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カトリック山鹿教会

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― 菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡 ―

2008年09月10日 | 宗教
― 菊池市・山鹿市に残されたキリシタンの足跡 ― 1

この11月に長崎でペトロ岐部と187殉教者の列福式があります。でも、私にはどこか遠いところの話のようでした。ところが、最頼神父の案内で上木庭のキリシタン墓地を訪れたとき、いま私たちが住んでいるところにも信仰の先輩たちが生きていたことが分かり、とても身近に感じられました。神父さまの後押しもあり、その跡を調べてみることにしました。
市史・町史・村史を読んで、そこに記されたキリシタンの跡を見に行くということを繰り返すうち、菊池、山鹿の地にキリスト教が広がり、迫害の苦しい時代を経て、それでもなお信仰を持ち続けた人、多くの呵責と悲しみの中で信仰を捨てた人、その人たちの思いが伝わってくるような気がしました。         
2008年8月
カトリック山鹿教会
川本 實
                              


  歴史をさかのぼって
◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿
◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿
◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿
◎ キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代
肥後藩主 細川氏の時代
◎ 隠れキリシタンと菊池・山鹿

史蹟
①上木庭のキリシタン墓地  
②福本のキリシタン墓碑  
③津留のキリシタン墓地
④小西行長の供養塔  
⑤マリア観音像  
⑥マリア像踏絵
⑦キリシタン燈籠


<参考文献>
   「菊池市史」 「山鹿市史」 「鹿本町史」 「旭志村史」 
「菊地市の文化財」 「山鹿市の指定文化財」
菊池歴史研究会提供の資料  「日本史要覧」…日本史広辞典編集委員会編
「恵みの風に帆をはって」…「まるちれす」編纂委員会編
「キリシタン地図を歩く 殉教者の横顔」…日本188殉教者列福調査歴史委員会
イエズス会日本管区[イエズス会の歴史]
「アジア・キリスト教の歴史」…日本基督教団出版局編


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◎ キリスト教が伝わった時代の菊池・山鹿


イエズス会士フランシスコ・ザビエルが、日本にキリスト教を伝えた最初の人でした。

1549年8月15日 鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸。
9月 薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得る。
         その後、平戸で布教活動。堺から京都を経て、山口へ行き、領主
大内義隆から布教の許可を得る。
1551年9月 豊後の大友宗麟の招きで府内(現在の大分市)に行き、布教活動。
      11月 日本を離れる。

ザビエルが上陸したころの日本は、室町幕府の力が衰え、群雄割拠の戦国時代のただ中でした。尾張の織田信長が、美濃の斉藤道三の娘を正妻に迎え、世に出ようと窺っていました。
九州では、豊後の大友、薩摩の島津そして肥前の龍造寺の三大勢力下、国衆もしのぎを削っていました。

肥後北部の菊池・山鹿は、菊池氏が衰退し、豊後の大友氏の勢力下にありました。

1070年 藤原則隆が大宰府の荘官として菊池に来て、菊池氏を名乗る。
以来450年続いた。
1520年 大友氏に滅ぼされ、菊地氏系列の守護は終わる。
大友宗麟の叔父、大友重治が隈府城主になり、名を菊池義宗 (後に
義武)と改名した。義武は高慢心強く、粗暴等のため、家臣の信望も薄く、反逆の危険を感じて隈府城から八代に逃れた。
1534年 菊池義武が隈府城を去って後、菊池一統を率いる領主がなく、老臣と
いわれる城、赤星、隈部の三氏が、互いに自家勢力の拡大を図って、争うようになった。
1550年 大友義鎮(=宗麟)の軍が、隈本城主鹿子木氏を滅ぼし、城親冬が隈本城主、隈部親永の嫡男親安が城村城主となった。
(この城氏の墓所の奥に、上木庭のキリシタン墓地がある。)
1551年 大友宗麟は菊池、山鹿、隈本地域以外にも勢力を広げ、飽田、宇土、
益城などの諸城を討って、肥後の中北部はすべてその支配下とした。
1581年 薩摩・大隅と日向の大半を統一した島津氏の肥後進攻が本格化する。大友氏と阿蘇氏勢力が最後の拠点とした南郷高森城が攻め滅ぼされ、
島津義久の肥後統一がなされた。
1587年 秀吉の九州征伐
島津義久は肥後統一の後、九州に残っていた守護大名、豊後の大友氏を
潰そうとしたが、大友氏が豊臣秀吉に助けを求めたため、豊臣秀吉は自
ら兵を率いて出陣し、各地で島津軍を破っていく。

