先ず霊長類でも、お猿さんではなくて博打打ちであるという高潔さへの発展性。
ベビーブームラッケジツゲンそのものをも平和主義権としての調和、秩序、いわゆるジュキョウやシュシガク。
アイのさんかざんまいパッケージブンそのものも、ベビーブームラッケジツゲンの坩堝とダンカイノセダイキンボシカテイノモンダイ。
そして、リョウシキハンザイベビーブームラッケジツゲンザンマイフウゾクショウにおよびつつもリョウシキジケンベビーブームラッケジツゲンアイニアイスギニピッタリカモゼアイカタオニアイゲキアイモウアイチョウアイガンアイバリアイキョウアイがタダシカッタンデスネの最終項目は飛車を乗り回してるらしい羽生さんを評した橋本さんの台詞で、名人になるべき裸体名人でもござった素人扱い米長さんのゴォニィギンという将棋のふきゅうとふきゅうのなりきんなるのは米長さんがなりきんという将棋の鬼に見えた瞬間も私はあったかも知れないしなかったこと、ときしかほぼなかった健全さしかなかったとしか思えないメモリアル時期にはいってるわ。
シーザー思い煩いしてるかも知れない私は、たまたま猿の惑星のニューバージョンの第1段を昨日初めて観賞会を終え、面白い映画という率直な感じを持ちつつ、そのお猿さんはシーザーだったのと、ブルータスというのがシーザーを軸にしたところの悲劇が悲劇から悲劇、そしてシェイクスピアですか、シーザーではなくてブルータスってのは。特にシーザーからの悲劇が、ブルータスからの悲劇としての悲劇の展開と転回にどうしても邪推しかないような私は、キョウアイではなくてキンアイだったと思い出したね。
「ゴッドファーザー・オブ・トラフト」
羆にはないその可能性とはどういうことか。
例えば一匹、一つの命を「命」と名付けるとする。
命というトラフトは、人間との関係性、認知、或いは認識論のステージ、テクニックでは、命という名付けさえもためらいがち