元隊幹事 顕正会ブログ 活動30年ーなぜ顕正会を捨てたのか。

御本尊を偽造する顕正会は大謗法。戦争天災疫病は謗法が根本原因です。

【59】浅井会長の言う 日目上人が御出現は本当か。

2021-01-05 | 59】広布の時「日目上人が御出現」は本当か。
【59】日目上人が御出現は本当か。

“広宣流布の暁に日目上人がお出ましになる”とは、
日蓮正宗で古くから言い伝えられてきたこと。

(日興上人日目上人正伝大石寺版P445)

・浅井会長は、この日蓮正宗における伝承を盗み取っているだけで、
新興宗教の顕正会とは何の関係もありません。

・浅井会長は天魔に魅入られたためか、
“自分が生きている間に「日目上人が御出ましになる」”
と、本気でそう思い込んでいたようです。

・増上慢浅井会長が昭和50年代のある集会の時、
「本山の僧侶の中でこの人(が日目上人御再誕)かなと思って見ていましたが‥」
などと指導していたのを覚えています。
浅井会長自身が生きている内に御出ましになる事が前提での発言です。

“浅井会長が生きている内に”などとは何の根拠もありません
しかし私も、当時そう信じてしまっていました。

これは、浅井会長が、
日蓮正宗の伝承を盗み取り、魔の入った思い込みを混ぜた妄想
でした。
私もこの毒に染まっていた。

●“広宣流布の達成”や“日目上人御出まし”の『時期がいつ』とは、
大聖人様も御歴代上人も断定されていない
のです。
少なくとも浅井会長の存命中に達成される根拠は皆無です。

・浅井会長の魔の入った思い込みの妄想は次のような発言にも現れます。
(冨士平成5年2月号)
「まして、広宣流布の時には日目上人が御出現になるんだ。
“前生所持”の御方が御出現になったら(血脈相承が)断絶するもしないもないだろう」
「“前生所持”ということは大変なことです」
(P14)
「広宣流布のときには、まさに“前生所持”の日目上人が御出現されるのです」(P15)

日目上人に関して、浅井会長の言う“前生所持”などという法門、伝承はありません
浅井会長の魔の入った思い込みの妄想です。

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【58】平成2年6月 男子部千五百信濃町デモ行進のこと

2020-12-31 | 58】男子部千五百信濃町デモ行進のこと
【58】平成2年6月 男子部千五百名信濃町をデモ行進

浅井克衛男子部長(当時。現在失踪中)が信濃町の創価学会本部周辺のデモ行進を計画しました。
近くに慶応大学病院があることから、学会本部前はデモのコースに入れることができなかったようですが、学会の町と言っても過言ではない信濃町を顕正会の男子部がデモ行進を決行。

当日、明治公園に集結してきた1000名を超える男子部員が“御遺命守護”の鉢巻きをして整列、
朝礼台に立った浅井克衛氏が演説、説明を始めました。

この時、整列した男子部員の近くで、おそらく劇団員であろう10名ぐらいの人達が声を出して演劇の練習をはじめたのです。
するとある男子部員が「うるせぇなぁ」と言うと何人かの男子部員が口々に「うるせぇ」「しずかにしろよ」などと言い出しました。

この男子部員達、一人ではおそらく「うるせぇ」などと言うことはなかったのだろうと思います。
ところが、“御遺命守護”の鉢巻き、スーツ姿の1000名を超える男子部員の威圧感に気持ちが高揚し、
「俺たちを何だと思っているんだ!」
とばかりに“虎の威を借る狐”よろしく、何の関係もない劇団員に「うるせぇ」と凄(すご)むのです。

この時私は「何を言ってるんだろう、どこの隊だ」などと思っていましたが、
かく言う私も、奇異の目で見る沿道の一般の人々をしり目に、
横断幕を握り、拡声器に合わせて“池田大作を追放しろ”とシュプレッヒコールの声をあげ、
こぶしを空に突き上げて、そして行進‥。率先してやっていました。

顕正会の信仰に染まるとこのようなことが出来る精神状態になるのです。
謗法の毒に染まってしまいました。

こんな威圧的な行動をとる事が仏道修行のハズはなく、当然、成仏につながらない謗法です。
人の心を束縛する全体主義(顕正会の組織)は広宣流布とは何の関係もありません。

正しい日蓮正宗の信仰からみれば、
これ、顕正会員の精神が成仏への修行とはまったく違う“虎の威を借る狐”のような言動行動、
すなわち修羅道に陥(おちい)っていることがわかります。

日蓮大聖人様は、
「修羅道とは、(中略)
『若し其の心念々に常に彼に勝らんことを欲し、
耐へざれば人を下し他を軽しめ
己をたっとぶこと鵄(とび)の高く飛びて視(み)下ろすが如し。
しかも外には仁・義・礼・智・信をあげて下品の善心を起こし
阿修羅の道を行ずるなり』文」
(十法界明因果抄P208)
と仰せられています。

戦い戦いに明け暮れ、
組織内の優劣競争に明け暮れる
顕正会幹部の精神は修羅道そのものです。

さらに大聖人様は
「経(法)と仏と僧との三宝誹謗の大科によって、
 現生にはこの国には修羅道を移し、
 後生には無間地獄へ行き給うべし」
 (光日上人御返事P1566)
と。
いずれ浅井会長も、顕正会員も、
現生には修羅道、
後生には無間地獄となるのでしょう。

浅井会長は、創価学会も一時に亡ぶと云い切っていました。
あれから30年が過ぎました。
しかし、創価学会が健在なのはどうしたことでしょうか、

浅井会長は結局、
自分自身を讃嘆させ続けるために、
顕正会の存続をはかり、
学会や日蓮正宗を利用して、
ウソのストーリーを作る。

第六天の魔王に魅入られた浅井会長は、
顕正会員を
日蓮正宗と戒壇の大御本尊様から
遠ざけ、いつまでも浅井会長を讃嘆させるために
顕正会員を引きづり続けているように思えます。

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【57】正本堂完工式 招かれた神父は外交官か?

2020-11-26 | 57】正本堂完工式 招かれた神父は外交官か?
【57】正本堂完工式 招かれた神父は外交官か?

御登山させて頂くようになってから9年がすぎましたが、
御登山の折、本山で1~2回、
元顕正会と思われる方々と行違うときに、
「招いたのは、バチカンの外交官として‥キリスト教の神父ではない‥」
「日亨上人も『‥禁制におよばぬ』と仰せになている‥」

等の正本堂完工式の話を耳にしました。

先日も、
会話の内容からして、
元顕正会員と思われるグループの方達と
すれ違いました。
そのグループの女性が
「ニセ本尊はよくて、キリスト教の神父招いたのはダメなんだって‥」
と話しているのが聞こえてきました。
おそらく、
この女性の方が顕正会員を折伏した時、
相手の顕正会員がそう言ったのでしょう。

元顕正会の方々の中には、
「招かれた神父は外交官として列席したので問題ない‥」
「神父を完工式に招いたのは宗門」

と思っている方が多数いるのでしょうか。

もし、そう思っているのであれば、
これは、
日顕上人の御指南とまったく正反対の、
謗法容認の誤った認識をしていることになります。

日顕上人の御指南を抜粋して記します。

『新潟布教区御親教の砌』平成5年6月27日
登座以来、この池田大作をなんとか正しく導きたいと考えてまいりました。
しかし、我見をもって大聖人様の御仏意を阻害し、民衆中心ということだけを仏法の骨組みにした場合は、これがとんでもない考え方になります。
それが、あの正本堂の完工式の時にキリスト教の者を招き、
しかもキリスト教の法服を着けた形で正本堂の中に入れた
り、
あるいは今日に見られるような内外(内道外道)一致の行動となっているのです。
※内道(仏教)
※外道(キリスト教、神道、新興宗教等)

『北陸布教区御親教の砌』平成5年6月20日
 池田大作は
あの正本堂建立の時に、世間迎合の色々な姿の中から、
バチカンのキリスト教関係者をその祝いの席に招いております
この一つだけをもっても、
あの大作という男の考え方のなかには、法が一切の根本ということでなく、むしろあらゆる謗法を招き寄せながら、
結局、世間に迎合する形のなかで仏法の流布を考えておるところに、その根源的な誤りが存しておるのであります。

『第35回寺族同心会の砌』平成5年5月28日
すべては根本が大事であります。
池田大作は
御本尊についても誤り、戒壇についても誤りましたが、これらの元はすべて、根本が解っていなかったのであります。(中略)
それが、正本堂建立の時にキリスト教の僧侶を招く考えとなったのであり、
今日においても、内外(内道外道)一致以上に、キリスト教の者達をも尊敬しながら仲良くやっていくというような、大聖人の仏法の根本から外れた姿となって現れてきておるのであります。


67世日顕上人は、
外道(謗法)である法服を着たキリスト教の僧侶(神父)を正本堂の中に入れた
キリスト教の僧侶(神父)を招いたのは池田大作である
 と、明確に仰せられています。

「日亨上人も『‥禁制におよばぬ』と仰せになている‥」
これは、日亨上人の「日有上人化儀抄註解」の仰せかと思われます。
『‥禁制におよばぬ』の箇所(冨集1-P156)、
日亨上人は次のように仰せられています。

『散供(さんぐ)まいらせ』通例御賽銭と云うもの
此の時代では通貨でも米でも仏前に蒔き散らすが普通の例であった、
此は丁寧なる儀式ではないが
却って信謗の区別なき一般的のもので
順縁とも云うべきであるから禁制におよばぬ
と(日有上人は)仰せられるのである。
・日亨上人は、
通貨や米を蒔き散らすのは普通の例で
信じている、謗っている、の区別のない一般的なもので、
順縁とも云うべきであるから“禁制におよばぬ”
との仰せであって、
67世日顕上人御指南の如く、
正本堂完工式のキリスト教神父は、
招かれた謗法ですから、
明らかに一般的なものではなく、
日亨上人の“禁制におよばぬ”にはあたりません。

・ですから、
「キリスト教の神父招いたのはダメなんだって‥」
は当然です。
言うまでもありませんが「謗法厳戒」は大聖人様の仰せです。

・この時、宗門の御僧侶方は、
池田大作が正本堂完工式にキリスト教神父を列席させた事を
まったく知らなかったと思われます。
・まるで宗門が神父を招いたかのように言う浅井会長の謀りに
皆さんダマされないように。
(参考:【14】「キリスト教神父を招く」の実態・冨士の解説から☜Click)

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【56】大聖人様への“忠誠心”は本当か

2020-10-23 | 56】大聖人様への“忠誠心”は本当か
【56】大聖人様への“忠誠心”は本当か

浅井会長は、
「大聖人様への忠誠一筋」と云っています。
組織でも
この「忠誠心」を語っている幹部を
よく見かけました。

私も、班長になりたての頃、
幹部から『忠臣蔵』を例にして、忠誠心の話を聞かされました。
(忠臣蔵の概要は、記事の最後にあります)

幹部がどういう話をしたか、

妙信講(顕正会)員は、仕事の立場は世を渡る仮の姿。
“一朝事あらば”
どこにいても、何をしていても
急ぎ本部に駆けつける。
これが妙信講(顕正会)の男子部なんだよ。
と。
あるいは、後に男子部長になったE村氏などは、
寝ていてもすぐ起きて駆けつけられるように、
電話(当時携帯電話は無く電話回線につながった黒電話)
を枕にして寝るんだよ。
(もっとも、ハッタリの発言で、実行している人はいなかったと思う)
とも。

昭和50年代、
男子部の、ことに班長以上には、
こういった話が(組織によって違いがありますが)
伝わっていきました。

平成に入り海老原男子部がつぶれた後、
私らの組織に、
隊長になって来た城衛君に近い某氏が、
この「忠誠心」とは何かを教えるという。
そして、
浅井先生も毎年年末には観ているんだと
準備して来たのが、“映画忠臣蔵”のビデオです。
この“映画忠臣蔵”のビデオを、
隊で集まってみるから、
結集をかけてほしいという。

当時私の組織の中には群馬(中之条)の人達もいましたが、
忠臣蔵のビデオを観るためだけに、
板橋のときわ台まで来いという。
隊の他のメンバーも、
皆、大変だと思いながらも、
隊長が言うから仕方ないと集まってきました。

