goo blog サービス終了のお知らせ 

DAY by DAY

日々の出来事、覚書

11月20日

2023-11-20 21:56:59 | 日記

今日11月20日は、年始から324日目、年末まであと41日。

 

画像は、プロビンスタウンのブラッドフォード通り、ピルグリム記念碑の真下にある、

浅浮き彫り。メイフラワー誓約に署名している様子を表している。(1620年)

 

以下、今日の出来事一覧とその後にメモ記載。

====================================

1578(天正6年10月21日) - 織田信長に帰属していた荒木村重が謀反]

====================================

====================================

1620(ユリウス暦11月11日) - メイフラワー号に乗ってアメリカに

渡ったピルグリム・ファーザーズがメイフラワー誓約に署名。

====================================

====================================

1805 - ベートーヴェン唯一のオペラ『フィデリオ』が初演。

ベートーヴェン自身が指揮をするが失敗。

====================================

====================================

1889 - マーラーの交響曲第1番が初演。

====================================

====================================

1910 - メキシコ革命: フランシスコ・マデロがポルフィリオ・ディアス大統領

の大統領選での不正と当選無効を訴えて一斉蜂起。メキシコ革命が始まる。

====================================

====================================

1917 - ウクライナ初の近代国家となるウクライナ人民共和国が独立を宣言。

====================================

====================================

1917 - 第一次世界大戦: カンブレーの戦いはじまる。

====================================

====================================

1927 - 御岳登山鉄道設立。

====================================

====================================

1934 - 辻政信らの働きかけで、皇道派の村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら

3人と陸軍士官学校生徒5人をクーデター謀議で逮捕(陸軍士官学校事件)。

====================================

====================================

1936 - 秋田県鹿角市にあった尾去沢鉱山で鉱滓ダムが決壊。

下流の住宅街や商店街が流失するなどして死者362人。

====================================

====================================

1937 - 国民政府(蔣介石政権)が南京から重慶への遷都を宣言。

====================================

====================================

1938 - 岩波書店が「岩波新書」の刊行を開始。

====================================

====================================

1940 - 第二次世界大戦: ハンガリー、ルーマニア、スロバキアが

日独伊三国同盟に加盟。

====================================

====================================

1945 - ドイツのニュルンベルクで第二次世界大戦の戦犯を裁く

国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)が始まる。

====================================

====================================

1947 - イギリスのエリザベス王女(後の国王エリザベス2世)と

エディンバラ公フィリップが結婚。

====================================

====================================

1947 - 任天堂設立。

====================================

====================================

1948 - 日本初の競輪が小倉競輪場で開始。

====================================

====================================

1963 - 国連総会で人種差別撤廃宣言を採択。

====================================

====================================

1970 - 関東地方から東北地方南部の太平洋沿岸に集中豪雨。

東京都内で約500戸が床上、床下浸水。

千葉県内で死者3人、床上、床下浸水約2000戸。

常磐線が福島県内など各地で寸断。

====================================

====================================

1970 - 都市交通労連による時限ストライキが発生。

東京都下、兵庫県姫路市、山口県宇部市のバスなどが始発から1時間止まる。

====================================

====================================

1971 - 中華航空825便爆破事件。

====================================

====================================

1979 - アル=ハラム・モスク占拠事件。

====================================

====================================

1980 - 文化大革命を指導した四人組の裁判が開始。

====================================

====================================

1980 - 川治プリンスホテル火災。死者数45名。

====================================

====================================

1981 - 野岩鉄道設立。

====================================

====================================

1985 - マイクロソフトがMicrosoft Windows 1.0を発売。

====================================

====================================

1992 - イギリス王室の離宮・ウィンザー城で火災

(1992年ウィンザー城火災)。

====================================

====================================

1998 - 国際宇宙ステーションの最初のモジュール「ザーリャ」が

カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打上げ。

====================================

====================================

1998 - アメリカマサチューセッツ州ボストン近郊でトランスジェンダーの

リタ・ヘスターが惨殺された(トランスジェンダー追悼の日の由来)。

====================================

====================================

2000 - 加藤紘一が森内閣倒閣を宣言し、内閣不信任案賛成を言明するも

直前で断念する(加藤の乱)。

====================================

====================================

2001 - シアトル・マリナーズのイチローが、メジャーリーグベースボールで

日本人初のMVPを獲得。

====================================

====================================

2005 - 日本の小惑星探査機「はやぶさ」が小惑星イトカワの岩石の採取を

試みるも失敗し、イトカワの地表に不時着。

====================================

====================================

2007 - 改正出入国管理及び難民認定法施行。

一部の例外を除き、外国人の指紋採取・写真撮影の義務化がスタート。

====================================

====================================

2013 - 小笠原諸島の無人島、西之島近海で39年ぶりに噴火が発生。

====================================

====================================

2020 - 国立天文台ハワイ観測所すばる望遠鏡が、地球から

約580万kmの距離にあるはやぶさ2を捉える。

====================================

 

