓮とは鎌倉時代の有名な日蓮上人であるが、日蓮は法華経の地涌の菩薩を自認しており、あくまでも仏陀の弟子の1人。法華経が弘通(広める)されるときに湧いて出てくる地涌の菩薩であると自らを認めていた。

つまり彼自らが自分を根本仏や根本神ではないとしていることで、巷の日蓮正宗に対する全ての答えが出てくるだろう。

さらに触れておけば、法華経がまとまりだすのは釈迦没後であり、紀元後に成立した創作経典ということが明らかになっている。釈迦は約2600年前の人物であり、紀元後とは6百年も後のこと。この辺りもキリスト教の聖書と似ている。もちろん仏典、聖書ともに釈迦やイエスが編纂させたものではない。

ついでに触れればキリスト教では、日本人が知っているのは西方キリスト教で、イタリアやフランスで見られるなじみ深いキリスト教。ある意味大乗仏教の姿に似ている。

しかし本質に触れているのは東方キリスト教で、ルーマニアやブルガリアなどの正教でありこちらは小乗仏教に流れが似ていると見ても良い。華美なことをさけ、本来の姿でいようとしているからだ。

日本人の多く、いや西方キリスト教徒の多くがイメージするイエスは金髪で白人だが、その印象そのものが決定的に間違っていることに多くの人は疑問すら持たない。

イエス誕生の地ベツレヘムであり、聖地エルサレムの南10キロとなっているが2000年前のこの辺りに白人が多数いたはずがない。大事なイエスやマリアのイメージさえ全く変えられていることで、それではその教えがどうなのかと、疑問を持たないのであろうか。

釈迦は生まれてすぐに天地を指差し「天上天下唯我独尊」と言ったという話があるが、これを信じている日本人は皆無であろう。では、イエスの生誕は?

法華経であるがシナ大陸において天台智顗が釈迦の最終的な教えで最も重要な経典としているが、これはまだまだ経典の歴史的解釈が無い時代の話。今では紀元後の創作経典ということが分かっているからだ。

つまり、鎌倉時代の日蓮がこれこそ本物と信じても無理はないのだ。時代を考えれば日蓮に罪は無い(激しい他宗排撃はやりすぎだったが)が、今の人が日蓮こそ根本仏である、あるいは天照大御神の上位神であるというような解釈は全て間違っている。

人は自分に都合のよい情報だけを集めてさらに凝り固まっていき、違う意見や情報は徹底的に排除することを繰り返すのでなかなか受け入れられない。だから前から書いているように、イデオロギー発想を含め、特定の立場でいれば視野が狭くなり、排他的になるのは当然。

イデオロギー発想から抜けられない人と、熱烈な一部の新興宗教信者は実にそっくりである。ついでに言えば、Qアノンを信じ込んだ陰謀論者もそっくりである。皆、対象が違うだけで聞く耳を持たない閉鎖的思考法は全部似ている。

小生は世の中、陰謀でしか成り立っていないと考えているが、それでもQアノン系統は異常としか考えていない。

どこかに属し熱烈に支持するとは必ず敵対する存在が生まれる。こういうことが日本国内はもちろんのこと、世界は絶対に一つになれず、戦争は今後も続く理由の一つである。

左翼側が軍備反対と言えば言うほど、逆に戦争は絶対に無くならない皮肉に気が付いて欲しいものである。その偏った考えこそが戦争を呼び込むことに気が付かない。

ではここから、特定の宗教や宗教団体ではなく日本の仏教全般に触れていく。

ミャンマーやタイ、ラオスなどの小乗仏教でも葬式は行われるが、法要は行いたい側がお寺に申し込むときのみ。日本の様に何回忌というのは存在しない。

今を生きる人間の結婚披露宴は通常1度だが、故人をとてつもなく長い間法要するのは仏教の根本からして間違っている。この世を離れたのだから何度も呼び戻し、執着させてはいけない。

お寺と遺族側に仲介業者は存在しない。〇〇葬儀社というものがない。直接お寺や遺体の運搬を業者に頼む。

戒名は無い。

少し触れただけでも決定的に違うことがわかる。

さらに触れていけば、例えば小乗仏教のタイでは、信仰の対象は釈迦牟尼(仏陀)のみであるが、僧侶は仏陀側に座り、参列者の方を仏陀と同じ視点で向いている。

仏教には三宝という考えがあり「仏法僧」は等しく尊いとされている。三宝は日本でも知られていることだ。それならば僧侶が仏陀側にあり参列者を向くのは正しいことになる。

日本の仏事で感じていたことだが、葬儀にしてもなぜ僧侶は本尊を向いて読経するのかまったく意味が分からない。

皆さんは宗派超越の経典「般若心経」の意味を調べたことがあるだろうか?