ところが、
この「大聖人様への忠誠心」とやら、
成仏への仏道修行とは
まったく関係のない
浅井会長の邪義。

この「大聖人様への忠誠心」、
大聖人様の御法門のどこにもありません。
浅井会長が勝手にに作った顕正会のみに通用する思想です。

その顕正会の思想「大聖人様への忠誠心」の象徴が、
忠誠心から敵(かたき)討ちし、
覚悟の切腹をした
忠臣蔵の赤穂浪士です。
(別な話で、天皇への“勝手な忠誠心”から、
戦前の右翼、国粋主義者達は
常に自決や死を意識して活動していました。
天皇を崇拝する浅井会長にはこの傾向も見受けられる。
この国粋主義は、敗戦という現実となり
国家を破滅に追いやった)

浅井会長は
この“忠誠心”に執着し、
顕正会の信仰、思想の源にしているから、
浅井会長演説の要所で
解散処分のころは
「腹を切る」
「流血の惨を見る」
と、
解散処分後は
「この戦いに命をかける」
などの思想指導が出てくる。
私(浅井会長自身)は“死”を覚悟して戦っているんだと
自信を美化し、無意識のうちに会員が浅井会長へ忠誠するように洗脳する。

この顕正会の「忠誠心」の信仰”が深くなると
忠臣蔵の赤穂浪士や
戦前の国粋主義者がそうであったように、
常に「戦い」を意識し、「間に合わない」「なまぬるい」と
緊張感や修羅の心で殺伐としてくる。

そして、
顕正会員は
その“戦い”の息苦しさや緊張感から
早く解放されたくて、
「広宣流布は近い」などと
浅井会長の口車に乗せられ、

『この先には「極楽浄土」があるんだといって
死も恐れず行動した戦国時代の念仏者』のように、

ありもしない「顕正会の広宣流布」を信じ
忠誠心の赤穂浪士と同じように、
自分の生活や家族を犠牲にして活動しているのです。 

ことに幹部は、“戦い”を進めることへの
強い責任感が生じて、
“戦い”が息苦しくても、
組織の人を前にしては、正直に苦しいと言えず、
「常に前向きな姿を見せなければ」
と装わなければならないため
役職に応じて息苦しさが増してくる。

さて
こんな、
上からは「なにをしているんだ」と詰められ、息苦しさと緊張感の戦いが、
日蓮大聖人の仏法、でしょうか。

信心は、忠誠心ではありません。
忠誠一筋などとは、浅井会長の邪義です。
成仏できないだけではなく悪道に堕します。

日蓮正宗大石寺に伝わる
大聖人様仰せの修行でのみ
即身成仏させて頂けるのです。

顕正会は、忠誠心などという
浅井会長の邪義を信仰している故に、
即身成仏の意味もわからず、
勝手に想像して、間違った修行をしています。

そして、仏国土の実現も、
衆生が成仏すれば、依正不二の原理で、
その衆生の住む国土は仏国土となるのです。
浅井会長の云う国立戒壇など一切関係ありません。

顕正会員の皆さん、
浅井会長は御本尊を偽造しています。
“偽造された本門の本尊”では成仏に至る修行になりません。
それどころか堕獄を恐れなければならないでしょう。
成仏を目指すのであれば、
顕正会の謗法を捨てて、日蓮正宗に帰依し、
正しく行じる以外にはありません。


『忠臣蔵』史実の概要
江戸時代、
浅野氏という大名が、
殿中での作法を教えてもらえず
恥をかかされそうになったと、
作法の指南役、吉良氏をうらみ
江戸城内の殿中で斬(き)りかかった。
当時、将軍の居る殿中で刀を抜くことは
重罪にあたり、浅野氏は切腹させられ、
浅野家は取り潰し。
浅野家の家臣やその家族達は、
城を追い出され浪人の身となる。
しかし、
家臣達は主君浅野氏への忠義の心があつく、
いつの日か、
指南役の吉良氏を殺害し
切腹させられた主君浅野氏の“かたき”を
必ず取る。と固く誓い合う。
(この家臣達を赤穂浪士という)
赤穂浪士は、長年、江戸の町民となって生活し
吉良邸への討ち入りの日を待つ。
そして、待ちに待った討ち入りの日を迎え、
町民の姿を捨て、具足を身に着けた赤穂浪士は
夜半に吉良邸に討ち入り、邸宅を守る武士を倒し、
吉良氏の首を取った。
当時、主君への忠誠を尽くした決死の敵討ちに、
赤穂浪士に同情する声も出てきたが、
結局、吉良邸に討ち入った赤穂浪士は、
切腹に処せられた。)



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【55】妙信講三万達成“記念の盃”

2020-09-27 | 55】妙信講三万達成“記念の盃”
【55】妙信講三万達成“記念盃”

前回の元広島支部長の記事【54】を受けて、
( 元広島支部長の記事 )⇐Click
昭和53年、私が妙信講に入った時の様子を少し。

昭和53年10月、
創価学会の地域の幹部だった母に誘われ、
(母はすでに妙信講に入っていたが黙っていた)
数名の学会員とともに、
ときわ台の本部会館におもむきました。

本部会館の会議室には小園江通睦(故人)新宿支部長が
(会議室の奥に会長室があり、壁一枚向こうには浅井会長がいた。
小園江氏は後に妙信講の筆頭理事になる)
待っており、見事な口調で、
妙信講の主張を訴えるように話されました。

まず「国立戒壇」の内容を変えた浅井会長の邪義。
(参照【1】国立戒壇の「名称」は同じでも日蓮正宗と顕正会では「内容」が違う)☜Click

そして、多々話があった中で、
「昭和56年は、
 大聖人御入滅七百年の七百年御遠忌に当たる」
この、
昭和56年までに、
 ・御遺命守護の完結
を成し遂げる。」
「昭和56年までに、
 ・五万を達成する。」
と『妙信講の使命』を、力説。

しかし、
元広島支部長のT田さんが妙信講に入った
4年前(S49年)には、
『妙信講の使命』として、
<昭和52年8月>までに
 ・御遺命守護達成(完結)

「昭和56年までに、
  <・十万達成>」
と云い続けていました。

小園江支部長は、解散(S49年)前に妙信講に入信しています。
当然このように云い続けていたこと
そして浅井会長が無惨にも変説したこと
を知っているハズです。

また、本部会館の
「妙縁寺重宝」の御本尊を
浅井会長が
「<十万達成>御祈念の大御本尊様」と
命名していた事も知っていたハズ。

ところが、
この小園江支部長も、
「熱原の法華講衆の証として絶対昭和52年8月に御遺命守護達成」
とまで云っていた事を
ひた隠しに隠して、

まるで初めから『妙信講の使命』が、
「・昭和56年、御遺命守護完結」(昭和52年8月を変えた)
「・昭和56年、五万達成」(十万達成を変えた)
であるかのように、
ウソをつき
力強く確信に満ちて、演説するのでした。

しょせん浅井会長の邪義邪念から出てくる
『妙信講の使命』です。
日蓮大聖人の仏法、広宣流布とは関係がなく、
国立戒壇の名称や、日蓮大聖人の御名前を使っても
その中身内容は浅井会長の邪義邪念です。

ですから、恐れげもなく
都合が悪くなると一切なかったことにする、
妙信講当初から浅井会長の手口のようです。

しかしこの時、私は、
まさかそんなことがあるとは、
想像する余地は、まったくありませんでした。

さて、
小園江支部長の確信に満ちた話しぶりに
感服してしまった私を含めた数名の学会員は、
浅井会長の邪義をすっかり信じ込み、
その場で妙信講に入ってしまいました。

浅井会長に心を絡(からめ)取られた瞬間でした。

恐ろしくも、
次の日からはもう妙信講員として活動し始め、
2ヶ月後のS53年12月には、男子部の班長になります。
この時、
「私も妙信講の班長なんだ」という
“誇りと自覚”が出てきました。
浅井会長の命が写ってきたのです。
「妙信講は特別な使命をおびた存在だ、
 自分はその男子部の班長なんだ」と
邪義を信仰し、慢心が増大していきました。

この役職に対する“誇りと自覚”が生じた時から
浅井会長の害毒が一層深く、
心を支配し出した様に感じます。

この頃、
妙信講(顕正会)の日曜勤行や毎日の早朝勤行は、
浅井会長が出て来て導師をとっていました。

日曜日は勤行の後、
男子部の班長だけが残され、
御宝前に向かって右の奥に座っている浅井会長に、
班長一人一人が、
「誓願○○名、現在○○名、××日までに必ず達成します」
という具合に報告と決意を述べます。

当時は、一隊から十隊の10ヶ隊。
隊長が御宝前の最前列に一隊から十隊まで横一列に並び、
その後ろに各隊ごとに縦一列に支隊長、班長がならびます。

男子部長が第一隊と掛け声をかけると、
縦に並んだ第一隊の隊長、支隊長、班長が起立し
前に座っている浅井昭衛に、一人づつ前述の報告と決意を
述べるのです。
これを最後の隊まで繰り返すのです。

あの浅井会長に向かって、
このような儀式を繰り返していくと、
さらに毒気が深まっていきます。

その後、
妙信講の勧誘は、
達成の目標が“十万”から“五万”と半減した為か、
昭和54年11月に三万の勧誘を達成してしまいました。

「三万達成記念の盃」が、班長以上に配られました。
・日蓮正宗妙信講

・三万世帯達成記念

・昭和五十四年十一月十五日

・盃の中 鶴丸





しかし、
この頃からすでに、
浅井会長は
「大聖人様七百年御遠忌の
 昭和56年までに 御遺命守護の完結」
を言わなくなっていました。

やがて、
浅井会長は、
妙信講の使命と云っていた、
「御遺命守護の完結」の目標を、
まったく消し去ります。
もとより、
顕正会は
邪宗教に成り下がってしまったので
正本堂解体など、
日蓮正宗の出来事とは、
まったく無縁な存在です。

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【54】「達成の日」変わるのは解散の頃すでに(S51年元支部長記)

2020-09-12 | 54】「達成の日」変わるのは解散の頃すでに(S51年元支部長)
【54】「達成の日」変わるのは解散の頃すでに(元妙信講広島支部長の記事)

●浅井会長は、
・「あと25年(平成19年)で、広宣流布」(S57大総会)
・「平成22年までに一億」(S61大総会)
・「一千万は、平成25年までに成し遂げる」(H10記念大会)
・「三百万、男子部十万結集、平成33年・2021年までに成し遂げたい」(H21長野エム)
と、
 大聖人様の御名を使って断言した事が、
何の説明もなく、無惨に変えられていきます。
浅井昭衛氏のこの手口は、昔からのようです。

●「元妙信講広島支部長の記事」を紹介していきます。

※記事:「妙縁寺様発行破邪新聞昭和51年12月3日号より」
※()内記述は、ブログ管理者が付与しました。
私は来年(昭和52年)の八月に注目する
御遺命守護は完遂するのか
  元広島支部長 T田さん

 妙信講は昭和49年8月宗門より除名処分に附された。
その後、浅井は
「本日より早ければ1年、遅くとも3年後の昭和52年8月までに御遺命守護の達成」
と、総幹部会・総会等において発表、また顕正新聞、冨士等に載せた。
 当然全幹部全講員はそれを旗印とし、3年後の真実として受け止め、
大進軍を開始した、と我々広島支部の者は信じた。

 正法七百年間、宗門の渇仰した広宣流布への道が切り開かれるのだと広島支部員は、
末法今時、この大事業へ会い得た喜びを語り合った……
 それは入講間もなき我々は只ひたすらに妙信講を信じていたが故に、
かつて、その度毎に目的を変えて来たという妙信講の実態知らなかった故だったが…。

 私はここ三ヶ月に数十名の旧広島支部員に会って来たが、
妙信講を脱講させるに及ばなかった人達の云うことは、
大体同じ様な答えが返ってきた。

「T田さんとは会うなといわれている。
電話が来ても、すぐ切りなさいといわれるし、
手紙が来た時も回収に廻ってきた来た。
だから絶対に会った事にしないでくれ、
私は御遺命守護が達成するのを見たい。
だから昭和52年8月までは妙信講にいる」

というのである。
 振り返って過去二年間をみれば、
この人達の表現には、うなずかせるものがある。

 何十回かの座談会において、
長岡青年部長が、支部長である私が、そして寺田支部幹事が、各支区部長が、
何度昭和52年8月の絶対御遺命守護の達成を語った事か、
これは
「妙信講が正義の講中なるが故に、
否大聖人様に命ぜられたる所の熱原の法華講衆の証として
絶対昭和52年8月に達成」
が朝な夕なに語り継がれて来た不文律でもあったのである。

又ある支部員は、
こうも云った
「あと1年足らずの戦いです。
あの浅井先生がウソをいうはずがない。
絶対に来年の8月には達成されます。
泣きを見るのはT田さんですよ」と。