 

===メモ===============================

下線部分情報ソース未確定。以前日記に記した件は再記せず。

====================================

 

====================================

1620ユリウス暦1111メイフラワー号に乗ってアメリカに

渡ったピルグリム・ファーザーズメイフラワー誓約に署名。

====================================

メイフラワー号

ピルグリム・ファーザーズが1620年、イギリス南西部プリマスから、新天地アメリカ

の、現在のマサチューセッツ州プリマスに渡ったときの船の名。

 

マサチューセッツ州プリマスはプリマス植民地の中心地となった。

乗客は102名、乗組員は25から30名だった。

 

メイフラワー号が出発したのは1620年9月16日(ユリウス暦9月6日)で、病気

に苦しめられた66日間の厳しい航海を経て、ケープコッド先端の釣り針のようにな

っているところ(プロビンスタウン港)に錨をおろしたのは11月21日(11月11日)

のことだった。

 

本来の目的地はハドソン川河口で、現在のニューヨーク市付近であり、当時のイン

グランドのヴァージニア入植地の北端あたりだった。ヴァージニア入植地は全米最

初のイギリス人移民地で、これより13年早い1607年に建設されたジェームズタ

ウンから入植が始まった。

 

しかし、メイフラワー号はコースを外れてしまい、冬が来たためにケープコッド湾に

留まって越冬することになった。1621年3月31日(3月21日)、冬の間船内で

生き延びた乗客らはプリマスの岸まで移動し、メイフラワー号は同年4月15日

(4月5日)にイングランドに向かって旅立った。

 

メイフラワー号はその後のヨーロッパによるアメリカ植民地化のシンボルとして大きな

位置を占めている。同号に乗っていた25~30名の乗員を除く船客102名のうち、

およそ3分の1がイギリス国教会の迫害を受けた分離派に属していた。

このピューリタンの非国教徒の一派が信教の自由を求めてこの船に乗った。

 

そのため、アメリカ合衆国にとってメイフラワー号は信教の自由の象徴であり、

歴史の教科書で必ず触れられている。

先祖がニューイングランド地方出身というアメリカ人は、メイフラワー号の乗客の

末裔だと信じていることがよくある。

 

メイフラワー号の航海およびプリマス植民地についての主な記録としては、後に

同植民地の知事になったウィリアム・ブラッドフォードによるものがある。

 

ピルグリム・ファーザーズ

イングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世による弾圧を恐れて

メイフラワー号に乗り、アメリカに渡ったイングランド(イギリス)の

ピューリタン(清教徒)たちである。

 

Pilgrims」は「巡礼始祖」の意味。

 

16世紀、イングランド女王エリザベス1世がイングランド国教会を確立したが、

17世紀にかけて、教会の改革を主張する清教徒が勢力を持つようになり、特

に国教会からの分離を求めるグループは分離派と呼ばれ、弾圧を受けていた。

 

この為、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗って

アメリカに渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約」は社会契約説に

基づくものとして知られる。

 

1620年11月に北アメリカ大陸に到着したピルグリム・ファーザーズは、キリスト

教徒にとって理想的な社会を建設することをめざした。

彼らの上陸地は、1614年にジョン・スミスが発表した地図で「ニュー・プリマス」と

名付けられた地域だった。

 

入植当初の状況は厳しく、イギリスから持ってきた野菜や小麦は収穫にとぼしかっ

たため、翌1621年の4月までに半数程が病死した。ピルグリム・ファーザーズが

上陸した土地には先住民インディアンのワンパノアグ族が暮らしており、ピルグリム

・ファーザーズに食糧や物資を援助した。

 

ワンパノアグ族のスクアントはイギリスに連れられて行った経験があるため英語を

知っており、ピルグリム・ファーザーズに狩猟やトウモロコシの栽培などを教えた。

 

1621年には収穫があったため、ピルグリム・ファーザーズは収穫を感謝する祝い

にワンパノアグ族を招待した。祝宴は3日間におよび、料理が不足すると、ワンパ

ノアグの酋長マサソイトは部族から追加の食料を運ばせた。

この祝宴が感謝祭のもとになったと言われている。

 

