なれ合い、妥協無しの本音ブログ

右、左、自称保守のどの立場にも属さないで自由に書く。時事、歴史をイデオロギー発想ではなく発信、コメント不要

世の中で一番難しいこと、それが「自由」になること

2022-06-08 12:22:34 | 考え方

自由。多くの人が憧れる言葉だと思うが、実はこれが一番難しいことに気が付いていない。その自由について、色々な角度から考察してみる。

七十而従心所欲不踰矩

孔子が70にして到達したという境地、これが自由である。だから難しいわけだ。

「心の欲するところに従えども矩を踰えず」こそ、本来目指すべき姿かも知れない。

しかし世の中は、自由らしきもので自由を勘違いしている。例えばイデオロギー発想がそうだ。わかりやすく言えば長年、特定の政党を支持しているような人たちは自由を放棄している事実に気が付いていない。それが本当に都度の選択の自由の結果なのか、単なる惰性なのか、洗脳されすぎているのかの違いが分からないのだ。

特に右翼、左翼、保守などを自認する、そのような政党(少なくても党是をみれば世の中的にどういう立ち位置なのかはわかる)を支持しているとは、視点が偏っているということである。自分は保守であるということをさも嬉しそうに話す人は気持ちが悪い。だからよく自称保守と皮肉って書いている。

自由人は特定のものに左右されない。この根本が抜けているのに、分からない。この自由が分かっていると、機械的にどこかに属しているのではなく、次の選挙ではそれまでの実績を色眼鏡なく見つめ、都度選択する生き方となるはずなのだ。

人は自分に甘い存在であり、一度信じてしまうと政治も洗脳型の宗教と同じ、異なるものを寄せ付けなくなる。異質なものを排除すること、その方が居心地がよいからだ。選択の自由はだれしも認めていることだろうが、離脱の自由になると急に難しくなる。

違和感があり抜け出そうかとしても周囲が強烈に止めるし、一番は違和感があっても何か理由を出してきて自分を納得させる、あるいはうやむやにして先送りするから、自ら抜け出さないこともある。

組織に長年属する人も同様。自分は色々な発想をしている「つもり」だが、相当偏っていることに気が付かない。だから時に「捨てる」経験は重要なのだが、長年いるとは立場と給料が上がっている場合が普通なので、ますます無理となる。

政治も宗教も長年やっているとその多くの場合、はっきりと指摘するが洗脳状態から抜けるのが難しくなるのだ。発想に柔軟性が無い老人は、老害でしかない。老害を自覚しないで一方的な表現をするからこそ、害の中の害なのに。

個人的には政治は20年定年制にすればいいと考える。正直言えば60歳を過ぎた政治家は全員いらない。妥協しても65歳までである。年齢が上がり、立場もある、いい大人は捨てることを一番知っているべきなのだが、執着の権化だらけである。長老議員で目がきれいな人はほぼいない、これがこの国である。

まだ働けることと、地域や国のために全力でやれることは全く関係が無い。多くの年寄りはここが致命的に分かっていない。企業や組織も同じ原理で、自分はまだ働けるということと、そこを良くできるかどうかはまったく関係が無い。

なぜ若い人たちにどんどんと場を提供し、チャンスを作らないのか。そこに誰かがいるから身動きが取れなくなっているのだ。その冷酷なまでの事実に目を向け、身を引くことこそ美しいと考えるのだが。

余生は趣味に金を使って生きることこそ、素晴らしい老後の世界観だとしか思っていない。もはや還元だけの生き方が老後であるべきと考えている。趣味に金を使う老人が増えれば、相乗効果でよいことがあり、それは世の中に立場を利用したような老害は存在しなくなることでもある。

政治は公の仕事であり、世の中おかしなこと、問題だらけ、間違いだらけなのが実情であるからこそ、公憤を持ち続けなければウソである。そして公憤だからこそ20年を超えて持ち続け、行動し続けるなど人として限界があり、不可能であろう。

政治屋ではなく政治家なら、潔く身を引くことが本物の証明である。そのために全力で20年働いたなら、年金支給すればいい。地方のため、国のために心身ともに行動し結果をだした人は、その後の人生を補償すべきである。

ところが現状はどうだ。庶民を苦しめる与党と、高額の給料をもらいながらコメンテーターでしかない野党、居眠り議員のオンパレードではないか。この国が長い期間をかけて悪化している理由がまさにここにある。