領主たちの争いは繰り返され、次第に集約され、中央集権国家が形作られていきました。
それは、地方の小国であっても中央からの意向に左右されるということで、菊池・山鹿も例外ではありませんでした。



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◎ キリシタン大名・大友宗麟の影響下の菊池・山鹿


このような勢力争いの戦国時代にキリスト教の布教が進められました。
菊池・山鹿にとってキリシタン大名であった大友宗麟の影響は大きかったと思われます。

キリシタン大名について「菊池市史」下巻 p18 

九州の大名の中にはポルトガル船を領内の港に招いて貿易による利益を収めようとして、宣教師を厚遇し布教を認めるものもありましたが、すすんで洗礼を受け積極的に領内の布教に力をつくしたのは肥前大村の大村純忠が最初で、その外大友義鎮(宗麟)、有馬晴信、高山飛騨守、内藤如安、小西行長らが有名です。
これらの大名は、みずから信仰に身を捧げたばかりでなく、信仰によって領内の思想統制をはかり、領民を強制して入信させたり、神社・仏寺を破壊して教会を建てさせ、教会の庇護者として信徒や領民の上に君臨し封建体制を強化しようとしました。

大友宗麟は、当初は禅宗に帰依していましたが、
1551年 ザビエルと会って以来キリスト教への関心を強める。
1578年 キリスト教の洗礼を受ける。

宗麟は、海外貿易、西洋の進んだ技術文化に対しても強い関心を持ち、彼の施策の下、豊後・府内(大分市)は大いに発展しました。

1556年 イエズス会士ルイス・アルメイダが豊後府内で初めて洋式医療を行い、慈恵病院を建てる(日本初の西洋式病院)。
1559年 豊後府内を開港、外国人の貿易を許可した。 

大友宗麟はキリシタンの保護だけでなく、積極的に奨励し、勢力下の各地の国衆などに広げ、さらに各領民もまとめて入信させることも行いました。

国衆の例としては、菊池氏の老臣であり、隈本城主にもなった城氏について、
菊池歴史研究会提供の資料によると

菊池能隆の四男・菊池隆経が城氏初代…城氏9代の城親冬まで木庭城主として菊池本城守護をつとめた
隈本城主時代…キリシタンで社会福祉に寄与した
…9代・城親冬 10代・城親賢 11代・城親政

とあり大友宗麟のキリシタン奨励が大きく影響していると思われます。

また、各領民がまとまって入信した例として肥後ではその資料を見つけられませんでしたが、由布院(峯先)のキリシタン墓群の案内にあるように、豊後では、大友宗麟の庇護のもとに行われています。



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大分県指定有形文化財     昭和35年3月22日指定

由布院(峯先)のキリシタン墓群

当地のキリシタンは、約410年前の天正8年(西暦1580年)湯布院郷士の一人
奴留湯(ぬるゆ)左馬介が部下とともに洗礼を受けたことにはじまる。
その翌年には伝道所が設置され、天正14年には立派な教会堂が建てられ、領主
フランシスコ大友宗麟の庇護もあり、信者は1500人とも2000人とも言われた。しかし、徳川幕府の禁教により慶長19年(西暦1614年)以降、きびしい「宗門改め」が行われ、キリシタンは一応終焉したが、いわゆる隠れキリシタンとなった者も多くいた。
歴史を物語るように町内には、多くのキリシタン墓があるが、一番多いのがこの並柳・峯先墓地で、十字章のあるもの30基、隠れキリシタンのものと見られるもの約40基があり、苔むした墓に昔の面影が偲ばれる。

湯布院町教育委員会

このように上記の例を見れば、大友宗麟の勢力下にあった菊池・山鹿にも、キリシタ
ン奨励が行われ、かなりの人数のキリシタンがいたと考えられます。
さらに、菊池・山鹿が島原、天草と豊後を結ぶルート上にあるという地理的観点からも、
キリシタンの存在は多かっただろうと考えられます。


