goo blog サービス終了のお知らせ 

2025.4 サトラレ感想13

2025-06-15 23:37:35 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2025.4.20

5:44

本日最初の(確定出来るほどの記憶力はないが)朝食会。ポテトチップスと発泡酒。

絶対助けるまで観る。

十度は観てるが、今回初めて泣かなかった。


6:30

屋上での抱擁の二度目か三度目まで観る。

10度以上観た前回に初めて里美先生はお手々を本当に屋上に叩きつけたのかの血を認めたが、それが前回の鑑賞会の記憶だと拳だと思ってたが第二関節に認められる。前回のその拳論をどこにも書いてないという記憶力は完璧でもある。今回初めて泣かなかったのは、今回初めて小松先生との抱擁がスタンディングではない僥倖によっておっぱいに顔を埋める里美先生いいなと思うことになった。今までは泣いててというより基本号泣レベルでそれどころじゃなかったが、冷静に己の本質的な鑑賞会の直感を実現するに当映画は10度以上観なければならなかったというわけである。


13:35

煙草がないと思って買い物に行こうと思うも1箱まだあったので買い物は明日にしようと思い、鑑賞会と食事会再開。

鑑賞会終了後、本広監督コメンタリー版鑑賞会開始。

贅沢だが、英語音声があると良かったと思う。号泣出来る映画だから、里美先生はジェームズ・スチュワート、小松先生はメリル・ストリープとかで。里美先生はオーソン・ウェルズもいいな。


2025.4.21

4:55

当映画鑑賞会で初めて泣かなかったけれども、ちょいと咳き込みで涙が出るもんだと思うほど咳き込む。ロマンチックだったら、きっとそれは映画で泣けなかった神様の思し召しで人間は涙を流すもの、それで涙を流せないったって、涙を流させるわけにゃぁいかんことぐらい神様はわからんのかと神様に問いかけたいほどだが、里美先生は無人島では神様は信じてないらしい時期と体裁とカレー作りは別としてテントでセックスもしなかったのか事後ということの暗示はあったのかよう分からんが小松先生がよっぽど神様だろうけれども、

とまで書いて、テントでは何もなかった、少なくても就寝はしたけれども、セックスはなかっただろう。シラキシゲフミさんとのきかん後の病院内での小松先生のつれない態度と、おれなにかわるいことしたかなぁ里美先生ということは、フェラチオとクンニすらしてないと、二人は潔白であると見るべきである。結ばれることを願う観客がいるからこそでもあるだろうか。漫画では小松先生ご懐妊辺りまでスマホ漫画アプリで最近読んだので一過性のことでもないことと、それは里美先生相手ではないから、小松先生は里美先生との関係、目的は果たせなかったが、やはり映画としての最後の里美先生と八千草さんの最後?をオクミノチョウ全体で守り抜くことはオクミノチョウの責務と誇りとしてはあるにせよ、小松先生は里美先生が内山理名ちゃんに渡したかったネックレスを最終的に身に纏うということは、役目を終えたわけでも、国家的財産里美先生との今後というよりも、観客に蟠りのないことを第一としたことと、恐らくこの件を書くのに珍しく数分想い悩んだが、書こうとしたことを忘れた。

いいよという年季、人によっては運動が入って忘れた。


範囲を先ず考えることにした。

オクミノチョウという範囲とネックレスという範囲。

そこから書こうとしたことを忘れた。

思い出せない。

オクミノチョウに70億人の人口だとか、小松先生がオクミノチョウに留まるだとか書こうとしなかったことを思い出すんだが、書こうとしたことだけを忘れた。


19:22

タバコを吸い終えたのでタバコを買いに行き、主婦のように葱をより新鮮、賞味期限が長いのを選別して買う。

久しぶりに目玉焼きとシャウエッセンではないがパリッウィンナーを一つで、包装米飯、牛乳、納豆で鑑賞会開始。花火大会の第二ステージだったかの開始場面まで観る。

ジンルイゼンギとはいかなるものかを一応初めて思う風を装いながら観る。

テイコクゼンギというのは相対的にそのようなことが可能であっても不可能である。テイコクゼンギは必須のテイコクゼンギだが。


20:29

アダムとイヴの獲得と生産を合算で数時間思ってる風を装ってもきたから、飽きてきたころあいで書く。

ジンルイゼンギのいっかんは、例えばサッカーならばマラドーナだけだと新鮮でもないし、そもそもマラドーナは近代的、近代的というとオランダのクライフ?とかのかも知れんけれども、クライフ以前はクライフを誰も見たことがない新しい時空間があるだろう。獲得、アダムとイヴだけの適用ならばリンゴへのそれは、基本としては殺戮、狩猟、搾取、冒涜、骨まで残さねぇ証拠隠滅、リンゴの命を尊ぶことなしに忘却の彼方への前進力、暴行、蹂躙などがリンゴに対してというタサツならば、それはジサツでもあるわけだが、それはリンゴであるというのはパイプが主流派だが、それらの基本を生産していかないとそれ以外に取り組めない奴等として、アダムとイヴならばダビデにしてもソロモンにしてもブッダにしてもアッラーにしても祖先という論理というか一応その辺りは大人の事情、大人よりもっと大人を大人という単語を大昔という同義語的な物語で、当映画の場合蛇に相当するシラキシゲフミのメデューサ論があるのかも知れんけれども、メデューザ論では排斥したと受け止められなくもない。そもそもリンゴを育てる段階の人類だから、自然にリンゴがある無人島であるはずもない。リンゴの樹があったところで、シラキシゲフミか他の動植物の獲得が生産に負けるし、移動がないと難しい生命大躍進としてでは、現代リンゴ論では青森県から富士だとか王林だとかが移動されてだとシラキシゲフミは不味いわけだし、移動がない極論だとシラキシゲフミが無人島でリンゴを人類として初めて認識しなければならない論理もなくもない。少し書いたから書くのは勘弁しといてやるか。疲れちゃうから。