人は、似たもの同士の中にいると、ますます自分はこれが正しいのだとある種、正常性バイアスを働かせ納得させる。ここが自分の居場所であり、居心地が良い。

分かりやすく言えば、左翼側の人たちは軍備を否定する。例えば基地反対だとなれば、同じ考えの人が集まり同じことばかり言っていて、どんどんとこれこそ正しいのだと決めつけるのだ。そして異なる意見に耳を貸さない。

基地反対が、日本は自主独立し軍備を持つためだから外国の軍隊は出ていけ!となれば素晴らしいことだが、単に戦争反対、軍備反対が理由ならそれは違う。

都合の良い情報しか集めない。だから世の中、フェイクニュースに簡単に騙される人だらけになってしまった。

知り合いの話だが、この前まで真面目に畑をやっていたおばさんが、ある日突然、世の中は全て操られている、トランプ前大統領が革命を起こす、世界を根本から変える戦いをしていると本気で言い出し手が付けられなくなった人がいた。フェイクを信じるのも自由の一つだが、他人を巻き込もうとするのは自由の本質的な意味が分からない典型である。

政治や特定の思想の人たちが議論の場で耳を貸しているように見えても、実は相手の言い分をひっくり返そうとしか考えていない。これは左翼に限らずイデオロギー発想から抜けられない人たち、全員に共通することであろう。当然、寛容という言葉は死語でしかない。

長年特定の新聞を読んでいる人たちも偏っている。それぞれが意図を持った社説を掲載しているのであり、それを読み続けていると当然洗脳されているのと同じなのだ。繰り返すが本当の自由とは、特定のものに染まらないことだ。

朝日新聞を読み続けていた人がある日、産経新聞に変えるなどほぼ聞いたことが無い。どの立場にしろ、多くの新聞は本来のジャーナリズムを持ち合わせてはいないのが現状でもあり、それは危険な存在なのだ。

特にネット社会の今なら、右から左まで何でも見ることが出来るのだから、時代に合わせて変化する自分でなければそもそも自由ではない。当然、外国ではどういわれているのかも情報として持っていなければ、視点に広さは生まれない。

天使と悪魔が敵対しているとしよう。悪魔からは天使こそ悪魔にしか見えない。世の中、逆切れという言葉もあるが、明らかにそいつが悪いのに逆切れし、さらに状況を悪化させるのも自分に甘いからである。

自由ではない証拠こそ、他を認めないことなのだ。

こうして立場の違いで永遠に歩み寄れないのだから、だからこそ国内だけではなく世界が一つになる、特定の宗教で世界が一つになるなど幻想中の幻想でしかない。特に新興宗教は気を付けられたし。世界平和と何度言葉を並べても単なる集金の理由付けでしかない。

違うものは排除したがる。その表現の一つが戦争なのだ。つまり、戦争は無くなることは絶対に無い!

無くなるとしたらどこかがどこかを完全に力で封じ込めたときである。戦争の最終段階から後の話でしかない。これが世界の現実であるのに、軍備反対などと言っているようでは様々な形で侵略されるが答えとなる。

過去に悲惨な体験をした、だから戦争反対は理解できる。沖縄に何度も行っている当方はよく分かる。しかし戦争反対と軍備反対は全く意味が違うのであり、戦争反対なら軍備をしっかりしていないと、悪い国は存在するという事実に目を向けていない夢、幻でしかない。この違いさえも分からないから一律反対して現実世界から乖離していくのだ。

軍備を一律反対するのは論外である。武力を否定するのなら警察が武器を所持することも否定せねばならない。平和ボケの日本国内でさえ、いくらでも悪い奴はいるではないか。武器を持たずにどうやって制圧するのだ。

ひったくりのレベルでも相手が反撃してきたら警棒程度はいる。格闘技術も必要だ。もっと悪質な連中なら銃の使用も必要になることがある。現実を直視すれば、軽率に軍備反対は言えないはずであり、特定の考えに染まっているとその簡単なことさえ分からなくなっているのだ。

軍と警察は違うというのは詭弁であり、本質は人を傷つける武器があるか無いかの話である。

日本の歴史では、日本軍は悪いことばかりやったというのは間違いだ。立派な軍人は存在したし、命を懸けて家族を、国を守ろうとしたのは崇高な精神である。

しかしである。

悪い連中もいた、これも事実である。だから保守から右側の様に、何かにつけて軍神であるとか、日本の一番の目的はアジアの開放であるとか、理由を並べるだけでは発想が偏っているのだ。

今現在でも良い人と悪い奴が混在しているのに、なぜ歴史に関しては右か左かでしか語れないのだろうか。

大東亜戦争というだけで右のレッテル貼られるのも狂気だ。日本からみたら大東亜戦争で何がおかしいのかさっぱり分からない。日本の立場はアジアであり、列強の植民地状態のアジアの国々を開放しなければいけないと考えたのは事実である。

