昔むかし、とても美しいみごとな庭園がありました。それは広い天国の真ん中にある村の西のほうにありました。この庭園の主人は、昼間の一番暑いときに毎日散歩するのが習慣になっていました。
この庭園に、高貴な姿の一本の竹が生えていました。それは、庭園の全ての木の中で一番美しく、主人はこの竹を他のどの植物よりも愛していました。年がたつにつれ、この竹は成長し、ますます立派な優雅な姿になっていました。竹は、主人が自分のことを愛し、喜びとしていてくれることをよく知っていました。ある日のこと、主人が憂いに沈みながら彼の愛する木へ近づくと、木は畏敬を表して頭を垂れました。主人は彼に言いました。「愛する竹よ、私はお前が必要なのだ。」竹にとって、毎日の日々の中のその日のために生まれてきた、まさにその日がやって来たように思えました。大きな喜びをもって、しかし落ち着いた声で竹は答えました。「おお、ご主人様、すぐにでも。お望みのとおりに私をお役立てください。」
「愛する竹よ」主人の声は悲しげでした。「お前を使うためには、お前を切り倒さねばならない。」竹はびっくりし、ただ驚くばかりでした。「私を切り倒すですって、ご主人様?あなたの庭で一番美しい木に成らせてくださったこの私を?どうかお願いですからやめてください。私をあなたの喜びにお役立てください、ご主人様。でもお願いですから私を切り倒さないでください。」
「私の愛する竹よ。」と主人は言い、その声はもっとさらに憂いに沈んでいました。「もしお前を切り倒すことができなければ、お前を使うことができないのだよ。」
庭園の中はそれから静まり返りました。もはや風は吹かず、鳥たちの歌声もありませんでした。竹はまた見事な頭をゆっくり、とてもゆっくりと下げました。そしてささやきました。「ご主人様、私を切り倒さずには使えないのならば、お望みのとおり、私を切り倒してください。」
「私の愛する竹よ。」主人はさらに言いました。「お前を切り倒さねばならないだけではなく、葉と枝も切り取らなくてはならない。」「おお、ご主人様。」竹は言いました。「私にそんなことをなさらないでください。せめて、私に葉と枝は残してください。」
「もし、切り取ることができなければ、使うことができないのだよ。」と主人は言いました。
それから、太陽は隠れ、鳥たちは心配げに飛び去って行きました。竹は震えてやっと聞き取れるような声で言いました。「ご主人様、切り取ってください。」
「私の愛する竹よ、まだお前にもう少しせねばならぬことがある。お前を真っ二つに割って心臓を取り出さなくてはならない。それができなければ、お前を使うことができないんだ。」
竹は、もはやしゃべる力もなく地面にまで身をかがめました。
このようにして、庭園の主人は竹を切り倒し、枝を切り取り、葉を取り去り、真二つに割り、その心臓を抜き取りました。それから、その竹を彼の干上がった畑の近くにある冷たい水の湧き出る泉に運びました。そこで、慎重に主人は愛する竹を大地に置きました。切り株の端を泉につなぎ、反対の端を彼の乾燥した畑のほうに向けました。
泉からの豊かな水は、とても待ち望んでいた彼の畑にあふれ出ました。それから、米を植えました。日が過ぎ去って、種は実り、収穫の時がやってきました。このようにして、その素晴らしい竹は確かに彼の清貧と慎ましさによって大きな神の恵みとなりました。
まだ、大きく、美しく、優雅であったときには、自分自身の美しさを愛するのと同じように、自分のためにだけ生き、成長していたにすぎませんでした。
反対に、貧しく、打ち砕かれたその身は、主人が彼の国を実り豊かにするために用いた水路となったのでした。
(宮本 訳)
十 主の平和
三寒四温・梅開花・花粉症・・・どれもあいさつに迷う季節です
お元気でしょうか。
叙階式の様子が私まで参加した気持ちになり心から喜びと共に
私達信者一人一人がしっかり守り育てる意識を保たねば、と
思いました。
神父様は孤独で信者の荷を一人で(神様とですが)肉体というものをもって
おられるのですからもっと大切にしなければと思います。
私は夫が風邪で1週間ほど寝込んだので老老介護の実体験をし、フーフー
いってメロメロになり、今後のことを真剣に考えてしまいました。
埼玉教区 ベルナデッタ和子 より
三寒四温・梅開花・花粉症・・・どれもあいさつに迷う季節です
お元気でしょうか。
叙階式の様子が私まで参加した気持ちになり心から喜びと共に
私達信者一人一人がしっかり守り育てる意識を保たねば、と
思いました。
神父様は孤独で信者の荷を一人で(神様とですが)肉体というものをもって
おられるのですからもっと大切にしなければと思います。
私は夫が風邪で1週間ほど寝込んだので老老介護の実体験をし、フーフー
いってメロメロになり、今後のことを真剣に考えてしまいました。
埼玉教区 ベルナデッタ和子 より
砂漠を歩いていた2人の友達の物語。
旅の途中で口論になり、ひとりが相手に平手打ちを食らわせた。
やられた人はひどく傷ついたが、何も言わず砂に書き付けた。
“今日ぼくの親友はぼくを平手打ちにした。”
旅を続け、オアシスを見つけたので、水浴びすることにした。
平手打ちされた人が危うく溺れそうになったが、友人が彼を助け上げた。
人心地つくと、彼は石の上に書いた。
“今日ぼくの親友はぼくの命を救ってくれた。”
平手打ちを食らわせ、また命を救った友人は彼に尋ねた。
「きみを傷つけたときには砂に書いたが、今度は石の上に書いたね。なぜだい?」
彼は答えた。
「誰かがぼく達を傷つけるときには、砂の上に書くべきだ。
そうすると、ゆるしの風が吹いて、それを消し去ってくれる。
だけど、よいことをしてくれたときには、石に刻み込むべきだ。
そうすれば、どんな風もそれを消し去ることはできない。」
あなたの痛みや悲しみは砂の上に書き、喜びは石に刻むことを学びましょう。
このような言葉があります。
特別な人を見つけるのに必要な時間は、1分。
その人の大切さが分かるのには、1時間。
その人を愛するようになるのには、1日。
しかし、その人を忘れてしまうには、一生涯かかる。
よりよく生きるために時間を用いましょう。
川本。訳
旅の途中で口論になり、ひとりが相手に平手打ちを食らわせた。
やられた人はひどく傷ついたが、何も言わず砂に書き付けた。
“今日ぼくの親友はぼくを平手打ちにした。”
旅を続け、オアシスを見つけたので、水浴びすることにした。
平手打ちされた人が危うく溺れそうになったが、友人が彼を助け上げた。
人心地つくと、彼は石の上に書いた。
“今日ぼくの親友はぼくの命を救ってくれた。”
平手打ちを食らわせ、また命を救った友人は彼に尋ねた。
「きみを傷つけたときには砂に書いたが、今度は石の上に書いたね。なぜだい?」
彼は答えた。
「誰かがぼく達を傷つけるときには、砂の上に書くべきだ。
そうすると、ゆるしの風が吹いて、それを消し去ってくれる。
だけど、よいことをしてくれたときには、石に刻み込むべきだ。
そうすれば、どんな風もそれを消し去ることはできない。」
あなたの痛みや悲しみは砂の上に書き、喜びは石に刻むことを学びましょう。
このような言葉があります。
特別な人を見つけるのに必要な時間は、1分。
その人の大切さが分かるのには、1時間。
その人を愛するようになるのには、1日。
しかし、その人を忘れてしまうには、一生涯かかる。
よりよく生きるために時間を用いましょう。
川本。訳
使徒パウロのコリントの教会への手紙(I)15・20-28
使徒パウロはいろんな話題に踏みつけるとキリストから発進して、キリストに戻ることになっています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っています。使徒パウロによるとイエス様が来たのは死者が命を得るためです。使徒パウロの思う死者とは体で亡くなった者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者のようなものです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来ました。皆を神様の方に取りもどすためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の心に戻るのは確かに使徒パウロがおっしゃったように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、最後にその他の者全て、そしてどんなことでも神様のところにもどります。このようなことは宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標であり、イエス様が人間を悩ませる敵、その中の死にもまで打ち勝って、皆をもともとあったように神様のふところにすべて取りもどしたいのです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9
今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。
使徒ペパウロのテサロニケの教会への手紙(Ⅰ)5・16-24
使徒パウロはテサロニケの信者に、大きな情熱で神様の望みを伝えています。祈るように、喜ぶように勧めています。感謝の心で生きることです。聖霊で照らされた私たちの人生を、いつも良い事で、肯定的な思いで満たさねばなりません。そのようにすることで神様の心を現わせます。聖霊がイエス様に従った者たちの中に宿っていますから、使徒パウロは彼らに対してご自分の書簡に於いて大きな尊敬を現わし、聖なる者、聖人、神に選ばれた者などと呼んでいます。そして使徒パウロは神様に招かれた者たちに、いつもイエス様に反する思いや行いをしないように願い、いつも神様の思いのままに生きるように勧めています。そうすることによって、来られる光である救い主は私たちの人生を豊かに満たしてくださいます。
使徒パウロのローマの教会への手紙16・25-27
この頃、典礼から勧められた朗読は、特別に神様の心の豊かさを感じさせられる箇所になっています。神様の言葉は福をもたらす音であり、使徒パウロによると、いつどんな時でも私たちの心は強められています。皆の心の中に、愛で満ちた人生のための計画があります。その希望と計画は秘められて一番愛する人に告げられます。それは目立たない徴(きざし、しるし)から始まり、預言者を通して明らかになり、最後にイエス様を通して啓示されました。その計画は皆のための喜びであり、神の命、希望です。それを理解して受け入れるのは素朴な人であり、信じる者であり、どんな神様の言葉をも受け入れる人なのです。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6
エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属す者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当個所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています。
モヨリ神父
使徒パウロはいろんな話題に踏みつけるとキリストから発進して、キリストに戻ることになっています。言い換えれば使徒パウロにとってイエス・キリストはすべての王であるのです。イエス様は一人一人の永遠の喜びを求めながら、皆が神様の心によって生きるように願っています。使徒パウロによるとイエス様が来たのは死者が命を得るためです。使徒パウロの思う死者とは体で亡くなった者だけではなく、罪によって神様から離れた者、神様のことを信じない者も死者のようなものです。しかし復活されて、死に打ち勝ったイエス様は上記のような死者に命を取り戻すためにこの世に来ました。皆を神様の方に取りもどすためなのです。宇宙万物と人類が神様に戻るのはイエス様の目標であり、神様の本願です。だから神様の心に戻るのは確かに使徒パウロがおっしゃったように順があります。言い換えれば行きやすい順番があります。最初にご自分の命を捧げられたイエス様です、次はイエス様に従った者たち、最後にその他の者全て、そしてどんなことでも神様のところにもどります。このようなことは宇宙万物の王であるイエス・キリストの大きな望みと目標であり、イエス様が人間を悩ませる敵、その中の死にもまで打ち勝って、皆をもともとあったように神様のふところにすべて取りもどしたいのです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(Ⅰ)1・3-9
今日、朗読される使徒パウロの第一コリントの教会への手紙の始まりは、もうすでに何度も、耳にされたのではないでしょうか。このような表現はミサ、つまり感謝の祭儀の始まりの挨拶として使われています。さて、使徒パウロにとって、人間の人生でさえも典礼的な行動になっています。私たちの生き方は、神様から頂いた恵みによって、感謝の祭儀にそったもののようになっています。それだけではなく、イエス様に信仰によって結ばれている私たちが、イエス様と一緒に神様に対する捧げものになっています。このようにイエス様に愛されて、支えられている私たちが、生きている間に再びイエス様との出会いを待っています。その出会いはいろんな方法で行われています。この世の終わりの時、また私たちの人生が閉じられる時、そして各々の人生の多くの出来事の中でもイエス様に会うことができます。私たちは、使徒パウロの言葉によってイエス様に誘われ従ったのですから、私たちの人生は神様の賜物で満たされています。ですから、神の子となり神様との再開を期待しながら積極的に生きていきましょう。
使徒ペパウロのテサロニケの教会への手紙(Ⅰ)5・16-24
使徒パウロはテサロニケの信者に、大きな情熱で神様の望みを伝えています。祈るように、喜ぶように勧めています。感謝の心で生きることです。聖霊で照らされた私たちの人生を、いつも良い事で、肯定的な思いで満たさねばなりません。そのようにすることで神様の心を現わせます。聖霊がイエス様に従った者たちの中に宿っていますから、使徒パウロは彼らに対してご自分の書簡に於いて大きな尊敬を現わし、聖なる者、聖人、神に選ばれた者などと呼んでいます。そして使徒パウロは神様に招かれた者たちに、いつもイエス様に反する思いや行いをしないように願い、いつも神様の思いのままに生きるように勧めています。そうすることによって、来られる光である救い主は私たちの人生を豊かに満たしてくださいます。
使徒パウロのローマの教会への手紙16・25-27
この頃、典礼から勧められた朗読は、特別に神様の心の豊かさを感じさせられる箇所になっています。神様の言葉は福をもたらす音であり、使徒パウロによると、いつどんな時でも私たちの心は強められています。皆の心の中に、愛で満ちた人生のための計画があります。その希望と計画は秘められて一番愛する人に告げられます。それは目立たない徴(きざし、しるし)から始まり、預言者を通して明らかになり、最後にイエス様を通して啓示されました。その計画は皆のための喜びであり、神の命、希望です。それを理解して受け入れるのは素朴な人であり、信じる者であり、どんな神様の言葉をも受け入れる人なのです。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙3・2-6
エフェソの信徒への手紙は、使徒パウロのまとまった教えを幅広く紹介しながらイエス様と教会との関係について語っています。教会は建物ですが、イエス様の体、イエス様の花嫁とも言われる象徴ですから、キリスト信者になって教会に属す者たちは、それにふさわしい生活を送らなければなりません。当個所で使徒パウロは、自分の使命を強調してエフェソの信徒たちに神様のみ恵みの働きについて語っています。神様の心に秘められた計画が啓示によって明らかにされました。そしてその計画、つまり人類を救う方法はイエス様を通して聖霊の働きで知られました。イスラエル人であれ異邦人であれ、聖霊の力で神様の愛で満ちた計画を知るようになり、その救いの計画の対象になりました。つまり、イエス様によって神様のご計画を知るようになった人は皆一体となり、神様が約束された報いの対象になっています。