2025.4.22

5:44

何時直前に食事をしたか確認しようとしたが書いてなかった。直近の食事会は包装米飯、納豆、水、サッポロ一番味噌ラーメンだから、恐らくは今日の午前0時辺りまで一眠りぶっこいて起床後に、小松先生が里美先生からプレゼントされたネックレスをしてない院内までを見た鑑賞会感想は特になかったから健康的な食事とともに、喫煙は今のお部屋の間取りでいうルームでは吸わないから、飲酒だともっと長く鑑賞会したから短い鑑賞会に過ぎたからでもあると思う。前回初めて当映画で号泣どころか涙目にもならなかったからもあるか、見飽きてることも一因で特にわざわざ食事会を充実させたい目的が深層心理としてあるのかも知れない。飲酒せずに鑑賞会だと食事の継続がないから痩せていくので、食事量への肉体の活動だろうけれどもうんちが出やすくなり、うんち保存量を調整している肉体だと思わなくもない。


6:27

包装米飯、納豆、目玉焼き&シャウエッセンではないけどパリッウィンナー(粗びきウインナーというやつだろうか)、味噌汁の食事会にて鑑賞会再開。

前回アダムとイヴまで観てたので、今回は里美先生が墜落事故で生存したということは衝撃でもなんでもない(ある意味国家的財産の人間が墜落事故で一人生き残る、ある意味サトラレだから声なき声によってスプラッター状態の現場から救助活動が里美先生の生存に繋がったということでもあるんだろうけれどもといったような基本ならばそれは衝撃として、里美先生が生き残ったことを知ることは衝撃にならないというか基本的社会性な人々として)小松先生へのカミングアウトから鑑賞会スタート。小松先生と里美先生の二度目の抱擁開始前までで食べ終えたので鑑賞会も停止く。


2025.4.23

19:33

昨日の食事会だったか、里見先生がばぁちゃんに担当医としての会話の場面まで見たから、これから包装米飯、鮭フレーク、まるちゃん麺づくりで鑑賞会再開。

号泣どころかうるうるしなかった前回同様、今回もうるうるしなかった。鑑賞会終了後、暇をもて余さない態度でYouTubeで好みの曲とかないか探していたら、ご懐妊判明での母体に発生したのが三つ子とか双子とかの動画で涙を流す。

まるちゃん麺づくりがそろそろ出来る頃だから台所まで歩いて2秒を生きなくてはなるまい。


20:13

鑑賞会終了。食事会も早く終わり、鑑賞会のためと食欲のためハムマヨネーズコッペパンも食べながら。

里見先生が屋上に上がってからは、再び落涙しちまった。

本広監督コメンタリー版だったので最後まで見たが、毎回思うのは、ヘアメイクの熊谷さんという方は、八千草さん本人のヘアメイク用の芸名なのか、八千草さんが誰にも渡さないヘアメイクさんなのか。

鑑賞会の感想というより、泣いたか泣かなかったかしかほぼ書いてないような鑑賞会の感想でござる。


20:31

イリョウケンを足りない脳ミソで少し思う。例えばレンゾクサツジンキを連続殺人鬼のワンコンプだけで指名手配というそれなりの確定があった場合、その枠の人民はそいつらを確保或いは脳漿をぶちまけないとならないから、ガン見しなければなるまい。喧嘩を売ってるのではなくて、連続殺人鬼を探し、そしててめぇじゃねぇという確定を繰り返すということならば、連続殺人鬼はまんこではある。ちんこながらまんこのワンコンプ。難しいのは存続として肉体がクラーク・ゲーブルだとかイングリッド・バーグマンだとかだと五体満足としてはあるがイリョウケンの発動としてを先手にしても羽を生やすとか鰓の創造だとかでも、人間そのものがイリョウケンによってという限りある時空間をより快適に、そしてより生存能力の向上というべきは、将来のクソガキどもが羽を生やす機会や鰓の場合復活なのか知らんがその成長、発展を喪失、死滅せしめなければならないと思う。陸上と海中よりも恐らくは空中で生きる、生きたところで発達のインテリでもクソガキでとねぇから分からんが、空中でのセパレートの発達と同時に進行するのが生命体のように思わなもなく、肉体そのものがセパレートというよりは、空中での肉体そのものがセパレートでもあるとか思うと、肉体が時空間とはどういうことかを昨日久しぶりに思うか思わないかの瀬戸際で生き過ごしたが、時空間になりたい奴はいねぇとしても人間になりたい奴はもともと地球にいなかった、最近のトレンドで書くならばgooブログは最初からあったかなかったかとインターネットは最初からあったかなかったかとかと論理では変わりないとか思うけれど、クソガキが時空間になれる、なれたとしても、風邪引いて不味いし、あれ?今日は何日だっけ?とかも不味いし、痩せても不味い。クソガキが時空間でその時空間で地球、そして生命大躍進があった場合、太陽系ということが人間としての特に時空間の根本的なロジックだと思うだけもある私は、人間としては爪が少し伸びた程度ですらクソガキは太陽系を思わないから思えるわけはない。太陽系が肉体にあることを望むクソガキはいないわけだし、それは最早太陽系でも人間でもないと言えばないんだが、クソガキの誕生がどういうことかと、それからのことのみならばクソガキが死ぬことだけは太陽系全体で阻止しなければならないこととしての対価、死をもってというのは特に今日日は労働とか学業とか男と女のラブゲームが本質的な自害と自殺の積み重ねということとしてはあるにせよ、クソガキの死を阻止することが太陽系にとって正当化が出来ないというか、クソガキの死を阻止するということは、太陽系の死を阻止出来なければ論理としては論理にならないのではないか。太陽系の死を阻止するということは、地球の死を阻止するということであるが、私はそこは恐らくは天と地程にインテリとクソガキと思考回路が、忙しくいきたことがない暇をもて余さない態度として異なるけれど、地球の死を阻止するということの正当化は人間も死を阻止しなければならない。人間の死を阻止するということは人間の存在、創造、実現がそれ以外の死の数の論理が圧倒的だとしか私は考えないし思わないけれども、お父さんの玉袋の中で精子でずっといたかった奴もいねぇわけだがとか書くのちょっと疲れたのと上手くは書けないが小学校低学年レベルの国語力も覚束ないことしか思い浮かばないから一時中断しとこう。クソガキ時空間論も随分思うか思わないかの瀬戸際を合算で数時間に及ぶ暇をもて余さない態度で生きてるだけのその数時間の思考回路を思い出しても意味はないが思い出せるほど書き留めるためでもなし、その過程に過程のためにでもあるから過程を書こうとすることを思い出して書けないと書けないから思い出せないというべきとして書くのを中断。