◎ 宣教師の往来と菊池・山鹿

切支丹ルートの存在

「菊地市の文化財」菊地市教育委員会p83 上木庭のキリシタン墓地の説明の中に、
「この近くが豊後と高瀬を結ぶ切支丹ルートにあたることから注目されている」とあり、
また、「山鹿市史」上巻p561にも「中世の交通路のうち、島原から高瀬津に上陸し、切支丹大名大友宗麟(義鎮・フランシスコ)がいた豊後府内(現大分市)にいたる最短距離は、山鹿・菊池・小国を経由する道路であった。 當時『伴天連』と呼ばれた宣教師らはこの道をよく利用した。」と書かれています。

玉名市指定重要文化財 吉利支丹墓碑の案内板には、イエズス会士ルイス・アルメイダが高瀬でキリスト教を布教したとあります。

玉名市指定 吉利支丹墓碑   
重要文化財(昭和37年3月31日 指定)

このかまぼこ型の吉利支丹墓碑は、玉名地方唯一のもので安山岩で造られ前面に花十字を印刻してあり16世紀中頃のものと推定される。明治初年に地中より掘り出されたもので東に向く方面、位置、形状等当時のままといわれる。永禄9年(1566)ポルトガルの宣教師アルメイダが玉名の高瀬においてキリスト教を布教した。
江戸初期、伊倉には多くの信者があり城北地方で最も多数を占め唐人町だけで11人もいたという。寛永11年(島原の乱の4年前)伊倉町に吉利支丹

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奉行、肥後藩奉行、郡奉行等から捜索を受ける大事件もあった。
宗門改めの令でほとんどが改宗はしたがその後隠れ吉利支丹としてひそかにバテレンの手法を守り祭具、式目等を極秘に伝授した。
このような原型をとどめる墓碑は吉利支丹研究の上に貴重な文化遺産である。
平成2年3月31日 玉名市教育委員会

「山鹿市史」下巻p631 には、「菊池川といえばすぐ高瀬下りを思い出すが、その起源は恐らく天正年間(1573~1591年)にあるのではなかろうか。」と書かれています。
平戸、天草から船で有明海を渡り、高瀬(現玉名市)からは、菊池川を往来する船が利用できます。
豊後から、また、平戸、天草から布教の二つの流れの合流点に位置している菊池・山鹿はキリシタンを産む土壌であったと思われます。


◎キリシタンの隆盛と迫害下の菊池・山鹿
肥後藩主 加藤氏の時代

1569年 織田信長、イエズス会士フロイスの京都での布教を許す
1576年 京都南蛮寺竣工
1579年 安土の教会建立許可
1581年 イエズス会士ヴァリニャーノに学校建設許可
1582年 大友・大村・有馬3氏 ローマ教皇に少年使節団派遣
本能寺の変
1587年 島津義久、豊臣秀吉に降伏(九州平定)。バテレン追放令

「菊池市史」下巻 p19 に以下のように書かれています
「秀吉も初めは信長の方針にそってキリスト教を保護しましたが、長崎が大村純忠の
寄進によって、かれらの領土となっているのを見て、キリシタンの領土的野心を疑い、
またキリシタンの団結が国内の統一を乱すことを恐れ、天正15年(1587)キリスト教布教の禁止令を出しましたが、効果はあまりありませんでした。」

秀吉のキリスト教布教の禁止令(バテレン追放令)が出された翌年、イエズス会は宣教師数人をマカオへ退去させたが、100人を超える宣教師を九州各地に潜伏させ、一般農民を対象に布教したので、却って布教が地についたという説もあります。

しかし、バテレン追放令が実行された結果、1597年2月5日 長崎西坂の丘で26人が処刑されたことを忘れることはできません。この日本最初の殉教者たちは、1862年ローマ教皇ピウス9世によって列聖され、「日本二十六聖人」と呼ばれています。

1588年小西行長が肥後の南半国(南肥後)宇土、益城、八代、天草四郡24万石を与えられました。禁教令が出た後でしたが、熱心なキリシタンだった小西行長のすすめで、領民もキリスト教に入信し、多いときで、3~4万人いたといわれています。 
「恵みの風に帆をはって」p17

同じ年、玉名、山鹿、山本、菊池、合志、阿蘇、飽田、詫摩の北肥後は、加藤清正が治めることになり、隈本城に入りました。熱心な日蓮宗であった清正は、前年に出ていた

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