ニュー・プリマスはやがて、発展するニューイングランドの最初の植民地となった。

 

メイフラワー誓約

メイフラワー号で北アメリカに渡ったピルグリム・ファーザーズが、プリマス植民地で

作成し、のちのアメリカ連邦制の基礎の一つとなった文書。

 

1620年11月20日、乗船客100人以上のうち41人によって署名された。

(ユリウス暦11月11日)

 

メイフラワー盟約(書)もしくはメイフラワー契約(書)とも言われる。

 

誓約を作った理由

メイフラワー号に乗っていた植民者のほぼ半分は、イングランド国教会の意思では

なく独自の決断に従ってキリスト教信仰の自由を求める清教徒のうちの分離派(ピ

ルグリム)だった。

 

当初、 ロンドンのバージニア会社の出資により、イギリス王室から勅許された土地

であるハドソン川河口を目指していた。しかし、天候により、それよりは遥か北にあ

る現在のマサチューセッツ州に上陸する決断がなされた。

 

このことは、「異邦人」(大半は募集に応じたマーチャント・アドベンチャラーズで、植

民地の立ち上げや統治をする働き手)の中から、バージニア会社の同意された領土

に開拓地が作られるのではないので、「自分達の自由を行使する故に、誰も指揮す

る権限を持たない...」という声を上げさせることになった。

 

これを防ぐためにピルグリムたちは1つの政府を樹立することにした。

 

メイフラワー号の乗船客は1620年11月にプリマスで上陸した(この地名はジョン・

スミス船長がこれ以前に名付けていた)。

開拓者達はメイフラワー号が出港したイングランドのデヴォン州にある主要港に因ん

でその開拓地を「プリマス」と名付けた。

 

メイフラワー誓約は同時に多数決主義モデルに基づいており(ただし女性と子供には

投票権がなかった)、開拓者達の国王に対する忠誠に基づいていた。

基本的に開拓者達が生き残るために誓約の規則と規定に従うことに同意する社会

契約となった。

 

署名は、ケープコッドに近い現在のプロビンスタウン港で行われた。

====================================

====================================

1805 - ベートーヴェン唯一のオペラフィデリオ』が初演。

ベートーヴェン自身が指揮をするが失敗。

====================================

フィデリオ』(Fidelio)作品72

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが完成させた唯一のオペラである。

 

原作はジャン・ニコラス・ブイイにより、ドイツ語台本はヨーゼフ・ゾンライトナー

およびゲオルク・フリードリヒ・トライチュケによる。

 

主人公レオノーレが「フィデリオ」という名で男性に変装して監獄に潜入し、政治犯

として拘禁されている夫フロレスタンを救出する物語である。

 

ベートーヴェンが構想したオペラには、他に『ヴェスタの火』H115(1803年)があるが、

結局1幕のみで未完となった。

第2幕、最後のアレグロの直前の感動的なソステヌート・アッサイには、『皇帝ヨーゼ

フ2世葬送カンタータ』(WoO.87、1790年)の第4曲のモチーフが使われている。

 

この作品は、ベートーヴェンの作品群の中でも特に難産に見舞われた作品のひとつ

であり、成功を収める版が完成するまでに何度も書き直しがなされている。

このオペラはベートーヴェン中期の代表作に挙げられる。

 

ブイイの原作の英雄主義的な性格や、当時のヨーロッパの知識人層に浸透し始めて

いた自由主義思想へのベートーヴェン自身の強い共感を背景として、英雄的な中期

の作風が存分に反映されている。

 

ベートーヴェンの声楽曲によくあることであるが、このオペラも歌手にとっては必ずし

も歌いやすい音楽ではない。特に、レオノーレとフロレスタンのパートを歌うには高度

な技術を要し、そうでなければ要求された緊張感を表現することは到底不可能である。

 

このため、これらの配役を見事に演じた歌手は賛美の的となる。

 

囚人達の合唱、政治犯達の自由を謳う合唱、フロレスタンをレオノーレが助けにくる

場面、そして救出が成功する場面などは、特筆に価する。最後は、ソリストや合唱が

代わる代わるレオノーレの勝利を讃えて、フィナーレを迎える。

 

多くの楽曲分野で後世の指標となる業績を残したベートーヴェンとしては完全な成功

作とは言えない(ドイツオペラの最初の成果としても『魔笛』や『魔弾の射手』が挙げられ

ることの方が多い)との批判もあるが、一応代表作の一つとして今なお上演回数も多い。

 