次は製作者コメンタリー版の鑑賞会予定。その次は俳優さんコメンタリー版鑑賞会も予定。計画的である。


2025.4.25

20:06

発泡酒を買えない金銭感覚が発達したのでプロデューサーコメンタリー版鑑賞会が殊の外断片的且つ短時間で何時から鑑賞会開始したか書いてないから覚えてないが3日前位だろうか。本日空耳かよそのチャイムかで一応メルカリで煙草のフィルターと巻き紙を買ってあるので届いたかも知れないと一眠りぶっこいてた幸せを思わない幸せから目覚め玄関まで五歩も歩いて活動し玄関開けたら誰もいなかった。

起きてから、鑑賞会再開と包装米飯、鮭フレーク、サッポロ一番塩ラーメン食事会。里美先生と小松先生のバカンス提案会まで観る。井上さん?の声はいい声だと思う。穢れてしまったとか会話では、米千粒を千人か数人にか育てるにしても状況ら環境の差違が異なるから千人に1粒では腹の足しにならないけれども、数人に間引きさせるための上塗り運動としても、その現在を回避させる基本並びに目的がないか喪失というよりも原理とは違うということとかを毎回思う。ホリベリンさん、ホリベロンがベター論もあったようだが、個人的にホリベポラップとかホリベレータムとかホリベナイン軟膏とかでもいいと思ったが、人柄がいい時期、枠としての、何となく井上さんは顔がかっこよさそうで、ホリベリンさんは三枚目な顔面と失礼極まりないことを思う。


2025.4 サトラレ感想12

2025-06-15 23:37:07 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2025.4.18

書いていて良いというこもないが、当映画の鑑賞会は1年前にしたきりだったのかと分かることはあると思った。

もはやたいらやがーりっくちきんはどこさんでもなくなったようだが当日賞味期限の半額を購入し、発泡酒、包装米飯で鑑賞会開始。日本語音声英語字幕で観る。おくみのはさとられでもってるようなものですかねぇからのタイトルロール?のサトラレで、少しうるうるしちまうようちなった。見飽きてる段階だが、無料動画の特にニコニコ動画はネーミング大賞を競っているのか、分からないのはとことん題名では分からないし、デイリーモーションのスマホアプリはちょっと難しそうなのでダウンロードしたきり。YouTubeで観たことのないセントエルモスファイアーを昨日だったか見始めてもあまり好みではなくて、よほど食事のお供がなくて当映画でいっちょ泣いとくかってなこって。

はなの飛行機事故では、最早思うよりも言葉にしちまう段階の私は、地球より飛行機が大きければ墜落はしねぇとか、それならばクソガキどもが日本ならば先ずは3800m超級までこぎつけて、ゆくゆくは大気圏、ちょっと屈んで新鮮な大気圏を味わいつつとか思うと、クソガキが宇宙にでばったところで、特にクソガキの目的はそれが目的というタンキケッセンとハンイケッセンとからよほどがちのインテリとクソガキに火に油を注ぐというよりも、最早太陽にバックトゥザフューチャーのカラフル石炭を補給ということにしてクソガキ運動会のうわぬりに貢献という奴等もいるわけだから書きながら書かんとして、鑑賞会再開すっぺ。


21:18

鈴木京香さんが病院の屋上に到着まで観て思い出す。静止画にしたので、野郎が三名いたが、ほぼ鈴木京香さんしか眼中にないので新たな発見ではある。

ヘリコプターが最初にも出てくるし、その場面でもヘリコプターから鈴木京香さんが降りるわけだが、その前に飛行機の子供じみた私の論理と共にヘリコプター論も最早思い始めるだんかいではなくて独り言の段階だった、凄い高所恐怖症というわけではないが、ヘリコプターは見てるだけでこえぇが、乗るのはもってものほかだが、私は個人的極楽論と同じく、私にヘリコプターが落ちないことが全てであって、他人だとか乗組員とか乗客とかの命は全く思い始める瞬間すら未だになと。私のどたまに直撃しなけても、ヘリコプターが墜落なんてのはそのソースだけでも恐怖ではあるが、私の肉体に墜落することしか毛頭頭にないからヘリコプターこぇぇ。