しかしそれだけではない。戦争は政治の一つの表現形態で、あわよくば日本に都合よくなるようにとアジアの開放を使おうとしたのもまた事実である。利権もあれば、国防の意味もあったからこそ、単なる善悪では語れないはずなのだ。

政治や戦争を単に一方からの視点で善悪、右、左、保守という立場で語ることこそ間違っているのであり、だからイデオロギー発想から抜けられないで政治や戦争を語るからいつまでも歪んでいるのだ。

そして自由が分からない人が民主主義を語っても意味は分かっていない。民主主義の重要なポイントは異なる意見にも耳を傾ける姿勢だ。そのうえで、政治で言えばとりあえずの行為として多数決のような形式をとるということなのだ。

特定の立場にたって、違う意見を潰しにかかることこそ民主主義が全くできない証明である。

同時の多数決の恐ろしいところは「数は力」の原理で、大衆迎合型、ポピュリズムになることなのだ。タレントが政治をやってはいけないということではない。しかし総選挙前になると急にテレビで見たことあるな、という人が出てくることは異常である。

特定のタレントがそもそも政治を目指していたのならタイミングだけの問題だが、そうではなく多少の知名度で票を集めようという発想そのものが腐りきっている証拠、民主主義をバカにしているともいえる行為でしかない。そしてそちらに票が流れればバカにされている人たちが本物のバカになった瞬間である。

民主主義とは最上のものではない、この当たり前のことから出発しなければいけない。民衆がある程度そろえば愚かな発想はしないだろうという希望のうえで、最悪ではないシステムというだけに過ぎない。しかし日本はその愚かな発想を続けているから、国は良くならない。

ところで根本的に、日本は民主主義国家、自由主義国家だと思っている人がいるかも知れないが、全部フェイクでしかない。

政治の幼稚さもある。なぜ、良くならないことが続くのに同じ政党が与党として居座れるのか意味が分からない。特定の利権のために政治が動いている証拠で、当然ながら国民全体が良くなるはずはないのだ。

アメリカがまだ日本より健全と見える部分は、政権が大きく入れ替われることにある。日本は壊滅している。たまに自民党の他に任せてみたら悪化した、つまり今の野党連中はいざとなると機能しないことで、多くの人はどうしようもなく同じ党を選んでいるようだが、それでは視野が狭すぎる。変えるとはリスクを背負うことであるが、変えないとはさらに重いリスクがあるという原理を十分に理解しておく必要がある。

いつまでも変えることが出来ないから、世の中には老害という言葉があるのだ。政治もまったく同じである。

特定の連中がいい思いをしているとは、その他多くがマイナス部分を背負っているに過ぎない。それが現在の日本であり、「生かさず殺さず」状態にされていながら日本は自由でいい国だと思っている思考停止こそ、政治と上級国民に食い物にされているだけ。

裏で薄笑いを浮かべた連中に操られていることにさえ気が付かない典型的な洗脳であるのだ。

さて、最初に掲載した言葉だが、孔子のたとえを理解するのは難しい。あえて言えば、車両の運転のようなものである。道路交通法で速度制限があるなか、どこに向かおうと基本的に自由ということに似ているであろうか。

散歩をしていて、どの道を進もうとも自由であるが、時には通行禁止や入ってはいけない公園の芝生がある。そういう規制があるなかで、悪態をつくわけでもなく自分の時間や好きなことに時間を使えるのが自由。

ところが自由とは行動や選択の自由だけではなく、心の自由が一番重要である。

ここが出来ないから多くの人が洗脳された団体、組織にしがみつき、自分を誤魔化し、本質の部分では違和感があっても、抜ける怖さがあるから無理にでも何かを見つけて幸せ気分で時間を過ごしていることが、本当の自由になれない一つの理由であろう。

日本人はどこに向かっているのか、皆、何をやりたいのだろうか。

多分、多くの日本人は、何も無いのだろう。

本当の自由を理解せず、自由ごっこで満足し、人によっては高級スパであるとかグルメであるとか美容整形であるとか、年齢が若いほど目先のことにとらわれ過ぎているように見える。それらは、人が生きる本質とは遠すぎる場所で「その自由」を謳歌しているだけに見えてしかたがないのは、当方1人だけなのであろうか。

責任が伴う本当の自由で、自分の時間を構築していき、そして大事な判断を特定の立場のこだわらずに行う。こういう生き方があるべき姿だと考えるのだが。