これによってベートーヴェンはモーツァルトとともに、主要音楽分野のほとんどに代表作

を残した稀有の存在となった。ドイツ圏ではバッハ以来、オペラをまったく残していない

(または成功作がない)作曲家が多いだけに、貴重な作である。

====================================

====================================

1910 - メキシコ革命フランシスコ・マデロポルフィリオ・ディアス大統領

の大統領選での不正と当選無効を訴えて一斉蜂起。メキシコ革命が始まる。

====================================

メキシコ革命

メキシコで1910年から1917年にかけて起きた革命である。 

 

ディアス独裁政権の打倒や民主化、農地改革、社会構造・経済構造の変革を

目指す民族主義的な民主革命であった。

内戦を経て1917年の新憲法の制定により現代のメキシコの基礎が確定され

ることとなる。

====================================

====================================

1934 - 辻政信らの働きかけで、皇道派村中孝次大尉・磯部浅一一等主計ら

3人と陸軍士官学校生徒5人をクーデター謀議で逮捕(陸軍士官学校事件)。

====================================

陸軍士官学校事件

1934年(昭和9年)に日本陸軍の陸軍士官学校を舞台として発生したクーデター

未遂事件。

 

磯部浅一、村中孝次ら皇道派青年将校と陸軍士官学校生徒らが重臣、元老を襲撃

する計画だったが、情報漏洩により主なメンバーが憲兵に逮捕され未遂に終わった。

 

関与した青年将校たちは2年後の二・二六事件で中心メンバーとなった。

 

統制派と皇道派の対立を背景としたでっち上げであるとの説もある。

 

十一月事件十一月二十日事件とも言われる。

====================================

====================================

1945 - ドイツニュルンベルク第二次世界大戦の戦犯を裁く

国際軍事裁判(ニュルンベルク裁判)が始まる。

====================================

ニュルンベルク国際軍事裁判

第二次世界大戦において連合国によって行われたナチス・ドイツの戦争犯罪を裁く

国際軍事裁判である。(1945年11月20日 - 1946年10月1日)

 

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の党大会開催地であるニュルンベルクで

開かれた。

日本の極東国際軍事裁判(東京裁判)と並ぶ二大国際軍事裁判の一つ。

 

最初の主な裁判(Trial of the Major War Criminals Before the International

Military Tribunal, IMT)と、それに続く、ニュルンベルクを占領統治していたアメリカ

合衆国による12の裁判(Nuremberg Military TribunalsNMT. 1949年4月14

日まで行われ、一般には「ニュルンベルク継続裁判」として、最初の主な裁判とは区別

される)で構成された。

====================================

====================================

1947 - イギリスのエリザベス王女(後の国王エリザベス2)と

エディンバラ公フィリップが結婚。

====================================

エリザベス2

1926年4月21日 - 2022年9月8日。

イギリスのウィンザー朝第4代女王。

(在位: 1952年2月6日 - 2022年9月8日)

また、イギリスの他14か国の英連邦王国及び王室属領・海外領土の君主。

 

イングランド国教会の首長であった。

全名は、エリザベス・アレクサンドラ・メアリーElizabeth Alexandra Mary)。

 

結婚

1947年7月9日、正式に海軍大尉であるフィリッポスとの婚約が発表されたが、

婚約に至るまでの経緯は決して順風満帆とは言えなかった。

 

二人は、共に高祖母がヴィクトリア英女王で、エリザベス王女の高祖父かつフィリ

ッポスの曽祖父がデンマーク国王クリスチャン9世であることから、遠戚関係に

あった。

 

しかし、フィリッポスはギリシャから亡命した現役のイギリス海軍士官であり、

資産を所有していなかったこと、外国生まれであることのほか、フィリップの

姉がナチスとの関係を持ったドイツ系貴族と結婚していた。

 

特に母エリザベス王妃が、ドイツ系の出自であることに反対し、英国内の高位貴族

(又はその長子)と結婚することを望んでいた。そもそも、1937年に海軍兵学校で

の接待役にフィリッポスを「ねじ込んだ」のが、彼の叔父ルイス・マウントバッテン卿

であると考えられたことも、国王夫妻には不愉快に受け止められていた。

 

しかし、ついに南アフリカからの帰国後の7月8日に、ジョージ6世はエリザベス

王女とフィリッポスの婚約を認めて勅許を下した。なお、これに先立つ同年2月に

フィリッポスはイギリスに帰化した。

 