2025.4.19

14:38

里美先生は医者だが、個人的独走的警察権論、さっき寝起きに読んだ初めての生命論理のはしがきに、受精論がジョークレベルであるらしいことを読み、道筋は私は差程お門違いでもないなと思わなくもないと読みながら思ったが、生命論理の取り組む社会性皆無な私に意味など持たないし、風邪にしても、クソガキ、インテリ、チョッパーのような医者以外の部分的以外では、社会性としての医者は間違いなく二十歳過ぎであるはずだから風邪をひいたことのない医者はいるのだろうか?風邪の速さは医者の肉体よりも速いのではないかとか、医者もある意味ではクソガキどもの利益として風邪はひかない奴等でいてほしいという切実、重病人が出る際に風邪で寝込まれることほど切ないこともなかろう。里美先生がオペ中に汗ではなくて、鼻水とは言われたくはねぇだろう。病人相手に溌剌とした医者、死を間近な人民相手に元気一杯な医者は悪質なのか?警察権論のどうしてもワンコンプは悪質相手というか悪質結果待ちというか悪質因果論で、警察権論が良質であるというのはどういうことかというべきこととを、プロスピで三時になっちゃっう前に、安打イベントこなさないとエナジー使わなくちゃならねぇから急いで消化しなくちゃと真摯に取り組みながら思うこと屡々しらばっくれながら思う次第でござる。


15:10

クソガキのホラ、クスネ、コロシの本質は違うだろう。死のとこでも、医者に元気溌剌オロナミンシーというホラ、クスネ、コロシでありたいわけがある。医者が生前、社会性としての生前は死後からだが言葉通り国語のテストだと0点だが生前と死後でもクソガキの生前と死後でもその時空間の発生も消滅もない。元気溌剌オロナミンシーだけではわりにあわん双方としてはファイトイッパツリポビタンディーも必要か。どうころんでもろくでもない。元気溌剌オロナミンシーの尊厳を損なう物言いには出来るし、ファイトイッパツリポビタンディーが後付け、おまけのごとき扱いとして捉えられなくもない。話が逸れた。

逸れて何を書こうとしたのかよりも興味と注意が注がれて何を書こうとしたのか忘れた。


22:10

鈴木京香さんのセクシーショットまで本日二度目の朝食に観る。伊藤ハムパリッウィンナーが冷めないうちに書き終えよう。

イングリッド・バーグマンの心臓とか胃袋を観たい奴はほぼいないと仮定しながら観てもいたが、中野ブロードウェイで立ち読みかました鮮明度と記憶定着度のじろじろみないでだったかの題名の写真集、立ち読みながら新品の書籍ではあったが、最近読破した鬼滅の刃とか、最近読み始めたマッシュル?ちょっとまだ題名までは覚える気はさらさらないか、顔に限らんだろうけれども、アザーサイドは漫画で社会性もあったがんばりやさんもいただろうなとか、先ずは両手はねぇと難しかろうし、そもそも心臓が剥き出しの肉体でも難しかろうが、それとともに、別嬪にしてもイケメンにしても、それでは漫画すら覚束ないくさりがまのばーなびーが後をたたない奴等もいるとしてもとか思うまでは鑑賞会。伊藤ハムシャウエッセンより1個ウィンナーが少ない低価格は恐らくなんとなく1個少ない以上に低価格だとは思うし、パリッも基本電子レンジや、ためす道具がないがボイルとかよりは、フライパンでの調理が美味だと思う。それは好みもあるだろうけれども。伊藤ハムパリッウィンナーが冷めないうちに鑑賞会再開せねばならない目的があるからここまで書く。


22:20

鑑賞会再開して、書こうしたことの半分しか書いてなかったことを思い出す記憶力はあったと思い出す。

伊藤ハムパリッウィンナーが冷め過ぎるから特に書かないことの利益が上回るから書くのを止める。


22:27

里美先生と小松先生の抱擁まで観る。ちょっと前に喫煙しながら口にはしなかった、抱擁論理で、口にしたのはクソガキどもの体内に宇宙空間そのものがないと目的にならないとなると、クソガキどもの体外の時空間とはどういう時空間なのか創造出来なかったのでお風呂場を後にしたが、鈴木京香さんと和製ジャン・ギャバンは近しいように思う。別嬪さんではあるけれども、イングリッド・バーグマンを持ち出せば軒並みポンジンは完敗ムードではあるだろうけれども、事件は現場というのも、それぞれの正直さへの正直さとしての準備と実現だろうか。発泡酒が暖まるのも私の望むところではないから書くのを一時中断しよう。


22:38

ばぁちゃんうどん搬入失敗まで観る。

八千草さんは生来的にはサウスポーではないかと雑巾絞りで思う。


22:44

今回の鑑賞会で発泡酒2本飲み終わる。

ちょうど河原での小松先生がお役目を果たした場面まで。その前のばぁちゃん膵臓癌発覚で久しぶりに出る深浦さんは相当な別嬪だと思う。




2024.5 サトラレ感想11

2025-06-15 23:36:31 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.5.11

朝っぱらから、大好物過ぎる鹿児島県産ガーリックチキンを食べながら観賞会と、発泡酒飲みながら観賞会開始。

八千草さんの笑顔中の笑顔は、病院での里見先生と天鈴との場面のみではないか。

人間もほとんどそのようなもんだが、ある意味では、それが逆転しちまうのはやべぇさんこんぷの何らかのあいといのちとせいこうだが。

里見先生も天才、里見先生役も天才らしいし、副音声で天才と言われると天才なのかぁと思い込んで観る私は、里見先生の天才は、あくまでも里見先生以外の天才によってしかというような筋を書いていくほど私は基本原理主義ではないからいいとして、発泡酒が冷めるよりも、鹿児島県産ガーリックチキンが冷めるのが、頗る早いのが味覚の贅沢が落ちるので、取り敢えずそれが目的ではないながら、書き進める意味不明な私は、ちょいとそれもいいかげんのくせでもおめおめとつけとこうと思い込む。