モヨリ神父
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・1–5
今日の第二朗読では私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶がテサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10
聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 4・14-5・1
人間はどんな時代でも死とその後を恐れて、不安と脅威に苛まれていたと思います。それを知った聖パウロは慰めの言葉をコリントの教会の信徒たちに伝えています。洗礼によってイエス様と一体となった私たちは、イエス様と同じように神様の力によって、死から復活することになっています。イエス様と共に復活した私たちは豊かな恵みによって神様の栄光になります。それで私たちは感謝の心をもって喜びます。聖パウロが詳しく言うように、このような神秘的な世界は私たちの体の目で見えるところではありませんが、心の目で見られる真実になっています。なぜなら私たちは永遠の命に存続しているからです。この聖パウロの個所の最後には感動するほど身近な言葉が伝えられています。私たちが憧れている実家はこの体やこの世の住まいではなく、イエス様が準備してくださった天国の住まいです。そこにいつか皆で、永遠に住むことになっているのですから大きな希望を持つべきです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 3・9-17
コリントの信徒への手紙を通して、聖パウロはイエス様の教会はどのようなものであるかを明確な言葉で話してくださいます。「あなた方は神殿なのです」と聖パウロは力強くおっしゃっています。この表現によって、イエス様の教会は石で作られたものではなく人間、つまりキリスト信者の心と体で作られていると告げられています。そのように教会は生きる神様がおられる場所なのです。さて、イエス様に従った者たちの心は、生きておられる神様のおられる場所であり、神様と対話するところです。それに従って私たちが人間の命、人間そのものの尊さを覚えるようになりました。それだけではなく聖パウロの言葉により、キリストの教会である私たちの共同体は、崩れることのない土台の上に建てられているとおっしゃっています。その土台は洗礼を通して神様から頂いた御恵みなのです。私たちは神様を讃える善行を行い、それによって皆にイエス様の姿や心をも見せることができます。そして聖パウロの教えでは教会の欠かせない特徴は、すべてのキリスト信者が皆、聖霊で結ばれていることです。だからキリスト信者の教会は共同体であり、お互いに尊敬をもって愛し合い、分かち合い、一緒にお祈りが出来る神様の住まいなのです。
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6
この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
今日の第二朗読では私たちの手紙の書き出しに比べて、羨ましくなるほど素晴らしい最初の挨拶がテサロニケの信者のために記されています。このような聖パウロの手紙の挨拶は、キリスト信者のための手本になっています。この挨拶は大いに聖パウロの心を現わしながら、同時に聖パウロのテサロニケの信者への深い思い、やむにやまれないメッセージを含んでいます。キリストに結ばれた者は神様の恵み、心の平和の中で生きています。信者である私たちも、人に何かを差し出そうとした場合、上記のような神様の贈り物が一番素晴らしいものです。聖パウロはテサロニケの信者たちに心をかけながら、キリストの信仰によって自分の兄弟として思い、信仰のために働き、愛のために労働していることを誉めます。テサロニケの信者たちは、信仰と愛の中で生きることによって父である神の心の中に留められて、神様に特に愛されているのです。聖パウロは私たちのためにも参考になることをもう一言伝えています。それは福音を宣べ伝える時に、言葉だけではそれが人の心に残らないことがあります、ですから聖パウロがやったように私たちも力や聖霊の光によって、福音的な生き方によって、キリストの心を伝えるならテサロニケの信者と同じように、誰でも神様の心を見出すことができます。
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙 1・5―10
聖パウロはイエス様の福音を宣べ伝えるために新しい共同体を作り、ときによっては選ばれた召使と手紙を通して少しずつその共同体の中にイエス様の姿を刻み深めるようにしていました。この時まず、聖パウロはテサロニケの教会のために自分の働きについて話しながら、積極的に苦しみの中で御言葉を受け入れたテサロニケの信者たちを誉めています。聖パウロは神様の言葉を宣べながら、その言葉の活発な働きと成果に気づき喜んでいます。その満足感もテサロニケの信徒たちに伝えています。様々な偶像崇拝から離れて、神様だけに仕え、聖霊に導かれて働くようになり、イエス様が最後に来ることに期待するテサロニケの信徒たちを、聖パウロは再び誉めています。聖パウロが強調するのは自分の中でも皆の心の中でも、復活されたイエス様こそ全人類の救い主であるということです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 4・14-5・1
人間はどんな時代でも死とその後を恐れて、不安と脅威に苛まれていたと思います。それを知った聖パウロは慰めの言葉をコリントの教会の信徒たちに伝えています。洗礼によってイエス様と一体となった私たちは、イエス様と同じように神様の力によって、死から復活することになっています。イエス様と共に復活した私たちは豊かな恵みによって神様の栄光になります。それで私たちは感謝の心をもって喜びます。聖パウロが詳しく言うように、このような神秘的な世界は私たちの体の目で見えるところではありませんが、心の目で見られる真実になっています。なぜなら私たちは永遠の命に存続しているからです。この聖パウロの個所の最後には感動するほど身近な言葉が伝えられています。私たちが憧れている実家はこの体やこの世の住まいではなく、イエス様が準備してくださった天国の住まいです。そこにいつか皆で、永遠に住むことになっているのですから大きな希望を持つべきです。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 3・9-17
コリントの信徒への手紙を通して、聖パウロはイエス様の教会はどのようなものであるかを明確な言葉で話してくださいます。「あなた方は神殿なのです」と聖パウロは力強くおっしゃっています。この表現によって、イエス様の教会は石で作られたものではなく人間、つまりキリスト信者の心と体で作られていると告げられています。そのように教会は生きる神様がおられる場所なのです。さて、イエス様に従った者たちの心は、生きておられる神様のおられる場所であり、神様と対話するところです。それに従って私たちが人間の命、人間そのものの尊さを覚えるようになりました。それだけではなく聖パウロの言葉により、キリストの教会である私たちの共同体は、崩れることのない土台の上に建てられているとおっしゃっています。その土台は洗礼を通して神様から頂いた御恵みなのです。私たちは神様を讃える善行を行い、それによって皆にイエス様の姿や心をも見せることができます。そして聖パウロの教えでは教会の欠かせない特徴は、すべてのキリスト信者が皆、聖霊で結ばれていることです。だからキリスト信者の教会は共同体であり、お互いに尊敬をもって愛し合い、分かち合い、一緒にお祈りが出来る神様の住まいなのです。
使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(-) 5・1-6
この世の終末について誤った考えに陥って、イエス様の到来を身近に思い起こすことになって悩んだテサロニケの信徒たちに、使徒パウロは励ましの言葉を書きながら、死の時そしてその後についての考え方を訂正することにします。使徒パウロは世の終わりは「その時とその時期」と呼んでいますが、実はその表現の中に使徒パウロが思いを込めていることは、それぞれの個人の死、あるいはそれぞれの心の中での神様との出会いのことです。このような出来事は未来を知らない私たちにとって、予想の出来ない時です。だから使徒パウロは、その突然の、予想できない時を盗人がくる時のようにたとえています。それに従って使徒パウロは、その時をふさわしい心で迎えるために目を覚ましているように、またいつでも身を慎んで心の準備をしながら生きるように心のこもった言葉で勧めています。使徒パウロが言うようにイエス様に従った者は光の子で、明るいところで生きる者ですから、「その時、その時期」つまり突然、どんな形で神様に出会うことになっても恐れることはありません。
第二部
<パウロの言葉に直接耳を傾けましょう>
使徒パウロの書簡の紹介
1・14通を心込めて書いた書物。主なテーマとそれぞれの特徴。
2・どのような思いを持って使徒パウロはご自分が創立された共同体に手紙を書きましたか。
3・使徒パウロの書簡の主な課題、特別に使徒パウロが望んだこと、信じた、愛された
ことを紹介します。
4- 使徒パウロ熊本教会の信徒への手紙。
1)14通を心込めて書いた書物。主なテーマとそれぞれの特徴。
『テサロニケの信徒への手紙一』
本書は使徒パウロの書簡の中でももっとも早い時期、おそらく紀元50年[1]から52年の終わりまでに書かれたものであるとみなされている。キリスト教内の伝承から新約聖書学にいたるまで、この書簡の筆者がパウロであることを疑う意見はほとんどない。執筆の場所はコリントス(コリント)と推定される。
『テサロニケの信徒への手紙二』
伝統的にはパウロの書簡。伝統的アプローチを採る学者からは、本書簡は『テサロニケの信徒への手紙一』から時をおかずに(おそらくコリントスで)書かれたと考えられている。というのも第一の手紙に書いたキリストの再臨について誤解している人々がいることを知ったパウロがその誤りを正すために書いたことが伺えるからである。パウロは自分が述べたキリストの再臨がいまにも訪れるというわけではなく、それに先だって「滅びの子」が現れると述べている。
『コリントの信徒への手紙一』などの他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれている。その主要な問題は誤った教えに関するものである。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告している。パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。使徒としての行き方を提示する。
『コリントの信徒への手紙二』
『コリントスへの第一の手紙』を記した後、パウロは小アジアの都市エフェソスを離れてマケドニア州へ向かうことにした。エフェソスでの宣教活動は成功を収め、それがためにパウロは反対者の活動によってエフェソスにいることが難しくもなっていたのである。エフェソスから陸路トロアスへ到着したパウロはそこから海路、マケドニア州へ入るつもりであった。しかし第一の書簡を運んでコリントスへ行っていたテトスとトロアスで合流しようというもくろみはうまく行かなかったので不安にかなえられた。
『フィリピの信徒への手紙』
この手紙からは当時のローマのキリスト教共同体の様子がうかがえる。パウロにとって獄中にあることは福音を伝えることの妨げにならず、むしろ情熱を燃え立たせることになった。パウロを監視していたローマ兵たちはその感化を受け、ローマのキリスト教徒たちも増えていった。当時のローマでキリスト教が急成長をとげていたことが文面から読み取れる。パウロは自らの苦難のなかで神を賛美し、また同じく周囲の無理解と迫害、さらに教義上の対立にさらされるフィリピの共同体を思い、彼らを励まし、キリストの再臨を待ち望むことを勧める。
『ガラテヤの信徒への手紙』
『ガラテヤ書』は律法とキリスト教徒の関係について述べている。すなわち当時のユダヤ教徒およびユダヤ教出身のキリスト教徒たちが持っていた律法の遵守なしに人間は義化されえないという立場に対する反論の書という性格がある。冒頭部分で、パウロはなぜこの手紙が書かれることになったのかという次第について触れている。
伝統的に、西方キリスト教ではこの句を前者に解し、キリスト・イエスに対する信者の信が、信者を神と和解させ救済へ導くとするが、正教会には、この句を後者に解し、神人二性をもつイエスの人性において、その生涯全体に現れている神への信が、全人類の救いの根拠であるとする解釈がある。後者の解釈においては、その完き人間性において完き信を体現するイエスに、信者は洗礼を経て恩寵のうちに神秘的に体合し(5:27、また4:19-20を参照)、義とされ、救済されるとする。なお現代の研究者や西方教会の神学者のなかにも、この箇所の解釈として、後者の「イエスの信」による義化という読みを取るものが少数ながら存在する。
『ローマの信徒への手紙』
パウロが本書簡を執筆した目的は15章の後半に書かれている。それによれば、
・小アジアで集めた募金を渡すためのエルサレム訪問にあたってローマの信徒たちの祈りを頼むこと
・エルサレム訪問後はローマ滞在を経てイスパニアに向かうという計画を伝えること
・パウロはローマを訪れたことがないので、偽教師によって信徒たちが混乱しないように教えをまとめて書き送ること
・パウロがローマの共同体でユダヤ人と異邦人がうまくいっていないことに気づいていること。もともとローマの共同体はユダヤ人キリスト教徒によって設立されたのだが、49年のクラウディウス帝によるユダヤ人のローマ追放によって異邦人キリスト教徒が主導権を握るようになっていた。54年にクラウディウス帝が死去してユダヤ人がローマに戻ってくると、ユダヤ教の習慣の遵守をめぐって争いが起きるようになった。本書の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いである。パウロはアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の過分のご親切を強調し,人が義と宣せられるのは,信者の側の信仰と結び付いた,神の側のこの過分のご親切(恩寵)のみによることを力説している。また,ユダヤ人にも異邦人にも,誇ったり自分を他の人よりも高めたりする理由は何もないことに注目させている。
『ピレモンへの手紙』は新約聖書中の一書で、使徒パウロによってフィレモン(ピレモーン)という人物にあてて書かれた書簡である。現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかない。『フィレモンへの手紙』、『フィリモンに達する書』とも表記される。
『コロサイの信徒への手紙』
伝統に従えばパウロが、ローマで最初に投獄されていた期間(『使徒言行録』28:16)、おそらく紀元57年に(62年という説をとなえる学者も)『エフェソの信徒への手紙』(エフェソ書)のあとに書いたと考えられる。伝統に従えばパウロが、ローマで最初に投獄されていた期間(『使徒言行録』28:16)、おそらく紀元57年に(62年という説をとなえる学者も)『エフェソの信徒への手紙』(エフェソ書)のあとに書いたと考えられる。他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれている。その主要な問題は誤った教えに関するものである。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告している。パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。「新月」と「安息日」(2:16)という表現もユダヤ教由来のものを固守しようとしていた人々がいたことを示唆している。