帰化した際、イギリスにおける軍務を継続するために母の実家の家名である「マウ

ントバッテン」を姓として選択し「フィリップ・マウントバッテン」となった。

また彼はギリシャ正教会からイングランド国教会への改宗を行い、さらに形だけと

なっていたギリシャ王子及びデンマークの王子の地位を放棄することを宣言した。

 

結婚に先立つ11月11日、ジョージ6世はガーター勲章を長女のエリザベス王女

に授与し、「王女(Princess)」としては近代史上初の受章となった。

将来の女王であるエリザベス王女の方が、王室に婿入りするフィリップよりも先に

ガーター勲章を受章するよう配慮がなされた。

 

フィリップには、結婚の前日に、英国各地の由緒ある地名を冠したエディンバラ公爵

(スコットランド)、メリオネス伯爵(ウェールズ)とグリニッジ男爵(イングランド)

の称号が授けられたとともに、ガーター勲章が授与された。

 

そして、同年11月20日にウェストミンスター寺院にて、フィリップと婚礼を挙げた。

エリザベスは即位までの間「エディンバラ公爵夫人」が儀礼称号となった。

 

夫妻は世界中から2500個の結婚祝い品を受け取った。

第一次世界大戦後、ジョージ5世が王族女性の婚礼を華やかに行い国民と一体感

を演出したことに倣い、エリザベス王女の花嫁衣装は戦後の世相を鑑み、全て配給

品の絹で制作されることとなった。

 

戦後初の一大慶事であり、全国から配給券が贈られてきたが、配給券の譲渡が違法

であることもあり、全て礼状を添えて送り返した。エリザベス王女お気に入りのデザイ

ナーノーマン・ハートネルが制作したドレスの意匠には、ヨーク家を象徴する白薔薇の

刺繍が用いられた。

 

戦後のイギリスにあっては、フィリップとドイツとの関係は受け入れ難く、ドイツの王侯

家に嫁いだ姉たちは婚礼に招待されなかった。また、ウィンザー公(かつての国王エド

ワード8世)も招待されなかった。

 

結婚に際し、エリザベス王女の歳費はそれまでの5倍となる3万ポンドに増額され、

自らの宮廷を持つこととなった。

 

エリザベス王女とフィリップ夫妻は結婚後の数ヶ月間を当時イギリス領だった地中海

の島マルタで過ごした。翌1948年11月14日に第一子・長男チャールズ王子(現

・国王)を出産し、1950年8月15日には第二子・長女となるアン王女が誕生した。

即位後、フィリップは「連合王国王子」(Prince of the United Kingdom)が

与えられたが、いわゆる「王配」であるPrince Consortの称号はついに与え

られなかった。

2017年8月3日を最後に公務を引退するまで、結婚以来60年間エリザベス

を支え続けたが、ヴィクトリア女王の夫アルバート“王配”と異なり、フィリッ

プには政治介入する意思はなかった。

====================================

====================================

1971 - 中華航空825便爆破事件

====================================

中華航空825便爆破事件

中華民国の航空会社、中華航空(現:チャイナエアライン)の旅客機が

台湾海峡で空中爆発した事件である。

 

爆発物による航空テロの疑いがあるとされた。

墜落原因としては、澎湖諸島の島民から事故機が午後9時35分ごろに空中

爆発し海中へ墜落するのを見たとの目撃証言があったことから、仕掛けられ

た爆弾が爆発し空中分解したものと推定されている。

 

なお機体の残骸が僅かに漂着しただけで、犠牲者の遺体は発見できなかった。

残骸は海底に沈んだとみられるが、サルベージは行われなかった。

爆発に至る経緯は不明である。

====================================

====================================

1979 - アル=ハラム・モスク占拠事件

====================================

アル=ハラム・モスク占拠事件

1979年にサウジアラビアのメッカで、武装集団によってアル=ハラム・モスク

が占拠された事件。

 

同年11月20日朝、メッカのアル=ハラム・モスクに巡礼者に混じって死者の体を

乗せた輿を担いだ若者の集団が現れた。死者を埋葬する前に聖地を礼拝させる

ことは珍しいことではなかったので人々は気にしなかったが、これは遺体ではなく、

武器を人型に包んだものだった。

 

彼らは巡礼者に紛れて先着していた数百人の仲間と合流すると、礼拝の始まった

人気のない地下で武器を配り、二手に分かれて広大なモスクの占領を開始した。

一方はモスクを囲む7つの塔と48の門を陥落させ、もう一方は聖職者を拘束する

手はずになっていた。

 