 そういえばそうであった。
全支部員は昭和52年8月に全信心を賭けていたのだった。
 日限を切って正邪とする妙信講の強烈さが
御遺命守護の決戦場、
広島支部を振るい立たせた、最大の因であったのである。

 又ある幹部はいう
「妙信講の法義の正邪は知らぬが、
人生に於いてある何かを信じ、
その日時までは、
正義か、否かの決着は待たねばならぬ。
それは52年8月だ」

と、来年8月まで待たねばならぬという。

 庶民の幸せへの願業を賭けた信仰という、
いのちの叫びが、今、
この人達の胸奥を隙間風のように
吹きぬけて行っているのである。
 来年(昭和52年)の8月、私はこの日を忘れ得ぬだろう。
高知の人も、大牟田の人も、そして全国の妙信講員と共に……
忘れ得ぬだろう。

来年(昭和52年)の8月には御遺命守護の達成か否かの決着をつけなければならない。
浅井氏等全妙信講幹部は、この来年(昭和52年)8月の日限をひるがえしてはならない。
もし達成せぬ場合は自らの非を認めねばならない。
そして妙信講員は妙信講の非を認め妙信講を脱講し、
猊下の御指南を仰ぐべきである。
なぜならば、
みんなその日を目指して進んで来たのだから。
それは八か月後の(昭和52年)8月である。

日限を切るといえば妙信講は
過去十回に近い訂正がなされてきたのであるが、
我々広島支部員がはっきりと知っているは、
この2年間に二回である。

一回は、
前述の“御遺命達成の日限”を最近いわなくなった事だが、

あと一回は、
今年(昭和51年)の5月22日までいわれてきた、
“昭和56年十万達成”が、

(昭和51年)5月23日の十八回総会で浅井氏は、
昭和56年までに5万達成と表明(十万から五万に変わる)し、
実に5割の値下げをしたことである。

昭和48年12月22日午後2時、妙信講本部会館落慶入仏式が行われ
「十万達成御祈念の大御本尊様」が安置された。
その時挨拶に立った浅井昭衛氏は、
「大聖人御入滅七百年の年である
 昭和五十六年までに
 絶対十万を達成する」
と宣言した。
これに答えて、
当時青年部参謀だった長岡氏は
青年部代表決意として
『……先生より
「日本の傾き、いよいよ急、
青年部の国士集わば
一国諌暁の序戦に立たん」
 との命を受け、
昭和51年12月に、男子二千、女子二千
の結集をなし、
もって先生の号令一下
一国諌暁の序戦に立つ事を誓願致しましたが、
只今、さらに大御本尊様にお誓い申し上げました。
本日を契機に逆算の厳しき戦に入り、
必ずや三年後(昭和51年)、先生の許、
本部会館を三千の青年の信心で埋めつくし
先生の一国諌暁の露払いとならんとするものであります…』

と、語っているが、
いよいよ目前にせまった昭和51年12月に、
青年部三千名の結集がなされるか
みつめてゆかねばなるまい。

(“昭和56年十万達成”は)
 昭和48年以来、
「足かけ八年、まる七年、『断固十万達成』」
を叫び続け、
「五十六年、十万達成御祈念の大御本尊」
(ときわ台の旧本部会館御本尊)
とまで命名した浅井昭衛と妙信講が、

「(あと)七年で断固十万達成」と宣言してから
わずか二年半で、公約の十万を五万と半減
させたのだから、
 (目前にせまった青年部三千結集は)誓願の半分、
千五百名の結集もできぬであろう。

 (昭和51年青年部の)三千名結集など出来るはずがあるまい、
笑いすらでてこよう。
壮年、婦人、子供まで応援出席してもらっても無理であろう。

 総会(壮年、婦人、男子、女子の全妙信講員が結集子供も参加)
でさえ、三千名には程遠かったのだから。

 しかし、
49年8月に「三年後の52年8月までに御遺命の達成」と宣言した
来年(52年)8月、満三年になる御遺命守護達成の日限だけは、
延期することはできない。
 これこそ、
この三年間の、我々妙信講員の使命の旗印なのだから。
「御遺命守護とは、
謗法の正本堂より清浄なる奉安殿に
大御本尊様をお移し奉り、妙信講の正義が認められ、
妙信講の除名が解かれ、
妙信講、法華講連合会、創価学会が和合して
広宣流布へ向かう時」

なはずである。

(この記事の書かれたS51年12月からみて)
あと八ヶ月後の昭和52年8月に
それが成るというのである。
「戦う法華講として
仏意仏勅によって生まれた妙信講であるが故に
御遺命守護の成は絶対」

と豪語した浅井昭衛と妙信講である。

八ヶ月後、御遺命守護達成が成るか否か、
見つめて行かねばなるまい。

(破邪新聞昭和51年12月3日号
元妙信講広島支部長T田さんの記事)以上。

①S48年12月入仏式で
 ⇒ S56年までに、絶対「十万」を宣言。
 ☞ S51年総会で「十万」を「五万」に変える。

②S49年8月解散時の臨時幹部会で
 ⇒ S52年8月までに「御遺命守護達成」を宣言。
 ☞ S51年から「達成」の日を、なぜか云わなくなる。
 ☞ 「達成」と宣言した昭和52年8月を注目する。

見つめていた注目の
●御遺命守護達成の昭和52年8月ー。

 浅井昭衛氏は半年以上前から、
昭和52年8月の日限を発言しなくなっています。
日限の8月より、
3カ月前の
●昭和52年5月29日、
「妙信講 第19回総会」を渋谷公会堂で開催。
そして、
今までの宣言や戦いに何の説明もなく、
まるで“始めて”完結の日を宣言するように、
『妙信講は七百年御遠忌「昭和56年」までに
御遺命守護の完結を成し遂げることを決意』
『七百年御遠忌に当たる昭和56年11月20日まで、
あと四年と六ヶ月であります。
この四年と六ヶ月の御奉公こそ、
私達の一生成仏を決めるものであります』
『本日の完結への出陣式は、
同時に一人一人の宿命転換の出陣式でもあります』と、

●達成・完結のはずが、出陣式だと云い出します。

『今生に二度とないこの大仏事…』
●似たようなフレーズ、浅井昭衛の口から何度も耳にしていませんか。
 会員の心をからめとり、延々と引きずっていく…
 浅井会長の昔からの手口なのです。

この記事以上です。

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【53】妙信講・発足に至るまでの解説は本当か?

2020-09-01 | 53】妙信講・発足に至るまでの解説は本当か?
【53】妙信講・発足に至るまでの解説は本当か?

●浅井会長は、
『顕正会「試練と忍従の」の歴史』の中で、
昭和初期の浅井甚兵衛氏入信から昭和三十二年妙縁寺に移籍するまでの
約三十年間を、都合が悪いのでしょうか、
わずか1ページ(P13-14)で解説を終わらせています。

●その時期の証言記事がありますので紹介したいと思います。
 「昭和五十年、妙縁寺様発行破邪新聞より」
 ※サブタイトルと()内記述はブログ管理者が付与しました。

①「浅井甚兵衛氏入信から妙光院(現妙国寺)の頃」

 浅井甚兵衛の教化親は、今は亡くなられましたがS須という方で、この方の折伏により入信しました。それは昭和五、六年頃のことでした。当時S須氏は、妙光寺の熱心な御信者であられましたので自然に浅井甚兵衛も妙光寺の信徒となりました。ところが浅井甚兵衛は、事業の失敗から夜逃げに次ぐ夜逃げを繰り返し、信心どころのさわぎではなく、ついにその行方は教化親のS須氏でさえもつかむことが出来ない状態になりました。
 そのうち、昭和七年に当時の妙光寺御住職有元日仁師の尽力によって豊島区に妙光院(現妙国寺)という教会が設立されました。
 それにともなって妙光寺の信徒の幾分かは妙光院に移ることとなり、S須氏も妙光寺を離れ、妙光院の信徒となられました。そこでS須氏は講頭となり、当時の御住職大石菊寿師と共に、信徒の拡張を計ったのです。
 そこでS須氏は、曽って自分が折伏した浅井甚兵衛も立派な信者にしなくてはと思い八方手を尽くして夜逃げ先を当たりました処、信心活動こそしていませんでしたが退転することなく、妙光寺に所属していた講中の一つである、S木氏の率いる目白講に所属していることがわかりました。

 そこでS須氏が浅井甚兵衛の当時の住居が妙光院に近くもあるし、教化親の自分が妙光院の講頭をやっているので、手元において指導した方がよいと考え、妙光院住職大石菊寿師に御相談申し上げ、目白講に頼みこんで、妙光院の信徒にしたのであります。

 そこで甚兵衛は御住職の薫陶をうけ、S須氏をはじめ、やはり妙光院の信徒でありましたU山氏等の暖かい指導の下に正宗信徒として成長していったのです。その功徳により仕事の方も曽っての様に夜逃げをしなくてもいいようになり、段々順調にゆくようになってまいりました。それと同時に教学も種々教わり、又、自分でも勉強し、正宗の法門を少しぐらいは言えるようになりました。

 ところが三世変わらぬを性というごとく、生まれ持った性格というのは恐ろしいもので、段段と増上慢と野心があらわれてきました。そして遂には教化親のS須氏に対しても、“お前は、教学は私より下だ”とか言って馬鹿にするようになり、聞きかじった法門を自己流にひけらかしては講頭としてのS須氏の面目をつぶすような事ばかりをするようになり、妙光院信徒の団結を乱すような行動をとりはじめました。そして是が非でも講頭の地位を得ようと思い種々の策謀を試みるようになりました。

 そこで住職も見過ごしできず、甚兵衛に対し、仏法の道理を話し、世間法の上からも甚兵衛のとっている行為は不知恩の者であるし、天狗になってはいけないと諭しました。
 ところが、全身これ増上慢の固まりとなっていた甚兵衛は住職の真心こもる指導にも耳をかさず、剰え逆恨みし、住職の悪口さえ方々に行って吹聴するようになりました。
 そこでついに住職もサジを投げ、教化親のS須氏もあきれはててしまいました。
 しかし妙光院の信徒は、住職を尊敬し、S須氏のもとに寺院発足当時より盛り立てて苦労を分かち合った同志でしたので甚兵衛如きが食い込む余地もありませんでしたので、甚兵衛も妙光院の講頭となることをあきらめてプイと妙光院を飛び出してしまいました。

②「浅井甚兵衛氏と妙信講、妙光寺の頃(終戦の頃)まで」

 そしていつの間にか旧知の縁を辿ってチャッカリと妙光寺の信徒におさまりかえってしまいました。そこで同志を募り妙信講を結成(昭和17年)し、永年の夢であった講頭の地位を確保することができたのです。
 しかし当時は、講頭といっても絶大な権力がある訳では無く、わずか六、七名の平等の力を持つ同志の集まりでありました。
 念願の講頭という名を手に入れた甚兵衛は色々と手段を試み妙光寺で権力を振うべく努力致しましたが、伝統につちかわれた妙光寺の大先輩たちにかなう訳がありません。

 妙光寺には当時、蛇窪、三ツ木、大平、独一、統一、正宗本門講、目白講(昭和9年結成)、立正講(昭和16年結成)という強力な信徒の集団があり、それらを率いる講頭達は昨日今日のポッと出た者と違い信心強盛であり、皆人望の厚い人々でありました。そこでまたしても、甚兵衛は自分の非力さを知らされ、挫折します。

③「妙信講、法道院(当時法道会)の頃、戦後から」

 しかし異常な程野心の強い甚兵衛は屈することなく妙光寺を飛び出し、当時新進気鋭の集団でありました法道院に目をつけたのです。昔、妙光院時代に世話になったU山氏が妙光院を離れて法道院の信徒集団である本因妙講に属していた事も渡りに舟でした。

 法道院は早瀬日慈上人の下に一致団結し広布に邁進しておりました。そこに甚兵衛達妙信講員十名程が加わることになったのです。妙信講員一人一人が素質はある人達でありましたので法道院主管(觀妙院日慈上人、以下御主管)も目をかけて教学も手取り足取り指導致しました。
 当時は妙信講員もこれに応え、本因妙講、妙典講、妙道講、実浄講等々ある中で、妙信講の勢力は次第に拡張し、昭和28年頃には、妙信講、本因妙講と、他の講中との実力の差が鮮明となっていきました。
 当時の法道院は御主管自らも折伏に加わり、在勤しております青年僧侶も、在家の人々と共に勉強しながら折伏へ飛び出していっておりました。僧侶と信徒と一致団結して地方を廻り、拠点から拠点へと折伏鬪争に邁進する中で、実践派としての教学や戦法を妙信講員一人一人も、また各講に属する人々も教えられ、身に着けていったのです。