河原観賞会中。

人っ子一人出張らない。

サルトルのちんかす程度の脳ミソの私とはわけが違うが、私が原爆ドームを初めて肉眼で捉えたときは、それこそ人っ子一人いやしなかった。サルトルのちんかす程度の脳ミソが30年近くアダルトビデオ命で何となく生きてるだけだったのがというのは、この映画の筋のみを汚すから止めといて、全員出張らないという、不存在を撮るということは力量だが、そこまで人様は暇ではないのではないか。それを力量とさせないというよりは、その違和感がないということの言語化のお手間はとらせんという類いだが。

いよいよ鹿児島県産ガーリックチキンが冷えるから観賞会再開しようと思い込み実行するほど私は、この点のみと後ちょっとは、素早い行動力がある。

と書いておきながら、追記。

里見先生さよなら会まで観賞会したら、寺尾先生の寝癖は、私の寝癖とはわけが違う、羽生先生の寝癖と同じ枠だと思い込む。

そっちの輩は、その身嗜みの暇の有無、身嗜みすらの拘りの有無が各々違うから、難しいというより、鹿児島県産ガーリックチキンが冷める焦りが今の私はあるので、観賞会再開しようと思い込む。

先生と言えば、特に面白くはねぇんだが、朝日病院の朝日先生は渡辺先生というか、何となく私より若造くせぇので渡辺竜王としとくが、渡辺竜王に似てると度々思うが、渡辺竜王を恥ずかしげもなく成し遂げるようにはなっちまったというのは、あっちの年寄りのおっさんらを、柄にもなく思い込むので、余計に私は全てにおいて、それよりは鹿児島県産ガーリックチキンが冷めることに焦りを感じるので、観賞会再開をしようと思い込む。

副音声で初めて知る、おみさんという名優が、美味しいところの全部と、一応最後のショウレイナナゴウをあのおとこのとりはあるが、そのぶぶんまで観賞会。

それはまさしく秋である。

春秋時代である。

と書いて観賞会し、里見先生が機関と帰還と基幹と期間を果たすのっけで、どうしても涙を流させやがるので、それよりにょういでござる。

鹿児島県産ガーリックチキンを乗せたお皿を洗うきっかけにもちょうど良いと思い込み、トイレへ行ってからお皿を洗うべきであるから、早速実行しようと思い込む。

お皿洗う前、うんち後、朝っぱらから発泡酒飲んでる気分で書くと、せんせいというかせんだいというのは、てめぇら以外の、もっと本流だとてめぇら以外のみの格好が本流だから、ある意味意味不明のぶんやの本流ひゅーまにずむってのはそれにあるのは、それであって、難しいのは、それ以外はそれ以外のみであって、お皿洗わないと鹿児島県産ガーリックチキンのあぶらっけが落ちづらくなるからお皿洗いに行くことにしようと思い込む。

お皿をきちんと洗って涙目を忘れた頃に観賞会開始。

里見先生のリョウシキキカンセツのワンコンプで、寺尾先生は寝癖ないことを初めて知る。里見先生との激務からの解放宣言とも受け取れるものの、どちらかと言えば余計なことは排除してのリョウシキキカンセツのインフラのスムージーのかんせいどと受け取れることにしておくことにしとくことがかんようかと思い込む。

そしてやはり深浦おういのじむのよりよくしわんこんぷがよくきくと思い込む。

そして涙目乾いて観賞会も束の間、八千草さんに里見先生が膵臓がんなんだという思念波で、涙目にさせやがるので、それは取り敢えず書く。八千草さんにとって膵臓がんなんぞはどうでも良いと書くと怒られるので書かないとして、その思念波によって、そのわんこんぷである里見先生に八千草さんは最初で最後の初体験たる、特には里見先生はお医者さん、簡単過ぎるとおなごが好きなようなお医者さんごっこだとか、お母さんごっこだとかでも、八千草さんは完全にお医者さんごっことしての最高水準を、それは完全にてめぇからをてめぇらからとてめぇらへの瞬間的な誇りはややもするとなまくらじょちょうかい、ぼんくらいくせいかというにそくのわらじの本質、本流があるけれども、そろそろ発泡酒が冷めるよりは温くなるのを恐れるあまりに発泡酒を飲み干すことを第一にしようと思い込み観賞会を再開しようと思い込む。

そして朝っぱらから発泡酒三本目で観賞会再開。

ちらちらいる白衣のおなごはエロい。

白衣のエロさの意味のなさの時空間による白衣なのか。喪服もエロいが、白衣もエロい。基本は喪服というより黒い特にストッキングはエロいが、白でなければ、ジェシカ・ラングばりの肌色もエロい。朧気ながら、たぶんジェシカ・ラングの肌色ストッキングというのはエロいと思い出す。


