日本人のための「憲法改正」入門

日本人が日本のために、そして世界の平和と繁栄に貢献できる国家となるために、必要となる憲法改正について考えましょう。

正しき憲法改正ーその遠き道のりー

2015-09-20 | 日記
先日、ようやく安全保障法案が可決されましたが、以前から述べているように安全保障の問題は、憲法にきちんと書き込むべき問題であり、本来憲法を先に改正しなければならないものであったと思います。

ただ、現実的に困難な面があり、このような形になったことはやむをえないのですが、日本の安全保障の問題を実効たらしめるために、今後憲法の改正が大きな課題となってきます。

今回の安全保障法案の問題に関して、国民の正しい理解を妨げたのが野党やマスコミだったのではないでしょうか。安全保障法案を「戦争法案」と名付けたり、マスコミがほぼ一色になって反対の報道を行ったことなど、国民はその安易なスローガンに振り回された感があります。

また、学生を含めた若者が国会前で何度もデモを行っていましたが、彼らは全国規模で学生の勉強会を主催し、賛成や反対はともかく正しい歴史や国際情勢、今回の安全保障法案の内容をもっと十分に学ぶべきだったと思います。

その意味で、「戦争反対」だとか、「安倍はやめろ」などというスローガンを叫ぶだけの活動はやはり多くの若者の安全保障に対する正しい理解を妨げました。

ただ今回の安全保障の問題では芸能人や著名人が自分の意見を表明えざるをえない形になり、多くの人が勇気をもってその意見を述べたことは非常に良かったのではないかと思います。

このような賛成・反対が分かれ、価値観が分かれる問題に関してはそれを話題にしないとか意見を言わないというのが大人の態度のように思われているのかもしれませんが、民主制の根本には異なる価値観を持った人や自分と反対の意見を持った人とも、冷静に議論する土俵がなければならないのです。

反対運動の在り方や、国会での議決の状況を見るにつけて、暗澹たる気持ちや情けない気持ちになったのは私だけではなかったのではないでしょうか。

野党議員の暴力的ともいえる抵抗や、安倍首相に対する誹謗中傷。反対のパフォーマンスに興じる国会議員。多数決での議決を「独裁」などと騒ぎ、議会の正当な手続きによる議決を「強硬採決」と叫ぶ国会議員。

自民党は安全保障を含め、憲法改正までうたった上で選挙を戦い圧勝したのです。このような反応は国会議員の間にさえ、議会制民主主義というものに関する理解や、民主制というものに関する理解がほとんどできていないことを実感させます。

今後国民の間で正しい議論や理解がなされた上で正しい憲法改正がなされるまでには、まだまだ遠い道のりがあると感じました。

逆に、何か事が起きたときには感情的な動きが起き、間違った方向に憲法改正がなされる可能性もあるのです。

あるいは、憲法改正もしないままで、自衛隊を戦地に送るはめになるかもしれません。今は平和の中に生きている前提だからいいものの、有事の時に冷静な判断を失って、間違った道を歩む可能性もあるだろうと思います。

例えば朝日新聞は戦中には戦争を大いに煽っていましたが、戦後は手のひらを返したように反日報道を行っています。そのような節操のないマスコミの体質によって踊らされ、国民が間違った選択と判断をする可能性があるわけです。

その意味で、今後憲法改正が政治日程に上ってきたときに、正しい知識や情報をもとに、冷静な議論ができるのかどうかに関して、私は非常な不安をおぼえるのです。

また教育に関しても、少なくとも現在の日本史の教科書などで日本の歴史を学んでいる子どもたちは、まだまだ十分に正しい歴史の知識に触れていません。また、教育者も戦後の教育に洗脳され、正しい歴史の知識や情報を持っていません。子どもたちはそのような環境で学び、そのまま何も知らずに大人になり、有権者になった時に、間違った前提を当然のこととして選択や判断を行っていくでしょう。

学校を超えた世界での学習の機会や啓蒙の機会が必要であるゆえんです。

戦後70年の間、日本の平和が守られ、その中で生きてきた若者が(それは自分も含めて)平和を叫ぶことは簡単なことです。

しかし私は平和の中に有事を憂い、有事の中に平和を観じる精神がなければ、本当に正しい判断はできないと思います。

この両極にあるものを同時に観じながら、極端な議論や感情的な議論を排してこそ、中道の道(正しき道)を選択できるのです。

ですから今回のマスコミの動きや野党の動きを見たときに、情けないという気持ちでいっぱいになるのです。

マスコミは正しい情報や知識を偏らずに報道すべきですし、野党も反対の立場であるならば、その論拠や理由を冷静に述べながら、国民の代表として議論すべきです。

国民が日常の生活や身近な情報に翻弄され大局的な判断ができないからこそ代表者を選び、国会に送り、税金で雇って政治を行わせているのにも関わらず、ほとんど小市民と同じような行動や発言、態度を取っていたのが、多くの野党議員の姿でした。

そのようなことであれば、国会議員として存在する意義はほとんどないといってもいいのです。彼らは国会議員の資格も自覚もないのではないでしょうか。

一般の国民の方がはるかに冷静に、客観的に事態を見据えていたのではないかとさえ思います。

今後は憲法改正を視野に入れ、着実な啓蒙活動と議論を積み重ねていかなければならないと思います。その意味ではもっともっと国民もこのような問題に関して積極的に学んでいかなければなりません。多くの国民はまだまだ国防や安全保障を他人事のように考えているふしがあるのです。

憲法改正が必要な理由は明らかです。憲法は日本の精神が書きこまれていなければなりません。どのような国家ビジョンをもち、世界でどのような役割を果たすのか、どのような国家としてこれから国家運営を行っていくのか。

自分たちの国の在り方をどのようなものと考え、それをどのように作っていくのか。

国家が危機に瀕したり、自分たちの同胞が様々な危険にさらされたときにどのような態度を取るのか。

その覚悟は、その手段は。

そのようなものをきちんと憲法に書き込み、国民的な合意が形成されない限り、日本は独立した国家として永続的に繁栄し、世界の人々の幸福に貢献できる国家にはなりえないのです。

今後、政治家には日本国のあり方から、根源的な議論を巻き起こし、国民に提示提案できる資質を求めたいと思います。

国民も今後、主権者としての在り方が問われることになるだろうと思います。国民が政治への関心を失ったら、民主政治は崩壊します。あるべき主権者の道は遠いのです。その遠き道のりを一歩一歩と歩んでいくことが必要なのです。