 そうした中で甚兵衛の息子の昭衛も、はじめ素直に御主管及び先輩の指導をきき信心を成長して行きました。勉強会等で教学も次第につき、このまま成長すれば立派な信者になると思い御主管も大事にしたのです。

 ところがいつしか、父甚兵衛ゆずりの権力欲野心までも急激に成長させていってしまいました。おまけに父親の悪い血をそっくりと引き継いでおりますので天才的な嘘つきとなりました。その天魔の力といいますか、口から鉄砲玉のように出てくる格好のいい言葉や、浪花節(なにわぶし)かたりも顔負けするハッタリの演説は次第に法道院青年部を魅了するに至りました。

 しかし御主管としては、素直に成長してくれるものと期待しておりましたので妙信講の発展に力をかされ、妙信講の発展は法道院の発展と思い各々の講に執らわれることのない法道院信徒団体育成という大義を中心に指導されていたのです。

 ところが父子二代に亘る権力欲は実に甚大につちかわれ、浅井甚兵衛、昭衛の父子は法道院のことより、自分達妙信講の勢力拡張の為に頑張っておりました。

 その為に他の講中の面々をライバル視し、他の講中の講頭すら蹴おとそうとしました。例えば、妙信講の次に勢力をもっていた本因妙講の講頭に対しては、甚兵衛の心酔者であった亡くなった妙信講の某氏を使い、本因妙講の講頭が、当時、法道院で増築していた御宝蔵の責任者であった事に目をつけ、その会計に不信があるとの口実で“賄賂を業者からもらっているのだろう”とか“水増し請求させているのだろう”と下司の勘繰り(げすのかんぐり)ともいうべき中傷を加え、失脚をもくろみました。

 その本因妙講の講頭は、万人が認める、清廉潔白な方で、御主管もその人望を充分御信用なされておりました。その講頭はもう亡くなられましたが、そのくやしさを忘れることができなかったようです。

 この様に特にお金に異常なきたなさをみせるのが浅井甚兵衛、昭衛父子の当時のきわだった特徴でした。そうした権謀術数もあり、妙信講の法道院内部での勢力は増し、法道院七支部の内三つまでも妙信講から支部長を選出するに至りました。
 しかしこれは、浅井の力ではなく、それ程妙信講には人材がひしめいていたということです。
それに、父に輪をかけた天才昭衛もまだ青年であり、今日の様に浅井昭衛あっての妙信講ではありませんでした。むしろ副講頭の方達の方が力はあったそうです。

 それらの妙信講の基盤のもとに、ついに浅井甚兵衛は、法道院講頭の地位を手中に収め、甚兵衛の妻が婦人部長、昭衛が青年部長という浅井一家の春を迎えたのです。

(※ブ記述者註:昭和31年6月、御主管観妙院上人はそれまでの十余の講、組を発展的に解消し、統合して法道会法華講を設立されました。その講頭に甚兵衛氏が就いたのです。
 なお、昭和28年ごろ、法道会には、本因妙講、妙信講、妙道講、妙典講、野田妙典講、正信講、浄信講、清信講、実成講、星野組、小梛組などの組織がありました)

 この頃になると、主役は次第に昭衛に移り、甚兵衛は脇役となってまいりました。親孝行な昭衛は、甚兵衛の永い間の権力欲と野心を満足させようと頑張りました。
 しかし、法道院は御主管の力が絶大であり、いくら逆立ちしても御主管には勝てません。甚兵衛としても御主管の御講の説法の後で、せいぜいその話の内容に嫌味を言うぐらいがせきのやまでした。だが腹の中では自分達が偉いという増上慢でいっぱいでした。

 その頃の法道院は寺院規模も整っておらず、年々創価学会の折伏活動、自支部の折伏活動で増える一方の信者の方の収容ですら満足にできないものでした。
 会合にしても婚礼の控室にしても、他の法要の控室も全て本堂で行わざるを得ない状態でした。
 故に御主管はその充実をはかるべく増築を重ね、昭和三十二年に二階の建造を計画されました。それをきっかけに浅井甚兵衛、昭衛父子の法道院での権力拡大の策動が始まったのです

 それ迄チャンスをうかがっていた浅井甚兵衛と昭衛の父子は、その二階の増築問題に“いんねん”をつけることによって御主管の主導権を奪おうと真向から対決を挑んでいったのです。
 それは増築に当たっての会計一切を自分たちにゆだねろというのです。
 お金に卑(いや)しい浅井の考えそうなことですが、それは御主管の金銭の用い方に対して露骨に疑る様な態度でした。

 僧侶に金をまかせておけないという様な浅井の申し出に対し、さすがに御主管も堪忍袋(かんにんぶくろ)の尾を切られました。何故に一信徒が寺院の最高責任者である住職(主管)に対し財政問題に口をはさむ必要があったのでしょうか。
況や、法道院の為に毎日、血みどろになって戦ってこられた御主管の生き方は浅井自身が誰よりもよく知っていた筈(はず)です。

 昔信徒の代表が集まって本山に対し御供養の会計報告を求めようとした時に、当時の創価学会戸田城聖会長が、
“信者は御本尊様に対して御供養した金銭について、口をはさむ必要はない。御僧侶が信者の御供養を何んに使おうと、我々が御供養したこととは関係ない。御本尊様に御供養するという根本精神がかけている”
と一喝され、御供養の精神について話されたことがありました。
 お金に執着する浅井甚兵衛、昭衛の父子は、御供養とは設備投資という感覚に立っていたのでしょう。
 今日(昭和50年当時)でも身上調査は浅井父子の得意中の得意ですが、その時はそれを露骨に出してきたのです。
 その時は、妙信講員五名で御主管にその申し出をしましたが御主管はさすがに憤慨され、一言も発せず奥に引き込まれました。
 しかし翌日、今迄ねちねちと増上慢の行為をちらつかせてきた浅井に対し、ハッキリと僧侶の生き方を申すべく浅井に電話され、“自分についてこなければそれで結構”という最期通牒をされました。

 そこで増上慢の甚兵衛がいきりたち、昭衛の天才的なウソつきの才能がふる回転されたのです。
自講中(妙信講員)に対しては、御主管があたかも布教を捨てたかのように
“今度、主管が庫裏(くり)を増築しようと思い何千万という大金を集めようとしている。今はそんな寺ばかり良くする時ではなく広宣流布の戦いの方が先ではないか”
と問題を巧みにすり替えて宣伝し始めました。
 その扇動が巧みであったため何も知らない妙信講員は浅井の説に粉動され、御主管をそのような目で見始めたのです。
 その時甚兵衛の人望だけならば、講員はそうまで粉動されませんでしたが、妙信講の人望ある幹部までも浅井の説にいいくるめられていた為に、法道院講中は浅井の説に同意を示すものが大半を超えました。

 しかし、御主管は知る人ぞ知る、信徒と争う姿をとりたくないとのお考えからあえて一言の弁解もせず、解る人はわかるであろうとの立場に立たれました。
 そのいさぎよい御主管の態度を天才的ウソつきの昭衛はかえって利用し卑劣にも小さい頃より慈父として薫陶して下さった恩を一切忘れて、御主管の人身攻撃を始めたのです、
 
 その内容たるや到底普通の信者の方では想像もつかないような彼一流の卑しい発想に基づく、聞くに堪えない内容でした。しかも、それを口づてに自分の部下を使って流させたのです。

 昭衛の手口は今日でもなりふりかまいませんが、なんとその当時、甚兵衛、昭衛とも生涯のライバルとして目の敵としていた創価学会の故戸田城聖会長の処までも、御主管の人身攻撃を宣伝するために出かけて行ったというから、おそれいります。
 当面の敵をたたくためには手段を選ばず誰とでも手をむすぶという節操の無い態度には、さすがに戸田会長もあきれはて、かえって馬鹿なことは言うんではないとたしなめられた一幕もありました。

 それ程までに、飼い犬に手をかまれながらも御主管は大きな立場から信徒を打つことをされず、たえておられました。

 事実、浅井甚兵衛、昭衛の父子はありとあらゆる策謀を試みましたが、御主管の人格を信望する者も少なくありませんでした。
 結局、浅井甚兵衛、昭衛父子の法道院のっとりは失敗におわり、自分が出ていくはめになりましたが、その時には、御主管を中心に御主管自らが育て上げた講中の大部分をそのままひきつれていったことは事実でした。

 何しろ法道院を出て行く直前には、子供たちまでも扇動しようとし、子供の勉強会が終わり、いつも通り本堂の清掃をしようとした子供達に対し
 “寺院は信心活動する処だから掃除などしなくていい”
と命ずる程、陰険なものだったのです。

 御主管は、浅井甚兵衛、昭衛の父子にはまったく煮え湯を飲まされましたが、一緒について行った人々の信心のことを考え、信心さえ離れなければと思い、日淳上人に取り為して妙縁寺への所属替えをお願いしたのです。
 日淳上人も度重なる浅井の不祥事をよく御存じでしたので、また妙縁寺でトラブルをおこしてはと思い、ついに単独講中として成立(浅井が言う新生妙信講発足)させ、他の講中に害が及ばないようになされました。

 この時に浅井甚兵衛、昭衛の父子と行動を共にした法道院一騎当千の人材は、この頃浅井昭衛の台頭につれて少しずつ姿を消していきました。

 妙縁寺所属の講中として認可の席上、当時総監であらせられた日達上人も同座され、同じく当時庶務部長であられた御主管(早瀬日慈上人)も同座されました。

 指導教師は、当時妙縁寺住職であった松本氏、法道院御主管の二名を日淳上人は付されました。それは法道院御主管の深い慈悲と、松本氏一人ではどうにもならないと見通された日淳上人のお考えによったものです。

 しかるに浅井甚兵衛、昭衛の父子は日淳上人の御指示を勝手に曲げ、妙信講員に対して、松本氏一人が指導教師になったと告げて、御主管との問題で真実がばれるのをふせぐ為に、法道院御主管と妙信講を完全に切り離したのであります。

 このように、自分の野心に都合の悪いことは猊下のお言葉や御指南であっても勝手に曲げたりかくしたりする一方、都合のよいことだけをとり出して講中(妙信講員)支配の具として用いるという性癖は、この当時からの常とう手段でありました。

 猊下の御内意をねつ造したり経過や御指南を曲げるというのも、何も今更はじまったことではないわけであります。
(参考:“御内意をねつ造”について、
 「日達上人御説法 昭和50年6月31日法華講御登山お目通り」を最後に記述します)

 このようにして、いつわりをもって講中(妙信講員)をあざむき、さらに自分達(浅井昭衛と父甚兵衛)の主導権を確立するためには、講員を、僧侶及び宗門と完全に隔離する必要があります。
 その上で、自分達(浅井昭衛と父甚兵衛)は、猊下(日淳上人)の勅命を受けた指導者の如く振る舞い主導権を確立していきます。
 もちろん他の法華講中の影響を受けて真相がばれ、自分達の主導権がゆらぐ恐れもあります。

 かくて浅井甚兵衛、昭衛の父子は、寺院及び他の講中との隔離を完全に行うとともに、自己の神格化(浅井昭衛と父甚兵衛を特別な指導者と思わせるよう)につとめました。

 そのために邪魔になる法道院以来の有力な指導者を次々と排除しました。
と同時に、
みずから指導教師のごとく振る舞い、
その権威をうらづけるために、
“妙光寺の中島師に教学を教わった。中島師は管長代理をしていた人であり、従って相伝の内容も知っておられた”

などと猊下の御相伝云々にまで及んだのであります。
 (参考:浅井会長は、御相承を知っているのか?☜click)

 とにかく日蓮正宗の歴史も猊座も、他の信徒の信仰も都合よく利用し、ただ自分達の勢力を増し主導権をにぎろうという野心から、日蓮正宗の中で身勝手をしてきたのが浅井甚兵衛、昭衛の父子であったわけであります。
 「破邪新聞の記事」 以上。

(参考:“御内意ねつ造”について)
 「日達上人御説法 昭和50年6月31日法華講御登山お目通り」

 この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他にありません。
 又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとしていく度か異流義(日蓮大聖人の仏法をねじ曲げて語る邪宗教)も出ましたが、しかし元妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ない思うのであります。