『エフェソの信徒への手紙』
『エフェソ書』は特定の問題や状況に対処するために書かれたというわけではなく、パ.ウロが自発的にエフェソスの共同体への愛情を示すものとして書かれたとされている。彼は共同体のメンバーが「キリストの教え」に従って生きることを望んでいるが、『ローマの信徒への手紙』(以下ローマ書)とは異なり、『エフェソ書』ではパウロの救済に関する思想が書かれているわけではない。むしろ、『エフェソ書』では救いと教会の関係が語られている。
『テモテへの手紙一』は、牧会書簡と呼ばれるものの一つ。伝統的に使徒パウロの手によるものとされてきた。本書はテモテなる人物に対しての教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」(司教の語源)や「奉仕者」(助祭の語源)に関するすすめが中心となっている。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの励ましと偽教師への警告も記されている。保守的な福音派の聖書学者尾山令仁は、これがAD66年頃マケドニアで書かれたものであると考えている。
『テモテへの手紙二』は、牧会書簡と呼ばれるものの一つ。伝統的に使徒パウロの手によるものとされてきた。本文中でパウロはテモテに対し、冬になる前にマルコとともに自分を助けに来てくれるよう求めている。自らが「この世を去るときが近づいている」(4:6)と考えているパウロは 「息子であるテモテ」に対して熱意と不動の信仰によって誤った教えに立ち向かうよう求めている。そのために必要なことは過去に受けた教えに立ち戻ること、迫害の下での忍耐、信仰上のつとめを果たすこと、裁きのときに備えることなどが述べられている。
『テトスへの手紙』はパウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の一般的である。『テトスへの手紙』(テトスへのてがみ、テトスへの書)は新約聖書中の一書簡である。(日本ハリストス正教会では『ティトに達する書』という。パウロからクレタに残された彼の弟子であるテトス(『第2コリント書』 8:23)へ宛てた形をとる。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告である。保守的な聖書学者尾山令仁は、この手紙はパウロが殉教する直前のAD67年にローマの獄中で書いたものであると考えている。[1]文体や思想、パウロ時代の教会組織の構造との食違い等から、近代聖書批評学の立場では2世紀初頭成立の偽作と考えられる。『第1テモテ書』に似る。なお、伝統的にパウロ書簡とされる。
『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
2)どのような思いを持って使徒パウロはご自分が創立された共同体に手紙を書きましたか。
3)使徒パウロの書簡の主な課題、特別に使徒パウロが望んだこと、信じた、愛された
ことを紹介します。
4)使徒パウロの熊本の教会への手紙
熊本にある神の教会へ、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、あなた方とわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。どんな時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚ましてよく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
<パウロの言葉に直接耳を傾けましょう>
使徒パウロの書簡の紹介
1・14通を心込めて書いた書物。主なテーマとそれぞれの特徴。
2・どのような思いを持って使徒パウロはご自分が創立された共同体に手紙を書きましたか。
3・使徒パウロの書簡の主な課題、特別に使徒パウロが望んだこと、信じた、愛された
ことを紹介します。
4- 使徒パウロ熊本教会の信徒への手紙。
1)14通を心込めて書いた書物。主なテーマとそれぞれの特徴。
『テサロニケの信徒への手紙一』
本書は使徒パウロの書簡の中でももっとも早い時期、おそらく紀元50年[1]から52年の終わりまでに書かれたものであるとみなされている。キリスト教内の伝承から新約聖書学にいたるまで、この書簡の筆者がパウロであることを疑う意見はほとんどない。執筆の場所はコリントス(コリント)と推定される。
『テサロニケの信徒への手紙二』
伝統的にはパウロの書簡。伝統的アプローチを採る学者からは、本書簡は『テサロニケの信徒への手紙一』から時をおかずに(おそらくコリントスで)書かれたと考えられている。というのも第一の手紙に書いたキリストの再臨について誤解している人々がいることを知ったパウロがその誤りを正すために書いたことが伺えるからである。パウロは自分が述べたキリストの再臨がいまにも訪れるというわけではなく、それに先だって「滅びの子」が現れると述べている。
『コリントの信徒への手紙一』などの他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれている。その主要な問題は誤った教えに関するものである。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告している。パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。使徒としての行き方を提示する。
『コリントの信徒への手紙二』
『コリントスへの第一の手紙』を記した後、パウロは小アジアの都市エフェソスを離れてマケドニア州へ向かうことにした。エフェソスでの宣教活動は成功を収め、それがためにパウロは反対者の活動によってエフェソスにいることが難しくもなっていたのである。エフェソスから陸路トロアスへ到着したパウロはそこから海路、マケドニア州へ入るつもりであった。しかし第一の書簡を運んでコリントスへ行っていたテトスとトロアスで合流しようというもくろみはうまく行かなかったので不安にかなえられた。
『フィリピの信徒への手紙』
この手紙からは当時のローマのキリスト教共同体の様子がうかがえる。パウロにとって獄中にあることは福音を伝えることの妨げにならず、むしろ情熱を燃え立たせることになった。パウロを監視していたローマ兵たちはその感化を受け、ローマのキリスト教徒たちも増えていった。当時のローマでキリスト教が急成長をとげていたことが文面から読み取れる。パウロは自らの苦難のなかで神を賛美し、また同じく周囲の無理解と迫害、さらに教義上の対立にさらされるフィリピの共同体を思い、彼らを励まし、キリストの再臨を待ち望むことを勧める。
『ガラテヤの信徒への手紙』
『ガラテヤ書』は律法とキリスト教徒の関係について述べている。すなわち当時のユダヤ教徒およびユダヤ教出身のキリスト教徒たちが持っていた律法の遵守なしに人間は義化されえないという立場に対する反論の書という性格がある。冒頭部分で、パウロはなぜこの手紙が書かれることになったのかという次第について触れている。
伝統的に、西方キリスト教ではこの句を前者に解し、キリスト・イエスに対する信者の信が、信者を神と和解させ救済へ導くとするが、正教会には、この句を後者に解し、神人二性をもつイエスの人性において、その生涯全体に現れている神への信が、全人類の救いの根拠であるとする解釈がある。後者の解釈においては、その完き人間性において完き信を体現するイエスに、信者は洗礼を経て恩寵のうちに神秘的に体合し(5:27、また4:19-20を参照)、義とされ、救済されるとする。なお現代の研究者や西方教会の神学者のなかにも、この箇所の解釈として、後者の「イエスの信」による義化という読みを取るものが少数ながら存在する。
『ローマの信徒への手紙』
パウロが本書簡を執筆した目的は15章の後半に書かれている。それによれば、
・小アジアで集めた募金を渡すためのエルサレム訪問にあたってローマの信徒たちの祈りを頼むこと
・エルサレム訪問後はローマ滞在を経てイスパニアに向かうという計画を伝えること
・パウロはローマを訪れたことがないので、偽教師によって信徒たちが混乱しないように教えをまとめて書き送ること
・パウロがローマの共同体でユダヤ人と異邦人がうまくいっていないことに気づいていること。もともとローマの共同体はユダヤ人キリスト教徒によって設立されたのだが、49年のクラウディウス帝によるユダヤ人のローマ追放によって異邦人キリスト教徒が主導権を握るようになっていた。54年にクラウディウス帝が死去してユダヤ人がローマに戻ってくると、ユダヤ教の習慣の遵守をめぐって争いが起きるようになった。本書の中心テーマはイエス・キリストへの信仰を通して得られる救いである。パウロはアブラハムを引き合いに出してキリストによる神の過分のご親切を強調し,人が義と宣せられるのは,信者の側の信仰と結び付いた,神の側のこの過分のご親切(恩寵)のみによることを力説している。また,ユダヤ人にも異邦人にも,誇ったり自分を他の人よりも高めたりする理由は何もないことに注目させている。
『ピレモンへの手紙』は新約聖書中の一書で、使徒パウロによってフィレモン(ピレモーン)という人物にあてて書かれた書簡である。現存するパウロ書簡の中ではもっとも短く25節しかない。『フィレモンへの手紙』、『フィリモンに達する書』とも表記される。
『コロサイの信徒への手紙』
伝統に従えばパウロが、ローマで最初に投獄されていた期間(『使徒言行録』28:16)、おそらく紀元57年に(62年という説をとなえる学者も)『エフェソの信徒への手紙』(エフェソ書)のあとに書いたと考えられる。伝統に従えばパウロが、ローマで最初に投獄されていた期間(『使徒言行録』28:16)、おそらく紀元57年に(62年という説をとなえる学者も)『エフェソの信徒への手紙』(エフェソ書)のあとに書いたと考えられる。他のパウロ書簡と同じように、『コロサイの信徒への手紙』(以下コロサイ書)も対象となった共同体の特定の状況に対する問い合わせにパウロが答えるために書かれている。その主要な問題は誤った教えに関するものである。東方由来の神秘思想や禁欲主義をキリスト教にとりこもうとする人々に対して警告している。パウロはキリスト教にとって必要なものはすべてイエスの中にあると述べ、そのあがないの意義を強調する。「新月」と「安息日」(2:16)という表現もユダヤ教由来のものを固守しようとしていた人々がいたことを示唆している。
『エフェソの信徒への手紙』
『エフェソ書』は特定の問題や状況に対処するために書かれたというわけではなく、パ.ウロが自発的にエフェソスの共同体への愛情を示すものとして書かれたとされている。彼は共同体のメンバーが「キリストの教え」に従って生きることを望んでいるが、『ローマの信徒への手紙』(以下ローマ書)とは異なり、『エフェソ書』ではパウロの救済に関する思想が書かれているわけではない。むしろ、『エフェソ書』では救いと教会の関係が語られている。
『テモテへの手紙一』は、牧会書簡と呼ばれるものの一つ。伝統的に使徒パウロの手によるものとされてきた。本書はテモテなる人物に対しての教会での儀式のやり方や教会の組織、共同体の責任者となる「監督」(司教の語源)や「奉仕者」(助祭の語源)に関するすすめが中心となっている。それだけでなく、誤りのない正しい信仰を保つことへの励ましと偽教師への警告も記されている。保守的な福音派の聖書学者尾山令仁は、これがAD66年頃マケドニアで書かれたものであると考えている。
『テモテへの手紙二』は、牧会書簡と呼ばれるものの一つ。伝統的に使徒パウロの手によるものとされてきた。本文中でパウロはテモテに対し、冬になる前にマルコとともに自分を助けに来てくれるよう求めている。自らが「この世を去るときが近づいている」(4:6)と考えているパウロは 「息子であるテモテ」に対して熱意と不動の信仰によって誤った教えに立ち向かうよう求めている。そのために必要なことは過去に受けた教えに立ち戻ること、迫害の下での忍耐、信仰上のつとめを果たすこと、裁きのときに備えることなどが述べられている。
『テトスへの手紙』はパウロを擬してパウロの死後書かれたとする見方が今日の一般的である。『テトスへの手紙』(テトスへのてがみ、テトスへの書)は新約聖書中の一書簡である。(日本ハリストス正教会では『ティトに達する書』という。パウロからクレタに残された彼の弟子であるテトス(『第2コリント書』 8:23)へ宛てた形をとる。 内容は、クレタにおいて長老と監督者を立ててもらうための依頼とその基準の教示、異教・異端に対する警告である。保守的な聖書学者尾山令仁は、この手紙はパウロが殉教する直前のAD67年にローマの獄中で書いたものであると考えている。[1]文体や思想、パウロ時代の教会組織の構造との食違い等から、近代聖書批評学の立場では2世紀初頭成立の偽作と考えられる。『第1テモテ書』に似る。なお、伝統的にパウロ書簡とされる。
『ヘブライ人への手紙』は近代までパウロの手によるとされていたが、そもそも匿名の手紙であり、今日では後代の筆者によるものとする見方が支持されている。
2)どのような思いを持って使徒パウロはご自分が創立された共同体に手紙を書きましたか。
3)使徒パウロの書簡の主な課題、特別に使徒パウロが望んだこと、信じた、愛された
ことを紹介します。
4)使徒パウロの熊本の教会への手紙
熊本にある神の教会へ、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、あなた方とわたしたちの主であります。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。
あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。
怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。 聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。どんな時にも、"霊"に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚ましてよく祈り続けなさい。また、わたしが適切な言葉を用いて話し、福音の神秘を大胆に示すことができるように、わたしのためにも祈ってください。
【使徒としてパウロの心】
入門
*ローマの信徒への手紙 /10章 9節 でパウロは次のように述べています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」
第一部
<使徒パウロの心を見つめましょう>
1) 私たちは自分なりにどのように使徒パウロのことを思い起こすのか。
記憶の三つの段階.
・記録の記憶
・人とその写真の記憶
・記念の記憶
*コリントの信徒への手紙一 / 4章 17節
至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
*ローマの信徒への手紙 / 15章 15節
記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいたのです。
2)このように聖パウロを思い起こして聖パウロの心に倣って私たちの心と聖パウロの心とを一致させてみましょう .[中国の儒教の教えでは自然と一体になることを参考に。]
*コリントの信徒への手紙二 / 3章 2節
わたしたちの手紙は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
*コリントの信徒への手紙二 / 3章 3節
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
・使徒パウロはイエス様に属しています。
*ガラテヤの信徒への手紙 / 2章 20節
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
・聖パウロはイエス様と統一されています.