十度目からを何度越えたかどうでもいい観賞会終了。

エンディング曲はクリスタル・ケイと、最近再見してるジョーブラックをよろしくでのエンディング曲のレインボーソングのような、それほど当たり障りない礼儀正しはのじきじきかと思い込むも、副音声で度々語られたマツダの新車発表会は、それほど格好良いと思わななんだが、それをやってないことでやってるようにやってるという新機軸としてとまで書くと怒られる一方なので書かないことにしておくが、マツダというと、rx7というより、地球連合軍車だと思われるが、野球をどうしてもあっちの年寄りのおっさんらが強烈というか無視も外道、沿っても外道のようなものを思い込みがちの単なるサルトルのちんかす程度の脳ミソ風情としての私は、14番の多様性を、22番がかませたというのが、それでは14番としてはないとして、22番は確かにほしゅばんではないものの、投手としても、それはほとんど佐々木さんと高津さんだろうということながら、22番はんしんは未だによく知らんが、以外とライオンズの22番の微妙になるしかないたぶちくんらいんで、何となくプロスピでaランクカード当たっても喜ぶべきか悲しむべきか、はんしんは藤川さんは22番だろうか。それも優しさだろう。ほしゅばんでたぶちくんではかすむだろう。そのあいまいさは野球はやらんから、野球もというかプロ野球はやらん はずだがら、他のプロと納得がいくのがそれもあるというぶぶんとか書き始めるのが朝っぱらから発泡酒三本目の雰囲気であるが、そういうほんしょくの奴等のような根性は私はなはからはなまで欠落しかしてないので、よく知らんし分からないけれども、最近はもっぱら中国史がほぼ気分が悪くなるという素直な思い込みを素直になるようになりだし始めつつあるのを、如何に悟られぬようにしていくかという数日か数ヵ月か数年かどうでも良い思い込みの時期にしている私は、昨日麻布のみずほの口座を作れてればちょっと筋は変えられたなぁと思い込みながら、19円の残高で、維持費がひきおちねぇよというような、利息ということではなくて維持費のぶんやをそれほど頓着もしねぇんだが、通帳記帳で、可愛いポスター拝めたから文句はねぇんだが、この書き筋で書き始めた書きけつを忘れたほどに、朝っぱらから発泡酒三本目飲んでたらしい。

チャンプは私が生涯で涙量では文句なしの映画だったが、最近再見したら、欠伸もしなかったので瞳が乾いたまんま観賞会を終えて、どこで泣いたのかをてめぇで探る思いも芽生えたものの、当映画は未だ涙ぐむまでにも渇かずに落涙をかまさせやがる。

それよりもやはり人類としては、お魚さんをぶち殺しに出張るべきであったりお魚さんをぶち殺させるべきであったりと、お魚さんをぶち殺し続けるやくまわりちがいのちょうわに涙となると、それは当然然るべきではあるが、人によっては、お魚さんに涙すべきでありながらお魚さんをぶち殺し続けるという厄介なライフロジックを駆使かましとくのみのもさといえばもさもいるから、にょういでござる。

私のにょういが今は完全に勝るごめん。

私のにょういが今は完全に勝るむようでござる。


半日過ぎる。

途中、クソガキとインテリの欠落力は、私の欠落力に優ってはいないのではないかと、欠落力で思い込む張り合いというより、大人気ない思い込みもあったが、里見先生は、八千草さんというニジカイを重要視というサトラレそのものが、それは自衛隊、軍隊、突き詰めると飛行機、そして山に、その生存確率ほぼゼロのふじちゃくにおいてかけてる何らかを思い込むほどに私の脳ミソは、それ以外のきほんのなさきちのあいといのちとせいこうのじんめいがあるひとびとしゅぎのあいといのちとせいこうのおてがるついらくじつげんざんまい、かんたんにんげんかいてきざんまいでみなさまいきいききほんのなさきちだから暇でもない。

とまで書いておく程度にまでゆるやかな観賞会感想になり始めつつある。




2024.4 サトラレ感想10

2025-06-15 23:35:59 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.4.15

数ヶ月だったか、チェルノブイリの単行本の、とある箇所、そのページ全体も、難しかったので、読み進めずに、停滞思考での数ヶ月を過ごす。

自然と人類への負債という時点で、それは政治だが、天里の政治というのは、八千草さんのそれと同じというぶぶん。その見解と、その見解への見解で、楽観、楽天的という政治の本流の見解がさらっとそれはそれなりに述べられていて、天里は、八千草さんへ、その政治、楽観と楽天的というものを、八千草さんのそのなさ、八千草さんがそのなさ、八千草さんへそのなさによる(八千草さんは見たことないが、おへそはあるだろう。八千草さんへ、そのなさと、くどくてんをかくのはくどくてw)、天里の二重の基準のワンコンプがサトラレという映画にあるように思い込む段階に私は入る。

最早、天里と寺尾さんのりょうしききかんせつでのぶぶんより、天鈴のお尻に目がいっていまう私になったが、サトラレという映画も、クソガキとかインテリとかってのは、てめぇとかてめぇらとかの方が、よっぽどもっと何らかが何らかとして何らか映画になったとか、なるとか、できたとか、おこなうてめぇでありたかったというのはあるんだろうけれども、最近狩人と犬という、社会的に人気がありそうもない映画という個人的見解で私としては好きな映画はエアベンダーと双璧を成すほど好きというかとっても面白いということもないながら幾度も観賞会しているその映画を、久しぶりに観賞会した。

そう言えば、数日うんちがいっぱい出たのは、発泡酒飲みながら、お菓子とご飯を日頃より食べ過ぎだと思ったら、本日は、ネギを賞味期限過ぎなので冷凍、納豆は賞味期限過ぎても、そもそも納豆だからどうでもよいのでということに威力があったのではないかと思い直した。

うんちいっぱい出るので、お尻拭くのにトイレットペーパーをとっても優しくお尻に当てないといてぇほどである。

うんちいっぱい出ると、肛門の脇というか、ちょっと臓器なのか大腸なのかがぷくっとふくれるというか、ふんばりによってそのぶぶんの拡張があることを近年数度体験し、指で優しく押すと戻ることを体験したが、そう言うときは入浴時に限るので、入浴時が比較的少ない私は、今は未だそれすらもせずに、映画観賞会の感想を真面目ではないながら案外と書いている。


なら喫煙と、喫煙開始。

体の衰えというか筋力を極力付けないことに体の楽さ、特に左半身は極力付けないというより、筋力を意識、発達に体の拒絶さがあるから、筋力の低下によって、肛門周辺の筋力がそのような周辺事態になったのではないかと思い込む。肛門周辺の筋力の低下にきぃぃんしちまってますというか。