「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫びながら礼拝所に突入した後者のグルー

プは、聖職者を拘束したが、その際、モスクの指導者に命令に従うように言って拒否

されたため、その側近を射殺した。

 

銃声がしたことから、制圧グループが門を完全に掌握する前に、数多くの巡礼者た

ちが難を逃れてモスクを脱出した。それでも約1,000人もの人々が人質となった。

 

その後

当時の公式発表によれば、武装集団のうち死者は75人、拘束者は170人で、

鎮圧側は死者60人、負傷約200人である。

 

武装集団は、マフディー(救世主)を自称するカハターン・カハターニと彼等を教導

した反王制イスラム主義の指導者ジュハイマーン・アル=ウタイビーに率いられて

おり、彼らはほとんどがサウジアラビア人、一部が周辺国出身のマドラサの学生で

あった。

 

イランとの繋がりを示すものもいたが、シーア派との関連はないとされた。

しかし、彼らの中にはホメイニーの写真を大事に持っていた者もおり、その思想に

対する影響力を窺わせた。

 

彼らへの尋問から、占拠の起こった20日、モスク訪問が予定されていた国王を

捕えて人質とすることが計画されていたことが明らかになった。

(国王のモスク訪問の予定は変更されていたため、国王は難を逃れた)

 

拘束されたアル=ウタイビーと67名の仲間らはサウジアラビアの法により翌

1980年1月9日に4ヶ所の処刑場で公開処刑され、その模様はテレビ中継

された。

 

この占拠事件に呼応するように、東部を中心にシーア派による暴動、衝突が起

こっている。シーア派の暴動や過激な運動はその後勢いを増し、シーア派への

懐柔と取り締まりはサウジアラビアの重要な課題となった。

これに対して、シーア派地域への公共事業を増やして不満を和らげ、同時に公

安部門による監視を強めるなどの対策が行われた。

 

この事件は、サウジアラビアの国家方針に少なからず影響を与えた。

王家と政府(サウジアラビアでは一体である)は特殊部隊の育成をはじめとする

国家安全保障体制の整備を急ぐ一方で、これ以降イスラム過激主義者を刺激

しないようにする配慮が欠かせなくなった。

 

西欧化や近代化の勢いは停滞し、外国文化の流入をより一層厳しく制限するよ

うになった。

 

ソ連のアフガニスタン侵攻がイスラム世界の注目を集めると、イスラム過激主義

者たちはムジャーヒディーンの派遣や資金の援助を主張するようになった。

サウジアラビア政府は、王室への攻撃を止めることと、彼らを厄介払いする目的

で、資金援助つきでこれらの過激主義者を送り出した。

 

ウサーマ・ビン=ラーディンもアフガニスタンに送られた一人であった、という説が

唱えられることがあるが、アフガニスタンに渡ったものは少数であり、そうとは考え

がたいという主張もされるようになった。

====================================

====================================

1980 - 文化大革命を指導した四人組の裁判が開始。

====================================

四人組

1960年代から約10年続いた中華人民共和国の文化大革命を主導した4人の

政治家、江青・張春橋・姚文元・王洪文を指す呼称。

 

文革四人組とも呼ばれる。

 

元々、中華人民共和国での彼らの呼称は「上海幇」だったが、逮捕後に「四人幇」

という名称を中国共産党が公式に使用し、現在に至る。

 

四人組はプロレタリア独裁・文化革命を隠れ蓑にして極端な政策を実行し、反対派を

徹底的に弾圧、迫害して殺害したが、中国共産党中央委員会主席である毛沢東の

死後に失脚した。

 

うち江青と張春橋は既に死亡していた林彪及び康生と共に文化大革命の首謀者と

見なされ、のちに特別法廷で執行猶予付きの死刑判決を下された。

王洪文は武装反乱を組織し、誣告も行ったとして終身刑に処され、姚文元は共産党

の宣伝機関を使い「反革命扇動」を行ったとして懲役20年の有期懲役に処された。

====================================

====================================

1980川治プリンスホテル火災。死者数45名。

====================================

川治プリンスホテル火災

1980年(昭和55年)11月20日15時15分に栃木県塩谷郡藤原町(現在は

合併して日光市)川治の川治温泉にあった宿泊施設「川治プリンスホテル雅苑」

(鉄骨造4階建、屋上塔屋1階建、延床面積3,582.42平方メートル)で起きた

火災事故である。

 

死者45人、負傷者22人にのぼる被害を出した。

 

なお、火災現場となった川治プリンスホテル雅苑は、西武グループの「プリンス

ホテル」とは無関係である。

 