 およそ人たるもの、自分の信条を述べるに当たって、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。
 宗門の見解はこうなっておるが自分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べるべきであります。
 ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、
  “私が浅井父子だけに内意を打ち明けた”
 と宣伝しておるのであります。

 浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを張られては、私としてはたまったものではありません。
 しかもその内容が私が公の席で、手続きをふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなおさら許せません。
 云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになってしまいます。
 そんなことがあるはずのないことは常識のある方々には、すぐにわかってもらえると思います。
 仮に私が本心を打明けるにしても、よりによって講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置おけない人物に打明けようはずのないことは自明の道理でありましょう。
 しかしながら、元妙信講の中で今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。
 普段から寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだと聞かされていたためか、今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、

(ブ管理者註:「正しいチャンネル」-信心の血脈は、日蓮大聖人(宗祖)日興上人(開祖)-御歴代法主上人-御当代法主上人が“唯一の正しい信心の脈絡”。妙信講は信心の血脈が切れ、途中から浅井昭衛の異流義を信じて“唯一の正しい信心の脈絡”から外れる。この信心が外れた状態から、御当代御法主上人に信心が戻らない事を、「正しいチャンネルの切りかえができない」と仰せられる)

浅井の荒唐無稽な話を信じてさわいでおるから困ったものであります。

 私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりがあり、みだりに人に会うことも難しい地位にあります。
 そのことを利用して何も知らない人達を
  “国立戒壇こそ法主の内意である”
 などとあざむくことは卑劣この上ないやりかたであり、
(参考:国立戒壇の「名称」は同じでも日蓮正宗と顕正会では「内容」が違う☜Click)
 宗門史上かってない猊座に対する冒涜であると思うのであります。

 ことは私の名誉にかかわることであり放置しておけば宗門のみならず世間までさわがせる結果になりかねませんので私は断固たる措置をとります。
 とともに、今日、ここに見えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となって多くの人に今日の話を伝えて下さい。

 浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えて下さい。

 それでもなお、迷いからさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由で、もはやこちらの関与するところではありません。
 法主の指南がきけず、浅井昭衛の指南を聞こうというそういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであります。

 私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳然と守り、かつ一千六百万信徒の信仰を安穏ならしめる責務があります。その上で仏法のもとにあらゆる人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日祈念いたしております。
 
 今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷える哀れな人物であるが、さればといってその狂気じみた妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲にするわけには断じてまいりません。
 故に私は公平無私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかるところのない私自身の判断であり、それが正しかったことは時がたてばたつほど確信を持って来ております。

 浅井昭衛らはこれを恨んで私に対していろいろと云っておるようであります。
私が信徒の圧力で云うことも云えない臆病な法主であるとか何とか、とにかく失礼千万なことを、こともあろうに“法主を守る”と称して云っているのであります。

 私は法主の座について以来の方針として、現在の時代性にかんがみ信心の道をふみはずさぬかぎり信徒の自主性を重んじ、伸び伸びと信行にはげまれるよう心がけてきました。
 信者の方々の意見にもできるかぎり耳をかたむけるよう努力してきました。
 
 ただし仏法にもそむくと思われるときは、ささいなことでも一つ一つはっきりと指摘してきております。
 相手がだれであろうと、法主として云うべきこと、なすべきことは一つとしてゆるがせにしておらず。宗門の権威は少しもきずつけることなく次へゆずるつもりでおります。

 とにかく宗内の混乱は。その立場資格にないものが
 “相承を受けた、内容を知っている”とか
 “法主から特別の使命を与えられた”
 と主張するところからおこり、
何も知らない信者が付和雷同して大きくなっていくものであります。
 こういうことをいい出す人には、必ず何らかの野心か下心があることは、過去の実例が証明しております。

 とにかく宗門のことは、他の人をたのむ必要は何もありません。
私は、必要なことは全部自分でしますし、自分の意見は自分で云います。よけいなおせっかいは無用であります。皆さん方には私がだれの指図でもない自分で云っていることはよくおわかりいただけると思います。

 又、一人の信者に差別して特別の事を云ったり、使命を与えるようなことをするはずがないではありませんか。
(ブ管理者註:昭和33年1月妙信講認証の時にも65世日淳上人が特別な使命を与えるようなことは当然ないということです)

<8/31追記>
 御遺命の戒壇について、浅井昭衛らは、執ように
 “国立戒壇、国立戒壇”
 とくりかえしております。

戒壇についての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既に何回も公にしたとおりであります。

大聖人の仰せは本門事の戒壇である。
本宗相伝の戒壇の御説法に
『弘安二年の大御本尊とは即ちこの本門戒壇の大御本尊の御事なり-中略-
本門戒壇建立の勝地は当地富士山なる事疑いなし、
又其の本堂に安置し奉る大御本尊は今眼前に在すことなれば此の所即ち是れ本門事の戒壇真の霊山、事の寂光土云々』と、
 常に説き示されて居る如く、

本門事の戒壇の御本尊在す所が本門事の戒壇で
誰が建てたからと云う理由で事の戒壇となるのではありません。
 このことは既に数年前から私が申し述べている所であります。

右(上記)のことを日寛上人の三大秘法御説法を日相上人が科段に分けた御文を参考、ここに添付します。
 浅井昭衛らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと云うだけであります。
 私は、昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。

 私の信念は不動であります。未来永遠において、国立ということはなかろうと確信しておるからであります。

 浅井昭衛らは、人のやることに干渉せず、自分たちの力で、やれるものならやってみればよいと思うのであります。

但し、国立といのは本宗の教義ではないので、元妙信講が日蓮正宗と名乗る(ブ管理者註:冨士大石寺の名を盗んで名乗るのも同じ)ことだけは、今日限りやめてもらいたいのです。
 法律がどうのこうのという問題とは別の次元で、管長として、法主としてもはや、日蓮正宗信徒でないものが、日蓮正宗という名称を使うことを止めよと命ずるのであります。

<9/1追記>
 第一線で戦っておられる皆さんが確信をもって行動できますよう以上の如く私の胸中をお話ししました。
 元妙信講らは、何かと云えば暴力をちらつかせ、正しいことを云っていさめる者に対しては集団で毎夜いやがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということであります。
 大望を口にするにしては、まことにふさわしくない愚劣な手口でありますが、皆様に置かれましては一歩もひくことなく、厳然と戦われんことを期待いたします。

 「百の言葉より一つの実行」という言葉があります。日頃、正義感を口にし、論議を盛んにする人も、いざというとき、日和見していては何もなりません。いざというとき一身を挺して事に当たる人こそ真の仏弟子であろうと思うのであります。その意味で、皆様の振舞はまことに貴いものであります。
 私のもっとも信頼する法華講の皆さん、どうぞよろしくお願い致します。



日相上人古文書
(日相上人が日寛上人の三大秘法御説法を科段に分けて記録された)

三大秘法之事 大貳阿闍梨御講
凡(およそ)三大秘法ト者(は)、開スレバ六、合スレバ三也

     - 人本尊 日蓮聖人
本門本尊-
     - 法本尊 事一念三千御本尊

     - 信受智妙
本門題目-
     - 口唱行行妙

     - 在々處々本尊安置之處ハ理ノ戒旦也
本門戒旦-
     - 冨士山戒旦之御本尊御在所ハ事ノ戒也

三大秘法ノ姿是ノ如ク意(こころ)得ベキ也

(参考:【22】日達上人-「元妙信講講員の皆様へ」)

この記事以上です。

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【52】浅井会長は、御相承を知っているのか?

2020-08-10 | 52】浅井会長は、御相承を知っているのか?
【52】浅井会長は、御相承を知っているのか?

●浅井会長は、“御相承を知っている”という話が、顕正会の組織の中に相当伝播しているようです。

 私も、妙信講に入った昭和50年代には、当時の幹部や先輩から,妙光寺の中島円妙院さんの話と合わせて、何度もこの御相承の内容云々と浅井会長の関わりを聞かされています。そして、男子部の組織を構築していく中でずいぶんこの話を使ってしまいました。

 私が浅井会長の口からこの事に関する話を耳にしたのは、
昭和56年1月の総幹部会の講演です。
この時浅井会長は次のように述べています。
『申すまでもなく、本宗(註:この当時日蓮正宗妙信講、後にも日蓮正宗顕正会と名のっていた)の生命は、戒壇の大御本尊と唯授一人の血脈相承にあります。されば現在阿部管長の置かれている事態は本宗にとってまことに由々しき大事であります。
 実は一昨年七月、細井管長が急逝された時、私は恐るべき「異常事態」と感じ、三日間飯も食えないほど一人で思い悩んだ。(註:当然ながら前年の4月に御相承されていることを知らない)そして考え抜いたすえ、かえって大確信を持つに至った。
 大聖人・日興上人・日目上人・・・・と伝えられる本宗唯授一人・金口嫡々の御相承というものは、このような事態で断絶するほどチャチなものではありません。微動もいたしません。
 これからも、マスコミを通して御相承のことが騒がれるかも知れませんが、妙信講員は大確信に住してほしい。たとえ阿部管長のことはどうであれ、本宗の御相承は微動もしないのです。
 私は、もし将来その必要があるならば、本宗の血脈相承が断じて断絶せざるゆえんについて、信ずるところを公表したいと思っております。
 宗門七百年来未曽有の異常事態がいま起きたことこそ、いよいよ日目上人御出現の瑞相と、私はかえって確信を深めております。』


 少なくとも浅井会長自身は、私が妙信講に入講した昭53年以降、
「将来必要があるなら、本宗の血脈相承が断絶せざるゆえんについて、信ずるところを公表したい」
という内容以上の事を語ったことはありません。
 しかもこの発言は滅多にすることはなく、この56年1月の総幹講演以降、現在に至るまで、恐らく2~3回程度しか口にしたことはないでしょう。
浅井会長が取り巻きの妙信講員に語ったのは、49年の解散処分の頃までと思われます。
 私ら(40年代からの古参幹部は円妙院さんの事、皆聞いていると思う)が組織に語っていた、その元になっている話、中島円妙院さんと浅井昭衛氏とのかかわりについては、

 昭和50年代に私が所属していた新宿支部(当時は支部があった)で、元法道会(現池袋法道院)法華講員だったK内J郎さん(故人)から主に話を聞きました。
K内J郎さんは、観妙院上人(早瀬日慈上人)御指導の元、法道会に青年部が創設されると浅井昭衛氏やT島T年さん(故人、新宿支部幹部)らとその一員になったり、また地区が編成されると、第七地区浅井昭衛氏、第八地区T島T年さん、都下地区K内J郎さんといった具合に、浅井昭衛氏と一緒に活動されていたようです。

 さて妙光寺様で、昭和20年代に行われた中島円妙院上人による「六巻抄」の御講義(当時を知る妙光寺信徒さんの話では、最初に「五人所破抄」の御講義があったとも)には、東京各寺の青年や妙光寺の青年の方々、法道会の信徒として当時高校生(と聞きました)の浅井昭衛氏、K内J郎さんなど複数名参加されたそうです。
 後に妙信講組織内に広まったのは、
『この「六巻抄」の御講義に最初から最後まで一度も欠席せずに参加したのが、浅井昭衛氏とK内J郎さんだけだった』
という話。
これが、時代を下るにつれ内容が変わって伝播していきます。
 これが一つ。

 もう一つは、昭和40年代に行われた学会幹部との会談のなかで、浅井会長が「妙光寺の中島師から相伝の内容を聞いている」と述べていた事が、解散処分後に漏れてきた事です。
 この話が伝わると、内心には
“浅井会長はもしや御相伝を知っているのではないか”
と期待を込めた願望が、解散処分された当時の妙信講員に内在し始めたのではないでしょうか。

●このような中、
中島圓妙院上人の御相承にまつわる話について、日達上人が次のように御指南されています。
昭和50年12月妙光寺で奉修された圓妙院(円妙院)第十七回忌・大東院第三回忌法要の席における日達上人のご指南

 本日は只今住職のお話の通り、圓妙院日彰上人の十七回忌でございます。又大東院日明贈上人の三回忌を執行せられまして、皆さんおいで下さいまして誠にありがたく存じます。
 最近、圓妙院日彰上人から、何か御相承を受けたというようなことが、頻(しき)りに宣伝されております。これは大変な間違いでございます。本宗においてはそういうことは七百年来一遍もないのでございます。
 たまたまそういう住職がでて、問題をおこしたことがありますが、これは昔本宗から出て行った人でございます。
 今、ある講の人が、圓妙院から相承を受けたということを盛に言っておりますが、この圓妙院という方は非常に記憶力の強い人で、若い時分から大変化儀に明るかった為に、我々もそれをおそわったこともあります。

