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インド旅行記1・2 北インド編 南インド編 中谷美紀  その2

2011-12-04 07:37:47 | 読書
インド旅行記1・2 北インド編 南インド編 中谷美紀 幻冬舎文庫





その2

今思うに、これは日本人版
『芭蕉の道 ひとり旅』 イギリス女性の「おくのほそ道」っぽい

『っぽい』がつくのは、誰かの追跡・追想ではなくて
中谷さんの場合、現実からの逃避が理由。
レズリーさんのように全くの一人旅・ヒッチハイク&民泊ではない。
インドと日本の治安の違いも当然あるから形態も変わって当然ですね。

じゃあ何が似ているのか?
レズリーさんと中谷さんが似ているのかもしれない(笑)。
良いものは良い、悪いものは悪い、自分の中の価値観ではっきり割り切る。

ひとつの物事の中や一人の人間なのかに、良いものと悪いものが混在しているという
複雑な物の見方ではなく、どちらかと言えば割り切ったシンプルで明瞭なものの見方である。

さて、何度か読み返して。

女優さんにして文筆家。
女優さんは、文学に精通しているというか文学を体現する人でもある。
感じたことを吐露するのには長けているとしても文章力も本当に素晴らしくて読ませる力がある。

逆三角形のインドの最南端の岬カニャクマリ。ここはベンガル湾とインド洋、そしてアラビア海が交わる聖地。
P95~98 第二巻 南インド編 本文より
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 歩道を占拠して冷蔵施設もないまま青空ミートマーケットでは、籠に入ったニワトリと、ロープで繋がれたヤギがその場で解体され、売られていくらしく、地面に横たわったヤギがひととおり血を流し終えると、はだしの男性が二人がかりで皮を剥ぎ始めた。
 
 目を見張る光景に思わず立ち止まることとなったが、鮮やかな手さばきはスピードを緩めることなく、足を切り落とし、然るべき箇所に切り込みを入れ、洋服を脱がすかのごとくスルスルと毛皮を引っ張っていく。気の毒なヤギは途中で逆さづりにされ、皮と肉の間に水を注がれながら、ついに頭と一緒にすべて皮が剥ぎ取られ、丸裸になってしまった。皮と頭を地面に投げ捨てると、二人の男性は代わる代わるナイフを手にして、内臓を取り出し、パートごとに肉を切り分けていく。
 
 通りすがりの客は解体しているそばからその肉を買っていき、匂いを嗅ぎつけたカラスがやってきては、地面に残る赤い血を舐めていた。以前は何のためらいもなく食べていた肉がこうして過程を経て食卓へ上がることを目の当たりにするのは、とてもショッキングで、「本当に、もう、肉は、食べられない!」と思った。
 
 動物愛護の精神はそれほどなく、生態系の一環としての動物は慈しむべきものであっても、ペットや動物園にはさほど興味がなかったし、ましてや肉だろうが魚だろうが、人間は食べたいものを自由に食べる権利があると思っていたにもかかわらず、ヤギの解体劇は食べるという行為の根源を揺るがすような、もの凄い衝撃的な出来事だった。当然のことながら野生の肉食動物はこうした動物を貪るけれど、人間が果たして同じように動物を食べる必要があるのだろうか?自ら生け捕り解体することなく、食肉業者にまかせきりでも動物を食べる権利があるのだろうか?
 
 この手の話には、やれ出汁はどうなのかとか、皮革製品はどうなのかとか、細かく挙げていったらきりがないし、各々の宗教によっても見解は異なるので、その是非について世に問うつもりなど毛頭ないし、少なくとも、私が肉を食べなくなったのは、興味本位、健康本位でで、さらに食べなくなったら肉の匂いに耐えられなくなったというだけのことなのだが、それにしても・・・・・・。
 
 すぐ隣では、羽を縛られ、首を掻き切られたニワトリが、小さなドラム缶に投げ入れられ、バタバタともがいている。最後の雄叫びを上げながら暴れれば暴れるほドクドクと血が流れる。そうしたニワトリがびくともしなくなってから、時にはまだばたつかせている足を無理やり切り落とすと、羽ごと皮をむしり取り、わずかに残った羽も丁寧に取り除かれた。
 
 ピンク色の肉が露わになると、今度はもも肉、胸肉、手羽などの部位が切り取られ、砂肝も取り出される。俎板代わりの木の切り株は血で汚れ、カラスやハエが捨てられた内臓に群がる。なにもこのような全てを見なくてもよかったのに、野菜しか食べなくなってようやく、こうした過程も身ておくべきだと思うようになった。料理をするときにはあくまでも食材のひとつでしかなかった肉類が、実際には生きた動物たちから切り取られるのを目の当たりにしては、食事の選択から当分肉を省くことになりそうだ。
 
