1月5日 朝7時半。
無事大阪に到着。
臨時の観光バスが「夜行便」として出ておりどうにか乗り込むも
トイレがないため、2時間おきにパーキングに駐車。
空調は暑すぎ、隣は近すぎ、しかも悲しいことに通路側。
疲れたなぁ。。。
次はきちんと「夜行」用のバスを取ろう。
ついたら、年賀状が何枚か届いていた。
それ見た瞬間ブルー(笑。。
去年の末頃、いつもお疲れ様会をする先輩が
「サラリーマンたるものできる礼儀はしっかりと。
お世話になった方、上の人には全部出す。」
というから、一念発起。
50枚くらい手書きした。
書いてたら、色々思い出してついつい真剣に書いた。
とてもよかった(はず)。
でも束になった、賀状を何枚か見てそれ以上見れなくなった。
写真で撮ってみて少し笑えたけど。。輪ゴムを外す気が起こらん。
よっぽど嫌なんだろうなあ。
そういえば、会社で住所録を作るとき、
一人暮らしのほとんどが実家の住所を出さないのは、
義理は果たすもののそれ以上煩わされたくないからだろう。
誰に出して、誰が出してないのに着たのかを調べて
また書かなきゃなあと思うことも本当に憂鬱。
正月読んでた『発信力』樋口裕一著にて、
「社会に出たからには真っ正直に物事を捉えるのではなく、
大人としての演技を心掛けるべきだ。
演技をすることが大人の義務と心得ておくこと」
とあった。
私は大人として賀状は出したが、正月に実家に戻り
今ちょっと幼児返りしているのか。。。大人に戻りきれてないのだろう。
社会における暗黙のルールって難しい。
最近流行のYKというように、空気を大切にする風潮は洞察力や
周りと同じ情報を持っておく同質性を求める。
そして、大人になると社会のたいていのことに一家言求められる。
今自分が何を感じているのか、自分の声ではっきりと。
私の思想はまだ固まらない。
「建前か本音か」と考え過ぎてしまうと、途端よくわからなくなる。
自分の気持ちがわからなくなってしまい、
結局どこかで聞いた話をまくしたてるだけで、無力感。
そもそも自分は何に興味があるのか、誰にわかって欲しいのか、
何をわかって欲しいのか考えて考えて、砕けては悩んでる。。
そうそう、賀状だが、何がそんなに見たくないのか。
我ながら、個別の存在からの「受信」が苦手だ。
自分の至らなさを痛感する毎日だけに、これ以上のダメだしも
変なお世辞も、テキトーな大人の挨拶も聞きたくない。
って、思うから関係ない他人の言葉に興味が持てず
大人のマナーで書かれた賀状を見なくていいという説が1つ。
つい真剣に書いた賀状が今思い出すと恥ずかしいので忘れたいという説も。
会社が嫌で、まだ思い出したくないという説も成り立つ。
本命は、パラっとみた賀状の内容が結婚しただの子供が3歳だの
今年も頑張ろうだの、やけに楽しげでつまらないからという説あたりだろうか。。。
私に頑張らせた当の先輩は印刷が間に合わず走り書きの賀状をくれた。
出さなくていいと再三言ったのに出してきたなら、
それなりの工夫がほしいところだなあ
まあどうでもいいか。
■■■
繰り返す失敗の中から学んだこと。
『人生の通過点での恥は掻き捨て』
皆、自分が主役の人生を生きているから
私の失敗が誰かの記憶に残ったとしてもそれはごく少数でしかなく、
また私が気にしなければ気にならないものだということを知った。
他人なんて関係ない。
自分の人生を、自分なりにどう生きるのか。
自分の恥ずかしさのない人生を生きるために頑張れ。
年賀状を読まない自由は私が決めること。
来るものでも、取捨選択して受け入れる。
去って欲しいものなら、自らの意思のように去らせる。
万物流転。悩んでも仕方ないことはどうでもいい。
意思で勝利できることには、意思を持つ。
そして、何を選ぶかを決める力をつけることが成長
まだまだ煩悩との付き合いは長引きそうだけど、、、
無事大阪に到着。