 昭和二十年六十二世日恭上人が御遷化になった時、隠居さんとして、日隆上人、日亨上人がちゃんといらっしゃったのでございます。その時に次の管長に大部手間をとりました。また、本山も客殿が烏有(うゆう)に帰して非常に困った時でございまして、少々のびたのでございます。半年位のびまして、その間、文部省の方へ登記をしなければならないので、管長代理として圓妙院を推薦して管長代理になったのでございます。それ故に僧正という位になって、(中島圓妙院さんが)御遷化した時には上人となっております。
 柿沼師は権僧正で、能化でございますから贈上人となっております。だから圓妙院が上人になったからして、御相承がある、というわけではないのです。

 日隆上人、日亨上人がちゃんと御相承を持っていらっしゃいました。日恭上人の次に正式に管長となったのが、日満上人でございます。日満上人に、日隆上人がちゃんと相承しております。御相承の場所は学寮の本堂でした。

 そして、日満上人のあとを、水谷日昇上人が御相承をお受けして、それから、堀米猊下から私と来ております。その間に少しも疚(やま)しいことは入っておりません。

 それをこの妙光寺に、中島師がおられまして、年をとっておりましたので、少し色々のことをやたら喋る人になってしまいました。その時に、ある講の人が圓妙院のところに来て御相承を受けた。などといっております。そういうことはあり得ない。

 じゃどういう相承か。中島師は御相承を受けていないんだから、知るわけがないのです。
 あるいは化儀の方面からこういうことはするんだということは話したでしょう。それはだれでもわかっておる。若い人は知らないけれども、我々の位の年になればだれでもわかっておる。それを相承だといっておる。圓妙院がいわれたからといってもそんなことが御相承であるべきものではございません。

 本宗においては、固くそういうことを、管長として法主として、守りつらぬいて来ております。だからそういう講の人の言葉に迷わされないで、やはり信者は、信者として、信心に励んで、一生を即身成仏の境涯で送られることをお願いする次第でございます。
(昭和50年12月30日日蓮正宗妙縁寺発行破邪新聞13号)

●浅井会長の、
「もし将来その必要があるならば、本宗の“血脈相承が断じて断絶せざるゆえんについて、信ずるところを公表したい”と思っております」
という会員の気を引く発言と、
妙光寺での「六巻抄」講義に3年間通い、
中島円妙院さんに可愛いがって頂いたというエピソードから妄想がふくらんでいきました。

浅井会長自らは、
顕正会内で「御相伝の内容を知っている」と発言したことはありません。
過去には、
「誰が在家で『御相承の内容を知っている』などというものがありましょう。」
(日連正宗妙縁寺発行破邪新聞S51.2.15号)
と、自ら御相伝の内容を知らないとほのめかしていました。

しかし、組織の中で、
浅井会長を特別な存在として意識させたい幹部(浅井昭衛を信仰する邪教徒)たちにより、“浅井会長は中島円妙院さんから御相伝の内容を聞いている”
との「話が作られ」さらに、話に尾ひれが付いて、伝播していった。
というのが実態でしょうか。
 
では、なぜ浅井会長は、
“もしその必要があるならば血脈相承が断じて断絶せざるゆえんについて、信ずるところを公表したい”
などと意味ありげな発言をするのでしょうか。
一つは、“自分は特別な存在だ”との慢心、思い上がりです。
ですから学会との対論の時、
思わず
「あなたは、もとからの信者ではないから、わからないでしょうね。私は、御法主上人の代理を務められた御僧侶から、直々に、御相承の内容について伝授されたのです。信者で、御相承の中身を知っているのは私一人です」
と、話しを作ってしまったのでしょう。
もう一つは、
顕正会員に“浅井会長は御相承の何かを知っていると連想させる”事です。

●平成四年の教師講習会で、
御歴代の先師上人が伏されていた
“金紙相承”の名目を
67世日顕上人が始めて明かされました

在家の人は始めて耳にしました。
御僧侶でもごく一部の方しか知りませんでした。

当然、
浅井会長は、これ以前に“金紙相承”を知るハズもありません。
恐らく、
中島円妙院さんとの話などから、
ある時期に、
「口伝が記された紙(金紙)があるのではないか」
と思いついたのでしょう。
そして、
その思いつきを根拠に、
“その必要があれば、信ずるところを公表したい”
ともったいぶった言い方をして、
“自分が特別な存在だと思わせるための材料”
として使ってきたのでしょう。

しかし、
日顕上人が“金紙相承”の名目を公表されたことにより、
浅井会長を“特別視”する、基本的な材料は崩れ去りました。

<8/10追記>
●顕正会の幹部は、浅井会長を師匠として信じているため、「心」が浅井会長に同化していく。
浅井会長や顕正会を特別な存在であると思わせたいがために、
もっともらしいウソの話を、誰から指示されるでもなく自然に語るようになります。
浅井会長がそうであるように。

この“浅井会長は御相承を知っている”というウソの話が典型的な例でしょう。

血脈相承の御法主上人から信心が離れ(誹謗する)ると、
大聖人御相伝の法門が「心」に入らず、
思い込みから邪義が作られ、伝えられていくのです。
(そして、いくら「戒壇の大御本尊を信じている」といっても
 戒壇の大御本尊様への血脈が途絶えて法水が通いません)

●妙信講解散処分前後の頃の妙信講(顕正会)員は、
浅井会長に引っ張られつつも、
浅井会長が「御相承の内容を知っている」などと言い出せば、
さすがに疑問を持つ人達も多く出てきます。

学会との対論の中で、
浅井会長が「御相承の内容を知っている」と言っていた事を、
妙縁寺僧侶から追及されると、
必死に否定し弁明したようです。
先に記しました、
「誰が在家で『御相承の内容を知っている』などというものがありましょう。」
とは、この弁明の時のものです。
(弁明内容は昭和51年2月15日日蓮正宗妙縁寺発行破邪新聞14号に掲載されている)

この記事以上です。


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【51】顕正会幹部の法論とは?(目師池上問答冒頭記載)

2020-05-30 | 51】顕正会幹部の法論とは?(目師問答冒頭)
【51】顕正会幹部の法論とは?
・「本部 K 氏」
1対1との約束で本部の K 氏と待ち合せました。最初はK氏1人でしたが、店の入り口に付近にあまりにも偶然(?)に本部A氏が現れ、同席する言い出す。K氏も同席を否定しない。1対1のハズ、おかしいので同席を断ると、案の定「逃げるのか!」とA氏。
やはり浅井昭衛を信仰する邪教徒とは、まともな会話は出来ないと結論しました。(令2年8月1日)

・「本部 I 氏」
先日、本部の I 氏が、私と法論だと電話をしてきました。(令2年7月)
私が、場所と日程を示すように言うと、
自ら法論だと言ってきたにもかかわらず、
「“約定”がなければ法論にならない」と、逃げました。

・「千葉Sn氏」
令2年4月には、千葉のSn氏(教学部員で千葉方面の幹部らしい)が電話をしてきました。
若干、電話の会話で破折することになりましたが、
会って話そうと言うと結局逃げました。

・「新座Ym支区部長」
同じく新座のYm支区部長が、東京のお寺に自ら乗り込んで、
お寺に教学部員を連れて行くと日程、時間まで決めておきながら、
なんと「忙しい」と言って、逃げてしまいました。(令元年8月)

・「婦人部 Is支区部長」
昨年も、婦人部の Is支区部長が、「お寺に行きます」と自ら言いだしました。
後日、日程の連絡をすると、
「御住職と(私お寺の信徒が)直接話せる立場なのか」と、
 まったく見当はずれの言い逃れをして、逃げてしまいました。(令元年3月)

『日目上人・池上問答』の冒頭を記しました。
日蓮正宗と邪宗教では、かくも違うことを知って下さい。

日目上人『池上問答』

弘安五年、大聖人様一行がひとまず池上宗仲の館へ向かう道中。
幕府の要人である二階堂伊勢守入道の子息で叡山の学僧二階堂伊勢法印が、
親の権威をかさに同宿の十余人および若侍三十余人を率いて
「聖人と問答すべし」
と言って乗り込んできた。
その時(大聖人の)門弟たちはいざと身構えたが、
これを聞いた大聖人は卿公(日目上人)に問答の相手をせよと命ぜられた。
このときの様子を『御伝土代』に
『大聖人甲州より武州池上へ入御、供奉して池上に参る処に、
二階堂伊勢入道の子息伊勢法印山門宗徒たるが、聖人と問答すべしとて
同宿十余人若党三十余人あいぐしてまいる。大学匠也、
誰か問答すべきと老僧達・中臈(ちゅうろう)・俗ほうかたずをのむ、
大聖仰せに云わく、卿公問答せよと云々』(聖P603)
とあります。



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【50】浅井会長、「血脈相承断絶」発言の根拠は?

2020-05-04 | 50】浅井会長、「血脈相承断絶」発言の根拠は何か。
【50】浅井会長、「血脈相承断絶」発言の根拠は?。
(以前、記載した内容ですが、脈絡のない記事に混在していたので、あらためて記事にします)

■平成10年正本堂解体を見た浅井会長は、
「御遺命守護完結奉告式」(顕正新聞H10.4.15)を奉修しました。
そして、「御遺命守護完結」を宣言し、
・「誑惑は根底より清算され、不敬は完全に解消されたのであります」
・「大聖人様の御法魂まします正系門家なればこそ、いつまでも誑惑が続くわけがないのであります」
・「これでもう、大御本尊様への不敬は解消され」
・「またいかなる大地震が来ようとも、戒壇の大御本尊は絶対に御安泰であります」
・「もう後顧の憂いはない」
等々、

浅井会長は、宗門に対し最大限の言辞をもってアピールをしました。
しかし、
日蓮正宗「宗門」からは何の反応もなかった。
「宗門」の本山全国末寺では、
顕正会が何をしているか、何を言っているかなど興味もなく、
浅井会長のアピールなど、まったく知る由もなかったと思います。

■浅井会長は1年待ちました。
しかし、「宗門」は何の反応も示してくれません。
ついに、“キレてしまった”のでしょう。
平成11年、恐ろしいかな「唯授一人の血脈相承、断絶発言」となって現れました。
すなわち、大聖人様が、
『此の経は相伝に有らざれば知り難し』と仰せられる『相伝 御相承』、
尽未来際に至るまで絶対に断絶することのない『唯授一人の血脈相承』
を、

何の根拠も示すことなく浅井会長は突然、
「御相承の断絶」を発言(顕正新聞H11.4.25)するに至りました。
日蓮正宗総本山富士大石寺に伝わる、日蓮大聖人の仏法の根底を否定したのです。

これを受けて、顕正会員の幹部の多くから、
「日達上人から日顕上人への御相承が出来なかった。だから大聖人様の御書を正しく拝せるのは、浅井先生だけだ…」といった趣旨の指導がまことしやかに流れ、会員を洗脳していったのです。
日蓮大聖人からの「唯授一人の血脈相」を否定した大謗法です。

浅井会長が、「唯授一人の血脈相承」の何たるかをまるでわかっていない。
「宗門」が、自ら(浅井会長)を認めないのならと、その“腹いせ”のように、
「唯授一人の血脈相承」の猊下を誹謗する。「下種三宝」誹謗の大謗法です。

臨終後の堕獄は、まぬがれないでしょう。
浅井会長を師と仰ぐ顕正会員の方々も同罪です。
早く気が付き、顕正会の謗法を捨てて、日蓮正宗に入信されますように。

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【48】三災・七難と、顕正会との関係は?

2020-03-14 | 48】三災・七難と、顕正会との関係は?
【48】三災・七難と、顕正会との関係は?

大聖人様が仰せられる、
飢饉、疫病、兵革、の三災や、
他国から侵略される、他国侵逼の難等の七難は、
過去にもあり、これからも起きます。

しかし、
御本尊を偽造する邪宗教・顕正会とは、
何の関係もありません。

顕正会に入信しても何も救われません。

浅井会長は、
世間の情報を利用し、
日蓮正宗の情報を利用し、
もっとらしい話を作って、
さも顕正会に関係があるように見せかけているに
過ぎません。

浅井会長は、
御本尊を偽造するという大謗法を実行できる人物です。
それは、
信心が曲がっている、
ズレていることの証拠です。

顕正会員のみなさんは、
富士大石寺の信仰とは全く関係なく
浅井会長の言葉と
顕正新聞や出版物で作り上げられた、
空想のイメージ、作り話を信じる邪教徒ということになります。

みなさん、浅井会長の慢心に、人生を振り回されないように。
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【47】広布の決戦場「大罰を用いて広宣流布する」は本当か?