 消費者が自ら処理することなく安心して肉を食べられるのは、肥育農家で育てられた動物たちを食肉へと変える人々が存在するお蔭なのだということも忘れがたいことだった。彼らの仕事ぶりは大変見事なものだったし、そのお蔭で我々は美味しく肉をいただくことができるのである。これらを承知でもなお食べたければ、それこそ本当に感謝して食べればいいと思うけれど、今まで十分美味しい肉は食べた。それでもう満足した。

以上本文より

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今度公開の映画『紫式部』京都の平安神宮でワールドプレミアイベントの際
とある番組のインタビューに答えた中谷さんは、

最近はタンパク質もとるようになったと答えていた。

やっと上記のトラウマから抜け出せたのかなと思って(笑)。
インド紀行の中にちりばめられた中谷流価値観。
女優さんが自分の思いのたけをつづればつづるほど、誤解のもとになる危険をはらむだろう。

ただしこの人は常気持ちよく赤裸々である。もちろん、村上春樹氏並みの逆説カバー表現も忘れてはいないが。
こういう価値観でなければ逆に女優の仕事はできないのかも、とか思ったりする。


アレルギーや宗教以外のにわかベジタリアンって不思議だ。
土をいじって野菜を育てる自分にとっては、野菜もヤギやニワトリと何ら変わらない
『命』を持っているという認識がある。もっと大きな意味の『命』のくくりでものごとをみるなら不思議な感覚。
人間何らかの命をいただかないと生きてはいけない定めなのだ。

自分が育った田舎では、ニワトリを自分ちで飼ってるからたまにつぶして食べる。
(ニワトリに関しては、特定の場所で処理しなければいけないという規定はない)
ニワトリは毎日卵を提供してくれたが、ある時期が来ると肉に変身する。
おじいちゃんは、柿の木に吊るしたニワトリを手際よくさばく。小さいころの見慣れた光景だ。
そうした夜、祖父母と孫の私、3人の夕飯はご馳走になり、時々の楽しみでもあった。
幼稚園児の私は言われなくたって感謝して食べる。

近所のお姉さんが回覧板を持って来た時、そういうことに遭遇すると断末魔のニワトリ以上にうるさい。
「きゃーきゃー」って遠巻きに騒いでいる(笑)でもそのお姉さんは最後まで見て味見もして帰った。
田舎でもつぶす家とつぶさない家があるみたい。きっといい経験をしたんだ。


単に生活の中にそういう『命』の経過を経験する機会があったかなかったかの、
そういうことの違いでしかない。
だから経験のない人がショックを受けるのは当然かもしれない。

けれど、時々、しゃれたレストランでステーキを美味しいと堪能する一方で、
動物を食肉に変える現場をみると『嫌だわ』とか『惨い』『怖い』とか『気持ち悪い』とか、
ショックではなくて、軽蔑やら自分とは関係のないことのように忌諱する感情にぶつかって
なんだ なんだ と思う。

自分も磯江毅氏のウサギの皮を剥いだ画を見て
気分悪くなったくちだから、人のことは言えないがちょっとニュアンスが違うのだ。

お肉だけおいしいわって食べて、行為を受け入れなかったら言っても説得力ない。
自分は命の経過を小さいころ生活の中で体験できててよかったなと思う。



中谷さんその後どこかの駅で、ヤギの生首を山盛り積んだトラックに遭遇することになる。
『ギャー』って叫んだら、その山の上に乗っかってる少年に笑われたりする。
これは私もまだ経験がない。
ガンジス川の川べりで荼毘に付すインドでは、命も赤裸々である。

インドの宗教は複雑で、ヒンドゥー教、イスラム教、シーク教、仏教、キリスト教、ジャイナ教他いろいろ
ベジタリアン(緩い人・厳しい人)もいれば、ノンベジタリアンもいるし、牛肉はダメとか豚肉ダメとか
何かしらの意味があってのこと。子どもたちの就学制度は整っていても、日々のお金を稼がせるために学校に行かせない親が多いとか、ヒンドゥー教とイスラム教が仲悪くて喧嘩して後の宗教同士は喧嘩しないとかとか。
カースト制度も政府の政策で改善しようと試みているものの依然厳しいらしい。
中には厳しい階級制度を利用して、下に行くほど金銭援助がもらえるといって、階級を下げるとか、
警察は賄賂で人殺しも交通違反もチャラにするとか・・・・・・
商売は暴利を吹っ掛けるかまがい物を売りつけるか、
オートリキシャの運賃は一定額ではなくふっかけられる場合が多く
財布やパスポートは盗まれなかったらラッキーで・・・中谷さんはしっかり盗まれた。

『命』がどうとかいう前に、インドの不思議るつぼの中で、負けずに頑張る女ひとり旅は称賛に値した!!

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