*ローマの信徒への手紙 / 8章 9節
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
*フィリピの信徒への手紙 / 1章 21節
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです
3)使徒パウロとイエス様の道 、 道元禅師との比較
*使徒言行録 / 9章 2節
ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
― 使徒パウロにとって道であるイエス様とは道で出会った。そして、イエス様の道に従った。
*ローマの信徒への手紙 / 11章 33節
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
― 聖パウロは巡礼者として、何を求めて歩きつづけましたか?
・松尾芭蕉との比較
*コリントの信徒への手紙二 / 11章 26節
しばしば旅をし、川の難、盗賊(とうぞく)の難、同胞(どうほう)からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭(あ)い、
4)使徒パウロは私たちの目を開かせてくれます。どこにどんな方法で私たちに神秘的な世界を見せてくれるのでしょうか。
― 使徒パウロは神秘、宇宙、創造を紹介してくださいます。その中心はキリスト。
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 16節
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 17節
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
*コリントの信徒への手紙一 / 15章 24節
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの。
― 使徒パウロにとって、自分の思いや人生の中心であるイエス・キリストの心の方に目をむけさせます。
*ローマの信徒への手紙 / 10章 17節
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 8節
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 9節
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 10節
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
- 共同体の素晴らしさを理解させています
*コリントの信徒への手紙一 / 1章 2節
至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
*コリントの信徒への手紙一 / 12章 12節
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
- 死後の永遠の命について語ってくださいます。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 13節
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 14節 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 18節 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
5)・使徒パウロについて細かいところまでをもう少し検討してみましょう。使徒パウロの名前? サウロとは?
6)・使徒パウロの姿。 使徒パウロの性格。
7)・使徒パウロの仕事と労働。実習実測。
8)・使徒パウロが生きた時代と年齢。いつ書簡を書いたのか。
9)使徒パウロはどうして使徒といえるようになったか?
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた。使徒パウロはイエス様に出会った。
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
―使徒パウロの会心
そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました!そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。
10)使徒パウロの洗礼の意味。
11)使徒パウロはどのようにイエス様の心を宣べてきたか
*使徒パウロのコリントの教会への手紙 9,16-27
聖パウロはコリントの教会の共同体への手紙に自分の福音宣教の責任について話しています。聖パウロにとって福音を宣べることは、神様の人類を救うための神秘的な計画について人を目覚めさせることです。そのような役割を深く感じるパウロは、誇りをもたず、欠かせない義務を果たすだけだと感じています。聖パウロにとって、福音を宣べるために報酬はいりませんが、神様の救いの計画を宣べることが報酬になり、奴隷になった人類の解放だけを求めています。聖パウロは福音宣教を勧めるにあたって、どのような心構えをもつべきかを競技者の例をあげて説明します。キリスト信者は競技の賞を目指すように、一所懸命に福音宣教のために努めなければなりません。その冠のために節制しながら、一所懸命に努めれば、敗北の目に合うこともありません。
***・手紙だけを書くものではなかったが、書簡を通して使徒パウロはイエス様の姿を出会った共同体の中に刻んでいます。
12) 独特な使徒パウロの単語の事典:
【義】【法】【神秘】【賜物】【キリストを信じる】【栄【光】【自由】【栄光】
【義】
*ローマの信徒への手紙 / 3章 22節
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 24節
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 26節
、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 28節
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
【法】
*フィリピの信徒への手紙 / 3章 9節
キリストの内にいる者と認められるため。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
【神秘】
このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
=神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです=
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 27節
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
【キリストを信じる】
*コリントの信徒への手紙一 / 1章 23節 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
【賜物】
・賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
・務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
・働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、
ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
これらすべてのことは、同じ唯一の"霊"の働きであって、"霊"は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
・体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
【栄光】
*エフェソの信徒への手紙 / 1章 17節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
*エフェソの信徒への手紙 / 1章 18節
心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
【自由】
*ガラテヤの信徒への手紙 / 5章 1節 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
・使徒パウロは自分の人生やキリスト信者の生き方も典礼のような行事で見ていま す.
入門
*ローマの信徒への手紙 /10章 9節 でパウロは次のように述べています。
「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」
第一部
<使徒パウロの心を見つめましょう>
1) 私たちは自分なりにどのように使徒パウロのことを思い起こすのか。
記憶の三つの段階.
・記録の記憶
・人とその写真の記憶
・記念の記憶
*コリントの信徒への手紙一 / 4章 17節
至るところのすべての教会で私が教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせることでしょう。
*ローマの信徒への手紙 / 15章 15節
記憶を新たにしてもらおうと、この手紙ではところどころかなり思い切って書きました。それは、わたしが神から恵みをいただいたのです。
2)このように聖パウロを思い起こして聖パウロの心に倣って私たちの心と聖パウロの心とを一致させてみましょう .[中国の儒教の教えでは自然と一体になることを参考に。]
*コリントの信徒への手紙二 / 3章 2節
わたしたちの手紙は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。
*コリントの信徒への手紙二 / 3章 3節
あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。
・使徒パウロはイエス様に属しています。
*ガラテヤの信徒への手紙 / 2章 20節
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。
・聖パウロはイエス様と統一されています.
*ローマの信徒への手紙 / 8章 9節
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。
*フィリピの信徒への手紙 / 1章 21節
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです
3)使徒パウロとイエス様の道 、 道元禅師との比較
*使徒言行録 / 9章 2節
ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。
― 使徒パウロにとって道であるイエス様とは道で出会った。そして、イエス様の道に従った。
*ローマの信徒への手紙 / 11章 33節
ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。
― 聖パウロは巡礼者として、何を求めて歩きつづけましたか?
・松尾芭蕉との比較
*コリントの信徒への手紙二 / 11章 26節
しばしば旅をし、川の難、盗賊(とうぞく)の難、同胞(どうほう)からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭(あ)い、
4)使徒パウロは私たちの目を開かせてくれます。どこにどんな方法で私たちに神秘的な世界を見せてくれるのでしょうか。
― 使徒パウロは神秘、宇宙、創造を紹介してくださいます。その中心はキリスト。
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 16節
天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子において造られたからです。つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 17節
御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です。
*コリントの信徒への手紙一 / 15章 24節
次いで、世の終わりが来ます。そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。
世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも、一切はあなたがたのもの。
― 使徒パウロにとって、自分の思いや人生の中心であるイエス・キリストの心の方に目をむけさせます。
*ローマの信徒への手紙 / 10章 17節
実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 8節
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 9節
そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。
*ローマの信徒への手紙 / 6章 10節
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
- 共同体の素晴らしさを理解させています
*コリントの信徒への手紙一 / 1章 2節
至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります。
*コリントの信徒への手紙一 / 12章 12節
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 つまり、一つの霊によって、わたしたちは、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
- 死後の永遠の命について語ってくださいます。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 13節
兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 14節 イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。
*テサロニケの信徒への手紙一 / 4章 18節 ですから、今述べた言葉によって励まし合いなさい。
5)・使徒パウロについて細かいところまでをもう少し検討してみましょう。使徒パウロの名前? サウロとは?
6)・使徒パウロの姿。 使徒パウロの性格。
7)・使徒パウロの仕事と労働。実習実測。
8)・使徒パウロが生きた時代と年齢。いつ書簡を書いたのか。
9)使徒パウロはどうして使徒といえるようになったか?
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた。使徒パウロはイエス様に出会った。
わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか。わたしたちの主イエスを見たではないか。あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。
―使徒パウロの会心
そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました!そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。
10)使徒パウロの洗礼の意味。
11)使徒パウロはどのようにイエス様の心を宣べてきたか
*使徒パウロのコリントの教会への手紙 9,16-27
聖パウロはコリントの教会の共同体への手紙に自分の福音宣教の責任について話しています。聖パウロにとって福音を宣べることは、神様の人類を救うための神秘的な計画について人を目覚めさせることです。そのような役割を深く感じるパウロは、誇りをもたず、欠かせない義務を果たすだけだと感じています。聖パウロにとって、福音を宣べるために報酬はいりませんが、神様の救いの計画を宣べることが報酬になり、奴隷になった人類の解放だけを求めています。聖パウロは福音宣教を勧めるにあたって、どのような心構えをもつべきかを競技者の例をあげて説明します。キリスト信者は競技の賞を目指すように、一所懸命に福音宣教のために努めなければなりません。その冠のために節制しながら、一所懸命に努めれば、敗北の目に合うこともありません。
***・手紙だけを書くものではなかったが、書簡を通して使徒パウロはイエス様の姿を出会った共同体の中に刻んでいます。
12) 独特な使徒パウロの単語の事典:
【義】【法】【神秘】【賜物】【キリストを信じる】【栄【光】【自由】【栄光】
【義】
*ローマの信徒への手紙 / 3章 22節
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 24節
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 26節
、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。
*ローマの信徒への手紙 / 3章 28節
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
【法】
*フィリピの信徒への手紙 / 3章 9節
キリストの内にいる者と認められるため。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。
【神秘】
このことは、/「目が見もせず、耳が聞きもせず、/人の心に思い浮かびもしなかったことを、/神は御自分を愛する者たちに準備された」と書いてあるとおりです。
=神は、わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、あなたがたを強めることがおできになります。この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです=
*コロサイの信徒への手紙 / 1章 27節
この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です。
【キリストを信じる】
*コリントの信徒への手紙一 / 1章 23節 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。
【賜物】
・賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
・務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。
・働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。
一人一人に"霊"の働きが現れるのは、全体の益となるためです。ある人には"霊"によって知恵の言葉、ある人には同じ"霊"によって知識の言葉が与えられ、
ある人にはその同じ"霊"によって信仰、ある人にはこの唯一の"霊"によって病気をいやす力、ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。
これらすべてのことは、同じ唯一の"霊"の働きであって、"霊"は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
・体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
【栄光】
*エフェソの信徒への手紙 / 1章 17節
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、
*エフェソの信徒への手紙 / 1章 18節
心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。
【自由】
*ガラテヤの信徒への手紙 / 5章 1節 この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。
・使徒パウロは自分の人生やキリスト信者の生き方も典礼のような行事で見ていま す.