臨時の観光バスが「夜行便」として出ておりどうにか乗り込むも
トイレがないため、2時間おきにパーキングに駐車。
空調は暑すぎ、隣は近すぎ、しかも悲しいことに通路側。
疲れたなぁ。。。
次はきちんと「夜行」用のバスを取ろう。
ついたら、年賀状が何枚か届いていた。
それ見た瞬間ブルー(笑。。
去年の末頃、いつもお疲れ様会をする先輩が
「サラリーマンたるものできる礼儀はしっかりと。
お世話になった方、上の人には全部出す。」
というから、一念発起。
50枚くらい手書きした。
書いてたら、色々思い出してついつい真剣に書いた。
とてもよかった(はず)。
でも束になった、賀状を何枚か見てそれ以上見れなくなった。
写真で撮ってみて少し笑えたけど。。輪ゴムを外す気が起こらん。
よっぽど嫌なんだろうなあ。
そういえば、会社で住所録を作るとき、
一人暮らしのほとんどが実家の住所を出さないのは、
義理は果たすもののそれ以上煩わされたくないからだろう。
誰に出して、誰が出してないのに着たのかを調べて
また書かなきゃなあと思うことも本当に憂鬱。
正月読んでた『発信力』樋口裕一著にて、
「社会に出たからには真っ正直に物事を捉えるのではなく、
大人としての演技を心掛けるべきだ。
演技をすることが大人の義務と心得ておくこと」
とあった。
私は大人として賀状は出したが、正月に実家に戻り
今ちょっと幼児返りしているのか。。。大人に戻りきれてないのだろう。
社会における暗黙のルールって難しい。
最近流行のYKというように、空気を大切にする風潮は洞察力や
周りと同じ情報を持っておく同質性を求める。
そして、大人になると社会のたいていのことに一家言求められる。
今自分が何を感じているのか、自分の声ではっきりと。
私の思想はまだ固まらない。
「建前か本音か」と考え過ぎてしまうと、途端よくわからなくなる。
自分の気持ちがわからなくなってしまい、
結局どこかで聞いた話をまくしたてるだけで、無力感。
そもそも自分は何に興味があるのか、誰にわかって欲しいのか、
何をわかって欲しいのか考えて考えて、砕けては悩んでる。。
そうそう、賀状だが、何がそんなに見たくないのか。
我ながら、個別の存在からの「受信」が苦手だ。
自分の至らなさを痛感する毎日だけに、これ以上のダメだしも
変なお世辞も、テキトーな大人の挨拶も聞きたくない。
って、思うから関係ない他人の言葉に興味が持てず
大人のマナーで書かれた賀状を見なくていいという説が1つ。
つい真剣に書いた賀状が今思い出すと恥ずかしいので忘れたいという説も。
会社が嫌で、まだ思い出したくないという説も成り立つ。
本命は、パラっとみた賀状の内容が結婚しただの子供が3歳だの
今年も頑張ろうだの、やけに楽しげでつまらないからという説あたりだろうか。。。
私に頑張らせた当の先輩は印刷が間に合わず走り書きの賀状をくれた。
出さなくていいと再三言ったのに出してきたなら、
それなりの工夫がほしいところだなあ
まあどうでもいいか。
■■■
繰り返す失敗の中から学んだこと。
『人生の通過点での恥は掻き捨て』
皆、自分が主役の人生を生きているから
私の失敗が誰かの記憶に残ったとしてもそれはごく少数でしかなく、
また私が気にしなければ気にならないものだということを知った。
他人なんて関係ない。
自分の人生を、自分なりにどう生きるのか。
自分の恥ずかしさのない人生を生きるために頑張れ。
年賀状を読まない自由は私が決めること。
来るものでも、取捨選択して受け入れる。
去って欲しいものなら、自らの意思のように去らせる。
万物流転。悩んでも仕方ないことはどうでもいい。
意思で勝利できることには、意思を持つ。
そして、何を選ぶかを決める力をつけることが成長
まだまだ煩悩との付き合いは長引きそうだけど、、、
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