戦後の日本において、宿泊施設の火災としては最悪の惨事でもあった。

また商業建築物火災による死者45名という数字は、1972年5月13日の千日

デパート火災(死者118名)、1973年11月29日の大洋デパート火災(死者104

名)に次いで3番目となる。

 

この火災を契機として、翌1981年5月より、ホテル・旅館の防火基準適合表示

制度(通称「適マーク」制度)が制定された。

 

1980年(昭和55年)11月20日の15時15分頃、ホテルの浴場棟(木造平屋

建て)より出火。

 

出火の原因は、この日行われていた大浴場と女子浴場の間にあった露天風呂の

解体工事の際に転落防止用の鉄柵を切るガスバーナーを使用していたが、この

アセチレンガスの火花が何かの拍子に浴場棟の隙間に入り、可燃物に燃え移っ

たものと推定されている。

 

またこの日は、自動火災報知設備の増設工事をしており、1時間ほど前に火災報

知器の点検作業をしていた。そのため、15時12分頃に火災報知器のベルが鳴っ

た際も、ホテル従業員は工事によるものと誤認し、確認せずに「ただいまのはベル

の訓練です」という館内放送を流していた。

 

結果的にこの案内が被害を大きくすることとなった。

====================================

====================================

1992 - イギリス王室の離宮・ウィンザー城で火災

1992年ウィンザー城火災)。

====================================

1992年ウィンザー城火災

居住者がいる城として最大であり、女王エリザベス2世の官邸の1つであるウィン

ザー城で、1992年11月20日に発生した火災である。

 

ウィンザー城は火災で甚大な被害を受け、数年かかって3650万ポンドで完全に

修復された。

 

修復計画は保護建築会社のドナルド・インソール・アソシエイツによって指揮された。

火災の結果として、女王の収入からの納税、および復旧代金の補填のため女王の

もう1つの官邸であるバッキンガム宮殿の一般公開が始まった。

 

火災は朝の11時15分、女王の専用礼拝堂にあったカーテンが押しつけられたス

ポットライトにより発火したことに端を発する。

 

王室の職員たちは芸術作品を調査するために当時礼拝堂にいた。

消防部長が受け持っていた城の消防隊の監視室で火災報知器が作動した。

火災の場所は城のグリッドマップの点灯によって明らかになった。

 

最初はブランスウィック塔を示すランプが点灯したが、隣の部屋に火災が広がった

ことを示すランプもすぐに点滅し始めた。

====================================

====================================

1998 - アメリカマサチューセッツ州ボストン近郊でトランスジェンダー

リタ・ヘスターが惨殺された(トランスジェンダー追悼の日の由来)。

====================================

トランスジェンダー追悼の日

毎年11月20日に行われる、

 

アメリカ合衆国を中心にトランスジェンダー嫌悪を理由に殺害されたトランスジェンダー

への追悼日である。

 

世界子どもの日やアフリカ工業化の日と同日であるが、国際デーではない。

 

アメリカ合衆国マサチューセッツ州でトランスジェンダーへの嫌悪を理由に、アフリカ系

アメリカ人のリタ・ヘスターが惨殺された

1998年11月28日の翌年同日に追悼を行ったことに由来する。

 

途中までトラスジェンダーコミュニティや支援者周辺が独自に追悼する日であったが、

2020年のジョー・バイデンからアメリカ政府、大統領も追悼するようになった。

 

トランスジェンダー・ヨーロッパは2015年より過去12年間に殺害されたトランスジェ

ンダーや多様なジェンダーの人々の数を発表している。

2021年度のトランスジェンダー・ヨーロッパによるレポートによれば、2020年10月

1日から2021年9月30日までに世界中で殺害されたトランスジェンダーや多様な

ジェンダーの人たちが375人確認され、昨年度よりも7%増加した。

 

また殺害されたトランスジェンダーのうち96%がトランス女性またはトランスフェミニン

(女性的なトランスジェンダー)で、殺害されたトランスジェンダーのうち職業が判明して

いる人の58%がセックスワーカーだった。

 

トランスジェンダーへの憎悪犯罪は女性嫌悪、人種差別、外国人嫌悪、セックスワー

カーへの差別が複雑に絡み合って生じていると同団体は指摘している。

====================================

====================================

2000 - 加藤紘一森内閣倒閣を宣言し、内閣不信任案賛成を言明するも

直前で断念する(加藤の乱)。

====================================

周辺の発言や行動

橋本龍太郎

11月11日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれた主流5派閥の会合

にて

 