それに付随して、本日思ったのは、ダビデはどちらかというとたんしょうというのは、やはりダビデというより、ミケランジェロの男性諸氏への優しさではないだろうかと思い込みしつつ、ダビデがおなごを産んだならば、それはちんこの美しさよりおめこの美しさという、どちらかと言えば、ちんこにあるのではなくて、そしてダビデのお母さんのおめこがということでもなく、そして厄介なのは、それはミケランジェロであっても、ユウショクのそれとは、しかしそっちもそりゃぁでかいのはでかい。それはやはり、どたまとぽこちんの比率にしかないのではないか。あるいは見方だから、それはぽこちんよりどたまが遠いから、肉眼で見るべき当時のじばからならば、或いはぽこちんとどたまが同じ大きさに見えるということではあったのかも知れないと思い込む。

それは当然、天、神の見方でしか、どたまが大きく見えはしないと。

それは当然、人類という永続性のきほんのなさということでの、神のいんふらというか、人類と神は違うべきろんの優しい奴等と言えるぶぶんとしてのぶぶんはあるというぶぶん。


2024.5.9

本日、英語字幕と英語音声でジョーブラックをよろしくの観賞会を数日間で終了。

当映画のまつりごとのストーンブリッジまでを、英語音声があればそれほど重要ではないけれどもと思い込みつつ、英語字幕は表示で観賞会。開始45分間である。


2024.5.10

監督副音声で言われて観れば、里見先生が初市外地での十戒までを観賞会。

となりまちの祭りというよりは、特におなごだが、浴衣、和服というのに何らか瓦あるだろうか。

天鈴は、それでこそ里見先生のご実家にて、八千草さんとご対面ということになる。

八千草さんも世代とは言え、和服での普段着を全う世代であるが、天鈴だけは八千草さんも確信犯的にサトラレのような台詞のショットをいれてるのと同じに如実にせれが映画としてはインフラとともにあることをもって、里見先生がお医者さんとして立派になったことのきほんのなさきちが、天鈴の存在が、八千草さんよりも天鈴という存在によって八千草さんの里見先生への語りもせねば望みもせぬ類いの、特に重要なのは、里見先生も天才だが、それによる欠落の重要度。

和服でトイレってのはどうやるのか私は知らない。和服を着たことが私は無かったようだったことを自覚もした。


八千草さんが病院へ出張るまでを観賞会。

病院の看板というか天守閣は、度々出るが、監督副音声でCGだとの説明があったが、里見先生がいる場所に、看板の理解力は不要である情報量の多さという決め細やかさだろうと思う。

病院にまで行けば、その文字の豊富さを読めるが、そもそも病院だから、その文字の豊富さは来院の輩に意味はない。

一応きちんとした身なりの天辺ですということであろうと思い込むのがベターだが、その天辺に例えば無地だったり、文字にトラップをしこんでたりでは、ほぼ不味さを不味さで補う不味さが不味さになるときがあるやつはあるしないやつはないだろうか。




2024.4 サトラレ感想9

2025-06-15 23:35:28 | 映画鑑賞感想 これも意外とそれほど書いてなかった。

2024.4.7

祭りまで昨晩観賞会。

再開し祭りの終盤まで数分観賞会。


祭りということに、全体的な中盤がある。

せんびきやのよっぱらいしゅぎ。

一人の酔っぱらい。

法と国家。

運動会のいんふらのよりまっすぐさ。


とある運動会、二重の基準の運動会が各自お持ちだったような本日、夜まで眠りこけ、発泡酒を飲みつつ観賞会再開、遅れた家賃支払いとバタピー買いに行って、疲れたので、よく眠れたと思った。

癖付いた、鈴木京香さんのサービスショット場面、個人的に、浴衣とアダムとイヴがサービスショットというかセクシーショットだが、鈴木京香さんインフラというのは、鈴木京香さんのみが、サトラレと同じ心理のそれはインフラとしても良くても、それが、ペンダントに収斂されるとしても、それ以外の、それは八千草さんにあるのではないか。

八千草さんのそれは、終盤の病弱によるそれ(うどんを落としたのは、ペンダントのインフラもあろうが、八千草さんが天才児里美先生と向き合って会話していることをインフラとして撮ってないことと、その会話形式が、どうしてもそれによって、天才児里美先生が、八千草さんをサトレタ。膵臓がんをサトレタというより、八千草さんのそれをもって、八千草さんが天才児里美先生が外科医としてのそんぞくとそんぞくをサトレタ。天才児里美先生が。うどんを臓器としてのヘビーメタルはなかろうが、天才児鈴木京香さんというか天才児里美先生の手元から解放されたペンダントは、ウうどんであろうが、繋がる。繋がることでペンダントになる。うどんは繋がらない。手作業で繋がると言えば繋がるにせよ、八千草さんからの手元から放たれたそれは、繋がらないことのヘビーメタルと云うことだろうか。それの復活祭が、ペンダントとは異なりうどんというそれを私なら洗って食べるが、恐らくは食べずに生ゴミであるかも知れぬそれをある意味ではてめぇへのプレゼントではないながらも、もちろんそれはプレゼントされたわけでも、プレゼントならずが、それにより、本質的プレゼントをサトレヨ天才児里美先生であるから、八千草さんへの復活祭ならずというぶぶん。)とともに、何故天才児里美先生と天才児鈴木京香さんの最初の恋のスタートラインに、あらと、やはりそれはチーーーーーーーンという、その長さ。本来その長さにないそれは、八千草さんの台詞と、両親の声が、天才児里美先生と同質というよりせっきんじだい。

