この数年間、いろいろな出来事もありましたが、とにかく元妙信講の一件ほど不愉快かつ迷惑なことは他にありません。
又、本宗七百年の歴史の間、魔がつけ入らんとしていく度か異流義(日蓮大聖人の仏法をねじ曲げて語る邪宗教)も出ましたが、しかし元妙信講ほど無体な、そして卑劣なものは例を見ない思うのであります。
およそ人たるもの、自分の信条を述べるに当たって、あくまで自分の意見として公にすべきであると思うのであります。
宗門の見解はこうなっておるが自分の意見はこうであるというように、正々堂々と述べるべきであります。
ところが浅井昭衛は、法主である私の名前を利用し、
“私が浅井父子だけに内意を打ち明けた”
と宣伝しておるのであります。
浅井個人の考えに私の考えであるというレッテルを張られては、私としてはたまったものではありません。
しかもその内容が私が公の席で、手続きをふんだ上でそれこそ何度も何度も口がすっぱくなるほど繰り返し言明した旨と正反対であるというのですからなおさら許せません。
云うなれば、私がうその訓諭や説法をして全世界の人々をあざむいているということになってしまいます。
そんなことがあるはずのないことは常識のある方々には、すぐにわかってもらえると思います。
仮に私が本心を打明けるにしても、よりによって講頭父子にすぎぬ浅井ごときまったく信用の置おけない人物に打明けようはずのないことは自明の道理でありましょう。
しかしながら、元妙信講の中で今なお浅井についておる人々はどうも洗脳されて頭がおかしくなっておるらしい。
普段から寺院と切りはなされて浅井の言うことが私の言うことだと聞かされていたためか、今になっても正しいチャンネルの切りかえができないらしく、
(ブ管理者註:「正しいチャンネル」-信心の血脈は、日蓮大聖人(宗祖)日興上人(開祖)-御歴代法主上人-御当代法主上人が“唯一の正しい信心の脈絡”。妙信講は信心の血脈が切れ、途中から浅井昭衛の異流義を信じて“唯一の正しい信心の脈絡”から外れる。この信心が外れた状態から、御当代御法主上人に信心が戻らない事を、「正しいチャンネルの切りかえができない」と仰せられる)
浅井の荒唐無稽な話を信じてさわいでおるから困ったものであります。
私も法主という立場上、総本山に種々のしきたりがあり、みだりに人に会うことも難しい地位にあります。
そのことを利用して何も知らない人達を
“国立戒壇こそ法主の内意である”
などとあざむくことは卑劣この上ないやりかたであり、
(参考:国立戒壇の「名称」は同じでも日蓮正宗と顕正会では「内容」が違う☜Click)
宗門史上かってない猊座に対する冒涜であると思うのであります。
ことは私の名誉にかかわることであり放置しておけば宗門のみならず世間までさわがせる結果になりかねませんので私は断固たる措置をとります。
とともに、今日、ここに見えられた皆さんは私から直接聞いたことの証人となって多くの人に今日の話を伝えて下さい。
浅井昭衛のいう内意云々はまったくの虚言であり、訓諭及び説法以外に私の真意はないことを、元妙信講の人々にもはっきり伝えて下さい。
それでもなお、迷いからさめず、ぐずぐず云うなら、それは本人の自由で、もはやこちらの関与するところではありません。
法主の指南がきけず、浅井昭衛の指南を聞こうというそういう人は、もはや本宗の信徒と認めるわけにはまいりません。その旨、はっきり伝えていただきたいのであります。
私には法主として、宗開両祖以来連綿たる法門を厳然と守り、かつ一千六百万信徒の信仰を安穏ならしめる責務があります。その上で仏法のもとにあらゆる人々を平等に待遇し、一人残らず成仏することを毎日祈念いたしております。
今、冷静に考えますとき、浅井昭衛という男も、迷える哀れな人物であるが、さればといってその狂気じみた妄想のために清浄なる法灯と一千六百万信徒を犠牲にするわけには断じてまいりません。
故に私は公平無私な立場で断固たる措置をとりました。だれはばかるところのない私自身の判断であり、それが正しかったことは時がたてばたつほど確信を持って来ております。
浅井昭衛らはこれを恨んで私に対していろいろと云っておるようであります。
私が信徒の圧力で云うことも云えない臆病な法主であるとか何とか、とにかく失礼千万なことを、こともあろうに“法主を守る”と称して云っているのであります。