「加藤は熱いフライパンの上でネコ踊りさせておけばいい」

 

と発言した。

この発言以前にも、各有力者が加藤を批判するコメントを出していたが、エスカレート

して橋本がこの発言を行った。加藤を応援する側の世論から格好の批判対象となり、

主流派の中からもこのコメントに対して下品だと批判が出た。

 

小泉純一郎

小泉は衆議院本会議場でこの件について相談を加藤から受けている。

その中で小泉は「俺ならもっと早くやっている」と語っており、加藤は小泉の支持(少な

くとも個人的支持)は得たと解釈した向きがあった。

 

評論家たちとの夜の会合の後に、マスコミが「加藤決起か!?」と伝えた際にYKKの仲

の小泉が本人に確認し「加藤は本気だ」と述べたところから、加藤の決起が本物だと

いうことが一気に認知された。

 

一部メディア(TBSテレビの報道番組『ブロードキャスター』など)は、加藤・山崎拓とと

もにYKKと呼ばれていた小泉が、森派の一部議員とともに離党し、加藤と合流する

ケースについて報道していたが現実味は薄かった。

 

乱後にYKKが初めて同席したパーティーで小泉が「YKKは友情と打算の二重構造」

と発言したことが注目を浴びた。

笑顔で発言した小泉と苦渋の表情で発言を聞いた加藤・山崎との表情の対比も視聴

者に印象を残した。

 

(後に加藤・山崎は、小泉の原点がYKK等でなく、あくまでも福田赳夫にあり、森派

を最重要視する政治家であったことを思い知らされる)

 

野中広務

かつて野中は加藤が経世会と距離を置くまでは加藤を総理にすると公言してはばか

らなかった。1996年には加藤が幹事長時代に幹事長代理として補佐し、新進党か

らの保守系議員の引き抜き工作を行って自民党の衆議院単独過半数の成果を上げ

た関係であった。

 

しかし、1999年の自民党総裁選で小渕の意向に反する形で加藤が立候補したこと

により、(加藤と親しかったという理由で)官房長官をおろされるなど、とばっちりを受

けたため、それ以降は反加藤となった。

 

乱後の野中は、加藤・山崎両名には党としての処分を下さなかったが、これは党内

にも憂国の士がいることを森が理解ししてくれればいいという考えがあった上のこと

であり、「不信任案が否決されたとは言え、総理には慎重になってほしい」と発言した。

 

しかしこれに対して森が、「不信任決議案が否決されているのに幹事長は何を言って

いるんだ」と発言したと聞いて失望し、幹事長職を退いている。

 

宮澤喜一

乱の後、加藤は宮澤喜一への恨み節を隠さなかったという。

浜田幸一によると、加藤は事前に宮澤から「乱」の了解を得ていたか、煽られていた

のだという。

 

前日の宮澤との食事会で加藤がプランを説明すると、宮澤はそれを肯定・後押しする

ような態度を加藤に取ったという。

 

菅義偉]

加藤派の一員であった菅義偉は乱の後、「しらーって感じですよ。首相の首を取ると

いうから、命懸けでやったのに」とぼやいて加藤と距離を置き、後に派閥を離脱した。

 

岸田文雄

加藤派の一員であった岸田文雄は血判状をしたためて参加の覚悟を示し、決行前

には石原伸晃、塩崎恭久、根本匠らの4人で出陣式を行った。しかし乱が鎮圧され、

仲間が四散したことで岸田は「政治家として勝負をかけたときは、絶対に負け戦をし

てはダメだ」という考えを持つようになり、戦いに慎重な性格へと変わっていった。

 

20年後の2020年、岸田は総裁選に出馬したが、同じく乱に参加していた菅義偉に

敗れた。総裁選中に大部分の議員が菅義偉陣営に回る中、岸田の推薦人には加藤、

谷垣、小里の後継者である加藤鮎子(加藤紘一の三女)、本田太郎(谷垣の地盤継

承者)、小里泰弘(小里貞利の長男)らが名を連ね、選対本部長は加藤の側近であっ

た遠藤利明が務めた。

 

2021年の総裁選でも加藤鮎子、本田太郎の2人は再び岸田の推薦人に名を連ね、

遠藤利明も再び選対本部長を務め、岸田の総裁就任に貢献した。

====================================

 

2023年、今日。

鉄火丼弁当の器がかわっていた。

小さくなっていた。

容量も減っていた。

値段はかわっていない。

夜明け前の闇が一番深いというが。

今、なんどきぐらいなんだろう?

随分と長い夜明け前だ。