2020-02-22 | 47】20年代決戦場「大罰を用いて広宣流布する」は本当か?
【47】広宣流布の決戦場・大罰を用いて広宣流布するは本当か?

浅井会長は、“いざ広宣流布の決戦場へ”とスローガンをかかげ、
「大聖人はこの大罰を用いて、いよいよ広宣流布をあそばす」(顕正新聞R2.1.5号1面)
と言っています。

●本当でしょうか?

 ■日蓮大聖人仰せの広宣流布を拝します。
<1>『諸法実相抄』(P666)
日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、
“二人三人百人と次第に唱へ伝ふる”なり。
未来も又しかるべし。是あに“地涌の義”に非ずや。
剰へ広宣流布の時は
日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし。


“二人三人百人と次第に唱へ伝え”られる、
 未来、広宣流布するのは“地涌の菩薩の義”であると仰せです。

<比較します-1>
大聖人様“地涌の菩薩の義”により“次第に唱へ伝え”広宣流布する。
浅井会長この大罰を用いて”広宣流布する。
 ➡明らかに違います。

続いて、
<2>『如説修行抄』(P671)
終(つい)に権教権門“(謗法)の輩(やから)を
一人もなく攻め落として”
法王の家人となし、
天下万民諸乗一仏乗と成りて
“妙法独(ひと)り繁昌せん時”
万民一同に南妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、-

“謗法の輩を一人もなく攻め落として(折伏して)”
“妙法独り繁昌せん時”すなわち“広宣流布する時” と仰せです。

<比較します-2>
大聖人様“謗法を一人もなく折伏して”広宣流布する。
浅井会長この大罰を用いて”広宣流布する。
➡こちらも明らかに違います。

■では、正しく「広宣流布」とは、

「地涌の菩薩の眷属が、謗法の折伏を進める」(※信行要文2)、
 そして、
「梵天・帝釈の御計らいとして、日本国一時に信ずる事あるべし」(御書P1123) 
 の時に至るまで、
「大石寺は御堂と云い墓所と云い、
修理を加え
勤行を致して
広宣流布を待つのである」
(日興跡条々事P1883抜粋)。
と、大聖人様、日興上人様は、仰せです。

・すなわち、広宣流布は
地涌の菩薩の眷属が、謗法の折伏を進め、
次第に唱え伝えることで実現するのです。
・そして「依正不二」の原理により仏国土が実現します。
●従って
浅井会長の言う、
「大聖人はこの大罰を用いて、いよいよ広宣流布をあそばす」は、
日蓮大聖人の仏法ではないこと明白です。

・すなわちこの大罰を用いて、広宣流布する”などとは、
大聖人様の仏法を利用した、浅井会長の“邪義”“作り話”なのです。

滅亡という恐怖があって広宣流布するという発想は、仏法の言葉を利用した、
浅井昭衛氏の邪義・邪宗の思想です。

  (参考⇒【39】浅井会長の「残された時間は少ない」は本当か?☜)

●浅井会長は、
“領土拡大の野望に燃える中国が日本本土を襲う。
日本国中が恐怖の底に突き落とされる”
(顕正新聞R2.1.5号1面以下同じ)
と、言っています。
そして、これが大罰だと誘導する。

その謀りのカラクリは、
①まず、
まったく根拠の無い「中国が日本本土を襲う」という、ただの“作り話”を、
大聖人の「他国来難」だと謀る。

②そして、
「仏法より事起こる」と、
まるで「中国が日本本土を襲う」という、ただの“作り話”が、
「仏法より事起こる」かのように洗脳する。

③さらに、
これも何の根拠もなく「中国が日本本土を襲う」が、「諸天の誡め」であると、
声高に言って洗脳する。

( 洗脳ではないと言うなら、
  「中国が日本本土を襲う」という“作り話”が、
  大聖人様の “他国来難”、“仏法より事起こる”
  であるという、御金言・根拠を示して下さい。
  “諸天の誡め”だという御金言・根拠も示してもらいたい )

●これで顕正会員は、
「中国が日本本土を襲う」という浅井会長の“作り話”が、
仏法上に起こる大罰だと思い込まされます。

続けて、
「日本国中が恐怖の底に突き落とされる」と、
恐怖心をあおられ、大変な事だと洗脳され、顕正活動の原動力となっている。

そもそも、
「立正安国論」に仰せの三災・七難は、時を追って繰り返して起こり、
「他国来難」のみならず、世界のいたるところでの災難の頻発、
様々な混乱、不幸、苦悩など末法濁悪の混沌とした世相の原因は、
「世皆正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す」る故である。
と大聖人様は仰せられているのであって、
これを大罰”「諸天の誡め」などと、
大聖人様は仰せられていません。

浅井会長は、これが大罰だと思い込ませようと、
「こんどの第三次世界大戦では核兵器が必ず使用されるから、その惨禍は言語を絶する。大聖人様はこの惨禍を新尼抄に、次のごとく予言されている」(顕正新聞R2.1.25号5面)と言う。これまったくのウソ、謀りです。

大聖人様の新尼抄は、
“核兵器が使用される(と浅井会長がいう)第三次世界大戦を予言”されたものではありません。

御法主日如上人猊下が『新尼御前御返事』の御文を御講義(※信行要文2)下さっていますので、
後記させて頂いております。
拝読して頂ければ、浅井会長の独善的なウソのために、御金言を利用しているのが、わかるかと思います。

●もう一つ、
「20年代こそまさしく広宣流布の決戦場」(顕正新聞R2.1.5号1面)と、
何度も発言していますが、
そもそも、「広宣流布」“決戦場”などありません。
ですから、大聖人様の仏法ではない、
浅井会長の“おとぎ話”というのです。


(※)御法主日如上人猊下御講義信行要文二『新尼御前御返事』(P163-171)
末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎら む時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげか らん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け万民は難をのがれん。乃至後生の大火炎を脱る べしと仏記しをかせ給いぬ(御書P764)
(茶色字の箇所は、浅井会長が隠して語らない御文)

■御法主日如上人猊下の御講義を拝します。
(中略:大尼御前についての御指南の後)
 さてただいま拝読した御文は、
末法今日の混乱の様相を述べられるとともに、
かかる末法濁乱の時にこそ、
この妙法蓮華経の大法が末法の一切衆生を救い、
国を安泰ならしめるということを示されているのであります。

 簡単に通釈しますと、
末法の始めに謗法の者達が世界中に充満して諸天が怒り、
彗星が天に現れる。
この彗星とはほうき星のことでありますが、
実は昔、
彗星が出現するということはけっして良い前兆ではなく、
世の中に悪いことが起きる予兆であると言われていたのであります。
その彗星が天に現れ、
大地震が起こって大地は大波の如く揺れ動き、
さらに大旱魃、大火、大水害、大暴風、大疫病、大飢饉、
大兵乱等の多くの大災難が一時に起こり、
世界中の人々が各々甲冑を着て弓矢を手に握る時、
つまり戦争が勃発して
諸仏、諸菩薩、諸大善神等もこれを防ぐことができずにいる時、
天下の人々が皆死して、
無間地獄に堕ちる者が雨の降るように多い時、
この妙法蓮華経の五字の大曼荼羅を身に持(たも)って心に信じれば、
諸王はその国を助け万民は災難を遁れ、
後生には無間地獄の大火炎から逃れることができるであろうと、
仏は記し置かせられているのである、
ということであります。

 このように、
末法濁悪の混沌とした世相を述べておられるのですが、
まさにこの窮状を救う唯一の秘法こそ、
妙法蓮華経の大御本尊であることを、
はっきりとお示しあそばされているのであります。

 今日、様々な災難が世界の至るところで頻発していることを考えますと、
一人ひとりが妙法広布の使命を感じて、
仏国土実現へ向けてなお一層の精進をしていかなければならないと痛感する
次第であります。

 大聖人様は『立正安国論』の冒頭に、
「旅客来りて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変・地夭・飢饉・疫癘遍(あまね)く天下に満ち、広く地上に迸(びこる)。牛馬巷に斃れ、骸骨路に充てり。死を招くの輩(ともがら)既に大半に超え、之を悲しまざるの族(やから)敢へて一人も無し」(御書P234)
と仰せであります。
そして、このように世の中が乱れる原因について、同じく『立正安国論』に、
 「倩(つらつら)ら微管を傾け聊(いささか)経文を披(ひら)きたるに、世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是(ここ)を以て魔来り鬼来り、災起り難起る。言わずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書P234)
と仰せになっているのです。

 この御文に示されるように、
今日の様々な混乱、不幸、苦悩、これらのすべての原因は
「世皆(みな)正に背き人悉(ことごと)く悪に帰す」る故であります。
大聖人様は仏法の鏡に照らして、
これが世の中の混乱と不幸と苦悩の原因であると、
『安国論』のなかで明言されているのであります。

  大聖人様の正法正義に反する行いをしているならば、それは邪義であります。
「悪に帰す」の悪というのも邪義であります。
ですから、邪義邪宗の害毒ということがどれほど恐ろしいかということを、
我々はよく知らなければなりません。
そして邪義邪宗は、私たちが破折しなければ絶対に滅びない。
これは明らかであります。

 このようなことを言う人はいないと思いますけれども、
「邪義邪宗の者どもは謗法を犯しているのだから、
いずれ天罰によってだめになってしまうだろう」などと
考えていてはいけません。
それはたしかに一理あるかも知れませんが、
そんなことを言っていては広宣流布はできません。

 実際、天理教にしても、あるいは阿弥陀経の念仏にしても滅びておりません。
なぜ滅びないのでしょうか。我々が折伏しないからであります。
放っておけば、悪は増長してくるのです。ここが大事であります。
だから、我々の折伏以外に世の中を正しくしていく道はないのです。
我々は邪を滅ぼしていかなければならないのです。
謗法をしっかりと破折するということが大事なのであります。

 大聖人様が仰せのように、結局、
人がことごとく悪に帰するが故に様々な災難が起きるのです。
これは仏法の依正不二の原理によって明確に示されております。
だから、その悪を滅する、邪を破折するというところに、
今日の我々がなすべき大事な使命があるのです。
 真の世界平和を、真の仏国土を本当に実現するためには、今、
我々が立ち上がって折伏をしなければなりません。(中略)
本当に真剣に、広宣流布のために戦っていただきたい。
世のため人のため、皆の幸せのために、
私達が身を粉にして戦っていくことが大事なのです。
まさにこれが地涌の菩薩の眷属の使命なのです。

 もう一つ大事なことは、依正不二の原理です。
悪を破折しなければ幸せになれないという原理が解らなければ、
世の中を救っていくことはできません。
このことが『立正安国論』の御理想実現のための折伏の大事であると、是非、
一人ひとりが知っていただきたいと思います。


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【46】浅井会長の“三宝・僧宝”の説明、変わるのはなぜ?

2020-01-18 | 46】浅井会長の“三宝・僧宝”の説明、変わるのはなぜ?
【46】浅井会長の“三宝・僧宝”の説明、変わるのはなぜ?