私は法主の座について以来の方針として、現在の時代性にかんがみ信心の道をふみはずさぬかぎり信徒の自主性を重んじ、伸び伸びと信行にはげまれるよう心がけてきました。
信者の方々の意見にもできるかぎり耳をかたむけるよう努力してきました。
ただし仏法にもそむくと思われるときは、ささいなことでも一つ一つはっきりと指摘してきております。
相手がだれであろうと、法主として云うべきこと、なすべきことは一つとしてゆるがせにしておらず。宗門の権威は少しもきずつけることなく次へゆずるつもりでおります。
とにかく宗内の混乱は。その立場資格にないものが
“相承を受けた、内容を知っている”とか
“法主から特別の使命を与えられた”
と主張するところからおこり、
何も知らない信者が付和雷同して大きくなっていくものであります。
こういうことをいい出す人には、必ず何らかの野心か下心があることは、過去の実例が証明しております。
とにかく宗門のことは、他の人をたのむ必要は何もありません。
私は、必要なことは全部自分でしますし、自分の意見は自分で云います。よけいなおせっかいは無用であります。皆さん方には私がだれの指図でもない自分で云っていることはよくおわかりいただけると思います。
又、一人の信者に差別して特別の事を云ったり、使命を与えるようなことをするはずがないではありませんか。
(ブ管理者註:昭和33年1月妙信講認証の時にも65世日淳上人が特別な使命を与えるようなことは当然ないということです)
<8/31追記>
御遺命の戒壇について、浅井昭衛らは、執ように
“国立戒壇、国立戒壇”
とくりかえしております。
戒壇についての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既に何回も公にしたとおりであります。
大聖人の仰せは本門事の戒壇である。
本宗相伝の戒壇の御説法に
『弘安二年の大御本尊とは即ちこの本門戒壇の大御本尊の御事なり-中略-
本門戒壇建立の勝地は当地富士山なる事疑いなし、
又其の本堂に安置し奉る大御本尊は今眼前に在すことなれば此の所即ち是れ本門事の戒壇真の霊山、事の寂光土云々』と、
常に説き示されて居る如く、
本門事の戒壇の御本尊在す所が本門事の戒壇で
誰が建てたからと云う理由で事の戒壇となるのではありません。
このことは既に数年前から私が申し述べている所であります。
右(上記)のことを日寛上人の三大秘法御説法を日相上人が科段に分けた御文を参考、ここに添付します。
浅井昭衛らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと云うだけであります。
私は、昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。
私の信念は不動であります。未来永遠において、国立ということはなかろうと確信しておるからであります。
浅井昭衛らは、人のやることに干渉せず、自分たちの力で、やれるものならやってみればよいと思うのであります。
但し、国立といのは本宗の教義ではないので、元妙信講が日蓮正宗と名乗る(ブ管理者註:冨士大石寺の名を盗んで名乗るのも同じ)ことだけは、今日限りやめてもらいたいのです。
法律がどうのこうのという問題とは別の次元で、管長として、法主としてもはや、日蓮正宗信徒でないものが、日蓮正宗という名称を使うことを止めよと命ずるのであります。
<9/1追記>
第一線で戦っておられる皆さんが確信をもって行動できますよう以上の如く私の胸中をお話ししました。
元妙信講らは、何かと云えば暴力をちらつかせ、正しいことを云っていさめる者に対しては集団で毎夜いやがらせに押しかけたり、個人攻撃をするということであります。
大望を口にするにしては、まことにふさわしくない愚劣な手口でありますが、皆様に置かれましては一歩もひくことなく、厳然と戦われんことを期待いたします。
「百の言葉より一つの実行」という言葉があります。日頃、正義感を口にし、論議を盛んにする人も、いざというとき、日和見していては何もなりません。いざというとき一身を挺して事に当たる人こそ真の仏弟子であろうと思うのであります。その意味で、皆様の振舞はまことに貴いものであります。
私のもっとも信頼する法華講の皆さん、どうぞよろしくお願い致します。
』