あべっちの思いをこめた雑記帳

昭和17年、大空に散ったある若者をのことを思う

 大空のサムライという本を読み終わった。661ページもある、分厚いものだ。坂井三郎という人が書いた戦争の実話本である。
 その中にある若者の死が書かれている。著者といつも一緒に行動をしていた本田という20歳になったばかりの青年のことが私には戦争の悲惨さをよけいに思わせてならない。

 パイロットの著者は出撃のときはいつもその本田を二番機として付けていた。とにかく優秀で、やがては自分の後に育てようとも思っていたらしい。
 そんな折、たまたま半田というベテランが内地から赴任し、モレスビーという敵地への攻撃が初めての出陣となった。そのとき半田隊の三番機として、その本田青年が初めて隊長の著者(坂井機)とは別個の行動命令を指令部から受け、出撃することになった。
 本田は、「小隊長、きょうは小隊長と一緒でないのが残念です」と言った。
 坂井は、「バカを言え、きょうは実戦の神様の初の御出陣だぞ!。それにお供できるなんてねがってもない戦闘機乗りの冥加だ、ありがたく思え」と見送った。
 でも、坂井の内心はそうではなかったらしい。
 半田氏の不注意から、その本田機は敵に狙撃され、海中に落ちた。

 百戦錬磨の著者は「自分がもしも一緒だったら、こんなことにはならなかったろうと、それが悔しかった」と書いている。いかに懇願されたとはいえ、本田を貸したことが取り返しのつかない失策だったと、激しい念にかられたと書いている。と同時に、半田氏も「俺の不注意であの本田を死なせてしまった」と一生悔いていたようだ。

 昭和17年の8月といえば、まだ日本空軍には優秀なパイロットがたくさんい、特にこの本田青年はかなりの技術と人間味のある若者だったようである。

 太平洋戦争では多くの若者が死んだ。
 日本の栄光を信じて、二度とかえらない青春時代を戦争というものに身を捧げ、散っていった若者のなんと多かったことだろう。
 九州飯塚生まれ本田もその一人だったという現実は、かわいそうという一言ではあまりにもむなしすぎる。いずれ霞ヶ浦の予科練記念館にでもまた行って、彼を偲んでみるつもりでいる。


   「つれづれ(115)昭和17年、大空に散ったある若者のことを思う」

 

   くちなしの花
 俺の言葉に泣いた奴が一人
 俺を恨んでいる奴が一人
 それでも本当に俺を忘れないでいてくれる奴が一人
 俺が死んだらくちなしの花を飾ってくれる奴が一人
 みんな併せてたった一人
            海軍少尉 宅島徳光 (享年24歳)

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