全体的な進行が、鈴木京香さんということでもって、八千草さんと、天才児里美先生のご両親の愛の成就、それは愛の成就とは言い難く、それが愛の成就とも言い難く。


そして、ひねり揚げ食べることにしながら、問題のうどんの件のたいじとたいじとたいじまで観賞会。

八千草さんの、恐らくはこの映画では最後のご自宅でのいんふらだが、うどんのたいじ全体主義というより、医学書ではないか。医学書と八千草さんが同化した。否、医学書と八千草さんが同化せねば、天才児里美先生の医学の本質的かたわらのいんふらということでもって、是が非でも、それはみうちのひいきめという、八千草さんがこれから寺尾先生にたまわるお言葉になるように、

とまで、書いて、脳ミソがたかが知れてるが、半端じゃなく回転した。回転しないけと。

天才児里美先生の能力上、医学書の知識が、八千草さんにあるのではないか。

問題は、基本がきかいかだから、難問というか難題の部分により天才児里美先生の能力上、八千草さんにあるというぶぶん。

難題が、天才児里美先生にとっての、それなりに避けて通れぬ八千草さんが、その成功の不存在という、毛沢東とはちと違うそれすらも、あと何百年だって生きられるという天才児里美先生が、うそはついてないといいはりいいきる八千草さんをして、天才児里美先生は、その一言に、うそがない。膵臓がんなんだということのそれにいんふらがあるかも知れぬそれは、そのうそにうそがないという天才児里美先生の一撃必殺、その件になるころには、既に天才児里美先生が病院帰還で泣き疲れてるから、一呼吸の落ち着きのあるぶぶんだが、恐らくは膵臓がんという存在のころしを、はかぬころしとしての膵臓がんごろしという、それなりのころしだろうということも、そのように観ることも可能ではあるといったぶぶんだろうか。

私は40年遅れて薬師丸ひろ子さんを、個人的に過ぎても理解したような納得を個人的にしつつあるが、目利きがやはりいて、アインシュタインも、てめぇのばかさかげんをまっとうはしてのそれといういんふらかませば、近年だと国内産ジャンギャバンがトレンドか知らんけども、天才児鈴木京香さんを理解出来た目利きがやはりいたということも、数分思い込む。

野郎に興味が薄いので、今回初めて思い込んだが、いんふらは、天才児里美先生と天才児鈴木京香さんと、八千草さんは別次元として、おみさんだと思った。

昨日初めてお名前知ったけども。

天才児里美先生、面倒くさいので、天里、天才児鈴木京香さん、面倒くさいので、天鈴と、天鈴がすげぇ河原(河原もすげぇということにしといて、基本天鈴がすげぇ。薬師丸級。面倒くさいので、薬級。)での語り合いで、八千草さんが、それはラストに天里が八千草さんをおんぶするわけだが、そのときのおみさんが、部屋のお外で立ってることを、天鈴が部屋の中で立ってることのいんふらにしてることにあるように観たと思った瞬発力を書いた。

寺尾先生の移動がものいわすということあるのかも知れない。


そして、天里が、病院からの移動、新車発表会らしかったが、それとしても、天鈴が激走開始まで観賞会。

天鈴のお尻を観てしまう。


観賞会再開。

今まで、泣くというより、未だに号泣の、天里きかんせんでの寺尾先生とのやりとりで、天鈴のお尻を観た今回というか、天鈴のお尻に夢中になった今回、号泣はおろか、初めて涙が出なくなった。


観賞会再開。

天里と八千草さんとで、涙ぐむ。

ここで今回初めて、その件で天鈴が覚醒、あるいは反社会勢力としての自覚になったのかという撮り方が成されていたのを理解した。

これもおみさんは、天里に向き合って立つほどタンキケッセンではないから、タンキケッセンである天鈴は、天里に誠実に、正直にあろうとすることが重きのように思った。


観賞会終了。

おみさんは、小木さん?

今回は、フライングで泣くようになってきた前回と異なり、天鈴のお尻に夢中になっちまって、遅ればせながら、手術前の天里と八千草さんから泣き始めた。

やはり、主語がしつこいんだが、ここぞで、命令形とかはそれでだが、主語なしがきくってのは、ある意味では、天里が、八千草さんから屋上への移動の静けさに、英語字幕はってると、それが引き立ったように思った。引き立ったのでそれほどでもなかった一度目の天里と八千草さんの病院での、随分タンキケッセンという、数分だろうという天里の旅路前の、ひとっこひとり真実として望みが存在していないという稀有な天里涙の行進へが、二度目の天里と八千草さんと、三度目の天里と八千草さんから、四度目の天里と八千草さんということからは、それが連続性をかますというあこぎな手法、家と病院の同化政策のじつげん。

俳優副音声で初めてロジックとして知ったのは、ラストの八千草さんが永眠という筋のソウゾウカンキせいさくは、私はそれを前回の観賞会まで一度も思ったことがなかった。もっと強烈に近い、八千草さんが天里の幼少期の単なる風邪?か知らんけども、そのおんぶが、ラストで見事に天里が八千草さんをおんぶじつげんによる、天里のじつげん、それからの天里のじつげんに、今までずっと最早そのようなことはそれほど思うこともないようにもなりながらも、それしか思わなかったので、新鮮な解釈、それが丁寧な解釈という奴等の品位だろうか。

天鈴さんは、走り方もカッチョいいが、お尻もカッチョいいと思った。

漫画での天里は、サトラレだと思ったことによる、サトラレが相手をサトラレと思ったことの天里までしか読めないスマホアプリで読んだが、天里の最初の回のみは、何れキンドルか、古本屋さんではちょっと探しきれないがあったら、1巻は購入しようと思ってることを思い出した。