~プラモんモんな徒然に~

構えず気負わず感化されながら妥協との狭間の羞恥サイトです。

インスタントラーメン発明記念館

2014-09-18 | 旅行・社会見学

 

インスタントラーメン物語

~食足世平~

(食足りて世は平和)

 

当ブログも思慮すれば雑談的なコラムも問題ない訳で模型談義ばかりでもなくやや趣向の違うお話でお茶を濁します。偉人話は美談として語られている事は儘ありますが人生の思う事や悩む事あれば時折、偉人の逸話を“心の栄養源”にしています。

 

さて、このブログの寄稿日の本日、即ち9月18日は何の日?とあざとくお決まりのフリをもって来ずとも題目でバレテしまいますが日清食品株式会社が世界で初めてカップ式即席麺を世に送り出した日なのです。

カップ式即席麺、通称カップヌードル登場の前にはさらに偉大な即席袋麺、チキンラーメンの存在もあるのですがその誕生日は8月25日故に寄稿日過ぎちゃったのでw前フリとして…

 

大阪府の池田市は即席ラーメン発祥の地として有名です。その即席麺の開発したのが安藤百福(あんどう ももふく)氏であります。彼の生い立ちは書き連ねる程のことも無いくらい調べれば見つかると思いますが、かいつまんでいくと…

繊維業の資産家の基で育ち、自身も製塩業で財を成したものの、ある事情から倒産、事実上の無一文状態となり途方に暮れている最中、戦後間もなく疲弊した日本の食文化の現状を憂いで何か新しい方法で食を豊かに出来ないかと思案した結果が即席麺の開発でした。

戦後GHQの政策化の下、日本の配給物資は殆どが小麦粉を用いたパンやビスケットの画一的有様に憂いだ彼は麺類を使った配食を考案しましたが国内では大掛かりな麺の製造・流通経路が確立化されていませんでした。

麺は具材を変えれば様々なバリエーションを作り出す事が出来る上、その恩恵で栄養面でも豊富となり、しかも丼ぶり一つで済むという合理性も兼ね備えていたのです。但し麺が長期保存に関しては適していないなど問題点もありました。

そこで自宅の裏庭に小さな研究小屋を構えて日々試行錯誤で新たな麺の開発となりました。ある日安藤夫人が天ぷらで揚げている様を見て閃いたのが後に画期的な方法となる、”瞬間油熱乾燥法”(生麺を油で揚げて水分を飛ばし乾燥させる方法)でした。

さらに麺そのものに味付けをして丼にお湯を注げば出来上がる画期的な発明として世に送り出されたのがお馴染みのチキンラーメンとなるのです。安藤氏48歳にしての話です。

“魔法のラーメン”とまでメディアに取り上げられることになり世界的な市場売り込みに渡米し、バイアーに試食してもらう際、適当な器が無いのでバイヤーが飲んでいた紙コップに放り込んで食べる様子を食文化の違いと新たなヒントを得てカップ式即席麺の開発となるのです。

製造量産方法や流通経路の確保と新たな難問の数々をこなし、その甲斐あって確固たる地位を築いたのです。

しかし、粗製乱造による粗悪品、模倣品はいつの時代にも付き物なのですが社団法人日本ラーメン工業協会を設立し敢えて自社の製法特許の公開をして業界全体の底上げに貢献します。彼の言葉に“一本の松の小枝より大樹の森として育とう”という言葉の通りです。

また、販売値段(袋麺25円時に100円)や立ちスタイルでの食事故の良俗低下等で当初、認知度は低かったそうです。そこで銀座の歩行者天国で試食販売を開始。折りしも同年マクドナルド1号店もオープンしてファストフードという新たな文化は若者を通して浸透していきます。

また自社開発した給湯器付きの自動販売機を導入してより利便性向上を狙ったりと努力は惜しみませんでした。

そして世の中に印象付けたのは1972年の浅間山荘事件において唯一納品されていた警察機動隊で隊員達が雪の中でカップヌードルを食べているシーンがTVで映し出された事が切っ掛けとなり問い合わせが各方面から殺到したそうです。

そんな偉業を創業時から宇宙ラーメン(スペース・ラム)開発に至るまでの記録・記念館として体感できる施設“インスタントラーメン発明記念館”があります。ある休平日の午後に出かけて行ったもののその盛況ぶりに驚かされるばかり。土日はさぞ多くの方が利用されているであろうと思いました。

たかが即席麺されど即席麺。日常に普通にある即席麺がとてもありがたく思える見学構成となっており、予約制であれど実際にチキンラーメンを作る参加型ファクトリー(要予約)やオリジナルトッピングのカップ麺が持ち帰れたり(有料)と有意義な構成となっています。

 

“即席めんの開発に成功した時、私は48歳になっていた。遅い出発とよく言われるが、人生に遅すぎるということはない。50歳でも60歳からでも新しい出発はある” (魔法のラーメン発明物語 抜粋)