使徒としてパウロの心
聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低いもので異邦人のようなものです。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐み深さをもって皆を受け入れています。
使徒パウロのローマの教会への手紙 11・33―36
パウロの文章を読んでみると、これは手で書いたものと違って、感情で書いた文章だと見られています。パウロは珍しく同じパターンで三回繰り返して自分の思いを述べられています。パウロはイエス様の道、イエス様の定め、イエス様の知恵に捕らわれて感動しています。それに従って、イエス様の心を知り、イエス様の相談相手となり、イエス様の報いを受けるだけのために生き、それだけを頼るべきだと宣言します。私たちは神から出るもの、私たちは神様に保護されるもの、神様に向かって生きるものですから、大いに喜ぶべきで、そのためだけで生きるはずなのです。パウロは、強く強くそのことを伝えたかったのです。
使徒パウロのローマの教会への手紙 12,1-2
聖パウロは、わずかな言葉の数で、大きな世界を目の前に開いてくださいます。神様をいつも大いに喜ばせたわたし達が、自らの生き方によっても神様を喜ばせることができます。まず自分の人生を神様に捧げ預けることです、そして神様の心に叶うように、良いことを探し求めるなら神様は大いに喜ばれます。神様の愛と憐みに包まれて、新しい心で自分の生き方を見直しましょう。この世に倣ってはいけません。聖パウロが言うように、一緒に完全な生き方を目指して、神様だけを喜ばせる生き方に倣いましょう。
使徒パウロのローマの教会への手紙 13・8-10
聖パウロは、欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 9,16-27 聖パウロはコリントの教会の共同体への手紙に自分の福音宣教の責任について話しています。聖パウロにとって福音を述べることは、神様の人類を救うための神秘的な計画について人を目覚めさせることです。そのような役割を深く感じるパウロは、誇りをもたず、欠かせない義務を果たすだけだと感じています。聖パウロにとって、福音を述べるために報酬はいりませんが、神様の救いの計画を述べることが報酬になり、奴隷になった人類の解放だけを求めています。聖パウロは福音宣教を勧めるにあたって、どのような心構えをもつべきかを競技者の例をあげて説明します。キリスト信者は競技の賞を目指すように、一生懸命に福音宣教のために努めなければなりません。その冠のために節制しながら、一生懸命に努めれば、敗北の目に合うこともありません。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 1・20 –27
誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって、どちらもあこがれで、両方とも望まし目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒に生き死ぬならばイエス様の姿をみせることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるからそれも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導いています、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。もちろん、このような思いはキリスト信者にとって参考になっています。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・6-11
イエス様の十字架を思い起こす祝日にあたって、聖パウロはフィリピの教会の共同体に手紙を書き、十字架の意味を感動的に語ってくださいます。イエス様が命を全うされた十字架上の死について、聖パウロがどのような思いを持っているかを知るのに日本の思想にも助けられます。たとえば日本の書道を知ろうとした時に、練習すればするほど、自分の身を削るほどに努力するうちに、字に顕れる自分の個性が消えてしまい、私たちの思いは先生の思いと一体になり、自分の作品は原本と同化していきます。さて、イエス様は神の子でありながら自分の思いと御父の思いと一体になって、自分を無にして人間と同じになりました。むしろ死ぬほど自分をへりくだって、人間の一人となり人類の救いを求めるために御父のみ旨に完全に従いました。それでイエス様が私たちに神様の姿を現わしながら、すべてのものの上に立って私たちの主となり、死と苦しみを通して救いの道を教えてくださいました。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・1–11
エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9
物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・12–20
聖パウロは当個所で何にも囚らわれていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことが出来、共に苦しみを背負うことになったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様自身でした。どこでもどんな出来事でも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父として、この世のどこででもご自分の栄光を現わされます、私たちがそのことに気づくことが出来れば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳する事が出来ない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えてくださいます
聖パウロの言葉を心にとめましょう。聖パウロは独特な言葉を使っています。それは異邦人です。実は神様の目からは、聖パウロが自分について言うように聖パウロ自身には権利がなく、身分の低いもので異邦人のようなものです。それでパウロは異邦人の使徒であることを公言しながら、神様が特別に弱い者、身分の低い者、権利のない者を愛されるのだと強調します。つまり聖パウロが言うように死者が命を探し求めるように、神様が異邦人を探し求め、憐み深さをもって皆を受け入れています。
使徒パウロのローマの教会への手紙 11・33―36
パウロの文章を読んでみると、これは手で書いたものと違って、感情で書いた文章だと見られています。パウロは珍しく同じパターンで三回繰り返して自分の思いを述べられています。パウロはイエス様の道、イエス様の定め、イエス様の知恵に捕らわれて感動しています。それに従って、イエス様の心を知り、イエス様の相談相手となり、イエス様の報いを受けるだけのために生き、それだけを頼るべきだと宣言します。私たちは神から出るもの、私たちは神様に保護されるもの、神様に向かって生きるものですから、大いに喜ぶべきで、そのためだけで生きるはずなのです。パウロは、強く強くそのことを伝えたかったのです。
使徒パウロのローマの教会への手紙 12,1-2
聖パウロは、わずかな言葉の数で、大きな世界を目の前に開いてくださいます。神様をいつも大いに喜ばせたわたし達が、自らの生き方によっても神様を喜ばせることができます。まず自分の人生を神様に捧げ預けることです、そして神様の心に叶うように、良いことを探し求めるなら神様は大いに喜ばれます。神様の愛と憐みに包まれて、新しい心で自分の生き方を見直しましょう。この世に倣ってはいけません。聖パウロが言うように、一緒に完全な生き方を目指して、神様だけを喜ばせる生き方に倣いましょう。
使徒パウロのローマの教会への手紙 13・8-10
聖パウロは、欠点の多い私たちに向って、お互いを自分のように愛するように呼びかけています。聖パウロはイエス様の言葉を私たちの心に力強く吹きこむようにします。そして掟を超える聖パウロの思いは、私たちに愛の目標を教えてくださいます。愛はすべての掟を含んでいます。愛は、相手の喜びと幸せを求めるだけです。愛は、自分の心の中にある良いものを相手の心の中に置くように願えば伝わっていくものです。このような思いを通して、聖パウロは私たちに神様の愛、またはその篤さと深さを私たちの心の中に伝えてくださいます。
使徒パウロのコリントの教会への手紙 9,16-27 聖パウロはコリントの教会の共同体への手紙に自分の福音宣教の責任について話しています。聖パウロにとって福音を述べることは、神様の人類を救うための神秘的な計画について人を目覚めさせることです。そのような役割を深く感じるパウロは、誇りをもたず、欠かせない義務を果たすだけだと感じています。聖パウロにとって、福音を述べるために報酬はいりませんが、神様の救いの計画を述べることが報酬になり、奴隷になった人類の解放だけを求めています。聖パウロは福音宣教を勧めるにあたって、どのような心構えをもつべきかを競技者の例をあげて説明します。キリスト信者は競技の賞を目指すように、一生懸命に福音宣教のために努めなければなりません。その冠のために節制しながら、一生懸命に努めれば、敗北の目に合うこともありません。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 1・20 –27
誰でも死を恐れて命を握りしめるようにしています。しかし、聖パウロにとって、どちらもあこがれで、両方とも望まし目標になっています、なぜなら生きても死んでも、イエス様と一緒に生き死ぬならばイエス様の姿をみせることになります。聖パウロはイエス様のように生きることも大きな希望ですが、死んでも神様の懐に戻れるからそれも夢のような大きな希望となっています。それで聖パウロにとって死ぬか、生きるか、どちらも難しい選択になっています。一方ではイエス様のように生きる間にイエス様の心を見せて、人を救いの道に導いています、他方死んだ場合・完全に神様の心に戻ることになります。もちろん、このような思いはキリスト信者にとって参考になっています。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・6-11
イエス様の十字架を思い起こす祝日にあたって、聖パウロはフィリピの教会の共同体に手紙を書き、十字架の意味を感動的に語ってくださいます。イエス様が命を全うされた十字架上の死について、聖パウロがどのような思いを持っているかを知るのに日本の思想にも助けられます。たとえば日本の書道を知ろうとした時に、練習すればするほど、自分の身を削るほどに努力するうちに、字に顕れる自分の個性が消えてしまい、私たちの思いは先生の思いと一体になり、自分の作品は原本と同化していきます。さて、イエス様は神の子でありながら自分の思いと御父の思いと一体になって、自分を無にして人間と同じになりました。むしろ死ぬほど自分をへりくだって、人間の一人となり人類の救いを求めるために御父のみ旨に完全に従いました。それでイエス様が私たちに神様の姿を現わしながら、すべてのものの上に立って私たちの主となり、死と苦しみを通して救いの道を教えてくださいました。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 2・1–11
エフェソの牢獄で苦しんでいた聖パウロは、フィリピの共同体に心をこめた手紙を書き、そこにイエス様に従う共同体の姿を描くようにしています。まず聖パウロはフィリピの共同体の者たちとの友情や親しみを強調し、彼らの信仰による生き方を喜んでいます。そしてどのようにイエス様に大切にされているかを語ります。どれだけ大いなるイエス様の励まし、愛の慰め、霊による交わり、慈しみと憐みの心で包まれているかを知らせます。このように愛の中で生きる共同体はイエス様の姿を映すことになり、聖パウロにとって一番素晴らしい喜びとなっています。イエス様に従う共同体にとってイエス様の心が手本になります。イエス様はまず、自分が神でありながら皆に仕えるものになりました。神様の御旨を自分の人生の目標にし、十字架上に死ぬほどの神様の愛、人の愛を示しました。それによってイエス様は人類の理想になり、神様の心を皆に示しました。このような思いの中で生きるイエス様の共同体は、利己心を乗り越えて聖パウロが言うように、同じ愛を抱き、心を合わせて、思いを一つにして生きています。このような共同体の中にこそ、復活されたイエス様の姿が高く、中心に輝いているのです。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・6–9
物心両面での支援を惜しまなかったフィリピの共同体の信者たちに感謝しながら、聖パウロは当手紙の中で深い友情の関係で結びついていることを示しています。その背景の中、心の平和を探し求める人に、どのようにすればそれを得られるかを聖パウロが教えてくれています。まずイエス様に従うものであれば、煩ってはいけません。なぜなら、神様との係わりは何でも感謝しなければならないし、神様は願うことがあればいつでも私たちのそばにいて、かなえてくださいます。そう思うと私たちはイエス様と心や考えも一つになります。そして聖パウロはいつもご自分の兄弟のようにフィリピの共同体のキリスト信者に、真実の中に、正し心、清い心、愛する心をもって生きるように勧めています、なぜなら、そうすることによってイエス様とのつながりが実現し、本当の心の平和を味わうことができるからです。
使徒パウロのフィリピの教会への手紙 4・12–20
聖パウロは当個所で何にも囚らわれていない心、つまり完全に自由な心を示しています。富や持ち物であれ、食べ物であれ、イエス様の心と思いとに一致すれば、他に希望することはありません。そして聖パウロはフィリピの教会の信者たちに対して感謝の心を持ちながら、彼らの支えのお陰で自由な心を持つことが出来、共に苦しみを背負うことになったことは大きな慰めとなったと書いています。実は聖パウロを支え、慰め、心を自由にしてくださったのはイエス様を通した神様自身でした。どこでもどんな出来事でも神様の栄光「存在、働き、心と慈しみ」を見出すことができれば自分の心は満たされます。神様は私たちの父として、この世のどこででもご自分の栄光を現わされます、私たちがそのことに気づくことが出来れば満足できるのです。最後に聖パウロは翻訳する事が出来ない言葉を付け加えています。それは「アーメン」です。その言葉によって聖パウロは上記のことをその通りと強調し、他に真実はないと力強く伝えてくださいます
― 菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡 ― 1
この11月に長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式があります。でも、私にはどこか遠いところの話のようでした。ところが、最頼神父の案内で上木庭のキリシタン墓地を訪れたとき、いま私たちが住んでいるところにも信仰の先輩たちが生きていたことが分かり、とても身近に感じられました。神父さまの後押しもあり、その跡を調べてみることにしました。
市史・町史・村史を読んで、そこに記されたキリシタンの跡を見に行くということを繰り返すうち、菊池、山鹿の地にキリスト教が広がり、迫害の苦しい時代を経て、それでもなお信仰を持ち続けた人、多くの呵責と悲しみの中で信仰を捨てた人、その人たちの思いが伝わってくるような気がしました。
2008年8月
カトリック山鹿教会
川本 實
歴史をさかのぼって
◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿
◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
◎ キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代
肥後藩主 細川氏の時代
◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿
史蹟
①上木庭のキリシタン墓地
②福本のキリシタン墓碑
③津留のキリシタン墓地
④小西行長の供養塔
⑤マリア観音像
⑥マリア像踏絵
⑦キリシタン燈籠
<参考文献>
「菊池市史」 「山鹿市史」 「鹿本町史」 「旭志村史」
「菊地市の文化財」 「山鹿市の指定文化財」
菊池歴史研究会提供の資料 「日本史要覧」…日本史広辞典編集委員会編
「恵みの風に帆をはって」…「まるちれす」編纂委員会編
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」…日本188殉教者列福調査歴史委員会
イエズス会日本管区[イエズス会の歴史]
「アジア・キリスト教の歴史」…日本基督教団出版局編
1
◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿
イエズス会士フランシスコ・ザビエルが、日本にキリスト教を伝えた最初の人でした。
1549年8月15日 鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸。
9月 薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得る。
その後、平戸で布教活動。堺から京都を経て、山口へ行き、領主
大内義隆から布教の許可を得る。
1551年9月 豊後の大友宗麟の招きで府内(現在の大分市)に行き、布教活動。
11月 日本を離れる。
ザビエルが上陸したころの日本は、室町幕府の力が衰え、群雄割拠の戦国時代のただ中でした。尾張の織田信長が、美濃の斉藤道三の娘を正妻に迎え、世に出ようと窺っていました。
九州では、豊後の大友、薩摩の島津そして肥前の龍造寺の三大勢力下、国衆もしのぎを削っていました。
肥後北部の菊池・山鹿は、菊池氏が衰退し、豊後の大友氏の勢力下にありました。
1070年 藤原則隆が大宰府の荘官として菊池に来て、菊池氏を名乗る。
以来450年続いた。
1520年 大友氏に滅ぼされ、菊地氏系列の守護は終わる。
大友宗麟の叔父、大友重治が隈府城主になり、名を菊池義宗 (後に
義武)と改名した。義武は高慢心強く、粗暴等のため、家臣の信望も薄く、反逆の危険を感じて隈府城から八代に逃れた。
1534年 菊池義武が隈府城を去って後、菊池一統を率いる領主がなく、老臣と
いわれる城、赤星、隈部の三氏が、互いに自家勢力の拡大を図って、争うようになった。
1550年 大友義鎮(=宗麟)の軍が、隈本城主鹿子木氏を滅ぼし、城親冬が隈本城主、隈部親永の嫡男親安が城村城主となった。
(この城氏の墓所の奥に、上木庭のキリシタン墓地がある。)
1551年 大友宗麟は菊池、山鹿、隈本地域以外にも勢力を広げ、飽田、宇土、
益城などの諸城を討って、肥後の中北部はすべてその支配下とした。
1581年 薩摩・大隅と日向の大半を統一した島津氏の肥後進攻が本格化する。大友氏と阿蘇氏勢力が最後の拠点とした南郷高森城が攻め滅ぼされ、
島津義久の肥後統一がなされた。
1587年 秀吉の九州征伐
島津義久は肥後統一の後、九州に残っていた守護大名、豊後の大友氏を
潰そうとしたが、大友氏が豊臣秀吉に助けを求めたため、豊臣秀吉は自
ら兵を率いて出陣し、各地で島津軍を破っていく。
領主たちの争いは繰り返され、次第に集約され、中央集権国家が形作られていきました。
それは、地方の小国であっても中央からの意向に左右されるということで、菊池・山鹿も例外ではありませんでした。
2
◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿
このような勢力争いの戦国時代にキリスト教の布教が進められました。
菊池・山鹿にとってキリシタン大名であった大友宗麟の影響は大きかったと思われます。
キリシタン大名について「菊池市史」下巻 p18
九州の大名の中にはポルトガル船を領内の港に招いて貿易による利益を収めようとして、宣教師を厚遇し布教を認めるものもありましたが、すすんで洗礼を受け積極的に領内の布教に力をつくしたのは肥前大村の大村純忠が最初で、その外大友義鎮(宗麟)、有馬晴信、高山飛騨守、内藤如安、小西行長らが有名です。
これらの大名は、みずから信仰に身を捧げたばかりでなく、信仰によって領内の思想統制をはかり、領民を強制して入信させたり、神社・仏寺を破壊して教会を建てさせ、教会の庇護者として信徒や領民の上に君臨し封建体制を強化しようとしました。
大友宗麟は、当初は禅宗に帰依していましたが、
1551年 ザビエルと会って以来キリスト教への関心を強める。
1578年 キリスト教の洗礼を受ける。
宗麟は、海外貿易、西洋の進んだ技術文化に対しても強い関心を持ち、彼の施策の下、豊後・府内(大分市)は大いに発展しました。
1556年 イエズス会士ルイス・アルメイダが豊後府内で初めて洋式医療を行い、慈恵病院を建てる(日本初の西洋式病院)。
1559年 豊後府内を開港、外国人の貿易を許可した。
大友宗麟はキリシタンの保護だけでなく、積極的に奨励し、勢力下の各地の国衆などに広げ、さらに各領民もまとめて入信させることも行いました。
国衆の例としては、菊池氏の老臣であり、隈本城主にもなった城氏について、
菊池歴史研究会提供の資料によると
菊池能隆の四男・菊池隆経が城氏初代…城氏9代の城親冬まで木庭城主として菊池本城守護をつとめた
隈本城主時代…キリシタンで社会福祉に寄与した
…9代・城親冬 10代・城親賢 11代・城親政
とあり大友宗麟のキリシタン奨励が大きく影響していると思われます。
また、各領民がまとまって入信した例として肥後ではその資料を見つけられませんでしたが、由布院(峯先)のキリシタン墓群の案内にあるように、豊後では、大友宗麟の庇護のもとに行われています。
3
大分県指定有形文化財 昭和35年3月22日指定
由布院(峯先)のキリシタン墓群
当地のキリシタンは、約410年前の天正8年(西暦1580年)湯布院郷士の一人
奴留湯(ぬるゆ)左馬介が部下とともに洗礼を受けたことにはじまる。
その翌年には伝道所が設置され、天正14年には立派な教会堂が建てられ、領主
フランシスコ大友宗麟の庇護もあり、信者は1500人とも2000人とも言われた。しかし、徳川幕府の禁教により慶長19年(西暦1614年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終焉したが、いわゆる隠れキリシタンとなった者も多くいた。
歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓があるが、一番多いのがこの並柳・峯先墓地で、十字章のあるもの30基、隠れキリシタンのものと見られるもの約40基があり、苔むした墓に昔の面影が偲ばれる。
湯布院町教育委員会
このように上記の例を見れば、大友宗麟の勢力下にあった菊池・山鹿にも、キリシタ
ン奨励が行われ、かなりの人数のキリシタンがいたと考えられます。
さらに、菊池・山鹿が島原、天草と豊後を結ぶルート上にあるという地理的観点からも、
キリシタンの存在は多かっただろうと考えられます。
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
切支丹ルートの存在
「菊地市の文化財」菊地市教育委員会p83 上木庭のキリシタン墓地の説明の中に、
「この近くが豊後と高瀬を結ぶ切支丹ルートにあたることから注目されている」とあり、
また、「山鹿市史」上巻p561にも「中世の交通路のうち、島原から高瀬津に上陸し、切支丹大名大友宗麟(義鎮・フランシスコ)がいた豊後府内(現大分市)にいたる最短距離は、山鹿・菊池・小国を経由する道路であった。 當時『伴天連』と呼ばれた宣教師らはこの道をよく利用した。」と書かれています。
玉名市指定重要文化財 吉利支丹墓碑の案内板には、イエズス会士ルイス・アルメイダが高瀬でキリスト教を布教したとあります。
玉名市指定 吉利支丹墓碑
重要文化財(昭和37年3月31日 指定)
このかまぼこ型の吉利支丹墓碑は、玉名地方唯一のもので安山岩で造られ前面に花十字を印刻してあり16世紀中頃のものと推定される。明治初年に地中より掘り出されたもので東に向く方面、位置、形状等当時のままといわれる。永禄9年(1566)ポルトガルの宣教師アルメイダが玉名の高瀬においてキリスト教を布教した。
江戸初期、伊倉には多くの信者があり城北地方で最も多数を占め唐人町だけで11人もいたという。寛永11年(島原の乱の4年前)伊倉町に吉利支丹
4
奉行、肥後藩奉行、郡奉行等から捜索を受ける大事件もあった。
宗門改めの令でほとんどが改宗はしたがその後隠れ吉利支丹としてひそかにバテレンの手法を守り祭具、式目等を極秘に伝授した。
このような原型をとどめる墓碑は吉利支丹研究の上に貴重な文化遺産である。
平成2年3月31日 玉名市教育委員会
「山鹿市史」下巻p631 には、「菊池川といえばすぐ高瀬下りを思い出すが、その起源は恐らく天正年間(1573~1591年)にあるのではなかろうか。」と書かれています。
平戸、天草から船で有明海を渡り、高瀬(現玉名市)からは、菊池川を往来する船が利用できます。
豊後から、また、平戸、天草から布教の二つの流れの合流点に位置している菊池・山鹿はキリシタンを産む土壌であったと思われます。
◎キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代
1569年 織田信長、イエズス会士フロイスの京都での布教を許す
1576年 京都南蛮寺竣工
1579年 安土の教会建立許可
1581年 イエズス会士ヴァリニャーノに学校建設許可
1582年 大友・大村・有馬3氏 ローマ教皇に少年使節団派遣
本能寺の変
1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏(九州平定)。バテレン追放令
「菊池市史」下巻 p19 に以下のように書かれています
「秀吉も初めは信長の方針にそってキリスト教を保護しましたが、長崎が大村純忠の
寄進によって、かれらの領土となっているのを見て、キリシタンの領土的野心を疑い、
またキリシタンの団結が国内の統一を乱すことを恐れ、天正15年(1587)キリスト教布教の禁止令を出しましたが、効果はあまりありませんでした。」
秀吉のキリスト教布教の禁止令(バテレン追放令)が出された翌年、イエズス会は宣教師数人をマカオへ退去させたが、100人を超える宣教師を九州各地に潜伏させ、一般農民を対象に布教したので、却って布教が地についたという説もあります。
しかし、バテレン追放令が実行された結果、1597年2月5日 長崎西坂の丘で26人が処刑されたことを忘れることはできません。この日本最初の殉教者たちは、1862年ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、「日本二十六聖人」と呼ばれています。
1588年小西行長が肥後の南半国(南肥後)宇土、益城、八代、天草四郡24万石を与えられました。禁教令が出た後でしたが、熱心なキリシタンだった小西行長のすすめで、領民もキリスト教に入信し、多いときで、3~4万人いたといわれています。
「恵みの風に帆をはって」p17
同じ年、玉名、山鹿、山本、菊池、合志、阿蘇、飽田、詫摩の北肥後は、加藤清正が治めることになり、隈本城に入りました。熱心な日蓮宗であった清正は、前年に出ていた
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この11月に長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式があります。でも、私にはどこか遠いところの話のようでした。ところが、最頼神父の案内で上木庭のキリシタン墓地を訪れたとき、いま私たちが住んでいるところにも信仰の先輩たちが生きていたことが分かり、とても身近に感じられました。神父さまの後押しもあり、その跡を調べてみることにしました。
市史・町史・村史を読んで、そこに記されたキリシタンの跡を見に行くということを繰り返すうち、菊池、山鹿の地にキリスト教が広がり、迫害の苦しい時代を経て、それでもなお信仰を持ち続けた人、多くの呵責と悲しみの中で信仰を捨てた人、その人たちの思いが伝わってくるような気がしました。
2008年8月
カトリック山鹿教会
川本 實
歴史をさかのぼって
◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿
◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
◎ キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代
肥後藩主 細川氏の時代
◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿
史蹟
①上木庭のキリシタン墓地
②福本のキリシタン墓碑
③津留のキリシタン墓地
④小西行長の供養塔
⑤マリア観音像
⑥マリア像踏絵
⑦キリシタン燈籠
<参考文献>
「菊池市史」 「山鹿市史」 「鹿本町史」 「旭志村史」
「菊地市の文化財」 「山鹿市の指定文化財」
菊池歴史研究会提供の資料 「日本史要覧」…日本史広辞典編集委員会編
「恵みの風に帆をはって」…「まるちれす」編纂委員会編
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」…日本188殉教者列福調査歴史委員会
イエズス会日本管区[イエズス会の歴史]
「アジア・キリスト教の歴史」…日本基督教団出版局編
1
◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿
イエズス会士フランシスコ・ザビエルが、日本にキリスト教を伝えた最初の人でした。
1549年8月15日 鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸。
9月 薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得る。
その後、平戸で布教活動。堺から京都を経て、山口へ行き、領主
大内義隆から布教の許可を得る。
1551年9月 豊後の大友宗麟の招きで府内(現在の大分市)に行き、布教活動。
11月 日本を離れる。
ザビエルが上陸したころの日本は、室町幕府の力が衰え、群雄割拠の戦国時代のただ中でした。尾張の織田信長が、美濃の斉藤道三の娘を正妻に迎え、世に出ようと窺っていました。
九州では、豊後の大友、薩摩の島津そして肥前の龍造寺の三大勢力下、国衆もしのぎを削っていました。
肥後北部の菊池・山鹿は、菊池氏が衰退し、豊後の大友氏の勢力下にありました。
1070年 藤原則隆が大宰府の荘官として菊池に来て、菊池氏を名乗る。
以来450年続いた。
1520年 大友氏に滅ぼされ、菊地氏系列の守護は終わる。
大友宗麟の叔父、大友重治が隈府城主になり、名を菊池義宗 (後に
義武)と改名した。義武は高慢心強く、粗暴等のため、家臣の信望も薄く、反逆の危険を感じて隈府城から八代に逃れた。
1534年 菊池義武が隈府城を去って後、菊池一統を率いる領主がなく、老臣と
いわれる城、赤星、隈部の三氏が、互いに自家勢力の拡大を図って、争うようになった。
1550年 大友義鎮(=宗麟)の軍が、隈本城主鹿子木氏を滅ぼし、城親冬が隈本城主、隈部親永の嫡男親安が城村城主となった。