内容はあくまでも釈迦が生きている弟子に対し、どう生きるべきか、どう考えるべきかを教えたものである。

仏教は本来、死者のためのものではない。自らを振り返り、行いを正し、精進していく教えが仏教である。正しい思いと行いがあれば、やがて悟りを得られ平安になるということだ。

しかるに僧侶が本尊を向いているとは、まるで本尊に向かって読経という説法をしているようにしか見えない。誰のための読経なのだ。読経は故人と参列者に向けた教えでなければいけないのだ。だからタイのように僧侶が参列者に向かって読経することこそ正しいはずである。

任意でしかない法要では、故人を示すものとして写真が飾られることがあるが、それはあくまでも僧侶と参列者の間であり、仏の側ではない。写真が無ければ俗世の氏名であり、戒名は存在しない。

小乗仏教において戒名は存在しないと書いたが、こちらもそもそも日本の様に死ねば皆仏というのが本来の仏教ではない。生前の行いにおいてその後の道が決まるのであり、高額の布施をすればするほど良い戒名が与えられるとは、そこらの奇怪な新興宗教と本質はまったく変わっていない。伝統仏教こそすでに危ない集金方法を使っているのである。

また、仏教界で〇〇祈願のようなことをしているのは全て違う。なぜなら仏教は因果応報の宗教観だからだ。個人の状況は困った時に祈願する、欲望達成のために祈願する程度で変わるものではない。

その状況こそ自らが作りだしたのであり、まず原因は自分にあると考え、その結果が今展開していることだと考えるのだ。だからこそそこから、自らの間違いを正すという発想に繋がれる。

〇〇祈願はこの仏教の本質を全部破壊しているのである。繰り返すが仏教を名乗り、〇〇祈願というのは全部間違っている。

さらには宗派によっては、これがあれば救われるというものがあるが、ルターが批判した免罪符(贖宥符)と何ら変わらないことをしているのに気が付くべきである。つまり、全部偽物なのだ。

ちなみに神道の祈願は、古代シナの道教の流れを汲んでいることを重々認識しておいたほうが良い。神道といえば何でも古来の日本よりと思考停止する人が多すぎる。そのほとんどが道教の、表現は悪いがパクリである。

そういうお前はどうなのかとなれば、当方の考え方はまさに宮本武蔵と同じである。

「神仏は尊べどこれを頼らず」

だから占いの類も一切やらず、自分で道を開くことこそ、この世に生まれた意味であると考えている。そして最後は散骨してもらって終わりである。ミャンマー仏教のように墓は不要。現代人が墓じまいで苦労している姿は、なんとも異様に思えてならない。あるいは放置。

正直、占いをして何になるというのだろうか。ノストラダムスの予言のように、解釈でどうにでもなる抽象的なことを並べらえても無意味であるし、他人に頼って先を知りたいという状態そのものが自分の人生を生きていない。自分の人生を「当たるも八卦当たらぬも八卦」にゆだねることこそ、己を信じず、歪んだ方向に自らを導く行為でしかないのでは。

自分の人生、自分自身が生きなくて何のために生まれてきたのだろうか。

現代日本の仏教界。何もかも違うとみえて仕方がない。そこにいる人たちは今一度、襟を正し冠婚葬祭仏教から抜け出さねばならない。現代に織田信長は出ないだろうが、実はそれはよいことではなく結局自ら衰退していくのみである。

自分は職業僧侶に堕してしまっていないだろうかと振り返ることは重要であろう。

さらに広く言えば、政治屋や教育界に巣くう職業先生、患者よりも儲け優先の先生と呼ばれてふんぞり返っている医者や医療従事者も、自らの立ち位置を考えねばならないはずではないだろうか。

本来人を導くべき存在が宗教人である。宗教界が立ち上がり、日本の闇にメスを入れ、あるべき姿に変えていかねばウソであろう。

人を導かず、非課税に隠れて現世を満喫しているようでは、宗教の資格は無い。