●“三宝”とは、仏宝、法宝、僧宝
(仏-大聖人様、法-戒壇の大御本尊様、僧-日興上人日目上人嫡々付法歴代の諸師)
○日寛上人は、
成仏を得るための信ずべき“三宝”、下種の三宝を信じることが末法の信心なり」
と、仰せです。
『文底下種の三宝を信ずべし。是れ則(すなわ)ち末法適時(ちゃくじ)の信心なり』(当流行事抄/六巻抄P194)
そして、
この“三宝”の御力でなければ極悪不善の私たち、どうして即身成仏を得ることができるのかと。
『若し此の三宝の御力に非ずんば極悪不善の我等争(いか)でか即身成仏することを得ん』(当流行事抄/六巻抄P195)
・すなわち、即身成仏を得るためには、三宝を信じることが肝要で、
・三宝の御力がなければ、即身成仏は叶わない。-ということです。

■さて、“三宝”のうち「僧宝」について、浅井会長の説明を見ていきます。
まず、
①『理論解説書/初版(P70)』-
○末法下種の「僧宝」とは、
第三祖・日興上人であられる。仏恩・法恩がいかに甚深であっても、もしこれを伝えて下さる方がおられなかったら、どうして末代の我等、三大秘法を受持することが出来たであろうか。まさに日興上人こそ末法万年に三大秘法を清く正しくお伝え下さった下種の僧宝であられる。
“さらに総じては、日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である。
と、紛らわしい表現を加えていますが、ほぼ正論を説明しています。

②『理論解説書/改訂版(P76)』-①の初版と同じく、
“さらに総じては、日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である。
と、説明しています。

③『平成四年二月の浅井会長指導/冨士H4.3月号』-
日目上人以来嫡々(ちゃくちゃく)代々の御法主は、唯授一人の血脈相承を受けて日興上人の「本門弘通の大導師」の御立場を継ぐ御方であれば、僧宝と仰ぐのは当然であります
と、日寛上人の三宝抄(研教10-P158)に従い正論を説明しています。

●ところが、
④『基礎教学書(P116)』(H27.10)-では、

“三宝”の項を全て削除し、「僧宝」をわからなくしている

■なぜでしょうか。

・それは、
今まで“日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である”と述べて来た正論を、
顕正会員の記憶から消そうとしているからではないでしょうか。

基礎教学書からは“三宝”を顕正会の教学としては存在させない。

ただし“三宝”を語らないわけにもいきません、
そこで日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝であることを隠して、
“下種の僧宝は日興上人”とだけ述べます。
そして「僧宝は日興上人」だけだと思い込ませているのです。

しかし“日目上人以下嫡々付法の歴代正師も「僧宝」である”との正論に照らし合わせると、
当然ながら、六十六世日達上人、六十七世日顕上人、そして御当代日如上人猊下も、
即身成仏のために信ずべき「僧宝」であらせられる。

これは、浅井会長にとって、大変都合が悪い。
そこで、長期にわたって念入りに、いくつもの謀りを重ねて、ウソの話を作り、
日興上人の「本門弘通の大導師」の御立場を継ぐ御方である、日達上人、日顕上人、日如上人を、「僧宝」ではないと顕正会員に思い込ませようとしている。

・ですから、
⑤『御報恩勤行会の浅井会長講演』昨年2月(顕正新聞:H31.2.25)では
久遠元初の「僧宝」とは、日興上人であられる
とだけ述べ、
“日目上人以下嫡々付法の歴代正師も僧宝である”の文言を削除
しているのでしょう。

●大聖人様の御金言に照らしてみます。
(※)三宝一体
「真言見聞/文永九年七月」(御書P608)に
『凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり』
・謗僧(ほうそう)-僧を謗(そし)る、僧宝である御法主上人猊下を誹謗すること。

「四恩抄」(P268)に、
『僧の恩をいはば、仏宝・法宝は必ず僧によって住す』
『末代の凡夫、三宝の恩をこうむりて三宝の恩を報ぜず、いかにしてか仏道を成ぜん』
と。
さらに、
『経(法)と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし』(光日上人御返事P1566)
と、仰せられています。

●僧宝であられる、
 日達上人、
 日顕上人、
 御当代日如上人猊下を誹謗しては、
 成仏が叶わないどころか、地獄に堕ちてしまうのではないでしょうか。

●基礎教学書等で、“三宝”の項を全て削除し“三宝”の名を隠すのは、
日応上人が弁惑観心抄(P362)に、
この三宝を知らざる者は、いわる経(自我偈)に、
 「是(こ)の諸(もろもろ)の罪の衆生は (是諸罪衆生)
  悪業の因縁を以(もっ)て (以悪業因縁)
  阿僧祇劫を過ぐれども (過阿僧祇劫)
  三宝の名を聞かず (不聞三宝名)」
と説かせ給う大悪業の衆生たるべし』

と、仰せのようになるのではないでしょうか。

早く、気付かれますように。

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【45】“無二の師匠浅井先生”は本当か?

2019-12-03 | 45】“無二の師匠浅井先生”
【45】富士大石寺に伝わる「師匠」とは?

◆よく幹部会や集会の登壇で、
“無二の「師匠」浅井先生”と言っているのを見聞きます。
“無二”とは、"他にはいない"という事です。

●本当でしょうか?
仏法の「師匠」は、世間でいう、仕事や芸事の「師匠」とは違います。

■仏法の「師匠」について、
○日興上人は、
同じ南妙法蓮華経を唱えたとしても、師匠・弟子を違えたなら、無間地獄に堕ちる
と、仰せです。
『師弟子だにも違い候へば、同じ法華を待(たも)ちまいらせて候へども、無間地獄に堕(お)ち候なり』(佐渡国法華講衆御返事/歴全1-P183)。
そして、
仏法は、師・弟子の筋目をわきまえて、成仏を果たせるのであると。
『この法門は、師弟子をただして仏になり候』(佐渡国法華講衆御返事/歴全1-P183)。

○すなわち師匠・弟子の筋目をわきまえて、
時の法主を師匠の所と、よくよく取り定めて信じなさいと、日有上人は、仰せられています。
『師匠の所を能(よ)く能(よ)く取り定めて信を取るべし、又我が弟子も此(か)くの如く我(時の法主)に信を取るべし』(化儀抄/聖典P974-4条)

●時の御法主が「師匠」である理由を、
仏法の“師匠”である時の御法主上人のところには、
三世の諸仏や日蓮大聖人以来、血脈付法の歴代上人の御意(みこころ)が、
ぬけられて宿っている故に」と、日有上人は仰せです。
手続の“師匠”の所は、三世の諸仏、“高祖”以来、代々上人のもぬけられたる故に』(化儀抄/聖典P974-4条)・手続(てつぎ)の“師匠”とは、時の御法主上人です。・“高祖”とは、御本仏日蓮大聖人です。

・顕正会の皆さんは、
 大聖人様以来、血脈付法の歴代上人の御意(みこころ)が宿っている、
 日達上人日顕上人「時の御法主」日如上人を、
 仏法の「師匠」と信ずるどころか、誹謗・中傷しています。
・そして、
 浅井会長の巧みな演説(旧ドイツのヒトラーに似ている)に心酔して、
 「師匠」と信じている。
 大聖人様は、
 「論師・訳者・人師等にはよるべからず、もっぱら経文(御書御金言)を詮とせん」
  (破良観等御書/P1078)と、仰せられています。
 論師・訳者・人師等とは、自らが「師匠」となっている浅井会長です。 
 これでは、日興上人仰せのように、
 「師匠・弟子を違えて無間地獄に堕してしまう」のです。
 皆さん、早く気が付かれますように。

・さらに、浅井会長の発言は、 
 日興上人日目上人御歴代法主上人を無視し、
 霊媒師の“イタコ※”のように、
 直接、大聖人様と話しているかのような言いっぷりです。
 (※イタコ:死者や神の声を聞き、伝える「口寄せ」が出来るという)
古くは、
あと二十五年で広宣流布ができなければ、核戦争によって日本も世界も絶滅する。
日蓮大聖人の御命令はすでに下っている」(冨士S57.10号)
最近では
 「大聖人様が宗門追放して下さった」(顕聞R元.10.05号/4)
 「日蓮大聖人に言上、御裁断を仰ぐ」(顕聞R元.12.05号/4)
 「大聖人様が許し給わなかった」(顕聞R元.11.25号/4)
と。
・このように、
 自己勝手に大聖人様から、直接聞いた(五老僧や、後世の霊媒師もどき)
 などと、話を作って勝手なことを言い出すのは邪師・邪教です。

・日蓮大聖人は、仏法が末法万年、変化せず、正しく伝わるように、
 三大秘法のすべてを日興上人に付属し、
 唯一人、唯一人と御歴代上人に血脈相承されているのです。

・すなわち、日亨上人が有師化儀抄註解に、
師は針弟子は糸の如く、法水相承血脈相伝等悉(ことご)く師に依つて行はる(富宗1-P124)
と仰せの如くです。

私達は、日寛上人が臨終用心抄に、
師は是れ針の如し、弟子檀那は糸の如し(富宗3-P266)
と仰せの如く、時の御法主日如上人猊下を、仏法の師匠として信じ随順するところに、戒壇の大御本尊様に通ずる法水が流れ、正しい仏道修行ができるのです。

やはり、イタコまがいの浅井会長も、
日興上人仰せのように
『師弟子だにも違い候へば、同じ法華を待(たも)ちまいらせて候へども、無間地獄に堕(お)ち候なり』(歴全1-P183)
となってしまうのではないでしょうか。。


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【44】「約言すれば“国立戒壇”になる」は本当か?

2019-11-14 | 44】「約言すれば“国立戒壇”になる」は本当か?
【44】「一期弘法付嘱書を約言すれば“国立戒壇”になる」(R1.10総幹)は本当か?

◆浅井会長は、十月度総幹部会(R1.10.24)で、
(三大秘法抄の御文は)一期弘法付嘱書の「国主此の法を立てらるれば」との御文になり、さらに➡※この御文を約言、つづめて言えば「国立戒壇」になるのです』
(顕正新聞R1.11.5号)と、指導しています。

●本当でしょうか?

■日寛上人は依義判文抄に、
一期弘法付嘱書の義を、
『まさに知るべし、
「日蓮一期の弘法」とは“本門の本尊”。「本門弘通」等とは“本門の題目”。
➡※戒壇は文の如し
(趣意)/依義判文抄最後に記載
と、御教示されています。

■では「一期弘法付嘱書の御文」、日寛上人の御教示と、浅井会長の指導を比較します、
➡※『この御文を約言、つづめて言えば“国立戒壇になる”』(浅井会長)
➡※『“戒壇は文の如し”』(日寛上人)
どう違うのか-
●日寛上人は、
“戒壇は
(国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。
 時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり。)
の、文の如し”
と仰せられています。

・すなわち、この御文には一切、手を付けず、
まったく、その御文のまま、“文の如し”と仰せです。
日寛上人のみならず、
御歴代上人も、
この御文の引用は、
足すことも、引くことも、約すこともなく、この御文のままです。

・ところが浅井会長は、
この御文を
“約言すれば”“つづめて言えば”などとウソの話に誘導し、
“国立戒壇(※)になる”とスリ替え、顕正会員をダマしているのです。
(※浅井流の国立戒壇)

◆さらに浅井会長は、
『三大秘法抄の御文を要言すれば御付嘱状の御文になり、さらにそれを約言すれば「国立戒壇」になるということです』(顕正新聞R1.11.5号)と、指導しています。

●三大秘法抄と御付嘱状(一期弘法付嘱書)の義は、
・浅井会長の言う、
「三大秘法抄の要言が一期弘法付嘱書(御付属状)になる」のではありません。
浅井会長は、自己勝手な浅井流・国立戒壇に執着するあまり、
一期弘法付嘱書が、三大秘法抄の“要言”程度にしか、
見えない
のかと思われます。

『この御文を約言、つづめて言えば“国立戒壇になる”』は、浅井会長の作り話です。

・正意は、
①「一期弘法付嘱書」に“三大秘法”の義が存します。
②「一期弘法付嘱書」に“下種の三宝(仏宝・法宝・僧宝)”の義も存します。
よって「一期弘法付嘱書」には、
①“三大秘法”と、
②“下種の三宝”の両義があり、
ひるがえって➡“三大秘法”の上に、“下種の三宝”が確立されるのです。

日応上人は、
『かくの如く三大秘法の上に下種の三宝を確立し、
これを信敬(しんぎょう)すべしと遺(のこ)し給えり。』

と御教示されています。

日寛上人、日応上人の御教示を拝します。
●日寛上人、依義判文抄(六巻抄P104)
『「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり」云云。
応(まさ)に知るべし、
「日蓮一期の弘法」とは、即ち是れ本門の本尊なり。
「本門弘通」等とは、所弘は即ち是れ本門の題目なり。
「戒壇」は文の如し。』

●日応上人、弁惑観心抄(p362-3)
『宗祖は一期弘法抄(日蓮一期弘法付嘱書)に云わく、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂ふは是なり 血脈の次第 日蓮日興」
「日蓮」とは“仏宝”なり。
「一期の弘法」とは“法宝”なり。
「本門弘通の大導師」とは“僧宝”なり。
かくの如く“三大秘法”の上に“下種の三宝”を確立し、
これを信敬(しんぎょう)すべしと遺(のこ)し給えり。』

・“もう一度言います”。
『一期弘法付嘱書の御文を約言、つづめて言えば「国立戒壇」になる』
『一期弘法付属書の御文を約言すれば「国立戒壇」になる』等

日蓮大聖人の仏法ではありません。浅井会長のウソの作り話です。
“約言すれば”“つづめて言えば”などとウソの話に誘導し、
“国立戒壇(※浅井流)になる”とスリ替え、顕正会員をダマしているのです。
以上。

※浅井流・国立戒壇:浅井会長の国立戒壇は本物か?☜を見て下さい

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