(この城氏の墓所の奥に、上木庭のキリシタン墓地がある。)
1551年 大友宗麟は菊池、山鹿、隈本地域以外にも勢力を広げ、飽田、宇土、
益城などの諸城を討って、肥後の中北部はすべてその支配下とした。
1581年 薩摩・大隅と日向の大半を統一した島津氏の肥後進攻が本格化する。大友氏と阿蘇氏勢力が最後の拠点とした南郷高森城が攻め滅ぼされ、
島津義久の肥後統一がなされた。
1587年 秀吉の九州征伐
島津義久は肥後統一の後、九州に残っていた守護大名、豊後の大友氏を
潰そうとしたが、大友氏が豊臣秀吉に助けを求めたため、豊臣秀吉は自
ら兵を率いて出陣し、各地で島津軍を破っていく。
領主たちの争いは繰り返され、次第に集約され、中央集権国家が形作られていきました。
それは、地方の小国であっても中央からの意向に左右されるということで、菊池・山鹿も例外ではありませんでした。
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◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿
このような勢力争いの戦国時代にキリスト教の布教が進められました。
菊池・山鹿にとってキリシタン大名であった大友宗麟の影響は大きかったと思われます。
キリシタン大名について「菊池市史」下巻 p18
九州の大名の中にはポルトガル船を領内の港に招いて貿易による利益を収めようとして、宣教師を厚遇し布教を認めるものもありましたが、すすんで洗礼を受け積極的に領内の布教に力をつくしたのは肥前大村の大村純忠が最初で、その外大友義鎮(宗麟)、有馬晴信、高山飛騨守、内藤如安、小西行長らが有名です。
これらの大名は、みずから信仰に身を捧げたばかりでなく、信仰によって領内の思想統制をはかり、領民を強制して入信させたり、神社・仏寺を破壊して教会を建てさせ、教会の庇護者として信徒や領民の上に君臨し封建体制を強化しようとしました。
大友宗麟は、当初は禅宗に帰依していましたが、
1551年 ザビエルと会って以来キリスト教への関心を強める。
1578年 キリスト教の洗礼を受ける。
宗麟は、海外貿易、西洋の進んだ技術文化に対しても強い関心を持ち、彼の施策の下、豊後・府内(大分市)は大いに発展しました。
1556年 イエズス会士ルイス・アルメイダが豊後府内で初めて洋式医療を行い、慈恵病院を建てる(日本初の西洋式病院)。
1559年 豊後府内を開港、外国人の貿易を許可した。
大友宗麟はキリシタンの保護だけでなく、積極的に奨励し、勢力下の各地の国衆などに広げ、さらに各領民もまとめて入信させることも行いました。
国衆の例としては、菊池氏の老臣であり、隈本城主にもなった城氏について、
菊池歴史研究会提供の資料によると
菊池能隆の四男・菊池隆経が城氏初代…城氏9代の城親冬まで木庭城主として菊池本城守護をつとめた
隈本城主時代…キリシタンで社会福祉に寄与した
…9代・城親冬 10代・城親賢 11代・城親政
とあり大友宗麟のキリシタン奨励が大きく影響していると思われます。
また、各領民がまとまって入信した例として肥後ではその資料を見つけられませんでしたが、由布院(峯先)のキリシタン墓群の案内にあるように、豊後では、大友宗麟の庇護のもとに行われています。
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大分県指定有形文化財 昭和35年3月22日指定
由布院(峯先)のキリシタン墓群
当地のキリシタンは、約410年前の天正8年(西暦1580年)湯布院郷士の一人
奴留湯(ぬるゆ)左馬介が部下とともに洗礼を受けたことにはじまる。
その翌年には伝道所が設置され、天正14年には立派な教会堂が建てられ、領主
フランシスコ大友宗麟の庇護もあり、信者は1500人とも2000人とも言われた。しかし、徳川幕府の禁教により慶長19年(西暦1614年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終焉したが、いわゆる隠れキリシタンとなった者も多くいた。
歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓があるが、一番多いのがこの並柳・峯先墓地で、十字章のあるもの30基、隠れキリシタンのものと見られるもの約40基があり、苔むした墓に昔の面影が偲ばれる。
湯布院町教育委員会
このように上記の例を見れば、大友宗麟の勢力下にあった菊池・山鹿にも、キリシタ
ン奨励が行われ、かなりの人数のキリシタンがいたと考えられます。
さらに、菊池・山鹿が島原、天草と豊後を結ぶルート上にあるという地理的観点からも、
キリシタンの存在は多かっただろうと考えられます。
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
切支丹ルートの存在
「菊地市の文化財」菊地市教育委員会p83 上木庭のキリシタン墓地の説明の中に、
「この近くが豊後と高瀬を結ぶ切支丹ルートにあたることから注目されている」とあり、
また、「山鹿市史」上巻p561にも「中世の交通路のうち、島原から高瀬津に上陸し、切支丹大名大友宗麟(義鎮・フランシスコ)がいた豊後府内(現大分市)にいたる最短距離は、山鹿・菊池・小国を経由する道路であった。 當時『伴天連』と呼ばれた宣教師らはこの道をよく利用した。」と書かれています。
玉名市指定重要文化財 吉利支丹墓碑の案内板には、イエズス会士ルイス・アルメイダが高瀬でキリスト教を布教したとあります。
玉名市指定 吉利支丹墓碑
重要文化財(昭和37年3月31日 指定)
このかまぼこ型の吉利支丹墓碑は、玉名地方唯一のもので安山岩で造られ前面に花十字を印刻してあり16世紀中頃のものと推定される。明治初年に地中より掘り出されたもので東に向く方面、位置、形状等当時のままといわれる。永禄9年(1566)ポルトガルの宣教師アルメイダが玉名の高瀬においてキリスト教を布教した。
江戸初期、伊倉には多くの信者があり城北地方で最も多数を占め唐人町だけで11人もいたという。寛永11年(島原の乱の4年前)伊倉町に吉利支丹
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奉行、肥後藩奉行、郡奉行等から捜索を受ける大事件もあった。
宗門改めの令でほとんどが改宗はしたがその後隠れ吉利支丹としてひそかにバテレンの手法を守り祭具、式目等を極秘に伝授した。
このような原型をとどめる墓碑は吉利支丹研究の上に貴重な文化遺産である。
平成2年3月31日 玉名市教育委員会
「山鹿市史」下巻p631 には、「菊池川といえばすぐ高瀬下りを思い出すが、その起源は恐らく天正年間(1573~1591年)にあるのではなかろうか。」と書かれています。
平戸、天草から船で有明海を渡り、高瀬(現玉名市)からは、菊池川を往来する船が利用できます。
豊後から、また、平戸、天草から布教の二つの流れの合流点に位置している菊池・山鹿はキリシタンを産む土壌であったと思われます。
◎キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代
1569年 織田信長、イエズス会士フロイスの京都での布教を許す
1576年 京都南蛮寺竣工
1579年 安土の教会建立許可
1581年 イエズス会士ヴァリニャーノに学校建設許可
1582年 大友・大村・有馬3氏 ローマ教皇に少年使節団派遣
本能寺の変
1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏(九州平定)。バテレン追放令
「菊池市史」下巻 p19 に以下のように書かれています
「秀吉も初めは信長の方針にそってキリスト教を保護しましたが、長崎が大村純忠の
寄進によって、かれらの領土となっているのを見て、キリシタンの領土的野心を疑い、
またキリシタンの団結が国内の統一を乱すことを恐れ、天正15年(1587)キリスト教布教の禁止令を出しましたが、効果はあまりありませんでした。」
秀吉のキリスト教布教の禁止令(バテレン追放令)が出された翌年、イエズス会は宣教師数人をマカオへ退去させたが、100人を超える宣教師を九州各地に潜伏させ、一般農民を対象に布教したので、却って布教が地についたという説もあります。
しかし、バテレン追放令が実行された結果、1597年2月5日 長崎西坂の丘で26人が処刑されたことを忘れることはできません。この日本最初の殉教者たちは、1862年ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、「日本二十六聖人」と呼ばれています。
1588年小西行長が肥後の南半国(南肥後)宇土、益城、八代、天草四郡24万石を与えられました。禁教令が出た後でしたが、熱心なキリシタンだった小西行長のすすめで、領民もキリスト教に入信し、多いときで、3~4万人いたといわれています。
「恵みの風に帆をはって」p17
同じ年、玉名、山鹿、山本、菊池、合志、阿蘇、飽田、詫摩の北肥後は、加藤清正が治めることになり、隈本城に入りました。熱心な日蓮宗であった清正は、前年に出ていた
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禁教令を実行し、宗教的にも政治的にも対抗していた小西行長が1600年関ヶ原の戦いで敗れ、京都六条河原で首を切られた後はキリシタンの弾圧を強めました。
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」p119 には以下のように書かれています。
「徳川方についた加藤清正は小西の領地を奪った。宇土で留守を守っていた小西の弟小西隼人は死刑に処せられ、八代の城代小西美作は500名のキリシタンの家臣を連れて薩摩に亡命した。肥後領内のキリシタンの指導者たちは追放された。」
また、ドミニコ会の第一次宣教団の1602年についての報告にも、
「薩摩藩内には、九州北部、特に肥後藩(藩主加藤清正)から迫害を逃れてきたキリシタン難民が多かった。」とあります。
禁教令が出た後の南北肥後の状況を見ても、領主の考え方でキリシタンに対する対応の違いがあり、菊池・山鹿では、加藤清正が北肥後を治め始めた時から迫害が始まったと考えられます。
ただ、キリスト教は日本全体では、秀吉後の徳川幕府の初期の時期は、むしろ広がっていました。
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」p119 には以下のようにあります。
「イエズス会のジョアン・ロドリゲス神父は家康と会見し、キリスト教の保護を願い、京都、大阪、長崎、大村、有馬領内における教会が正式に認められた。徳川幕府の体制はいまだ安定していなかったので、家康はキリシタンに対して厳しい態度はとらず、全国的に見るとキリシタンは比較的平穏な時期を迎えた。」
「アジア・キリスト教の歴史」p52 には、
「そうした困難な条件にもかかわらず信仰は広く一般庶民の間にも広がり、布教開始から1630年までの間に100万人以上の受洗者があったという推定もあるとされている。また17世紀に入るとドミニコ会、アウグスティノ会等も日本布教に加わった。」とあります。
1612年 京都所司代にキリスト教禁止・教会破却を命ず。幕府直轄領にキリスト教禁止令
1613年 全国にキリスト教禁止令
1614年 高山右近らキリスト教徒148人をマニラ・マカオに追放
1616年 欧船の来航を平戸・長崎に制限
1622年 キリスト教徒55人を長崎で処刑(元和大殉教)
「徳川時代に入ると、鎖国によりキリシタン禁教政策がとられることとなるが、その背景には、プロテスタント国であるオランダ、イギリスが新たに貿易相手国として登場し、ポルトガル貿易に価値が失われたという政治経済的事情があった。最初の公的な禁教令は1612年天領と旗本らに向けて発せられ、次いで1614年崇伝の起草した『伴天連追放之文』が発せられて、幕末までの約2世紀半にわたる弾圧と迫害の時代に入った。5回にわたって発せられた『鎖国令』では貿易の統制と併せてキリシタン信徒の処罰法、バテレン訴人への褒賞など禁制の方法が具体的に規定された。」
「アジア・キリスト教の歴史」
〔注〕崇伝(以心崇伝・いしんすうでん)
臨済宗の学僧。徳川家康の側近。幕府に用いられて僧録司となり、外国文書をつかさどり、公家・武家・諸寺諸宗の法度の制定に参与、黒衣の宰相と呼ばれた。
6
◎キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 細川氏の時代
1632年 細川忠利 肥後藩主として入国
1633年 鎖国令(奉書船以外の海外渡航を禁じ、在外5年以上の日本人の帰国を禁ず)
1635年 鎖国令(外国船入港を長崎に限り、日本人の海外渡航・帰国を厳禁)
1636年 キリシタン密告を奨励。外国人子孫を追放。長崎出島完成、ポルトガル人を移す
1637年 島原の乱。幕府、島原・天草一揆鎮圧のため板倉重昌、ついで松平信綱を派遣
1638年 原城を総攻撃。島原の乱平定。島原城主松倉勝家を改易、ついで斬罪
1639年 鎖国令(ポルトガル人来航を禁ず。オランダ人の日本人妻子を追放)
加藤清正と忠広の時代、他藩に先駆けて厳しい禁教政策がとられましたが、細川忠利が肥後藩主となった後、幕府の相次ぐ命令に従い、キリシタン弾圧は厳しさを増していきました。そして、島原の乱を機にさらに徹底されていきました。
幕府はキリスト教禁止策を推進するため宗門改めの制と関連して寺請制をつくりました。島原の乱以降、寺請制は全国すべての庶民に対して実施されるようになりました。
「檀那寺はその檀家に対して年々宗門改めを行っています。婚姻・旅行・移転その他他家へ奉公に行く場合などは、その者が自分の寺の檀家の一員であり、キリシタンの信者でないことを証明する寺請証文を発行しました。」 「菊池市史」下巻 p38
「また連帯責任の強化をねらって五人組の制度を厳重にし、見聞役として村ごと1、2名横目をおき、切支丹の根絶につとめた。」 「山鹿市史」上巻 p560
列福されるペトロ岐部と187殉教者に挙げられている、小笠原玄也たち15人が捕らえられ、花岡山の禅定院で殉教するに至った経緯が、「山鹿市史」に、当時の書状も併記され詳しく記されています。細川忠利は、幕府の命に従いキリシタンを弾圧する一方、大切な家臣である玄也をなんとか守ろうとしていましたが、銀子20枚欲しさに訴人が出たのです。
「それは山鹿郡庄村の(百姓)仁左衛門で、熊本の奉行所でなく、九州の切支丹総取締りしていた長崎奉行所に訴えでた。… 重臣たちはひとまず玄也らを幽閉し、10月21日に急使をもって、江戸にいる忠利のもとに報せた。… 『猶々書』に、『玄也・休也・慶寿院所之女房、誅伐之通、得其意候、右誅伐人数之目録請取候事』とあり、玄也誅伐の一件の状況は、将軍家光にも言上されたことがわかる。」「山鹿市史」p559
「同じころ益城郡では、土々呂村・犬飼村・宮原村(いずれも現矢部町)の百姓も殉教している。また他の郡でもキリシタンの疑いで捕えられるものが多かった。」
「山鹿市史」p557
7
◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿
こうして、菊池・山鹿のキリシタン取締りも厳しくなっていき、多くの人が転んで信仰を捨ててしまったと考えられます。
「山鹿地方では、切支丹の墓碑は一基も発見されていないが、切支丹の実在を裏付ける資料としては『古・転切支丹二期御断帳』が現存している。」「山鹿市史」p562
山鹿郡津留村百姓九助、新町商人七郎左衛門、新町商人佐太郎がかつてキリシタンであったが転んだとの記載が、系図付きで書かれています。
それでも、信仰を守り、隠れキリシタンとして、したたかに生抜いた人がおりました。
上木庭のキリシタン墓地に、福本のキリシタン墓碑に、そして、津留のキリシタン墓地に葬られた人のように。
「妻越村津留(今の菊池市旭志小原)には『つる源左衛門』、『つる十左衛門』などキリシタン墓といわれる墓数基存在し、墓石裏面に十字が刻まれている。」
「旭志村史」 p 544
このように、迫害を逃れ、人に知られぬよう必死の工夫をして信仰を守りました。
福本のキリシタン墓碑では、法名を彫りさらに地蔵を据え仏教画に擬装しました。
竿部を十字に見立て、人物像をマリアと見て、茶室の庭に配したキリシタン燈籠。
観世音菩薩に見せかけたマリア像のマリア観音像。
隠れキリシタンは、表に現れないだけに実態はつかめませんが、今回調べてみた限りでも、鹿本や山鹿に十字印が彫られた墓が残っており、今後調査がさらになされれば、より多くの存在が明らかになるのではないかと思います。
度重ね発せられた幕府の鎖国令、また、徹底したキリシタン弾圧により、日本で中心的に布教活動をしてきたイエズス会の記録にも、1647年の記載以降1905年までの間「鎖国期。イエズス会による公の宣教活動なし。隠れキリシタン時代」とあります。
その後のキリシタンのことは、「アジア・キリスト教の歴史」に簡潔にまとめてありますので、その項を引用して、このレポートを終わりたいと思います。
「キリシタンの復活
幕末、ローマ・カトリック教会は日本再布教の機を窺っていたが、1858年10月、日仏修好通知条約が調印されると、翌59年パリ外国宣教会のジラールがフランス総領事館付司祭として来日した。次いで長崎に派遣されてきたプティジアンが大浦天主堂の建立に協力し、1865年2月に献堂式を挙げたが、翌3月参観者を装って訪れた浦上村の男女十数名が、ひそかに継承した信仰を告白して聖母像の前にひざまずいた。この劇的な出来事をきっかけに潜伏信徒らが続々とあらわれた。いわゆる『キリシタンの復活』である。しかし禁教は依然として厳しく守られ、1867年7月には多数の信徒が急襲され捕縛されるといういわゆる浦上四番崩れが起こった。
明治新政府は幕府の禁教政策を踏襲し改めてキリシタン禁制を布告、1870年には浦上村の全信徒3000有余人が西日本一帯の諸藩に流罪となった。再布教後、潜伏信徒の多くは教会に復帰したが、一部はなお復帰せず、潜伏時代の形態を維持し神仏と習合しつつ現代に至っており、『はなれキリシタン』と呼ばれている。
8
・・・・明治新政府は旧幕府時代の禁教政策を受け継いで浦上信徒への大弾圧を行ったが、これが外交問題に発展した。すなわち条約改正の交渉のため欧米を巡行した岩倉具視ら全権大使一行は、各地でキリシタン迫害の実態について質問や非難を受けた。そのため一行は、禁制の高札の取り下げを政府に進言し、これが直接の引き金となって1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤廃した。これによってキリスト教の宣教活動はようやく公然と認められるようになった。」
2008年の調査で収集した史蹟は、下記の7点です。
①上木庭のキリシタン墓地 ②福本のキリシタン墓碑 ③津留のキリシタン墓地
④小西行長の供養塔 ⑤マリア観音像 ⑥マリア像踏絵 ⑦キリシタン燈籠
=後書き=
このレポートが出来たのは、山鹿市立博物館の山口健剛さんのご協力、菊池市の文化を大切にする方々によるお力添えと、カトリック菊池・山鹿教会の信者の皆さんの賛同・協力によるものです。心から感謝しています。
これらの労苦によって出来上がったレポートだけではなく、このことを通して菊池市と山鹿市のキリスト教を実らせた種を確かめることが出来たことは大変意味深いことです。
そして、当時のキリシタンのイエス様に対する信仰が、私たちに至るまでずっと変わらない同じ信仰で伝わってきたことを感謝しています。その勇気ある信仰を受け継いだ私たちはそれを守る役割と責任を深く感じなければなりません。
「殉教者の血はイエス様の教会の種です」とは、ローマ帝国の迫害の時から伝わってきた言葉です。それは日本でも確認できる事実だと思います。菊池市と山鹿市のキリシタンの足跡は、現在の当地のキリスト教会の種であり、現在のキリストに従う者たちを実らせました。イエス様に従う私たちにとって、自分の先祖、その信仰を生きた人たちに対して大きな感謝を持つべきだと思います。
その感謝を現わす小さな印の一つとなることが、このレポートの目的でした。これに係わって働いた人たちに感謝しつつ、厳しい時代に信仰の賜物を守り伝えてきた菊池市と山鹿市のキリシタンたちに、私たちの普遍的な感謝を捧げましょう。
聖ザベリオ宣教会
最頼 巌流神父
9
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」p119 には以下のように書かれています。
「徳川方についた加藤清正は小西の領地を奪った。宇土で留守を守っていた小西の弟小西隼人は死刑に処せられ、八代の城代小西美作は500名のキリシタンの家臣を連れて薩摩に亡命した。肥後領内のキリシタンの指導者たちは追放された。」
また、ドミニコ会の第一次宣教団の1602年についての報告にも、
「薩摩藩内には、九州北部、特に肥後藩(藩主加藤清正)から迫害を逃れてきたキリシタン難民が多かった。」とあります。
禁教令が出た後の南北肥後の状況を見ても、領主の考え方でキリシタンに対する対応の違いがあり、菊池・山鹿では、加藤清正が北肥後を治め始めた時から迫害が始まったと考えられます。
ただ、キリスト教は日本全体では、秀吉後の徳川幕府の初期の時期は、むしろ広がっていました。
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」p119 には以下のようにあります。
「イエズス会のジョアン・ロドリゲス神父は家康と会見し、キリスト教の保護を願い、京都、大阪、長崎、大村、有馬領内における教会が正式に認められた。徳川幕府の体制はいまだ安定していなかったので、家康はキリシタンに対して厳しい態度はとらず、全国的に見るとキリシタンは比較的平穏な時期を迎えた。」
「アジア・キリスト教の歴史」p52 には、
「そうした困難な条件にもかかわらず信仰は広く一般庶民の間にも広がり、布教開始から1630年までの間に100万人以上の受洗者があったという推定もあるとされている。また17世紀に入るとドミニコ会、アウグスティノ会等も日本布教に加わった。」とあります。
1612年 京都所司代にキリスト教禁止・教会破却を命ず。幕府直轄領にキリスト教禁止令
1613年 全国にキリスト教禁止令
1614年 高山右近らキリスト教徒148人をマニラ・マカオに追放
1616年 欧船の来航を平戸・長崎に制限
1622年 キリスト教徒55人を長崎で処刑(元和大殉教)
「徳川時代に入ると、鎖国によりキリシタン禁教政策がとられることとなるが、その背景には、プロテスタント国であるオランダ、イギリスが新たに貿易相手国として登場し、ポルトガル貿易に価値が失われたという政治経済的事情があった。最初の公的な禁教令は1612年天領と旗本らに向けて発せられ、次いで1614年崇伝の起草した『伴天連追放之文』が発せられて、幕末までの約2世紀半にわたる弾圧と迫害の時代に入った。5回にわたって発せられた『鎖国令』では貿易の統制と併せてキリシタン信徒の処罰法、バテレン訴人への褒賞など禁制の方法が具体的に規定された。」
「アジア・キリスト教の歴史」
〔注〕崇伝(以心崇伝・いしんすうでん)
臨済宗の学僧。徳川家康の側近。幕府に用いられて僧録司となり、外国文書をつかさどり、公家・武家・諸寺諸宗の法度の制定に参与、黒衣の宰相と呼ばれた。
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◎キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 細川氏の時代
1632年 細川忠利 肥後藩主として入国
1633年 鎖国令(奉書船以外の海外渡航を禁じ、在外5年以上の日本人の帰国を禁ず)
1635年 鎖国令(外国船入港を長崎に限り、日本人の海外渡航・帰国を厳禁)
1636年 キリシタン密告を奨励。外国人子孫を追放。長崎出島完成、ポルトガル人を移す
1637年 島原の乱。幕府、島原・天草一揆鎮圧のため板倉重昌、ついで松平信綱を派遣
1638年 原城を総攻撃。島原の乱平定。島原城主松倉勝家を改易、ついで斬罪
1639年 鎖国令(ポルトガル人来航を禁ず。オランダ人の日本人妻子を追放)
加藤清正と忠広の時代、他藩に先駆けて厳しい禁教政策がとられましたが、細川忠利が肥後藩主となった後、幕府の相次ぐ命令に従い、キリシタン弾圧は厳しさを増していきました。そして、島原の乱を機にさらに徹底されていきました。
幕府はキリスト教禁止策を推進するため宗門改めの制と関連して寺請制をつくりました。島原の乱以降、寺請制は全国すべての庶民に対して実施されるようになりました。
「檀那寺はその檀家に対して年々宗門改めを行っています。婚姻・旅行・移転その他他家へ奉公に行く場合などは、その者が自分の寺の檀家の一員であり、キリシタンの信者でないことを証明する寺請証文を発行しました。」 「菊池市史」下巻 p38
「また連帯責任の強化をねらって五人組の制度を厳重にし、見聞役として村ごと1、2名横目をおき、切支丹の根絶につとめた。」 「山鹿市史」上巻 p560
列福されるペトロ岐部と187殉教者に挙げられている、小笠原玄也たち15人が捕らえられ、花岡山の禅定院で殉教するに至った経緯が、「山鹿市史」に、当時の書状も併記され詳しく記されています。細川忠利は、幕府の命に従いキリシタンを弾圧する一方、大切な家臣である玄也をなんとか守ろうとしていましたが、銀子20枚欲しさに訴人が出たのです。
「それは山鹿郡庄村の(百姓)仁左衛門で、熊本の奉行所でなく、九州の切支丹総取締りしていた長崎奉行所に訴えでた。… 重臣たちはひとまず玄也らを幽閉し、10月21日に急使をもって、江戸にいる忠利のもとに報せた。… 『猶々書』に、『玄也・休也・慶寿院所之女房、誅伐之通、得其意候、右誅伐人数之目録請取候事』とあり、玄也誅伐の一件の状況は、将軍家光にも言上されたことがわかる。」「山鹿市史」p559
「同じころ益城郡では、土々呂村・犬飼村・宮原村(いずれも現矢部町)の百姓も殉教している。また他の郡でもキリシタンの疑いで捕えられるものが多かった。」
「山鹿市史」p557
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◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿
こうして、菊池・山鹿のキリシタン取締りも厳しくなっていき、多くの人が転んで信仰を捨ててしまったと考えられます。
「山鹿地方では、切支丹の墓碑は一基も発見されていないが、切支丹の実在を裏付ける資料としては『古・転切支丹二期御断帳』が現存している。」「山鹿市史」p562
山鹿郡津留村百姓九助、新町商人七郎左衛門、新町商人佐太郎がかつてキリシタンであったが転んだとの記載が、系図付きで書かれています。
それでも、信仰を守り、隠れキリシタンとして、したたかに生抜いた人がおりました。
上木庭のキリシタン墓地に、福本のキリシタン墓碑に、そして、津留のキリシタン墓地に葬られた人のように。
「妻越村津留(今の菊池市旭志小原)には『つる源左衛門』、『つる十左衛門』などキリシタン墓といわれる墓数基存在し、墓石裏面に十字が刻まれている。」
「旭志村史」 p 544
このように、迫害を逃れ、人に知られぬよう必死の工夫をして信仰を守りました。
福本のキリシタン墓碑では、法名を彫りさらに地蔵を据え仏教画に擬装しました。
竿部を十字に見立て、人物像をマリアと見て、茶室の庭に配したキリシタン燈籠。
観世音菩薩に見せかけたマリア像のマリア観音像。
隠れキリシタンは、表に現れないだけに実態はつかめませんが、今回調べてみた限りでも、鹿本や山鹿に十字印が彫られた墓が残っており、今後調査がさらになされれば、より多くの存在が明らかになるのではないかと思います。
度重ね発せられた幕府の鎖国令、また、徹底したキリシタン弾圧により、日本で中心的に布教活動をしてきたイエズス会の記録にも、1647年の記載以降1905年までの間「鎖国期。イエズス会による公の宣教活動なし。隠れキリシタン時代」とあります。
その後のキリシタンのことは、「アジア・キリスト教の歴史」に簡潔にまとめてありますので、その項を引用して、このレポートを終わりたいと思います。
「キリシタンの復活
幕末、ローマ・カトリック教会は日本再布教の機を窺っていたが、1858年10月、日仏修好通知条約が調印されると、翌59年パリ外国宣教会のジラールがフランス総領事館付司祭として来日した。次いで長崎に派遣されてきたプティジアンが大浦天主堂の建立に協力し、1865年2月に献堂式を挙げたが、翌3月参観者を装って訪れた浦上村の男女十数名が、ひそかに継承した信仰を告白して聖母像の前にひざまずいた。この劇的な出来事をきっかけに潜伏信徒らが続々とあらわれた。いわゆる『キリシタンの復活』である。しかし禁教は依然として厳しく守られ、1867年7月には多数の信徒が急襲され捕縛されるといういわゆる浦上四番崩れが起こった。
明治新政府は幕府の禁教政策を踏襲し改めてキリシタン禁制を布告、1870年には浦上村の全信徒3000有余人が西日本一帯の諸藩に流罪となった。再布教後、潜伏信徒の多くは教会に復帰したが、一部はなお復帰せず、潜伏時代の形態を維持し神仏と習合しつつ現代に至っており、『はなれキリシタン』と呼ばれている。
8
・・・・明治新政府は旧幕府時代の禁教政策を受け継いで浦上信徒への大弾圧を行ったが、これが外交問題に発展した。すなわち条約改正の交渉のため欧米を巡行した岩倉具視ら全権大使一行は、各地でキリシタン迫害の実態について質問や非難を受けた。そのため一行は、禁制の高札の取り下げを政府に進言し、これが直接の引き金となって1873年2月24日、明治政府はキリシタン禁制の高札を撤廃した。これによってキリスト教の宣教活動はようやく公然と認められるようになった。」
2008年の調査で収集した史蹟は、下記の7点です。
①上木庭のキリシタン墓地 ②福本のキリシタン墓碑 ③津留のキリシタン墓地
④小西行長の供養塔 ⑤マリア観音像 ⑥マリア像踏絵 ⑦キリシタン燈籠
=後書き=
このレポートが出来たのは、山鹿市立博物館の山口健剛さんのご協力、菊池市の文化を大切にする方々によるお力添えと、カトリック菊池・山鹿教会の信者の皆さんの賛同・協力によるものです。心から感謝しています。
これらの労苦によって出来上がったレポートだけではなく、このことを通して菊池市と山鹿市のキリスト教を実らせた種を確かめることが出来たことは大変意味深いことです。
そして、当時のキリシタンのイエス様に対する信仰が、私たちに至るまでずっと変わらない同じ信仰で伝わってきたことを感謝しています。その勇気ある信仰を受け継いだ私たちはそれを守る役割と責任を深く感じなければなりません。
「殉教者の血はイエス様の教会の種です」とは、ローマ帝国の迫害の時から伝わってきた言葉です。それは日本でも確認できる事実だと思います。菊池市と山鹿市のキリシタンの足跡は、現在の当地のキリスト教会の種であり、現在のキリストに従う者たちを実らせました。イエス様に従う私たちにとって、自分の先祖、その信仰を生きた人たちに対して大きな感謝を持つべきだと思います。
その感謝を現わす小さな印の一つとなることが、このレポートの目的でした。これに係わって働いた人たちに感謝しつつ、厳しい時代に信仰の賜物を守り伝えてきた菊池市と山鹿市のキリシタンたちに、私たちの普遍的な感謝を捧げましょう。
聖ザベリオ宣教会
最頼 巌流神父
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